Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

江間頼時

江間 頼時(えま よりとき、1183年〜1242年)は、鎌倉時代前期の武将、御家人江間小四郎義時北条義時の長男。母は阿波局*1。幼名は金剛(こんごう)。通称(仮名)は太郎。表記は「江馬」とも。北条頼時(ほうじょう -)とも呼ばれる。

のちに北条泰時(- やすとき)に改名し、鎌倉幕府第3代執権となるが、本項ではそれ以前の内容についてのみ扱う。

 

江間」とは、父・義時が伊豆国田方郡江馬庄(現・静岡県伊豆の国市江間〈旧・江間村〉)を領するようになったのをきっかけに称したものである。ちなみに、桓武平氏経盛流を称し、戦国時代には江馬輝盛を輩出した江馬氏も同庄を発症の地として北条氏との関係も示唆している。

吾妻鏡』では、建久3(1192)年5月26日条江馬殿金剛殿」を初見とし、翌4(1193)年9月11日条江間殿嫡男」、次いで下記の元服の記事で登場する。

【史料A】『吾妻鏡』建久5(1194)年2月2日条

建久五年二月小二日甲午。快霽。入夜。江間殿嫡男 童名金剛。年十三。元服於幕府有其儀。西侍搆鋪設於三行。……(参列者中略)……時剋。北条殿(=時政)相具童形参給。則将軍家出御。有御加冠之儀。武州千葉介等取脂燭候左右。名字号太郎頼時次被献御鎧以下。新冠又賜御引出物。御釼者里見冠者義成伝之云々。次三献。垸飯。其後盃酒数巡。殆及歌舞云々。次召三浦介義澄於座右。以此冠者。可為聟之旨被仰含。孫女之中撰好婦。可随仰之由申之云々。

この日、将軍家=源頼朝(初代鎌倉殿)がお出ましになり、「御加冠」の儀式を行ったとあるから、頼朝が烏帽子親を務めたことが分かる。そして金剛は「太郎」と名乗っており、朝の偏諱」を賜ったことが窺える。頼朝から見て頼時(泰時)は、妻・政子の甥にあたるから、単に親戚付き合いとして烏帽子親子関係が結ばれたに過ぎないのかもしれないが、北条氏一門・江間氏の将来の跡取りとして期待している面もあったのだろう。

▲2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、第25回から「頼時」の名乗りで登場。【史料A】の元服のシーンは描かれなかったが、第21回で頼朝が義時の息子・金剛が元服の折には、烏帽子親を務める発言をしていた。

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吾妻鏡』を見ると、正治2(1200)年2月26日条で「江間大郎頼時」と書かれていたものが、翌建仁元(1201)年9月22日条では「江間太郎殿 泰□〔時〕」と変化しており、改名はこの間と推定される。この時期は烏帽子親である頼朝が亡くなった正治元(1199)年の直後であり、頼朝の死も無関係ではないと思われるが、近年では源氏将軍からやや距離を置いたのではないかとの見解もある*2。「」は従兄でもあり、肉親・北条氏とも対立した2代目鎌倉殿の1字でもあるから、これを避けたのかもしれない。

▲『鎌倉殿の13人』第29回では、頼家から直接「頼時」から "天下平" の1字を取った「時」に改名するよう命じられ、頼時(泰時)は渋々頼朝から賜った「頼」の字を改めることを受け入れた。すなわち頼家から遠ざけた形であり、翌年に叔父・時連(時房)も改名させられていることを踏まえると、一説としてあり得ない話でもない。

 

吾妻鏡』を見ると、父・義時元久元(1204)年3月6日に叙爵して相模守に任官する*3までほぼ一貫して「江間殿」或いは「江間四郎(または江間小四郎)」と呼ばれていたことが窺えるが、任官後の7月24日条から暫くは「相州」と書かれるようになっており*4、江間氏を称した形跡は無い。

同年11月5日には後妻・牧の方との間に生まれ、時政の嫡男であったとみられる "遠江左馬助" 政範(頼時より6歳年下の叔父にあたる)が16歳で亡くなり、一方で義時自身は翌元久2(1205)年閏7月20日には2代執権に就任しており、名実共に北条氏の家督を継承したと言えよう。

頼時改め泰時も、建仁3(1203)年9月10日条「江馬大郎殿」とあったものが、父・義時の相模守任官後、建永元(1206)年2月4日条「相模太郎」から表記が変わっている*5。この時「江間泰時」から「北条泰時」になったと考えて良いだろう。

 

ちょうど建永元年の10月24日には、義時と正室姫の前比企朝宗の娘)との間の第一子・朝時元服の儀が執り行われている。

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3代将軍・源実の加冠により、同じく13歳で元服したが、義時の子としては次男であったため「次郎」と命名されている(幼名は不詳)

そして、朝時が当初、義時の嫡男だったのではないかとする見解もあるが、仮名を「次郎」とされた点に着目すると若干疑問が残る。というのも、義時の子でも、有時(4男、1200年生)*6が「六郎」と称されたのに対し、義時の継室・伊賀の方所生の政村(5男、1205年生)*7が「四郎」、実泰(6男、1208年生)が「五郎」と逆転している(『吾妻鏡』)例があるからである。

泰時(頼時)の元服当時、前年(1193年)に朝時は誕生していたから、後の北条時輔(初名: 時利、長男で「相模三郎」)北条時宗(次男で「相模太郎」)兄弟のように【史料A】の段階で「太郎」と名付けられる必然性は無かった筈であるが、【史料A】で「嫡男」と明記するところからしても、頼時が当初から義時の嫡男として扱われていたと考えて良いのではないか

勿論「嫡男」記載については、【史料A】の『吾妻鏡』が北条氏得宗家(泰時流)=嫡流であることを示すための脚色の可能性も一応は考慮すべきではあるが、当初はあくまで義時流江間家としての「嫡男」だったのであり、また北条氏としても時政の嫡男は政範で、義時の次男・朝時に嫡流が渡る想定はなかった筈である(政範と朝時は血縁上、叔父―甥の関係ながら僅か5歳差である)

年齢的な問題もあるかもしれない。義時としては、正室との最初の子・朝時が生まれたとしても、先に成長していた長男の頼時(泰時)を後継に考えていたのだろう。頼朝の烏帽子子であったというのがその一因になっていたのではないかと思う。

 

(参考ページ)

 北条泰時 - Wikipedia

 北条泰時とは - コトバンク

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)

 

脚注

*1:鎌倉年代記』元仁元年条・『武家年代記』承久3年条(いずれも 竹内理三編『続史料大成』第51巻 所収)。『北条九代記』(→ 史籍集覧. 第5冊 - 国立国会図書館デジタルコレクション)。『系図纂要』(→『大日本史料』5-2 P.313)。

*2:水野智之『名前と権力の中世史 室町将軍の朝廷戦略』〈歴史文化ライブラリー388〉(吉川弘文館、2014年)P.46。

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その2-北条義時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。典拠は『鎌倉年代記』・『武家年代記』の各元久2年条。

*4:吾妻鏡人名索引』P.54。元久元年2月25日条「江間四郎」が "江間" 表記の終見である(同年4月18日条では「四郎」とのみ記載)。

*5:吾妻鏡人名索引』P.320。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その52-伊具有時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その45-北条政村 | 日本中世史を楽しむ♪ より。