三浦貞連 (甲斐六郎左衛門尉)
三浦 貞連(みうら さだつら、生没年不詳)は、鎌倉時代後期の武将、御家人。甲斐一条氏・武田時信(一条時信)の子で、三浦行連(佐原行連、甲斐守)の養子。通称は(三浦)甲斐六郎左衛門尉。
元亨3(1323)年10月27日の故・北条貞時(鎌倉幕府第9代執権)13年忌法要について記された『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』、以下『供養記』と略記)を見ると、「銀劔一 馬一疋 鹿毛、」を進上する人物として「三浦甲斐六郎左衛門尉」の名が見られる*1。また、同日に「阿野中将」こと阿野実廉(右中将として将軍・守邦親王に仕える)に「馬一疋 鹿毛、銀劔一」を進上する「甲斐六郎左衛門尉」*2も同一人物と見なして良いだろう。
この人物は、次の【図A】に示す『尊卑分脈』武田(一条)氏系図(以下『分脈』と略記)一条時信の子に「三浦甲斐守養子」・「六郎左衛門尉」と注記される貞連*3に比定されよう。
▲【図A】『分脈』甲斐一条氏系図
ところで、『続群書類従』巻122所収「浅羽本 武田系図」では時信の子・貞連の注記に「養子 本氏平家三浦也 慶良𠮷元祖」とあり*4、平姓三浦氏から一条時信に養子入りした、と解釈し得る。三浦貞連の位置づけ(外部リンク)ではこれを採用するが、もし甲斐一条氏に養子入りしたのであれば「武田甲斐六郎左衛門尉」*5或いは「一条甲斐六郎左衛門尉」*6と書かれて然るべきである。
そもそも【図A】で見る限り子沢山であった時信*7に養子入りする理由が不明であり、近世成立の浅羽本系図に必ずしも信を置く必要性は無い。よって【図A】ほか『諸家系図纂』・『系図纂要』等複数系図の記載通り、一条氏→三浦氏への養子入りと見なすのが正しいと判断される。
「甲斐六郎左衛門尉」という通称名は、既にご指摘のように、父が「甲斐守」で、貞連自身の仮名が「六郎」、官職が「左衛門尉」であったことを表す。【図A】にもある通り、貞連の実父・時信も甲斐守であった*8が、養父も「三浦甲斐守」であり、この場合の「甲斐」は養父の官途と見なすのが妥当である。
「三浦甲斐守」とは誰なのか。三浦氏の系図類を見ると、三浦義連を祖とする佐原流に「甲斐守 行連― 六郎左衛門尉 貞連」父子が確認できるから、行連が「三浦甲斐守」で、貞連がその養子であったのだろう。
▲【図B】武家家伝_横須賀氏掲載の図より一部抜粋
『諸家系図纂』や『系図纂要』によれば、盛連の母(義連の妻)が武田信光の娘だったらしく*9、行連は信光の玄孫にあたる。この行連には一応男子がいたようだが、早世したためか、同じく信光の血を引く貞連を養子に迎える運びとなったと思われる。
では、武田氏側から貞連の世代を推定してみよう。
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こちら▲の記事にある通り、信光の嫡男・武田信政は『甲斐信濃源氏綱要』によると1196年生まれとされる。この信政の同母弟とされる武田(一条)信長の生年は当然これ以後となる。『吾妻鏡』において、承久元(1219)年7月19日条「武田小五郎」が信政の初見とみられ(上記記事参照)、貞応2(1223)年正月5日条「武田六郎」が信長の初見と判断される*10。従って信長は信政と年の離れていない弟で生年も1200年頃であったと推定される。
*ちなみに『吾妻鏡』建長8(1256=康元元)年7月17日条には、信長の子と見られる「武田八郎信経」が登場しており*11、信経の生年は1240年代以前であったと推測可能である。
よって各親子の年齢差を20歳と仮定した場合で、貞連は早くとも1260年代の生まれと推定可能である。但し【図A】で見る限り、信経と貞連が長男でなかった(兄がいた)ことを考慮すれば、更に下らせても良いと思う。
そして、元服は通常10代前半で行われることが一般的であったから、その当時の執権が貞時(在職:1284年~1301年)*12であった可能性が十分に高く、貞連の「貞」もその偏諱を受けたものと判断される。貞時執権期間内の元服であれば、遅くとも1290年頃までには生まれていただろう。冒頭の貞時13年忌法要への参加は、生前烏帽子親子関係を結んでいたことも一因だったのではないか。
尚、本項の貞連については『供養記』以外には確認できない。元亨3年当時左衛門尉であったが、年齢的にはそれより間もなく官途の面で昇進した可能性も考えられる。ただ、それを裏付けられる史料は今のところ無いため、これについては後考を俟ちたいところである。
脚注
*1:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.711。
*2:前注同書 P.705。
*3:黒板勝美・国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』(吉川弘文館)P.329。
*4:続群書類従. 巻122 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*5:『供養記』には甲斐武田氏一門とみられる者として「武田八郎(=助政)」、「武田弥五郎」、「武田伊豆入道」、「武田孫七郎」、「武田源太」、「武田十郎五郎入道」の名が見られる。
*6:甲斐一条氏の者が確認できる史料として、『一蓮寺文書』所収「甲斐国一条道場一蓮寺領目録」中に「一条甲斐太郎信方/一条甲斐守信方(=時信の孫)」、「一条八郎六郎入道(=時信の弟・宗信か?)女子尼本阿」、「一条十郎入道道光(=時信の子・時光か?)」、「一条八郎入道源阿(=時信の子・貞家か?)」の名が見られる(→『大日本史料』6-26 P.567~568・570、人物比定は【図A】による)。特に一条信方の場合、【図A】での注記は「(一条)太郎」とあるのみだが、実際は祖父・時信の官途に因んで「甲斐太郎」と呼ばれ、後に同じく甲斐守となったことが窺える。もし貞連が一条氏に養子入りしたのであれば同様に「一条甲斐六郎左衛門尉」と呼ばれた筈である。
*7:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*8:実際の史料でも『一蓮寺過去帳』に「佛阿弥陀佛 信光四男信長四男信綱〔ママ =信経〕嫡男 武田甲斐守時信 武川祖」とあるのが確認できる(→ 甲府市/一蓮寺過去帳)。
*9:『大日本史料』5-9 P.64・5-31 P.101。
*10:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.261「信長 武田」の項によると、次いで翌3(1224=元仁元)年2月11日条に「武田六郎信長」と現れ、その後仁治2(1241)年8月25日条に至るまで14回登場する。その後弘長3(1263)年8月9日条に「武田六郎子息一人」が登場するが、この頃 "武田六郎" を称していた武田時綱の息子は系図を見る限り1269年生まれの信宗のみであったから、これも信長に比定されよう。「子息」は【図A】での義長・頼長・信経・信久・信行のいずれかと思われる。
*11:前注『吾妻鏡人名索引』P.257「信経 武田」の項 より。
*12:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。