Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

阿野時元

阿野 時元(あの ときもと、1190年頃?~1219年)は、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の異母弟である阿野全成(1153-1203)北条時政の娘・阿波局の子。子に阿野義継(よしつぐ、又三郎)。通称は阿野三郎、阿野冠者。

 

▲【図1】『尊卑分脈』より*1

 

【図1】を見ると全成の男子のうち、北条時政の娘を母とする4男「隆元(たかもと)」の記載が見られる。通称は阿野三郎。父・全成が当初「隆超」と名乗っていたことに関係した名乗り方とみられるが、後述の【史料3】を見る限り、時政の娘を母とする全成の子は「時元」である。

【図1】を見ての通り、兄に阿野太郎(よりやす)、阿野二郎(よりたか)、僧籍に入った播磨房らいぜんがいたといい、いずれも朝の偏諱」を賜ったのかもしれないが、恐らくいずれも異母兄で、北条氏出身の母親を持つ時元が嫡男であったと考えられている。

 

▲【図2】「清和源氏系図」より

 

一方、「清和源氏系図」(【図2】)では全成の子として、播磨公頼全阿野冠者時元、阿野二郎隆光(たかみつ)が載せられている。崩し字の関係で「元」と「光」はしばしば混同・誤読されることがあるから隆光は【図1】での「隆元」と同人とみなし得るが、時元とは別人として書かれている。隆光・時元はともに「被誅(=誅殺された)」とあり、内容的には後述【史料5】にほぼ対応すると思うが、追って考察したい。

 

吾妻鏡』によると、建仁3(1203)年5月19日、2代将軍・源頼家武田信光を派遣して、対立関係にあった父(頼家にとっては叔父)全成を "謀反人" として捕縛し御所に押し込めた(全成は同月25日には常陸国に配流、6月23日に誅殺された)といい*2、この時までには生まれていたと考えて良いと思う。

また、母・阿波局は頼朝の妻・北条政子とは姉妹関係にあるが、頼朝と政子の婚姻は治承元(1177)年頃であったとされる*3。『吾妻鏡』によると、当初流人である頼朝の監視役であった父の時政がこの婚姻には大反対であったといい、また全成は同4(1180)年10月1日に兄・頼朝との対面を果たし、11月19日には武蔵国長尾寺を与えられたというから、当然全成と阿波局の婚姻もこれ以後と考えるのが自然である。

『吾妻鏡』建久3(1192)年8月9日条源実朝(幼名:千万 / 千幡)生誕の記事に乳母となった女性として「阿野上総〔ママ〕妻室阿波局」とあり、前述の全成捕縛の記事の翌日にあたる建仁3年5月20日条にも「全成……彼妾阿波局」とあって全成の妻であったことが確認できるから、1192年以前には結婚していたことが窺えよう。ちなみに、兄と姉、弟と妹同士での婚姻と考えるのが自然と思われるから、阿波局は政子の妹であった可能性が高く、生年は政子の1157年より後であったと思われる。

 

ところで、建保7(1219)年1月27日、実朝は鶴岡八幡宮での右大臣拝賀式の帰途、甥の公暁に暗殺された公暁も間もなく殺害された)が、将軍(鎌倉殿)の座を狙ったらしく、その翌月には時元ら阿野氏の挙兵があって鎮められたことが史料で確認できる*4。以下はそのうち『吾妻鏡』の関連記事を掲げておきたい。

【史料3】『吾妻鏡』建保7年2月15日条 より

……阿野冠者時元 法橋全成子。母遠江守時政女 去十一日引率多勢。搆城郭於深山。是申賜宣旨。可管領東国之由。相企云云。

 

【史料4】『吾妻鏡』建保7年2月19日条 より 

禅定二品(=政子)之仰。右京兆(=右京権大夫・北条義時被差遣金窪兵衛尉行親以下御家人等於駿河国。是為誅戮阿野冠者也。

 

【史料5】『吾妻鏡』建保7年2月22日条 より 

発遣勇士到于駿河国安野郡。攻安野次郎同三郎入道之處。防禦失利。時元并伴類皆悉敗北也。

 

【史料6】『吾妻鏡』建保7年2月23日条 より 

酉刻駿河国飛脚参着。阿野自殺之由申之。

【史料5】の「安野」は「阿野」と同音の別表記であろう。従って「安野次郎」は通称名の一致からすると【図1】での頼高、【図2】での隆光(または隆元)に比定し得る。また、「同三郎入道」については入道(出家)していることから頼全と見なすものもあるようだが、頼全は全成誅殺の影響を受けて既に故人であり、かつ「三郎」を称した形跡が確認できないことから、一応【図1】も踏まえて三郎時元と見なす方が良いのだろう。

*【図1】で時元の子・義継の注記に「又三郎」とあることから、父の時元も仮名が「三郎」であったと考えて良いと思われる。

但し【史料3】・【史料4】で「阿野冠者」と呼ばれていることから時元が出家していた可能性はほぼ皆無で、むしろ二郎 [次郎] 頼高が出家して「隆光(りゅうこう)」或いは「隆元(りゅうげん)」と号していた可能性を考えても良いのではないかと思う。すなわち【史料5】は「攻安野三郎同次郎入道之處。」とするのが実は正しく、筆頭に掲げられた三郎が中心人物とされて、直後に「時元 并びに伴類」と書かれたのではないかと考えられるのである。

いずれにせよ【史料6】での「阿野自殺」は時元・頼高(隆光)を含む阿野氏一族を指すと思われるが、【図1】を考慮すると時元は挙兵もできて、かつ、子・義継を生んでもらえるような年齢、若くとも20代には達していたことが推測できるのである。

 

ここで「」の名に着目すると、「」は特に源氏にはゆかりはなく、むしろ母方・北条氏の通字である。恐らく外祖父・北条からの偏諱なのではないかと思われ、時政の執権在任期間(1203年~1205年)*5内の元服だったのではなかろうか。恐らくは娘(時元の母・阿波局)からの依頼で時政がその際の烏帽子親を務めた可能性は否定できない*6

よって、同期間に元服の適齢の10代前半を迎えていたとすれば、時元の生年は1190年頃とするのが妥当であろう。全成と阿波局が結婚した1180年代以後となり、十分辻褄は合うと思う。

 

▲2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では第37回より登場

 

(参考ページ)

 阿野時元 - Wikipedia

 阿野時元とは - コトバンク

 【鎌倉殿の13人】頼全のほかにもたくさん!阿野全成の息子6人兄弟を一挙紹介! | 歴史屋

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション および 黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』(吉川弘文館)P.301 も参照のこと。

*2:『大日本史料』4-7 P.835

*3:詳細は 北条政子 - Wikipedia を参照。

*4:『大日本史料』4-15 P.70

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その1-北条時政 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*6:時政が烏帽子親を務めたとの記録は2例確認できる。建久元(1190)年9月7日には曾我祐成の弟・筥王が時政の前で元服をし「時致」と名乗ったが、その実名に「時」字が与えられている様子が窺える。また、初代執権在任中の元久元(1204)年11月15日には武田信政の加冠を務めた例がある。