Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

小田貞宗

小田 貞宗(おだ さだむね、1283年~1335年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人常陸小田氏第5代当主。父は小田宗知。子に小田治久(初め高知)。通称および官途は太郎左衛門尉、常陸介、常陸入道。法名妙朝(みょうちょう)

 

 

烏帽子親と家督継承について

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こちら▲の記事で紹介の『尊卑分脈(以下『分脈』と略記)には小田宗知の嫡男として掲載される。尚『系図纂要(以下『纂要』と略記)では「貞朝」とするが「貞宗」とも注記があるほか、実際の書状である【史料1】(後述参照)により「貞宗」が正しいことが分かる。いずれの系図でも共通して「常陸介 太郎左衛門尉」と注記され、【史料1】と官途も一致する。「常陸介」が最終官途であったことは後述するが、「太郎左衛門尉」は父・宗知と同様で、常陸介任官前の通称だったのであろう。

貞宗の没年については建武2(1335)年で共通しているが、その享年(※数え年)については史料ごとに異なっている*1

『小田事蹟』:弘安6(1283)年誕生、建武2(1335)年閏10月20日53歳没

常陸誌料』:建武2年12月23日53歳没

『佐竹古文書』:建武2年12月22日48歳没(=1288年生)

『纂要』:建武2年閏10月20日48歳没

但し、いずれの説を採ったとしても1280年代の生まれであることは確かと言って良いだろう。他の例を見る限り、元服は10代前半で行われることが多かったから、その時期が北条執権期間(1284年~1301年)*2内であったことも確実で、紺戸淳のご推測通り「」の名もその偏諱を受けたものと考えて問題ないだろう*3

『分脈』では貞宗の兄弟に(彦四郎左衛門尉)の記載があり、こちらも時の1字を受けた形跡が見られる。『纂要』では宗知の子としてもう一人牛野貞氏を載せるが、『常陸誌料』では知貞の初名が「貞氏」で、居所に因んで手野氏(手野知貞)を称したとするので、『纂要』編纂時に貞氏と知貞を別人としてしまったのかもしれない(「牛野」も「手野」の誤記または誤読・誤写であろう)。そして、輩行名太郎貞宗彦四郎知貞)による判断からであろうか、『常陸誌料』では貞宗を兄、知貞を弟として家督を争ったとする*4が、『分脈』ではわざわざ貞宗の右側(通常、兄弟は右から順に記載)に知貞を載せるので、実際は知貞は貞宗の庶兄だったのではないか。貞がそれまでの通字「」ではなく父の1字「」を使用したのは、先に知貞が元服を済ませていたからとも考えられよう。これが正しければ、「知貞」と名乗った際には既に庶子(準嫡子)扱いであったと推測され*5、知貞が貞宗の兄であれば、家督継承者の資格を主張することにも納得がいく。

徳治元(1306)年12月の宗知死後の家督争いは、信太忠貞らの支援を得た貞宗が後継者となることで決着がついたのであった*6

 

小田貞宗に関する史料

以下、貞宗に関するものと思われる史料群を掲げる。

 

【史料1】文保2(1318)年5月4日付「小田貞宗請文」(『常陸国総社宮文書』)*7

常陸国惣社神主(清原)師幸并供僧等申、当社造営事、去正和五年九月廿四日御教書案・訴状、去年十二月廿日御催促状、謹承候畢、筑波社三村郷分、全無造営之例候、胸臆之説、更不及御信用候、以此旨可有御披露候、恐惶謹言

 文保二年五月四日  常陸貞宗 請文

翌文保3(1319)年(月不詳)20日付「常陸国総社造営役所地頭等請文目録」の中に【史料1】を指すと思われる「一通 筑波社三村郷地頭小田常陸前司□□〔請文常陸前司=前常陸介)の記載がある*8ので、【史料1】の発給者「常陸貞宗」は『分脈』にもある小田貞宗に比定される。

尚、その通称名からこの時までに常陸介を辞していたことが窺える。前節で述べた生年に従えばこの当時30代前半であったことになるが、祖父・時知常陸介任官が30代後半で*9、次第に低年齢化していたと考えれば、辞した後の年齢として十分妥当と判断でき、逆に1280年代生まれであることを裏付けられよう。

 

【史料2】(元亨3(1323)年)『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』):元亨3年10月27日の故・北条貞時13年忌供養において、砂金50両・銀剣一を献上した「常陸前司」について、『神奈川県史』では「輔方」とする*10が、これも小田貞宗の可能性が考えられる(但し六波羅頭人となった小田時知の可能性もあるので要検討)。前述の通り貞時とは烏帽子親子関係にあったこと、同族だと宇都宮頼房高房の父)の「大和前司」など苗字無しで御家人の通称が記載される箇所があることからである。「輔方」とは嘉暦4(1329)年8月25日付で「中尊寺建立供養願文」を書写した藤原輔方のことであろうか、明らかにされていないが、管見の限り常陸介であった傍証が確認できない。

 

【史料3】嘉暦2(1327)年6月14日付「関東御教書案」『諸家文書纂』所収『結城古文書』*11

安藤又太郎季長郎従季兼以下、与力悪党誅伐事、不日相催一族、差遣子息尾張権守、於津軽戦場、可被抽軍忠之状、依仰、執達如件、

  嘉暦二年六月十四日 相模守(=執権・北条守時

            修理大夫(=連署・大仏維貞)

 小田常陸入道殿

いわゆる安藤氏の乱に関する史料である。嘉暦元(1326)年、蜂起した安藤季長は工藤貞祐率いる幕府軍に捕縛された*12が、その翌年季兼らその郎党(残党)が蜂起した際、息子の「尾張権守」を津軽の戦場に遣わしたことを賞している。「小田常陸入道」の息子「(小田)尾張権守」については次の史料により小田高知に比定される。

【史料4】『鎌倉年代記』裏書*13(または『北條九代記』*14)より一部抜粋

今年嘉暦二……六月、宇都宮五郎高貞小田尾張権守高知、為蝦夷追討使下向、……

今年嘉暦三、十月、奥州合戦事、以和談之儀、高貞高知等帰参、……

従って父の「小田常陸入道」も貞宗に比定できる。すなわち貞宗は【史料2】(1323年) から【史料3】(1327年) の間に出家したことになる(『系図纂要』・『常陸誌料』によると法名は妙朝)。その契機としてあり得るとすれば、 正中3(1326=嘉暦元)年3月の北条高時の剃髪に追随した可能性が考えられよう。

嘉暦2年当時既に出家して嫡男の高知(治久)を出兵させていること、以後亡くなる1335年までの表立った活動が見られないことから、晩年期は既に家督を譲って隠退していたのかもしれない。高知ら小田家が無事鎌倉幕府滅亡を乗り越えたのを見届けてこの世を去ったのであった。

脚注

*1:『大日本史料』6-2 P.669670

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*3:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.15。

*4:『大日本史料』6-2 P.670

*5:兄弟間で偏諱の位置を変えた例としては、九条頼経から1字を受けた北条経時時頼北条時宗から1字を受けた安達盛宗宗景千葉宗胤胤宗 などが挙げられる。

*6:武家家伝_信太氏 より。

*7:茨城県史料 中世編一』P.394 二〇号文書。『鎌倉遺文』第34巻26667号。

*8:茨城県史料 中世編一』P.394 二一号文書。『鎌倉遺文』第35巻27027号。

*9:小田時知 (嫡流第4代当主) - Henkipedia 参照。

*10:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.711。

*11:白河市史』第五巻 古代・中世 資料編2(福島県白河市、1991年)P.89。『岩手県史』(第二巻)P.230。『諸家文書纂』二(国立公文書館デジタルアーカイブ)16ページ目。

*12:工藤貞祐 - Henkipedia【史料10】参照。

*13:竹内理三 編『増補 続史料大成 第51巻』(臨川書店)P.63。年代記嘉暦2年年代記嘉暦3年

*14:『史料稿本』後醍醐天皇紀・嘉暦2年4~8月 P.25