周枳頼泰
周枳 頼泰(すき よりやす、生年不詳(1230年代後半?)~没年不詳)は、鎌倉時代中期の武将、御家人、射手。通称は兵衛四郎。父は周枳兵衛尉か。
周枳(すき)は、現在も京都府京丹後市大宮町の地名・大字として残っている名称で、平安時代中期の『和名類聚抄』(和名抄)にも丹後国丹波郡七郷の1つとして「周枳郷」の記録があり、古くから丹後二宮・丹波郡名神大社の大宮売神社が鎮座する集落であった。日本中世期には、承久4(1222)年4月5日付の太政官牒において弘誓院領の1つとして「壱処字周枳社在丹後国丹波郡大宮部大明神」と見える*1。
周枳氏については詳細は不明だが、この地名を由来とする一族であったと推測される。頼泰については以下の箇所で登場しており、実在が確認できる*2。
年 |
月日 |
表記 |
建長5(1253) |
1.9 |
周枳兵衛四郎 |
1.14 |
須〔ママ〕枳兵衛四郎 |
|
建長6(1254) |
1.4 |
周枳兵衛四郎 |
1.16 |
周枳兵衛四郎頼泰 |
|
正嘉2(1258) |
1.6 |
周枳兵衛四郎 |
1.11 |
周枳兵衛四郎頼泰 |
|
1.15 |
周枳兵衛四郎頼泰 |
|
弘長元(1261) |
1.9 |
周枳兵衛四郎 |
1.14 |
周枳兵衛四郎頼泰 |
内容としてはいずれも正月行事の的始への参加に関するものである。「兵衛四郎」という通称は、父親が兵衛尉で、その「四郎(本来は4男の意)」であったことを意味するから、『吾妻鏡』寛喜2(1230)年5月27日条の「周枳兵衛尉」*3が頼泰の父親であったとみられる。この人物は、病床にあった北条時氏の許へ、看病のため参上した一人であり、得宗被官的な立場にあったのかもしれない。
頼泰は『吾妻鏡』登場当時「四郎」と名乗るのみで無官であったことが窺えるが、恐らく元服からさほど経っていなかったためであろう。よって、前述の内容も踏まえると、頼泰は元服の際に、時氏の子で当時の執権であった北条時頼(在職:1246年~1256年)*4の偏諱を賜ったと考えられよう。『吾妻鏡』での初見時期から考えると、時頼が執権を継いだばかりの頃に元服したと考えられ、1230年代後半~1240年頃の生まれと推定される。