三浦泰連 (佐原十郎左衛門尉)
佐原 泰連(さはら やすつら、1205年頃?~1247年)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将、御家人。三浦(佐原)義連の子(10男か)。通称および官途は 十郎、左衛門尉。
『吾妻鏡』での登場数は2箇所*1。宝治元(1247)年6月21日条には留守介*2により「佐原十郎左衛門尉・三郎秀連」が奥州にて討ち取られたことが報告された旨*3、翌22日条にある宝治合戦での戦死者のリストにも「佐原十郎左衛門尉泰連」およびその子息が含まれているのが確認できる*4。
【史料A】『吾妻鏡』宝治元(1247)年6月22日条 より一部抜粋
佐原十郎左衛門尉泰連 同次郎信連
同三郎秀連 同四郎兵衛尉光連
同六郎政連 同七郎光兼
同十郎頼連 肥前太郎左衛門尉胤家
同四郎左衛門尉光連 同六郎泰家
ここで着目したいのが、当時泰連には10男・頼連までの男子がいたこと、母(不詳)の身分が高い等の理由で嫡子に指名されていたのであろうか、4男・光連(みつつら)が兵衛尉に任官済みであったことの2点である。
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こちら▲の記事で、この頃の三浦氏における任官年齢について考察したが、兵衛尉や左衛門尉になれるのは早くとも20代前半であった。
従って1247年当時、光連が若くともその位の年齢であった可能性が高く、仮に同年に三浦義村と同じく23歳での任官であったとすると、遅くて1225年頃には生まれていたと考えられるので、親子の年齢差や信連・秀連・頼連ら兄弟の存在も考慮して、父・泰連の生年は遅くとも1200~1205年頃と推定できる。
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こちら▲の記事でも紹介の通り、『佐野本 三浦系図』によると、1204年に生まれた義村の次男・泰村は、義兄(姉の夫)でもあった北条泰時の加冠により元服したといい、「泰村」の名が現れる承久年間以前には済ませていたようだが、泰時が3代執権となる元仁元(1224)年*5以前に「泰」の偏諱を拝領していたことになる。
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泰村以外にも、『吾妻鏡』には父・義連が源頼朝の指名により北条時連(のちの時房、泰時の叔父)の加冠役を務めた記録があり、「連」の字を与えた形跡がある。同じく『吾妻鏡』には、後に義村が泰時の異母弟・政村の烏帽子親となった(「村」字を共有した)例も見られる。このように、北条・三浦両氏で烏帽子親子関係を重ねて結んでいたことが窺え、義連の側から自分の息子(泰連)の加冠を北条氏に依頼することは十分容易であっただろう。
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よって、泰連も執権就任前の泰時から同様に一字を拝領したと想定することは十分可能で、同様に烏帽子親子関係にあったと推測される。泰時が「頼時」から改名したのが1200~1201年の間である(上記記事参照)から、泰連の生年も1205年から大幅に遡る必要は無いと思う。
父・義連の生没年は諸説伝わる*6が、『異本塔寺長帳』や「葦名系図」に記載の情報では、三浦義明の10男でありながら、長兄・杉本義宗や次兄・三浦義澄(義村の父)より前に生まれたことになってしまい矛盾するため、『葦名家由緒考證』から導き出される1140年生まれというのが限りなく正確であろう。
義連の嫡男であったと思しき次男の盛連は、承元3(1209)年の書状に「左兵衛尉平盛連」*7とあったものが、その後1220年代半ばの段階で国守任官済みながらその素行の乱暴さから「悪遠江守」と呼ばれていたようで、3男・家連も同じ頃肥前守であったことは【史料A】での息子たち(胤家・四郎左衛門尉光連・泰家)の通称からも伺える。
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繰り返すが、こちら▲の記事で言及の通り、三浦氏一門において、兵衛尉や左衛門尉へは早くとも20代前半、国守へは30代半ばでの任官の傾向があり、盛連や家連の生年は遅くとも1180年頃になると推測でき、実際はもう少し遡っても良いのだろう。
よって、父・盛連との年齢差の点でも問題は無くなるので、泰連が1200年代初頭の生まれとして良いと結論付けておきたい。