Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

諏訪盛重

諏訪 盛重(すわ もりしげ、生年不詳(1180年代~90年頃?)~1267年)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将、諏訪大社大祝職、北条氏得宗被官である御内人法名蓮仏(れんぶつ、旧字表記:蓮佛)。官途は兵衛尉(『尊卑分脈』には「右兵衛尉」とあり)。子に諏訪信重諏訪盛高諏訪盛経諏訪盛頼重願(ちょうがん、僧)など。

 

 

史料における盛重

盛重は、北条泰時から時頼の代までの有力な得宗被官として知られ、宝治2(1248)年6月10日には前月28日に生まれたばかりの時頼の庶長子・宝寿(のちの北条時輔の乳母夫となっている*1

吾妻鏡』では、承久3(1221)年6月11日条諏方大祝盛重」を初出とし、次いで寛喜2(1230)年2月30日条からは「諏方兵衛尉」等と書かれる。以後嘉禎元(1235)年9月1日条まで「諏方兵衛尉盛重」とあったものが、翌2(1236)年12月19日条諏訪兵衛入道」と変化するまでの間に出家したようであり、弘長元(1261)年6月22日条諏方兵衛入道蓮佛」までに計25回登場する*2

建長6(1254)年のものとされる7月28日付「長専書状」(『下総中山法華経寺所蔵秘書15-19-26-27裏文書』)*3の文中に「……諏方入道殿御返事をハ申され候……」とあるのも蓮仏(盛重)に比定されよう。

朝廷の外記・中原師種の日記『新抄』の文永4(1267)年4月27日条に「関東諏方兵衛入道死去云々」とあり*4、これも盛重(蓮仏)に比定されよう*5。ここでの「比」は「頃」の意味であり*6、4月27日からさほど遡らない頃に盛重が亡くなり、その情報が京都にも齎されたことが窺える。元は諏訪大社の大祝だったためか、鎌倉幕府内外でよく知られていた様子が見受けられる。

 

死後の史料にも登場する。

建治元(1275)年『六条八幡宮造営注文』の「鎌倉中」のリストの中にも、同じく得宗被官の「平左衛門入道跡」と並んで「諏訪兵衛入道」が含まれている*7。各々、後継者たる平頼綱諏訪盛経(真性)が役割を担ったとみて良いだろう。

*『造営注文』の2年後にあたる『建治三年記』には頼綱や、真性および「諏訪左衛門入道」が随所で登場しており、各々当主として寄合への参加など活動していたことが窺える。

 

また、延慶3(1310)年9月1日付「大祝盛久覚書」(『信濃下諏訪祢宜大夫家文書』)*8の冒頭にも次のようにある。

諏訪入道殿蓮件〔ママ、佛か〕下向之時、五月会にすはの十郎盛清、三的い下のはくり物をいる、其時すはの七郎入道 俗名盛綱 殿のもとへ、諏方十郎(=盛清)に神妙にをしへたるよしの御自筆の御かんのしやう、七郎入道(=盛綱)殿に盛久さうてんするあいた、子息すはの遊四郎殿」

この部分には諏訪氏系図に載せられていない一族の名が見られるが、七郎盛綱(もりつな)十郎盛清(もりきよ)は盛重の子息(三郎盛経や四郎盛頼の弟)にあたるかもしれない。

 

生年・世代の推定①

▲【系図1】『尊卑分脈』より、諏訪氏系図*9

こちらの系図に載せられているもの以外に、『吾妻鏡』を見ると盛重には他に信重という息子がいたことが分かる。初出は盛重に同じく『吾妻鏡』承久3年6月11日条。「諏方大祝盛重……子息太郎信重相具小笠原上洛云々」とあるのが初見である。次いで延応元(1239)年11月1日条に「諏訪……当社大祝信濃権守信重」、同月9日条に「諏方大祝信重」とあり*10、後に父から大祝の座を継承したことが伺える。「太郎」という通称からすると盛重の長男であったとみて良いだろう(反対に実際の史料で確認できないことから、恐らく【系図1】の "太郎" 盛高は誤りと思われる)

信重は1221年から1239年の間に信濃権守の官職を得たことが窺えるが、兵衛尉であった父の盛重を超えて任ぜられるとは考えにくく、恐らくその時期は1236年以後だろう。権守(国守の権官)に任ぜられるにはそれ相応の年齢に達している筈であり、他家の例を踏まえると若くとも30代であっただろう。また、1221年の段階で元服済みの上、軍勢に加わって上洛できているわけなので、遅くとも1205年頃には生まれていたと推測できる。従って、現実的な親子の年齢差を考慮すると父・盛重の生年は遅くとも1180年代になる

 

生年・世代の推定②

系図1】で掲げた『尊卑分脈』の諏訪氏だが、遡っていくと清和源氏の流れを汲んでいることになっている。実際は三輪氏あるいは金刺氏の支流と考えられており*11、出自が定まっていないが、『神氏系図』によると諏訪為仲(神為仲)源為公の娘を娶り、前九年・後三年の役の際に源義家の軍に加勢したといい、どちらにしろ源氏とは全くの無関係でなかった可能性が高い。後に養子入りの形で諏訪氏名跡を継いだという想定を考えても良いかもしれない。

ここではあくまで世代の推定を目的とするため、敢えて『尊卑分脈』に信を置いて考察してみようと思う。系図をまとめると次の通りである。

系図2】源・北条・諏訪3氏略系図(『尊卑分脈』より)

      平直方―聖範―時直―時家―時方―時政―義時泰時―時氏

         └ 女子             └ 政子

           ||               ||――頼家

          ||――義家―義親―為義―義朝―頼朝

      ┌―満仲―頼信―頼義          └義賢―義仲

     |      └ 女子   (依田)      (手塚)   (諏訪)

     |       ||――為公―為実―実信―信行―信澄―信綱―盛重

 源経基満快満国為満    └ 女子(諏訪為仲室)

為公(1005-1075)は叔父・頼義(988- または 994-)より少し年少の世代だったようで、同じく頼信の孫で従兄弟にあたる義家(1039-)と息子の依田為実(生年不詳)が同じくらいの世代だったのだろう。為実の子・実信木曾義仲の挙兵に従軍したと伝わるが、若き義仲に対しかなり年長の世代であったと思われる。

こうした代数と世代のずれも考慮に入れると、盛重は父・信綱と同じ代数にあたる源頼家(1182-)北条泰時(1183-)とほぼ同世代という推測が可能で、前述の推定に合致する。よって、没年も考慮すると盛重の生年は1180年代であった可能性が高いと結論付けておきたい。

尚、義仲に従った金刺盛澄手塚光盛が一説に信綱の子とされる。光盛は義仲と運命を共にし、生け捕りにされ助命された盛澄は鎌倉幕府に仕えることとなり、『吾妻鏡』での登場が確認できる。信綱までは「満」→「為」→「実」→「信」と変化しながらも通字の継承が行われているのに、「信綱―盛重」という系譜は確かに妙である。もちろん、前述の信重綱、父・盛の各々1字を取ったと考えられるので、通字が継承されないことを理由に直ちに親子関係の否定はできないが、重の「盛」は澄の偏諱なのではないか*12。ともに諏訪大社の大祝であったことが確認されるので、「盛澄―盛重」が何かしらの形で親子関係にあったとみておきたい。考えられるケースとしては、養子関係、もしくは「信澄―信綱―盛澄―盛重」という系譜であろう。この点については後考を俟ちたい。

*ちなみに、為公からの各親子の年齢差を平均で25歳と仮定して算出すると、盛重の生年は早くとも1155年頃となる。しかし、没年や子の盛経・盛頼との年齢差を考えるとやはり1180年代まで下って良いと思うので、その場合1世代追加の余地が生まれる。盛澄を間に挟むか、「為実―実信」を同じく『尊卑分脈』にある為公の次男・為扶からの「為実―実信」と同一視する説もあるようなので、いずれかが当てはまるだろう。

 

(参考ページ)

 諏訪盛重 - Wikipedia

 諏訪盛重(すわ・もりしげ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

 諏訪 盛重御内人事典)

 

脚注

*1:吾妻鏡 : 吉川本 第1-3 吉川本 下卷 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*2:御家人制研究会(代表:安田元久)『吾妻鏡人名索引』〈第5刷〉(吉川弘文館、1992年)P.295「盛重 諏訪」の項 より。

*3:『鎌倉遺文』第11巻7759号。

*4:続史籍集覧 第1冊 - 国立国会図書館デジタルコレクション。福島金治『安達泰盛鎌倉幕府霜月騒動とその周辺』〈有隣新書63〉(有隣堂、2006年)P.144。

*5:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.182 註(55)。

*6:頃・比(ころ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

*7:海老名尚・福田豊彦「資料紹介『田中穣氏旧蔵典籍古文書』「六条八幡宮造営注文」について」(所収:『国立歴史民俗博物館研究報告』第45集、国立歴史民俗博物館、1992年)P.368。

*8:『鎌倉遺文』第31巻24054号。

*9:注5前掲細川氏著書 P.426~427 より引用。

*10:吾妻鏡人名索引』P.260「信重 諏訪」の項 より。

*11:詳細は 諏訪氏 - Wikipedia を参照のこと。

*12:「諏方大夫盛澄」は元々平家に属して長年在京していたといい(→『吾妻鏡』文治3(1187)年8月15日条)、あくまで推論ではあるが「盛」も平家からの偏諱なのかもしれない。