Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

和田朝盛

和田 朝盛(わだ とももり、生年不詳(1180年代後半?)~1227年?)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将・御家人和田常盛(つねもり)の嫡男で、和田義盛の孫にあたる。通称は三郎、新兵衛尉。法名は実阿弥陀仏、高円坊。

 

 

はじめに:和田氏における元服および昇進の年齢について

吾妻鏡』には、建暦3(1213)年5月の和田合戦で滅ぼされた時、祖父・義盛は67歳、父・常盛は42歳(いずれも数え年、以下同様)であったとの記録があり*1、逆算すると各々1147年(義盛)、1172年(常盛)生まれであったことが分かる。また、同記事には常盛の弟たちについての記載もあり、次の通りである。

朝夷奈三郎 義秀:38歳

四郎左衛門尉 義直:37歳

五郎兵衛尉 義重:34歳

六郎兵衛尉 義信:28歳

七郎 秀盛:15歳

 

吾妻鏡』における常盛の登場箇所*2を追っていくと、建久元(1190)年11月7日条「和田小太郎(当時18歳)」が初見で、次いで正治元(1199)年10月28日条「同兵衛尉常盛(当時27歳)」からの兵衛尉在任が確認できる。兵衛尉任官時の年齢は20代半ばくらいであったと考えて良いだろう。そして、承元3(1209)年5月28日条に「和田兵衛尉常盛」とあったものが、同年11月4日条では「和田新左衛門尉常盛」と官職の表記が変化しており、38歳で左衛門尉に任官したことも窺える。尚、「」の表記は、当時同じく左衛門尉であった父・義盛*3との呼称区別のために付されたものである。ちなみに「」の名は、上総広常亡き後、房総平氏の当主となっていた千葉もしくはその近親者から1字を受けたものなのかもしれない*4

 

ちなみに、常盛の弟たちについても『吾妻鏡』を見てみると、義直は建暦元(1211)年7月8日条で「和田四郎」と書かれていたものが、同3(1213)年2月16日条では「和田四郎左衛門尉義直」となっており*5、その間に左衛門尉に任官したことが推測できる。義重義信は初見が和田合戦と同年の建暦3(1213=建保元)年で兵衛尉に任官済みであり*6、任官時期について確定は難しいが、兄・義直に先立って任官したとは考えにくいので、恐らく義直と同じく1211~1213年の間であろう。

 

以上の考察により、次のように考えられる。

 <和田氏における昇進年齢>

  10代前半:元服

 ● 20代半ば:兵衛尉

  30代後半:左衛門尉

そして、常盛の例からすると、兵衛尉から左衛門尉への昇進もあり得たと判断される。

この結論に基づいて、次節にて常盛の子・朝盛についても生年や烏帽子親を推定してみたいと思う。

 

 

和田朝盛について

さて、朝盛については、正治元(1199)年7月26日条「和田三郎朝盛」を初見として『吾妻鏡』に21回登場する*7建仁3(1203)年10月8日に鎌倉幕府第3代将軍・源千幡元服して「実朝」と命名されたが、これに先立つ同元(1201)年正月12日条にも「同三郎朝盛」の名が見られる。

すなわち、実朝より先に元服して「」を称していたことになるから、「」の字は実朝の父で初代将軍の源頼(在任:1192年~1199年)からの偏諱と見なすべきである。既に述べたように、義以来、和田氏嫡流の継承者たる常、朝……が「」を通字としたことが分かる*8。従って朝盛の元服は1199年以前で、当時は若くとも15歳ほどであったと推測できよう。

 

建暦2(1212)年2月1日条から「和田新兵衛尉朝盛」等と書かれるようになったが、翌3(1213)年4月15日に朝盛は出家してしまい*9、以後「和田新兵衛入道」等と呼ばれるようになる。「」の表記は、朝盛の任官前に兵衛尉であった父・常盛や、同職に在任であった叔父の義重・義信との区別のために付されたものと推測され、嫡流である朝盛は祖父・義盛や父・常盛が就いた左衛門尉への昇進もあり得たと思われるが、若年での出家だったのであろう、兵衛尉が朝盛の最終官途となったのである。1212年の段階で兵衛尉に任官したばかりであったことを踏まえると、この当時20代半ばの年齢であったと思われる。仮に当時、父・常盛が兵衛尉在任であった27歳であったとすると、初見の1199年当時14歳であったことになり、おおよそ辻褄が合う。この場合、逆算して1186年生まれとなるが、父・常盛との年齢差がやや近い気もするので、少し遅らせても良いのだろう。いずれにせよ、1180年代後半(1186年~1190年)の生まれであった可能性が十分に高いと思う

 

ところで、江戸時代に成立した『寛政重脩諸家譜』には、三浦駿河守義村の3男・太郎家村が安房国佐久間邑を領し、和田常盛の子・新兵衛尉朝盛を養子にした、との記述がある*10。但し『吾妻鏡』を見る限り三浦家村は父の官途にちなんで「駿河四郎家村」と呼ばれている*11から全面的に信用がし難く、同じく三浦氏一門の佐久間家村(祖父・義盛の従兄弟)の誤りとされる。そして、元久2(1205)年6月22日条の「佐久間太郎」および 承久3(1221)年5月22日条・6月14日条の「佐久満太郎」が息子・家盛のことだと考えられている*12が、義村と共に畠山重保を誅殺した「佐久間太郎」は家村に比定すべきだろう。

但し、『吾妻鏡』を見る限り、朝盛自身は明らかに嫡流の後継者として「和田」を称していて「佐久間」を名乗ったことは確かめられないので、字の共通からしても佐久間家村が養子にしたのは家盛だったのではないかと思われる。承久3年の「佐久満太郎」=家盛で正しいとすれば、1200年代初頭には生まれている筈で、父である朝盛の生年を推定する一つの根拠になると思う。

 

前述の建暦3(1213)年4月15日条(朝盛出家の記事)にもある通り、朝盛は3代将軍・源実朝の「御寵愛」を受けた近習で、実朝の学問所番の一人となったり、和歌の会の常連であったり*13と深い関係にあったようである。この二人は「朝」字を共有するが、烏帽子親子関係にあった訳ではなく、共に頼朝の1字を受けた間柄であったことになる。むしろ実朝(1192年生まれ)とは年齢が近く、気の合うところがあったのかもしれない。

建暦3年4月は祖父・義盛ら和田一族が挙兵を企てていた段階で、朝盛が出家して京都を目指したのも、主君・実朝に弓矢を向けられないという "板挟み" の状態から決したものであった。しかし、翌16日には和田一族に伝わり、18日には叔父・義直に連れ戻されて和田合戦に加わることになった。

幸い一族と運命を共にせず生き延びたが、承久の乱(1221年)"佐久満太郎" 家盛と父子分かれて後鳥羽上皇方に加わって敗れたといい、『吾妻鏡』嘉禄3(1227)年6月14日条に「和田新兵衛尉朝盛法師」が生け捕られた記事が見られる。このことは次の史料数点でも確認ができる*14

『民経記』同月8日条:「二位法印尊長。新兵衛入道□□於鷹司、油小路辺小屋武士搦取、向六波羅云々」

皇代暦』四 同月7日条:「尊長法印 并 和田新兵衛入道保名被召取了」

*『熊野早玉神社文書』所収「熊野別当代々次第」第25代別当・琳快の項にある「與承久合戦之後、依隠置二位法印・新兵衛□、此之間依不浅其罪科」の「新兵衛□〔尉か?〕」も朝盛入道のことと考えられる*15

shigeyoayumi.hatenablog.com

 

この後の動向は史料上で確認できず、間もなく没したのかもしれない。

 

(参考ページ)

 和田朝盛 - Wikipedia

 和田朝盛とは - コトバンク

 

脚注

*1:『大日本史料』4-12 P.485

*2:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』〈第5刷〉(吉川弘文館、1992年)P.256「常盛 和田」の項。

*3:吾妻鏡人名索引』P.61~63「義盛 和田」の項。

*4:野口実『中世東国武士団の研究』(高科書店、1994年)によると、和田義盛の叔父・三浦義澄の「澄」は上総常澄(広常の父)から1字を受けたものとされ、この前例に倣った可能性は否めないと思う。また、和田氏一門には和田義胤(義盛の弟)・胤定父子や和田胤長(義盛の弟・義長の子)のように、千葉氏(恐らくは常胤)に由来すると思われる「胤」字を持つものが確認でき、千葉・和田両氏間で烏帽子親子関係を重ねていたのかもしれない。

*5:吾妻鏡人名索引』P.69「義直 和田」の項。

*6:吾妻鏡人名索引』P.58「義重 和田」、P.59「義信 和田」の項。

*7:吾妻鏡人名索引』P.367「朝盛 和田」の項。

*8:これについては、義盛の庶子(末子)である秀盛も該当するので、特に嫡流のみの特権というわけでもなさそうである。その「秀」の字は三兄の義秀と何かしらの関係があるのかもしれない。ちなみに千葉常胤の孫で上総氏房総平氏)の地位を継承したとされる常秀は義秀とほぼ同世代であったとみられ(→ 千葉時秀 - Henkipedia 参照)、「秀」字を共有する間柄であったと思われるが、これについては後考を俟ちたい。

*9:『大日本史料』4-12 P.446

*10:寛政重脩諸家譜. 第3輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*11:吾妻鏡人名索引』P.28「家村 三浦」の項。

*12:吾妻鏡人名索引』P.28「家盛 佐久間」の項。

*13:和田朝盛とは - コトバンク

*14:村上光徳「慈光寺本承久記の成立年代考」(所収:『駒澤國文』第1号、駒澤大学文学部国文学研究室 編、1959年)P.49 および 第25代熊野別当 琳快:熊野別当代々次第:『紀伊続風土記』現代語訳 を参照のこと。

*15:『大日本史料』5-4 P.646熊野別当と栃木県足利市 - しげよあゆみの日記