二階堂貞雄
二階堂 貞雄(にかいどう さだお / さだたけ、1286年頃?~1333年カ)は、鎌倉時代後期から末期にかけての御家人。父は二階堂政雄(頼綱の弟)、母は二階堂行藤の娘(時藤・貞藤の姉妹にあたる)*1。子に二階堂行雄。通称は三郎兵衛尉、因幡守(因幡入道)。法名は行源(ぎょうげん)。
『尊卑分脈』二階堂氏系図(以下『分脈』と略記)の貞雄の項には次のように書かれている。
正中3(1326)年3月に出家して「行源」と号した旨の記載が見られるが、弟・行高(初名: 高雄)の項を見ると、貞雄と同時に出家した時28歳(数え年)であったと書かれている。従って兄である貞雄はそれより年長だったはずで、30代以上であったと考えて良いだろう。 貞雄・行高 (高雄) 兄弟の出家は、同月の得宗・北条高時の出家*2に追随したものであろう。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
historyofjapan-henki.hateblo.jp
こちら▲の記事で紹介の通り、伯父・頼綱は1239年生まれであったことが判明しており、その弟である父・政雄はどんなに早くとも1243年頃の生まれであろう*3。「政雄」の実名に着目すると、「政」は家祖・二階堂行政の1字とも考え得るが、「雄」の字もまた、更に遡った先祖・藤原雄友に由来する可能性がある*4。わざわざ上(1文字目)に置いていることからしても「政」は7代執権・北条政村からの偏諱なのではないか(すぐ下の弟・宗綱は8代執権・北条時宗からの一字拝領か)。政村執権期間(1264~1268年)*5の元服だとすれば政雄はおよそ1250年代の生まれとなる*6から、貞雄の生年は早くとも1270年代となる。更に、外祖父・二階堂行藤は寛元4(1246)年生まれとされるので、各親子間の年齢差を考慮すれば、貞雄は1286年頃より後の生まれとするのが妥当であり、その元服の年次が北条貞時9代執権期間(1284~1301年)になることは確実と言って良いと思う。
『分脈』を見ると政雄は正安3(1301)年8月23日に出家して「行海」と号したとあるが、同日の貞時の出家に追随したことは明らかであり、政村の代から執権に近い立場にあったと言えるだろう。貞時と貞雄は烏帽子親子関係にあったと判断される。
貞雄に関する史料としては、次の書状が確認できる。
【史料B】元𪪺(元弘)3(1333)年5月20日付「熊谷直経代同直久軍忠状」(『長門熊谷家文書』)*7より
(前略)……朝敵等、元弘三年五月十二日、直久相共罷向丹後国熊野郡浦家庄、押寄二階堂因幡入道之城墎〔=郭〕、令追罰畢、……(以下略)
丹後など4ヶ国の朝敵を討伐せよとの綸旨を賜った熊谷氏は、熊谷直清(彦三郎)を大将として出陣。元弘3年5月12日、直清や熊谷直久(太郎次郎)が率いる軍勢は丹後国熊野郡にある二階堂因幡入道の城郭に押し寄せ、これを追罰したとある。この因幡入道は『鎌倉遺文』や『大日本古文書』の通り、【史料A】で「因幡守」と注記される貞雄(行源)に比定して問題ないと思う。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
熊谷氏の動きは、同月7日足利高氏(のちの尊氏)らによって六波羅探題が滅ぼされたことに起因するのは間違いなく、『分脈』には弟の行高(行淳)が同月に亡くなったとの記載があるので、貞雄も事実上探題に殉ずる形での戦死であったとみられる。
(参考文献)
● 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.155「二階堂(伊勢)貞雄」の項
脚注
*1:『佐野本二階堂系図』より。『分脈』でも行藤の娘の一人に能登守政雄妻が確認できる。
*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*3:『分脈』での記載に従うならば、頼綱と政雄の間に盛綱、行景、行員の兄弟がいた。
*4:雄友については「おとも」と読む説がある(→藤原雄友(ふじわらの おとも)とは - コトバンク)一方、田代政鬴『新訳求麻外史』(求麻外史発行所、1917年)の文中では「たけとも」とルビが振られていて定かではない。
*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その45-北条政村 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*6:『分脈』などによれば、頼綱・政雄らの父・二階堂行綱は弘安4(1281)年6月7日に亡くなったといい、政雄の生年が1250年代でも全く問題はないと思う。
*7:『大日本古文書』家わけ第十四 第一 熊谷家文書 P.61(三六号)。『鎌倉遺文』第41巻32176号。