Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

二階堂光貞

二階堂 光貞(にかいどう みつさだ、1290年頃?~1336年)は、鎌倉時代後期の人物。父は二階堂宗実。官途は左衛門尉、下総守。法名行全(ぎょうぜん)か。

 

『作者部類』(『勅撰作者部類』)に「頓阿 法師俗名貞宗二階堂下野守〔ママ〕光貞*1、『続群書類従』所収「工藤二階堂系図」に「光貞 下総守貞宗 遁世、頓阿*2とあり、僧・頓阿(とんあ / とんな、俗名:二階堂貞宗の父として、二階堂光なる人物が確認できる。 

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後に掲げるが『尊卑分脈(以下『分脈』と略記)の二階堂氏系図*3にあるだけでなく、延元2/建武4(1337)年に成立し、正平17/康安2(1362)年に増補された『作者部類』*4に記載が見られることから、実在は認めて良いだろう。次の図は同系図より一部抜粋したものである。

 

【図A】

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二階堂行泰の子・行実の孫に「下総守」等と注記される光貞の記載があり、「工藤二階堂系図」とは父・宗実までの系譜と官途が完全に一致することから、頓阿の父と同人には間違いないと思う。

但し、『分脈』では光貞の子として高実政宗行豊が記載されるのみで、頓阿の俗名とされる貞宗はむしろ光貞の兄となっている。「工藤二階堂系図」では光貞の子は貞宗行秋因幡守、法名行欽)行豊となっているが、末子・行豊の名が共通していることを考えると、何かしらの混乱が生じたのではないかと推測される。

 

ここで、二階堂氏行泰流について、親子の年齢差を20歳と仮定して各人物の生年を推定すると次の図のようになる。

【図B】

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図の中で、二階堂時元については生年が1288年と判明しているが、行頼―行元、行元―時元間の年齢差は20~40となっていて妥当と言えよう(恐らく行元は1260年頃の生まれで各年齢差を約30ずつとするのがより正確かもしれない)。実際の史料に現れる高元高憲についても建武元(1334)年当時左衛門尉であったことが分かっており、図のように推定して十分的を射ていると思われる。

 

行実流でも同様の手法を試みると、光貞の生年は1276年前後、もしくはそれ以後と推定可能である。しかしその場合、貞宗(頓阿)については上記記事で1289年生まれ、もしくはそのほぼ同世代であることを紹介しているが、光貞14歳の時の子となってしまい、全くあり得ないこともないが、やはり現実的な想定ではないように思う。

 

ここで「」の名乗りに着目すると、「光」は祖先・二階堂行光(行盛の父)に由来するものであろうから、「」が烏帽子親からの一字拝領と考えられるが、これは元服当時の得宗・9代執権である北条(在職:1284~1301年)*5偏諱であろう。尚、「貞」が下(2文字目)になっているのは、嫡男の兄・貞宗に対する庶子(或いは準嫡子)であったためと考えられ、光貞の生年は1290年以後と考えて良いだろう。

仮に1290年生まれとすると、貞時が執権を辞して出家した正安3(1301)年*6当時12歳と元服の適齢を迎え、嫡男・実も次の得宗・北条(貞時の子)の一字拝領とみられるから、時と光は慣例に従って烏帽子親子関係にあったと判断される。 

その関係性が窺える史料として、『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』)には、元亨3(1323)年10月27日の貞時13年忌供養において「二階堂 下総前司」が「銀剱一 馬一疋置鞍、栗毛、」を献上しているが、これも光貞に比定されている*7

 

あわせて次の史料も見ておきたい。

【史料C】『梅松論』下より*8

辰刻に敵二手にて河原と鞍馬口を下りにむかふ所に、御方も二手にて時を移さず掛合て、入替て数刻戦しに、御方討負て河原を下りに引返しければ、敵利を得て手重く懸りける。両大将御馬を進められて思召切たる御気色みえし程に、勇士ども我も我もと御前にすすみて防戦し所に、上杉武庫禅門(=兵庫頭憲房,法名:道欽)を始として三浦因幡守(=貞連)二階堂下総入道行全、曽我太郎左衛門入道、所々に返合々々て打死しける間、河原を下りに七條を西へ桂川を越て御陣を召る。 

延元元(1336)年1月27日の戦いにおいて上杉憲房(道欽)三浦貞連らと共に「打死(=討ち死に)」したという「二階堂下総入道行全」は、入道(出家)前に下総守であったことを示しており、これも光貞に比定されるのではないかと思う。『分脈』の二階堂氏系図上でこの時期の下総守前任者として該当する人物は他に確認できない。

『梅松論』は元々軍記物語ではあるが、同日に合戦があったことは実際の書状に「正月廿七日 賀茂河原合戦(「本田久兼軍忠状」)、「正月廿七日 鴨河原合戦(「和田助康注進状」・「山田宗久注進状」)などと書かれて裏付けられ*9、翌延元2(1337)年3月16日には旧領であった「同国下野国中泉庄 二階堂下野入道、同下総入道」が結城入道道忠(宗広)に与えられている*10から、【史料C】が描く下総入道=光貞の戦死は史実であろう。また、下野入道については『分脈』(前掲【図A】)上で「下野守」「正中三三出家 行応」と注記される前述の二階堂時元法名:行応)に比定され、同じ頃に亡くなったものとみられる。

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応安2(1369)年6月19日、道忠の孫・顕朝が養嗣子・千代夜叉丸(のちの満朝に譲った所領の中にも「下野国中泉庄内 二階堂下野入道跡、同下総入道」が含まれており*11、時元(行応)光貞(行全)両名の旧領は白河結城氏に継承されていったのであった。

 

(参考ページ)

石谷氏/石ヶ谷氏 - 伊達幕府女神隊 - アットウィキ

 

脚注