Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

足利家時

足利 家時(あしかが いえとき、1260年~1284年)は、鎌倉時代中期の武将、鎌倉幕府御家人。 足利宗家第6代当主。

父は足利頼氏。母はその "家女房"(侍女)であった上杉重房の娘と伝わる*1。通称・官途は足利太郎、式部丞、式部大夫、伊予守。

 

 

生没年と烏帽子親について

家時の生没年については近年の研究において、「瀧山寺縁起」温室番帳に「(六月)廿五日 足利伊与守源ノ家時、弘安七年(=1284年)逝去、廿五才、*2(年齢は数え年、以下同様)とあるのが確認され、今日ではこれが有力とされている*3

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逆算すると文応元(1260)年生まれとなり、1240年生まれと判明した父・頼氏との年齢差を考慮しても十分妥当で、また頼氏が亡くなる1262年までに生まれたことになって辻褄が合う。

更に、初めて史料上で元服後の実名が確認できるのは、建治2(1276)年8月2日付「関東下知状案」(『紀伊金剛三昧院文書』)*4での「足利式部大夫家時」であり、この当時17歳となることにも何ら問題はない。

 

ところで紺戸淳は、足利氏歴代当主の各々生年から推定される元服の年次*5と、北条氏得宗家の各々当主の座にあった期間とを比較し、次の【図A】に示すように一字(偏諱)のやり取りがあったことを考証されている*6

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▲【図A】足利・北条両家略系図*7

 

【図A】を見ると、歴代当主の中で家時が唯一「得宗からの偏諱+通字の氏」という名乗りの構成の例外となっており、それ故に「足利氏の政治的地位をいっそう低下させ、また北条氏との関係も円滑さを欠くようになった」と評価する論考もあった。しかし、家時の元服に至るまで、その慣例は「泰氏―頼氏」のたかが2代続いたのみ*8で、しかも頼氏(初名:利氏)は改名によって得宗北条時頼偏諱を受けたのであり、貞氏高氏がまだ生まれていないこの段階で「得宗偏諱+氏」の名乗りでないことを低評価に繋げるべきではない。尚、早世した貞氏の最初の嫡男(高氏の兄)は「高義」と名乗っている。

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「家」は頼氏亡き後、幼少の家時に代わって家督を代行していたとされる伯父(頼氏の長兄)家氏*9の1字と思われるが、一方の「」は北条氏の通字である*10。【図A】に示した通り、元服当時の得宗 および 執権は北条時宗である*11から、「」の字を与えた烏帽子親は宗以外に考えられないと思う。

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「時」字の配置についてはこちら▲を参照いただければと思うが、いずれにせよ北条氏から一字を拝領したことは認められ、得宗北条時宗との関係も良好であったと思われる。その証左の一つとして、次の史料にもある家時の伊予守補任が挙げられる。

【史料B】『勘仲記』弘安5(1282)年11月25日条

(前略)

今夕被行小除目僧事、

権少外記中原師鑒、兼、     侍従藤原公尚、

少内記家弘、        伊勢守藤盛綱、

伊豫守源家時、    按察卿二男右近少将源親平、

従四位下祝部行昌、     正五位下中原師國、四位外記巡年叙也、

小槻兼賀、四位縫殿権助叙也、  従五位下源宗家

清原泰尚、

 (以下略)

前述の「瀧山寺縁起」温室番帳との照合からしても、この史料中の「伊予守源家時」は足利家時に比定される。前田治は、この家時の伊予守補任は時宗による対蒙古政策としての源氏将軍復活に連動した “源義経の再現” を意図したものであったと解されている*12。 

 

家時の死について

冒頭で示したように、この2年後、4月4日には時宗が亡くなり、6月25日には家時もこの世を去った。『尊卑分脈』には「早世」とあるのみだが、25歳という若さでの死去を考慮して、死因は『続群書類従』所収「足利系図」に記載の「切腹(=自殺)」という見方が有力である。

その理由については『難太平記』にある所謂「置文伝説」のエピソードも知られるが、それ以外の研究として、本郷和人・熊谷隆之らが安達泰盛(翌1285年の霜月騒動で滅亡)の強力な与党で失脚した佐介時国が義理の外叔父であったため連座したとする説を唱える一方で、田中大喜らは元寇を受けて強まった「源氏将軍」を待望する空気の高揚の中で、家時自身に野心があるのではないかとの猜疑心を抑えるべく北条時宗に殉死することで得宗家への忠節を示し、これにより鎌倉幕府末期まで足利氏が得宗家に次ぐ家格・地位を保持したと説かれている。

時国が六波羅探題(南方)を罷免の上で関東へ召し下された日付については史料ごとに若干異なるが、20日~23日の間には絞られている。家時はこれより間もない25日に「切腹」したので、この時国捕縛の知らせが最終的なきっかけを与えた可能性は十分に考えられる。

但しそれは恐らく「連座」ではなかっただろう。確かに霜月騒動で吉良氏や斯波宗家といった一門が連座してはいるものの、それらの事件に関連して足利本家(息子の貞氏など)が罰せられた形跡は確認できない。恐らく家時に謀反の意志は無く、特に直接の関係も無い安達泰盛一派に肩入れするつもりも無ければ、時国事件にも全く関与していなかったが、「源氏将軍」として担ぎ上げられる危険性を感じたので、事実上の "時宗への殉死" という形を取ったのではないだろうか。

或いはここに「置文伝説」のエピソードを絡めても良さそうである。すなわち、「自分は七代の子孫に生まれ変わって天下を取る」という先祖・源義家の置文が存在していたことで、7代孫にあたる家時に葛藤を生ませた可能性もある。当時の政治的情勢は家時にとってチャンスにもなり得たが、かつての祖父・泰氏の失脚事件のことも聞かされていたのだろうか、家時は得宗に叛逆しないことを選択したのであった。

義家の置文、「源氏将軍観」の高揚、時宗の死、安達泰盛派と平頼綱派の抗争、時国の逮捕……。こうした一連の流れが家時を精神的に追い詰めていったものと推測される。

 

ちなみに、家時が執事・高師氏に遺した書状が師氏の孫・師秋に引き継がれ、後に家時の孫・直義がそれを見て感激し、師秋には直義が直筆の案文(控え)を送って正文は自分の下に留め置いた、という直義の書状が残っており、「家時の置文」そのものの実在は確かである*13

その原文は明らかにされていないが、直義が感激するような内容であったとすれば、やはり孫の代に託したという内容でもおかしくないだろう。直義は兄・尊氏と共に鎌倉幕府に代わって権力者となったが、その後にたまたま祖父・家時も同じことを願っていたことを知れば「感激」すると思う。

父の頼氏に続き、25年(満24年)という短い生涯ではあったが、激動の北条時宗執政期の中、家時は足利家の地位を確かに後の世代へ繋げたのであった。

 

(参考ページ)

 足利家時 - Wikipedia

 足利家時とは - コトバンク

 

脚注

*1:『尊卑分脈』のほか、「深谷上杉系図」には重房の女子(頼重の妹)の注記に「足利治部大輔頼氏室 伊豫守家時母…」、「関東管領上椙両家及庶流伝」のそれにも「足利治部大輔頼氏室 伊豫守家時母堂」(いずれも『諸家系図纂』所収)と書かれている。

*2:田中大喜 編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉(戎光祥出版、2013年)P.402、前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(同書P.189)。この記事に信憑性があることは、新行紀一「足利氏の三河額田郡支配―鎌倉時代を中心に―」(同書P.286)を参照。「伊与」は「伊予」の別表記である。

*3:『世界大百科事典 第2版』「足利家時」の項 より(コトバンク所収、執筆:青山幹哉)。

*4:『鎌倉遺文』第16巻12437号。

*5:鎌倉時代当時における一般的な元服の年齢を10~15歳と仮定。

*6:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.12。

*7:前注紺戸氏論文 P.12に掲載の図に修正を加えて作成。年(西暦)は、北条氏は各々得宗の座にあった期間(経時は省略)、足利氏は推定される元服の年次を示す。

*8:泰氏の父・義氏の「義」については、年代的には北条義時から偏諱を受けたという見方が出来るかもしれないが、元々源氏から続くそれまでの通字とみるのが妥当と思われるので、この字は義時とは特に関係は無いと判断したい。

*9:吉井功兒「鎌倉後期の足利氏家督」(所収:注2前掲田中氏著書)P.166-167。

*10:谷俊彦「北条氏の専制政治と足利氏」(所収:注2前掲田中氏著書)P.131。

*11:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*12:注2前掲前田氏論文(所収:注2前掲田中氏著書)P.203)。

*13:佐藤進一『日本歴史9 南北朝の動乱〈改版〉』(中央公論社〈中公文庫〉、2005年)P.129~132。注10前掲小谷氏論文、阪田雄一「高氏・上杉氏の確執をめぐって」(注2前掲田中氏著書P.124・313)。