Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

【論稿】大光寺合戦における工藤氏一族について

 

安達高景の "亡命" 説

【史料1】『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」より一部抜粋

(前略:長崎高重→摂津道準(親鑑)→諏訪直性(宗経)→長崎円喜・長崎新右衛門(高直カ)→相模入道北条高時→安達時顕(延明)の順に切腹)……是を見て、堂上に座を列たる一門・他家の人々、雪の如くなる膚を、推膚脱々々々、腹を切人もあり、自頭を掻落す人もあり、思々の最期の体、殊に由々敷ぞみへたりし。其外の人々には、金沢太夫入道崇顕・佐介近江前司宗直・甘名宇駿河守宗顕・子息駿河左近太夫将監時顕・小町中務太輔朝実〔ママ〕常葉駿河守範貞……城加賀前司師顕〔ママ〕・秋田城介師時〔ママ〕・城越前守有時〔ママ〕……城介高量〔ママ〕同式部大夫顕高同美濃守高茂秋田城介入道延明……、我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。…………嗚呼此日何なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。

こちらの史料は、鎌倉幕府滅亡時の東勝寺合戦(1333年)の際、得宗北条高時(相模入道崇鑑)に殉じて自害した人物を載せたものである。この『太平記』は元々軍記物語ではあるが、『尊卑分脈』と照らし合わせると、時顕法名:延明)・顕高など他の人物での官職に概ね一致しており、ある程度史実が反映されているものと認められる。

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細川重男のまとめでは、延明や顕高らと共に自害する「城介高量」は字の類似からしても(安達)の誤記の可能性が高いとする一方、『元弘日記裏書』建武元(1334)年11月条には「高景」なる人物が、名越流北条氏と思われる「時如(ときゆき)*1とともに津軽糠部郡持寄城に挙兵したという記述があることを紹介されており*2、『関城繹史』(『常陸史料』所収)や『大日本史料』など*3では安達氏(安達高景)とするが、筆者はこれを誤りと推測する

確かに安達氏は秋田城介を世襲し、元々陸奥国安達郡の豪族ではあった*4が、鎌倉時代以降の秋田城介は武家の名誉称号となって空職化していたといい*5、実際に安達氏が東北地方陸奥・出羽など)で活動していたという記録も見当たらない。従って『元弘日記裏書』で単に「高景」とだけ記される人物が安達氏である確証はなく、義兄の北条高時や父・弟と運命を共にせず、ただ一人津軽に落ち延びたというのもやや不自然に感じる。

では、幕府滅亡後の反乱に参加したこの「高景」は誰であろうか。

 

 

工藤高景と陸奥国糠部郡における一族の反乱

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(*http://kannoeizan.blog111.fc2.com/blog-entry-785.html より拝借)

 

結論から言えば、『元弘日記裏書』建武元年11月条における「高景」は、同じく時の偏諱を受けた工藤に比定し得ると思う。『奥南落穂集』によれば工藤行光の長男・長光が建久年間に陸奥国岩手郡栗屋河(厨川)に下向し、これに同行した行光の弟・三郎祐光の子孫が同国糠部郡に分住したのだという*6。実際、建武元年4月晦日付「源貞綱(多田杢助貞綱)書状」(『南部文書』)を見ると、南部又次郎師行戸貫出羽前司河村又次郎入道の3人に宛がわれた糠部郡の闕所のうち一戸と八戸が工藤氏の旧領であったことが確認でき*7同年12月14日付の書状(『南部文書』)にある津軽での反乱で捕虜となった者の交名(リスト)に工藤姓の人物が多数見られる*8ことからも、工藤氏の一族が得宗被官(御内人)として*9この地域に勢力を張っていたことが窺える。

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▲【図2】今野慶信作成による得宗被官・工藤氏の略系図*10

 

前述の三郎祐光は「すけみつ」という音の共通から、「南家 伊東氏藤原姓大系図*11での行光の弟・資光、および『吾妻鏡』での三郎助光に比定され*12、その子孫「光長〔光泰―光頼〔頼光―宗光(工藤右近将監)―貞光(新右近)」は代々得宗偏諱を受けてその被官として続いた*13建武元年7月29日には「糠部郡七戸内 工藤右近将監(=貞光」が伊達行朝に宛がわれており*14、この家系もそれ以前に糠部郡内を領していたことが窺える。

 

●【表3】『楠木合戦注文』に基づく幕府軍の構成メンバー表

河内道(大手) 大将軍 遠江弾正少弼治時
軍奉行 長崎四郎左衛門尉高貞
大和路 大将軍 陸奥右馬助
軍奉行 工藤次郎右衛門尉高景
大番衆 新田一族 里見一族 豊島一族 平賀武蔵二郎跡
飽間一族 園田淡入道跡 綿貫三郎入道跡
沼田新別当跡 伴田左衛門入道跡 白井太郎
神澤一族 綿貫二郎左衛門入道跡 藤田一族
武二郎太郎跡
紀伊 大将軍 名越遠江入道
軍奉行 安東藤内左衛門入道円光
大番衆 佐貫一族 江戸一族 大胡一族 高山一族
足利蔵人二郎跡 山名伊豆入道跡 寺尾入道跡
和田五郎跡 山上太郎跡 一宮検校跡
嘉賀二郎太郎跡 伊野一族 岡本介跡 重原一族
小串入道跡 連一族 小野里兵衛尉跡 多桐宗次跡
瀬下太郎跡 高田庄司跡 伊南一族 荒巻二郎跡

(*表は http://chibasi.net/soryo14.htm より拝借)

そして、工藤高景は【表3】にあるように『楠木合戦注文』に通称「次郎右衛門尉」と書かれている*15ので、「高光―時光二郎右衛門入道、法名杲暁〕貞祐二郎右衛門と続いた資光(助光/祐光)の弟・重光の家系の出身、すなわち貞祐の嫡男ではないかと推測されている*16工藤杲暁(こうぎょう)貞祐(さだすけ)父子は得宗被官として若狭守護代を務め「若狭国今富名領主次第」「若狭国守護職次第」、杲暁は得宗公文所執事にも抜擢され、貞祐も1331年まで「多田院造営惣奉行」を務めるなど様々な活動を行っていたことが確認できる*17のだが、元弘の乱における動向が不明なのである。

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【史料1】での高時に殉死者に工藤氏の掲載はないが、幕府滅亡後には工藤氏の者が処刑されたことを伝える史料が残る。『近江国番場宿蓮華寺過去帳』(『群書類従』巻514所収)には建武元年12月4日に「公藤二郎」と「同次郎右衛門尉五十二歳」が六条河原で斬首されたとする記述が見られるが、「公藤」が「くどう」と読める(例:家(げ)など)ことから、この2名は工藤氏と考えられ、通称名の一致と世代から、貞祐・高景の可能性がある。また、『鶴岡社務記録』文和2(1352)年5月20日条には「相模次郎(=北条時行)」と共に「工藤次郎」が処刑された旨の記述があり*18、この者は高景の次世代であったと推測されている*19

 

これらの考察を踏まえると、工藤氏の中でも惣領のような立場にあった工藤高景が、津軽での反乱に全く無関係であったとは思えない。すなわち、建武元年11月の反乱(いわゆる大光寺合戦)は、高景を中心とした工藤氏一族が、本拠地である津軽糠部郡に結集し、主家・北条氏一族の生き残りである名越時如を大将に迎えて起こしたものだったのである。 

ja.wikipedia.org

 

 <まとめ>建武元(1334)年 陸奥工藤氏の反乱

  • 2月晦日:留守彦二郎(余目家任)が「二迫栗原郷栗原並竹子沢内工藤右近入道(宗光)」の知行を命じられる*20
  • 4月晦日陸奥国糠部郡一戸の工藤四郎左衛門入道跡、同子息左衛門次郎(義村)跡、および同郡八戸の工藤三郎兵衛尉跡が闕所地とされる。
  • 7月29日:「工藤右近将監(工藤貞光)」の旧領であった糠部郡七戸が闕所地とされる。
  • 11月19日:「津軽凶徒(名越)時如、(工藤)高景」以下の反乱を鎮圧。工藤左近二郎*21の子である孫二郎義継孫三郎祐継兄弟以下、工藤氏一族の多くが捕虜となる。
  • 12月4日:「公藤二郎(工藤高景?)」と「同次郎右衛門尉(工藤貞祐?)」が六条河原にて斬首。

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.369に掲載の『前田本平氏系図』によれば、系譜は「義時―朝時―時章―篤時―秀時―時如」。「掃部助」と注記される。

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その90-安達高景 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)。

*3:『大日本史料』6-2 P.135安達高景 - Wikipedia #備考 を参照。

*4:安達氏(あだちうじ)とは - コトバンク 参照。

*5:秋田城介(アキタジョウノスケ)とは - コトバンク 参照。

*6:『奥南落穂集』「岩手郡之次第」(「近世こもんじょ館」HP)、奥州工藤氏 - Wikipedia #厨川工藤氏 参照。

*7:『大日本史料』6-1 P.522

*8:『大日本史料』6-2 P.135~139

*9:鎌倉時代には北条氏が糠部郡の地頭を務め、一戸~九戸の各戸に家臣を地頭代として配置していたという。糠部(ぬかのぶ)とは - コトバンク を参照のこと。

*10:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.115。

*11:翻刻は、前注今野氏論文 P.130~135のほか、飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』三輯、1977年)や『伊東市史 史料編 古代・中世』(2006年)にも収録。

*12:注10前掲今野氏論文 P.112。

*13:注10前掲今野氏論文 P.113。

*14:前注同箇所 および 『大日本史料』6-1 P.657

*15:正慶乱離志 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照。

*16:注10前掲今野氏論文 P.114。

*17:前注同箇所。

*18:『鶴岡社務記録』 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。

*19:注10前掲今野氏論文 P.114。

*20:笠原信男「栗原郡における中世の修験 ー羽黒先達及び熊野先達ー」(所収:『東北歴史博物館研究紀要』、東北歴史博物館、2010年)P.54。『鎌倉遺文』第42巻32855号。注10前掲今野氏論文 P.113。

*21:徳治2(1307)年5月付「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『鎌倉遺文』第30巻22978号)にある七番衆の一人「工藤左近将監」の子か。