葦名盛貞
葦名 盛貞(あしな もりさだ、1296年?(一説に1285年とも)~1335年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人。父は葦名盛宗。蘆名盛貞、芦名盛貞とも表記される。主な通称は大夫判官、葦名判官。法名は道円(どうえん)か。
多くの系図では、葦名盛員(もりかず)と書かれており、これが広く信ぜられているが、筆者は誤伝ではないかと思う。本項では主に実名についての再検討を行う。
葦名盛員の最期
実際の史料・系図類で確認できるのは、盛員(盛貞)の最期についてである。まずは次の関連資料3点をご覧いただきたい。
【史料A】『会津四家合全』黒川小田山城主佐原十郎義連家系之事*1 より一部抜粋
葦名遠江守盛員(盛宗男)
永仁四年丙申八月十二日生、文保二年戊午二十三家督継、建武二年乙亥八月十七日相州片瀬川合戦に討死す時四十歳、正傳庵月浦道円と号、但祠堂会津興徳寺の裏に在り
葦名式部太輔高盛(盛員男)
文保二年戊午八月十五日生、建武二年乙亥八月十七日父同片瀬川にて討死す時十八歳
【史料A】は江戸時代に成立の、葦名など四家についての家伝であるが、照らし合わせると【史料B】の内容に拠っていることが推測される。これらを見ると、建武2(1335)年8月、片瀬川の戦いで息子の高盛とともに討ち死にしたと伝える。【系図C】での記載も盛員の没年齢(享年)を除いては同内容となっている。
次の史料は、その時の様子を伝える実際の書状である。
【史料D】足利尊氏関東下向宿次・合戦注文(国立国会図書館所蔵「延暦寺申状」)*4
(中略)
十九日、辻堂・片瀬原合戦
御方打死人敷
三浦葦名判官入道々円 子息六郎左衛門尉
土岐隠岐五郎(=貞頼) 土岐伯耆入道孫兵庫頭(頼古?)、同舎弟(頼孝?)、
昧原三郎
手負人
佐々木備中前司父子(=時重・仲親) 大高伊予権守
味原出雲権守 此外数輩雖在之、不知名字、
降人於清見関参之、
千葉二郎左衛門尉 大須賀四郎左衛門尉
海上筑後前司 天野参川権守
伊東六郎左衛門尉(祐持カ) 丸六郎
奥五郎
諏方上宮祝三河権守頼重法師於大御(以下欠)
地名(片瀬川→片瀬原)や日付(17日→19日)に若干の違いはあるものの、1335年の中先代の乱で葦名道円(どうえん)・六郎左衛門尉父子が打死(=討ち死に) したことは事実として確認できる。通称名や官途は全く一致しないが、「道円」は【史料A】に盛員の法名として記載があり、そのまま当てはめれば、盛員入道道円・高盛父子と捉えられる。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
ちなみに『太平記』でもこの内容を描く部分があり、「葦名判官入道」 は通称名の一致からして【史料D】の道円に比定して良いだろう。
【史料E】『太平記』巻13「中前代蜂起事」・「足利殿東国下向事付時行滅亡事」より一部抜粋
……相摸次郎時行には、諏訪三河守・三浦介入道(=時継)・同若狭五郎(=氏明)・葦名判官入道・那和左近大夫・清久山城守・塩谷民部大夫・工藤四郎左衛門已下宗との大名五十余人与してげれば、伊豆・駿河・武蔵・相摸・甲斐・信濃の勢共不相付云事なし。時行其勢を率して、五万余騎、俄に信濃国に打越て、時日を不替則鎌倉へ責上りける。……(略)……平家の後陣には、諏方の祝部身を恩に報じて、防戦ひけり。…(略)…平家の兵、前後の敵に被囲て、叶はじとや思けん、一戦にも不及、皆鎌倉を指て引けるが、又腰越にて返し合せて葦名判官も被討にけり。始遠江の橋本より、佐夜の中山・江尻・高橋・箱根山・相摸河・片瀬・腰越・十間坂、此等十七箇度の戦ひに、平家二万余騎の兵共、或は討れ或は疵を蒙りて、今僅に三百余騎に成ければ、諏方三河守を始として宗との大名四十三人、大御堂の内に走入り、同く皆自害して名を滅亡の跡にぞ留めける。……(以下略)
実名と烏帽子親について
【史料】A~Cにあるように「盛員」と記すもの(或いは読まれているもの)が多く残されているが、冒頭で述べた通り実際は「盛貞」が正確な名であろう。
結論から言えば、通字「盛」に対する「貞」は得宗・北条貞時の偏諱であろう。父・盛宗が北条時宗、長男・高盛が北条高時、各々の1字を受けたとみられ、「盛宗―盛貞―高盛」3代が歴代得宗「時宗―貞時―高時」と烏帽子親子関係を結んでいたと考えるのが自然だと思う。
その裏付けとして、生年は前述の2説が伝わっているが、いずれを採っても通常10代前半で行う元服当時の得宗は北条貞時(在職:1284年~1301年、1311年逝去)*5となって辻褄が合う。貞時からの偏諱「貞」を下(2文字目)に置いているのは、盛貞が当初、時宗の1字を受けた嫡兄・時盛(のちに遁世または早世と伝わる)に対する庶子(準嫡子)であったためであろう。
実際、比較的古い時代に成立の系図では「盛貞」と書かれている。その例を以下に挙げておこう。
▲【系図F】「三浦和田氏一族惣系図」(『三浦和田文書』)より*6
上記2つのほか、葦名盛宗周辺の系図を載せるものとしては次の『系図纂要』が挙げられるが、表記は「盛員」となっている。
▲【系図H】『系図纂要』平氏3「平朝臣姓 佐原・蘆名」より*8
『系図纂要』は江戸時代幕末期の成立であり、盛員(盛貞)の兄・時盛に対する系線が間違っている等、その信憑性には注意を払わなければならないが、【史料D】の道円=盛員とするなど、当時における研究成果をまとめたものとして見ることは可能である。
もっとも【史料B】は『塔寺八幡宮長帳』*9の異本*10であるというから、伝わる過程で誤読 あるいは 誤写が起こった可能性は十分に考えられよう。「員」と「貞」の崩し字はよく似ており*11、同様に読み間違えたケースは他にも確認できる。参考までに翻刻(活字化)前の画像を掲げておこう。
▲【系図I】『系図纂要』内閣文庫所蔵原本(草稿)の前掲【系図H】部分*12
▲【図J】『養蚕秘録』(上垣守国 著、1802年)での「員」の崩し字*13
【図I】の「盛員」の部分について、確かに【図J】に似てはいる。そもそも「員」の崩し字は異体字である「貟」に基づく書き方であるが、一方「貞」の崩し字についても「貝」の上「┣」の縦棒が斜めに書かれた例は少なからずある*14。そう考えると右隣にある貞連・貞政兄弟(従兄弟にあたる)の「貞」ともかけ離れてはいない。
『系図纂要』編纂にあたっては恐らく、同じく江戸時代成立の【系図G】も参照したのではないかと思われるが、崩し字の影響からか、その伝写の際に「貞」を「員(貟)」と誤読、または「貞」のつもりで書いていたものが翻刻の際に「員(貟)」と読まれてしまったのではないかと推測される。
【系図F】・【系図G】といった古系図での表記からしても、これまで「葦名盛員」とされてきた人物の正確な氏名は、得宗・北条貞時の偏諱を受けた「葦名盛貞」であったと判断される。
(参考ページ)
● 蘆名盛員
脚注
*1:http://aizufudoki.sakura.ne.jp/yamanouchi/yamanouchi9-1.htm より。
*4:『神奈川県史 資料編3 古代・中世(3上)』3231号。北条時行史料集〜中先代の乱〜。大須賀氏二 #大須賀宗朝。延暦寺申状 [1] - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*6:『新横須賀市史』資料編 古代・中世Ⅱ(横須賀市、2007年)P.1025~1027。髙橋秀樹氏によるとこの系図は永和元(1375)年までの成立であるという(同P.1132)。
*7:前注『新横須賀市史』P.1040~1041。『諸家系図纂』は江戸時代にまとめられたものであるが、この系図に関しては、三浦介家を義同・義意父子まで載せるのに対し、葦名氏については盛貞までを墨書し、それ以後を朱で補筆していることから、髙橋秀樹氏は、この系図の原形が南北朝期の成立で、三浦介の系統を書き継いで再編集したものと考えられている(同P.1132~1133)。尚、葦名氏部分の「 」部分(朱書)は宇都宮家蔵「葦名系図」で補った旨が記されており、同内容を載せる『続群書類従』六上所収の「三浦系図」はこれを底本としているようである(同前)。
*9:この史料については 塔寺八幡宮長帳(とうでらはちまんぐうながちょう) - 会津坂下町 および 塔寺八幡宮長帳(とうでらはちまんぐうながちょう)とは - コトバンク を参照のこと。
*10:元来は同一の書物であるが、伝承の過程で文字や語句、構成等において相違するところが生じた本のこと(→ 異本とは - コトバンク 参照)。
*11:「員」(U+54E1) および 「貞」(U+8C9E)(いずれも 日本古典籍くずし字データセット | ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター より)を参照。
*12:宝月圭吾・岩沢愿彦『系図纂要』第八冊(名著出版、1974年)P.96~97。
*13:養蚕秘録 P.31 - 日本古典籍データセット より。
*14:注11前掲「貞」(U+8C9E)参照。