Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

河越泰重

河越 泰重(かわごえ やすしげ、生年不詳(1210年代?)~1246年頃?)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武蔵国河越館の武将、鎌倉幕府御家人。通称および官途は 次郎、掃部助。河越重時の嫡男。子に河越経重

 

 

泰重の活動について

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こちら▲の記事に紹介の、中山信名撰『平氏江戸譜』静嘉堂文庫蔵)所収「河越氏系図*1には、次のように記載される。

【史料A】『平氏江戸譜』河越氏系図 より

「泰時ノ一字」掃部助

泰重

「東鑑嘉禎元」

吾妻鏡人名索引』に従うと、『吾妻鏡(別表記:『東鑑』)での初見は、文暦2(1235=嘉禎元)年6月29日条、五大堂の新造御堂の安鎮祭が執り行われた際に4代将軍・九条頼経に供奉した「後陣の随兵」の筆頭「河越掃部助泰重」であり*2、「掃部助」の官途と「東鑑嘉禎元」の正確性が裏付けられる。『入間郡誌』でも同記事を初見とする*3

よって、【史料A】系図は近世成立でありながら、『東鑑(吾妻鏡)』という出典を明確にした、江戸時代当時の研究成果として捉えて問題ない。泰重以降の当主には「○○ノ一字」の記載を付して、代々北条氏得宗家から一字を拝領していたと考えられていたことも窺える。「泰時ノ一字」の正確性についての考察は後ほど次節にて述べたい。

 

その後『吾妻鏡』においては、寛元4(1246)年8月15日条河越掃部助」に至るまで15回登場する*4が、『吾妻鏡正嘉2(1258)年3月1日条では「河越掃部助 香山三郎左衛門尉」と書かれており、その頃泰重の旧領は香山氏に引き継がれていたことが窺える*5。また、これに呼応するかのように、約2年前の建長8(1256=康元元)年6月29日条からは「河越次郎経重」が幕臣として活動している様子が確認できる。経重は【史料A】も含む系図類で泰重の子に位置付けられているから、1246~1256年の間に当主の交代があったものと推測され、それは泰重の逝去に伴うものであったと見なすのが妥当であろう。『新編武蔵風土記稿』によると、現在の埼玉県川越市にある養寿院は、寛元年間(1243~1247年)に河越経重が開基となり、密教大闍利円慶法印を開山として創建されたとの伝えがあるという*6から、泰重は終見である寛元4年の8月以後、もしくは翌年あたりには亡くなったのかもしれない。

 

生年と元服についての考察

伯母の郷御前源義経正室が仁安3(1168)年生まれ*7、伯父の河越重房が同4(1169)年生まれ*8と判明している。その弟である父・重時についても、兄・重房や弟・重員共々、河越重頼(重時の父/泰重の祖父)が誅殺された文治元(1185)年までには生まれたと考えるのが妥当で、『吾妻鏡』では畠山重忠の乱について記した元久2(1205)年6月22日条河越次郎重時(・同三郎重員)」が初見である。

▲【図B】河越氏略系図(河越館跡史跡公園内展示資料、画像は河越館跡史跡公園で探る川越の歴史|源義経の正妻、郷御前の故郷へ - 川越 水先案内板より拝借)

 

桓武平氏支流のうち、秩父重綱の子孫は「重○」型の名乗りを慣例としており、次男・重隆の系統でも従兄・畠山重(重隆の兄・重弘の子)偏諱を受けた葛貫(重頼の父)を除き、その例外では無かった。しかし河越氏では嫡流の泰重以降「○重」型に切り替わっており、家督継承者の〇は『平氏江戸譜』が示すように得宗からの偏諱と見て間違いないだろう*9

 

ここで見ておきたい記事がある。

吾妻鏡安貞2(1228)年7月23日条、将軍・頼経が三浦義村の別邸遊覧の際の「先の随兵」12名の一人「河越次郎(表記は二郎とも)」について、『吾妻鏡人名索引』では重時に比定する。しかし、重時は前述の通り1185年までには生まれている筈で、仮にその年に生まれたとすると当時44歳(数え年、以下同様)でありながら無官で「次郎」を名乗っていたことになる。

勿論、嘉禄2(1226)年4月10日条を見ると、武蔵国留守所総検校職に補任された重時の弟・重員が「河越三郎重員」と呼ばれており、同様に40代以上の年齢であったと思われるので、年齢だけを理由に「次郎=重時」でないとする理由にはなり得ない。

しかし、僅か6年後の貞永元(1232)年12月23日、重員が嫡子「河越三郎重資」に与えた「武蔵国惣検校職国検時事書等、国中文書之加判及机催促加判等之事」について、先例の如く沙汰すべき旨が武蔵国(=武蔵守)である3代執権・北条泰時*10の庁宣で指示され*11、建長3(1251)年5月8日、その庁宣の通り重資が武蔵国惣検校職に補された当時「河越修理亮重資」と名乗っていたことが同じく『吾妻鏡』の中で確認される*12。すなわち、1230年頃に重員の子・重資が元服し、父と同じ仮名「三郎」を通称として名乗ったことが推測できる。

だとすると、同じ頃に重資の従兄である泰重元服を済ませた筈である。前述の通り1235年の段階では「掃部助従六位上相当)*13」の官職を得ており、その頃に嫡男・経重も生まれているだろうから、それなりの年齢に達していないとおかしい。

泰重の仮名が「次郎」であった証左はないが、父・重時、嫡男・経重、更には『平氏江戸譜』で直系子孫とされる高重までが「河越次郎」を名乗っていたことが『吾妻鏡』や『建武記』*14で明らかであるから、重員―重資父子が「三郎」を継承したのと同様に、嫡流歴代当主の通称が「次郎」であったと考えて良いだろう。すなわち、泰重が元服後、掃部助の官職を得る前まで「河越次郎」を名乗っていたことは十分に考えられる

よって、重は北条時の執権就任 (1224年) から間もない頃に元服し、『平氏江戸譜』(【史料A】)の記載通りその偏諱を受けたとみられ、安貞2(1228)年の「河越次郎」は重時ではなく泰重に比定されよう*15。これがかえって泰重が当初「次郎」を名乗ったことの裏付けになると思う。

 

備考

ところで『吾妻鏡』等の史料には、寛元2(1244)年と建長3(1251)年の閑院内裏造営(再建)に際し修理の費用を担ったという記録があるが、寛元2年7月26日*16、宝治3(1249)年の焼亡に伴う建長3年6月27日*17の「閑院遷幸」に向けた事業を指しているものであろう。『百錬抄』では、この「閑院」に「関東よりこれを造進す」と注記されているので、関東の御家人たちがその造営(修理)に際しての雑掌(=請負人)を担ったことが窺えるが、幕府が閑院造営の雑掌を奏することを記した建長2(1250)年3月1日条(以下『建長帳』と呼ぶ)には、その請負人の中に「河越次郎跡」、「河越三郎跡」の名が確認できる。

このうち「河越次郎」は、前述の意味合いで言えば重時泰重のいずれにも比定し得る(これより後に存命が確認できる経重ではあり得ない)が、もし泰重なのであれば、ちょうど8年後の前述正嘉2年記事にある「河越掃部助」のように最終官途で記される筈である。同じことが「河越三郎」の方にも言えることは、前述した河越重資の名乗りの変化(三郎→修理亮)で分かると思う。すなわち、河越次郎=重時、河越三郎=重員に比定すべきで、この兄弟は無官のままで亡くなったことが伺えよう。「大友豊前々司(=大友能直跡」=大友頼泰(能直の孫)*18などの例もあるように、『建長帳』では「(初代当主名)跡」という形で書かれているようなので、「河越次郎(=重時跡」=孫・経重と見なしても問題は無く、必ずしも建長2年当時泰重が存命であったことの証左にはならない。

また、建治元(1275)年『六条八幡宮造営注文』「武蔵国」の項の筆頭にも「川越次郎跡」「同三郎」の記載がある。『建長帳』も含む『吾妻鏡』を考慮に入れながら、川越次郎=重時、川越三郎=重員に比定する*19が、筆者も同感である。

*三郎の方は「跡」が脱字であるが、重員の子・重資は前述したように建長3年当時修理亮在任で、弘安8(1285)年12月に書かれたとみられる「但馬国太田文」*20に、同国下賀陽郷上村を「地頭河越修理亮(=旧領)」とする記載があり*21、同国大浜庄の地頭に任じられている「河越太郎蔵人重氏」*22がその息子と考えられている*23。よって該当し得る人物は重員しかいないと思われる。

よって、泰重の父・重時は官職を得ぬまま亡くなったことになる。文暦2年当時、泰重が無官の父を差し置いて掃部助に任官するとはほぼ考えられず、重時は故人であったとみて良いだろう。承久元(1219)年1月27日、鶴岡八幡宮で行われた3代将軍・源実朝の右大臣拝賀の式に「河越次郎重時」が(式典の帰り道で実朝は暗殺される)*24、同年7月19日次期将軍として迎えられた頼経(この頃は元服前で幼名の「三寅」)の鎌倉下向の列に「河越次郎」が随兵として加わった*25という記録以降しばらく活動は見られず、9年後の安貞2年に「河越次郎」として重時が再登場するというのは妙であり、その間に若くして亡くなったと考えられる。よって、繰り返すが安貞2年の「河越次郎」=泰重と見なせる。

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(参考ページ)

 河越泰重 - Wikipedia

 武蔵河越氏 ~鎌倉時代以降~ #河越泰重

 

脚注

*1:川越市史 第二巻中世編』(川越市、1985年)P.162。

*2:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.326~327「泰重 河越」の項 より。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*3:入間郡誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション河越及河越家 : 総説 : 川越町 : 入間郡誌。但し『入間郡誌』での記述は子・経重に関する部分などで『吾妻鏡』等他の史料と整合性が合わない内容もあるので、信憑性の観点で情報の扱いには十分に注意が必要である。

*4:注2同箇所。

*5:」とは本来その人物が持っていた旧領などの財産・地位・業績などを意味し、通常はその相続人を指す。以下本文中に掲げる「跡」もこれに同じである。

*6:『新編武蔵風土記稿』8(『大日本地誌大系』第12巻 所収)巻ノ162ー入間郡ノ7「養寿院」の項 より。

*7:『吾妻鏡』文治5(1189)年閏4月30日条、前伊予守・源義経自害の記事における「妻 廿二歳」(享年22) の記載からの逆算による。尚、「源廷尉」に嫁いだのが河越重頼の娘であったことは元暦元(1184)年9月14日条を参照。同月2日条により「源廷尉」=義経と分かる。

*8:寿永3(1184)年1月の木曾義仲追討当時16歳であったとの『源平盛衰記』の記述に従った場合。

*9:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.15系図・P.18・19。

*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*11:『吾妻鏡』貞永元年12月23日条

*12:『吾妻鏡』建長3年5月8日条

*13:掃部の助とは - コトバンク より。

*14:『大日本史料』6-1 P.421。『鎌倉遺文』第42巻32865号。『南北朝遺文 関東編』第1巻39号。

*15:武蔵河越氏 ~鎌倉時代以降~ #河越泰重 でもこの説を採っている。

*16:『平戸記』7月26日条・『百錬抄』同日条『吾妻鏡』8月8日条・『平戸記』8月25日条

*17:『吾妻鏡』6月21日条・『百錬抄』6月27日条『吾妻鏡』7月4日条「大日本史料 第五編之三十五」(『東京大学史料編纂所報』第49号、2013年、P.34~35)も参照のこと。

*18:大友頼泰 - Henkipedia【史料4】参照。

*19:海老名尚・福田豊彦「資料紹介『田中穣氏旧蔵典籍古文書』「六条八幡宮造営注文」について」(所収:『国立歴史民俗博物館研究報告』第45集、国立歴史民俗博物館、1992年)P.375。

*20:『鎌倉遺文』第21巻15774号。但馬国太田文

*21:但馬国太田文 P.30。

*22:但馬国太田文 P.42。

*23:武蔵河越氏 ~鎌倉時代以降~ #河越重資

*24:『吾妻鏡』承久元年1月27日条

*25:『吾妻鏡』承久元年7月19日条