二階堂宗実
二階堂 宗実(にかいどう むねざね、生年不詳(1250年代後半~1260年頃?)~没年不詳(1290年代以後?))は、鎌倉時代中期の御家人。父は二階堂行実、母は高野時家(小田時家、伊賀守)*1の娘。官途は弾正忠、左衛門尉、因幡守。官位は従五位下。妻は二階堂行宗の娘。子に二階堂貞宗、二階堂光貞がいる。
以上の情報を載せる『尊卑分脈』*2(以下『分脈』と略記)では、父・行実の項に文永6(1269)年7月13日に34歳で亡くなったとの注記があり、逆算すると嘉禎2(1236)年生まれと分かる*3が、父親(宗実の祖父)である行泰(1211-1265)との年齢差の面でも問題はない。
よって、現実的な親子の年齢差を考えると、息子である宗実の生年は1256年頃から、行実が亡くなる1269年までの間と推定できる。
▲【図A】二階堂氏行泰流の各人物生年の推定
ここで「宗実」の名乗りに着目すると、それまで続いていた二階堂氏代々の通字「行」は使われておらず、「実」が父・行実から継承した字であるのに対し、上(1文字目)に戴く「宗」は烏帽子親からの一字拝領の可能性が考えられる。
仮に1256年生まれとすると、6代将軍・宗尊親王の京都送還(1266年)*4当時は11歳(数え年、以下同様)と元服の適齢ではあるが、あくまで生年は "早くとも" の場合であり、実際はそれ以下であった可能性が高い。宗実以降の「光貞―高実」が「北条貞時―高時」の偏諱を受けたとみられることを踏まえても、宗尊から1字を賜ったとは考え難く、宗実の「宗」字は宗尊の烏帽子子でもあった得宗・北条時宗の偏諱であった可能性の方が高いのではないか。
今度は1269年生まれと仮定すると、8代執権・時宗(在職:1268年~1284年没)*5の逝去当時16歳となり、元服当時の執権が時宗であったことはほぼ確実と言って良いと思う。その期間内で「宗」の字が認められているのだから、時宗とは烏帽子親子関係にあったと考えて良いだろう。
historyofjapan-henki.hateblo.jp
よって、子・光貞との年齢差も考慮して、宗実の生年は1250年代後半~1260年頃であったと推測する。このように生年を推定する裏付けとなる考察を他に3点掲げたい。
一つは母方からのアプローチである。『分脈』にある宗実の注記「母伊賀守時家女」の時家は、同じく『分脈』に八田知家の子もしくは孫(家政の子)として記載の高野(小田)時家に比定される。『関東評定衆伝』文永8(1271)年条によると、暦仁元(1238)年3月7日の叙爵の際に伊賀守となり、文永8年2月5日に72歳で没したというから、逆算すると正治2(1200)年生まれと分かる*6。「時家(外祖父)―宗実(外孫)」間でも十分妥当な年齢差となるので、前述の生年推定が裏付けられよう。
▲【図B】二階堂氏略系図(武家家伝_二階堂氏 より一部抜粋)
二つ目として、二階堂氏が世襲した鎌倉幕府の政所執事の変遷について述べる。行泰(法名:行善)から執事を継いだ長男の行頼は34歳の若さで早世してしまい、一旦行泰が再承の後に次男である行実が跡を継いでいた。しかし、行実も前述の通り、奇しくも兄と同じ34歳で亡くなってしまい、その後継となったのは行泰の弟である行綱(法名:行願)であった(行綱の後継は嫡男の頼綱)。行実の後継として嫡男の宗実が政所執事になれなかったのは、1269年当時幼少であったからであろう。この点も生年を推定する上で重要な根拠になると思う。
最後に、再び『分脈』を見ると、二階堂行宗の娘(行貞の姉または妹)の一人に「因幡〔「守」脱字か〕宗実妻」とあり*7、因幡守が最終官途であったと考えられる。父・行実が33歳で従五位下、信濃守に叙爵・任官した*8ことを考えると、宗実も同じ程の年齢に達するまでは生きていたのではないか。
こちら▲のページに頼りながら、この頃の因幡守について確認しておこう。
文永9(1272)年7月11日に同族の二階堂行清(42)が因幡守となったが、僅か10日後の7月21日には近江守に転任し*9、叔父・二階堂行佐(36、【図A】参照)がその後任を引き継ぎ*10、建治2(1276)年正月23日の西園寺実俊補任の時まで務めたとみられる。建治3(1277)年12月~弘安5(1282)年12月にかけては長井頼重、弘安6(1283)年4月6日からは藤原行通、同11(1288=正応元)年3月には大友親時、翌正応2(1289)年4月には伊藤某*11が因幡守在任であったことが確認されている。
永仁2(1294)年12月24日には源(北畠)師親の甥・雅行が因幡守に補任され、同5(1297)年7月22日まで務めたという。乾元元(1302)年2月には「前因幡守藤原敦雄」なる人物が確認されており、雅行の後任、その次あたりで就任したと思われる。嘉元元(1303)年正月29日には藤原伊俊が因幡守に補任されている。
こうして見た時、宗実が因幡守になり得る空白期間として最適の時期は1290年あたりになると思う。前述のように生年を推定すれば、父・行実の国守任官と同じ30代となる。
以上より、宗実の生年は1250年代後半~1260年頃であったと結論付けておきたい。
脚注
*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末 鎌倉政権上級職員表(基礎表)No.124「小田時家」の項。新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№124-小田時家 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)も参照のこと。
*2:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*3:注1前掲基礎表 No.147「二階堂(筑前)行実」の項。二階堂行実 - Wikipedia。二階堂行実(にかいどう・ゆきざね)とは? 意味や使い方 - コトバンク。
*4:宗尊親王(むねたかしんのう)とは? 意味や使い方 - コトバンク より。
*5:注1前掲基礎表 No.7「北条時宗」の項 または 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*6:注1同箇所より。
*7:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 第3巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。系譜上は宗実と再従兄弟(はとこ)の関係にある。
*8:注3前掲 同基礎表より。典拠は『鎌倉年代記』文永2年条、『関東評定伝』文永6年条、『武家年代記』文永2年条。
*9:注1前掲基礎表 No.176「二階堂(常陸)行清(元・行雄)」の項。
*10:注1前掲基礎表 No.148「二階堂(筑前)行佐」の項。典拠は『関東評定伝』建治3年条。
*11:出典記事では、春日大社所蔵『弘安五年御進発日記』にある御家人「伊藤左衛門尉能兼〔祐兼〕」(→ 藤原重雄「史料紹介 春日大社所蔵『弘安五年御進発日記』(下)」P.101(1ページ目))が任官したものと推測されている。