規矩高政
北条 高政(ほうじょう たかまさ*1、1307年頃?~1334年カ)は、鎌倉時代末期の北条氏一門。肥後国守護。豊前国規矩郡(のちの企救郡、現・福岡県北九州市)を領したので、規矩高政(きく ー)とも呼ばれる。通称は上総掃部助、規矩掃部助。
▲規矩高政の花押(『豊津町史』より)
関連史料の紹介
父は金沢流北条氏の一門で鎮西探題を務めた金沢政顕。『深堀系図証文記録』*2には「探題英時猶子規矩掃部助高政」とあり(後述【史料11】参照)*3、最後の鎮西探題・赤橋英時の猶子(家督や財産などの相続を必ずしも目的としない、形式上の養子)であったという。
まずは、この高政に比定し得る史料での登場箇所を列挙しておきたいと思う。
●【史料1】嘉暦2(1327)年5月10日付「規矩高政施行状」(『相良家文書』):「掃部助」の署名と花押*4
●【史料2】嘉暦3(1328)年3月9日付「鎮西御教書」(『肥前深江文書』):宛名に「上総掃部助殿」*5
●【史料3】元徳2(1330)年3月11日付「肥後守護規矩高政施行状案」(『島津家文書』):「掃部助」の署名と花押*6
●【史料4】元徳2年8月10日付「鎮西御教書案」(『肥後藤崎八幡宮文書』):「掃部助」の署名と花押*7
●【史料5】『博多日記』*8:正慶2/元弘3(1333)年3月25日、「規矩殿(=高政)」が肥後・阿蘇惟直の領地を攻撃し(惟直は一旦鞍岡城に退却するも菊池二郎武重と脱出)*9、4月4日博多に帰還*10。
●【史料6】『太平記』巻12「安鎮国家法事付諸大将恩賞事」*12より
元弘三年春の比、筑紫には規矩掃部助高政・糸田左近大夫将監貞義と云平氏(=平姓北条氏)の一族出来て、前亡の余類を集め、所々の逆党を招て国を乱らんとす。又河内国の賊徒等、佐々目憲法〔ママ、顕宝カ〕僧正と云ける者を取立て、飯盛山に城郭をぞ構ける。是のみならず、伊与国には赤橋駿河守が子息、駿河太郎重時と云者有て、立烏帽子峯に城を拵、四辺の庄園を掠領す。……(中略)……されども此法の効験にや、飯盛丸城は正成に被攻落、立烏帽子城は、土居・得能に被責破、筑紫は大友・小弐に打負て、朝敵の首京都に上しかば、共に被渡大路、軈て被懸獄門けり。東国・西国已静謐しければ、自筑紫小弐・大友・菊池・松浦の者共、大船七百余艘にて参洛す。……(以下略)
『太平記』では時期を元弘3年春とするが、「前亡の余類」というのは同年5月22日に滅んだ北条氏(一門や関係者)*13の残党であろうから、翌元弘4年(=1334、建武元年)の誤記であろう。
●【史料7】建武元年7月28日付「相良頼広着到状」2通(『相良家文書』)*14
●【史料8】同日付「相良祐長着到状」(『相良家文書』)*15
この3通の冒頭に「就上総掃部助高政同(上総)左近大夫貞義謀叛、騒動之間、……」とあるなど、高政らの反乱については多数の書状が伝えるところであるが、この結末については下記の一部史料に記されている。
●【史料9】『上妻文書』:「依謀叛人上総掃部助高政、同左近大夫将監貞義誅伐事、……」*16
●【史料10】『中村家古文書』:「去七月九日謀叛人上総掃部助高雅〔ママ〕、同左近大夫貞義等誅伐之時、……」*17
●【史料11】『深堀系図証文記録』:「探題英時猶子規矩掃部助高政……少弐頼尚等誅伐高政以下逆徒……」*18
●【史料12】『歴代鎮西志』 :「……累攻高政遂陥城、北条上総掃部助平高政於豊〔「前」脱字カ〕規矩殲、……」*19
●【史料13】『松浦家譜』松浦定の注記 :「…建武元年北条高政據豊前帆柱城、北条貞義據筑後堀口城、三月、少弐頼尚攻帆柱城、定従之先登、高政遁走、追撃殲之(之:これ=高政)、…」*20
●【史料14】『松浦家世伝』 :「三月、少弐頼尚、率肥筑兵、進入豊、攻帆柱城、公(=松浦定)与 原田、秋月、宗像従之先登、高政不能拒、出城遁、追撃殲之…」*21
●【史料15】『太平記大全』12 :「規矩高政ハ、故探題英時ガ猶子也、…(略)…帆柱向イ城ヲ責ル事六十余日、高政亡(ほろぼ)シヌ、長野(=長野七郎貞安)ハ降参シテンケリ、」*22
「誅伐」の「誅」や「殲」には、「殺す」「滅ぼす」「尽きる」などの意味があり*23、【史料15】と照合しても、苗字の地・規矩で戦った高政は帆柱城を落とされ、逃れようとしたところを追撃されて滅亡した、という解釈で良いだろう。糸田貞義についても【史料12】の続きに「糸田左近将監平貞義以下、伴類悉(ことごとく)死」とあるなど、史料上で同様に滅ぼされた旨の記載が見られ、兄弟の反乱は完全に鎮圧されたのであった。
乱鎮定後、建武元年11月25日付の後醍醐天皇綸旨(『豊後入江文書』)には、塚崎次郎貞重へ勲功の賞として「豊後国岩室村地頭職 高政跡」(「跡」は以前得ていた所職・旧領などの意)が与えられている*24ほか、翌2(1335)年には「当国(=肥後国)大浦・皆代地頭職 高政跡」が詫磨宗直(詫摩宗直)に与えられており*25、先の規矩・糸田の乱で高政が滅ぼされたことを裏付けていると言えよう。
実政流北条氏(実政・政顕)について
前節で掲げた高政の通称の一つ「上総掃部助」は、父が「上総介」で、自身が「掃部助」であったことを表すものである。父である当該期の上総介に該当し得るのは、下記史料のほか、「政」字が共通することからも、金沢流北条氏の庶流・上総家*26の北条政顕と考えられ、これが定説となっている。
ここで、嘉元2(1304)年12月10日付「関東御教書案」(『薩藩旧記 前編』巻12所収『国分寺文書』)の宛名に書かれている、のちの高政と同じ通称名を持った「上総掃部助殿」*27について考えてみたい。これもやはり同じく父が「上総介」で、自身が「掃部助」であったことを表しているが、この場合の父・上総介に該当し得るのは北条実政であろう。
近い時期でも例えば、正安3(1301)年7月12日付「関東下知状」(『肥前小鹿島文書』)に「上総前司実政」とあり*28、翌4(1302=乾元元)年のものと推定される「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)に「上総入道殿去七日子刻、令他界給之由、……」*29と、貞顕が叔父である実政の他界(逝去)を伝えている*30。
『尊卑分脈』(以下『分脈』と略記)を見ると実政の子息として載せられているのは政顕のみで、その他の男子としては鎌倉時代後期に成立の『入来院本 北条系図』に政盛が載せられる位*31であるが、「上総掃部助殿」に該当し得るのは政顕しかいない。『分脈』では政顕の傍注に「上総介」と記すのみだが、次に示す通り花押の一致から当初は掃部助であったことが分かるからである。
(左から)
・正安4(1302)年8月18日付「鎮西下知状」(『志賀文書』)*32
・嘉元2年10月26日付「鎮西下知状」(『来島文書』):「掃部助平」
・嘉元3(1305)年4月6日付「蒙古合戦勲功賞配分状」(『二階堂文書』):「上総介平朝臣」
・嘉元4(1306)年12月16日付「鎮西御教書」(『禰寝文書』):「前上総介」
花押カードデータベース(東京大学史料編纂所HP内)で調べると、この花押と署名で発給された書状は多数残るが、それらは鎮西探題としての発給書状(鎮西下知状 または 鎮西御教書)であり、『分脈』等と照らし合わせても、正安3(1301)年11月2日に33歳(数え年、以下同様)で鎮西探題となった政顕(『帝王編年記』、逆算すると文永6(1269)年生まれ)*33に間違いない。
そして、政顕が「上総掃部助」と名乗り得るのは、父・実政が35歳で叙爵し上総介となった弘安6(1283)年*34以後の筈であり、実政はそれまで無官であったようなので、政顕が父より先に掃部助に任ぜられることも無かろう。従って政顕は15~34歳の間で掃部助となり、37歳で上総介に昇ったことになる。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
「掃部助(従六位上相当)」は実政の父である金沢実時も経た*35、ゆかりのある官職であり、庶流のため若干の遅れはあるかもしれないが、政顕の任官年齢も同じく15歳、或いは10代後半あたりであったと考えて良いのではないかと思われる。実政に比べれば初任官年齢は早く、その後も実政とさほど変わらない年齢で同じ上総介への任官が認められており、ある程度の待遇は受けていたと言っても良いだろう。
諱に関して言えば、実政の名は実泰―実時の「実」と先祖・北条時政の「政」で構成されていると思われ、その1字を継いだ息子・政顕の「顕」は伯父・顕時の偏諱によるものと見受けられる。
生年と烏帽子親の推定
高政については、【史料1】や【史料2】により嘉暦年間の段階で「掃部助」であったことが分かり、その官途は最期まで変わらぬままであった。
しかし、兄弟の糸田貞義(上総左近大夫将監)とは違ってかつての父・政顕と同じ「上総掃部助」を称し、後述するが得宗・北条高時の偏諱「高」を受けていることからしても、政顕の後継者としてゆくゆくは上総介への任官が認められる可能性があったのではないかと思われる*36。従って前節での考察を踏まえると、1334年当時30代後半には達していなかったものと推測され、生没年ともに1300年代であった可能性が高いと判断できる。
そして、嘉暦2(1327)年の段階で掃部助に任官済みであったことも分かっているので、前節で見た実時・政顕の例を参考にすれば、15歳以上であったと推測可能である。よって、遅くとも1312年頃までには生まれている筈だろう。本項では嘉暦2年当時20歳位と仮定して1307年頃の生まれとしておく。
すると、実泰や実時がそうであったように、元服は通常10代前半で行われたので、高政の元服当時の得宗は間違いなく北条高時(1311年家督継承、14代執権在職:1316~1326年)となる。よって高時と高政は烏帽子親子関係にあったと判断される。前節で述べた通り、金沢流上総家は実政の代から庶流として分かれた故、得宗と烏帽子親子関係を持っていなかったが、その例外となる。結ばれた経緯は不明であるが、規矩流北条氏という(金沢流から)独立した家の初代当主として認める方向性があったのかもしれないし、何よりも赤橋英時の猶子になったことと無関係ではないのではないかと思われる。
実父を亡くした後、倒幕運動によって鎌倉の烏帽子親、鎮西の猶父と相次いで喪った高政は、その仇討ちに建武新政権への反乱を起こして散ったのであった。
(参考ページ)
脚注
*1:『中村家古文書』(本文中【史料10】)や『蠹簡集残篇』(→『大日本史料』6-1 P.427)に見られるように、実際の書状の中には実名を「高雅」と書いているものもあるが、これがかえって「たかまさ」と読まれていたことを裏付けている。本文で述べるが如く、実政―政顕から継承した「政」(高政)が正式な表記であろう。
*2:この史料については 長崎市│深堀家系図・深堀系図証文記 を参照のこと。
*4:『大日本古文書』家わけ第五 相良家文書之一 P.104(四九号)。(肥後守護規矩高政施行状)〔尼妙阿地頭職安堵〕 | 慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクションDigital Collections of Keio University Libraries。永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)P.198。
*5:『鎌倉遺文』第39巻30178号。
*6:『大日本古文書』家わけ第十六 島津家文書之三 P.18(一一七四号)。
*7:『鎌倉遺文』第40巻31178号。
*8:この史料については 史料編−501博多日記 を参照のこと。
*11:『大日本史料』6-1 P.424~429、P.507~508、P.664~672 の各史料を参照のこと。
*14:『大日本古文書』家わけ第五 相良家文書之一 P.118(六八・六九号)。
*15:『大日本古文書』家わけ第五 相良家文書之一 P.119(七〇号)。
*18:注3同箇所。
*23:誅 | 漢字一字 | 漢字ペディア、殲 | 漢字一字 | 漢字ペディア より。
*24:注4前掲永井氏著書 同ページ。典拠は『南北朝遺文 九州編』162号。『大日本史料』6-2 P.149、年代記建武元年 も参照のこと。
*25:前注永井氏著書 同ページ。典拠は『南北朝遺文 九州編』263号。『大日本史料』6-2 P.425 も参照のこと。
*26:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.29 における呼称。本文にある通り、代々上総介となっていることから。
*27:『鎌倉遺文』第29巻22052号。
*28:『鎌倉遺文』第27巻20824号。
*29:『鎌倉遺文』第28巻21322号。
*30:この貞顕書状の時期については、『分脈』の実政の注記に「正安四五十八卒 五十四才」とあることから推定可能である。
*31:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.14。政顕の兄の位置に記載されて傍注には「式部大夫 出家」とあり、家督継承者からは外れたのであろう。
*34:『編年史料』後宇多天皇紀・建治元年10~11月 P.55。
*35:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その54-金沢実時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*36:これらの観点から、筆者は高政が政顕の嫡男だった可能性を考える。『分脈』には政顕の子に種時を載せているが、その官途は『分脈』に左近将監とあるのみであり、鎮西探題に関しても政顕の離任直後の僅かな期間のみ職務の代行が認められただけであった。このことから種時が政顕の嫡男であったとは考え難いと思われる。尚、注31同箇所では種時は政顕の4男として書かれ、長男には師顕の記載がある。この北条師顕は10代執権・北条師時の偏諱拝領者と考えられ「上総州□」と注記されることからも当初の嫡男だったのではないか。恐らく師顕は早世し、それに代わる嫡子が高政だったのではないかと推測する。また種時の弟・顕義に「掃部助」の注記があるが、元応元年のものとされる「鎮西下知状」(『豊前宮成文書』/『鎌倉遺文』第35巻27095号・27353号)では「(豊前)守護人上総兵部大輔顕義」と書かれているので、高政と混同されているのかもしれない。