Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

小田宗知

小田 宗知(おだ むねとも、1259年~1306年)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人常陸小田氏第5代当主。父は小田時知。弟に北条道知小神野時義。子に小田知貞(手野知貞)、小田貞宗などがいる。通称および官途は太郎左衛門尉、筑後守。法名尊覚(そんかく)

 

 

烏帽子親と主な活動について

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こちら▲の記事で紹介の通り、『系図纂要』での注記には徳治元(1306)年12月6日に48歳で卒去とあり、『佐竹古文書』・『常陸誌料』でも同様の記載がある*1から、逆算すると1259年生まれとなる。他の例も見れば元服は10代前半で行うのが一般的であったから、6代将軍・宗尊親王が解任の上で京都に送還された文永3(1266)年*2までにその1字を受けたとは考え難い。また、時知18歳の時の子となるので、少なくともそれを遡ることはほぼあり得ないと言って良く、宗尊から1字を受ける可能性は尚更無くなる。祖父・泰知が北条泰時、父・時知が北条氏の通字「時」を拝領してきたことからしても、の「」が得宗・8代執権の北条時(1263年家督継承、在職期間:1268~1284年)*3偏諱であることは確実と言えよう*4

 

宗知に関する史料としては次の書状(写し)が確認されており、問題なく前述の存命期間内に収まる。 

【史料A】正安3(1300)年12月23日付「小田宗知判物案」(『常陸国総社宮文書』)*5

異国降伏御祈事、御巻数到来候了、仍状如件

  正安三年十二月廿三日 宗知(花押影)

 惣社神主(=清原師幸)殿

常陸誌料』では、系図や『総社文書』から宗知が常陸国守護であったと判断して記述されている*6が、その『総社文書』が指す史料がこの【史料A】であろう。最終官途が筑後であったことは、『佐竹古文書』に「筑後守宗朝〔ママ〕」とある*7ほか、文保2(1318)年3月24日付の常陸惣社社殿造営相論に関する一地頭の請文に「…先年為筑後前司宗知御使…」とあるによって確認ができ*8、【史料A】当時42歳の宗知も筑後守在任もしくは退任後であったと考えられる。同じく『常陸誌料』によると、嘉元年間(1303~1306年)には剃髪して「尊覚」と号したという*9

 

現在の茨城県土浦市木田余町にある宝積寺は、嘉元4/徳治元(1306)年に宗知が開基したものと伝えられる*10。これが正しければ、同年末に宗知が亡くなるまでの建立ということになる。

 

 

宗知の息子たち

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宗知の男子について、こちら▲の記事に掲げた『尊卑分脈』には知貞貞宗が載せられ、『系図纂要』ではもう一人牛野貞氏を載せる。但し『常陸誌料』では知貞の初名が「貞氏」で、居所に因んで手野氏を称したとするので、『系図纂要』編纂時に貞氏と知貞を別人としてしまったのかもしれない。『常陸誌料』によると宗知の死後、手野知貞貞宗家督を争ったといい*11信太忠貞らの支援を得た嫡男の貞宗が後継者となった*12

 

宗知には知貞・貞宗の他にも宗儀(宗己)宗寿という息子がいたという。

 

 宮宅国経(源五)の娘・小夜との間に生まれたという復庵宗己(1280?-?、俗名: 小田宗儀)は、中国に渡って中峰明本に師事し、帰国後の正慶元(1332)年に甥の小田治久(当時は高知)から与えられた高岡村の楊阜庵(のち正受庵)を文和3(1354)年に法雲寺として開基したという*13。1339年に治久は飯沼砦の村、青鳥(おおとり)をこの法雲寺(楊阜庵)に寄進しており、1341年に治久が北朝方に降伏して転じた後、宗己も北朝方の結城氏に招かれて結城に華蔵寺を建てている*14

上曽盛治(左衛門尉、上曽氏は小田知重の子・知賀を祖とする)の娘との間に生まれたという小田宗壽(新三郎)は谷田部(現・つくば市谷田部)漆山に築城して同地を領し、その地名から谷田部氏を名乗ったと伝えられる*15

 

脚注

*1:『大日本史料』6-2 P.669670

*2:宗尊親王とは - コトバンク より。

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*4:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.15。

*5:茨城県史料 中世編一』P.392 一二号文書。『鎌倉遺文』第27巻20936号。

*6:『大日本史料』6-2 P.670

*7:『大日本史料』6-2 P.669

*8:佐藤進一『増訂 鎌倉幕府守護制度の研究 ー諸国守護沿革考証編ー』(東京大学出版会、1971年)P.75 (註三) より。

*9:『大日本史料』6-2 P.670

*10:盛本昌広「近世における小田氏関係史料収集の背景」(所収:『史苑』第58巻第2号、 立教大学史学会、1998年)P.64 注(28)①。典拠は『新編常陸国誌』巻五。宝積寺 (土浦市)より。

*11:『大日本史料』6-2 P.670

*12:武家家伝_信太氏 より。

*13:『水海道市史 上巻』(水海道市(現・茨城県常総市)、1983年)P.254伊川健二「茨城県南地域ゆかりの史料にみる前近代異国観の諸事例」(所収:『つくば国際大学 研究紀要』No.22、2016年)P.78、千葉隆司「市町村博物館と地域史研究」(所収:『筑波学院大学紀要』12号、2017年)P.122、図説・新治村史 | データ検索情報誌2018~2019

*14:前注『水海道市史 上巻』P.254

*15:沼尻家の歴史 または 谷田部氏沼尻家 より。典拠は「谷田部氏系図」か。