Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

諏訪盛経

諏訪 盛経(すわ もりつね、1230年頃?~没年不詳(1290年代?))は、鎌倉時代中期の武将。北条氏得宗家被官である御内人。主な通称および官途は 三郎、左衛門尉、左衛門入道。法名真性(しんしょう、旧字体:眞性)

諏訪盛重の3男。子に諏訪宗経

 

諏訪盛経に関する史料

まず、盛経(真性)の史料上での登場箇所は次の通りである*1

 ★1250年以前に元服(詳細は後述参照)

【史料1】『吾妻鏡』建長3(1251)年11月27日条:「諏方三郎盛綱〔ママ〕

*『分脈』に盛綱なる人物は載せられておらず、下記の通り僅か2年後に諏訪氏で同じ「三郎」を持つ盛経と同人と考えるのが妥当であろう*2。また、別史料により諏訪七郎盛綱の存在が明らかとなっており*3、恐らく系図類に載せられていない盛重の子である可能性も考えられるが、諏訪氏一門・世代の近い者同士(盛重の子であれば兄弟間)で「盛綱」と名乗る人間が2人もいたとは考え難く、この点からも三郎=盛経で良いと思う。

 ★この間(1252年か?)に左衛門尉任官か。

【史料2】『吾妻鏡』建長5(1253)年1月3日条:「諏方三郎左衛門尉盛経

【史料3】『吾妻鏡』建長8(1256)年1月5日条:「諏方三郎左衛門尉盛経

 ★この間に出家か。
 *北条時頼の剃髪(1256年)または逝去(1263年)に伴うものかもしれない。

【史料4】(文永2(1265)年?)「下総香取社𡡛殿遷宮用途注文」(『香取神社文書』):文中に「……仍地頭諏方三郎左衛門入道真性造進之、……」*4

【史料5】『吾妻鏡』文永3(1266)年6月19日条:「諏方三郎左衛門入道

【史料6】(建治3(1277)年か)4月5日付「渋谷重経(定仏)書状案」(『薩摩入来院文書』)の宛名「諏方入道殿*5

【史料7】「けんち3ねん」6月24日付「渋谷重経(定仏)置文案」(『薩摩入来院文書』):文中に「……すわとのにつきたてまつりて申上て候か、……」*6

【史料8】建治三年記』7月23日条「関東評定事書」:「諏方左衛門入道*7

【史料9】『建治三年記』12月10日条「関東評定定文」:「諏方左入(=左衛門入道の略記)*8

【史料10】『建治三年記』12月16日条:「諏方

【史料11】『建治三年記』12月25日条「関東評定事書」:「……評定以後、城務康有(=『建治三年記』筆者自身)頼綱真性御前に召さる。御寄合有り。……」*9

【史料12】(弘安元(1278)年?)「渋谷重経(定仏)後家尼妙蓮等重訴状」(『薩摩入来院家文書』):「一通.定仏遣諏方入道真性許状案」*10

【史料13-a】弘安7(1284)年正月4日付「得宗家奉行人奉書案」(『東寺百合文書』な):発給者「沙弥」の署名と判*11

【史料13-b】弘安7年9月9日付「得宗家奉行人奉書」(『相模円覚寺文書』):発給者「真性」の署名と花押*12

*【史料13】はいずれも左衛門尉・平頼綱に次ぐ奉者第二位*13。ちなみに第三位は加賀権守・佐藤業連

【史料14】弘安10(1287)年10月3日付「関東下知状」(『薩摩山田文書』):「以諏方入道、申人子細之由、」*14

*元亨2(1322)年のものとされる「平河道照申状」(『肥後平川文書』)*15の文中に「……其後惣越訴事、皆以被与奪御内之時、為諏方左衛門入道直性 于時在俗 奉行執沙汰処、」とあり、前半の内容は、笠松宏至・細川重男両氏が言及の通り『鎌倉年代記正安2(1300)年条の「十月九日止越訴、相州家人五人奉行之*16に比定されるから、同年に直性が「相州(=相模守・北条貞時家人五人奉行」の一人としてまだ在俗(出家前)であったことが分かる*17。よって【史料14】の「諏方入道」も直性の父・真性に比定して問題ない。   

【史料15】正応5(1292)年10月13日付「執権北条貞時公文所奉書案」(『東寺百合文書』リ)*18:「工藤右衛門入道殿(=工藤杲禅)」に宛てたもの。細川氏は、奉者第一位「左衛門尉」、第二位「沙弥」を各々「平宗綱」・「諏訪盛経(=真性)」と推定*19

 

生年と烏帽子親の推定

▲【系図16】『尊卑分脈』より、諏訪氏系図*20

吾妻鏡』では弟・諏訪盛頼が先に登場し、初出は建長2(1250)年1月1日条「諏方兵衛四郎盛頼」である*21。すなわち前年(1249年)までには元服を済ませていたことが分かり、兄である盛経の元服もそれ以前であることが確実となる

更に、盛頼は翌建長3(1251)年1月10日条にも「諏方兵衛四郎盛頼」とあったものが、同6(1254)年1月4日条からは「諏方四郎兵衛尉」と呼称が変化しており、1252~53年の間に父・盛重と同じ兵衛尉に任官したことも窺える。

兄弟で比較すると、1251年には三郎盛綱〔盛経〕(【史料1】)四郎盛頼は共に無官であったが、1253年には兄・盛経が兵衛尉より上位の左衛門尉に任官済み(【史料2】)であるから、前年の1252年に兄弟揃って官職を得たものの、兄が左衛門尉、弟が兵衛尉という形で差が付けられたことが窺えよう。相応の年齢を考えると、この時、兄弟ともに20代には達していたものと推測される

historyofjapan-henki.hateblo.jp

弟・盛頼についてはこちら▲の記事で1233年頃と推定したので、兄・盛経の生年は1230~32年あたりとなろう

ここで「」の名に着目すると、「盛」が父・盛重から継承した1字であるのに対し、「」は10代前半で迎える元服の際、当時の4代執権・北条(在職期間:1242年~1246年)*22を烏帽子親とし、その偏諱を賜ったものと考えられる。父の代から得宗被官化していた身分で、経時の烏帽子親でもある4代将軍・藤原(九条)頼経から「経」の1字を賜ったとは考え難い。

▲【系図17】細川重男作成による諏訪氏系図*23

系図16】にも載せられている嫡男・も盛経の「経」字を継承し、得宗・北条時(8代執権)偏諱を受けたと考えられている*24。そして「諏方左衛門入道*25(=前述の直性、宗経と同人とされる)が子息諏訪三郎盛(『太平記』巻10)も「盛」の字と得宗・北条時宗の孫、14代執権)の1字により名付けられたとみられる。諏訪氏得宗被官嫡流は「盛経―盛」の3代に亘り北条氏得宗と烏帽子親子関係を結ぶこととなるのである。

 

(参考ページ)

 諏訪盛経 - Wikipedia

 諏訪真性(すわ・しんしょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク

『入来院家文書』― 東京大学史料編纂所HP

 

脚注

*1:吾妻鏡』での登場箇所は、御家人制研究会(代表:安田元久)『吾妻鏡人名索引』〈第5刷〉(吉川弘文館、1992年)P.290「盛経 諏訪」の項 に拠った。

*2:「経」と「綱」は混同・誤記の範囲であろう。例えば、大友氏系図少弐盛(貞経の父)を「盛」と誤る同じ例があったり(→ 少弐貞経 - Henkipedia 注6参照)、嘉元3(1305)年5月、北条時村殺害犯として首を刎ねられた12人のうち、足利貞氏に預けられていた(使いは武田時信海老名左衛門次郎の諱(実名)について、『鎌倉年代記』裏書では「秀」、『武家年代記』裏書では「秀」と異なっていたり(→ 竹内理三 編『増補 続史料大成』第51巻〈臨川書店、1979年〉P.59・P.152。「秀」の方でも誤読または誤写の類が生じており、正しくは「季綱(海老名季綱)」とされる)するのが確認できる。

*3:『鎌倉遺文』第31巻24054号。詳細は 諏訪盛重 - Henkipedia を参照のこと。

*4:『鎌倉遺文』第13巻9257号。

*5:『鎌倉遺文』第17巻12699号。

*6:『鎌倉遺文』第17巻12763号。

*7:『鎌倉遺文』第17巻12778号。

*8:『鎌倉遺文』第17巻12932号。

*9:『鎌倉遺文』第17巻12948号。

*10:『鎌倉遺文』第17巻13076号。

*11:『鎌倉遺文』第20巻15051号。

*12:『鎌倉遺文』第20巻15301号。

*13:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.193。以下『得宗専制論』と略記する。

*14:『鎌倉遺文』第21巻16353号。

*15:『鎌倉遺文』第36巻28298号。

*16:鎌倉年代記 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ

*17:細川『得宗専制論』P.190。

*18:『鎌倉遺文』第23巻18030号。

*19:細川『得宗専制論』P.99。

*20:細川『得宗専制論』P.426~427 より引用。尚、盛頼の項にある「出家真性」は本来、兄・盛経の項にあるべきものの誤りであることは【史料4】を参照。

*21:吾妻鏡人名索引』P.297「盛頼 諏訪」の項 より。

*22:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その5-北条経時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*23:細川『得宗専制論』P.427 より引用。

*24:細川『得宗専制論』P.194。

*25:細川『得宗専制論』P.188 によると、幾つかのパターンが伝わる『太平記』の諸本のうち、流布本系統では「諏方左馬助入道が子息、諏訪三郎盛高」となっているが、古態の西源院本・神田本などでは「左衛門」或いは「さへもん」となっており、こちらが正しいと説かれている。