Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

二階堂行貞

二階堂 行貞(にかいどう ゆきさだ、1269年~1329年)は、鎌倉時代後期から末期にかけての鎌倉幕府御家人政所執事。父は二階堂行宗。官途は左衛門尉、信濃守、山城守。通称は丹後次郎、山城入道など。法名行暁

 

 

生没年と烏帽子親について

武家年代記』によると、行暁(俗名:行貞)が嘉暦4(1329=元徳元)年2月2日に俄かの中風で亡くなったとし(後述【史料12-b】)、『常楽記』・『北条九代記』でも同日に61歳(数え年、以下同様)で亡くなったと伝えており*1、逆算すると文永6(1269)年生まれとなる。

紺戸淳の見解によると、は16歳となった弘安7(1284)年以後に元服し、その名は同年から新たな得宗・執権となった北条*2より偏諱を与えられたものとする*3。 他家に比べるとやや遅めではあるが、同い年で時の1字を受けたとみられる人物としては島津が挙げられ、家格の高い足利氏でも高氏(のちの尊氏)の15歳といった例がある*4ので、特に問題視する必要はないと思う。

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関連史料の紹介

本節では、細川重男によるまとめ*5に基づきながら、行貞に関する史料を以下に提示したいと思う。

 

【史料1】『北條九代記』正応3(1290)年1月3日(『鎌倉年代記』裏書と同内容)

今年 正応三 正月三日、丹後次郎左衛門尉行貞出仕之処、於二階堂小路被射、自身不被疵、所従一両人被疵、

通称名丹後守行宗の「次郎(本来は次男の意)*6」で左衛門尉(左衛門少尉)に任官していたことを表すもので、二階堂行貞に比定される。前述の生年に基づけばこの当時22歳。この日幕府に出仕していたが、二階堂小路を歩いていたところを何者かに射られ、行貞の家臣が負傷する事件があったことを伝える。

細川氏の見解によれば、この年に政所執事となった行貞が僅か4年後に二階堂行藤と交替させられている(後述【史料2-b】・【史料6】参照)ように、この頃はポスト二階堂行忠(行貞の祖父)の座(政所執事)を巡る二階堂氏内部の抗争があり、元々行忠は傍系でありながら、長兄・行泰、次兄・行綱各流の惣領が相次いで没したという偶然の結果により政所執事=二階堂氏惣領の地位に就いたという経緯があるので、幕府評定衆を輩出してきた隠岐流から出た行藤にもその資格があるとの自負があり、その「指嗾」*7によってこの襲撃が行われたのではないかとしている*8

 

この年の11月14日に政所執事に就任したことは、以下3点の史料で確認ができる。

史料2-a】『北條九代記』正応3年条(『鎌倉年代記』と同内容)

右衛門尉〔ママ〕 後山城守

行貞 法名行暁

十一月十四日補之(之:これ=政所執事、正応四十廿一蒙使宣、左衛門尉、同五十一叙留、永仁三六任信濃守、同六十一遷山城守、正安三八出家

【2-b】『武家年代記』同年条:「二階堂 山城守 法名行暁  行貞 至永仁元、治四年

【2-c】『鎌倉大日記』同年条:「「政所」山城守 行貞 法名行暁  行忠孫  行宗男

 

【史料3】正応4(1291)年12月7日付「将軍家久明親王政所下文案」(『越前島津文書』):「左衛門少尉藤原」の署名と花押*9

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*「令」とは鎌倉時代における政所の次官*10。初代令が二階堂行政であるなど、政所執事世襲する二階堂氏が兼ねる場合もあり、次の【史料4】に示す行貞の花押と一致することから、二階堂行貞に比定される。二階堂氏は藤原南家の流れを汲む家柄である。

 

【史料4】(正応5(1292)年?)11月30日付「鎌倉幕府政所召文」金沢文庫所蔵『首楞厳義疏注経十之二包紙文書』):連名での発給者「貞倫(花押)重実(花押)行貞(花押)」*11

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*『鎌倉遺文』で言及の通り、行貞が政所執事在任であった正応3年(【史料2】)~同6(=永仁元)年10月(後掲【史料6】)の間に出されたものと推定される。

【史料5】永仁元(1293)年10月6日付「二階堂行貞寄進状」(『伊豆伊豆山神社文書』):上野佐野莊内板倉郷を伊豆走湯山東明寺に寄進する「左衛門尉*12

【史料6】『鎌倉年代記』永仁元年条:10月二階堂行藤が政所執事に就任しており*13、この時行貞が退任したことが分かる。

【史料7】『実躬卿記』永仁2(1294)年4月17日条:この日の京都賀茂祭に後深草法皇(この記事上では「上皇」と記述が臨幸した際にお供した「官人」の中に「関東上洛之仁両人 丹後次郎判官行貞出羽次郎判官時藤已上五位尉、(時藤は行藤の子)。 

*「丹後次郎」については【史料1】で前述した通り。この頃も左衛門あったので、律令制における四等官の第三位である判官(じょう=尉)の職を帯びる者の通称である「判官 (はんがん/ほうがん)」*14と呼称されている。前述の生年に基づけばこの時26歳。

【史料8】永仁2年12月25日付「鎌倉幕府政所奉書写」(『出羽中条文書』):「沙弥(花押影)散位左衛門尉(花押影)」*15

【史料9】『永仁三年記』(太田時連日記、1295年)引付衆のメンバーの一人。6月中旬ごろ、信濃任官。

閏2月12日条「丹後廷尉」、同月23日条「民小卿、備小卿、常州丹廷

3月7日・12日・16日・23日条、4月6日・13日・23日・28日条、5月2日・23日・27日条「備州(=常葉時範)民少、摂州(=二階堂盛忠)常州丹廷」の全員または一部が評定会議に参加。

6月2日条では加入者が増えて「備州、民少、武庫(=名越時家)、摂州、常州丹廷、因州」であったものが、同月23日条では「民少、武庫、摂州、常州信州、因州」と変化。

*人物比定は細川氏の見解による。「丹後」は前述に同じく父・行宗の官途に由来するもので、「廷尉」は検非違使を兼ねた(左)衛門尉の唐名である*16。この年の6月に信濃守に任官したことは【史料2-a】にある通りで、後者への表記の変化がそれを裏付けている。この時27歳での国守任官となる。

 

【史料10】『興福寺略年代記』永仁4(1296)年4月条:「四月日宗綱行貞両人自関東入洛。為南都沙汰云々」とあり、京極宗綱と共に東使として上洛したことが分かる。

 

 ★ 永仁6(1298)年10月1日:山城守転任(【史料1】より)

*山城守は家祖・二階堂行政にゆかりの官職である*17信濃守の後任はこの年の12月28日に就いた太田時連であろう。

 

【史料11】『実躬卿記』正安3(1301)年正月18日条:「関東御使……両使 隠岐前司時清山城前司行雲〔ママ〕」が昨17日に六波羅、18日当日には「今出川相国禅門」=西園寺実兼今出川兼季の父)の邸宅に向かう。同内容を記す『興福寺略年代記』同日条に「東使入洛 佐々木隠岐前司宗清〔ママ〕二階堂山城前司行貞」とあるほか、『歴代皇紀』同月17日条に、『一代要記』(日付の10月7日は誤記であろう)に「東使入洛 山城守〔ママ〕行貞 隠岐前司時清」とあることから行貞に比定される。

 

 ★正安3年8月23日、出家。行暁と号す。

『尊卑分脈』二階堂氏系図 の行貞の項を見ると【史料2-a】とほぼ同内容の記載が見られるが、出家については「正安三八廿三出行暁」と具体的な日付が書かれており、同日の貞時の出家*18に追随したことは明らかである。根拠に弱いが「暁」の字も貞時の初めの法名「崇暁」から与えられたものなのかもしれない。

 

【史料12】乾元元(1302)年11月:行藤逝去に伴って政所執事に再任*19。以下3点の史料で確認ができる。

【12-a】『鎌倉年代記』同年条:「山城入道 行暁 俗名行貞  乾元々十一月還補、嘉暦四二々死六十一

【12-b】『武家年代記同年条:「行暁 俗名行貞  還補  嘉暦四二二俄受大中風之所労死去

【12-c】『鎌倉大日記』同年条:「行暁 「政所」俗名行貞 再任

 

※この間、乾元2(1303)年2月3日付「将軍家(久明親王)政所下文案」(『鹿島大祢宜家文書』)の「令左衛門少尉藤原 知家事」を『鎌倉遺文』では二階堂行貞に比定する*20が、この当時は既に出家済みで「左衛門少尉」の官途と矛盾するから、行貞とは別人とみなすべきであろう。

 

【史料13】『元徳二年三月日吉社並叡山行幸記』:「十一月東使山城入道行暁信濃前司時連上洛」とあり、延慶2(1309)年11月に東使として時連と上洛したことが分かる。

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【史料14】『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』):元亨3(1323)年10月27日の貞時13年忌供養への参加者の中に「山城前司入道廿貫」または「山城入道」と記載*21

 

【史料15】(正中3(1326=嘉暦元)年)3月「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*22

愚老執権事、去十六日朝、以長崎新兵衛尉被仰下候之際、面目無極候。当日被始行評定候了。出仕人々、陸奥守・中務権少輔・刑部権大輔入道山城入道長崎新左衛門尉 以上東座、武蔵守駿河守尾張前司 遅参・武蔵左近大夫将監・前讃岐権守後藤信濃入道 以上西座、評定目六并硯役信濃左近大夫孔子布施兵庫允、参否安東左衛門尉候き。奏事三ヶ条、神事・仏事・□〔乃貢の事、信濃左近大夫(以下欠)

【読み下し】愚老執権の事、去る十六日朝、長崎新兵衛の尉を以て仰せ下され候の際、面目極まり無く候、当日評定を始行せられ候いをはんぬ。出仕の人々……(以下略)

文中の「愚老」・「予」とは一人称*23、すなわち筆者である貞顕で、3月16日に長崎新兵衛尉(実名不詳、新左衛門尉高資の一族であろう)から15代執権就任の知らせを聞いた直後に書かれたものであることが分かる。そして同日の評定のメンバーに「山城入道」が含まれており、次の史料によって行暁(行貞)であることが裏付けられる。

 

【史料16】「鎌倉幕府評定衆等交名」根津美術館蔵『諸宗雑抄』紙背文書 第9紙*24

相模左近大夫将監入道   刑部権大輔入道道鑒〔ママ*〕

城入道延明       山城入道行暁

出羽入道道薀        後藤信乃入道覚也

信乃入道道大        伊勢入道行意

長崎左衛門入道      同新左衛門尉高資

駿川守貞直

*:道準または親鑒の誤記か。

 

【史料17】(正中3/嘉暦元年?)「金沢貞顕書状」金沢文庫蔵『東寺御影供順礼作法裏文書』:文中に「……行暁□□□□前々司定昇進候歟、……」*25

*「々司(=前司)」は前任の国守の意であり、その前に入り得る旧国名は越前、備前筑前豊前肥前のいずれかである。

【史料18】(嘉暦4(1329)年?)正月25日付「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』):文中に「山城入道行暁*26

【史料19】(嘉暦4年)正月30日付「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』):文中に「山城入道*27

【史料20】(嘉暦4年?)2月2日付「崇顕金沢貞顕書状」金沢文庫所蔵『鉢撞様裏文書』)*28

    □□言事、自北方*1可有御

□□□□□□□□に被指置候事、不可然

□□□□□□□□の御状も見給候了、筑

□□□□□□□□□候、一両日こうつより

□□□□□□□□き北方被申候者、忩々

□□□□□□□□顕元*2ニ度々被仰候由、

□□□□□□□□□□□所領にとゝまり候て、以

□□□□□□□□て候事承候了、

□□□□□□□□注進状到来之間、可

□□□□□□□□行人*3山城入道行暁

□□□□□□□□候之間、評定奉行を刑部*4

□□□□□□□□れて候よし承候、後日ニ

□□□□□□□□かしく*5二月二日

 

*1:六波羅探題北方のことか。

*2:貞顕の被官である大江顕元か。

*3:「行人」だけだと「仏道を修行する人」の意味があり、山城入道行暁に強ち繋がらなくもないが、恐らくは「奉行人」等と書かれていたのではないかと思われる。

*4:【史料15】にある刑部権大輔入道=摂津親鑒入道道準のことか。

*5:「あなかしく」か。恐惶謹言と同義で、貞顕の書状でもしばしば日付の前、手紙の文末にしばしば書かれる。

実物は未確認だが、この書状は保存状態(紙の劣化・虫食い等)により、恐らくは上のような形で破損していると思われ、内容の把握には難解・困難な史料である。文末に記載の発給日、2月2日は冒頭で紹介の通り行貞(行暁)の命日に同じであり、まさにその亡くなった時に出されたものと考えられている。

文中の「評定奉行」とは鎌倉幕府の政所評定を総管し、評定衆の進退を指図した職であり、北条氏一門以外で引付頭人を兼ねる評定衆中の長老から選任されていた*29。次の室町幕府でも設置された同奉行は初代・畠山国清の後、佐々木・二階堂・摂津氏から選ばれていたようである*30が、その前例として行貞(行暁)摂津親鑒(刑部権大輔入道道準、高親の父)も評定奉行を務めたのではないかと思われる。親鑒はこの当時、五番引付頭人であった*31。「評定奉行を刑部□□□□□〔権大輔入道□□□れて候よし(=由)承候」の部分は、奉行を親鑒に任せる旨を伝え聞き、了承したことを書いたのではないか。

そうなった経緯を考えると、前述の【史料12-b】を照合すればこの日「俄かの中風」で亡くなった行貞(行暁)に代わって、急遽親鑒(道準)が奉行に選任されたと解釈し得る。

 

上記のほか、行貞死後の南北朝時代に以下2点の史料が確認される。

 

【史料21】康永2(1343)年3月4日付「室町幕府引付頭人石橋和義奉書案」(反町英作氏所蔵『色部文書』)*32

 (張紙)「十四、左衛門佐遵行状案」

青木四郎左衛門尉武房等申越後国小泉庄事、申状具書如此、於色部遠江権守長倫・平蔵人長高(=色部長高)秩父左衛門次郎持長・山城入道行暁・安富大蔵大夫空円(=安富長嗣)者、所被糺明也、至城入道後藤信濃入道闕所分者、不日止本庄左衛門次郎(=持長)以下輩濫妨、任御下文、可被沙汰付、更不可有緩怠之儀之状、依仰執達如件、

 康永二年三月四日  左衛門佐(=和義)

  上椙民部大輔殿  在判

 

【史料22】延文2(1357)年6月11日「越後守護代芳賀高家施行状」(『桜井市作氏所蔵文書』)*33

当国瀬波郡小泉庄内城介入道五藤〔ママ、後藤〕信乃入道二階堂山城入道等事、為兵粮料所々被預置也、一族并同心之輩、依忠浅深、可被配分之由候也、仍執達如件、

 延文二年六月十一日 伊賀守(花押)

  色部遠江(=色部長忠)殿

越後国小泉庄内にあった行暁(行貞)安達時顕後藤基胤ら【史料16】にも名を連ねる高時政権中枢メンバーの旧領が、幕府滅亡後闕所地となり、【史料22】は色部長忠が芳賀高家(正しくは高貞か)よりこれらの闕所地を「忠の浅深」によって「一族并びに同心の輩」に配分する権利を得たものである。 

 

 (参考ページ)

 二階堂行貞 - Wikipedia

二階堂行貞(にかいどう・ゆきさだ)とは - コトバンク

 二階堂行貞(1)(にかいどう ゆきさだ)とは - コトバンク

南北朝列伝 ー 二階堂行貞

 

脚注

*1:『史料稿本』後醍醐天皇紀・元徳元年正~7月 P.15

*2:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.8「北条貞時」の項 より。

*3:紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について ―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』2号、中央史学会、1979年)P.15。

*4:足利尊氏 - Henkipedia 脚注1参照。典拠は『続群書類従』所収「足利系図」。

*5:注2前掲細川氏著書 同基礎表 No.159「二階堂行貞」の項。

*6:吾妻鏡』を見ると父・行宗も当初は「信濃次郎左衛門尉」・「信濃判官次郎左衛門尉」と呼称されていたことが窺え、また孫の高衡(行直)も『建武年間記』に「美作次郎左衛門尉高衡」と記されているので、「次郎」は次男か否かに拘らず、行宗以降代々の家督継承者の称号と化していたことが分かる。このような傾向・慣例は、足利・平(長崎流)・葛西・島津氏の「三郎」、結城氏の「七郎」など他家でも確認ができる。

*7:人に指図して、悪事などを行うように唆すこと(→ 指嗾(シソウ)とは - コトバンク)。

*8:注2前掲細川氏著書 P.82 註(33)。

*9:『鎌倉遺文』第23巻17766号。

*10:政所 - Wikipedia令(りょう)とは - コトバンク より。

*11:『鎌倉遺文』第23巻18055号。

*12:『鎌倉遺文』第24巻18386号。『編年史料』永仁元年9・10月 P.33

*13:『編年史料』永仁元年9・10月 P.41

*14:判官 - Wikipedia より。

*15:『鎌倉遺文』第24巻18717号。

*16:廷尉(テイイ)とは - コトバンク左衛門尉 - Wikipedia より。

*17:『日本大百科全書』(ニッポニカ)「二階堂行政」の項(執筆:菊池紳一、コトバンク所収)より。

*18:注2同箇所より。

*19:『編年史料』乾元元年10~11月 P.98

*20:『鎌倉遺文』第28巻21351号。

*21:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.698・705・708。

*22:『鎌倉遺文』第38巻29390号。『金沢文庫古文書』374号。注2前掲細川氏著書 P.319、年代記嘉暦元年 にも掲載あり。

*23:愚老(グロウ)とは - コトバンク より。

*24:田中稔「根津美術館所蔵 諸宗雑抄紙背文書(抄)」(所収:『奈良国立文化財研究所年報』1974年号、奈良国立文化財研究所)P.8。

*25:『鎌倉遺文』第38巻29391号。

*26:『鎌倉遺文』第39巻30506号。

*27:『鎌倉遺文』第39巻30502号。

*28:『鎌倉遺文』第39巻30507号。

*29:評定奉行(ひょうじょうぶぎょう)とは - コトバンク より。

*30:前注同箇所参照。

*31:注2前掲細川氏著書 同基礎表 No.128「摂津親鑒」の項 より。典拠は『鎌倉年代記』嘉暦2年条。

*32:清水亮「南北朝期における在地領主の結合形態 ―越後国小泉荘加納方地頭色部一族―」(所収:『埼玉大学紀要 教育学部』第57巻第1号、埼玉大学教育学部、2008年)P.8。『新潟県史 資料編 中世』1047号文書。

*33:前注清水氏論文 P.10。『新潟県史 資料編 中世』2755号。