Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

結城朝高

結城 朝(ゆうき ともたか、1308年~1336年)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、御家人。のち結城朝(ともすけ)に改名。結城貞広の嫡男で下総結城氏6代当主。幼名は犬鶴丸、通称は七郎、七郎左衛門尉、結城判官。

 

 

北条高時の烏帽子子

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最初に、こちら▲の記事で紹介の通り、結城氏の系図については複数伝わっており、以下記述で触れる系図については【図A】のように同じアルファベットを用いることとする。従って上記記事も併せてご参照いただければ幸いである。

 

同記事の全系図に着目すると、【図A】~【図G】の系図類や過去帳では、貞広の次代(嫡男)を「朝祐」とするのに対し、市村高男の論文*1でも鎌倉時代成立のものとして紹介された2つの結城氏系図では異なっている。

具体的には、永仁2(1294)年の成立とされる白河集古苑所蔵「結城系図(結城錦一氏旧蔵)*2では、時広の嫡男・貞広が幼名の「犬次郎丸」で記されているのに対し、下図に示す1320年頃の成立とされる『結城小峯文書』所収「結城系図*3を見ると、貞広の嫡男を「鶴丸」とし、更に後から「使 左衛門尉 朝高 結城七郎」と加筆された形跡がある。しかし「朝高」以外の注記検非違使、左衛門尉、結城七郎)は『尊卑分脈(【図A】)など他の系図での朝祐に一致しており、どの系図でも貞広の子は一人しか記載されていないから、朝高=朝祐と判断して良いだろう。

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従って、貞広は1294年~1300年*4の間に元服を済ませ、1309年に亡くなるまでに嫡男・犬鶴丸が生まれ、1320年頃に元服して当初は「結城七郎朝高」、のちに改名して「朝祐」を名乗ったことになる。

 

一部系図での朝祐の注記を見ると、【図E】では嘉元3(1305)年に生まれ、建武3(1336)年九州多々良浜合戦において32歳(数え年、以下同様)で亡くなったとあって、計算上は矛盾は無い。しかし【図B】・【図F】・【図G】では同じく戦死とするも、当時29歳としており*5、特に後者2つは実際の過去帳や、寺院に伝わる系図であるから、史料的価値からすればこちらを信用した方が良いだろう。逆算すると延慶元(1308)年生まれとなり、1320年には13歳と元服の適齢を迎える。のちに「」の字を棄てて「朝」に改名したことからしても、(朝祐)はこの頃の執権・北条(在職:1316~1326年)*6の加冠により元服し、祖父・時広や父・貞広の前例に倣ってその偏諱を受けたと考えて良いだろう*7

*「朝」の字は結城朝光・朝広以来の"復活"となる。時広・貞広とは異なって得宗からの1字を下(2文字目)にした理由については不明であるが、①同族の小山高朝(のち秀朝)との同名(重複)を避けた、②朝光・朝広と同じ「朝○」型の名乗りを重視した、③実はこの頃から白河結城氏に対して庶家と見なされていた(?)、あたりが考えられよう。いずれにせよ、高時の認可のもとで命名がなされたと思われる。

 

それから間もない頃、元亨3(1323)年10月27日の故・北条貞時13年忌法要について記した『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』)に、「馬一疋青駮」を進上する人物として記載の「結城七郎*8朝高に比定され、これが史料における初見であろう。

*『神奈川県史』では「親朝カ」とするが、これとは別に銭100貫文を進上する「白河上野前司」の記載もあり*9、これは白河結城氏を代表して結城宗広(親朝の父)が行ったものであろう*10から、「結城七郎」はやはり、もう一つの結城氏=結城宗家の当主たる朝高(朝祐)と見なすべきであろう*11。尚、この頃の親朝は翌元亨4(1324)年の宗広書状で「上野七郎兵衛尉」と呼ばれ、左兵衛尉任官済みであった可能性が高い*12

 

 

『真壁長岡文書』における結城朝高

『結城小峯文書』所収「結城系図」において、貞広の子・犬鶴丸に注記される朝高については、実際の史料である『真壁長岡文書』に所収の、複数の書状でその名が確認できる。以下本節ではその史料を掲げたいと思う。

 

【史料1】元徳2(1330)年8月28日付「結城朝高施行状写」*13

(注書)「御使結城七郎左衛門尉施行」

真壁又太郎幹政後家尼本照申、亡父遺領常陸国長岡郷内田三町在家三宇并ニ堀内及山野半分、小栗六郎次郎入道相共本照可被沙汰之由、御教書案如此候并訴状、仍来月十八日可遂使節之由、依仰執達如件、

 元徳二年八月廿八日

     左衛門尉朝高(花押) 

  真壁又治郎殿

 

【史料2】元徳4(1332)年4月日付「真壁幹政後家尼本照申状写」*14

   (注記)同六月廿二日分二譲尼本照女子平氏、同廿九日他界
」問答、申賜御外題  云々、如御使結城七郎左衛門尉朝高施行同年元徳八月四日  

 (前欠)

〔御〕教書案者、真壁又太郎幹政後家尼本照申、亡夫遺領取詮事、申状如此、於下地者任去年閏六月廿二日譲状・今年五月廿日外題、可沙汰付本照云々、件本解状者五月上旬之賦歟、御外題者同月廿云々、為使節競望、載未賜御外題於先日訴状雖申賜御教書、妙心則任本主道法置文支申之、本照亦捧謀書・掠賜本解以後之御外題者歟、理非玄隔之論無御糺明而、争輙可被渡付下地於本照是一、本御使朝高対于不知行之宣政令催促之間、妙心知行之旨宣政進請文後、本照改御使於小栗六郎二郎入道円重八木岡四郎高政、去年元徳十二月入部之時、妙心雖進状、不請取之間、任本主置文可被経御沙汰之由、属賦申寄当御奉行、相待御披露之刻、鹿嶋社御造営事書下到来之間、為設所造畢、社家参候之跡重両使入部之上者、定及非拠注進者歟、是併円重本照今者死去、夫高政者、為同人舎弟小栗小次郎舅之上、今居住下野国、不持当国常州中所領、年齢十五未満之仁令入部他国之例、未承及之是二幹政元徳二閏六廿二未令死去之条、遠近一族他門存知訖、廿九日他界由偽申造意何事乎是三、号道法後家尼阿妙者誰人哉、妙心外全無之是四、以前条々大概若斯、所詮被止楚忽之使節、且任道法置文、且就賦与奪御教書、為被糺返理非、恐々言上如件、

 元徳四年四月 日  信曰、元徳四年元弘改元正慶年也、

 

【史料3】(元徳4年)「真壁政光後家尼妙心代頼円申状写」*15

真壁弥太郎入道々法後家尼妙心頼円謹言上、

 欲早被賦一番御引付斎藤九郎兵衛尉基連*16奉行、被経一具御沙汰、被寄捐亡息又太郎幹政後家尼本照 与 又治郎宣政非拠論、任亡夫道法置文蒙御成敗、常陸国長岡郷山野田在家等事、

右当郷者亡夫道法重代所領也、而元徳元年七月分譲子息又太郎幹政又治郎宣政等之処、同年九月廿九日赤対妙心所書給置文也、如状者無幹政男子者宣政可知行彼跡、宣政無男子者以此分幹政可知行、皆以為一腹之上者、妙心一期之間可知行之由戴之、随而同弐年潤〔閏〕六月廿二日幹政無男子而死去訖、爰妙心当知行無相違之処、幹政後家尼本照号有亡夫譲、竊掠給安堵御外題、為基連奉行対不知行之仁又次郎宣政就掠申子細、仰両使 結城七郎左衛門尉 小栗六郎次郎入道 可沙汰付本照之由、去年元徳被成御教書之旨承及之条、存外也、所詮如基連返答者、属賦令申寄者、信按、寄下有脱字欤、可被経一具御沙汰云々、然早被〔任〕賦一所任本主道法素意、蒙御成敗之後、被糺返本照抑留証文等、欲被処姧訴之処、仍恐々書〔ママ、言上如件、

 

【史料4】(年月日欠)「真壁長岡氏相論関係文書目録写」*17

    常陸国真壁長岡郷田在家同堀内山野相論

         系図

       真壁?入道法  案  元徳二・九・廿九

     真壁?入道法超預     同日

                 同三・九・十七    

      城七郎左衛門尉施行 同八・廿八

           書案        四〔ママ〕

      小栗六郎次郎入道催促 同十二・十三

         四郎同状 同

   妙心取給御教書案   同四・三・廿八

通 国衙正税返抄     同二・三両年分

通 鹿島社祭使請書請取案

通 同御造営奉行書下   同四・三・七

(後欠)

 

【史料5】延元2(1337)年11月付「真壁政光後家尼妙心申状写」*18

真壁弥太郎(政光)□□〔後家妙心真壁郡長岡郷事、

右当郷者本主道法、去元徳元年□□真壁入道法超給□□条。別分妙心死直訖、□□認置譲状、任本主素意、又太郎幹政〔無男子者又次郎宣政彼跡分可知行、宣政無男子者幹政此分可知行、但男女子皆為一腹之上者、妙心一期之間者可為伝来遺領知行事、此命者彼跡別子孫等妙心可譲与、為止向後之煩惣領置文お書加世末以羅勢、申加判奉預置云々、仍当知行之条、鹿島社役・国衙正税・関東先代守護人(=佐介時綱カ)催促状等所見也、

一.当郷内又次郎宣政・即心房慶久等無知行分事、

舎兄又太郎幹政元徳二年閏六月廿二日死去之刻、妙心当知行之間、不能処分之処、幹政後家尼本照 小栗孫二郎左衛門尉重富女子 号亡夫譲状、構謀書先代一番引付為斎藤九郎兵衛尉基連奉行、被仰御使結城七郎左衛門尉朝高小栗六郎二郎入道円重等、如本解状者、幹政遺領長岡郷内田三町・在家三宇・堀内・山野半分事、元徳二年閏六月廿二日分譲後家本照女子平氏今他界、任譲状申給御外題□□爰母尼阿妙 真壁弥太郎入道々法後家 子息宣政致押領・狼籍云々両使令施行之間、任本主置文妙心知行之由支申之、元徳四年三月属賦申□□斎藤九郎兵衛尉基連奉行可被止不知行之本照与宣政非論旨就令言上、如同月廿八日御教書者、真壁弥太郎入道々法後家尼妙心頼円申、常陸国長岡郷田在家事、訴状如此、早企参上可被弁申之状、依仰執達如件、真壁又太郎後家云々、因茲被止御使入部「」間郷〔ママ〕被行本照謀書之文之由言上之刻、基連他界之後、被渡島田甲斐二郎之処、依先代滅亡*19延引畢、無宣政等給之条、不及御不審者也、

一.妙心男子等事、

道法遺領狭少之処、国衙正税・鹿島社役以下繁多之間、依男女子扶持不令期又治郎宣政就諸事背命、為成敗阿党罷成御敵、即心房慶久者故不諧之間罷居乎、了珍房妙証為御方不断参候、宇都宮致軍忠帯数通御一見状等之子細先立令言上歟、随而大将軍所被知食也、嫡女真壁禅心房後家去進子息跡一房道意於御方尽忠節、二女夫大和馴之左衛門入道妙阿者当奉下也、依遺跡不知行宣政数不調被分召妙心所領令牢籠条、不便次第也、可然者当知行妙心無罪過之上者、為三分安堵御成敗目安如件、

 延元二年十一月

【史料4】元徳年間以後に作成された真壁長岡氏の所領相論関係文書の目録である。このうち、太字部分は次の史料のことであろう。

【史料1】は朝高真壁宣政(長岡宣政)に対し、常陸長岡郷内の父・政光(道法)の遺領を真壁幹政(宣政の兄)の未亡人である尼・本照へ打ち渡すよう催促のため、小栗入道円重と共に長岡に入部することを伝えたもので、本照の申状である【史料2】、政光の未亡人・妙心の代官・頼円の申状である【史料3】、更には後世、延元2(1337)年11月の妙心の申状である【史料5】の中でもそのことについて言及されている。

朝高により出された【史料1】の文中に「御教書案此の如に候」とあることから、この所領打ち渡しは、執権・連署が将軍守邦親王の意を奉じる形で常陸守護(この当時は北条氏一門・佐介時綱か)に命じ、更に守護から守護代を通じて朝高らに命令が下ったと考えられている。すなわち朝高は佐介氏の代官的立場にあったことがこれらの史料から窺えよう。 

 

 

元弘の乱における朝高(朝祐)

その後、鎌倉幕府滅亡に至るまでの元弘の乱における朝高(のち朝祐)の動向について見ていきたいと思う。まずは、それについての詳細な記載が見られる次の系図に注目してみたい。

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▲【図6】「結城系図」(東京大学史料編纂所架蔵謄写本/原本:松平基則所蔵)*20より抜粋

 

結城市史』により、冒頭の該当部分の読み下しを掲げると次の通りである。

元弘二年十月廿八日、武命を含み上洛、楠・赤松等、西州に起るに依て也(なり)*21

同三年四月十日、後醍醐天皇の綸旨に依り、北条高時を亡(ほろ)ぼさんとす、五月、高時并びに其(その)門族滅亡の後、朝祐上洛、帝命を承け、本領結城を全うす*22

これだけを見れば、当初は鎌倉幕府の意向に従っていたが、元弘3(1333)年の段階では後醍醐天皇の綸旨を受ける形で高時一門を滅ぼす側に転じ、結城の所領を安堵されたと判断できる。この大まかな流れは次節で挙げる史料からしても問題ないだろう。朝高も足利高氏(尊氏)らに同じく烏帽子親の高時を最後は見限り、のちにその偏諱「高」を棄てた一人であった。

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但し【図6】はあくまで後世に作られた系図である。次に、実際の史料と照らし合わせて検証してみたいと思う。 

 

史料7】元弘元(1331)年10月15日付「関東楠木城発向軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*23

楠木城
一手東 自宇治至于大和道
 陸奥大仏貞直       河越参河入道貞重
 小山判官高朝       佐々木近江入道(貞氏?)
 佐々木備中前司(大原時重)   千葉太郎胤貞
 武田三郎(政義)       小笠原彦五郎貞宗
 諏訪祝(時継?)         高坂出羽権守(信重)
 島津上総入道貞久     長崎四郎左衛門尉(高貞)
 大和弥六左衛門尉高房   安保左衛門入道(道堪)
 加地左衛門入道(家貞)     吉野執行

一手北 自八幡于佐良□路
 武蔵右馬助(金沢貞冬)      駿河八郎
 千葉介貞胤          長沼駿河権守(宗親)
 小田人々(高知?)          佐々木源太左衛門尉(加地時秀)
 伊東大和入道祐宗       宇佐美摂津前司貞祐
 薩摩常陸前司(伊東祐光?)     □野二郎左衛門尉
 湯浅人々           和泉国軍勢

一手南西 自山崎至天王寺大
 江馬越前入道(時見?)       遠江前司
 武田伊豆守           三浦若狭判官(時明)
 渋谷遠江権守(重光?)       狩野彦七左衛門尉
 狩野介入道貞親        信濃国軍勢

一手 伊賀路
 足利治部大夫高氏      結城七郎左衛門尉
 加藤丹後入道        加藤左衛門尉
 勝間田彦太郎入道      美濃軍勢
 尾張軍勢

 同十五日  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参
 同十六日
 中村弥二郎 自関東帰参

(*http://chibasi.net/kyushu11.htm より引用。( )は人物比定。) 

 

【史料8】(正慶元/元弘2(1332)年)『太平記』巻6「関東大勢上洛事」*24における幕府軍の構成メンバー

<相摸入道(=得宗北条高時)一族>

阿曾弾正少弼(=治時)名越遠江入道大仏前陸奥守貞直・同武蔵左近将監・伊具右近大夫将監・陸奥右馬助

<外様>

千葉大介・宇都宮三河(=三河権守貞宗?)小山判官・武田伊豆三郎・小笠原彦五郎・土岐伯耆入道(=頼貞)・葦名判官(=盛貞)・三浦若狭五郎(=時明?)千田太郎・城太宰大弐入道・佐々木隠岐前司・同備中守(=大原時重?)結城七郎左衛門尉・小田常陸前司(=時知?)・長崎四郎左衛門尉(=高貞)・同九郎左衛門尉(=師宗?)・長江弥六左衛門尉(=政綱?)・長沼駿河(=駿河権守宗親?)・渋谷遠江(=遠江権守重光?)河越三河入道・工藤次郎左衛門高景・狩野七郎左衛門尉・伊東常陸前司(=祐光)同大和入道・安藤藤内左衛門尉(=藤内左衛門入道円光)宇佐美摂津前司二階堂出羽入道同下野判官・同常陸(=二階堂宗元?)・安保左衛門入道(=道堪)・南部次郎・山城四郎左衛門尉、他132人

307,500余騎

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<その他>

河野九郎(通盛)ら四国勢:大船300余艘

厚東入道(武実)・大内介(重弘?)・安芸熊谷(直経?)ら周防・長門勢:兵船200余艘

甲斐・信濃源氏7,000余騎

江馬越前守・淡河右京亮(時治か)ら率いる北陸道7箇国勢:30,000余騎

 
【史料9】元弘3(1333)年4月日付関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*25
大将軍
 陸奥大仏貞直遠江国       武蔵右馬助(金沢貞冬)伊勢国
 遠江尾張国            武蔵左近大夫将監(北条時名)美濃国
 駿河左近大夫将監(甘縄時顕)讃岐国  足利宮内大輔(吉良貞家)三河国
 足利上総三郎吉良貞義        千葉介貞胤一族并伊賀国
 長沼越前権守(秀行)淡路国         宇都宮三河権守貞宗伊予国
 佐々木源太左衛門尉(加地時秀)備前国 小笠原五郎(頼久)阿波国
 越衆御手信濃国             小山大夫判官高朝一族
 小田尾張権守(高知)一族         結城七郎左衛門尉 一族
 武田三郎(政義)一族并甲斐国       小笠原信濃入道宗長一族
 伊東大和入道祐宗一族         宇佐美摂津前司貞祐一族
 薩摩常陸前司(伊東祐光カ)一族    安保左衛門入道(道堪)一族
 渋谷遠江権守(重光?)一族      河越参河入道貞重一族
 三浦若狭判官(時明)         高坂出羽権守(信重)
 佐々木隠岐前司清高一族      同備中前司(大原時重)
 千葉太郎胤貞

勢多橋警護
 佐々木近江前司(京極貞氏?)       同佐渡大夫判官入道京極導誉

(* http://chibasi.net/kyushu11.htm より引用。( )は人物比定。)

 

 

 

結城朝祐への改名と戦死

具体的な時期は不明ながら、前述したように幕府滅亡後は「朝祐」に改名した。

建武政権下で恩賞を受けたのであろうか、陸奥国糠部郡にも所領を有したようで、建武元(1334)年のものとされる6月12日付「北畠顕家袖判御教書」に「……当郡(=糠部郡)内三浦介入道(=三浦時継〈道海〉)*26結城七郎等代官……」とあり*27、更に12月14日付「津軽降人交名注進状」に、旧幕府方の投降者の一人「小国弥三郎泰経」を預かる「結城七郎左衛門尉*28についても通称名からすると朝祐に比定し得る。

*『浅瀬石文書』に所収の文書一通に「結城七郎左衛門尉親光〔ママ〕」とある*29が、親光については兄・親朝(この頃は前三河守)が「七郎」を称したのに対し、「九郎」の仮名(九郎左衛門尉)が正しい*30ので、何かしらの混乱が生じたものと思われる。

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しかし、親光も含む白河結城宗広一族の台頭もあってか、次第に冷遇されるようになり、翌建武2(1335)年3月10日には「(糠部郡)七戸 結城七郎左衛門尉」が南部政長(六郎)に与えられてしまっている*31。そうしたこともあり、以後は北朝および足利尊氏に従うこととなった。【史料7】にあるように尊氏とは幕府滅亡前から接点があった。

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『梅松論』には、建武の乱(延元の乱)における下総結城氏の動向が描かれており、いずれも当主の朝祐に比定されよう。まず、同年12月の箱根・竹ノ下の戦いで「結城」は同族の小山氏共々足利勢に属して参戦して戦功を挙げ、常陸国の関郡を恩賞として与えられたという*32。そして、翌建武3/延元元(1336)年正月の京都攻防戦(第一次京都合戦)では、小山氏と(下総)結城が足利方、宗広ら白河結城氏が北畠顕家方と、同族ながら敵味方に分かれて激闘を交えている*33。その際、お互い直垂の紋が同じで混乱したため、今後もこのような戦いがあるだろうと下総結城や小山氏の兵たちは右の袖を千切って兜につけ目印にしたとのエピソードを載せている*34

 

その後、正月末から2月にかけて新田・北畠らの軍勢に連敗し一旦九州に逃れた尊氏の軍勢は、3月2日の多々良浜の戦いで勝利したことで再起の糸口を掴んだが、【図6】などで伝えられるところによればその折に朝祐は戦死してしまったという。このことについて実際の史料では確認できないが、裏付けになり得るものとして、同年(延元元年)6月19日には「陸奥国白河荘荒砥崎村 結城判官*35、翌延元2(1337)年3月16日には「下総国結城郡 朝祐*36といった朝祐の旧領が、結城上野入道=宗広(道忠) に与えられているほか、延元2年8月22日付「陸奥国宣案」(『伊勢結城家文書』)にも「結城郡内上方、為朝祐跡先立拝領之、下方者 号山河 此領主山河判官(=山河景重)、今度成朝敵了、……」と記されている*37

*後者2つは系図類以外で「朝祐」の名が確認できる貴重な史料である。また、前者における「判官 (はんがん/ほうがん)」とは、律令制における四等官の第三位である判官(じょう=尉)の職を帯びる者の通称であり*38朝祐の最終官途が左衛門であったことが窺えよう。但し、『梅松論』・『太平記』・『野上文書』によれば前述の親光(宗広の次男)も「結城太田判官」と呼ばれていた*39ので「結城判官」=朝祐かについては慎重に判断すべきであろう。

 

尚、『結城市史』*40の紹介によると、建武3年7月日付の「岡本良円軍忠状」2通*41には、同年6月晦日名和長年らの率いる後醍醐天皇方と尊氏方の軍勢が京都で戦った(第二次京都合戦)際に、陸奥の武士である岡本観勝房良円が中御門烏丸において右手を負傷しながらも敵を倒した勲功が記されており、この事実は同所で共に戦った「池上藤内左衛門尉(=池上泰光か?)結城七郎左衛門尉」の両人が "見知っている" とし、特に後者については朝祐か、その嫡子・直朝のいずれかである筈とする。

同書では、4ヶ月前に亡くなった朝祐が再登場する筈がない一方で、直朝がこの当時12歳で良円と共に参戦したというのも年齢的に疑わしいと説かれている。

前述したように翌年以降には「朝祐跡」と記す史料が確認できることから、その理由や時期、年齢(享年)の若さを考えても、朝祐が1336年~1337年初頭の間に戦死したことは間違いないと思うが、これも前述したように「結城判官跡」が結城親光の旧領を指すのだとすれば*42、朝祐は多々良浜の合戦ではなく、それよりもう少し後(1336年後半)に亡くなったことになる。

勿論、急遽家督を継承することになった直朝が、尊氏らの推挙により特例で早期の左衛門尉任官が叶った可能性も排除はできないので、朝高(朝祐)の正確な命日については後考を俟ちたいところである。

 

(参考ページ)

 結城朝祐 - Wikipedia

南北朝列伝 #結城朝祐

 

脚注

*1:市村高男「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察 系図研究の視点と方法の探求―」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)。

*2:前注市村氏論文 P.68~72。

*3:前注市村氏論文 P.78~82。

*4:結城貞広 - Henkipedia【史料B】参照。

*5:他にも松平基則伯爵本「結城系図」にも同内容の注記が見られる(→『大日本史料』6-3 P.166)。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*7:南北朝列伝 #結城朝祐 より。

*8:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.710。

*9:前注『神奈川県史』P.709。

*10:結城宗広 - Henkipedia 参照。

*11:結城市史 第四巻 古代中世通史編』(結城市、1980年)P.275。尚、以下同書は『結城市史4』と略記する。

*12:南北朝列伝 #結城親朝 より。

*13:結城市史4』P.919 四八号-1。

*14:前注同頁 P.919 四八号-2。

*15:前注同頁 四八号-3。

*16:斎藤氏の系図については 東氏数 を参照。

*17:結城市史4』P.922~923 四八号-5。

*18:前注同書 P.919 四八号-4。

*19:この場合の「先代」とは執権家・北条氏を指す。すなわちこの部分は1333年の鎌倉幕府滅亡のことを言っている。

*20:結城市史』第一巻 古代中世史料編(結城市、1977年)P.664。

*21:結城市史4』P.335。

*22:結城市史4』P.336。

*23:『鎌倉遺文』第41巻32135号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*24:「太平記」関東大勢上洛事(その1) : Santa Lab's Blog より。

*25:『鎌倉遺文』第41巻32136号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*26:建武元年4月10日付「足利直義宛行状」文中に「三浦介時継法師 法名道海」とあるによる。また、翌2(1335)年9月27日付「足利尊氏袖判下文」に記載の、三浦介入道時継(道海)旧領の中に「陸奥国糠部内五戸」が含まれている。詳しくは 三浦高継 - Henkipedia を参照のこと。

*27:『大日本史料』6-1 P.619南部氏文書 54号文書

*28:『大日本史料』6-2 P.137南部氏文書 津軽降人交名録

*29:工藤貞行 - Henkipedia【史料2】参照。

*30:【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia ほか参照)。

*31:『大日本史料』6-2 P.326南部氏文書 79号文書

*32:『大日本史料』6-2 P.773~774

*33:『大日本史料』6-2 P.1004~1005

*34:前注同箇所。

*35:『大日本史料』6-3 P.530

*36:『大日本史料』6-4 P.156荒川善夫『下総結城氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第8巻〉(戎光祥出版、2012年)P.62。

*37:前注荒川氏著書 P.53・62。

*38:判官 - Wikipedia より。

*39:『大日本史料』6-2 P.971973974。『太平記』では単に「結城判官」とのみ記す箇所も見られる(→『大日本史料』6-2 P.54)。

*40:結城市史4』P.341。

*41:『大日本史料』6-3 P.474P.553

*42:親光は延元元年正月11日に大友貞載と斬り合う形で亡くなっており(→『大日本史料』6-2 P.970~の各史料参照)、同年6月19日に父・宗広(道忠)のもとに渡ったと考えてもおかしくはないだろう。