勅使河原泰直
勅使河原 泰直(てしがわら やすなお、生年不詳(1220年代?)~没年不詳)は、鎌倉時代前期の武将、御家人。勅使河原則直の嫡男。官途は右馬允。
勅使河原氏は、武蔵七党の一つ、丹党の一族で武蔵国賀美郡勅使河原を名字の地とする武士で、祖父・有直の代に鎌倉幕府の御家人に列した*1。
『吾妻鏡』を見ると、有直(勅使河原三郎)は源義経の軍勢に加わって源義仲と戦ったり、治承・寿永の乱が終結した後は鎌倉幕府初代将軍・源頼朝に従ったりといった活動が確認されている。その嫡男・則直(勅使河原小三郎)は3代将軍・源実朝の代から活動し、実朝の死後も承久の乱や合奉行の一員など北条泰時と深い接点があったことが窺える。
そして、『武蔵七党系図』*2ではこの則直の長男として泰直の記載がある。注記に「新馬允〔ママ〕」とあり、父・則直と同じ右馬允に任官したらしい。
系図を見ると、勅使河原則直と安保泰実がともに秩父基房の玄孫であり、ほぼ同世代人だったのではないかと考えられ、実際北条泰時政権下で活動していることは『吾妻鏡』で明らかである。
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泰実の場合、おばの谷津殿が泰時の継室に迎えられたという親戚付き合いもあって「泰」の字を受けたとも考えられるが、則直もまた、自分の息子の元服に際し、烏帽子親を泰時に願い出ることは想像に難くないと思うし、「泰直」の名がその証左になっていると言えよう。よって泰直は北条泰時の加冠によって元服し、「泰」の偏諱を受けたものと判断される。
泰直については『吾妻鏡』で確認できないが、歴代家督「有直―則直」の仮名「三郎」を継ぐ、建長6(1254)年正月4日条の「勅使河原小三郎」が泰直に比定される可能性があるだろう。この人物は同日に行われた的始の「四番」試合で周枳頼泰(兵衛四郎)と対戦している。
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尚、『武蔵七党系図』の記載によると泰直の子・直綱(なおつな)も「弥三郎」を称したらしく、勅使河原氏では「三郎」が嫡流代々の呼称と化していたのかもしれない。