Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

【論稿】代数論:世代推定の試み② ー藤原南家・工藤氏一族ー

 

まずは藤原氏の始祖・藤原鎌足から工藤氏一門(他に伊東氏・二階堂氏など)に至るまでの略系図を掲げておきたい。

 

f:id:historyjapan_henki961:20200716014735p:plain

▲【図A】藤原南家・工藤氏略系図*1

 

弟河から為憲まで

鎌足から雄友までの生没年は判明しているが、その子・弟河(弟川とも)以降のそれは不明となっている。しかし、雄友までがほぼそうであるように、現実的に考えても親子間で20~27くらいの年齢差がある筈であるから、その世代を推定することは決して不可能ではない。

例えば藤原弟河であれば、生年は早くとも773年頃の筈であり、父・雄友の死から2年後にあたる弘仁4(813)年の段階で従五位下に叙爵して伊勢介に任ぜられたという『六国史』の記載とも矛盾はない。

弟河の子・高扶793~800年頃の生まれとすれば、『尊卑分脈(以下『分脈』と略記)により天長元(824)年生まれと分かっている息子・有蔭*2との年齢差で辻褄が合う。『続日本後紀』によれば高扶は天長10(833)年に従五位下、承和4(837)年に従五位上となっており、その長男(有蔭の長兄)にあたる有年も『六国史』によればその20年ほど後に地方官を歴任したようなので*3、次男・藤原清夏(有年の弟、有蔭の兄)諸共、820年前後生まれの世代であろう。

 

そして、清夏の孫・藤原為憲(工藤為憲)の生年は早くとも860年頃と推測可能であるが、『分脈』によると為憲の母親は平高望の娘であったという。為憲は従兄弟(高望の孫)にあたる平貞盛と共に、同じく従兄弟の平将門の乱を鎮圧し、その功によって「木助」となって“藤”を称したことでも知られ、年代的にも問題ないだろう。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

母方の桓武平氏についてはこちら▲の記事にて考証したが、高望(850-)、国香(良望)(870-)、貞盛(900-) くらいとするのが妥当という結論に達した。よって、国香らの姉また妹にあたる高望の娘も870~890年代くらいの生まれであったと思われ、その息子である藤原為憲の生年は890~910年頃に推定される。天慶2(939)年頃には為憲が将門との抗争に敗れたというので、遅くとも900年代初頭には生まれていたと考えて良いだろう。

 

 

為憲からその子孫に至るまで

『分脈』にも書かれている通り、為憲の子孫はその後、工藤氏や二階堂氏など多くの氏族に分かれて繁栄したことが窺える。そして源頼朝治世期に活動が見られる人物については一部生年が判明している。本節では為憲からその人物に至るまでの年数と代数の整合性について考証してみたい。

まずは、鎌倉時代初期に幕府の政所執事を務めた二階堂行光(1164-1219)を取り上げたい。この行光については『吾妻鏡』承久元(1219)年9月8日条に56歳で亡くなった旨の記事があり*4、その生年が長寛2(1164)年と分かる。

【図A】にもある通り、『分脈』上では、行光は為憲9世の孫にあたるので、為憲の生年を仮に900年とすると、行光に至るまで1164-900=264年経ていることになり、各親子間での平均的な年齢差は 264÷8=33 となるが、次に紹介する工藤祐経・伊東祐時父子の年齢差に等しく、十分妥当な数値と言えるだろう。

 

次に、工藤祐経(1152?-1193)伊東祐時(1185-1252)父子と比較する。

「南家 伊東氏藤原姓大系図*5(以下「大系図」と略記)を見ると、祐経は15歳となった仁安元(1166)年に平重盛(1138-1179)を烏帽子親として元服し、建久4(1193)年5月28日に曾我祐成時致兄弟に討たれた*6際、42歳であったという。いずれからも逆算すると仁平2(1152)年生まれとなる。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

一方、祐時については「大系図」での注記より一部抜粋すると、童名(幼名)が犬房丸、将軍・源頼朝(在職:1192~99)を烏帽子親として元服したこと、建長4(1252)年6月17日に68歳で亡くなったことが記載されており*7、逆算すると文治元(1185)年生まれと分かる。『吾妻鏡』と照合すると、前述の父・祐経逝去の翌日にあたる建久4年5月29日条では、討手・曾我時致の助命の話が出たものの、9歳で元服前の「祐経息童 犬房丸(=祐時)が泣いて訴えたことによって処刑の運びとなったとの記述があり、建長4年6月17日条でも祐時逝去の記事が確認でき、注記の情報を裏付けている。

前述と同じ手法を採ると、為憲からその8世孫である祐経に至るまで1152-900=252年経っており、各親子間での平均的な年齢差は 252÷7=36 と算出される。祐経―祐時父子の年齢差33とほぼ大差ない数値で全く問題ないと思う。

*二階堂行光と伊東祐時はともに為憲9世の孫でありながら親子ほどの年齢差があるが、これは時理の子である時信・維景が年齢の離れた兄弟であったことによるものではないかと思われる。特に時信については『分脈』を見ると、時理の子としながらも「或説時理舎弟云々」と注記されており*8、この頃の名乗り方からすると「時」字を共有する時理・時信は親子ではなく兄弟だったのではないか。恐らく時信は時理と年の離れた弟で、兄の養子または猶子(すなわち時信―維景は叔父―甥で養兄弟)だったものと推測される。

 

 

工藤景光一族の世代推定

最後に得宗被官・工藤氏(奥州工藤氏)の祖となった工藤景光の生年を推定してみたいと思う。正確な生没年は不詳であり、『日本人名大辞典』によると、80歳ごろの建久4(1193)年に富士の巻狩りで大鹿を射損じ、まもなく病没したとされる*9

吾妻鏡』を確認してみると、治承4(1180)年8月25日条から建久4年5月27日条までの19回「工藤庄司景光」等の名で登場し*10、5月27日条というのが、前の富士の巻狩りについての記事で、ちょうど前述の工藤祐経逝去の前日にあたる。同記事の中で、大鹿一頭を射損じた直後の景光自らが「工藤庄司景光は十一歳からずっと狩猟の技を自慢としていました。そして七十余歳*11の今まで弓手の獲物を捕れないことはありませんでした。*12と述べるシーンがあり、1193年当時70数歳であったことが明かされている。ちなみに、この後続いて「それなのに今は、意識がボーっとしてとても的が定まりませんでした。これはきっと、あの鹿は山の神の乗馬であることは疑い有りませんよ。神が乗っている馬を狙ったので私の寿命は縮まってしまうでしょう。後日皆さん、何かあったら思い出してください。*13と発言し、恐らくは半分冗談で言っただけだとは思うが、この日の晩に景光は「発病」してしまい、間もなく亡くなったのか、次いで正治2(1200)年10月21日条では嫡男・工藤小次郎行光の発言の中で「亡父景光」と述べられている*14

従って工藤景光の生没年は1120年頃~1190年代半ば頃であったと推測される。

 

為憲から見ると景光は8世の孫にあたり、その生年同士にはおよそ(1120-900=)220年ほどの開きがある。よって親子の年齢差は 220÷7=約31 となり、これまでに見てきた例とほぼ同様の数値となる。

よって景光の生年は1120年頃で問題ないだろう。同じく為憲8世孫にあたる祐経とは30歳ほど離れるが、途中の親子の年齢差によってずれているだけであり、むしろ同じ代数の者同士の年齢差が1世代分程度のずれに留まっていることこそ注目すべき点であると思われる。

*ちなみに『分脈』を見ると途中、為憲の曽孫で景光の高祖父にあたる工藤景任(かげとう)の注記に「母正度女」とある*15が、『尊卑分脈』〈国史大系本〉索引で見る限りでも、景任母の父親「正度」に該当し得るのは桓武平氏平正度くらいしかいないだろう。前述したように為憲の母も平氏出身だったのだから、再び平氏と婚姻関係を結ぶことは十分にあり得る話だと思う。正度についても前述別稿でその生年を980~990年代と推定しているから、景任がその外孫であるとすると1020~1030年代以後の生まれと推測可能である。前述の年齢差を適用すると景任は900+31×3=993年(以後)の生まれとなるが、為憲から景任に至るまでにもう少し年齢差が開いている親子があったのかもしれない。仮に景任の生年を1030年とした場合でも、景光に至るまでの各親子の平均的な年齢差は90÷4=22.5となり、十分妥当と言える。

 

さて、前述したように正治2年の段階では「小次郎」と呼称されていた行光だったが、「大系図」には「中務丞」と注記されており、今野氏は『吾妻鏡』承久4(1222=貞応元)年正月7日条の「工藤中務次郎長光」を、同系図での中務丞行光の子・工藤長光(ながみつ)に比定されている*16。すなわち1222年の段階で景光の孫・長光元服済みであったことが窺え、その生年は遅くとも1200~1210年頃と推測される。すると景光長光の年齢差は80代以下となるから、祖父―孫の関係として適切な数値と言えよう。

f:id:historyjapan_henki961:20190404025136p:plain

▲【図B】今野慶信作成による得宗被官・工藤氏の略系図*17

 

脚注

*1:武家家伝_奥州工藤氏武家家伝_伊東氏 および 今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.115(=【図B】)により作成。

*2:仁和元(885)年に62歳で卒去したとの記載があり(→ 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション)、逆算すると824年生まれ。

*3:他にも実際の史料として、讃岐介在任中の貞観9(867)年に作成した申文である「讃岐国司解藤原有年申文」が現存している。藤原有年 - Wikipedia より。

*4:吾妻鏡入門第廿四巻九月 より。

*5:飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』第三輯(宮崎県立図書館、1977 年)P.69。

*6:曾我兄弟に討たれたことは『吾妻鏡』同日条にもその記事がある。

*7:注5前掲「大系図」P.70。

*8:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*9:工藤景光(くどう かげみつ)とは - コトバンク より。

*10:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.87~88「景光 工藤」の項 より。

*11:本文中の「七旬」は「70歳」の意(→ 七旬(しちじゅん)とは - コトバンク)、「餘」は「余」の異体字(→ 餘 - ウィクショナリー日本語版)。

*12:現代語訳は 吾妻鏡13巻建久4年5月 より。

*13:前注に同じ。

*14:更にもう1箇所、嘉禎3(1237)年7月19日条にも「工藤景光」が現れるが、これは頼朝時代を回想する形での登場である。

*15:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*16:注1前掲今野氏論文 P.112。注5前掲「大系図」P.67。

*17:注1前掲今野氏論文 P.115 より。