千葉高胤
千葉 高胤(ちば たかたね、1310年頃?~1334年?)は、鎌倉時代末期の武将、御家人。千葉胤貞の最初の嫡子とみられる。通称は千葉小太郎。
『神代本 千葉系図』には胤貞の子として小太郎 高胤の記載が見られ*1、肥前国小城郡の雲海山岩蔵寺に所蔵されていた『雲海山岩蔵寺浄土院無縁如法経過去帳』(=『岩蔵寺過去帳』※焼失)にも、同郡の代々の地頭として「常胤、胤政、成胤、胤綱、時胤、泰胤、頼胤、宗胤、明恵 後室尼、胤貞、高胤、胤平、直胤〔=貞胤カ〕、胤直〔=胤貞(再承)カ〕、胤継(胤平弟)、胤泰…」と名を連ねている。
ここに記されるのは千葉氏の歴代当主(宗胤以降はいわゆる九州千葉氏)やその代行者であるが、胤貞と胤平の間に「高胤」が小城郡地頭であったことは注目に値する。というのも、次の史料にある通り胤貞が、嫡子であることを理由に胤平に所領を譲る旨の書状を遺しているからである。
●【史料1】建武元(1334)年12月1日付「千葉胤貞譲状」(『中山法華経寺文書』:『千葉県史料』収録)*2
小城郡のほか、下総国千田庄・八幡庄内の所領を胤平に譲るとした内容で、当然ながらこの時小城郡地頭の座も胤平に渡る筈だが、前述の過去帳に加え、次の史料により同郡地頭として高胤が実在であったことが認められよう。尚、署名の「平」というのは、千葉氏が桓武平氏良文流で平姓であったことによる(『尊卑分脈』など)。
●【史料2】「平(千葉カ)高胤寄進状」(『中山法華経寺文書』:『千葉県史料』収録)
これらの史料から、胤貞の次に小城郡地頭の座を継いだのは高胤であったが、恐らくは早世したため、改めて弟の胤平が嫡子に定められ、所領およびその惣領職が譲られたものと推測される。この推測が正しければ、高胤は【史料1】が出された建武元(1334)年12月以前に亡くなったことになる。
父の胤貞は正応元(1288)年、父(高胤祖父)宗胤の下向先の小城郡円明寺辺りで生まれたとされるが、正安3(1301)年の北条貞時出家以前には鎌倉に入って貞時の偏諱を受け元服し、以後鎌倉に居住していたと考えられている*3。従って、高胤や胤平も鎌倉または下総千田庄で生まれ育った可能性が高い*4。現実的な親子の年齢差を考慮すれば早くとも1310年頃の生まれとするのが妥当だと思う。
元服は通常10代前半で行われることが多かったから、その時期は14代執権・北条高時の在任期間(1316~1326年)*5内であった可能性は濃厚で、「高胤」の名もその偏諱を受けたものとみなして良いだろう*6。
尚、高胤に関する史料としては【史料2】の他にも、『一期所修善根記録』に「高胤聖霊」*7、『祐師文書事』(日祐自筆文書目録)にも前掲【史料2】を指すと思われる「高胤御寄進状一」の記載が見られる*8。
参考ページ
脚注
*1:『大日本史料』6-3 P.896。尚、同系図では高胤の兄として小太郎胤高を載せるが、仮名が同じであることや実名の類似から恐らくは重複ではないかと思われる。
*2:千葉氏の一族 #千葉胤平 より。
*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*6:千葉氏の一族 #千葉高胤 より。