Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

矢部禅尼

矢部禅尼(やべぜんに、1183年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代前期から中期にかけての三浦一族の女性。俗名は不詳。法名禅阿(ぜんあ)鎌倉幕府の有力御家人三浦義村の娘。三浦泰村三浦光村の姉にあたる。

 

 

2回の結婚と息子たち

まず、三浦氏の系図類における義村女子の一人の注記を掲げてみよう。

『諸家系図纂』:「号矢部尼、北条泰時室、時氏母、後嫁悪遠江守盛連光盛盛時時連三人母、」*1

系図纂要:「矢部禅尼、北条泰時朝臣室、後佐原盛連室」*2

『佐野本 三浦系図:「母同上(=長兄・朝村に同じく土肥弥太郎遠平女)北条武蔵守泰時室、号矢部禅尼、修理亮時氏母、後離別、再嫁佐原遠江守盛連、生会津遠江守光盛三浦介盛時蘆名判官時連、」*3

 

北条時氏(最終官途:修理亮)の側でも、『諸家系図纂』では「三浦義村」、系図纂要では「母矢部禅尼、三浦義村*4とあるなど複数系図類で注記が見られるほか、『鎌倉年代記』にも「駿河守泰村〔義村の誤記*5」とある*6

 

すなわち、三浦義村の娘の一人が初め北条泰時に嫁いで時氏を産み、離別後は佐原盛連(父・義村の従弟にあたる)に再び嫁いで光盛盛時時連を産んだということになる。この根拠となる史料が『吾妻鏡』にある次の記事である。

【史料A】『吾妻鏡』嘉禎3(1237)年6月1日条*7

六月大一日庚辰、矢部禅尼 法名禅阿和泉国吉井郷御下文之事、前遠江守盛連依令譲附也。彼御下文、五郎時頼、被持向三浦矢部別庄云々。是駿河前司義村娘也。始為左京兆室、故修理亮。後為盛連室、為光盛盛時時連等母云々。

『明月記』によると、「関東遠江守」(=盛連)は天福元(1233)年5月22日に官兵の静止を無視して上洛を強行しようとして殺害されたといい*8、【史料A】は幕府が矢部禅尼に対し、亡き夫・盛連の遺領である和泉国吉井郷を給与するといったものである。この記事の後半には、先に述べた矢部禅尼についての説明がある。

尚、この時には、夫の死を悼んでのことであろうか、出家して尼になっていたことも窺える。この当時も幕府の執権は泰時であり、離縁したとはいえ前妻であった矢部禅尼に対し寛大な処置を施したのであろう。

 

泰時との離縁の時期について

ここで矢部禅尼が泰時と離縁した時期について考察してみたい。

まず、泰時とは建仁2(1202)年8月23日に結婚し*9、間に生まれた長男・北条時氏の生年は翌3(1203)年と判明している*10から、これ以後ということになる。

一方、泰時の次男・時実(通称:武蔵次郎)については、母が安保実員(七郎左衛門尉)の娘と伝えられ(『諸家系図纂』)*11、嘉禄3(1227)年に家人の高橋次郎光繁(『前田本 平氏系図』ほか)に殺害された当時16歳であったといい(『吾妻鏡』・『鎌倉年代記』)*12、逆算すると建暦2(1212)年生まれと分かる。

この女性は泰時の継室であったといい、『佐野本 北条系図』によると早世した三浦泰村継室の母でもあったとも伝えられ*13、泰村に嫁いだ娘は元久3/建永元(1206)年生まれと判明している*14

すなわち、矢部禅尼が泰時と離縁させられたのは1203~1206年の間であったことになる。従って同時に、盛連と再婚して光盛・盛時・時連らを産んだのは1203年より後であることも確定する

 

 

再嫁後の息子たち

前述の通り、2番目の夫・盛連は天福元(1233)年に亡くなっており、光盛・盛時・時連らは同年までに生まれていなければおかしい。実際『吾妻鏡』での初見箇所も、光盛が嘉禎3(1237)年正月1日(「佐原新左衛門尉」)*15、盛時が貞永元(1232)年正月1日(「佐原五郎左衛門尉」)*16、時連が文暦元(1234)年正月1日(「佐原六郎兵衛尉」)*17となっており、左衛門尉や兵衛尉の官職を得ていることから、遅くとも1220年頃までには生まれていたと判断できる。

このうち盛連は、父・盛連の1字と「」字で実名を構成している。「」は言うまでもなく執権・北条氏の通字であり、実際に北条氏から一字を拝領したものとみられる。三浦氏佐原流では三浦義(盛連の父)北条時房(初め時の烏帽子親を務めて「」の字を与えた事例があり*18、自身の離縁後にも父・義北条政(泰時の異母弟)*19、元夫・時が年の離れた弟・村の加冠役となる*20など、北条・三浦両氏間で偏諱のやり取りが盛んに行われていたことが窺える。

泰村の例も踏まえると、矢部禅尼が息子たちの加冠を泰時に願い出ることは割と容易だったのではないか。泰時は元仁元(1224)年から3代執権となっており*21、息子たちの元服当時の執権となる可能性が高い。盛連の「」は泰からの偏諱であったと推測される。

こうした考察を踏まえると、離婚後も泰時との関係は良好であったと考えられ、離縁の理由は夫婦仲ではなく、政治的な思惑が絡んでいた可能性が高いとみられる。

 

 

北条時頼の「祖母」について 

 『吾妻鏡』康元元(1256)年4月10日条には、「武州前刺史禅室(=北条泰時後室禅尼」が食欲不振の病気によって70歳で亡くなり、執権・時頼(相模守)が50日の喪に服したという記事がある(逆算すると文治3(1187年)年生まれ)*22。言うまでもなく自身にとっての「祖母」だったからであろう。時頼は同年11月に執権を辞して出家した*23が、正嘉2(1258)年3月20日にもこの女性の3年忌法要を建長寺にて行っている*24

吾妻鏡人名索引』*25矢部禅尼 - Wikipedia などではこの女性を矢部禅尼のこととされているが、泰時の最終的な正室としては前述の継室(安保実員娘、谷津殿*26)が当てはまるのではないか

確かに血縁上は時頼の実の祖母は矢部禅尼であるが、前述の内容も踏まえると時頼が生まれた段階では既に離婚しており、時頼が直接 "祖母"と呼べる人物は谷津殿であったと考えられる。時頼は数え4歳で父・時氏を亡くした後、養育者として母の松下禅尼安達義景の妹)*27が存命でありながら、祖父・泰時からも大変気に入られていたようである*28が、その泰時の当時の継室(谷津殿)も時頼に少なからず影響を与える存在だったのではないか。

従って『吾妻鏡』での以下箇所については、禅阿(矢部禅尼)に比定する『吾妻鏡人名索引』での一部見解は誤り(泰時との結婚記事および【史料A】は除く)で、全て谷津殿を指すものと見なすべきである。

 

【表B】泰時継室安保氏(谷津殿)の登場箇所

月日 表記
寛喜元(1229) 2.2 武州
8.15 武州
寛喜3(1231) 3.1 (国司)室家
暦仁元(1238) 1.2 室家
2.3 左京兆室
建長8(1256) 4.1 武州前刺史禅室後室禅尼卒去
7.6 前武蔵禅室後室禅尼(葬儀)
正嘉2(1258) 3.2 前武州禅室御後室(3回忌)

*すると、1187~1256年を生きた泰時の妻は安保氏であったことになり、矢部禅尼の生没年は不明となるが、父・義村が1160年代前半の生まれと推測され*29、前述の通り長男・北条時氏が1203年生まれであることを踏まえれば、1183年頃の生まれであったと推定可能で、世代的には従来の説とさほど変わらない。

 

では、矢部禅尼と時頼が全くの無関係だったかというと、そういうわけではない。【史料A】にあるように和泉国吉井郷を給与する旨の「御下文」を当時11歳の五郎時頼が三浦矢部の別荘まで持っていっており、その折に実の祖母と直接対面したと推測される。

宝治合戦(1247年)の折、盛連の息子たちは6人(経連・広盛・盛義・光盛・盛時・時連)とも、宗家の泰村ではなく時頼の許に参じた。「匠作(=時氏)の旧好を重んじ」たためであったという。前述の内容を踏まえるとこの当時矢部禅尼が存命であったかは分からないが、時氏や時頼の話は息子たちに語っていたであろう。

 

こうして矢部禅尼は、2回の結婚によって北条・佐原両氏が自身の血を引くこととなり、両氏を繋ぐ役割を果たしていたのであった。泰村らが滅んだ後、時はその甥でもある盛時に「三浦介」家再興を許し、従弟にあたる(盛時の子)(時連の子)には「」の偏諱を与えたのであった。

 

脚注

*1:『大日本史料』5-14 P.407

*2:『大日本史料』5-22 P.118

*3:『大日本史料』5-22 P.137

*4:『大日本史料』5-5 P.756 

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その4-北条時氏 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。【史料A】にもある通り駿河守は義村の官途であり、若狭守となった泰村のそれではない(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その113-三浦泰村 | 日本中世史を楽しむ♪)。

*6:『大日本史料』5-5 P.755

*7:『大日本史料』5-11 P.263

*8:『大日本史料』5-9 P.63

*9:吾妻鏡』同日条に「江馬太郎(=泰時)殿、嫁三浦兵衛尉(=義村)女子」とある。

*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その4-北条時氏 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*11:『大日本史料』5-5 P.803

*12:『大日本史料』5-3 P.856857

*13:『大日本史料』5-22 P.147

*14:『吾妻鏡』寛喜2(1230)年8月4日条 に「武州(=武蔵守泰時)御息女 駿河次郎(=泰村)妻室 逝去 年廿五。産前後数十ヶ日悩乱。」とある。『佐野本 三浦系図』によると、この女性は泰村の嫡男・景村や、小田時知の母となった娘などを産んでいる(→『大日本史料』5-22 P.135)。

*15:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.132「光盛 佐原(三浦)」の項 より。

*16:前注『吾妻鏡人名索引』P.294「盛時 三浦」の項 より。

*17:前注『吾妻鏡人名索引』P.216「時連 佐原(三浦)」の項 より。

*18:吾妻鏡』文治5(1189)年4月18日条(→『大日本史料』4-2 P.596)。

*19:吾妻鏡』建保元(1213)年12月28日条(→『大日本史料』4-12 P.949)。

*20:『大日本史料』5-22 P.134

*21:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*22:『史料稿本』後深草天皇紀・康元元年3~4月 P.48

*23:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*24:『史料稿本』後深草天皇紀・正嘉2年3~5月 P.25

*25:前掲『吾妻鏡人名索引』P.556(女子名索引)「禅阿」の項 より。

*26:伊藤一美「東国における一武士団 ー北武蔵の安保氏についてー」(所収:『学習院史学』9号、1972年)P.29。

*27:『徒然草』第184段 より。

*28:北条時頼 - Wikipedia 参照。

*29:三浦泰村 - Henkipedia 参照。