Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

【論稿】鎌倉時代後期における「武田伊豆守」について

 

はじめに

後述するが、鎌倉時代後期には「武田伊豆守」なる人物が散見される。しかしそれらの実名は明らかにされておらず、人物比定が困難である。というのも、『尊卑分脈』武田氏系図*1(以下『分脈』と略記)には、次の【図A】に示すように「伊豆守」と注記される者が多く、またその情報が正しいとは限らないからである。

【図A】

f:id:historyjapan_henki961:20210513170136p:plain

但し、伊豆守を含む国守任官に推挙されるには、それ相応の年齢に達する必要があったとみられ、僅かに判明している例からその年齢を明らかに出来れば、各「武田伊豆守」の生年も推測可能なのではないかと思う。

 

尚、鎌倉時代前期・中期の武田氏嫡流各当主の生没年(および元服の年月日)については、『系図綜覧』所収の『甲斐信濃源氏綱要』(以下『綱要』と略記)に記載があり*2、その信憑性に疑いが無いことについては以下各項目を参照していただきたい。

武田信政(1196年~1265年)

武田信時(1220年~1289年)

武田時綱(1245年~1307年)

武田信宗(1269年~1330年)

 

武田氏嫡流当主の伊豆守任官

では、まずは信光・信武を例に挙げて、武田氏における伊豆守任官年齢を推定してみたいと思う。史料での表記・呼称に基づいて各々掲げると、次の通りである。

 武田信光(1162年~1248年)*3

  • 正治2(1200)年「伊沢(石和)五郎信光」(39)
  • ~承久3(1221)年7月12日条「武田五郎信光」(60)

<この間に伊豆守任官 および 出家 か>

  • 延応元(1239)年12月13日条「武田入道」(78)
  • 仁治2(1241)年(4回)「武田伊豆入道光蓮
  • 寛元3(1245)年8月16日条「伊豆入道

(1248年逝去)

  • 建長2(1250)年3月1日条「武田伊豆入道

 

 武田信武(1292年~1359年 or 1362年)

  • 元徳2(1330)年?正月7日「武田彦六」(39) (28)
  • 建武3(1336)年6月25日「武田兵庫助信武」(45) (34)
  • 暦応4(1341)年「武田伊豆守信武」(50) (39)
  • 康永4(1345)年「武田伊豆前司 信武」(54) (43)
  • 文和年間(1352-1356)「武田陸奥守信武」(60代) (50代)

*典拠となる史料については後述参照。

*信武の生年を嘉元元(1303)年説とした場合の年齢。但し以前の当主に比べ父・信宗との年齢差が離れ過ぎてしまうのと、長男・氏信(1312年生まれ)との年齢差を考慮してもこの説が成り立つ可能性はほぼ無いと言って良い。また、陸奥守在任時60代とするのが妥当であることは後述参照。

2代当主・信光の場合、60~70代での任官だったことが窺える。鎌倉時代前期の主要な御家人の例を見ると、北条義時42歳で相模守となるまで無官、のち55~60歳の間に右京権大夫 兼 陸奥守を務めており*4三浦義村駿河在任が確認できる承久2(1220)年末当時60歳位であったとみられ*5、信光の任官年齢も彼らと遜色ないものである。

しかし武田氏の場合、その後の当主も国守任官のタイミングは比較的遅かったようである。例えば4代当主・信時は、初出の嘉禎3(1237)年(当時18歳)*6以来、次の史料(当時57歳)に至るまで長いこと無官で「五郎次郎」と呼ばれていた。

【史料B】建治2(1276)年8月24日付「関東御教書案」2通(『東寺百合文書』り・ア 所収)*7

異国用心の事、山陽、南海道勢を以て長門国を警固せらるべきなり。地頭補任の地に於いては、来十月中、子息(=時綱か?)を差し遣わすべきの由、仰せ下されをはんぬ。早く安芸国の地頭、御家人並びに本所一円の地の住人等を催し具し、長門国を警固せしむべきの状、仰せに依って執達件の如し。

 建治二年八月二十四日 武蔵守
            相模守(在判)
  武田五郎次郎殿

そして7代当主・信武の代になっても、最初に何かしらの官職は得られても、伊豆守を含む国守任官が叶うのはやはり40~50代であったことが窺える。尚、次に示す『太平記』巻31には「武田陸奥守 子息安芸守」と記す箇所があり、正平7(1352)年当時、信武の次男・信成も相応の年齢に達して安芸守となっていた*8から、父・信武は当時60代とするのがやはり妥当であろう。 

【史料C】『太平記』巻31「笛吹峠軍事」*9における武田氏一門の人物比定(主に『分脈』による)

「太平記」笛吹峠軍の事(その2) : Santa Lab's Blog より:

武田陸奥(信武)、子息安芸守(信成)、同薩摩守(公信か)、同弾正少弼(直信?信明?)

「太平記」笛吹峠軍の事(その3) : Santa Lab's Blog より:

甲斐源氏武田陸奥従五位上相当・信武)、同刑部大輔正五位下相当・信成?)、子息修理亮従五位下相当・信春か*10、武田上野介正六位下相当・貞政)、同甲斐前司(盛信か)、同安芸守従五位下相当・信成)、同弾正少弼正五位下相当・直信?信明?)*11、舎弟薩摩守正六位下相当・公信か)

 

 

尚、信武の長男・氏信も伊豆守となっているが、その年齢は41歳であったと思われる。このことについては次の記事をご参照いただきたい。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

 

鎌倉時代後期の史料における「武田伊豆守」

該当史料の紹介

最初に鎌倉時代において「武田伊豆守」の名が確認できる具体的な史料を示しておきたいと思う。

 

【史料①】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*12

{花押:北条貞時円覚寺毎月四日大斎結番事

(前略)

五 番
  武田伊豆守    万年馬〔右馬入道
  武田七郎五郎   渋谷十郎入道(=宗重)
  粟飯原後家    亘理四郎左衛門尉(=亘理胤継)
  但馬新左衛門尉  斎藤図書左衛門尉

(省略)

  十二番

  工藤右衛門入道  五大院左衛門入道
  出雲守      妙鑑房
  武田弥五郎    諏方兵衛尉
  内嶋後家     水原図書允

(以下略)

 

 右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、

 

  徳治二年五月 日

 

【史料②】徳治2年7月12日付「鳥ノ餅ノ日記(矢開日記)」(『小笠原礼書』)*13

一 鳥ノ餅ノ日記  徳治二年七月十二日

成就御所〔=成寿:北条高時幼名〕ノ六歳ニテ雀ヲアソハシ給フ、横溝次郎(=景宗か)*14イタキ申テアソハセタリ、鳥ハ工藤七郎左衛門尉是ヲ取、同廿六日ニ御餅是アリ、食手一番三浦安芸守(=三浦(横須賀)時明か?)*15、二番小笠原孫次郎、三番武田伊豆守、鳥ノ切手長崎木工左衛門尉、鳥ノ加用工藤次郎衛門尉、 

   (中 略)

一 鳥ノ餅ノ時役人

成就御所

式御肴

ウチミ

アツモノ

御剱 長崎左衛門尉盛宗(=円喜か)

御馬 同木工左衛門四郎

陸奥守

式御肴

ウチミ

アツモノ

御剱 諏訪左衛門尉宗秀(=宗経/直性か)

三浦安芸守(=時明?)

白餅

黒餅

赤餅

武田彦七

太刀 南条左衛門尉

小笠原孫七〔次〕

白餅

黒餅

赤餅

太刀 長崎宮内左衛門尉

尾藤次郎左衛門尉

武田伊豆守

白餅

黒餅

赤餅

太刀 長崎弥四郎左衛門尉

小笠原四郎

 

史料③】『北条貞時十三年忌供養記』(『円覚寺文書』):元亨3(1323)年10月27日の北条貞時十三年忌法要にて「武田伊豆入道」が銭50貫と馬一疋置鞍、鹿毛を寄進*16

【史料④】『常楽記』元亨4(1324=正中元)年条

「十月三日安藤左衛門入道息女他界武田伊豆前司*17

【史料⑤】『常楽記』正中3(1326=嘉暦元)年条

「七月五日武田伊豆入道他界」*18 

史料⑥】元弘元(1331)年10月15日付「関東楠木城発向軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*19

楠木城
一手東 自宇治至于大和道
 陸奥(大仏貞直)       河越参河入道貞重
 小山判官高朝       佐々木近江入道(貞氏?)
 佐々木備中前司(大原時重)   千葉太郎胤貞
 武田三郎(政義)       小笠原彦五郎貞宗
 諏訪祝(時継?)         高坂出羽権守(信重)
 島津上総入道(貞久)     長崎四郎左衛門尉(高貞)
 大和弥六左衛門尉(宇都宮高房)  安保左衛門入道(道堪)
 加地左衛門入道(家貞)     吉野執行

一手北 自八幡于佐良□路
 武蔵右馬助(金沢貞冬)      駿河八郎
 千葉介貞胤          長沼駿河権守(宗親)
 小田人々(高知?)          佐々木源太左衛門尉(加地時秀)
 伊東大和入道祐宗       宇佐美摂津前司貞祐
 薩摩常陸前司(伊東祐光?)     □野二郎左衛門尉
 湯浅人々           和泉国軍勢

一手南西 自山崎至天王寺大
 江馬越前入道(時見?)       遠江前司
 武田伊豆守           三浦若狭判官(時明)
 渋谷遠江権守(重光?)       狩野彦七左衛門尉
 狩野介入道貞親        信濃国軍勢

一手 伊賀路
 足利治部大夫高氏      結城七郎左衛門尉(朝高)
 加藤丹後入道        加藤左衛門尉
 勝間田彦太郎入道      美濃軍勢
 尾張軍勢

 同十五日  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参
 同十六日
 中村弥二郎 自関東帰参

 

各「武田伊豆守」の世代推定 

これらの「武田伊豆守」について、各々同年での任官とし、当時50~60代と仮定して生年を推定すると次のようになる。但し、任官はもう少し遡るであろうから、それに伴い生年も若干遡ると考えていただければと思う(あくまで "遅くとも" ということである)

 

①・② 徳治2(1307)年「武田伊豆守

 → 1247~1257年生まれ

③ 元亨3(1323)年「武田伊豆入道

 → 1263~1273年生まれ

④ 元亨4(1324)年「武田伊豆前司

 → 1264~1274年生まれ

⑤ 正中3(1326)年「武田伊豆入道他界

 

⑥ 元弘元(1331)年「武田伊豆守

 → 1271~1281年生まれ

 

①・②の「武田伊豆守」については武田時綱とほぼ同世代ということになる。但し『綱要』によると時綱は正安2(1300)年5月に出家、徳治2年7月3日に逝去とするので、時綱とは断定し難い。時綱と世代が近い可能性が高い人物としては従兄弟の信家(宗信)が挙げられよう。父の五郎三郎政綱得宗被官化して北条氏に近侍したとされ、文永8(1271)年4月27日、執権・北条時宗より甲斐国甘利庄南方の地頭代に任じられた「武田三郎入道妙意」(『紀州三浦文書』)*20も政綱に比定される可能性があり*21、無官のまま出家を遂げた可能性が高い。前述の通り、兄の信時は1270年代当時も「五郎次郎」を称していたから、弟である政綱もそれを超えて任官していたとは考えにくい。

そもそも①の結番、②の矢開きに参加のメンバーは北条氏一族や長崎・諏訪・尾藤などの得宗被官(御内人)が中心で、武田とも遠戚関係にある三浦(佐原流)・小笠原両氏も本来は御家人でありながら事実上被官化していたと考えられている家柄である。従って①・②での「武田伊豆守」も得宗被官化していた政綱(石和)流の人物とみなすのが妥当であろう。『分脈』で「伊豆守」と注記される武田宗信に比定しておきたい。

*ちなみに、永仁4(1296)年7月5日付「前太政大臣堀川基具? 西園寺実兼?)家政所下文」(『豊後詫摩文書』)に「前伊豆守源朝臣」とある*22のが確認できる。勿論、堀川氏を出した村上源氏、佐々木氏ら宇多源氏など、源氏は武田氏の源流である清和源氏とは限らないが、武田氏も一応その候補にはなり得る。仮に武田氏の場合、この当時信時は故人であるため、その子・時綱に比定し得ると思うが、伊豆守を辞していたことになり、徳治の武田伊豆守=宗信 説を補強するものとなる。但しこれは根拠に弱く、あくまで一仮説に留めておきたい。

 

次に、③・④を並べると、元亨年間(1320年代前半)に伊豆守を退任後に出家した者、在俗であった者の2名が実在したことになる。伊豆入道に関しては世代がもう少し前になるかと思うが、②の「武田伊豆守」がその後出家した姿であった可能性は十分に考えられる。結論から言えば「武田伊豆入道」もやはり宗信に比定される可能性が高いのではないか。

④について整理しよう。「安藤左衛門入道」とは正和年間成立『当社記録鶴岡八幡宮國學院大學所蔵本〉にある「安藤左衛門入道昌顕」*23、或いは安東左衛門入道聖秀に比定されるのであろうか。その娘が「武田伊豆前司」の妻であったという。

安藤(安東)氏も得宗被官として知られ、同氏と婚姻関係を結ぶ「武田伊豆前司」も同じく得宗被官であったと考えられる。これは宗信の子・貞信の可能性が高いのではないか。貞信が伊豆守であった可能性については後述する。

⑤については、④の「武田伊豆前司」が間もなく出家して亡くなったとするよりは、③の「武田伊豆入道」に比定するのが自然かと思う。高野賢彦は④・⑤を共に信家(宗信)として扱ってしまっている*24が、誤りであろう。また、④が貞信だとすれば【図A】にあるように貞和3年6月逝去でなければおかしい。よって1326年7月5日に亡くなった⑤も宗信に比定される。

 

【史料⑥】では退任者の場合「○○前司」と記されているから、⑥の「武田伊豆守」は④「武田伊豆前司」の後に武田氏一族で伊豆守任官を果たした人物であったことになる。これについては、『甲斐国志(以下『国志』と略記)に基づくものだろうか、同史料での「武田三郎」=石和流の政義*25に対し、信時流の武田信宗であるとされてきた*26。高野氏もそれに加え、同じく『国志』に「興国六年(康永四年。一三四五)天龍寺供養のとき先陣随兵に伊豆守また伊豆前司と二人あり、このとき前司というは信宗に当たるべし」と書かれている*27として、『綱要』にある元徳2(1330)年死亡説に疑問を呈されていた*28

しかし『参考太平記』によると毛利・北条・金勝院・南都の各本『太平記』および今川本の27巻では「武田伊豆前司信武」と記すようで*29、また実際の史料である『伊勢結城文書』にも「武田伊豆前司 信武」と明記される*30ことから、単に江戸時代当時の見解を記したに過ぎない『国志』(1814年成立)での記述は否定される。すると、同書で⑥「武田伊豆守」=信宗とする見解にも信憑性に疑いが出てくる。

そもそも冒頭に掲げた『綱要』の生年から算出すると、仮に⑥と同年の任官である場合、当時63歳で伊豆守在任であったことになる。鎌倉初期の2代・信光と比べれば遜色ないかもしれないが、世代が下るにつれ任官年齢は多少でも低年齢化するのが自然であり、実際、息子の信武は43歳で(後述次節参照)、その長男・氏信は41歳で*31伊豆守となっている。それに比べると信宗はあまりにも高齢で、次代(信武)でいきなり20歳も低年齢化しているのも不自然と言わざるを得ない。

山梨県甲府市にある法泉寺(法泉禅寺)は、元徳2年に信武が亡くなった父・信宗の菩提寺として創建したのに始まると伝えられ*32、これと整合性が取れることから、『綱要』での信宗の没年は信用して問題ないのではないかと思われる。尚『綱要』を信ずるならば、元応2(1320)年12月11日に52歳で剃髪済み法名:光阿)で「伊豆守」と称される筈は無いのである。

 

また、『国志』では、元弘2(1332)年(同巻「正成天王寺未来記披見事」より)9月20日に鎌倉を発ち上洛した鎌倉幕府軍のメンバーを載せる『太平記』巻6「関東大勢上洛事」の「武田伊豆三郎*33を信武に比定する。その通称名は、父が伊豆守(前任者でも可)で、無官である自身は仮名の「三郎」を名乗っていたことを示すが、信武については金沢貞顕の書状で「武田彦六」の名が確認できる*34上、むしろ翌3(1333)年4月3日の四条猪熊の戦いを描く巻8「四月三日合戦事付妻鹿孫三郎勇力事」文中の「武田兵庫助*35に比定されると思われる*36ので、伊豆三郎と同人の可能性は無いと思われる。

当時「三郎」を称するのは、やはり先に紹介した "武田三郎" 政義であろう。従って政義の父・貞信は伊豆守任官歴があったと考えられる。家督の座は政義に譲っていたようだが、まだ存命であった貞信は④以来この当時も「伊豆前司」のままであったとみられる。もしかすると、④にあった「妻」とは政義・貞政兄弟の母親だったのではないか。

 

では、⑥において「武田三郎」とは別に参加する「武田伊豆守」とは誰なのか? 結論から言えば、これは【図A】にも掲げた信隆流武田信貞の可能性が高いのはないかと思う。 

信貞については『建武記』(『建武年間記』)に延元元(1336)年4月、建武政権での武者所六番の筆頭に結番された人物として「武田大膳権大夫信貞」とあるのが確認できる*37が、名の類似のためであろう、『分脈』上では『建武記』に載せられていない貞信に対しても「建武々者所」と記したり(前掲【図A】参照)、『国志』でも「武田大膳権大夫信貞」を貞信と見なしたり*38と長らく混同されてきた。そして先行研究では、信時流と政綱流の嫡流をめぐる抗争というところがクローズアップされるばかりに、信貞を輩出した信隆流武田氏はまるで "無視" されてきたように思われる。

特に信隆の次男・時隆の系統は「隆――信」と、得宗頼―時時」の偏諱を受けた痕跡が見られ、この烏帽子親子関係を通じて得宗に接近し、政綱流に同じく事実上得宗被官化していたのではないか。前掲【史料①】の「武田弥五郎」も信貞の可能性が高く、分家から抜擢され重用されていたと思われる。

*ちなみに、【史料①】において「武田伊豆守」と同じく5番衆の一人となっている「武田七郎五郎」については、永井晋・梶川貴子両氏の研究によると『御的日記』38年分の正月的始の記録の中で、一番筆頭の射手を4回務めた人物として「武田七郎五郎時信」の名が確認できるといい*39、『分脈』上での信貞の弟・時信(七郎二郎)に比定されよう。「二」は「五」が伝写の過程で誤って書かれてしまったものと思われる。嘉元の乱(1305年)に際し、北条時村殺害犯の一人、海老名季綱(左衛門次郎秀綱と表記)を足利貞氏(義観)に預ける時の使者を務めた「武田七郎五郎*40も同じく時信に比定される

建武元(1334)年正月付「関東廂番定書写」*41において一番衆の一人に書かれる「武田孫五郎時風(ときかぜ?)」についても『分脈』以下の系図類に記載が無く系譜不詳だが、「時」字を持つことから信貞・時信兄弟に同じく時隆の系統に属する近親者だったのではないかと思われる。

 

武田信武の「伊豆守」任官と安芸守護在任 

前節に関連して、建武3(1336)年8月、伊予国忽那島泰山城に攻め寄せた「安芸国守護武田之伊豆守(『忽那島開発記』)*42、「安芸武田伊豆守(『長隆寺文書』)*43の人物比定を行いたいと思う。 

同年6月25日付の「逸見有朝軍忠状」には安芸国安木町村地頭であった有朝が「大将 武田兵庫助信武」に属して摂津国水田城を攻めたと書かれており*44、この当時信武は兵庫助であったことが窺える。このことは毛利元春自筆の書状(永和2(1376)年のものとされる)の写しにも回想として「建武二年冬……(略)……武田奥陸守〔ママ、陸奥守の誤記〕信武 未為兵庫助之時(=まだ兵庫助であった時)*45と書かれていて裏付けられる。

そして、同年9月日付「周防親経申状」文中に「七通 大将軍当国(=安芸国守護人武田兵庫助一見状案」とあり*46、兵庫助信武がこの当時の安芸守護であったことも分かる。

以上より、建武3年に安芸守護であったという「武田兵庫助(信武)」と「武田伊豆守」は、別人と考えるよりも、同年に官職が変わった同一人物と見なすべきであろう。従って忽那島を攻めたという「武田伊豆守」=信武に比定され、この年に43歳で伊豆守任官を果たしたことになる。9月の書状では証文の目録の中で、出された当時の呼称として「武田兵庫助」と書かれたに過ぎず、8月には伊豆守であったと思われる。

次に示すように、暦応4(1341)年には「武田伊豆守信武」と明記された書状が複数確認できる。

 

【史料D】暦応4(1341)年6月6日付「足利直義軍勢催促状写」

【D-1】(『萩藩閥閲録』58「内藤次郎左衛門」所収)*47 

石見国凶徒退治事、所遣武田伊豆守信武也、早令発向可致軍忠之状如件、

暦応四年六月六日   直義ノ

 内藤左衛門尉(=教泰)殿

【D-2】「萩藩譜録」児玉文書*48

石見国凶徒退治事、所遣武田伊豆守信武也、早令発向、可致軍忠之状如件、

暦応四年六月六日   直義ノ
 児玉右衛成行門尉殿

 

【史料E】暦応4年11月10日付「武田信武請文」(『吉川家文書』)*49

吉河紀次郎経朝*申、父三郎師ー*平字有憚事、去六月三日御奉書、謹承候畢、而彼師平*、去建武二年十二月廿六日、於芸州矢野城熊谷四郎三郎入道蓮覚誅伐之時、為御方討死之条、無子細候、此条偽申候者、

八幡大菩薩御罰〔を〕可罷蒙候、以此旨可有御披露状候、恐惶謹言、

暦応四年十一月十日  伊豆守信武請文(花押)

*吉川師平・経朝父子は播磨吉川氏。本文に書かれているように、師平は建武2(1335)年12月26日安芸矢野城における熊谷蓮覚との戦いの中で足利尊氏方(信武側)として戦死している。

前述の通り1345年の段階では退任済みで「武田伊豆前司 信武」と呼ばれており、伊豆守を数年で退任したようである。尚、貞和6(1350)年11月日付「吉川経盛申状」(『吉川家文書』)に「当国(=安芸国守護武田兵庫助*50とあるほか、前述の元春書状に「〔観の誤記〕応元年(=1352年)……(略)……芸州さきの(=先代の)守護武田信武」とある*51ように、1350年の段階では安芸守護を長男の兵庫助氏信に譲っていたことが窺える。

尚、『毛利文書』所収、金子平内左衛門尉信泰宛ての文和年間の書状数点には「武田陸奥」と書かれており(→『大日本史料』6-16 P.240など)、文和4(1355)年12月17日付の書状で「武田陸奥守信武」と記される(→『大日本史料』6-20 P.94)ことから、信武が伊豆守を辞して「前伊豆守」や「伊豆前司」と称されていた後に陸奥守に任官していたことも判明している。信武の通称・官途の変化は「彦六(無官)」→「兵庫助正六位下相当・次官級)」→「伊豆守従六位下相当・長官級/国守)」→「陸奥従五位上相当・長官級/国守)」であったことになる。 

 

 

まとめ

以上の考察より、鎌倉時代後期の複数史料における「武田伊豆守」は、各々次のように比定する。

徳治2(1307)年「武田伊豆守」→「武田伊豆入道」:武田宗信(信家)

「武田伊豆前司(安藤入道娘婿)」:武田貞信

 * 1324年逝去の妻(安藤左衛門入道娘)は政義・貞政兄弟の母か。

 *「武田伊豆三郎」・「武田三郎」は"石禾三郎"政義か。

元弘元(1331)年「武田伊豆守」:武田信貞(のち大膳権大夫)

 建武3(1336)年「武田伊豆守」:武田信武(初め兵庫助)

 

勿論、『分脈』や僅かな史料からの推定に過ぎないので、今後の新史料発見次第で訂正の余地は残している。ただ、『分脈』以下系図類での信時流武田氏(信時・時綱・信宗)の「伊豆守」注記は信憑性に疑いがあることは指摘しておきたい管見の限り、従来の研究では信時流と政綱(石和)流による嫡流争いに焦点が当てられることがほとんどであったと思われるが、それ以外で別系統から信貞が「伊豆守」 と注記される点には着目すべきである。

2代・信光にゆかりの「伊豆守」への任官は、武田氏内部で嫡流を主張するにあたって大きな意味があったとみられ、高野氏は鎌倉時代後期において幕府が「政綱系の甲斐武田家を武田本家として扱っていた可能性」*52を指摘する。近年の研究では「信時系は信時の孫信宗に至って安芸守護職と伊豆守を再び手に入れた」*53とされるが、信宗が安芸守護および伊豆守であったということが確認できる史料は今のところ無く(前者は『分脈』に「安木〔ママ〕守護」とあるのみで必ずしも信用できるものではない)、実際には息子・信武の代にそれが叶えられたというのが本当なのではないか。

一部系図によれば信宗は一時没落していたようで、信武以降得宗偏諱を受けていないことがその証左の一つになり得よう。前述したように、鎌倉時代末期には "武田彦六" 信武も御家人として復帰しつつあり、「兵庫助」への任官も叶ったが、その立場は、庶流から台頭してきた宗信・貞信父子や信貞の後塵を拝するものであったと思われる。

幕府に殉じた一族もいる*54中、信武・貞信の子政義・信貞はいずれも殉ずることなく乗り切り、建武政権下で各々伊豆守、駿河*55、大膳(権)大夫に昇進したとみられる。信武にとって信光以来の伊豆守任官が許されたことは有難いことであったと思われるが、官位相当の面では依然として政義や信貞に劣っており、足利尊氏に従いながら勢力回復を目指したとみられる。貞和2(1346)年には既に信武が武田氏の惣領として認められていたと判断される*56

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*2:系図綜覧. 第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション。高野賢彦『安芸・若狭武田一族』(新人物往来社、2006年)P.28・48・54・56 にもこれに関する言及あり。

*3:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.258「信光 伊沢(武田)」の項 より。尚、本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その2-北条義時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*5:『吾妻鏡』承久2年12月1日条より。義村の生年(推定)については 三浦泰村 - Henkipedia を参照。

*6:『吾妻鏡』嘉禎3年6月23日条に「武田五郎次郎信時」とある。

*7:年代記建治2年、『鎌倉遺文』第16巻12449・12450号、リ函/12/:関東御教書案|文書詳細|東寺百合文書ア函/27/2/:関東御教書案|文書詳細|東寺百合文書 各ページを参照のこと。

*8:大善寺文書』1351年10月26日付の書状に「安芸守信成」とある(→ 『大日本史料』6-15 P.546)により武田信成に同定される。

*9:『大日本史料』6-16 P.298

*10:『武田家過去帳』に「甲州武田修理亮・伊豆守・陸奥守信春」と記載されている(→『大日本史料』7-18 P.381)ほか、『大善寺文書』には文和4(1356)年2月25日付で「修理亮信春」発給の書状が収録されており(文中にも「武田修理亮信春」とあり)(→『大日本史料』6-19 P.715)、『国志』でも信春書状についての言及の上で「太平記観応三年ノ記」の「刑部大輔子息修理亮」を信春とする(→『大日本史料』7-18 P.387)。

*11:『師守記』正平19/貞治3(1364)年5月23日条には、同月12日に「武田前弾正少弼信明」が従四位上への昇叙と陸奥守への任官を認められたことが記されている(→『大日本史料』6-25 P.774)ほか、『一蓮寺文書』所収「甲斐国一条道場一蓮寺領目録事」の文中にも前年の貞治2(1363)年7月20日に「同郷(=甲斐国一条郷)内道場西屋敷一宇」を寄進した人物として「弾正少弼信明」とあるのが確認できる(→『大日本史料』6-26 P.567)。よってこれ以前に武田信明が弾正少弼であったことが分かる。信明については『分脈』や『綱要』に記載が無く、前述の通り陸奥守任官が確認できることから、僅かに『武田源氏一流系図』に信武の子の一人として載せられる「大井陸奥守信明」に比定されようか。一方、これら3つの系図では弾正少弼任官者を信武の別の子・直信(ただのぶ)とするが、信明が弾正少弼であったことは明白であり、実は直信=信明だったのではないか。直信は足利直義から偏諱を受けていたが、後にその字を棄てて信明に改名したものと推測され、『分脈』の武田氏系図はその改名および陸奥守任官以前に成立していたため信明が書かれなかったのではないかと思われる。

*12:『鎌倉遺文』第30巻22978号。

*13:中澤克昭「武家の狩猟と矢開の変化」(所収: 井原今朝男・牛山佳幸 編『論集 東国信濃の古代中世史』、岩田書院、2008年)P.200・203。細川重男「御内人諏訪直性・長崎円喜の俗名について」(所収:『信濃』第64巻第12号、 信濃史学会、2012年)P.959。

*14:梶川貴子「得宗被官の歴史的性格 ー『吾妻鏡』から『太平記』へー」(所収:『創価大学大学院紀要』34号、創価大学大学院、2012年)P.395 注43 によると、『御的日記』38年分の正月的始の記録の中で、一番筆頭の射手を2回務めた人物として「横溝次郎景宗」の名が確認できるという。

*15:『大日本史料』6-3 P.41

*16:『神奈川県史』資料編2 古代・中世 2364号(P.709)。

*17:常樂記』より。

*18:常樂記』より。

*19:『鎌倉遺文』第41巻32135号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*20:韮崎市の地名 甘利庄(あまりしょう) : 山梨県歴史文学館

*21:甘利荘 - Wikipedia より。典拠である、秋山敬『甲斐の荘園』(甲斐新書刊行会、2003年)P.112~113「甘利荘」の項 では政綱か信家のいずれかとするが、仮にどちらかが正しいとすれば政綱の可能性が高いことは本文を参照。

*22:『鎌倉遺文』第25巻19094号・19095号。

*23:梶川貴子「得宗被官南条氏の基礎的研究 ー歴史学的見地からの系図復元の試みー」(所収:『創価大学大学院紀要』第30号、2008年)P.437 によれば、坂井法曄「南条一族おぼえ書き(下)」(所収:『興風』第16号、興風談所、2004年)に翻刻が掲載されているという。

*24:注2前掲高野氏著書 P.71。

*25:建武記』(『建武年間記』)建武元(1334)年10月14日条に北山殿笠懸射手の1人として「武田石禾三郎政義」と記載が見られる(→ 『大日本史料』6-2 P.36)。『分脈』では信家(宗信)の傍注に書かれる「石禾三郎」を、その孫である政義も継承したと判断される。

*26:注2前掲高野氏著書 P.57。甲斐国志. 下 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*27:注2前掲高野氏著書 P.60 より引用。甲斐国志. 下 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*28:前注高野氏著書 同箇所。

*29:『大日本史料』6-9 P.312

*30:『大日本史料』6-9 P.284

*31:武田氏信 - Henkipedia 参照。

*32:法泉寺由緒法泉寺と武田家(いずれも法泉寺の公式ホームページ内)および 注2前掲高野氏著書 P.60 より。

*33:「太平記」関東大勢上洛事(その1) : Santa Lab's Blog 参照。

*34:元徳2(1330)年のものとされる正月7日付「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』、『鎌倉遺文』第40巻31118号)の文中に「…武田彦六も、只今入来候之間、…」とある。

*35:「太平記」四月三日合戦の事付妻鹿孫三郎勇力の事(その9) : Santa Lab's Blog

*36:武田氏信 - Henkipedia 参照。

*37:『大日本史料』6-3 P.333

*38:甲斐国志. 下 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*39:梶川貴子「得宗被官の歴史的性格 ー『吾妻鏡』から『太平記』へー」(所収:『創価大学大学院紀要』34号、創価大学大学院、2012年)P.395 注43。典拠は 永井晋「鎌倉幕府の的始」(所収:『金沢文庫研究』296 号、1996 年)。

*40:工藤時光 - Henkipedia【史料15】参照。

*41:『大日本史料』6-1 P.421。『南北朝遺文 関東編 第一巻』39号。

*42:『大日本史料』6-3 P.799

*43:『大日本史料』6-3 P.800

*44:『大日本古文書』家わけ第十一『小早川家文書之二』P.349(五六一号)

*45:『大日本古文書』家わけ第八『毛利家文書之一』P.19(一五号)

*46:『大日本古文書』家わけ第九『吉川家文書之二』P.310(一一四五号)

*47:『大日本史料』6-6 P.819

*48:http://www5b.biglobe.ne.jp/~sho-rai/kodamatoichizokunodoukou.no.7-1.ht 一二三号。

*49: 『大日本古文書』家わけ第九『吉川家文書之二』P.175(九九九号)

*50:『大日本古文書』家わけ第九「吉川家文書之一」P.193(二一七号)『大日本史料』6-13 P.6846-14 P.66

*51:『大日本古文書』家わけ第八『毛利家文書之一』P.22(一五号)

*52:注2前掲高野氏著書 P.71より引用。

*53:注2前掲高野氏著書 P.51より引用。

*54:『編年史料』後醍醐天皇紀・元弘3年5月9~14日 に掲載の『近江国番場宿蓮華寺過去帳』を見ると、六波羅探題北条仲時に殉じた者の中に、武田下条十郎光高(21)(P.23)、武田与次光方(42)(P.28)が含まれており、『分脈』以下の系図類で記載は見られないが、信光の「光」を有することから甲斐武田氏の一族であったと推測される。

*55:『一蓮寺過去帳』に「武田太郎駿河守信義」(→『大日本史料』5-27 P.251)、『諸家系図纂』所収「武田系図」信義の注記に「駿河守」とある(→『大日本史料』5-27 P.259)が、『吾妻鏡』での逝去の記事には「武田太郎信義」と書かれており(→『大日本史料』4-1 P.188)生涯無官であったとみられる。『諸家系図纂』にある別の「武田系図」には「賜駿河国守護」とあり(→『大日本史料』5-27 P.261)、駿河守と駿河守護が混同されたのかもしれない。いずれにせよ、政綱流では「駿河守は家祖・信義にゆかりのある官職」という認識があった可能性が高く、政義或いは父・貞信がこの駿河守への推挙を願い出たものと思われる。またこの官職は鎌倉時代にほぼ一貫して北条氏一門によって世襲されており、その跡を引き継ぎたい思いもあったかもしれない。

*56:『一蓮寺文書』所収「甲斐国一条道場一蓮寺領目録事」の文中に「一.同国一条郷蓬澤内田地一町七段 武田惣領源信武寄進、貞和二年十月十三日」とある(→『大日本史料』6-26 P.567)。