葦名盛宗
葦名 盛宗(あしな もりむね、1259年?~没年不詳(※諸説あり))は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人。葦名泰盛の嫡男。蘆名盛宗、芦名盛宗とも表記される。子に葦名時盛、葦名盛貞。
生没年については諸説伝えられる。
●【史料1】『葦名系図』『葦名系図并添状 全』(『東大謄写』)
「葦名三郎左衛門尉。従五位下。遠江守。関東引付評定衆。徳治二年九月十五日卒。四十九歳。法名道真」*1
=1307年49歳(数え年、以下同様)で死去 → 逆算すると1259年生まれ。
●【史料2】『会津四家合全』「黒川小田山城主佐原十郎義連家系之事」所収 葦名家系図*2より
葦名遠江守盛宗(泰盛男)
文永八年辛未五月四日生、弘安九年丙戌十六歳家督継、暦応元年戊寅八月九日六十八歳死、勇健院殿一夢法性大居士と号、興徳寺薨
=1338年68歳で逝去 → 逆算すると文永8(1271)年生まれ*3。
葦名遠江守盛員(盛宗男)
永仁四(1296)年丙申八月十二日生、文保二(1318)年戊午二十三家督継、建武二年乙亥八月十七日相州片瀬川合戦に討死す時四十歳、正傳庵月浦道円と号、但祠堂会津興徳寺の裏に在り
まず、【史料2】の場合、弘安9(1286)年に家督を継承したということも考えると、10代前半に既に元服していたと考えて良く、北条時宗の執権在任期間(1268~1284年)*4内に行われたことが確実となる。
一方【史料1】の場合でも、6代将軍・宗尊親王が解任および京都に送還される文永3(1266)年*5(当時8歳となる)までの元服とは考え難い。
よって「盛宗」の名は、葦名氏代々の通字「盛」に対し、「宗」は8代執権・北条時宗の偏諱を許されたものと見て良いだろう。弘安7(1284)年4月までに時宗を烏帽子親として元服したものと判断される。
以下、葦名盛宗に関するものとされる史料等を紹介しておきたい。
▲【図3】『蒙古襲来絵詞』に描かれる「あしなのはんくわん(葦名判官)」
この絵は、文永の役を経た翌年の建治元(1275)年頃、幕府御恩奉行・安達泰盛の甘縄邸において竹崎季長が庭中*6を行っている際に、居間には芦名判官らがいて「秋田城介殿の侍、諸人出仕の躰(=体)」との注記がある*7。この「芦名判官(葦名判官)」が盛宗と考えられている。律令制における四等官の第三位である判官(じょう=尉)の職を帯びる者の通称である「判官 (はんがん/ほうがん)」*8を名乗っていることから、この当時既に左衛門尉に任官済みであったことになり、「芦名判官」=盛宗というのが正しければ生年が【史料1】の可能性が高くなる。尚、泰盛に近侍した人物として弟の葦名泰親(四郎左衛門尉)も登場する。
また、会津大鎮守六社のひとつで、福島県会津若松市に鎮座する諏方(すわ)神社の鉄製注連(しめ、福島県指定重要文化財)に「永仁二年」の銘記があり、1294年に当時の黒川城主であった盛宗が信州諏訪神社に戦勝祈願をしたところ、戦わずに勝利したことから信州よりご神体を迎え、城下に奉ったのが始まりと伝えられている*9。
更に、元弘元(1331)年に「葦名遠江守盛宗」が会津の耶麻郡綾金村に観音堂を建立したとも伝える史料も存在しており*10、没年が【史料2】の可能性が高くなる。
【史料1】の「関東引付評定衆」であった史実は今のところ確認できないが、これらだけを見ても、北条時宗・貞時治世期から葦名氏当主として活動期に入っていたとみて良いだろう。
脚注
*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末P.127-④。
*2:http://aizufudoki.sakura.ne.jp/yamanouchi/yamanouchi9-1.htm。
*3:『葦名家御由緒』でも同年の生まれとする。会津資料叢書. 第6 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。
*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*5:宗尊親王(むねたかしんのう)とは - コトバンク より。
*6:簡潔に言えば訴訟(提訴)のこと。詳細は庭中 - Wikipediaや庭中(テイチュウ)とは - コトバンクなどを参照のこと。
*7:池田勝宣「電子書籍 『絵詞』と元寇の考察 蒙古襲来考」(2017年)P.16~17。霜月騒動・安達泰盛|鎌倉の石塔・その周辺の風景(R)。
*8:判官 - Wikipedia より。
*9:会津大鎮守・諏方神社 - 【会津物語】、会津若松観光ビューロー|鶴ヶ城 会津若松城 御薬園 松平家廟所| 悠久の時を超え、幕末の天守閣が今よみがえる より。