Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

平盛貞

平 盛貞(たいら の もりさだ、生年不詳(1280年代?)~没年不詳)は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家の御内人内管領平宗綱の子か。

 

まず、盛貞の実在が確認できる次の史料を掲げておきたい。 

【史料A】正安3(1301)年3月3日付「関東下知状」(『常陸鹿島神宮文書』)*1

鹿嶋社権禰宜実則子息大禰宜則氏申、常陸国大窪郷内塩片倉村田五町・在家五宇

右郷者、右大将家元暦元年於当社為不断大般若転読御寄進之最初、嚢祖禰宜大夫則親拝領以降、至亡父実則五代相伝知行無相違、而大夫僧正坊忠源以件田・在家為新平三郎左衛門尉盛貞拝領之由申之、盛貞非地頭、又無名主之儀、但苽連沙汰人称願、限三ヶ年所買得也、若令寄附彼証文歟、依之、

難被没収之由、則氏依申之、被尋問之処、当給人忠源去年十一月八日請文者、彼田在家者、依御祈祷〔源 脱字カ〕拝領之間、当所之由来不存知云々、而尚没収時、盛貞相伝由緒及御沙汰否、被尋問安東左衛門尉重綱之処、如重綱請文者、為盛貞、被没収否、為奉行不申沙汰之間、不存知云々者、当郷社領之条、代々御下知分明也、正応没収之地、人領尚以就理非被裁許、況神領、難及没収之間、於彼田在家者、所被返付実則跡也、次替事、可被充行当給人者、依鎌倉殿仰、下知如件、

 正安三年三月三日

  陸奥守平朝臣(花押)*連署北条宣時

  相模守平朝臣(花押)*執権・北条貞時

 

*中臣姓鹿島氏(鹿島神宮禰宜家)略系図*2

 則親―則政―則長―則重―実則―則氏

 

この史料は、正安3年3月3日に「新平三郎左衛門尉盛貞」なる人物の跡(=旧領)であった常陸国大窪郷内の「塩行倉村田五町・在家五宇」を、僧正・忠源が祈祷の恩賞として拝領した旨の内容となっている。

梶川貴子は「盛貞跡」について、「正応没収の地」とあること、盛貞の由緒について得宗被官の安東重綱に尋問していることなどから、平禅門の乱に関連して収公された土地であったと説かれており、「」が北条時の偏諱と見られること、通称が「三郎」であることから盛平宗綱の子だったのではないかと推測されている*3

以下、この見解について検証してみたいと思う。

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まず、この梶川氏の考え方には、「・平三郎左衛門尉盛貞」という通称名の捉え方が前提にあるが、この当時「新平」という苗字の武士は特に確認できないので、筆者も同氏の見解には同意である。「」と付くのは、平頼綱の出家後、「平左衛門尉」・「平三郎左衛門尉」等と呼ばれていた宗綱と区別されたためであろう。 

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北条貞時執権期間(1284年~1301年)*4内に元服の適齢である10代前半を迎え「貞」の1字を受けたのだとすれば、早くとも1270年代の生まれとすべきであろう。この場合だと、正応6(1293)年の平禅門の乱で頼綱らと共に討たれたとしても、当時20歳頃で左衛門尉在任であったことになるからおかしくはない。その反面、年齢差の観点から宗綱との父子関係に疑問が残り、飯沼資宗(宗綱の実弟の弟の可能性も出てくる。

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上記記事にて宗綱の生年を1260年頃と推定したが、盛貞がその子であれば早くても1280年代の生まれとするのが妥当と思われる。この場合で同様に平禅門の乱で滅んだとすると、当時10~13歳で左衛門尉であったことになり、13歳で"飯沼判官"と呼ばれていた資宗の例もあるから決してあり得ないとは言い切れないものの、やはり左衛門尉任官済みの年齢としては早い感じも否めない。

 

但し、「新・平三郎左衛門尉」という通称はあくまで【史料A】が出された正安3年当時のものであり、平禅門の乱当時のそれであったかどうかは判断が難しい。前述したように、乱後に盛貞の所領が没収されたことは確かであろうが、盛貞が乱で命を落としたとは断定できない。乱後、頼綱と対立していた宗綱でさえ一時的な処置として流罪となっているから、盛貞への処罰も所領の没収のみに留まり、【史料A】に「故~(=故人)」の記載が特にないことからして正安3年当時も存命であったと考えることも決して不可能ではないだろう。

よって、盛貞が正応6年当時必ずしも左衛門尉である必要性は無くなり、やはり宗綱の子であった可能性が高くなるだろう。但し得宗からの偏諱が下(2文字目)となっていることから、資宗を嫡子にと考えていた頼綱の影響があってか、庶流として扱われていたのかもしれない。

以上、平盛が当時の得宗(執権)・北条時の1字を受けていたことはほぼ確実と思われるが、生年や系図上での位置については検討の余地を残しており、今後新しい史料の発掘に応じて後考を俟ちたいところである。

 

脚注