Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

【論稿】代数論:世代推定の試み① ー桓武平氏嫡流から北条・長崎氏までー

 

はじめに

元弘3(1333)年5月、鎌倉幕府滅亡直前のこと。「始武蔵野の合戦より、今日に至るまで、夜昼八十余箇度の戦」(『太平記』巻10「長崎高重最期合戦事」)を戦い抜いた長崎次郎高重は、敵方である新田義貞の軍勢に紛れて大将・義貞の首を取ろうとするが、やがて義貞の側近である由良新左衛門(具滋)に見破られ、次のように名乗りを挙げている。

桓武第五の皇子葛原親王に三代の孫、平将軍貞盛より十三代、前相摸守高時の管領に、長崎入道円喜が嫡孫、次郎高重、武恩を報ぜんため討死するぞ、高名せんと思はん者は、よれや組ん。」

(『太平記』巻10「長崎高重最期合戦事」より)

この中で「貞盛より十三代」の部分について、先行研究では(修飾語として)【A】北条高時*1にかかるのか、【B】長崎円喜にかかるのかで意見が分かれている。

というのも、前者【A】であれば主君である高時の系譜を語っていることになり、後者【B】であれば高重自身に至るまでの系譜を語っていることになり、長崎氏の平資盛後胤説(『系図纂要』)の裏付けに重要な典拠となり得るからである。

【A】説支持:細川重男(2000年*2)、梶川貴子(2018年*3

【B】説支持:森幸夫(2008年*4

 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

こちら▲の記事でも言及の通り、結論から言えば、「貞盛より十三代」目の人物=「長崎入道円喜」とする【B】が正確である。『尊卑分脈』や『系図纂要』により系図を作成すると次の通りである。 

【図A】

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※長崎氏については途中「⑩盛綱―⑪盛時―⑫光綱……」が正確とされる(詳細は後述参照)が代数に変化は生じない。

 

平貞盛から数えて長崎円喜は13代目であるが、北条高時は16代目となっている。親子には20~30ほどといった、それ相応の年齢差がある筈であり、例えば従兄弟やはとこの関係にある者同士が多くそうであるように、同じ代数の者同士はほぼ同世代とみなすのが普通だと思う。勿論、必ずしもそうとは言い切れないが、どんなに年齢がずれたとしても1世代分が限界ではないか。

すなわち筆者が最初に述べておきたいのは、貞盛から高時までが13代では足りないだろうということである。よって次節以降では、生没年が不明となっている初期の桓武平氏嫡流当主を中心に世代の推定を試みたいと思う

 

 

高望とその息子たち

まず、平高望(初め高望王については、桓武天皇の皇子・葛原親王(786-853)の子とも孫ともされ、その生年も諸説伝わる。『分脈』等では間に高見王を挟むが、系図類によるとその生年は810~820年代であったという。仮に高望が高見の子であれば、830~840年代以降の生まれと考えるのが筋であり、『千馬家系図』に基づく嘉承3(850)年が妥当となる。異説はこれより遡るため、平姓を賜って臣籍降下したのが寛平元(889)年であることからしても、高望の生年が850年より何十年も下ることは無いだろう

高望には多くの男子があり、皆その生年は不明であるが、僅かに『千葉大系図』には平良文が仁和2(886)年生まれとの記載があり、高望の生年が850年頃であれば、親子の年齢差として妥当なものと言えよう。

また、良文の次兄・平良将についても、外祖父とされる藤原良方の生年が805~812年と推定し得る*5から、早くとも844~866年の生まれであろう。諸説あるが、良将の子・平将門の生年は884~903年の間に収まっており、親子の年齢差の点で差し支えない。

従って高望は850年頃の生まれ、その息子たちは870~890年代の生まれとみなして良いかと思う*6

 

 

貞盛から忠盛に至るまで

今度は、生年が判明している平清盛(1118-)の父・忠盛(1096-)から遡って推定を試みたい。各親子間での年齢差を忠盛―清盛間での22として遡ると、正盛(1074-)、正衡(1052-)、正度(1030-)、維衡(1008-)となるが、平維衡に関しては998年の段階で下野守在任が確認できるといい、その生年はもっと遡っても良い。

ここで『分脈』を見ると、正衡の兄・平季衡(すえひら)が永保元(1081)年に60歳(数え年、以下同様)で亡くなった旨の記載があり*7、逆算すると1022年生まれとなるから、恐らく正度とその末子・正衡の間でかなりの年齢差があったのではないか。同じく『分脈』に従えば季衡の兄に維盛貞季がいたといい、貞季も長和4(1015)年生まれとされる*8から、父である正度の生年は1000年より前になるだろう。更に、正度の弟・平正済は長和元(1012)年、正六位で玄蕃権助に任じられたというから、遅くとも990年頃には生まれていたと考えるのが妥当だと思う。よって正度・正済兄弟の生年は980年代~990年頃に推定し得る

仮に980年代に彼らの父・維衡が20代以上であったとすれば、その約10年後、30代以上で下野守在任であったことになり、維衡の生年は960年以前に推定される。維衡は『小右記』長元4(1031)年9月20日条、維衡の子・平正輔安房守、正度・正済の兄弟にあたる)との争いについての罪名勘申の記録を最後に途絶えるまで存命であったと推測され*9、『分脈』に記載の享年85才*10により逆算すると947年生まれとなるから、多少誤差があったとしてもこの頃の生まれだったのではないか。

すると維衡の父・平貞盛の生年は920年代半ばより前となる。『分脈』では維叙維将維敏が維衡の兄として書かれているから(他系図によって異説あり)、更に遡って良いだろう。貞盛も従兄弟にあたる将門とほぼ同世代、或いはそれより年長であったと考えられる

以上の考察により、伊勢平氏歴代当主の生年 および 親子間の年齢差を次のように推定する。

高望(850-)―(20)―国香(良望)(870-)―(30)―貞盛(900-)―(47)―維衡(947-)―(43)―正度(990-)―(40)―正衡(1030-)*11―(30)―正盛(1060-)*12―(36)―忠盛(1096-)―(22)―清盛(1118-)

但し、本項では『尊卑分脈平氏系図を中心に取り上げたため、『桓武平氏諸流系図』など他の系図に掲載の人名や、僅かに残る史料から官途やその任官年齢について更なる考察を加えることで修正し得ると思う。これについては改めて再考証の機会を考えたい。

 

 

貞盛から北条高時に至るまで

北条氏について、時政から高時までの親子の年齢差を調べると、時政―(25)―義時―(20)―泰時―(20)―時氏―(24)―時頼―(24)―時宗―(21)―貞時―(32)―高時となる。

高時の場合は、覚久(長崎光綱の養子として僧籍へ)*13菊寿丸(早世)に次ぐ貞時の3男だったようなので年齢差が開いているが、それまでは等しく20数歳で次代をもうけていることが窺えよう。時政~貞時までの平均値は22.3…才で、8代で166年かけていることも分かる。

前述の伊勢平氏に比べると、時代が下るにつれて年齢差が若干縮まってはいるが、それでも親子間の年齢差は概ね20~30代に収まっている。貞盛を900年頃の生まれとすれば、1138年生まれの時政*14に至るまで約240年経ていることになるが、年齢差を20とすれば12代、30とすれば8代、40としても6代は必要であり、貞盛から高時までが13代(5代+8代)ではどう考えても代数が足りないと判断できよう

*もう一人、平直方(官途は上野介)に着目すると、『分脈』では貞盛の曽孫とされるから、各親子間の年齢差を20とした場合で早くとも960年頃の生まれと推測できる。同じく『分脈』を見ると、直方の娘に「源頼義朝臣室」がおり*15、この女性は頼義の子、源義家・義綱・義光3兄弟の母親であったという*16。同系図などで義家が1039年、義光が1045年生まれ(義綱も間の1042年頃の生まれ)と判明しているから、外祖父の直方は遅くとも999年頃には生まれていた筈である。よって直方の生年は960~990年代の間に推定され、ここまで4代を経ている。もし高時が平貞盛から13代目なのであれば、直方の生年から時政の生まれた1138年までの約250~280年を1代で埋めなければならないが、絶対に不可能である。

ちなみに、源頼朝北条政子が結婚したことは周知の通りと思うが、共に直方の子孫という運命的な出会いを果たしていた。下図に示す通り、『分脈』に従えばともに父同士(義朝と時政)が直方6世の孫、頼朝と政子は7世孫と代数が一致する。北条氏の側が若干10年ほど年少なのは、恐らく頼義正室が聖範の姉だったからとかの理由によるものであろう。『分脈』自体も時家に「聖範子云々」と記す*17など、時政以前の系譜については判然としないが、代数そのものは『分脈』通りで良いのではないかと思う。聖範から時方までの各々の生年は、例えば平時直と源義家のように、代数が同じで対応する源氏とほぼ同世代人とみなして良いだろう。

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よって、主君である高時の系譜を語っているという冒頭の【A】説は否定されるべきであろう。そもそも、素性がバレて堂々と自己紹介をすべき場面において、主君の系譜を語るというのは不可解と言わざるを得ない*18

 

 

貞盛から長崎円喜に至るまで

前節で結論づけたように、代数の観点から、『太平記』での「平将軍貞盛より十三代」=「前相摸守高時」になり得ないことは明白である。とは言え、「平将軍貞盛より十三代」=「長崎入道円喜」が成立しなければ意味がない。よって本節では、貞盛から平資盛を経て円喜に至るまでが13代で問題ないか考察してみたいと思う。

 

平清盛に至るまでは既に述べた通りであり、その後も

清盛(1118-)―(20)―重盛(1138-)―(23)―資盛(1161-)

までは判明している。但し、資盛の子については次の2つの説で分かれている。

尊卑分脈*19:資盛―盛綱 長崎流

系図纂要*20:資盛―盛国―国房―盛綱

 

盛綱を長崎流の祖とする点ではどちらも一致しているが、子とするか曽孫とするかで異なっている。『系図纂要』での記載から察するに、この盛綱というのは『吾妻鏡』において3代執権・北条泰時の頃からの家司・家令として仕えた平盛綱(後掲【表B】参照)を指すと考えて良いだろう。

ここで、北条義時(1163-)*21が資盛とほぼ同世代人であることに着目しておきたい。平貞盛からの代数を見ても、義時は10代目、資盛は9代目にあたり、ほぼ変わらない(ずれの原因は、前述の通り途中で親子の年齢差が離れていたためである)。よって名前が「盛綱」か「盛国」かに関わらず、資盛の子は泰時(1183-)*22とほぼ同世代人であったと考えられる。資盛の晩年期(1181~1185年)には生まれていた筈だからである。

もし平盛綱が資盛の子・盛国の孫であったならば、同じく親子の年齢差を考慮して、その生年は承久3(1221)年頃より後にならなければおかしい。ところが次の表にあるように、盛綱『吾妻鏡』同年5月22日条の段階で「平三郎兵衛尉(兵衛尉任官済み、次いで元仁元(1224)年2月23日条に「平三郎兵衛尉盛綱」とあり)」として現れており、更には安貞2(1228)年10月15日条より息子の盛時が「平左衛門(尉)三郎盛時」として登場している。

【表B】

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従って、長崎流の祖・平盛綱は、資盛の曽孫ではなく、息子とすべきである*23。資盛子息の生まれた時期から約84年後に曽孫(盛綱―盛時―頼綱―資宗)飯沼資宗(1267-)が生まれており、平均的な親子の年齢差は 84÷3=28 と妥当な数値で算出されるので、この点からも裏付けられよう。

そして、『系図纂要』での系譜「盛綱―光盛―光綱―高綱(円喜)」に従えば、【図A】に示したように円喜は「平将軍貞盛より十三代」となる。『保暦間記』には「長崎入道円喜ト申ハ、正応ニ打タレシ平左衛門入道(=頼綱入道杲円カ甥 光綱子、」とあり、父・長崎光綱は実は平頼綱の弟(盛時の子)であった可能性があるが、【図A】で示した通り代数に変化は生じない。

 

前述したように、北条義時平資盛はほぼ同世代であるから、義時から5代目の北条時宗と、資盛から5代目の円喜も世代的に近い関係にあったと考えて問題ないと思う。近年の研究により円喜の俗名は「盛」であったとされ*24、時からの偏諱を受けたものと考えられる。同じく時宗の1字を受けたとされる*25とほぼ同世代であったとする細川重男の説*26もこの観点から補強されよう。 

 

脚注

*1:高時は文保元(1317)年より第14代執権として相模守、嘉暦元(1326)年に出家してからの後任は第16代執権・赤橋守時新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪同 その30-赤橋守時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)参照。

*2:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.140~141。

*3:梶川貴子「得宗被官平氏の系譜 ― 盛綱から頼綱まで ―(所収:『東洋哲学研究所紀要』第34号、東洋哲学研究所編、2018年)P.118。

*4:森幸夫「得宗被官平氏に関する二、三の考察」(所収:北条氏研究会編『北条時宗の時代』、2008 年)P.438。

*5:良方の次兄・良房が804年、弟・良相が813年の生まれとされ、父・冬嗣が亡くなる826年までには生まれていた筈である。

*6:ちなみに高望の没年についても諸説あるが、延喜年間(延喜11(911)年頃)に亡くなったとする点では一致しており、高望の子女はそれ以前には生まれていた筈である。

*7:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 11 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*8:桓武平氏諸流系図』平貞季の注記に「長和〔ママ〕三年卒 年九十」とあり、「長和」は「長治」の誤記とされる。伊勢平氏 #平正度(千葉氏の一族HP内)参照。

*9:9月20日条の文中に「雖衡〔ママ〕身為四品住伊勢之所致也」とある部分が、漢字の偏の誤記または誤写・誤読で「維衡」と読み得る。尚、平正輔については同じく『小右記』の治安3(1023)年11月23日条の文中に「常陸介維衡息正輔朝臣」とあるのが確認できる。

*10:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 11 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*11:正衡の活動については 伊勢平氏 #平正衡(千葉氏の一族HP内)を参照のこと。

*12:忠盛―清盛の名は、源義忠―義清が烏帽子親となって偏諱を与えたものとされ、義忠に関しては正盛の娘を妻に迎えていたという。従って岳父―娘婿の関係となる「正盛―義忠」には親子ほどの年齢差があったと考えるのが妥当かと思うので、正盛は1060年代の生まれと推定する。正盛の活動については 伊勢平氏 #平正盛(千葉氏の一族HP内)を参照のこと。

*13:注2前掲細川氏著書 P.135。

*14:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その1-北条時政 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*15:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 11 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*16:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*17:注15同箇所。

*18:注2同箇所にて細川氏は「武士は自分の家系や先祖の武勲を叫ぶもの(だが、高重は主君高時の系譜を長々と語り、自分の家系については当時存命の祖父高綱にしか触れていない) 」と説かれているが、まさにこの通りではなかろうか。武士たる高重とてその例外ではなかったはずである。高資―高重父子の名乗りは「重盛―資盛」を遡ったものと考えられ、平頼綱の子・飯沼資宗も「資」字を用いるなど、(実際の真偽にかかわらず)長崎流平氏・長崎氏には「平資盛の末裔である」という認識があったと見受けられる。

*19:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 11 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。

*20:この系図については 【論稿】『系図纂要』長崎氏系図について - Henkipedia を参照。

*21:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その2-北条義時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*22:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*23:盛綱の孫・平頼綱について『保暦間記』に「平左衛門尉頼綱 不知先祖法名果円〔ママ、杲円〕」と記される(→ 平頼綱 - Henkipedia【史料】を参照)ように、盛綱が実際に平資盛の子であったかは疑わしいが、注17でも述べたように、高重も含めた長崎氏自身にはその末裔であるという認識があったことは確かである。

*24:細川重男『鎌倉幕府の滅亡』(吉川弘文館、2011年)P.73同「御内人諏訪直性・長崎円喜の俗名について」(所収:『信濃』第64巻12号〈通算755号〉、信濃史学会、2012年)。典拠は『小笠原礼書』所収「鳥ノ餅ノ日記」徳治2(1307)年7月12日条「長崎左衛門尉盛宗」。

*25:注3前掲梶川氏論文 P.115。

*26:注2前掲細川氏著書 P.167。