平盛貞
平 盛貞(たいら の もりさだ、生年不詳(1280年代?)~没年不詳)は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家の御内人、内管領・平宗綱の子か。
まず、盛貞の実在が確認できる次の史料を掲げておきたい。
【史料A】正安3(1301)年3月3日付「関東下知状」(『常陸鹿島神宮文書』)*1
鹿嶋社権禰宜実則子息大禰宜則氏申、常陸国大窪郷内塩片倉村田五町・在家五宇事
右郷者、右大将家、元暦元年於当社為不断大般若転読御寄進之最初、嚢祖禰宜大夫則親拝領以降、至亡父実則五代相伝知行無相違、而大夫僧正坊忠源、以件田・在家為新平三郎左衛門尉盛貞跡拝領之由申之、盛貞非地頭、又無名主之儀、但苽連沙汰人称願、限三ヶ年所買得也、若令寄附彼証文歟、依之、
難被没収之由、則氏依申之、被尋問之処、当給人忠源去年十一月八日請文者、彼田在家者、依御祈祷忠〔源 脱字カ〕拝領之間、当所之由来不存知云々、而尚没収時、盛貞相伝由緒及御沙汰否、被尋問安東左衛門尉重綱之処、如重綱請文者、為盛貞跡、被没収否、為奉行不申沙汰之間、不存知云々者、当郷社領之条、代々御下知分明也、於正応没収之地者、人領尚以就理非被裁許、況神領、難及没収之間、於彼田在家者、所被返付実則跡也、次替事、可被充行当給人者、依鎌倉殿仰、下知如件、
正安三年三月三日
この史料は、正安3年3月3日に「新平三郎左衛門尉盛貞」なる人物の跡(=旧領)であった常陸国大窪郷内の「塩行倉村田五町・在家五宇」を、僧正・忠源が祈祷の恩賞として拝領した旨の内容となっている。
梶川貴子氏は「盛貞跡」について、「正応没収の地」とあること、盛貞の由緒について得宗被官の安東重綱に尋問していることなどから、平禅門の乱に関連して収公された土地であったと説かれており、「貞」が北条貞時の偏諱と見られること、通称が「三郎」であることから盛貞は平宗綱の子だったのではないかと推測されている*3。
以下、この見解について検証してみたいと思う。
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まず、この梶川氏の考え方には、「新・平三郎左衛門尉盛貞」という通称名の捉え方が前提にあるが、この当時「新平」という苗字の武士は特に確認できないので、筆者も同氏の見解には同意である。「新」と付くのは、平頼綱の出家後、「平左衛門尉」・「平三郎左衛門尉」等と呼ばれていた宗綱と区別されたためであろう。
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北条貞時執権期間(1284年~1301年)*4内に元服の適齢である10代前半を迎え「貞」の1字を受けたのだとすれば、早くとも1270年代の生まれとすべきであろう。この場合だと、正応6(1293)年の平禅門の乱で頼綱らと共に討たれたとしても、当時20歳頃で左衛門尉在任であったことになるからおかしくはない。その反面、年齢差の観点から宗綱との父子関係に疑問が残り、飯沼資宗(宗綱の実弟)の弟の可能性も出てくる。
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上記記事にて宗綱の生年を1260年頃と推定したが、盛貞がその子であれば早くても1280年代の生まれとするのが妥当と思われる。この場合で同様に平禅門の乱で滅んだとすると、当時10~13歳で左衛門尉であったことになり、13歳で"飯沼判官"と呼ばれていた資宗の例もあるから決してあり得ないとは言い切れないものの、やはり左衛門尉任官済みの年齢としては早い感じも否めない。
但し、「新・平三郎左衛門尉」という通称はあくまで【史料A】が出された正安3年当時のものであり、平禅門の乱当時のそれであったかどうかは判断が難しい。前述したように、乱後に盛貞の所領が没収されたことは確かであろうが、盛貞が乱で命を落としたとは断定できない。乱後、頼綱と対立していた宗綱でさえ一時的な処置として流罪となっているから、盛貞への処罰も所領の没収のみに留まり、【史料A】に「故~(=故人)」の記載が特にないことからして正安3年当時も存命であったと考えることも決して不可能ではないだろう。
よって、盛貞が正応6年当時必ずしも左衛門尉である必要性は無くなり、やはり宗綱の子であった可能性が高くなるだろう。但し得宗からの偏諱が下(2文字目)となっていることから、資宗を嫡子にと考えていた頼綱の影響があってか、庶流として扱われていたのかもしれない。
以上、平盛貞が当時の得宗(執権)・北条貞時の1字を受けていたことはほぼ確実と思われるが、生年や系図上での位置については検討の余地を残しており、今後新しい史料の発掘に応じて後考を俟ちたいところである。
脚注
*1:瓜連関係史料 より。『鎌倉遺文』第27巻20723号。
*2:社家の姓氏-中臣鹿島氏- 掲載の系図より。
*3:梶川貴子「得宗被官平氏の系譜 ― 盛綱から頼綱まで ―」(所収:『東洋哲学研究所紀要』第34号、東洋哲学研究所編、2018年)P.117。
*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。