Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

大仏高政

北条 高政(ほうじょう たかまさ、1310年頃?~1333年?)は、鎌倉時代末期の武将、御家人。北条氏一門・大仏貞直の嫡男で、大仏高政(おさらぎ ー)とも。通称は五郎。

 

本項で扱うのは、次の史料に現れる人物である。 

【史料A】(嘉暦4年?)「崇顕金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*1より

去月廿七日御返事、長州上野前司使下向之便、今日到来、委細承候了、

一. 道蘊使節事、大略落居、近日可被出御返事之旨、承候了、治定分、北山殿さたハ、可有御存知候、内々御尋候て、可示給候、

一. 為重朝臣上洛候て、申旨候者、有御対面、委可被聞候、

一. 駿州子息五郎高政官途事、未申候哉、聞書出来之時、可写給候、

一. 同人長崎左衛門入道招請事、致用意被請候之処、固辞候て不参候之間、周章之由承候、彼固辞候上者、城入道も不参候歟、又京都ニハ可有上洛之旨風聞之由…

(以下欠)

ここでいう「駿州」とは当時の駿河であった人物を指すものであり、その息子として五郎高政なる人物が確認できる。元服からさほど経っていなかったためか、無官で「五郎」とのみ名乗っていたことが窺えるが、「官途の事、未だ申し候や(=まだ申していないのでしょうか)*2と言っているように、この当時高政に任官の話が出ていたことも分かる。

 

では、この高政の父である「駿州駿河守)」とは誰なのか。『鎌倉遺文』では北条(甘縄)顕実*3、『金沢文庫古文書』では北条(大仏)貞直、としていて意見が分かれており、これについて考証してみたい。

そのためにはまず、この書状が何時のものかを推定する必要がある。ここで注目すべきは、文中にある、高時政権の最高権力者、長崎円喜安達時顕法名:延明)両名の通称「長崎左衛門入道」・「城入道」である。

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こちら▲の記事で紹介の通り、円喜(俗名:長崎盛宗か)は延慶2(1309)年に出家済みであったが、「城入道」というのは秋田城介であった時顕が入道(出家)してから呼ばれる筈であり、その年は高時に同じく正中3(1326)年である。

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従って【史料A】は正中3年以後、鎌倉幕府滅亡時(1333年)までに書かれたものであることは確実である。上に示したように『鎌倉遺文』では嘉暦4(1329=元徳元)年と推定しているが、永井晋の研究によると同年3月、後醍醐天皇の譲位を巡る問題を重く見た幕府は道蘊こと二階堂貞藤を使者(東使)として上洛させたといい*4、「道蘊使節事、大略落居、…」以下の一節はそのことを言っているものなのであろう。

 

次いで、正中3年以後に駿河であり得る人物について考察したい。

 伊具斎時:不詳*5

*『常楽記』での逝去の記事で「伊具駿河入道」と記されることから、生前駿河守となってから出家したことが分かる。『鎌倉年代記』正和2(1313)年条には、7月26日に二番引付頭人として「斎時」の名があるから、出家はこれより後のことである。同文保元(1317)年条を見ると12月27日の引付改編で記載が無いことから、二番引付頭人を辞したことが分かるが、この時政界を引退した可能性が高く、同時に出家したのではないか。すなわち斎時の駿河守在任は1317年以前だったのではないかと推測される。

甘縄顕実:不詳*6

*弟・金沢貞顕の書状に現れる「駿川修理亮顕香」*7、「駿河大夫将監顕義」*8は『前田本 平氏系図*9により、『常楽記』にある「甘縄駿河入道(俗名顕実)」の子(貞顕の甥)とみなせるので、顕実の最終官途が駿河守であったことは認められる。斎時に同じく逝去時の通称から、生前駿河守となってから出家したことが分かるが、『鎌倉年代記』を見ると嘉暦元(1326)年5月13日における二番引付頭人に「顕実」とあって在俗であるから、出家の時期は逝去の直前であったことが窺える。

 大仏貞直:後述【史料B】より。

 常葉範貞:1329.12.13~1333.5.22(幕府滅亡)*10

 

判明しているだけでも駿河北条重時以来、北条氏一門により世襲されていたと言って良く、1301~1305年の北条宗方までは判明している*11。上記の彼らもまた、北条氏一門であり、【史料A】の高政が北条氏であることが確実となる。

ここで次の史料を紹介しておきたい。

【史料B】「鎌倉幕府評定衆等交名」根津美術館蔵『諸宗雑抄』紙背文書 第9紙*12

相模左近大夫将監入道   刑部権大輔入道道鑒〔ママ*〕

城入道延明       山城入道行曉

出羽入道道薀        後藤信乃入道覺也

信乃入道道大        伊勢入道行意

長崎左衛門入道      同新左衛門尉高資

駿川守貞直

*:道準または親鑒の誤記か。

「城入道延明(安達時顕)」のみならず、相模左近大夫将監(北条泰家)行暁(二階堂行貞)覚也(後藤基胤)道大(太田時連)行意(二階堂忠貞)が出家後の通称で記載されていることから、彼らが正中3(1326=嘉暦元)年3月の北条高時剃髪に追随して出家した後に書かれたものであることは確実である。そしてこれは、行暁(行貞)が亡くなる嘉暦4(1329)年2月2日までに書かれた筈でもある。

すなわち、1326~1329年の間に貞直が駿河守在任であったことが確実となり、駿河守在任者の変化は

 顕実(1326~1327)貞直(1327~1329)範貞(1329~)

 貞直(~1326.5)顕実(1326.5~1327)(1327~1329)範貞(1329~)

のいずれかとなる。

前述したように【史料A】は1329年のものである可能性が高いから、「駿州」=顕実とする『鎌倉遺文』の人物比定は成立し得ない。

そして、のように顕実と範貞の間に駿河守であった人物が判明していないというのはどうも不自然であり、また貞直が駿河守を辞して「前駿河守」「駿河前司」等と呼ばれた形跡も史料で確認できない。

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こちら▲の記事で紹介の通り、貞直は1329年12月頃に「奥州拝任」をし、その後の元弘の変に際しては「陸奥守貞直」として幕府軍大将の一人を務めている。前述のように捉え、駿河守からそのまま陸奥守へ転任したと考えるのが自然なのではないか。

よって嘉暦年間当時の駿河守は貞直で、【史料A】の「駿州」=貞直とする『金沢文庫古文書』の見解が正しいと判断される。すなわち、系図には見られないが、貞直には高政という息子がいたことになる

上の記事で貞直の生年を1290年頃と推定したが、これに従い親子の年齢差を考慮すれば、高政の生年は早くとも1310年頃となる。この場合【史料A】当時20歳(数え年)位となり、北条氏一門で何かしらの官職に就く話が出る年齢としては相応であろう。

元服は通常10代前半で行われたから、「」の名は1326年までに14代執権・北条を烏帽子親とし、その偏諱を受けたものと判断される。大仏流北条氏では宣時の長男・宗宣の系統(宣―(維貞) )が嫡流として代々得宗家と烏帽子親子関係を結んでいたが、次男・宗泰の系統(泰―)も準嫡流として同様に一字を拝領していたのであろう。父・貞直は大仏朝直(宣時の父)の1字を用いたが、高政の「政」は更に遡った先祖・北条時政から取ったものと見受けられる*13。また「五郎」の輩行名は実際に5男だったわけではなく、貞直の嫡男として、宣時・宗宣父子が名乗った仮名を称したものであろう。

 

先行研究でも貞直の子としてあまり浸透していないためか、関連する史料が残されていないこともあって大仏高政の動向は不明である。但し、父・貞直は1333年5月22日の鎌倉幕府滅亡東勝寺合戦時に戦死、同日には高時以下一門も自害しており*14、その「佐介の人々」または「門葉たる人二百八十三人」の中に高政も含まれていたのではないかと思われる。『系図纂要』には貞直の子として大仏顕秀の記載があり、恐らくは15代執権・貞顕の偏諱を受けた高政の弟と思われるが、同じく幕府滅亡時に戦死したと伝わる。

 

脚注

*1:『鎌倉遺文』第39巻30702号。『金沢文庫古文書』688号(武将編P.126 391号)。

*2:「未」は漢文における再読文字で「いまだ~(せ)ず」(→ 高等学校古文/漢文の読み方/再読文字 - Wikibooks)。「申候」は「申します」、「候哉」は「…でしょうか/…するであろうか」の意(→ 古文書の勉強候の用例辞典 - 古文書ネット)。

*3:他にも 北条高政 (顕実の子) - Enpedia(典拠は北条氏研究会 『北条氏系譜人名辞典』 〈新人物往来社、2001年〉P.206)でもこの説を採用するが、本項ではこれを否定する。

*4:永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)P.118。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その53-伊具斎時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。典拠は『尊卑分脈』および 『常楽記』嘉暦4(1329)年9月3日条「伊具駿河入道他界六十八」。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その59-甘縄顕実 | 日本中世史を楽しむ♪ より。典拠は『常楽記』嘉暦2(1327)年3月26日条「甘縄駿河入道殿他界五十五俗名顕実」。

*7:元徳2年カ)2月22日付書状(『鎌倉遺文』第39巻30917号)。

*8:元徳2年2月26日のものとされる書状(『鎌倉遺文』第39巻30930号)。

*9:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.375。

*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その34-常葉範貞 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*11:駿河国 - Wikipedia  #駿河守 参照。

*12:田中稔「根津美術館所蔵 諸宗雑抄紙背文書(抄)」(所収:『奈良国立文化財研究所年報』1974年号、奈良国立文化財研究所)P.8。

*13:大仏流の近親者では、貞直の弟(高政の叔父)・大仏宣政や、貞房の末子・大仏貞政(『分脈』、貞直の従兄弟)がこの字を用いている。

*14:「太平記」巻10 高時並一門以下於東勝寺自害の事(その3) : Santa Lab's Blog