Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

工藤光泰

工藤 光泰(くどう みつやす、生年不詳(1210年代?)~没年不詳(1277年以後?))は、鎌倉時代前期の武士。藤原南家工藤氏より分かれた奥州工藤氏の一族。北条氏得宗家被官である御内人で、鎌倉幕府小侍所所司も務めた。法名道恵(どうけい)か。通称は三郎、右衛門尉(または左衛門尉)

 

 

吾妻鏡』における光泰

工藤光泰については『吾妻鏡』でその実在が確認できる。光泰の登場箇所とされる部分を表にまとめると次の通りである。

 

【表A】『吾妻鏡』における工藤光泰の登場箇所*1

月日 表記
仁治2(1241) 1.5 工藤三郎
寛元2(1244) 1.5 工藤三郎
建長3(1251) 1.8 工藤三郎衛門尉光泰
5.27 工藤三郎衛門尉光泰
建長4(1252) 1.13 工藤三郎衛門尉光泰
4.17 工藤二郎〔ママ〕<>衛門尉光泰
4.24 工藤三郎衛門尉光泰
正嘉元(1257) 9.18 工藤三郎衛門尉光泰
正嘉2(1258) 1.2 工藤三郎衛門尉光泰
文応元(1260) 1.1 工藤三郎衛門尉光泰
1.2 工藤三郎衛門尉光泰
2.2 工藤三郎衛門尉
4.18 工藤三郎衛門尉光泰
7.6 工藤三郎衛門尉光泰
7.7 光泰
7.29 工藤三郎衛門尉光泰
12.29 光泰
弘長元(1261) 1.2 工藤三郎衛門尉光泰
1.4 工藤三郎衛門尉光泰
1.9 工藤三郎衛門尉光泰
7.1 工藤三郎衛門尉
7.13 工藤三郎衛門尉光泰
7.29 光泰
8.13 工藤三郎衛門尉光泰
9.3 工藤三郎衛門尉光泰
9.19 工藤三郎衛門尉光泰
弘長3(1263) 1.11 工藤三郎<>衛門尉光泰
6.28 光泰
11.20 工藤三郎<>衛門尉
文永2(1265) 1.1 工藤三郎衛門尉

鎌倉幕府第5代執権・北条時頼の代にその側近的な役割を担った様子が主な活動内容であり*2、時頼臨終の前日にあたる弘長3年11月20日条にも、最後の看病を許された得宗被官7人中に光泰とみられる「工藤三郎<左>衛門尉」が含まれるなど、得宗被官化していたことが窺える。

所々で衛門尉衛門尉の表記ゆれがあるが、登場回数の多い1260年代初頭で表記が安定している「右衛門尉」の可能性が高いのかもしれない(一般的に「右」よりも「左」の方が上位とされる*3。建長3年の段階で左〔右?〕衛門尉に任官していたことが窺えるから、20~30代以上であったと推測できる。また、任官後14年以上(初出から24年以上)存命であったことを考えると、この当時の平均的な寿命を考慮して、任官当時50~60代以上であったとはあまり考え難いだろう。

仮に40歳としても1210年頃の生まれとなり、通常10代前半で行われた元服の年次が、第3代執権・北条泰時の在任期間(1224~1242年)*4内であったことは濃厚と言えるだろう。実際「」の名乗りは、工藤氏通字の「光」に対し「」は時の偏諱と判断される*5。初出当時も泰時は存命(亡くなる前年)であり、左衛門尉任官前の「工藤三郎」という呼称からすると、実際には恐らく泰時の加冠によって元服してからさほど経っていない、10~20代だったのではないかと思われる。

 

 

系譜上での位置について

鎌倉時代の様々な史料において、工藤氏が得宗被官として活動していたことが窺えるが、光泰も含めその系譜はあまり明らかにされてきていなかった。

しかし近年、今野慶信によって「南家伊東氏藤原姓大系図(以下「大系図」と略記)の伊東氏以外の他家の部分について、その正確性の考証がなされた*6ことで大きく前進したと言える。次に掲げるのは、そのうち工藤景光の系統を抜粋したものである。

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▲【図B】「大系図」より、景光流工藤氏の系図*7

 

光泰については【図B】上に記載は無いが、今野氏は系図中の光長(みつなが)が光泰を指すのではないかと推測されている。同氏の見解に従えば、まず、光長の父・資光については「すけみつ」という読みの共通から、『吾妻鏡』に景光の子息として登場する「工藤三郎助光」に比定される。その主な活動としては、文治5(1189)年の奥州合戦に兄・小次郎行光や同族の狩野五郎親光と共に従軍したことが確認できるが、資光の傍注「最明寺禅門代 工藤三郎 左衛門入道」というのが年代的に合わない。しかし「最明寺禅門」=時頼*8の代官というのは、【表A】に示した光泰の事績そのものに当てはまるから、この注記は資光の子・光長の項にあるべきもので、「長」が「泰」の誤記*9、或いは光泰の初名であったのではないかと説かれている。

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▲【図C】今野慶信作成による得宗被官・工藤氏の略系図*10

 

また【図B】における光長の子・光頼についても、今野氏は「二郎(次郎)」・「左衛門」の通称の一致から、『吾妻鏡』建長5(1253)年正月1日条に登場する「工藤次郎左衛門尉頼光」に比定される。

ここで注意しておきたいのが、同氏の推測通り「」の字が時偏諱であれば、1246年に5代執権に就任*11して間もない頃に元服して「工藤次郎光」を名乗り、間もなく左衛門尉に任官したことになるが、すると1244~1251年の間に左衛門尉(或いは右衛門尉)に任官した光泰(【表A】)とほぼ同時期であったことになる。工藤氏における左衛門尉任官年齢が低年齢化していた可能性もあるが、この点から光泰と頼光を実の親子関係とみなすのはやや難があるように思われる。

 

【図B】の工藤氏系図は、景光の男子はほとんど載せてはいるものの、彼ら各々の子孫はほぼ一つか二つの系統しか載せておらず、元々伊東氏の系図の中で、初期に分かれた一族という位置づけで一部が書かれたに過ぎないのであろう。よって、助光の系統が代々一人っ子であったとは限らない。

ここで『吾妻鏡』を見ると、宝治2(1248)年1月15日条に「工藤右近次郎」、建長3(1251)年1月8日条同4(1252)年11月18日条に「工藤右近三郎」なる人物が確認できる。彼らの通称は各々、「工藤右近将監」の「次郎(次男)」、「三郎(3男)」を表すものであろうから、「工藤三郎<右>衛門尉光泰」とは別に、彼らの父親として「工藤右近将監」なる人物が実在していたことを暗示していると言えよう。よって世代的にも【図B】における工藤光長を否定する必要性は無いと思う。

従って、工藤助光には光長(彦三郎、右近将監)光泰(三郎、右衛門尉)という2人の息子がおり、前者の子「右近次郎」が「次郎左衛門尉頼光」と同人で、やがて叔父・光泰の地位を継承した可能性が考えられる。右近将監従六位上相当)*12の方が右衛門尉(大尉:従六位下、少尉:正七位上 相当)*13より官位が高いので、光長の方が兄で早世していたのかもしれない。

頼光自身は光泰に同じく左衛門尉(または右衛門尉)となったが、その後の宗光―貞光は光長がなっていた「右近将監」の官途継承が認められたのであった。

【図D】得宗被官工藤氏・右近将監(御内侍所)家 推定系図

     三郎     右近将監  次郎右衛門尉  右近将監   右近将監

 景光――助光――光長――――――

        ┗ ┗某(右近三郎)

        三郎右衛門尉

*同様の例としては得宗被官化した尾藤氏が挙げられる。泰時の代に家令となった尾藤景綱の後継者、景氏『尊卑分脈』によると実は甥(弟・中野景信の子)であったといい、以後頼景時綱と続いた。

 

最後に、次の史料を見ておきたい。 

【史料E】『建治三年記』(1277年)6月5日条(原文は漢文体、読み下し文は建治3年記より)

五日、晴
武蔵禅門御遁世の間、留め申されんが為御使い工藤三郎右衛門入道道を立てらると云々。御遁世去る月廿二日の由披露するの處、定日は二十八日と云々。 

この史料は、太田時連の父・三善康有(太田康有)の日記であるが、塩田流北条義政(武蔵入道政義)の遁世*14を留めるための使者として工藤入道道得宗(8代執権)北条時宗によって派遣されたと伝える。今野氏の見解では、この道恵もその通称名の一致から光泰に同定されるのではないかとする。これが正しければ、この頃まで存命であったことになる。

 

脚注

*1:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.134~135「光泰 工藤」の項 により作成。

*2:工藤光泰 - Wikipedia 参照。

*3:右と左の話 : 同志社女子大学 ー 吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授) などを参照。

*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*5:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.113。

*6:前注今野氏論文。

*7:前注今野氏論文 P.130~132 より。尚、翻刻は 飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』第三輯(宮崎県立図書館、1977 年)にも掲載されているが、本項では東京大学史料編纂所所蔵謄写本を基にした前者・今野論文を用いた。

*8:『金剛仏子叡尊感身学正記』 中巻 弘長2(1262)年正月2日条に「最明寺禅門俗名相模守平時頼、法名道崇、」とあるほか、『口伝鈔』一切経御校合の事」に「最明寺の禅門の父修理亮時氏」(→ 口伝鈔 - WikiArc)、『四十八巻伝』26にも「西明寺の禅門」(→ 北条時頼 - 新纂浄土宗大辞典)とあるのが確認できる。

*9:崩し字が似ていることから、今野氏は誤写の範囲とする。実際の例としては、伊賀光政(式部兵衛太郎)の弟とみられる伊賀光『吾妻鏡』建長4(1252)年12月17日条で「式部兵衛次郎光」と書かれている例が挙げられる(→『吾妻鏡人名索引』P.135「光長 伊賀(藤原)」の項 より)。

*10:注5前掲今野氏論文 P.115。P.130~132。

*11:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*12:右近将監(うこんのじょう)とは - コトバンク より。

*13:右衛門の尉(うえもんのじょう)とは - コトバンク より。

*14:塩田義政は同年4月4日に出家、【史料D】にもある通り5月22日に遁世したという(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その35-塩田義政 | 日本中世史を楽しむ♪ より)。