諏訪 直頼(すわ ただより、1329年?~没年不詳)は、南北朝時代の武将、諏訪氏当主、諏訪大社の大祝(神官)、信濃国守護。官途は信濃守。
観応元(1350)年12月15日付「諏訪頼嗣願文」(『守矢文書』)*1では「信濃守頼嗣」と署名していたものが、正平7(1352)年正月日付「武田友光軍忠状」(『甲斐武田文書』)*2の文中では「信濃守直頼」と変化しており、官職も同一であることから、両者は改名による同人の可能性が高い。相手に対して諱(実名)で呼ぶ事は礼儀を欠く事と考えられており、官職名や仮名で呼ぶ事が主流であった当時、同時期、同族に同じ名字、同じ官職名の人物が存在する事例はあまりない、すなわち、1351年前後で「諏訪信濃守」が頼嗣、直頼の2名であったとは考え難いからである。
ここで『諏訪氏系図 正編』を見ると、頼継の注記*3に「兵部大輔、信濃権守、改頼嗣又頼寛又直頼」とあるのが確認できる。実際の一次史料ではなく、後世に編纂された系図資料であるため、直ちに信用するには注意を要するが、一つの研究成果として参考にはなるだろう。同注記には、建武3(1336)年当時8歳(数え年)であったと書かれており、逆算すると1329年生まれとなる。
そして、1350~1352年の間に得た「直」の字については、足利直義の偏諱と考えられている*4。
『観応二年日次記』7月30日条にある「錦小路禅門」=直義の北国下向に付き従った供奉人の名簿*5には「諏方信乃守」が含まれており、少なくとも同年の「信濃守直頼」と同一人物と見なせる。観応の擾乱において直義党であったことが窺える。
(参考ページ)
脚注
*1:『大日本史料』6-14 P.308。『南北朝遺文』関東編第3巻1940号。
*2:『大日本史料』6-15 P.93~94。『南北朝遺文』関東編第3巻2175号。尚、戦功を賞された人物については、原文の崩し字の解読違いにより、前者では「武田文元」、後者では「武田友光」と読んでいるが、祖先と思しき武田信光の1字を持つ後者『南北朝遺文』での「友光」が正しいのではないかと推測される。
*3:延川和彦ほか著・飯田好太郎補『諏訪氏系図 正編』(1921年)