Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

小田高知

小田 高知(おだ たかとも、1300年頃?~1352年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人常陸小田氏第7代当主。のち小田治久(はるひさ)と改名。

父は小田貞宗。子に小田孝朝。通称および官途は(常陸)太郎左衛門尉、尾張権守、宮内権少輔。

 

▲伝・小田治久像(法雲寺蔵)

 

小田高知に関する史料の紹介

まずは、鎌倉時代末期における高知についての史料群を紹介する。

 

【史料1】正中2(1325)年6月6日付「鎌倉幕府奉行連署奉書」(『鹿島大祢宜家文書』)*1

常陸国大枝郷給主能親与地頭野本四郎左衛門尉貞光和泉三郎左衛門尉顕助等相論、鹿島社不開御殿仁慈門造営事、丹塗格子之外者、悉可為給主役之由、元亨三年八月晦日注進之間、依被急遷宮、任注申之旨、加催促可造畢、於理非、追可有其沙汰之由雖被仰下、遷宮于今遅引、而当郷地頭・給主折中之地也、任先規両方可勤仕之旨、云度々御教書、云木田見・大王・藤井・田子共等之例、炳焉之由、能親所申有其謂、爰国奉行人成敗雖区、下地平均課役可随分限之条、相叶理致、然地頭・給主共可造進之旨加催促、急速可被終其功之条、依仰執達如件、

  正中二年六月六日 散位(花押)

           前長門介(花押)

           左衛門尉(花押)

           前加賀守(花押)

 山河判官入道殿

 小田常陸太郎左衛門尉殿

 大瀬次郎左衛門尉殿

 下郷掃部丞殴

市村高男によると、この史料は常陸国鹿島社不開殿仁慈門造営をめぐる同国大枝郷の給主・中臣能親と地頭の野本貞光和泉顕助らとの相論に際し、幕府が「当郷(=大枝郷)は地頭・ 給主折中之地」であるから、「下地平均課役可随分限」そして「地頭・給主共に造進すべきの旨、催促を加」え、速やかに遷宮を実現させるよう、山川・ 小田氏ら4名に対して命じたものであるという*2

その宛先の一人「小田常陸太郎左衛門尉殿」について『鎌倉遺文』では父・貞宗に比定し、市村氏も特にこれを疑わなかった。ところが、貞宗は文保2(1318)年の段階で既に常陸介を辞していたことが確認でき*3常陸太郎左衛門尉」はその後の通称として不自然である

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こちら▲の記事で掲げた『尊卑分脈(以下『分脈』と略記)小田氏系図では確かに貞宗の注記に「太郎左衛門尉」とあり、これを生前名乗っていたこと自体は否定できない。しかし「常陸太郎左衛門尉」という通称は、父が常陸(もしくは前任者)で、自身は輩行名が「太郎」で左衛門尉に任官していたことを表すものである。すなわち「常陸太郎左衛門尉」自身は常陸介に任官しておらず、正中2年当時において常陸介を辞していた貞宗に同定し得ないのである。

従って【史料1】の「小田常陸太郎左衛門尉」は貞宗ではなく、その嫡男・高知に比定されるべきである

『分脈』によると、6代貞宗のみならず、2代知重・5代宗知も「太郎左衛門尉」を称していたようであり、3代泰知も「奥太郎左衛門」と呼称されていたことが確認できる。4代時知も『吾妻鏡』では「(小田)左衛門尉(時知)」と書かれるのみだが、輩行名が同じく「太郎」であったことは想像に難くない。従って太郎左衛門尉」は知重以降の小田氏嫡流における称号と化していたとも言え、7代高知もその仮名を継承したのであった。

 

【史料2】嘉暦2(1327)年6月14日付「関東御教書案」『諸家文書纂』所収『結城古文書』*4

安藤又太郎季長郎従季兼以下、与力悪党誅伐事、不日相催一族、差遣子息尾張権守、於津軽戦場、可被抽軍忠之状、依仰、執達如件、

  嘉暦二年六月十四日 相模守(=執権・北条守時

            修理大夫(=連署・大仏維貞)

 小田常陸入道殿

【史料2】はいわゆる安藤氏の乱に関するものである。嘉暦元(1326)年、蜂起した安藤季長は工藤貞祐率いる幕府軍に捕縛された*5が、その翌年季兼らその郎党(残党)が蜂起した際、息子の「尾張権守」を「津軽の戦場」に「差し遣わ」したことを賞している。「小田常陸入道」の息子「(小田)尾張権守」については次の史料により高知に比定される。

 

【史料3】『鎌倉年代記』裏書*6(または『北條九代記』*7)より一部抜粋

今年嘉暦二……六月、宇都宮五郎高貞小田尾張権守高知、為蝦夷追討使下向、……

今年嘉暦三、十月、奥州合戦事、以和談之儀、高貞高知等帰参、……

ここで『分脈』と照らし合わせると、小田貞宗常陸介)の嫡男・高知の注記「宮内権少輔 尾張権守*8と実名・官途の一致が一致する。よって【史料2】の「(小田常陸入道 子息)尾張権守」、【史料3】の「小田尾張権守高知」はいずれも小田貞宗の子・高知に同定され、通称の一致から次に掲げる史料にも高知が登場していることが窺える。

 

【史料4】元徳3/元弘元(1331)年9月5日付「関東御教書案」(『伊勢光明寺文書残篇』)

 被成御教書人々。次第不同。
武蔵左近大夫将監  遠江入道
江馬越前権守    遠江前司
千葉介貞胤    小山判官高朝
河越参河入道
貞重 結城七郎左衛門尉朝高
長沼駿河権守
(宗親) 佐々木隠岐前司清高
千葉太郎
胤貞   佐々木近江前司
小田尾張権守     
佐々木備中前司(大原時重)
土岐伯耆入道頼貞  小笠原又五郎
佐々木源太左衛門尉(加地時秀) 狩野介入道
貞親
佐々木佐渡大夫判官入道導誉 讃岐国守護代 駿河八郎

 以上廿人。暫可在京之由被仰了。

 嶋津上総入道
貞久 大和孫六左衛門尉高房

 

史料5】元弘元(1331)年10月15日付「関東楠木城発向軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*9

楠木城
一手東 自宇治至于大和道
 陸奥大仏貞直       河越参河入道貞重
 小山判官高朝       佐々木近江入道(貞氏?)
 佐々木備中前司(大原時重)   千葉太郎胤貞
 武田三郎(政義)       小笠原彦五郎貞宗
 諏訪祝(時継?)         高坂出羽権守(信重)
 島津上総入道貞久     長崎四郎左衛門尉(高貞)
 大和弥六左衛門尉高房   安保左衛門入道(道堪)
 加地左衛門入道(家貞)     吉野執行

一手北 自八幡于佐良□路
 武蔵右馬助(金沢貞冬)      駿河八郎
 千葉介貞胤          長沼駿河権守(宗親)
 小田人々
               佐々木源太左衛門尉(加地時秀)
 伊東大和入道祐宗       宇佐美摂津前司貞祐
 薩摩常陸前司(伊東祐光?)     □野二郎左衛門尉
 湯浅人々           和泉国軍勢

一手南西 自山崎至天王寺大
 江馬越前入道(時見?)       遠江前司
 武田伊豆守           三浦若狭判官(時明)
 渋谷遠江権守(重光?)       狩野彦七左衛門尉
 狩野介入道貞親        信濃国軍勢

一手 伊賀路
 足利治部大夫高氏      結城七郎左衛門尉朝高
 加藤丹後入道        加藤左衛門尉
 勝間田彦太郎入道      美濃軍勢
 尾張軍勢

 同十五日  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参
 同十六日
 中村弥二郎 自関東帰参

(*http://chibasi.net/kyushu11.htm より引用。( )は人物比定。) 

 
【史料6】元弘3(1333)年4月日付関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*10
大将軍
 陸奥大仏貞直遠江国       武蔵右馬助(金沢貞冬)伊勢国
 遠江尾張国            武蔵左近大夫将監(北条時名)美濃国
 駿河左近大夫将監(甘縄時顕)讃岐国  足利宮内大輔(吉良貞家)三河国
 足利上総三郎吉良満義        千葉介貞胤一族并伊賀国
 長沼越前権守(秀行)淡路国         宇都宮三河権守貞宗伊予国
 佐々木源太左衛門尉(加地時秀)備前国 小笠原五郎(頼久)阿波国
 越衆御手信濃国             小山大夫判官高朝一族
 小田尾張権守 一族            結城七郎左衛門尉朝高 一族
 武田三郎(政義)一族并甲斐国       小笠原信濃入道宗長一族
 伊東大和入道祐宗一族         宇佐美摂津前司貞祐一族
 薩摩常陸前司(伊東祐光カ)一族    安保左衛門入道(道堪)一族
 渋谷遠江権守(重光?)一族      河越参河入道貞重一族
 三浦若狭判官(時明)         高坂出羽権守(信重)
 佐々木隠岐前司清高一族      同備中前司(大原時重)
 千葉太郎胤貞

勢多橋警護
 佐々木近江前司(京極貞氏?)       同佐渡大夫判官入道京極導誉

(* http://chibasi.net/kyushu11.htm より引用。( )は人物比定。)

 

これらの史料は、後醍醐天皇による2度目の倒幕運動=元弘の変に際し、幕府が京へ差し向けた軍勢の名簿であり、その構成員の中に「小田尾張権守」=高知が含まれている。ちなみに【史料4】は、『新校 群書類従』に『光明寺残篇』の翻刻を掲載する際に、その異本から挿入された部分であるといい、『鎌倉遺文』にも収録されている*11。【史料6】での記載から一族を率いる立場にあったことが窺え、父が出家済みであった【史料2】の段階では既に家督の座を継いでいたのではないかと思われる。【史料5】の「小田人々」も高知たち小田家を指していると判断して問題なかろう。鎌倉幕府滅亡の直前まで幕府側について活動していたことが窺える。

 

 

小田治久への改名

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1333年5月22日、鎌倉東勝寺において烏帽子親(後述参照)北条高時らが自害し、鎌倉幕府は滅亡した(『太平記』etc.)。直前まで幕府側であった高知はこれに殉ずることなく生き残り、上記記事▲で紹介の通り、やがて「治久」に改名したとされる。

建武4(1337)年3月日付「伊賀盛光軍忠状」(『飯野八幡社古文書』)の冒頭に「右為討伐当国凶徒小田宮内権少輔治久以下輩、…(以下略)」*12、同年11月日付「烟田時幹軍忠状案」京都大学総合博物館所蔵『烟田文書』)*13の文中にも「……小田宮内権少輔治久以下凶徒等成一手、……」とあり、管見の限り遅くともこの年までには「治久」に改名していたことが分かるが、その通称「宮内権少輔」は前述した『分脈』での高知の注記にあったものである*14

高知=治久 とされるのはそのためであろう。江戸幕末期に編纂された『系図纂要』では貞宗の嫡男は「治久」となっている(前述記事参照)ほか、『常陸誌料』でも「治久、初名高知」と記述されている。尚、後者をそのまま読み進めると「後醍醐天皇偏諱、因更治久……(中略)……自延元元年(=1336年)至興國二年(=1341年)……御諱…(以下略)」とあり*15、「」の名が後醍醐天皇の諱「*16から「」の1字を賜ったものと説明されている。前述の軍忠状2点と照合すれば、1336~1337年の間に改名したと判断できよう。

 

 

生没年と烏帽子親について

その後南朝方として活動していた治久だったが、暦応4/興国2(1341)年11月18日には北朝方の足利尊氏執事・高師冬と対面して降伏した*17。『園太暦』正平7年/文和元(1352)年10月23日条には伝聞として「小田常陸前司」なるものが関東より上洛したことが記録されており、『大日本史料』ではこれを治久とする*18。これが正しければ、治久も父・貞宗と同じく最終的には常陸に任官したことになる。

治久はその年(1352年)の12月11日(西暦:1353年1月16日)に亡くなったと伝わる。『佐竹古文書』「小田代々城主事」の「治久源朝臣」の注記に、同日「御年七拾歳(=70歳)御逝去」とある*19ためか、系図類や『常陸誌料』等でもこの説が採用され*20、逆算して弘安6(1283)年生まれと考えられてきた。

ところが、「小田代々城主事」で筑後守宗朝〔ママ、宗知〕と治久の間に書かれる「常陸〔ママ〕」は明らかに常陸介貞宗を指すが、記載の没年齢から逆算すると1288年生まれとなり、父・貞宗より先に息子の治久が生まれたことになって矛盾する。この現象は『系図纂要』等系図類でも同様に起こる。

それ故に、山田邦明貞宗との兄弟の可能性も説かれた*21が、これは前掲【史料2】によって明確に否定される。親子の年齢差の観点から言って、貞宗(およびそれ以前の各当主)の生年は動かすことは不可能であるから、高知(治久)は早くとも1300年頃の生まれでなくてはおかしい。ちなみに「小田代々城主事」等により息子の孝朝は1337年生まれとなるので、父・治久がそれ以前の生まれとすれば、高齢期での子供となってしまい不自然である。

そもそも、『佐竹古文書』自体は実際の史料でその価値は高いと思うが、「小田代々城主事」の部分については小田城落城時(安土桃山時代)の小田守治まで載せられており*22、近世の成立である。従って鎌倉・室町時代の部分は伝承に基づいて書かれているに過ぎず、実際「宗」や「常陸」といった誤記もあるから、その情報は必ずしも信用すべきものではないと思う。

 

ここで今一度、前掲の史料を振り返ると、【史料1】で1325年当時「左衛門尉従六位下相当)*23」であったことが判明し、1325~1327年(【史料2】)の間に「尾張権守従五位下相当、権官」任官を果たしたことになる。

併せて歴代当主の例も見ておきたい。曽祖父の4代時知は11歳までに左衛門尉任官を果たし、30代後半で常陸介となっている。3代泰知も左衛門尉であったが、35歳で亡くなったためか、それ以上の昇進は確認できない。父の6代貞宗は30代前半で常陸従六位上正六位下相当)*24を辞しており、任官した時は低年齢化して20代後半であった可能性もある。

従って、高知(治久)尾張権守任官も20代後半であった可能性があり、1300年頃の生まれとすれば辻褄が合う。それを補強し得るのが初名「」の「」の字である。これは、鎌倉幕府滅亡後に改名したことも踏まえれば、1309年に元服し、1311年に得宗の座を継いだ北条(14代執権在任:1316~1326年)*25偏諱に他ならない*26元服の時期・年齢も考慮して、それを限りなく正確に近い生年として結論とする。

 

(参考ページ)

 小田高知とは - コトバンク

 小田治久とは - コトバンク

 小田治久 - Wikipedia

南北朝列伝 ー 小田治久

 小田治久

 

脚注

*1:『鎌倉遺文』第37巻29132号。市村高男「鎌倉末期の下総山川氏と得宗権力 ―二つの長勝寺梵鐘が結ぶ関東と津軽の歴史―」(所収:『弘前大学國史研究』100号、弘前大学國史研究会、1996年)P.26。

*2:前注市村氏論文 P.27。

*3:小田貞宗 - Henkipedia【史料1】参照。

*4:『新編弘前市史資料編1 古代・中世編』六二四号文書。『白河市史』第五巻 古代・中世 資料編2(福島県白河市、1991年)P.89。『岩手県史』(第二巻)P.230。『諸家文書纂』二(国立公文書館デジタルアーカイブ)16ページ目。

*5:工藤貞祐 - Henkipedia【史料10】参照。

*6:竹内理三 編『増補 続史料大成 第51巻』(臨川書店)P.63。年代記嘉暦2年年代記嘉暦3年

*7:『史料稿本』後醍醐天皇紀・嘉暦2年4~8月 P.25

*8:『大日本史料』6-2 P.670

*9:『鎌倉遺文』第41巻32135号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*10:『鎌倉遺文』第41巻32136号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*11:『鎌倉遺文』第40巻31509号。『新校 群書類従』第19巻 P.738

*12:『大日本史料』6-4 P.93

*13:南北朝遺文 関東編 第一巻』(東京堂出版)766号 または『鉾田町史 中世資料編』「烟田史料」所収。

*14:『大日本史料』6-2 P.670

*15:『大日本史料』6-17 P.294

*16:後醍醐天皇とは - コトバンク より。

*17:『大日本史料』6-6 P.975~976

*18:『大日本史料』6-17 P.147

*19:『大日本史料』6-2 P.669『大日本史料』6-17 P.292『大日本史料』7-20 P.207

*20:『大日本史料』6-17 P.293~294

*21:『朝日日本歴史人物事典』「小田治久」の項コトバンク所収)。

*22:『大日本史料』7-20 P.207『編年史料』後陽成天皇紀・慶長6年閏11~12月 P.18

*23:左衛門大夫とは - コトバンク より。

*24:常陸国司 - Wikipedia官位相当表 より。

*25:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*26:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.15。