千葉一胤
千葉 一胤(ちば かずたね、1312年頃?~1336年)は、南北朝時代の武将。父は千葉貞胤。通称は千葉新介。初名は千葉高胤 (たかたね) か。
『千葉大系図』では貞胤の子、氏胤の兄弟として一胤を載せ、その注記では「一」の部分について「高」とする別説(「一 作高」)を載せる*1。すなわち別名を「高胤」とするが、これについては当初北条高時の偏諱を受けた「高胤」をのちに「一胤」に改めたものと解釈されており*2、筆者もこれに賛同である。
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一つには、貞胤に至るまで代々北条氏得宗からの偏諱を受けてきたこと(時胤―頼胤―胤宗―貞胤)が挙げられる。一胤(高胤)が鎌倉時代末期から存命であったことは確実と言って良いと思うが、下記記事で紹介の通り、胤貞(貞胤の従兄)の次の肥前国小城郡地頭として実在が確認できる高胤も「高」の字を受けた形跡があるから、「千葉介」を継承する千葉氏嫡流となっていた貞胤の嫡子が高時の一字を受けなかったとは考え難い。
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そして、こちら▲の記事で紹介の通り、鎌倉幕府滅亡後には高時からの「高」字を棄てて改名した者が少なからずいたことが確認され、一胤(高胤)もその一人であったと考えて何ら問題は無いと思う。
(https://chibasi.net/souke17.htm より引用)
『太平記』(巻15「三井寺合戦並当寺撞鐘事付俵藤太事」)には、建武3(1336)年正月16日、南朝方の新田義貞軍に属していた「千葉新介」が、足利尊氏方の細川定禅と合戦に及んで矢で討たれ*3、『梅松論』ではそれより間もない三条河原での戦いにて「千葉介」が新田家臣の「船田入道、由良左衛門尉*4」と共に討ち取られたとする*5。通称名に若干の違いはあるが、「新」というのは父 "千葉介" 貞胤との区別で付されたものであり、当時の千葉介であった可能性を暗示する。
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こちら▲の記事で紹介の通り、貞胤は観応2(1351)年に亡くなったと伝えられるので、『梅松論』において討ち取られたとする「千葉介」は貞胤とは別人とみなすべきである。
また貞胤が存命であった貞和元(1345)年8月29日には、天龍寺供養における後陣の随兵のメンバーに「千葉新介」が見える*6が、これは『太平記』(巻24「天竜寺供養事付大仏供養事」)で明記の通り「千葉新介氏胤」*7に比定すべきであり、前述の討たれたという「千葉新介」はこの氏胤とも別人とすべきである。
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よって、建武3年正月に討たれたという「千葉新介」および「千葉介」は、『千葉大系図』において同月13日〔ママ〕に三井寺で戦死と注記される一胤に比定される。
『太平記』や『梅松論』は元々軍記物語ではあるが、正月16日に三井寺(園城寺)で合戦があったこと自体は実際の書状でも確認ができる*8ので、千葉一胤の討死も含め、実際の史実に基づいて描かれたと考えて良いと思われる。
ところで、『千葉大系図』での注記を再度確認すると「貞胤之(の)嫡子」として下総介に任じられたが、氏胤の下に列せられた故に家督を継がなかった、とある。しかし、前述の通りその後の注記では一胤が建武3(1336)年戦死とする一方、同系図の氏胤の注記には延元2(1337)年の誕生とあり、一胤の死後に氏胤が生まれたことになる。また、「嫡子」とは家督を相続する者の意味であるから、その者が誰かより格下で家督を継げなかったというのは明らかに矛盾しているし、同じ時を生きていない一胤・氏胤が家督を争える筈もない*9。
「千葉介」を継承できたということは、注記の最初にある通りでやはり「貞胤之嫡子」だったのであり、故に高時の偏諱を受けたのである。
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父・貞胤については1292年生まれと判明しており、現実的な親子の年齢差を考えれば、一胤(高胤)の生年は早くとも1312年頃と推定可能である。仮に1312年生まれとすると、北条高時が執権を辞して出家した正中3(1326)年*10の段階で15歳とちょうど元服の適齢に達する。よって、元服が通常10代前半で行われることから考えて、一胤(高胤)の生年は1312~1316年あたりとするのが妥当であると思う。高時執権期間(1316年~1326年)*11内の元服であったことが確実となり、「高」の偏諱を受けたと考えて差し支えない。
『伊勢光明寺残篇』を見ると、鎌倉幕府滅亡に至るまでの一連の戦い(元弘の乱)において父・貞胤と思われる「千葉介」が幕府側として従軍して参加しており、滅亡の直前、元弘3(1333)年4月のものと思われるリストにも「千葉介 一族并伊賀国」が含まれている*12。詳細な名前は記されていないものの、この「一族」の中に一胤(高胤)も含まれていたのではないかと思われ、以後父と動向を共にして建武政権に従ったとみられる。
参考ページ
脚注
*1:『千葉大系図』下巻。『大日本史料』6-2 P.1015。
*6:『大日本史料』6-9 P.249・275・278・287・304・306。
*8:『大日本史料』6-2 P.993~の各史料を参照のこと。
*9:氏胤の生年については『本土寺過去帳』での没年齢により1335年の可能性もあるが、それでも翌年に亡くなる一胤と家督を争うには無理がある。この頃貞胤が千葉介を譲るにしても、幼少の氏胤よりは、長男・一胤の方が適していたことは言うまでもなかろう。
*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*11:前注同箇所。
*12:『鎌倉遺文』第41巻32136号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。