Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

小田泰知

小田 泰知(おだ やすとも、1211年~1245年)は、鎌倉時代前期の武将、御家人常陸小田氏第3代当主。八田知家の嫡孫。父は知家の長男・小田知重。妻は三浦泰村の娘と伝わる。子に小田時知、女子結城広綱室、小萱重広母)。通称・官途は奥太郎左衛門尉。

 

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こちら▲の記事で紹介の通り、『系図纂要』での注記には寛元3(1245)年5月13日に35歳(数え年、以下同様)で亡くなったとあり、逆算すると承元5/建暦元(1211)年生まれとなる。

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こちら▲の記事で紹介の通り、『常陸誌料』には、寛元3年に泰知が亡くなった時、その子・時知が幼少であったため、宍戸家周(泰知の従兄弟にあたる)常陸守護職を継いだという記述が見られる*1が、『系図纂要』に従うと時知は仁治3(1242)年生まれとなり辻褄が合う。『吾妻鏡』を見ると時知は元服から間もない建長4(1252)年から鎌倉御家人として活動していることが確認できる。

 

冒頭の記事にも掲げた『尊卑分脈』では「奥太郎」とのみ記載されるが、「佐野本三浦系図」を見ると、三浦泰村の女子の一人に「母同上(=母北条武蔵守泰時女)小田奥太郎左衛門泰知室、常陸介時知」とあり*2、泰村の娘を妻に迎えていたことが窺える一方、その表記から左衛門尉従六位下相当)*3であったことが分かる(実際の史料でも確認できることは後述参照)。嫡男・時知も初見の建長4年(当時11歳)の段階で既に「小田左衛門尉時知」と呼ばれていたから、泰知も1221年頃には左衛門尉になっていたのではないか。

そして年齢的に考えて、同じ頃に元服を遂げたと思われる。知家―知重と続いた「知」の上(=実名の1文字目)にわざわざ戴く「」の字は、紺戸淳の推測通り北条からの偏諱と考えて良かろう*4。泰時が3代執権となったのは元仁元(1224)年からであり*5、同年に14歳で元服したとも考えられるが、前述の泰村のようなケースもある*6ので、執権就任前の泰時から一字を拝領したとしても問題は無い。

 

泰知については管見の限り『吾妻鏡』等の主要な史料上で確認は出来ないが、僅かに、渡邊正男*7や木下竜馬*8が紹介された、『中世法制史料集』未収録の「青山文庫本 貞永式目追加」にある各国守護の名簿の中に、泰知に比定し得る「奥太郎左衛門 常陸」が含まれている(=写真参照)*9。このリストは、嘉禎4(1238)年の4代将軍・九条頼経の上洛に際して作成されたと推定され*10、当時常陸守護として泰知が活動していたことの証左となる。前述の泰知の存命期間内にも収まっていて問題ない。

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▲「青山文庫本 貞永式目追加」(新日本古典籍総合データベース より

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もう一つ、こちら▲の記事で【図I】として掲げた『結城小峯文書』所収「結城系図」を見ると、広綱庶子重広(七郎、民部大輔)の注記に「常陸奥太郎左衛門尉泰知」とある。市村高男の研究によると、同系図鎌倉時代後期の1320年前後に成立した古系図とされ*11、重広の外祖父として泰知が実在であったことを示している。小萱重広*12の生年は不詳だが、広綱の跡を継いだ異母兄弟の時広が1267年生まれで、広綱の生年も1227年頃とされるので、大内宗重(時広の庶兄)と同様、早くとも1250年頃と推定可能である。泰知―重広(祖父―孫)間の年齢差を考慮しても、1211年生まれであったことが裏付けられよう。

 

(備考)

この他、浄興寺の寺伝によれば、弘長3(1263)年の小田泰知の乱により同寺の伽藍が焼失したといい*13、勝願寺の寺伝の一つにも同年に兵火にかかった旨が記録されているらしい*14が、前述の通り泰知は寛元3年に亡くなっていた可能性が高いため、少なくとも「泰知」の人名については検討を要する。単に息子・時知の誤記とも考えられるが、いずれにせよ小田氏の乱について他の史料で確認されていないので、この辺りは後考を俟ちたい。

 

脚注

*1:『大日本史料』5-26 P.148

*2:『大日本史料』5-22 P.135

*3:左衛門大夫とは - コトバンク より。

*4:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.15。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*6:泰時が泰村の元服の際に加冠を務めたことは、同じく「佐野本三浦系図」に記載がある(→『大日本史料』5-22 P.134)。泰村の元服の時期については 三浦泰村 - Henkipedia を参照のこと。

*7:渡邊正男「丹波篠山市教育委員会所蔵「貞永式目追加」」(所収:『史学雑誌』128編9号)。

*8:木下竜馬「新出鎌倉幕府法令集についての一考察」(所収:『古文書学研究』88号)および 木下 竜馬 (Ryoma KINOSHITA) - 御成敗式目ブログ - researchmap

*9:嘉禎四年、宝治元年の守護1: 資料の声を聴く より。

*10:嘉禎四年の出雲・隠岐守護1: 資料の声を聴く より。

*11:市村高男「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察 系図研究の視点と方法の探求―」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)。

*12:続群書類従』所収の「結城系図」には重広の項に「小萱民部大輔」の注記があり、分家して小萱氏の祖となったことが窺える。【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia【図C】・【図D】・【図E】を参照。

*13:浄興寺について | 新潟県上越市浄興寺 - Wikipedia勝願寺住職としての順性 より。

*14:勝願寺住職としての順性 より。