Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

安保宗実

安保 宗実(あぼ むねざね、生年不詳(1260年代?)~1333年)は、鎌倉時代後期・末期の武将、御家人

安保頼泰の嫡男か。主な通称は次郎、左衛門尉、左衛門入道。表記は阿保宗実とも。出家後の同人と思われる安保道潭(- どうたん)についても本項で扱う。

 

 

安保左衛門入道道潭について

まず、鎌倉時代末期の元弘の乱に関する史料を列挙する。各史料では幕府軍の一員として「安保左衛門入道」なる人物が確認できる。

 

【史料1】元弘元(1331)年10月15日付「関東楠木城発向軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*1

楠木城
一手東 自宇治至于大和道
 陸奥守        河越参河入道
 小山判官       佐々木近江入道(貞氏)
 佐々木備中前司(大原時重)  千葉太郎
 武田三郎         小笠原彦五郎
 諏訪祝(時継?)     高坂出羽権守(信重)
 島津上総入道       長崎四郎左衛門尉(高貞)
 大和弥六左衛門尉     安保左衛門入道
 加地左衛門入道(家貞) 吉野執行

一手北 自八幡于佐良□路
 武蔵右馬助      駿河八郎
 千葉介      長沼駿河権守(宗親)
 小田人々       佐々木源太左衛門尉(加地時秀)
 伊東大和入道   宇佐美摂津前司
 薩摩常陸前司(伊東祐光カ)  □野二郎左衛門尉
 湯浅人々     和泉国軍勢

一手南西 自山崎至天王寺大
 江馬越前入道       遠江前司
 武田伊豆守       三浦若狭判官(時明)
 渋谷遠江権守(重光?)  狩野彦七左衛門尉
 狩野介入道       信濃国軍勢

一手 伊賀路
 足利治部大夫    結城七郎左衛門尉
 加藤丹後入道    加藤左衛門尉
 勝間田彦太郎入道  美濃軍勢
 尾張軍勢

 同十五日  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参
 同十六日
 中村弥二郎 自関東帰参
元弘元(1331)年、後醍醐天皇笠置山、その皇子・護良親王が吉野、楠木正成が下赤坂城にてそれぞれ倒幕の兵を挙げると、9月初頭、幕府側は討伐軍を差し向けることを決定(元弘の変)。【史料1】はその幕府軍の名簿であり、宇治から大和道へ向かう陸奥守=大仏貞直の軍勢の中に「安保左衛門入道」が含まれている。
 

【史料2】『太平記』巻6「関東大勢上洛事」*2における幕府軍の構成メンバー

<相摸入道(=得宗北条高時)一族>

阿曾弾正少弼名越遠江入道大仏前陸奥守貞直・同武蔵左近将監・伊具右近大夫将監・陸奥右馬助

<外様>

千葉大介宇都宮三河守三河権守貞宗?)小山判官武田伊豆三郎(政義か)小笠原彦五郎貞宗土岐伯耆入道(頼貞)葦名判官(盛貞)・三浦若狭五郎(時明?)千田太郎(千葉胤貞)・城太宰大弐入道・佐々木隠岐前司・同備中守(大原時重?)・結城七郎左衛門尉(朝高)・小田常陸前司(時知?)長崎四郎左衛門尉・同九郎左衛門尉(師宗?)・長江弥六左衛門尉(政綱?)・長沼駿河駿河権守宗親?)・渋谷遠江遠江権守重光?)河越三河入道工藤次郎左衛門高景・狩野七郎左衛門尉・伊東常陸前司(祐光)同大和入道(祐宗)安藤藤内左衛門尉宇佐美摂津前司二階堂出羽入道同下野判官(二階堂高元)・同常陸(二階堂宗元?)安保左衛門入道・南部次郎・山城四郎左衛門尉、他132人

307,500余騎

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<その他>

河野九郎(通盛)ら四国勢:大船300余艘

厚東入道(武実)・大内介(重弘?)・安芸熊谷(直経?)ら周防・長門勢:兵船200余艘

甲斐・信濃源氏(武田・小笠原氏などか)7,000余騎

江馬越前守・淡河右京亮(時治か)ら率いる北陸道7箇国勢:30,000余騎

正慶元/元弘2(1332)年、護良親王楠木正成らの反幕府活動が畿内で活発化したとの報告を受けて、幕府側は大軍を畿内へと向かわせた(9月20日鎌倉発、10月8日先陣が京着)。【史料2】はその軍勢の構成をまとめたものだが、やがて翌「元弘三年正月晦日、諸国の軍勢八十万騎を三手に分て、吉野・赤坂・金剛山、三の城へ」と向かわせた。

太平記』は本来軍記物語ではあるが、実際の一級史料でも、『楠木合戦注文』によると三手に分けたそれぞれの大将軍を遠江弾正少弼治時陸奥右馬助名越遠江入道が務めたといい、『保暦間記』ではそれぞれ実名付きで北条(阿曽)治時遠江守随時の子)北条(大仏)高直陸奥守維貞の子)名越宗教のことと明かされている*3から、ほぼ史実と認めて良いだろう。すなわち、この戦闘にも安保左衛門入道が加わっていたと見なせる。

 

【史料3】元弘3(1333)年4月日付関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*4
大将軍
 陸奥守遠江国       武蔵右馬助伊勢国
 遠江尾張国       武蔵左近大夫将監美濃国
 駿河左近大夫将監讃岐国  足利宮内大輔三河国
 足利上総三郎        千葉介一族并伊賀国
 長沼越前権守(秀行)淡路国   宇都宮三河権守伊予国
 佐々木源太左衛門尉(加地時秀)備前国 小笠原五郎(頼久)阿波国
 越衆御手信濃国      小山大夫判官一族
 小田尾張権守一族      結城七郎左衛門尉一族
 武田三郎一族并甲斐国    小笠原信濃入道一族
 伊東大和入道 一族      宇佐美摂津前司一族
 薩摩常陸前司(同上)一族  安保左衛門入道一族
 渋谷遠江権守(重光?)一族 河越参河入道一族
 三浦若狭判官(時明)    高坂出羽権守(同上)
 佐々木隠岐前司一族     同備中前司(大原時重)
 千葉太郎

勢多橋警護
 佐々木近江前司(貞継?)   同佐渡大夫判官入道

(*上記史料1・3ともに http://chibasi.net/kyushu11.htm より引用。( )は人物比定。)

 

【史料3】も同様に幕府軍のリストである。安保氏はかつて北条泰時の継室を出して縁戚関係を結んでいた有力な御家人の一つであり、この史料からは安保左衛門入道が一族を率いる、いわば惣領の立場にあったことが窺える。

 

この安保左衛門入道のその後の動向は、軍記物語である『太平記』や『梅松論』に描かれているので以下に紹介する。尚、前者のうち、金地院本系では道忍、他の諸本では道堪、後者では道潭と表記がそれぞれ異なる*5が、『丹治姓安保氏近代家譜』(詳しくは後述参照)に従って本項では「道潭」としておく。

 

【史料4】『梅松論』より①*6

五月十四日、高時、弟左近将監入道恵性(=北条泰家を大将として武蔵国に発向す。同日山口の庄の山野に陣を取りて、翌日十五日分配関戸河原にて終日戦けるに命を落とし疵を蒙る者幾千万といふ数を知らず。中にも親衛禅門(=泰家)の宗徒の者ども、安保左衛門入道道・粟田・横溝(=横溝高貞)ばら最前討死しける間、鎌倉勢ことごとく引退く処、則ち大勢攻めのぼる間、鎌倉中の騒ぎ、只今敵の乱入たらんもかくやとぞおぼえし。

同内容を描く『太平記』巻10「新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事」にも北条泰家入道恵性の軍勢の中に「安保左衛門入道」が含まれており*7、続く「三浦大多和合戦意見事」に「……大将左近大夫入道(=泰家)も、関戸辺にて已に討れぬべく見へけるを、横溝八郎(=高貞)蹈止て、近付敵二十三騎時の間に射落し、主従三騎打死す。安保入道々堪父子三人相随ふ兵百余人、同枕に討死す。……」とある*8

これらの史料から、①安保左衛門入道法名が「道潭」または「道堪(いずれも「どうたん」と読める)であったこと、②鎌倉幕府滅亡前の1333年5月16日の関戸の戦いで大将の泰家を逃がす形で、父子3人と100人余りの随兵で新田義貞の軍勢と戦い討ち死にしたことが分かる。

 

同年5月22日、北条高時らが自害して果て、鎌倉幕府は滅亡。道潭死後の安保氏にも大きな変化があった。

 

【史料5】『梅松論』より②*9

三河の矢矧に御着ありて京都・鎌倉の両大将(=尊氏・直義)御対面あり。今当所を立ちて関東に御下向あるべきところに、先代方の勢遠江の橋本を要害に搆へて相支へる間、先陳の軍士阿保丹後守、入海(=浜名湖を渡して合戦を致し、敵を追ひ散らしてその身疵を蒙る間、御感のあまりにその賞として家督安保左衛門入道道が跡を拝領せしむ。これを見る輩、命を捨てんことを忘れてぞ勇み戦ふ。

当所の合戦を初めとして同国佐夜の中山・駿河の高橋縄手・筥根(=箱根)山・相摸川・片瀬川より鎌倉に至る迄、敵に足を溜めさせず、七ヶ度の戦ひに討勝ちて、八月十九日鎌倉へ攻入り給ふとき、諏訪の祝父子(=頼重〈照雲〉・時継)安保次郎左衛門入道道が子自害す。相残る輩或は降参し或は責め落とさる。

こちらは建武2(1335)年の所謂「中先代の乱」に関する内容である。

▲【写真6】建武2年8月9日付「足利尊氏袖判下文写」(『安保文書』)

傍線部の内容については、同年8月9日付で足利尊氏が「丹後権守光泰」に対し「勲功之賞」として「安保左衛門尉法師」を宛がう旨の実際の書状の写しが現存する(【写真6】)*10。尚、これに先立ち、幕府滅亡後の元弘3(1333)年12月29日に尊氏は「安保新兵衛光泰」に信濃国小泉庄内地頭職を勲功賞として宛行う旨の袖判下文を発給している*11

これにより、『太平記』と『梅松論』に描かれていた道潭の討死は史実で、その旧領を与えられた安保光泰(丹後権守)*12が「家督」=安保氏惣領の座を継承したことが分かる。

安保氏一族を率いていた道潭(【史料3】)の子息は、【史料4】の所で紹介した、父と同時に討死の2名のほか、【史料5】にあるように中先代の乱でももう一人の遺児が自害しているから、本来の惣領家は断絶し、庶流出身の光泰が再興したと考えられている。

 

ところで、『梅松論』での安保次郎左衛門入道道潭、或いは『太平記』での安保入道道堪については実名不詳である。江戸時代宝永年間(1704年~1711年)にまとめられたという『丹治姓安保氏近代家譜』冒頭の記述では「…次郎左衛門尉泰実ノ嫡男三郎左衛門尉頼泰マデ北条相模守朝臣高時エ属シ、正慶二癸酉年高時滅亡ノ後、頼泰嫡子安保左衛門入道道〔ママ〕ヨリ足利将軍幕下ニ参ル。…」と書かれており*13、『武蔵七党系図(以下『七党系図』とする)に頼泰の子として載せられる経泰(新左衛門尉)宗頼(四郎左衛門尉)*14に比定する説がある*15が、筆者はこれとは異なる説を提示したいと思う。次章にて考察する。

 

安保氏当主の名乗りについて

安保道潭の俗名を推測するカギとして、その後の安保氏歴代家督の名乗りに着目し考察してみたいと思う。というのも、北条氏・足利氏など、武士の家系では、代々の通字継承や先祖と仰ぐ人物から1字を貰うことが一般的であり、鎌倉時代初期の「光―員――頼」が必ず親子間で1字の継承を行っている安保氏もその例外では無かったと考えられるからである。

先に、【史料5】で登場した安保光泰およびその子孫について見ていきたい。光泰以降は『安保文書』に書状や系図が遺されている。光泰は『七党系図』では泰実の弟に「六郎光泰」の記載が見られるが、年代的に合わないので、その正誤に拘らず別人と見なすべきであり、系譜不詳と言わざるを得ない。しかしその実名は、実光の「」と泰実の「」によって構成されていると見受けられ、泰実の直系子孫であった可能性が高いのではないか。

暦応3/興国元(1340)年の正月24日*16と8月22日*17に光泰(沙弥光阿)は息子の中務丞泰規(やすのり)左衛門尉直実(ただざね)彦五郎光経(みつつね)に向けた譲状を発給している。規・経は父・光泰の1字を継承している。次男・実は他史料で「実」とも書かれており、恐らく足利義の偏諱を受けたのかもしれないが、もう一方には先祖代々の通字であった「」を用いている。尚、8月22日付の譲状で泰規が「惣領」と呼ばれており、前述の内容が裏付けられよう。

泰規の嫡男・憲光(のりみつ)は、祖父・光泰の1字を用いて、家祖・実光以来の「○光」型の名乗りとなっている。室町時代に入ってから安保氏は関東管領の上杉氏と接点があり、「憲」もその通字を受けたものと思われる。

系図7】室町期安保氏略系図

 光泰―泰規―憲光―宗繫―憲祐―氏泰―・・・

以降の系譜を見ると、憲祐(のりすけ)は祖父・憲光或いは同様に上杉氏の偏諱鎌倉公方足利氏足利成氏か)から「氏」の1字を受けた可能性がある氏泰(うじやす)以降は「泰」が代々の通字となったのに対して、宗繫(むねしげ)だけは全く「実」・「光」・「泰」といったそれまでの安保氏ゆかりの字を持っていない。

安保宗繫については、「従五位下 丹治宗繫 宜任信濃」と書かれた応永16(1409)年7月2日の宣旨が現存しており*18、どうやら誤記ではなさそうである。この宗繫だけが、祖先にゆかりの文字を用いている歴代当主の例外であったとは考えにくく、同様であった可能性があるのではないか。

そうした推測をもって再び『七党系図』を見ると、「繫」を付した人名は見当たらないが、「」を持つ人物なら何人かいる。世代的に比較的合いそうな者を抽出すると、前述の宗頼(四郎)や、頼泰の兄・恒実の子の宗実(二郎左)、前述の六郎光泰の子の宗泰宗光(五郎)が挙げられよう。

光泰以降の当主にとって直接の先祖には当たらなくても、形式上は光泰の先代が安保左衛門入道道なのであり(【史料5】)、この道潭の俗名に「」の字が含まれていたのではないか。

この前提に立って、次節で結論をまとめてみたい。

 

安保道潭の俗名と烏帽子親についての考察

前述の『丹治姓安保氏近代家譜』に従うと、系譜は「泰実―頼泰―道潭」となるが、は義理のおじである北条時、は北条時偏諱を受けたと見受けられる。道潭の俗名に「」の字が含まれているのではと前述したが、これはまさに次の得宗北条時偏諱である。よって、道潭の俗名は「」であったと考えて良いだろう。

【史料5】より道潭の仮名(輩行名)が実光や泰実も称した「次郎」であったことが分かるので、『七党系図』の中では「二郎左(「左」は左衛門尉の略記)」と書かれるが相応しいのではないか。得宗の一字を拝領し、「」の通字を復活させているのは、足利氏(泰―頼―家時―貞得宗被官の平(長崎)氏時―頼―宗など、他氏でも類似した例がある。

前述の通り『七党系図』では恒実の子となっているが、得宗家との烏帽子親子関係の連続性から、筆者は『丹治姓安保氏近代家譜』の記載通り頼泰の子であったと判断しておきたい(四郎頼が宗実の弟で同様に時の烏帽子子にあたるのかもしれない)

 

尚、『七党系図』では宗実の子に刑部丞(実名不詳)、実景が挙げられており、前掲史料で掲げた道潭の子息たちにあたるのかもしれない。宗実(道潭)の嫡男は北条貞時或いは北条高時偏諱を受けた可能性もあるが、ここではその判断は差し控えたい。

 

安保光泰の系譜について

最後に、ここまで保留にしていた宗実(道潭)の後継者・安保光泰の系譜について考察してみたいと思う。

実は長野県松本市・守保家所蔵の『丹治姓安保系図』では「経泰光泰」となっている*19。経泰は『七党系図』で頼泰の子としており、「経」は祖先の丹武経に由来する字と考えられよう。前述した光泰の3男・彦五郎光経の名乗りも祖父・泰と父・泰の各々1字を取ったものなのではないか。改めて系図に纏めてみると次の通りである。

系図8】鎌倉期安保氏・推定略系図

実光―実員―泰実―頼泰―宗実(道潭)

           └ 経泰―光泰

光泰が宗実の甥ということになり、1333年の段階で丹後権守任官前の兵衛尉であったことも考えると、跡を継ぐ者として世代的にも問題ないのではないか。惣領家に近い血筋なら、再興するにあたって適しているだろうし、甥が伯父の跡を継ぐ形での宗家再興というのは、平(長崎)氏と同様の例になる*20

よって【系図7】を本項での結論としておきたい。

 

参考論文

伊藤一美「東国における一武士団 ー北武蔵の安保氏についてー」(所収:『学習院史学』9号、1972年)

 

脚注

*1:『鎌倉遺文』第41巻32135号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*2:「太平記」関東大勢上洛事(その1) : Santa Lab's Blog より。

*3:大仏高直 - Henkipedia 参照。

*4:『鎌倉遺文』第41巻32136号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*5:相沢屋敷(あいざわやしき)とは? 意味や使い方 - コトバンク

*6:群書類従 : 新校 第十六巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*7:「太平記」新田義貞謀反の事付天狗催越後勢事(その11) : Santa Lab's Blog

*8:「太平記」三浦大多和合戦意見の事(その4) : Santa Lab's Blog

*9:『大日本史料』6-2 P.540~541群書類従 : 新校 第十六巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション多摩市史 通史編1/ 尊氏の東下

*10:新井浩文「安保清和氏所蔵『安保文書』調査概要」(所収:『文書館紀要』25号、埼玉県立文書館、2012年)P.四【写真2】および 【史料一】、P.8【写真8】。

*11:漆原徹「預状と預置制度の成立」(所収:『法学研究』第73巻8号、慶應義塾大学法学研究会、2000 年)P.62 および P.76 註(32)。

*12:建武3(1336)年12月11日には足利直義が「安保丹後権守光泰法師 法名光阿」に対し所領を安堵する書状を発給しており(→『大日本史料』6-3 P.908)、「阿保丹後守」=「丹後権守光泰」と分かる。

*13:新井浩文「『安保文書』伝来に関する覚書 ―川口家所蔵の安保文書について―」(所収:『文書館紀要』22号、埼玉県立文書館、2009年)P.59【史料G】および P.61【系図二】。

*14:武蔵七党系図 - 国立国会図書館デジタルコレクション埼玉苗字辞典「九閑 クガ」の項。

*15:多摩市史 通史編1/ 横溝八郎と安保道潭 より。

*16:『大日本史料』6-6 P.481~483

*17:『信濃史料』巻5(信濃史料刊行会 編・出版、1954年)P.434~436

*18:『信濃史料』巻7(信濃史料刊行会 編・発行、1956年)P.474~475

*19:池内義資「<研究ノート>式目註釈書について」(所収:会誌『史林』第46巻第5号、史学研究会、1963年)P.130。

*20:長崎氏は北条貞時の代に内管領であった平頼綱が滅ぼされて一時没落するが、『保暦間記』では甥と記される長崎円喜北条高時内管領として事実上の最高権力者となった。また、円喜と並ぶ権力者の安達時顕も、頼綱に惣領・安達泰盛が滅ぼされた後に庶流(泰盛の甥・宗顕の遺児)の立場から "秋田城介"家を再興して再び得宗外戚となっている。