Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

葛西清経

葛西 清経(かさい きよつね、1235年~1287年)は、鎌倉時代中期~後期の武将、御家人。葛西氏宗家第4代当主。通称および官途は 三郎、左衛門尉伯耆新左衛門尉)法名経蓮(きょうれん)か。父は葛西時清。妻は尼・仏心。子には、女子(富安三郎〈北条時嗣?〉室、のち和田茂長室)のほか、葛西宗清が嫡男であると思われる。

 

 

吾妻鏡』における清経

吾妻鏡』での初見は、建長4(1252)年11月11日条、将軍家御出供奉の一人「伯耆左衛門三郎清経」である*1。この通称(名乗り方)について分析すると次の通りである。

 伯耆左衛門三郎清経

 ●伯耆」=伯耆守清親

 ●伯耆左衛門」=清親の子・左衛門尉

 ●伯耆左衛門三郎」=左衛門尉の子・三郎清経

葛西氏で伯耆守に該当するのは清親であることは『吾妻鏡』等で確認できる*2。『尊卑分脈』でも、葛西氏の系図は掲載なしだが、後藤基頼の注記に「葛西伯耆守清親」とあって、裏付けとなっている。すなわち、同じく清親の孫である基頼は1238年生まれであったことが判明している。

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詳しくは後述するが、『盛岡葛西系図』によると清経は弘安10(1287)年11月7日に53歳(数え年、以下同様)で亡くなったといい、逆算すると文暦2/嘉禎元(1235)年生まれとなるが、基頼とほぼ同世代となるから、やはり清親の孫と見なすのが妥当であろう。葛西氏の系図の中には清経を清親の息子とするものもあるが、誤りと判断される。

 

尚、『吾妻鏡』において清経は6回登場する。

▼【表A】『吾妻鏡』における葛西清経の登場箇所

月日

概要

表記

建長4(1252)

11.11

将軍家御出供奉

伯耆左衛門三郎清経

11.20

将軍家新邸移従

伯耆左衛門三郎清経

12.17

鶴岡八幡宮社参供奉

伯耆三郎清経〔ママ〕

建長8(1256)

1.1

椀飯

伯耆左衛門三郎

6.29

放生会供奉人決定

伯耆三郎左衛門尉

同三郎

8.15

放生会供奉人

伯耆新左衛門尉清経

このうち、建長8年6月29日、8月15日条での表記について着目しておきたい。

8月15日条での「新左衛門尉」というのは、父親が左衛門尉任官の間に同じく息子も左衛門尉となった場合の呼称である。つまり、清経の父は左衛門尉で、その息子である清経自身は当初「左衛門三郎」と呼ばれていたが、建長8年の7~8月頃に同じく左衛門尉の官職を得たために、区別されて「新左衛門尉」と呼ばれるようになったと考えられる。

ところで、6月29日条での「伯耆三郎左衛門尉」が清経で、「同三郎」は息子の宗清とする見解もある。

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しかしその場合、清経が22歳で左衛門尉任官を果たしたのに対し、建長8年当時10代の適齢期を迎え元服を済ませていたことになる宗清が、その後更に弘安7(1284)年までの28年間無官であったということになってしまい、不自然である。しかも宗清は正応元(1288)年の段階で左衛門尉であったことが確認できるほか、その後は壱岐守にもなっていたというが、その年齢が歴代当主に比して遅くなってしまうのもおかしいと言わざるを得ない。更に清の「宗」は北条時偏諱であったと考えられるから、その父・北条時頼が執権在任中の建長8年6月29日当時元服済みで「三郎」を名乗っていた可能性は無いと言って良いだろう。

よって6月29日条の「伯耆三郎左衛門尉」は清経の父親で、「同三郎」が清経と見なすのが妥当であろう。前述の内容を踏まえると、8月15日条の「伯耆新左衛門尉」は「伯耆三郎左衛門尉」と区別するための呼称であり、「伯耆左衛門三郎清経」が左衛門尉に任官した直後は「伯耆三郎左衛門尉」ではなく「伯耆三郎左衛門尉」等と呼ばれるべきと思う。「三郎」は本来3男の意味だが、葛西氏では清元以来、嫡流継承者代々の称号と化していたとみられ、清経の場合も「三郎」が付かずに「伯耆新左衛門尉」と略記されたと思われる。

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『吾妻鏡』建長4(1252)年4月3日条に「伯耆三郎左衛門尉時清」が見えており、『吾妻鏡人名索引』では建長8年6月29日条の「伯耆三郎左衛門尉」もこの時清に同定する*3が、これが正しいと思う。『奥山庄史料集』所収「桓武平氏諸流系図」の葛西氏の部分では伯耆清親の子に三郎左衛門時清を載せており*4、この時清の嫡男が清経であったと判断される。

ちなみに「伯耆左衛門三郎清経」の初見と同年(建長4年)4月14日条に見られる「伯耆左衛門四郎清時(=葛西清時)」もその名乗り方からして、同じく時清の子で清経の弟と推測される。

 

 

伯耆新左衛門入道経蓮

保延3(1137)年から元徳2(1330)年までの香取社(現在の千葉県香取市にある香取神宮の様子を記した「香取社造営次第案」(『香取文書』所収)には、文永8(1271)年12月10日の香取神社𡡛殿正神殿の遷宮は「葛西伯耆前司入道経蓮」が雑掌として行われた旨が記録されている*5。この経蓮については他の史料でも確認ができる。

 

【史料B】正応元(1288)年7月9日付「関東下知状」(『陸奥中尊寺経蔵文書』)*6より

……如建治三年御下知状平泉白山別当顕隆伯耆新左衛門入道経蓮相論事者、於山野致違乱、以神官神人等、召仕狩猟事、……

 

【史料C】正中2(1325)年9月7日付「関東下知状」(『越後三浦和田文書』)*7

和田左衛門四郎茂長女子平氏与姉平氏富安三郎息女*8相論、亡母平氏葛西新左衛門入道経蓮女子遺領武蔵国坂戸郷田畠在家、下総国金町郷田事
  右、整訴陳之状擬是非之處、今年正中二正月廿日両方令和與訖、如妹平氏状者、以和與之儀、金町郷田壱町内田弐段、其外買地内朝長三郎次郎跡田伍段、屋敷之畠参段半并稲毛新庄坂戸郷内河面三郎跡屋敷之畠北之間々波多仁寄天三段、安芸尼跡中溝之北之波多仁寄天田伍段、此内参段小有公事、避賜永代之上者、永留沙汰云々、如姉平氏状者、子細同前、此上不及異儀、任彼状、向後相互無違乱可領地者、依鎌倉殿仰、下知如件
 正中二年九月七日  相模守 平朝臣 花押(執権・北条高時
          修理権大夫平朝臣 花押連署北条貞顕

 

【史料D】元徳3(1331)年12月23日付「関東下知状」(『越後三浦和田文書』)*9

和田左衛門四郎茂長女子平氏越後国塩澤村塩谷村田五段畠山野以下得分物事
右村々、和田彦四郎茂実(=茂長の孫)押領之間、下総三郎兵衛尉清胤女子平氏就訴申、延慶三年九月十二日預裁許之處、死去之刻、譲与祖母尼佛心葛西伯耆新左衛門入道経蓮後家(=清経の妻・未亡人)佛心又依譲給孫女平氏、仰御使、元徳元年五月晦日被打渡訖、而御下知以後得分物、可返給之由、氏女申之、宜糺返者、依鎌倉殿(=守邦親王仰、下知如件
 元徳三年十二月廿三日 右馬権頭平朝臣 花押連署・北条茂時)
            相模守 平朝臣 花押(執権・北条守時

ここで注目すべきは、B~Dの関東下知状3点で経蓮が「(伯耆)新左衛門入道」と書かれていることである。【表A】と照らし合わせると「伯耆新左衛門(尉)」は左衛門尉任官後の清経が呼ばれていた通称名であり、そのまま出家すれば「伯耆新左衛門入道」と呼ばれる。よって、清経=経蓮 であったと推測可能である。

その裏付けとして、『龍源寺葛西氏過去帳』では清経の法名が「経蓮」で弘安10(1287)年11月死没、『葛西氏過去牒』でも清経の戒名が「開口院殿實相經蓮大居士」で同月7日の死没と記録されているようである*10。渡辺智裕も「蓮」の法名は、実名「清」の一字である「」の字と葛西氏当主代々の法名に付く「蓮」の字の組み合わせから成っていると説かれている*11

すなわち、清経は左衛門尉任官後、国守へ昇進することなく出家したことになる。恐らく国守任官に相応の年齢を迎える前に、若くして剃髪したのであろう。

 

従って「香取社造営次第案」での「葛西伯耆前司入道経蓮」は

「葛西伯耆新左衛門入道経蓮」

「葛西伯耆前司入道(=清親の法名:行蓮または清蓮)

いずれかの誤記と考えられるが、次の書状により経蓮(清経)と判断される。

 

【史料E】(文永年間?)10月27日付「葛西経蓮(清経)書状」(『香取文書』)*12

正神殿御簀寸法長

短并御殿内御障子帳

寸法次第、委注給、可致

沙汰候、但ミすは、鎌倉へ

可誂候之間、忩承た<候、

恐々謹言、

 十月廿七日 経蓮(花押)

 太〔ママ、大〕祢宜殿

内容としては、発給者の「経蓮」が香取社大禰宜に対し正神殿の御簀の寸法の長短や内殿の障子帳寸法を詳しく注進させ、御簾は鎌倉から取り寄せるよう指示したものであり、この「経蓮」が正神殿の造営を差配する人物であったことが窺える。「香取社造営次第案」と照らし合わせれば、法名の合致から、文永8(1271)年12月10日の遷宮の際に正神殿雑掌を務めた「葛西伯耆前司入道経蓮」と見なせる。

【史料E】は無年号文書となっているが、渡辺はこの発給時期を正神殿山口祭が執り行なわれた文永2(1265)年4月16日*13から文永8年遷宮までの間に絞られ、遷宮の前年または前々年(文永6~7年頃)のものではないかと推定されている*14

 

【表F】文永8(1271)年の香取社殿の造営負担交名(『市川市史 第二巻』より)

所領名 人名 負担(石)
不明 葛西経蓮 1,050
上野方郷 辛島地頭等 150
匝瑳北条 地頭等(飯高氏か) 70
印西条 地頭越後守金沢実時:北条一族) 180
小見郷 地頭弥四郎胤直(小見胤直:東 一族) 170
匝瑳北条 地頭等(飯高氏か) 30
神保郷 地頭千田尼 30
大戸庄
神崎庄
地頭等(国分胤長?:国分一族)
   (神崎景胤?:千葉一族)
100
猿俣郷 地頭葛西経蓮 60
平塚郷 地頭越後守実時金沢実時:北条一族) 60
風早郷 地頭左衛門尉康常(風早康常:東 一族) 70
矢木郷 地頭式部太夫胤家(矢木胤家:相馬一族) 70
萱田 地頭千葉介頼胤 50
結城郡 地頭上野介広綱(結城広綱) 120
埴生西条 地頭越後守実時 50
河栗遠山方 地頭等(遠山方信胤?:千葉一族) 100
大須賀郷 地頭等(大須賀宗信?:大須嫡流
行事所沙汰
行事所沙汰
100
30
30
遠山方二丁
葛東二丁
千葉介頼胤 30
下野方郷 地頭武藤長頼(?)
吉橋郷 地頭千葉介頼胤 30
埴生西条富谷郷 地頭越後守実時金沢実時:北条一族) 30
下野方郷 地頭武藤長頼(?)
行事所沙汰
行事所沙汰
30
30
30
印東庄 地頭千葉介頼胤 100
葛西郡 地頭葛西経蓮 100
大方郷 地頭諏訪真性
行事所沙汰
100
30
国分寺 地頭弥五郎時道女房(大戸国分時通の妻) 60
  正神殿雑掌(葛西入道経蓮
正神殿雑掌(葛西入道経蓮
行事所沙汰
50

(*表は https://chibasi.net/souke13.htm より)

 

〈その他参考史料〉 

『香取文書纂』巻一 P.20 

(文永2年?)「下総香取社𡡛殿遷宮用途注文」(『香取神宮文書』、『鎌倉遺文』第13巻9257号)

 

 

北条経時の烏帽子子

最後に「」の実名に着目してみたい。

今野慶信は、葛西氏の通字である「清」に対して、「」は鎌倉幕府第4代執権・北条(在職:1242年~1246年)*15偏諱を受けたものではないかと推測されている*16

前述したように、清経の生年は1235年とされるが、経時治世期には8~12歳となり、元服を遂げるには適齢である。尚、経時に1字を与えた4代将軍・九条頼経は寛元2(1244)年に将軍職を子の頼嗣に譲り、翌3(1245)年には出家して「行賀」と号しており、頼経から清経に直接「経」字が下賜された可能性はほぼ皆無と言って良いだろう。よって清経は経時を烏帽子親として元服し、同時にその1字を賜ったと判断される。

 

脚注

*1:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.284「清経 葛西」の項 より。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*2:吾妻鏡人名索引』P.287「清親 葛西」の項 より。

*3:吾妻鏡人名索引』P.198「時清 葛西」の項 より。

*4:千葉氏の一族 #葛西清重 参照。

*5:葛飾区史|第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)千葉氏の一族 #葛西清経

*6:『鎌倉遺文』第22巻16692号。

*7:『鎌倉遺文』第37巻29193号。

*8:富安三郎は伊具流北条時嗣のことか。「前田本平氏系図」を見ると伊具有時の子・八郎兼義の長男・時嗣に「冨安三郎」、次男・政助に「同四郎」の注記が見られ(→ 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』〈吉川弘文館、2000年〉P.376・377)、年代・世代的にも矛盾はないと思う。北条氏は平維将平維時の末裔を称する平姓の家柄で「平氏」の記載とも辻褄が合う。和田氏も坂東平氏の一族である。どうやら経蓮(清経)の娘は最初富安氏に嫁いで長女を生み、のち和田茂長に再嫁して次女を生んだと見受けられるが、この異父姉妹が相論を起こしていたようである。

*9:『鎌倉遺文』第40巻31571号。

*10:千葉氏の一族 #葛西清経 より。

*11:渡辺智裕「早稲田大学図書館所蔵「香取文書」について」(所収:『早稲田大学図書館紀要』43号、1996年)P.75。

*12:前注渡辺氏論文 P.72写真② および P.73~74 史料② より。

*13:同年4月11日付「香取社正神殿雑事日時勘文案」(『香取神宮所蔵文書』、『鎌倉遺文』第13巻9256号)。

*14:注11前掲渡辺氏論文 P.76。

*15:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その5-北条経時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*16:今野慶信「鎌倉御家人葛西氏について」(所収:入間田宣夫 編 『葛西氏の研究』〈第二期関東武士研究叢書3〉、名著出版社、1998年)P.78~79。