Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

河越経重

河越 経重(かわごえ つねしげ、1230年頃?~1285年頃?)は、鎌倉時代中期の武蔵国河越館の武将、鎌倉幕府御家人。通称および官途は 次郎、遠江権守。苗字の表記は「川越(川越経重)」とも。

河越泰重の嫡男。子に河越宗重河越貞重

 

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こちら▲の記事に紹介の、中山信名撰『平氏江戸譜』静嘉堂文庫蔵)所収「河越氏系図*1には、次のように記載される。

【史料A】『平氏江戸譜』河越氏系図 より

「経時ノ一字」安芸守

経重

一本作 遠江

「川越山王経重寄進ノ鐘也、文応元年也、」

上記記事でも言及しているが、この系図は江戸時代に編纂されながらも、『吾妻鏡』や既存の系図など他の史料に基づいた記載が多く見られる。

まずはについて。「安芸守」に対して「一本作 遠江(他の系図一本では「遠江守」に作る(=遠江守とする))」とあり、恐らくただ他の系図からの情報を載せただけと思われるが、これは『吾妻鏡』により裏付けが可能である。すなわち、建長8(1256=康元元)年6月29日条に将軍・宗尊親王の随兵の中に「河越次郎」と見えるのを初見とし(次いで同年7月17日条に「河越次郎経重」とあり)弘長3(1263)年8月9日条河越次郎経重」に至るまで10回登場*2、終見の文永3(1266)年7月4日条では「河越遠江権守経重」と書かれており、1260年代半ば頃には遠江従五位下相当)権官への任官を果たしたことが窺える。

 

次に、の「経時ノ一字」の正確性について考察してみたい。

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これについては生年とも連動する問題であるが、系図上での息子・河越宗重が文永8(1271)年生まれとされるから、現実的な親子の年齢差を考慮すれば、経重の生年は遅くとも1251年とするのが妥当である。但し、前述の通り「次郎経重」と名乗っていた建長8(1256)年までには、適齢の10代前半を迎え元服を済ませていたとみられるから、実際は1240年代前半以前にまで遡って問題ないと思うし、文永3(1266)年の段階で遠江権守であったことを踏まえると、遅くとも1230年代には生まれていたと考えるのが良いと思われる。

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▲【写真B】埼玉県川越市の養寿院(https://www.yoritomo-japan.com/kawagoe/yojyuin.html より拝借)

ちなみに『新編武蔵風土記稿』によると、現在の埼玉県川越市にある養寿院は、寛元年間(1243~1247年)に河越経重が開基となり、密教大闍利円慶法印を開山として創建されたとの伝えがあるという*3養寿院のHPでは寛元2(1244)年創建とする)

 

養寿院境内にある銅鐘には次のように文字が刻まれており、が指すものである。

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▲【写真C】:養寿院について | 養寿院 - 曹洞宗 青龍山養寿院 より拝借

【史料D】川越市養寿院鐘銘重要文化財の銘文

(※一部、新字体に改めている。)

武蔵国河肥庄
 新日吉山王宮
奉鋳椎鐘一口長三尺五寸
  大檀那 朝臣經重
  大勧進 阿闍梨円慶
 文応元年大歳庚申十一月廿二日
       鋳師 丹治久友
         大江真重

「平」は河越氏が桓武平氏の支流により称していた姓であり、経重は河肥(=河越)荘を領していた河越経重に疑いない。円慶も前述した養寿院開山と同人と見なせる。この銅鐘は文応元(1260)年に経重が荘内の新日吉山王宮(現在の上戸日枝神社に奉納したものとされ、これを鋳た丹治久友が鎌倉の大仏の鋳造も担当したことから、河越惣領家と北条氏との関わり合いを示す史料の一つになり得るものとしても注目されている。そうした河越・北条(得宗)両家の関係性は、前述の烏帽子親子関係がその基盤の一つになっていたのであろう。

 

次の史料にも着目しておきたい。

【史料E】高野山慈尊院道町石 111町石(高さ約2.82m、和歌山県九度山町笠木、国指定史跡 および 世界遺産の銘文*4

〈右側面〉 遠江権守平朝臣経重

〈 正 面 〉   百十一町

〈左側面〉 文永九季〔=年〕 五月 日

文永2(1265)年、高野山の僧・覚斅(かくきょう)上人の発願により、安達泰盛の主導のもと、高野山の参道20km余りに亘って1町(約109m)ごとに町石卒塔婆が建立された。これには泰盛のほか、北条義政平頼綱など多くの有力御家人得宗被官が参加しており*5、111番目の町石は同9(1272)年経重により寄進されたものであったことが窺える。

その官途・通称からして同3年の「河越遠江権守経重」(前述参照)に同定して問題ないと思われ、文永9年当時も経重は官職そのままで存命であったことになる。

 

経重の死没については、岩城邦男正応2(1289)年以前であったと推定されている*6が、その根拠と思われるものが次の史料である。

【史料F】『とはずがたり』巻4 より一部抜粋

……飯沼の新左衛門は歌をも詠み、数寄者(すきもの)といふ名ありしゆゑにや、若林の二郎左衛門といふ者を使にて、たびたび呼びて、続歌(つぎうた)などすべきよし、ねんごろに申ししかば、まかりたりしかば、思ひしよりも情けあるさまにて、たびたび寄り合ひて、連歌・歌など詠みて遊び侍りしほどに、師走になりて川越の入道と申す者の跡なる尼の、「武蔵の国小川口といふ所へ下る。あれより年返らば善光寺へ参るべし」と言ふも、便り嬉しき心地して、まかりしかば、雪降り積もりて、分け行く道も見えぬに、鎌倉より二日にまかり着きぬ。……

この辺りの研究については、須田亮子の論文*7を参考にしたい。内容としては、作者の後深草院二条(久我雅忠の娘)が正応2(1289)年12月、河越入道後家尼に招かれて川口にしばらく滞在したというものである*8が、ここに出てくる「川越の入道」は前述の「河越遠江権守経重」(が後に出家したもの)とする見解が有力である法名は不詳)

そして「跡なる尼」とはその後家(未亡人)にして髪を下ろした女性と考えられ、この当時「川越の入道」が既に故人であったことが窺える。すなわち経重が文永9年5月以後に出家し、それより間もない頃に亡くなったと推測されよう

 

(参考ページ)

 河越経重 - Wikipedia

 武蔵河越氏 ~鎌倉時代以降~ #河越経重

 

脚注

*1:川越市史 第二巻中世編』(川越市、1985年)P.162。

*2:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.81「経重 河越」の項 より。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*3:『新編武蔵風土記稿』8(『大日本地誌大系』第12巻 所収)巻ノ162ー入間郡ノ7「養寿院」の項 より。

*4:国指定史跡 河越館跡 パンフレット川越市教育委員会 発行)より。

*5:https://www.kinsei-izen.com/area_data/29_Wakayama.html 参照。

*6:岩城邦男「河越氏系譜私考」(『埼玉史談 第21巻第2号』(埼玉郷土文化会、1974年7月号)所収)P.11~12。

*7:須田亮子「『とはずがたり』信濃善光寺参詣記事について」(所収:『女子大國文』第142号、京都女子大学国文学会、2008年)P.31~32 および P.38~39 注(6)。

*8:日本列島「地名」をゆく!:ジャパンナレッジ 第49回 川口(かわぐち)が河口(かこう)だった頃(2)