島津久時
島津 久時(しまづ ひさとき、1225年~1284年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人。島津忠時の嫡男で、島津氏の第3代当主。晩年に島津久経(ひさつね)に改名。法名は道忍(どうにん)。子に島津忠宗、島津忠長(久長)。通称は大隅修理亮、下野守など。
はじめに
まずは、次の史料5点を見ておきたい。
●【史料1】弘安8(1285)年7月3日付「将軍家(惟康親王)政所下文」:文中に「(薬寿丸)亡父前下野守久経法師 法名道忍」*1
●【史料2】正応3(1290)年5月12日付「関東下知状」:「…嶋津下野彦三郎忠長……(中略)……大隅前司忠時領也、譲与子息久経 忠長父 之刻、……」*2
●【史料3】正応5(1292)年4月12日付「関東下知状」*3より一部抜粋
嶋津大隅前司忠時法師 法名道佛 女子尼忍覚 代入蓮 与 甥下野彦三郎忠長 代了意 相論信濃国大田庄神代郷内腰中村田在家事、
……道佛文永二年六月二日、雖譲与于忠長亡父道忍、…………道忍嫡子忠宗 忠長舎兄 …………久時 仁 道忍俗名、…………(以下略)
正應五年四月十二日
●【史料4】永仁3(1295)年7月29日付「関東下知状」:「…嶋津下野三郎左衛門尉忠長……(中略)……建治三年御所造営時、忠長父下野前司 于時修理亮、……」*4
●【史料5】元徳元(1329)年10月5日付「鎮西下知状」:「……弘安八年四月廿七日関東御下知状者、嶋津下野前司久経子息薬寿丸(=のちの忠長/久長)……」*5
以上5点の史料より読み取れる情報をまとめると次の通りである。
【史料2】における「大隅前司忠時」の「子息久経(島津下野彦三郎)忠長父」と、【史料4】の「(島津下野三郎左衛門尉)忠長父下野前司」は、【史料1】と【史料5】により同一人物とみなして問題ない(下野前司は「前下野守」の意)。
そして【史料1】により久経は、【史料3】の「(島津下野彦三郎)忠長亡父道忍」とも同一人物とみなせるが、【史料3】では「道忍俗名」が「久時」であったと記している。
詳しくは次節で紹介するが、『吾妻鏡』では一貫して「島津大隅修理亮久時」等と記されており、「信濃太田庄相伝系図」にも「久時 法名道忍」とある*6から、島津久経は初名が「久時」、法名が「道忍」であったことが分かる。
そして、【史料4】より官途が「修理亮→下野守→下野前司(=前下野守)」であったこと、【史料1】で「亡父」と記すことから1285年の段階では故人であったことも認められよう。
忠時の嫡男
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こちら▲の記事で紹介の通り、『吾妻鏡』を見ると1240年代以降、父の忠時が「大隅前司」等と呼称されていたことが窺える*7。
その後、建長4(1252)年4月3日条に「嶋津大隅修理亮久時」として初めて久時(久経)が現れ、「大隅修理亮」の通称名で通されて25回登場している*8。
【史料1】・【史料2】より、久時=久経は「嶋津大隅前司忠時法師 法名道佛」の「子息」であったことが明らかとなっており、『吾妻鏡』での通称名は前大隅守・忠時の子で(久時自身が)修理亮であったことを表している。
『島津家文書』には、「す里乃す遣*9ひさ時(=修理亮久時)にゆつりわたす(譲り渡す)」とした文永2(1265)年6月2日付「道佛(=忠時)譲状」も保存されている*10。忠時はこの7年後に亡くなっているから、この頃忠時から久時(久経)への家督継承がなされたものと考えられよう。
下野守任官と「久経」への改名
前述の通り、【史料4】には建治3(1277)年当時も修理亮であったと書かれている。
一方『薩藩旧記雑録』所収 山田譜に掲載の弘安3(1280)年12月19日付「関東御教書案」*11には「嶋津下野守久時」とあり、1277~1280年の間に下野守に任官したことが窺える。
尚、弘安4(1281)年4月16日には、息子・忠宗らに向けた自筆の譲状を書いている*12が、わざわざ実名を書き忘れたとして改めて「久経」と署名しており、理由は不明ながらどうやらこの頃改名したようである。
『薩摩八田家文書』には、弘安7(1284)年正月23日付で「前下野守」が発給した施行状の案文(写し控え)が収録されて、これを島津忠宗に比定する見解もある*13が、忠宗が下野守となるのは後のことである*14から、これも久時(久経)に比定して良い。同年閏4月3日付「島津久経鋳鐘願文」(『三国名勝図会』)*15にも「大願主 前下野守藤原朝臣□〔久〕経 法名道忍」とあって(後述『島津国史』にも言及あり)このことを裏付けており、1280~1284年の間に下野守を辞して出家したことが分かる。
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それより間もなく急死したのであろうか、久経は同年閏4月21日に筑前国筥崎で没したといい(次節参照)、同日には嫡男・忠宗が「宗忠(初名か?)」の署名と花押を据えて書状を発給している*16。
翌年の史料である【史料1】や【史料3】のほか、弘安9(1286)年11月5日付「関東下知状案」(『薩藩旧記 六』所収『指宿文書』)にも「忠宗亡父下野守〔ママ〕久経」とある*17ことからも1284年の死去が裏付けられよう。
烏帽子親の推定
●『島津国史』巻三:「道忍公 初名久時。後改久経。道佛公之子也。称修理亮。任下野守。法名道忍義阿弥陀佛。……(中略)……弘安……七年。甲申。夏閏四月。公修浄光明寺。施新鐘一枚。以資道佛公宴福。……鐘銘刻曰弘安七年歳甲申閏四月已巳三日。大願主前下野守藤原朝臣□経法名道忍。……二十一日。公薨於筑前筥崎。年六十。…(以下略)」
●『寛政重修諸家譜』:「久経 初久時 修理亮 下野守 剃髪号道忍 母は念性(=伊達判官入道念性)が妹。……(中略)……弘安……七年閏四月二十一日筥崎にをいて卒す。年六十。…(以下略)」
ところで、これらの史料にあるように、弘安7(1284)年に亡くなった時享年60であったとされ、逆算すると嘉禄元(1225)年生まれとなる。historyofjapan-henki.hateblo.jp
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これらの記事で言及の通り、特に忠宗・貞久をはじめとする島津氏歴代家督の元服の年齢はおよそ16歳であったと考えられ、久時の元服も1240年頃であったと推測できる。実名「久時」に着目すると、祖父・島津忠久に由来の「久」に対して「時」は執権・北条氏の通字であり、恐らく当時の3代執権・北条泰時(在職:1224~1242年)*18を烏帽子親として偏諱を賜ったものではないかと思われる。
(参考ページ)
● 島津久経の墓
脚注
*1:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.188(一九四号)・P.551(五四三号)。
*2:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.189(一九六号)。
*3:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.190~192(一九七号)。
*4:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.193~194(二〇〇号)。
*5:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.576(五五五号)。
*6:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.298(306号)。この系図は、嫡流が忠久の曾孫・忠宗、庶流でも忠久の玄孫の代以降の記載が無く、鎌倉時代後期の成立と推測され、信憑性は高いと思われる。
*7:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.344「忠時 島津」の項 より。寛元元(1243)年7月17日条・8月16日条に「大隅前司」、同4(1246)年7月11日条に「前大隅守忠時」、宝治元(1247)年6月14日条に「嶋津大隅前司忠時」とあるのが確認できる。
*9:この部分の変体仮名については、変体仮名を調べる(り)、変体仮名を調べる(の)、変体仮名を調べる(け)を参照のこと。
*10:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.87(一四二号)。
*11:『鎌倉遺文』第19巻14219号。
*12:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之一 P.487~489(四九三・四九四号)。
*14:島津忠宗 - Henkipedia 参照。
*15:『鎌倉遺文』第20巻15171号。
*16:弘安7(1284)年後4月21日付「異国警固番役覆勘状」(『比志島文書』)。年代記弘安7年も参照のこと。
*17:『鎌倉遺文』第21巻16023号。
*18:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。