工藤貞光
工藤 貞光(くどう さだみつ、生年不詳(1280年代?)~1334年?)は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家被官である御内人。藤原南家工藤氏より分かれた奥州工藤氏助光流の当主。
「南家伊東氏藤原姓大系図」*1(以下「大系図」と略記)によると工藤宗光の嫡男。「大系図」では「新右近」と注記されるが、史料上では工藤右近将監とも呼ばれ、御内侍所の長官も務めた(後述参照)。
まずは次の系図をご覧いただきたい。
こちらは「大系図」を基に今野氏がまとめられたものであるが、同氏は以下の各史料における「工藤右近将監」が年代的に工藤貞光であると結論付けられた*3。
●【史料1】(元亨3(1323)年)『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』):元亨3年10月27日の故・北条貞時13年忌供養において、一品経(妙音品 10貫)の調進、砂金50両・銀剣・馬一疋の供養等を行う「工藤右近将監」*4。
管見の限り、これが史料上における初見と思われる。右近将監(=右近衛将監)任官済みであることから、この当時20代後半~30代には達していたと考えられ、逆算すれば遅くとも1290年代までには生まれていたと推測可能である。
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また、こちら▲の記事で父・宗光を1260年代の生まれと推定したので、親子の年齢差を考慮すれば貞光は早くとも1280年代の生まれである。
ところで、冒頭で紹介した「大系図」での注記「新右近」(【図B】参照)は、父・宗光が右近将監である期間に同じ官職となり、それと区別するために用いられる呼称の筈である。今野氏もご指摘のように、【図B】の工藤氏系図はどの系統も景光から4~6代目の人物で途切れているから、鎌倉時代後期の成立とみられるが、その当時貞光は「新右近」と呼ばれていたことになる。
但し、正和5(1316)年までに宗光は出家して「工藤右近入道」と呼ばれていた*6ようで、この当時貞光がとりわけ「新右近」と呼ばれる必要は無いと思われるので、貞光の右近将監任官はこれより少し前になるだろう。
仮に1310年頃であったとすると1280年代の生まれとするのが妥当で、通常10代前半で行われる元服の時期が貞時執権期間(1284~1301年)*7内であったことがほぼ確実となる。よって工藤貞光は得宗・北条貞時の加冠によって元服し、その偏諱「貞」を受けたと判断され、その関係から貞時13年忌法要にも参加したのであった。
●【史料2】嘉暦4(1329=元徳元)年11月11日付「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』)*8:
(前欠)宗正与黨〔=党〕拷問白状等注進、今日付長崎新左衛門尉候之由、来申候、且彼案文追可書進候、
同与黨人等も、今日申剋、下着之間、為御内侍所工藤右近将監沙汰、被預御内之仁等之旨、承候、無相違下着、悦存候、
(中略)
あなかしく
三月十三日
(切封墨引)
(異筆)「嘉暦四四三、尭観 事」
嘉暦4年3月13日のこと。六波羅探題より、捕らえて拷問していた宗正(姓不詳)とその一味の自白書等が注進され、内管領・長崎高資の許に届くと同時に、宗正の共謀者たちの身柄も同日申の刻に鎌倉に到着したが、この当時「御内侍所」の長官であった工藤右近将監の沙汰として「御内之仁(=御内人)」たちに預けられることとなった。この書状は、こうした話を聞いた貞顕が、同探題南方であった息子・貞将に向け、彼の任務が無事完了したことを報告したものであり*9、「工藤右近将監」については当初工藤光泰の一族と推測されるのみであった*10が、これも貞光に比定される。
●【史料3】建武元(1334)年7月29日付「陸奥国宣」(『遠野南部家文書』)*11:
(花押 *北畠顕家)
糠部郡七戸内工藤右近将監跡、被宛行伊達右近大夫将監行朝畢、可被沙汰付彼代官者、依国宣、執達如件、
建武元年七月廿九日 大蔵権小輔清高 奉
南部又次郎殿
【史料2】との時期的な近さからしてこの「工藤右近将監」も貞光に比定されるが、鎌倉幕府滅亡の翌年に、陸奥国糠部郡七戸内にあった貞光の旧領が伊達行朝に宛がわれていることが窺える。よって、1333~34年の大光寺合戦において、得宗被官であった貞光も討伐されたと考えられよう。
尚、一説によれば、同地にあった七戸城*12は鎌倉時代末期に工藤右近将監(=貞光)が構築したとも言われる*13。
1334年後半期には、惣領的立場にあった宗光・貞光父子を喪い、工藤高景を中心とした残りの一族が名越時如を奉じて北畠顕家側の勢力と戦い降伏している。
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脚注
*1:飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』第三輯(宮崎県立図書館、1977 年)P.67。
*2:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人の系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.115。
*3:注2前掲今野氏論文 P.113。
*4:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.698・705・707。
*5:注2前掲今野氏論文 P.130~132 より引用。尚、こちらは東京大学史料編纂所所蔵謄写本を基にしており、注1前掲飯田論文に掲載のものとは一部で若干の相違があるが、貞光の注記「新右近」は両者で共通している。
*6:同年閏10月18日付「得宗家公文所奉書」(『多田神社文書』)より。『鎌倉遺文』第34巻26002号 または 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.204~205に掲載。工藤宗光 - Henkipedia【史料3】も参照のこと。
*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*8:小泉聖恵「得宗家の支配構造(研究)」(所収:『お茶の水史学』第40巻、お茶の水女子大学比較歴史学講座読史会、1996年)P.31 および『鎌倉遺文』第39巻30531号より。『金沢文庫古文書』387号にも収録。
*9:前注小泉氏論文 同箇所。
*11:『大日本史料』6-1 P.657。北畠顕家関係文書60号。
*12:別名:柏葉城。現在は城跡が史跡公園(柏葉公園)となっている。