Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

武田氏信

武田 氏信(たけだ うじのぶ、1312年~1380年)は、鎌倉時代末期から南北朝時代室町時代前期にかけての武将、守護大名武田信武の長男。仮名は彦太郎。官途は兵庫助、伊豆守。法名光誠(こうせい)

 

生誕と元服

系図綜覧』所収の『甲斐信濃源氏綱要』*1(以下『綱要』と略記)によると次の通りである。

応長2(1312)年1月2日、武田信武の長男として甲府の館にて生まれる。母は二階堂行藤の娘時藤貞藤の姉或いは妹)。幼名は徳光丸。元亨2(1322)年3月15日に足利貞を烏帽子親として11歳(数え年、以下同様)元服、「」の偏諱を与えられて彦太郎と名乗ったという。

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信時流武田氏では、祖父・信宗の代まで北条氏得宗家の偏諱を賜っていたが、その座は得宗被官として台頭してきた政綱(石和)流武田氏宗信貞信に移ってしまい、父・信武の代には得宗家とやや疎遠な関係になってしまったとみられる。そこで信武が頼りにしたのは、得宗北条貞時から「源氏嫡流」の公認を受けていたとされる貞氏*2であった。足利氏は北条氏と婚姻関係・烏帽子親子関係を重ね、それに次ぐ家格を誇っており、信武父子は早くから足利氏と結び付くことで劣勢な状況の打開を狙っていたのではないか。

鎌倉幕府滅亡期(元弘の乱)における動向は明らかになっていないが、僅かに『綱要』 には元弘2(1332)年秋に幕府軍の一人として上洛し、翌3(1333)年4月3日の四条猪熊の戦いでは美作の国人らを討ち取ったとある。後者合戦については『太平記』巻8「四月三日合戦事付妻鹿孫三郎勇力事」にある「武田兵庫助*3を指すと思われるが、これは父・信武に比定すべきである(次節参照)*4。但し信武の軍勢に息子の氏信随行していた可能性は十分にあり得、恐らく父子ともに当初は幕府方につき、やがて幕府を見限って乗り切ったと見なされる。このような行動は貞氏の子・高氏(のちの尊氏)に連動したものであろう。以後も信武・氏信父子は足利氏に従うこととなる。

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兵庫助在任時代

その後、氏信の名が確認できる史料としては、観応3(1352)年7月10日付の「熊谷彦八殿(=直平)」宛て足利義詮の書状案(後掲【史料6】)*5および同年11月日付「吉河次郎三郎経兼軍忠状」(後掲【史料7】)*6の文中の「武田兵庫助氏信」、また同年のものとされる12月12日付「吉河次郎三郎殿(=経兼)」宛て足利直冬の書状(後掲【史料8】)の冒頭「武田兵庫助氏信以下凶徒事、……*7が挙げられる。『尊卑分脈』の武田氏系図(以下『分脈』と略記)にも氏信の項に「兵庫助」の注記があり*8、この当時41歳にして兵庫助正六位下相当)*9であったというのは父・信武とほぼ同様で何ら問題は無いと思う。

ちなみに信武については、建武3(1336)年6月25日(当時45歳)の段階では「武田兵庫助信武」と呼称されていた*10のが、暦応4(1341)年(当時50歳)になると伊豆守在任が確認できる*11

すなわち、次に列挙する1341年以後の「武田兵庫助」も父の官途を継承した氏信に比定されよう。

【史料1】康永4(1345=貞和元)年8月29日足利尊氏・直義兄弟の天竜寺参詣に際しての随兵の中に「武田兵庫助(『園太暦』*12・『伊勢結城文書』*13・『太平記』巻24「天竜寺供養事付大仏供養事」*14

*『太平記』巻24(流布本)には、この時の先陣の随兵の一人に「武田伊豆前司信氏〔ママ〕」を載せ、名の類似という理由だけで判断すれば「氏信」とも見なし得るが、『参考太平記』によると毛利・北条・金勝院・南都の各本太平記および今川本の27巻では諱を「信武」と記すようで*15、また実際の史料である『伊勢結城文書』にも「武田伊豆前司 信武」と明記される*16ことから、この当時の武田伊豆前司(前伊豆守)=信武であったことは間違いない。「信氏」の名は『太平記』伝写の際に、直前に載せる「山名伊豆前司時氏」と混同された可能性も考えられよう。従って、それとは別に載せる武田兵庫助」の方を氏信に比定して何ら問題は無い。尚、同じく随伴した「武田伊豆四郎」は伊豆前司信武の子、兵庫助氏信の弟にあたる武田直信(ただのぶ)ではないかと思う(『分脈』より)。

【史料2】同4(1348)年7月11日付「武蔵守高師直奉書」(『薩藩旧記』):文中の「武田兵庫助*17

【史料3】観応元(1350)年6月19日付「兵庫助武田氏信書状」(『熊谷家文書』/『萩藩閥閲録』27-2):「熊谷彦八殿(=前述と同人)」宛て。発給者「兵庫助」の署名と花押*18

*次節にて後述するが【史料9】での花押に一致するため、武田氏信に比定される(武田氏と分かることについても後述する)。

【史料4】観応元年7月日付「周防親長軍忠状」*19、同月27日付「吉川実経軍忠状」*20

軍忠状とは、中世の武士が合戦における自分の功績を書き上げ、上申した文書のことで、上申された文書には軍事統率者たる大将が「承了(うけたまわりおわんぬ)」などと記して花押を据える形での証判を加え、差出人に返却した*21。この2点には氏信の花押が据えられており、6月2日、自身が守護を務めていた安芸国(後述参照)内にて「御敵之大将先代一族相模治部権少輔毛利備中守親胤親衡の誤記または誤読か〕以下*22の軍勢を敗走させた際の大将であったことが分かる。

*ここでの「先代」とは他史料でも見られるように北条氏を指す。すなわち「相模治部権少輔」は北条氏一族の生き残りで、その通称のみからで判断すれば、鎌倉時代後期、相模守に就任していた歴代執権(宗宣・貞顕は除く)いずれかの息子と考えられる。師時の子・貞規、基時の子(仲時・高基)、守時の子とされる益時は鎌倉幕府滅亡以前に亡くなっており、高時の子・時行はこの頃鎌倉周辺で戦っていたから、煕時の子(貞煕?・胤時・時敏)*23がその候補となり得よう。勿論、系図に記載の無い兄弟の可能性もあるので、これについては後考を俟ちたい。

【史料5】貞和6(1350)年11月日付「吉川経盛申状」(『吉川家文書』):文中の「当国(=安芸国守護武田兵庫助*24

*実際は1350年2月に貞和から観応に改元しているが、直冬およびその徒党は翌1351年まで「貞和」の元号を用い続けていた*25

【史料6】観応3(1352)年7月10日付「足利義詮御感御教書」(『熊谷家文書』/『萩藩閥閲録』27-2):文中の「武田兵庫助氏信

【史料7】観応3年11月日付「吉川経兼軍忠状」(『吉川家文書』):文中の「武田兵庫助氏信」 

【史料8】(観応3年)12月12日付「足利直冬御教書」(『吉川家文書』):冒頭に「武田兵庫助氏信以下凶徒事、……」

 

以上、これらの史料により、氏信は1345~1352年の間、34~41歳で兵庫助在任であったことが分かる。

 

 

伊豆守への昇進と出家後

1352年9月、「観応」から「文和」への改元が行われた。この年末に出された次の史料に着目したい。

【史料9】文和元(1352)年12月27日付「伊豆守武田氏信預状」(『熊谷家文書』/『萩藩閥閲録』):発給者「伊豆守」の署名と花押*26

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『大日本古文書』によると、【史料3】での「兵庫助」の花押はこの花押に一致するという。そして後掲【史料13】によって武田氏信であることが確定するが、すなわち氏信は1352年12月下旬に当時41歳で兵庫助から伊豆守従六位下相当)に昇進したことが分かる。官位相当の面では降格となるが、助(すけ、次官級)から守(かみ、長官級)への転任は昇進とみなされるし、また伊豆守は2代・信光から父・信武に至るまでゆかりのある役職であるから、むしろ希望に叶った待遇と言えるのではないか。

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▲【図B】南北朝期武田氏の花押(『大日本古文書』・『大日本史料』より)

この頃、観応2(1351)年10月26日付の書状(『大善寺文書』)に「安芸守信成*27、翌1352年の出来事を描く『太平記』巻31の文中に「武田陸奥守(信武)、子息安芸守」とあって*28、同母弟の武田信成*29も安芸守従五位下相当)任官を果たしたことが窺える。国守任官や叙爵は信成の方が少し早かった*30が、それでも氏信は先祖ゆかりの伊豆守任官が許されており、信成と遜色ない扱いを受けていたと考えるのが良いのであろう。近年では信成は庶子で、氏信の系統(安芸武田氏)が本来の武田氏嫡流だったのではないかと考えられている*31

 

以下、その後の氏信に関する史料を列挙する。

 

【史料10】文和5(1356=延文元)年3月16日付「伊豆守武田氏信預状」(『熊谷家文書』):発給者「伊豆守」の署名と花押*32

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*前掲【史料9】のものからは花押の形が変化しているが、これも氏信のものであることは【史料12】・【史料13】を参照のこと。

【史料11】延文4(1359)年4月20日付「足利義詮書状案」2通(『萩藩閥閲録』27-2):文中の「安芸国…(略)…守護人*33

*【史料5】との照合により、この頃も氏信が安芸国守護であったと見なされる。

 

 ◆この間、伊豆守を退任か。

 

【史料12】貞治3(1364)年7月1日付「前伊豆守武田氏信預状」2通(『熊谷家文書』):発給者「前伊豆守」の署名と花押*34

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*この花押は向きに若干の違いはあるが、筆跡は【史料10】のものに一致する。そしてこの花押は次の史料により武田氏信のものと分かる。

【史料13】貞治3年10月23日付「足利義詮御感御教書案」(『小早川家文書』):文中に「武田伊豆前司氏信*35

【史料14】貞治6(1367)年7月1日付「前伊豆守武田氏信?)預状写」(『毛利家文書』):発給者「前伊豆守」の署名と判*36

 

 ◆この間に出家か(法名:光誠)。

*『綱要』では延文3(1358)年4月、初代将軍・足利尊氏の逝去を悼んで父・信武(法名: 光照)が剃髪した際(『分脈』にも記載あり)、息子の氏信47歳も共にこれに追随し「光誠」と号したとあるが、【史料13】などと照らし合わせてもこれは明らかに誤りである。

【史料15】貞治6年10月7日付「沙弥武田氏信入道光誠)書状」2通(『吉川家文書』):発給者「沙弥」の署名と花押*37

【史料16】貞治6年12月7日付「沙弥武田氏信入道光誠)書状」(『吉川家文書』):発給者「沙弥光誠」の署名と花押*38

【史料17】永和元(1375)年8月日付「武田氏信入道光誠?書状」(『福王寺文書』)*39

 

以後、氏信(光誠)の活動は確認できない。『綱要』によると康暦2(1380)年5月8日に69歳での死去とするが、逆算すると冒頭の生年に合致しており、正しいと判断して良かろう。

 

まとめ

以上の考察より、氏信の官職歴を表にまとめると次の通りである。

年月日 官職・年齢
1312.1.2 生誕(1)
1322.3.15 元服(11)
1341頃?  兵庫助(約30)
1352.12 伊豆守(41)
1360頃? 辞伊豆守(約50)
1367 出家(56)
1380.5.8 逝去(69)

ここで、前田家所蔵訂正本を底本とする『分脈』国史大系本〉を見ると、氏信の注記には「兵庫助」とあるが、異本である前田家所蔵脇坂氏本・前田家所蔵一本・国立国会図書館支部内閣文庫本では加えて「甲斐守護 刑部大甫〔輔〕」の記載があるという*40。しかし、以上の考察から踏まえると「甲斐」は「安芸」の誤りで、可能性が0でないにせよ「前伊豆守」の終見から出家までの数ヶ月間に刑部大輔正五位下相当)*41任官を果たしたとは考えにくい。むしろこれらは弟・信成に当てはまっている*42*43。恐らく『分脈』になぜか信成の記載が無かったため、氏信と事績が混同されたのではないか。『甲斐国志』でも「武田刑部大輔信成 系図、信武ノ長男、系図氏信……(以下略)」*44氏信を信成の初名としてしまっている。

また、後に「信頼(のぶより)」に改名したとする説もある*45ようだが、【史料13】により少なくとも貞治3年まで諱が「氏信」であったことは確実で、以後の史料上で「信頼」の名は確認できないため、これも今のところは信用に値しないと思われる。

 

尚『分脈』には、氏信の子として満信陸奥守、伊豆守、刑部大輔、信在が載せられる。『系図綜覧』所収『芸州若州両武田系図』を見ると、信在の注記に「伊豆前司信氏〔ママ、氏信〕、武田伊豆守、鹿園〔ママ、苑〕院将軍義満公賜一字改満信従五位下陸奥守、刑部大輔」と書かれており、氏信の嫡男は初め「信在」と名乗ったが、後に3代将軍・足利義偏諱を受けて「信」と改名したと伝える。

*「満信」の名については『一蓮寺過去帳』に「芸州満信」、『高野山武田御位牌帳』にも「甲州武田安芸守満信」に一応記載はあるが、これらは応永24(1417)年2月6日に自害した武田安芸守信満(『鎌倉大草紙』)*46を指すと思われるので注意が必要である。

 

(参考ページ)

 武田氏信 - Wikipedia

 武田氏信とは - コトバンク

 武田氏信とは 社会の人気・最新記事を集めました - はてな

 武田氏信 ー 広島市文化財団HP

 武田氏信 ー 戦国猛者HP

 

脚注

*1:系図綜覧. 第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*2:田中大喜 編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉(戎光祥出版、2013年)P.24。

*3:「太平記」四月三日合戦の事付妻鹿孫三郎勇力の事(その9) : Santa Lab's Blog 参照。

*4:他にも、誕生寺 (岡山県久米南町) 境内に昭和9(1934)年4月3日に建てられた「南朝作州七忠臣竝忠死者二十人総忠魂碑」の碑文に「武田兵庫助氏顯〔ママ〕」とあり(→ 南朝作州七忠臣竝忠死者二十人総忠魂碑(久米南町) - 津山瓦版)、氏信を指すとみて間違いないが、これも『分脈』・『綱要』など江戸時代までの研究成果の影響により、誤った人物比定がなされたものと思われる。

*5:『大日本古文書』家わけ第十四『熊谷家文書』P.217(二三一号)『大日本史料』6-16 P.442

*6:『大日本古文書』家わけ第九『吉川家文書之一』P.18(三〇号)『大日本史料』6-17 P.185

*7:『大日本古文書』家わけ第九『吉川家文書之二』P.191(一〇二〇号)『大日本史料』6-17 P.299

*8:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。

*9:兵庫の助とは - コトバンク より。

*10:『大日本古文書』家わけ第十一『小早川家文書之二』P.349(五六一号)

*11:『大日本史料』6-6 P.819 『大日本古文書』家わけ第九『吉川家文書之二』P.175(九九九号)

*12:『大日本史料』6-9 P.251

*13:『大日本史料』6-9 P.288

*14:『大日本史料』6-9 P.315太平記巻第二十四 (その二)

*15:『大日本史料』6-9 P.312

*16:『大日本史料』6-9 P.284

*17:『大日本史料』6-11 P.636

*18:『大日本古文書』家わけ第十四「熊谷家文書」P.216(二二九号)『大日本史料』6-13 P.704

*19:『大日本古文書』家わけ第九『吉川家文書之二』P.322(一一五九号)『大日本史料』6-13 P.678

*20:『大日本古文書』家わけ第九『吉川家文書之二』P.221(一〇五二号)『大日本史料』6-13 P.677

*21:軍忠状とは - コトバンク 参照。

*22:『大日本古文書』家わけ第九『吉川家文書之二』P.322(一一五九号)

*23:政村流時村系北条氏 #北条煕時 より。

*24:『大日本古文書』家わけ第九「吉川家文書之一」P.193(二一七号)『大日本史料』6-13 P.6846-14 P.66

*25:貞和 - Wikipedia より。

*26:『大日本古文書』家わけ第十四「熊谷家文書」P.201(二一七号)P.218(二三三号)『大日本史料』6-17 P.331

*27:『大日本史料』6-15 P.546

*28:『大日本史料』6-16 P.298。また、同年(正平7年)閏2月3日付の書状にある「安芸守」も信成であろう(→『大日本史料』6-16 P.159。)

*29:『上総武田氏系譜』や『諸家系図纂』(→『大日本史料』7-1 P.537、以下略記する)および『武田源氏一流系図』の信成の項に「二郎」或いは「次郎」の注記があり、『一蓮寺文書』所収「甲斐国一条道場一蓮寺領目録」中にも「武田次郎信成」が寄進した(→『大日本史料』6-26 P.567こちらのページ も参考のこと)とあるのがその裏付けになるだろう。『上総系譜』では明徳5/応永元(1394)年6月13日に80歳での卒去とし、『系図纂』や『一蓮寺過去帳』、『高野山武田御位牌帳』でも同日逝去とする。逆算すると1315年生まれとなるが、『綱要』での彦太郎氏信の生年より後となり、『綱要』での記載の通り「信武二男」であったと見なされる。尚『綱要』には「母同氏信」とある。

*30:前注で掲げた『一蓮寺文書』目録には、暦応4(1341)年8月17日に「武田次郎信成」が甲斐国一条郷内にある石坪井尻女子跡二町を寄進したとあり、安芸守任官は1340年代~50年代初頭の間であったと推定される。

*31:黒田基樹「鎌倉期の武田氏」(初出:『地方史研究』211号(1988年)/所収:木下聡 編『シリーズ・中世西国武士の研究 第四巻 若狭武田氏』(戎光祥出版、2016年)。

*32:『大日本古文書』家わけ第十四「熊谷家文書」P.219~220(二三七号)『大日本史料』6-20 P.451

*33:『大日本史料』6-22 P.408

*34:『大日本古文書』家わけ第十四「熊谷家文書」P.105(八九号)『大日本史料』6-25 P.867

*35:『大日本古文書』家わけ第十一「小早川家文書之二」P.178(三〇九号)

*36:『大日本古文書』家わけ第八「毛利家文書之四」P.401(一五〇四号)

*37:『大日本古文書』家わけ第九『吉川家文書之二』P.323(一一六〇号・一一六一号)『大日本史料』6-28 P.511

*38:『大日本古文書』家わけ第九『吉川家文書之二』P.178(一〇〇二号)『大日本史料』6-28 P.560

*39:『大日本史料』6-44 P.144

*40:黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』(吉川弘文館)P.328。

*41:刑部省 - Wikipedia #職員 より。

*42:『一蓮寺文書』所収「甲斐国一条道場一蓮寺領目録」中に「武田刑部大輔信成」が甲斐国一条郷内一町三段を重ねて寄進した(→『大日本史料』6-26 P.568こちらのページ も参考のこと)とある。暦応2年6月付となっているが、同4年の段階で「次郎」を称していたことは注30で掲げた通りで、恐らく「佐分弥四郎入道観阿寄進」のみに対するものかもしれない。『山梨県史』に掲載の『高野山武田御位牌帳』にも「甲州武田刑部太輔〔ママ〕信成」とある(→ 山梨 歴史文学館 山口素堂と共に : 山梨県史に見る 高野山武田御位牌帳)から、刑部大輔は氏信ではなく信成の最終官途であったと判断される。尚、花押にやや変化はあるものの、正平12(1357)年7月10日付で書状を出す「日向守信成」(→『大日本史料』6-21 P.321)も同じく武田信成の可能性があり、安芸守から日向守を経ての刑部大輔任官であったのかもしれない。これについては検討の余地を残している。

*43:信成は1359~1368年の間甲斐国守護であったとされ(→ 西ヶ谷恭弘 編『国別 守護・戦国大名事典』(東京堂出版、1998年)P.93、甲斐国 - Wikipedia #守護 - 室町幕府)、『上総武田氏系譜』や『諸家系図纂』の信成の項にも「甲斐守護」の注記がある(→『大日本史料』7-1 P.537)。

*44:『大日本史料』7-1 P.539

*45:武田氏 - Reichsarchiv ~世界帝王事典~

*46:鎌倉大草紙 - 国立国会図書館デジタルコレクション鎌倉大草紙17 −甲斐国をめぐる逸見と武田の抗争・その1