三浦朝村
三浦 朝村(みうら ともむら、1188年頃?~1224年?)は、鎌倉時代初期の武将、御家人。通称および官途は 小太郎、太郎、兵衛尉。三浦義村の長男。母は土肥遠平の娘で、三浦泰村(駿河次郎)・三浦光村(駿河三郎)は同母弟であると伝わる(『佐野本 三浦系図』:以下「佐野本系図」と略記)*1。
三浦氏では、三浦為継(為次)の子・義継(義次)が 源義家から偏諱の「義」字を賜ったらしく*2、以来「義」が通字として、嫡流(義明―義澄―義村)をはじめ、和田義盛、佐原義連などの一族出身者にまで広く用いられていた。
しかし、系図類によれば、三浦義村の子は、朝村・泰村・光村 など、ほぼ全員が「村」字を継承したことが確認される。
▲【図A】三浦氏略系図(武家家伝_三浦氏に掲載の「三浦氏系図_バージョン1」を基に作成)
特に泰村については、「佐野本系図」での注記に「元服之時北条泰時加冠、授諱字」と書かれており*3、「泰」の偏諱を受けたことが示唆されている。よって、泰村の兄・朝村の「朝」についても烏帽子親からの一字拝領であった可能性を考えたく、以下考察してみたいと思う。
父・義村の生年については仁安3(1168)年と推定されている*4ので、親子の年齢差を考慮すれば、朝村の生年は早くとも1188年前後と判断できる。そして、弟・泰村が生まれた1204年*5より前と範囲を絞ることも可能である。
史料上で初めて朝村の活動が見られるのは、『吾妻鏡』建保7(1219)年正月27日条で、3代将軍・源実朝の鶴岡八幡宮での右大臣拝賀式の際(同日の帰途、実朝は甥の公暁に暗殺される)に、三浦一族では「三浦小大〔太〕郎朝村」のみが随兵として加わっている。
【表B】
年 |
月日 |
表記 |
貞応元(1222) |
正月1日 |
駿河小太郎兵衛尉朝村 |
3月8日 |
駿河太郎兵衛尉朝村 |
【表C】
嘉禎3(1237) |
正月1日 |
|
6月23日 |
駿河五郎左衛門尉(=資村) 同八郎左衛門尉(=胤村) 同大〔太〕郎 |
【表B】は、「朝村」の実名があり、「駿河」は父・義村が駿河守であったことに因むと考えられるので、三浦朝村で間違いないだろう。一方、【表C】の「駿河太郎」については朝村に比定すべきでないと思う(これについては後述参照)。
【表B】から、朝村が1219~1222年の間に兵衛尉任官を果たしたことが窺える。父・義村は建久元(1190)年の源頼朝の上洛に供奉した際に(右)兵衛尉任官を果たしており*7、前述の生年に基づくと当時23歳であったことになる。
よって、朝村も兵衛尉任官時には、若くとも同じくらいの年齢には達していたと考えられ、逆算すると生年は1197~1200年の間と推定可能である。
しかし、【表B】から僅か2年後、『吾妻鏡』貞応3(1224=元仁元)年正月1日条の垸飯に参加した三浦氏一族を見ると、4代将軍・九条頼経に献上する「一御馬」を「三浦駿河次郎泰村 同四郎家村」、「五御馬」を「三浦三郎光村 同又太郎氏村」が引いており、息子の三浦氏村(うじむら)が前年までに元服を済ませていたことが分かると同時に、朝村から氏村への当主交代があったことが推測される。「佐野本系図」には朝村について「元仁年中先又〔父カ〕死」とあり、朝村は恐らく病に臥せっていたのではないか、何かしらの事情で隠退し、間もなく父の義村に先立って亡くなったと見受けられる。
そして氏村の「氏」は北条時氏(泰時の長男)か、その烏帽子親と推測される足利義氏*8からの一字拝領が考えられる。よって氏村は叔父である泰村や光村より若干年少でほぼ同世代であったと考えられ、遅くとも1210年頃までに生まれていたと推測される。
従って、氏村の父である朝村は、源千幡(源実朝)が3代将軍に就任し「実朝」と名乗った建仁3(1203)年の段階では元服適齢期を超えており、源頼朝の将軍在任期間(1192~1199年)に元服したと考えるのが妥当ではないかと思われる。朝村の「朝」字は頼朝からの偏諱とされる*9が、筆者も同意であり、生年はもう少し遡らせても良いかと思う。朝村と泰村以下の弟たちは年齢の離れた兄弟だったのであろう。
*和田義盛(1147-)と三浦義村(1168頃-)は従兄弟関係にありながら、20歳ほど年齢が離れていたと考えられている。父同士(杉本義宗・三浦義澄)は1歳違いの兄弟であったが、義澄・義村父子が年齢の離れた親子であった影響によるもので、義村はむしろ義盛の嫡男・常盛(1172-)と近い世代であった。そして、常盛の嫡男・朝盛は実朝より前に元服済みで頼朝の烏帽子子であったと考えられるから、義村の長男・朝村も同様であった可能性が高い。和田朝盛・三浦朝村への一字拝領は、鎌倉幕府将軍となった頼朝に服従する意志を見せる一環としてなされたと見受けられる。
尚「佐野本系図」を見ると、朝村には氏村の他にも、三浦朝氏、三浦員村という男子がいて、宝治合戦で兄・氏村と共に自害したという*10。『吾妻鏡』宝治元(1247)年6月22日条にある宝治合戦での三浦氏一門戦死者の中で「三浦又太郎式部大夫氏村」の次に書かれている「同次郎 同三郎 三浦三郎員村〔三郎と三郎員村は重複?〕」に比定されるだろう。同系図によれば、氏村の子・忠氏も殉じたらしいが、その息子たちや、朝氏・員村各々の遺児らが、朝村以来の血脈を伝えたようである。
備考
最後に、前述【表C】の「駿河太郎」について考察を述べておきたい。この人物は「駿河五郎左衛門尉 同八郎左衛門尉」の後に「同太郎」として書かれている。『吾妻鏡』での前後記事より、駿河五郎左衛門尉は三浦資村、駿河八郎左衛門尉は三浦胤村と分かり、いずれも義村の息子(朝村・家村らの弟)であるが、ここは兄弟順に従って書かれているから、「駿河太郎」が朝村を指すならば、彼らの長兄として先に書かれているべきであろう。ところがそうではないので、義村の息子ではないと考えるのが筋である。
前述の宝治元年6月22日条にも名前の記載があるが、最終的に若狭守に昇進した泰村の息子 "若狭次郎" 景村 (三浦景村)ではあり得ず、【表C】当時は壱岐守であった光村(のち河内守・能登守)の息子・駒王丸も幼少で、"駿河" が付されることは絶対にない。
よって、三浦氏一門で「駿河」が付される可能性があるのは、最終官途として国守に任官しなかった、家村以下の弟たち、もしくは朝村いずれかの系統に限られる。【表C】当時元服済みであったことを考えると、朝村の系統と見なすのが妥当ではないか。
朝村の子・氏村は『吾妻鏡』嘉禎元(1235)年6月29日条から左衛門尉に任官済みで「三浦又太郎左衛門尉氏村」と書かれるようになっており、【表C】では「駿河太郎」でなく「駿河太郎左衛門尉」と表記するのが妥当だと思われるので、その息子・忠氏あたりを指す可能性があるが、根拠に弱く、ここではその判断を保留しておきたい。
脚注
*2:鈴木かほる 『相模三浦一族とその周辺史: その発祥から江戸期まで』(新人物往来社、2007年)P.40。典拠は文化9(1812)年刊『三浦古尋録』所載の「三浦家系図」。
*4:高橋秀樹 『三浦一族の研究』(吉川弘文館、2016年)P. 185。
*5:三浦泰村 - Henkipedia 参照。
*6:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』〈第5刷〉(吉川弘文館、1992年)P.367~368「朝村 三浦」の項 より。
*7:『吾妻鏡』同年12月11日条(→『大日本史料』4-3 P.323)。『関東評定衆伝』では同月14日と記載される(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その112-三浦義村 | 日本中世史を楽しむ♪)。
*8:今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.42。