Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

小山時村

小山 時村(おやま ときむら、生年不詳(1245年頃?)~没年不詳)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人。初名は小山時朝(- ときとも)。通称は四郎(出羽四郎)。官途は左衛門尉か。

父は小山長村。弟に小山時長。子に小山宗朝、女子結城時広室、貞広母)がいる。

 

 

尊卑分脈』の系図には次のようにある。

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▲【系図α】『尊卑分脈』小山氏系図(一部抜粋)*1

 

生年と改名について

まずは「時村 云々」について確認しておきたい。

吾妻鏡』では唯一、正嘉元(1257)年12月29日条に登場*2、この日の御格子上下結番・五番衆の一人に「小山出羽四郎時朝」が見える。通称名は当時「出羽前司」と呼ばれていた父・長村*3の「四郎」を表すものである。

*「四郎」は本来4男の意味であるが、小山氏においては「政光―朝政―朝長―長政(長村の庶兄)」代々が称してきた家督継承者の称号であったと考えられる。これについては後述でも考察する。

 

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その後、史料上で主だった活動は確認できないが、永仁2(1294)年の成立とされる白河集古苑所蔵の「結城系図(以下「結城系図A」とする)上では「時村」と書かれており、当時元服済みであった息子・宗朝の記載もある*4。更に、1320年前後の成立とされる『結城小峯文書』所収の「結城系図(以下「結城系図B」とする)でも貞広の注記にも「小山四郎判官時村」と書かれている*5ので、時朝が最終的に後に父・長村の1字を取って時村に改名したことは認められよう。

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結城貞広の生年は1289年と判明しているので、各親子間の年齢差を考慮すれば、外祖父にあたる時村は遅くとも1249年までには生まれていたと判断できる。『鎌倉大日記』によると、弟・時長が1246年生まれらしく、父・長村との年齢差も考慮すると、時村の生年は1240年代前半だったと推定可能だろう。

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系図α】を見ると、時長の母は海東忠成の娘と明記されているが、時村のそれについては特に記されておらず、恐らくは異母兄弟であったと考えられる。

時村の母については今のところ史料類による特定が難しいが、父・長村は別に北条(金沢)実泰の娘を妻に迎えていたといい*6、候補にはなり得る。実泰は1208年生まれなので、仮に各親子間の年齢差を20とした場合、その外孫の生年は1248年頃となるが、実泰が17歳の時に嫡男・実時が生まれていることを参考にすると、多少は遡っても良いだろう。よって、時朝(時村)の生年は時長のそれの前年にあたる1245年と仮定しておきたいと思う。

よって、通常10代前半で行われる元服当時の鎌倉幕府執権は、5代・北条(在職:1246年~1256年)*7であることは確実となり、「」の名はその偏諱」が許されている。時頼が烏帽子親として一字を授けたものと考えて良いだろう。

 

官職歴について

あわせて、他の注記の内容についても考察していこう。内容としては官途・官位に関するものであり、改めて抜粋してみると次の通りである。

 叙留之後申 六位畏云々

 従五下

 使叙留

 修理権大夫

「従五下」は従五位下、「使」は検非違使を表し、修理権大夫は修理大夫従四位下相当、長官級)*8権官である。「叙留」とは「律令制で、位階が昇進して、官職がその位相当でなくなったにもかかわらず、その職に留まること」を意味する*9。冒頭記載の解釈としては、「叙留の後、六位であることが恐れ多いことを申した」ということであろうか、詳細は不明だが、位階と官職の不一致を巡って混乱があったのかもしれない。これは時朝(時村)が長村の嫡男であったのかどうか、最終的に小山氏の嫡流が弟・時長の孫である貞朝の系統に移ったこととも関係するのだろう。

 

ここで前述の結城氏系図2種に着目しておきたいが、「結城系図B」では貞広の注記に「小山四郎判官時村」とある(前述参照)のに対し、「結城系図A」では時広の嫡男・犬次郎丸(貞広の幼名)の注記には「小山判官入道」と書かれている。時村=判官入道であることは間違いないと思うが、時村の最終官途が「判官」で、その後は出家したことが窺える。尚、法名は不詳である。

「判官 (はんがん/ほうがん)」とは、律令制における四等官の第三位である判官(じょう=尉)の職を帯びる者の通称である*10から、長官級(=四等官の第一位)である修理大夫およびその権官たる修理権大夫に就いた可能性は低く、前述の注記には誤伝が含まれている可能性を留意すべきである。恐らく実際の官途は左衛門尉だったのではないかと推測される

 

所領についての考察

寛喜2(1230)年2月20日付「小山朝政譲状」(『小山文書』)には、以前朝政(下野入道生西)が「将軍家之御恩」として賜り、「嫡孫 五郎長村」へ譲られた「所領所職等」の中に「一. 尾張国 海東三箇庄 太山寺」が含まれている*11

そして、延元元(1336)年3月30日付「後醍醐天皇綸旨」(『久我家文書』)*12の文中には「尾張国海東中庄地□〔頭〕 小山出羽入道円阿」とある。【系図α】と照合すれば、小山円阿は官途の一致から息子・宗朝が出家した同人と推測される。

海東荘は早くから上中下の3つの区域に分けられていた*13が、この2つの史料から、そのうち中荘が「長村―時朝(時村)―宗朝」の三代に亘って相伝されたことが推測できよう。

 

脚注