Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

小山貞宗

小山 貞宗(おやま さだむね、1290年頃?~没年不詳(1310年代?))は、鎌倉時代後期の武将、御家人。父は小山宗朝。子に小山政秀(藤井政秀)

 

貞宗の名は『尊卑分脈』上で確認ができる。

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▲【系図α】『尊卑分脈』小山氏系図(一部抜粋)*1

 

しかし、他の史料上では未確認であり、その事績は不詳である。

よって、小山氏の関係史料・系図から考えられることを以下に述べたい。

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まず、こちら▲の記事で紹介した、永仁2(1294)年の成立とされる白河集古苑所蔵の「結城系図」には、父・宗朝までの記載はあるものの、貞宗の記載は無い。そもそも朝が1270年前後の生まれで北条時晩年期の元服であった可能性が高く、そこから10年ほどしか経っていない永仁2年の段階で貞宗は生誕前、もしくは元服前の幼児であったことが推測できる。

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ここで「」の名に着目すると、「宗」が父から受け継いだ字であるのに対し、「」は鎌倉幕府第9代執権・北条(在職:1284年~1301年)*2偏諱を許されていることが窺える。恐らくは貞時を烏帽子親として元服し、その1字を賜ったのであろう。元服は通常10代前半で行われることが多かったから、父との年齢差も考慮して1290年頃の生まれと推定可能である。

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ちなみに、はとこにあたる小山は1282年生まれと判明しており、前述の「結城系図」に記載があることから、1294年(数え13歳)までに当時の執権である時を烏帽子親として元服を済ませていたと考えられる。

それまで「時朝宗朝」と「朝」を通字としてきたから、本当なら宗朝の子が「貞朝」と名乗る蓋然性があったと思われるが、この宗長の子・貞朝が先に元服していたので、重複を避ける意図で「貞宗」と名乗ったのであろう。

また、延元元(1336)年4月に定められた建武武者所結番の一番衆の中に「藤原政秀小山五郎左衛門尉」の名が見られる*3。【系図α】と照合すると、通称名の一致や字の逆転から貞朝の子・秀政(小山秀政)の誤記とも考えられるが、実名の一致を重視するなら、貞宗の子・政秀に比定し得る。この政秀は元服済みで左衛門尉の官途を得ており、若くとも20代であったとみられるので、1310年代前半の生まれと推定可能である。

これらの観点から言っても、貞宗1290年頃の生まれとするのが妥当であると思う。

 

貞朝については【系図α】に「為時朝子(時朝の子とす)」とあるように、時朝系小山氏に養子入りして「四郎」の仮名を継承した様子が窺える*4

 

小山氏嫡流の地位は貞朝の系統に移ることになり、子の政秀得宗からの一字拝領の対象から外れ*5、最終的には「藤井」を称して分家したようである。

鎌倉時代後期以降の史料上で「小山出羽前司」や「小山出羽入道」が散見されるため、父・宗朝は【系図α】の記載通り出羽守任官を果たしたと判断できるが、貞宗は官職歴の記載がないため、子・政秀が生まれて間もなく20代前半くらいの若さで早世したのではないかと思われる。このあたりについては新史料の発見等を俟ちたいところである。

 

脚注

*1:黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第2篇』(吉川弘文館)P.401~402。

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*3:『大日本史料』6-3 P.331

*4:紺戸淳 氏は「武家社会における加冠と一字付与の政治性について ―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.21 において、他の小山氏系図で「宗朝―貞朝」とするものがあることから「為宗朝子」の誤りではないかとされるが、いずれにせよ時朝系小山氏に養子入りしたという考察に変わりはない。

*5:政秀の名は「政光朝政―政義(のちの朝長)」間の通字「政」と、藤原秀郷に由来と思しき「秀」の、共に先祖に因む2文字を組み合わせたものと見受けられる。元服も小山氏一門内で執り行われたと思われる。