土岐高頼
土岐 高頼(とき たかより、1290年代?~没年不詳)は、鎌倉時代末期の武将、僧。
『尊卑分脈』所収土岐系図(以下『分脈』と略記)や、「土岐家伝大系図」(東大謄写、岐阜県稲葉郡加村・徳山ひさ 氏原蔵)に、土岐頼貞の次男として記載されている。
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こちら▲の記事で紹介の通り、頼貞については文永8(1271)年生まれとされ、『分脈』にはその嫡孫・頼康の傍注に嘉慶元(1387)年12月25日(西暦:1388年2月3日)瑞岩寺に於いて70歳で卒去した旨の記載があって、逆算すると文保2(1318)年生まれと判明している。
従って、頼貞の6男で、頼康の父にあたる頼清の生年は明らかになっていないが、1291~1298年あたり(各親子の年齢差を20以上とした場合)とするのが妥当であろう。僅かに「明智氏一族宮城家相伝系図書」での頼宗(頼清)の注記に「正応四(1291)年辛卯十一月八日生」とあり、兄の高頼らも同様に1290年前後の生まれであったと考えられよう(腹違いや双子等ということも考えられる)*1。
【図1】
ここで、土岐氏歴代当主の実名に着目すると、頼貞の代から先祖(源頼光・源頼国父子)由来の「頼」の通字を "復活" させ、以降「頼○」型の名乗りを原則としていたことが窺えるが、一時期足利将軍(義持、義成[のち義政])の偏諱を受けた場合には成頼のように「○頼」型となることもあった*2。
次に頼貞の男子の名乗りに着目してみたい。僧籍に入った道謙・周崔を除くほとんどの者が「頼○」型である中、高頼だけがその例外である。すなわち「高」を1文字目に据えたのには何かしらの理由があったと判断して然るべきであるが、やはり烏帽子親からの偏諱と考える他にない。候補となり得るのは得宗・北条高時であろう。
前述の生誕時期に基づけば、高時が得宗家家督を継いだ応長元(1311)年に、高頼はちょうど10代前半と元服の適齢を迎える。上記記事で言及の通り父・頼貞も北条貞時(高時の父)の1字を拝領したと考えられるので、その慣例に倣ったのであろう。
そして、そのような扱いであったことからすると、恐らく高頼は頼貞の当初の嫡男に指名されていたのではないか(頼直は頼貞の庶長子か*4)。しかし『分脈』にあるように高頼は「遁世」してしまったため、家督継承者の座は頼清(父に先立って死去のため次いで頼遠)に移ることとなった。
尚、『分脈』(【図2】)高頼の傍注での「僧・妙光 是(これ)也(なり)」(妙光はこの高頼である)という記載から、成立した室町時代当時 "妙光" なる僧はかなり知られていた人物だったかもしれないが、その記録は今のところ特に確認されていない。
僅かに『越中宝鑑』などによると、専福寺の前身は美濃国麻生谷城主であった土岐高頼が越中国婦負郡二屋村(現・富山市八尾町)に開いた天台宗の草庵で、正慶元(1332)年、本願寺三世覚如に帰依して、自らの名を慶順、寺号を専福寺と改め、浄土真宗に改宗したという。他史料での裏付けが難しく、「慶順」と「妙光」の違いがあるなど、この伝承が正しいかどうかは判断し難いが、高頼が鎌倉幕府滅亡の直前に "遁世" していた可能性を示す参考資料にはなるだろう。
冒頭で掲げた2つの系図以外に高頼の名は確認できず、今後の課題としてはその実在を確かめる必要があることと、南北朝時代の妙光なる僧についての情報が求められると思う。これについては後考を俟ちたい。
(参考ページ)
● 土岐家伝大系図 土岐高頼が載っていました! - 九里 【九里】を探して三千里
● 北谷山 専福寺
脚注
*1:『分脈』に従えば、頼直・道謙・周崔が同母兄弟であったという。
*2:他の例としては康行の孫・持頼が挙げられる。また「頼」字でなくても、持益・政房も同じく偏諱を1文字目に置いており、早世した持益の嫡男・持兼も同様であった。後には政房の弟たちや3男・治頼など「○頼」型の人物も出てくるが、系図を見る限り当初は偏諱を受けるなどのよほどの理由が無い限り「頼○」型を原則としていたと判断される。これは頼光・頼国と同じ構成を重視したものなのではないか。
*3:佐々木紀一「『渋川系図』伝本補遺、附土岐頼貞一族考証」(上)(所収:『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』39巻、2012年)P.36 より。
*4:頼直が道謙・周崔と同母兄弟であることは注1で言及の通りだが、その母親の詳細については明かされていない。しかし、道謙・周崔が僧籍に入っていることからするとあまり身分の高い女性でなかった可能性が高く、頼直もその理由から家督継承者とならなかったと考えられる。