Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

南条高光

南条 高光(なんじょう たかみつ、1305年頃?~没年不詳(1346年以後))は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。通称は太郎兵衛尉。南条時光の孫とされる。

 

 

得宗被官(御内人)・南条氏や、同氏より出たとされる南条時光については、梶川貴子の研究に詳しく、本項でも以下の論文に基づいて解説する。

【A論文】「得宗被官南条氏の基礎的研究 ー歴史学的見地からの系図復元の試みー」(所収:『創価大学大学院紀要』第30号、2008年)

【B論文】「南条氏所領における相論」(所収:『東洋哲学研究所紀要』第27号、2011年)

 

生年と烏帽子親の推定

南条高光の初見史料は次の書状とされる。

 

【史料1】建武元(1334)年7月21日付「藤原某下知状」(『大石寺文書』)*1

 南条太郎兵衛尉高光母儀与由井四郎入道妻女相論、駿河国富土〔士〕上方上野郷内左近入道在家一宇

右、以南条二郎左衛門入道大行自筆、正中三年二月八日、所譲与明競〔鏡〕上者、所被付于高光母儀也者、依仰下知如件、

 建武元年七月廿一日

           藤原(花押)

この史料は、駿河国富士上方上野郷(現・静岡県富士宮市内の左近入道*2在家一宇を巡って、南条太郎兵衛尉高光の母と由井四郎入道の妻女とが相論(高光母が訴人)し、正中3(1326)年2月8日の大行(時光)自筆の譲状を根拠として高光の母に知行させるように、という判決内容の下知状である。

但し、梶川氏は【史料1】について、高光の母がどこに訴え、誰の命令によって下知状が作成されたのかが判然としない点で疑問があるとして検討を要すると説かれている。というのも、建武元年7月21日というと鎌倉幕府滅亡からおよそ1年2ヶ月後にあたるが、この当時高光母の訴状が雑訴決断所建武政権下の訴訟機関)によって受理されたのであれば、判決が(下知状ではなく)牒や下文の形で出されるはずであるからである。

そのニュアンスからすると偽文書の可能性も考慮せねばならぬが、少なくとも高光について、この頃「太郎兵衛尉」を称していたことは肯定しても良いのではないだろうか。4年後のものとされる次の史料2点でも「高光」・「南条太郎兵衛尉」の名が確認できる。

 

【史料2】年欠*10月9日付「心玄請文案」(『大石寺文書』)*3

南条節丸申富士上方上野郷内在家田畠等事、就訴人高光申状、両度相触之処、去月十九日、節丸請文如此候、而於当御奉行之手 、以違背之篇、被逢御沙汰、可被付知行於彼高光之由、節丸嘆申候、不被究御沙汰、未尽御成敗候者、定後訴難断絶候哉、得御意可有御披露候、恐惶謹言、

 十月九日  沙弥心玄 在判

進上 伊達蔵人五郎*4殿

*次の【史料3】と同年の発給か。

 

【史料3】暦応元(1338)年12月4日付「家綱・心玄連署奉書案」(『大石寺文書』)*5

(端裏書)「書下案文 十二月四日

南条節丸申田畠在家等事、申状如此、為浅羽三郎入道奉行、被経再往御沙汰云々、所詮被調証文並先々訴陳等、来十五日以前、可被遂沙□〔汰〕之節之由候也、仍執達如件、

  暦応元年十二月四日  心玄 在判

             家綱 在判

 南条太郎兵衛尉殿

書状の内容については梶川氏の論文に譲るとして*6、「南条太郎兵衛尉」という通称に着目してみたい。これは高光がこの当時、元服して「南条太郎」を称した後、兵衛尉正七位下 または 従七位上相当)*7に任官済みであったことを示している。

 

ところで梶川氏は、高光が時光の孫と結論付けられている*8。高光が正元元(1259)年生まれの時光の孫であれば、各親子間の年齢差を考慮して、早くとも1300年頃の生まれと推測可能である。

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▲【図4】南条氏推定略系図(梶川A論文に基づいて筆者作成)

 

また、鎌倉初期に現れる南条忠時が梶川氏の推測通り時光の祖父であれば、遅くとも1219年までには生まれていたことになる。史料上での初見は『吾妻鏡』延応元(1239)年正月3日条「南条八郎兵衛尉忠時」とされる*9が、兄とみられる時員(七郎)の左衛門尉任官は1230年代に入ってからとみられ、これを超越して先に兵衛尉になるとは考えづらいので、忠時の兵衛尉任官も延応元年からさほど遡らない頃になされたと考えて良いと思う。初出の建保元(1213)年当時、時員はまだ10代~20代であったという梶川氏の推測に従えば、忠時は20~30代で兵衛尉に任ぜられたと考えられよう。

従って、同じく兵衛尉となった高光についても、仮に1300年頃の生まれとしても30代前半までに任官したことになって全く問題はない。若干低年齢化していた可能性も考慮して1300年代前半の生まれとするのが妥当ではないかと思う。

1311年には北条貞時の逝去に伴って、嫡男・北条が新たな得宗となり、1316年からは第14代執権に就任する*10光もこの頃に元服の適齢を迎え、「光」が祖父・時光の1字であることからしても、「」はその偏諱を受けたものと判断される。

尚、小野眞一*11は「高」字の共通からか、高光を別史料で確認できる「南条新左衛門尉高直」の子と推測されていたが、梶川氏の見解*12に同じく筆者も否定する。むしろは、別系統でありながら共に時の偏諱を受けた、ほぼ同世代人とみなすべきであろう。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

鎌倉幕府滅亡時、嫡流当主の高直は16代執権の赤橋守時に殉じたが、庶流の高光は動向は明らかに出来ないものの、特に表立って関与することなく生き残ったようである。【史料1】の下知状が誰から発給されたのか判然としないことは前述の通りで、建武政権に恭順していたかどうかも怪しいが、中先代の乱(1335年)以降も生き延びていることから、最終的には足利新幕府に従ったのであろう(後述史料で紹介するが、室町幕府の奉行人・諏訪円忠丹波国守護・山名時氏との関わりがあるため)。次節ではこの他に確認できる高光関係文書について紹介していきたいと思う。

 

貞和2年の史料における高光

最後に、本節では『大日本史料』*13にも掲載の高光に関する史料3点を掲げたいと思う。

 

【史料5】貞和2(1346)年6月3日付「菅原義成請文」(『大石寺文書』)*14

南条太郎兵衛尉高光掠申、丹波国小椋庄内田畠在家並山林等押領事、去四月廿三日守護御方(=山名時氏御書下、同五月廿二日御催促状、謹拝見仕候畢、抑当庄地頭職者、任闕所注文、去建武五年(久下次郎入道)仙阿為勲功之賞令拝領候也、仍正員仙阿為奉公在鎌倉之上者、以飛脚令申関東、可進上巨細陳状候、上下向日限可蒙卅、日御免候、以此旨可有御披露候、恐惶謹言、

 貞和二年六月三日 所務代菅原義成(裏花押)

進上 御奉行所

 

【史料6】貞和2年7月3日付「山名時氏請文」(『大石寺文書』)*15

南条太郎兵衛尉高光申、久下次郎入道仙阿丹波国小椋庄田畠・在家・山野等押領之由事、任被封下申状之旨、可明申之旨、令催促候之処、守護代国範・並仙阿(菅原)義成請文如此候、謹進覧之、以此旨可有御披露候、恐惶謹言、

 貞和二年七月三日 前伊豆守時氏(花請文押)

 

【史料7】貞和2年11月日付「南条高光申状」(『大石寺文書』)*16

〔南〕條太郎兵衛尉高光謹言上

欲早南条左衛門次郎忠時高光所得御下文等令抑留、対久下次郎入道仙阿、於当御奉行所、致奸訴上者、任傍例、就先日訴訟被寄諏方大進房円忠奉行一所、被経□〔御〕沙汰蒙御成敗丹波国小椋庄内田畠在家山野等事、

右、於田畠在家山野者、高光重代相伝、当知行無相違之処久下次郎入道仙阿、致非分押領之間、去康永元年以来、為布施弾正忠資連奉行訴申之処、同庄一分領主苧河次郎蔵人不知実名、与件仙阿武州御手諏方大進房円忠奉行、致相論之間、依為一庄一具訴訟、被渡円忠奉行一所者也、而忠時者、高光所得御下文等、依令抑留、無故致奸訴之上者、所詮被渡円忠奉行一所、被経御沙汰、任相伝之道理、□〔蒙〕御成敗、為全知行、恐々言上如件、

 貞和弐□〔年〕十一月 日

 

以上3点の史料の内容をまとめると次の通りである。詳細については梶川氏の論文をご参照いただければと思う。

 

【表8】丹波国小椋庄における相論の経過(梶川B論文 P.68 表2 より引用)

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貞和2年以後、高光に関する史料は確認されておらず、死没のことや、子孫がいたのかに関しても不明である。

 

(参考ページ)

 南条時光全伝 : 大石寺開基六百年忌 - 国立国会図書館デジタルコレクション

  

脚注

*1:梶川B論文 P.59。『南北朝遺文』関東編113号。

*2:正和元(1312)年に出家した、南条時光の家人・弥三郎重光とされる(→ 梶川B論文 P.61)。

*3:梶川B論文 P.64。『南北朝遺文』関東編885号。

*4:実名は伊達盛貞か。伊達系図 によると系譜は「宗村朝宗の誤りか)―為家―経家―経政―忠経―女子(沙弥・法徴室)―経盛―盛貞」。

*5:梶川B論文 P.65。『南北朝遺文』関東編905号。

*6:梶川B論文 P.64~65 を参照のこと。

*7:左兵衛の尉(さひょうえのじょう)とは - コトバンク および 右兵衛の尉(うひょうえのじょう)とは - コトバンク より。

*8:梶川A論文 P.442。

*9:梶川A論文 P.434・444。

*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*11:小野眞一南条時光』(富士史書刊行会、1993年)。

*12:梶川A論文 P.441。

*13:『大日本史料』6-9 P.965~967

*14:梶川B論文 P.66。『南北朝遺文』関東編1625号。

*15:梶川B論文 P.66~67。『南北朝遺文』関東編1632号。

*16:梶川A論文 P.441、B論文 P.67。『南北朝遺文』関東編1667号。『信濃史料』巻5 P.545