Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

大室盛高

安達 盛高(あだち もりたか、生年不詳(1300年代?)~没年不詳)は、鎌倉時代末期の武将・御家人。安達氏の庶流・大室氏の出身で大室盛高(おおむろ ー)とも呼ばれる。大室長貞(安達長貞)の嫡男。通称は九郎左衛門尉。

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▲【図A】安達氏略系図*1

 

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こちら▲の記事で、父・長貞の生年を1280年代前半と推定した。従って、親子の年齢差を考慮すれば、息子である盛高・盛冬兄弟の生年は1300年代以後とすべきであろう。

元服は通常10代前半で行われたから、その年次は北条得宗であった期間(1311年家督継承、執権在職:1316年~1326年)*2内であったことは確実と言って良く、「盛」が先祖の安達盛長安達景盛父子に由来すると考えられることからしても、「盛」の名は時の偏諱を受けたものと判断される。祖父・義、父・長の慣例に従って得宗家と烏帽子親子関係を結んだのであろう。

尚、盛高については『尊卑分脈』等系図類以外の史料上では確認できず、その生涯・活動については不明である。

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 4 - 国立国会図書館デジタルコレクション および 細川重男「秋田城介安達時顕-得宗外戚家の権威と権力-」(所収:細川『鎌倉北条氏の神話と歴史-権威と権力-』第六章、日本史史料研究会、2007年)P.140~141に掲載の図 に基づき作成。

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

大室長貞

安達 長貞(あだち ながさだ、生年不詳(1280年代前半?)~没年不詳)は、鎌倉時代後期の武将・御家人。安達氏の庶流・大室氏の出身で大室長貞(おおむろ ー)とも呼ばれる。大室義宗(安達義宗)の嫡男。通称は三郎。

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▲【図A】安達氏略系図*1

 

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こちら▲の記事で、祖父・大室景村(かげむら)を1230年頃、その子である伯父・大室泰宗と父・義宗を1250年代の生まれと推定した。

従って、親子の年齢差を考慮しても、義宗の子である長貞の生年が1270年代より前になることは考え難く、義宗については1250年代後半の生まれと推定したので、もう少し下らせておよそ1280年頃、もしくはそれ以後の生まれとしても良かろう

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こちら▲の記事で紹介の通り、12月2日の日付がある安達泰盛乱自害者注文」(熊谷直之氏所蔵『梵網戒本疏日珠抄裏文書』)*2には、弘安8(1285)年11月の霜月騒動で討たれた者の中に「城三郎二郎」の記載があり、父・義宗霜月騒動安達泰盛ら一門と運命を共にしたことが窺える。よって、この年までに生まれたと考えて良いだろう。仮に父の死後に生まれたとしても、現実的に考えて翌9(1286)年には生まれていなければおかしいので、遅くとも1280年代の生まれであることは確実である

 

以上より、の生年は1270年代後半~1280年代前半であった可能性が高いと判断できる。元服は通常10代前半で行われたから、その年次が得宗北条執権期間(執権在職:1284年~1301年)*3内であったことは確実となり、「長」が家祖・安達盛長に由来すると考えられることからしても、「」は慣例に従って時から偏諱を賜ったものと判断される。息子・盛にも貞時の子・時から一字を拝領した形跡が見られる。

尚、長貞については『尊卑分脈』等系図類以外の史料上では確認できず、その生涯・活動については不明である。

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 4 - 国立国会図書館デジタルコレクション および 細川重男「秋田城介安達時顕-得宗外戚家の権威と権力-」(所収:細川『鎌倉北条氏の神話と歴史-権威と権力-』第六章、日本史史料研究会、2007年)P.140~141に掲載の図 に基づき作成。

*2:『鎌倉遺文』第21巻15738号。年代記弘安8年

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

大室義宗

安達 義宗(あだち よしむね、生年不詳(1250年代後半?)~1285年)は、鎌倉時代中期から後期の武将・御家人。安達氏の庶流・大室氏の出身で大室義宗(おおむろ ー)とも呼ばれる。通称は城三郎次郎(城三郎二郎)

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▲【図A】安達氏略系図*1

 

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こちら▲の記事で、父・大室景村(かげむら)を1230年頃の生まれ、兄・大室泰宗を1250年代半ば頃の生まれと推定した。よって、義宗も泰宗とさほど年齢の離れていない弟であったと推測される。

兄弟に共通する「」の字がその傍証の一つになり得るだろう。「」は安達氏惣領の叔父・泰盛、「」は祖父・義景から取ったものとみられるから、「」が烏帽子親からの一字拝領と推測される。

6代将軍・宗尊親王が解任の上で京都へ送還された文永3(1266)年*2の段階では約10歳前後であったと考えられ、元服の適齢でないとは言えないまでも、その1字を賜るにはややタイミングが早い感じも否めない。何よりも、その後も含め得宗家と深い関係があったと見受けられるから、これは得宗北条時(1263年~家督継承、執権在職:1268年~1284年)*3偏諱と見なすのが妥当である。

 

【図A】を見る限り、兄・泰宗には北条貞時室となった娘(=覚海円成)しかいなかったようであり、義宗が生前その跡を継いだことは容易に想像できる。義宗の系統はその後も得宗家と烏帽子親子関係を結び、「長―盛」が時―時から一字を拝領したと見受けられる。

 

12月2日の日付がある安達泰盛乱自害者注文」(熊谷直之氏所蔵『梵網戒本疏日珠抄裏文書』)*4には、弘安8(1285)年11月の霜月騒動で討たれた者の中に「城三郎二郎」の記載があり、『鎌倉遺文』では(大室義宗)と記すが、【図A】と照合してもこの通りで間違いなかろう。「城」は秋田城介・安達氏の一族に付されるもので、城三郎(=景村)の「二郎(=次男)」である義宗に相応しい。すなわち、大室義宗(安達義宗)霜月騒動で叔父・泰盛ら一門に連座して討たれたことが分かる。 

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 4 - 国立国会図書館デジタルコレクション および 細川重男「秋田城介安達時顕-得宗外戚家の権威と権力-」(所収:細川『鎌倉北条氏の神話と歴史-権威と権力-』第六章、日本史史料研究会、2007年)P.140~141に掲載の図 に基づき作成。

*2:宗尊親王(むねたかしんのう)とは - コトバンク より。

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*4:『鎌倉遺文』第21巻15738号。年代記弘安8年

大室泰宗

安達 泰宗(あだち やすむね、1254年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代中期から後期の武将・御家人。安達氏の庶流・大室氏の出身で大室泰宗(おおむろ ー)とも呼ばれる。

 

 

大室流安達氏各世代の推定

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▲【図1】安達氏略系図*1 

この『尊卑分脈』によると、父は安達義景の次男・大室景村(かげむら)。弟に大室義宗(三郎次郎)、娘に北条貞時室(=覚海円成)がいる。

 

父・安達景村

まず、父・景村(大室三郎)については、その兄・関戸頼景(次郎)が1229年生まれ*2、すぐ下の弟で秋田城介を継いだ安達泰盛が1231年生まれ*3と判明しているから、間を取って1230年生まれとみなすのが妥当であろう。勿論、頼景や泰盛とは異母兄弟で、同じ年に別々の母親が生んだ可能性も否定はできないが、いずれにせよ1230年前後からずれることは無い筈である。『吾妻鏡』では20歳頃であった建長2(1250)年から9回、次の箇所に登場している*4

【表2】

月日 表記
建長2(1250) 8.18 城三郎
12.27 城三郎
建長3(1251) 11.13 城三郎
建長4(1252) 4.3 城三郎
8.1 城三郎
建長6(1254) 6.16 城次郎 同三郎
建長8(1256) 1.1 秋田城介 同三郎
6.29 城次郎 同三郎 同四郎
正嘉2(1258) 6.17 秋田城介 同三郎 同四郎左衛門尉

従って、景村の子である泰宗・義宗兄弟の生年は1250年以後であったと推定可能である。

 

娘・覚海円成

『分脈』では泰宗の女子に「貞時朝臣」とある。ところが安達泰盛の末妹にも「平貞時朝臣母 号潮音院尼」と注記されており、北条貞時の生みの母親が2人いたことになってしまう。しかし、次の史料により泰宗の娘は「貞時朝臣」或いは「朝臣母」であったことが分かる。

【史料3】『保暦間記』*5より(*読み易さを考慮し適宜濁点を追加した)

……嘉暦元年三月十三日、高時依所労出家ス。法名〔崇〕鑑。舎弟左近大夫将監泰家、宜ク執権ヲモ相継グベカリケルヲ、高資修理権大夫貞顕ニ語テ、貞顕ヲ執権トス貞顕義時五郎実泰之彦 越後守実時金沢越後守顕時。爰泰家高時ノ母儀貞時朝臣後室城大室太郎左衛門、是ヲ憤リ、泰家ヲ同十六日ニ出家セサス。無甲斐事也。其後、関東ノ侍、老タルハ不及申、十六七ノ若者ドモ迄、皆出家入道ス。イマ〳〵(イマイマ)シク不思議ノ瑞相也。此事泰家モサスガ無念ニ思ヒ、母儀モイキドヲリ深キニ依、貞顕誅セラレナント聞ヘケル程ニ、貞顕評定ノ出仕一両度シテ出家シ畢。……

正中3(1326=嘉暦元)年3月13日、元々病弱であった北条高時が24歳の若さでありながら14代執権を辞して出家する。この時高時の長子(のちの邦時は生後3か月であり、本来であれば弟の泰家が執権の座を継いでもおかしくない筈であったが、内管領長崎高資ら長崎氏一門の阻止に遭い実現せず、これを恥辱として泰家も出家したという。所謂「嘉暦の騒動」である。

この一連の経緯には高時・泰家兄弟の母であった「貞時朝臣後室(=未亡人)城大室太郎左衛門(=娘)」も深く憤り、誅殺の噂を聞いた金沢貞顕が15代執権を僅か10日で辞任する事態となっている。ここにある「城大室太郎左衛門」というのは、【図1】における大室三郎景村の子・太郎左衛門尉泰宗に一致しており、実在と通称名が裏付けられる(【表2】にもあるように「城」は秋田城介・安達氏一族に用いられた)

 

外孫・北条高時に至るまで

高時については嘉元元(1303)年*6生まれと判明しているので、次のように各親子の年齢差を約24とすればちょうど辻褄が合う。

 景村(1230-)泰宗(1254-)覚海円成(1278-)高時(1303-)邦時(1325-)

よって、泰宗・円成父娘の生年もこの推定から大幅にずれない頃であったと考えて問題ないだろう。特に円成は、1272年生まれの貞時より6歳ほど年少であったことになり、この点から言っても貞時の母になり得ることは無く、年齢の近い妻であったことが窺えよう。

 

烏帽子親の推定

以上より、泰宗の生年は1250年代半ば頃であったと推測される。

ところで、兄弟は共通して「」の字を持っているが、一方「」は安達氏惣領の叔父・泰盛、「」は祖父・義景から取ったものとみられるから、この「」が烏帽子親からの一字拝領と考えるべきであろう。

6代将軍・宗尊親王が解任の上で京都へ送還された文永3(1266)年*7の段階では約10歳前後であったと考えられ、元服の適齢でないとは言えないまでも、その1字を賜るにはややタイミングが早い感じも否めない。何よりも、その後も含め得宗家と深い関係があったと見受けられるから、これは得宗北条時(1263年~家督継承、執権在職:1268年~1284年)*8偏諱と見なすのが妥当である。特に義宗の系統はその後も「長―盛」に時―時からの一字拝領の形跡が見られる。

大室流安達氏は、婚姻と烏帽子親子関係双方を通じて得宗家と連携を深めたのであった。 

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 4 - 国立国会図書館デジタルコレクション および 細川重男「秋田城介安達時顕-得宗外戚家の権威と権力-」(所収:細川『鎌倉北条氏の神話と歴史-権威と権力-』第六章、日本史史料研究会、2007年)P.140~141に掲載の図 に基づき作成。

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その81-関戸頼景 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その82-安達泰盛 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*4:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.95「景村 安達」の項 より。

*5:佐伯真一・高木浩明 編著『校本保暦間記』(和泉書院、1999年)P.100。覚海円成史料集

*6:旧暦の誕生日の関係で厳密には西暦は1304年。

*7:宗尊親王(むねたかしんのう)とは - コトバンク より。

*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

南条高光

南条 高光(なんじょう たかみつ、1305年頃?~没年不詳(1346年以後))は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。通称は太郎兵衛尉。南条時光の孫とされる。

 

 

得宗被官(御内人)・南条氏や、同氏より出たとされる南条時光については、梶川貴子の研究に詳しく、本項でも以下の論文に基づいて解説する。

【A論文】「得宗被官南条氏の基礎的研究 ー歴史学的見地からの系図復元の試みー」(所収:『創価大学大学院紀要』第30号、2008年)

【B論文】「南条氏所領における相論」(所収:『東洋哲学研究所紀要』第27号、2011年)

 

生年と烏帽子親の推定

南条高光の初見史料は次の書状とされる。

 

【史料1】建武元(1334)年7月21日付「藤原某下知状」(『大石寺文書』)*1

 南条太郎兵衛尉高光母儀与由井四郎入道妻女相論、駿河国富土〔士〕上方上野郷内左近入道在家一宇

右、以南条二郎左衛門入道大行自筆、正中三年二月八日、所譲与明競〔鏡〕上者、所被付于高光母儀也者、依仰下知如件、

 建武元年七月廿一日

           藤原(花押)

この史料は、駿河国富士上方上野郷(現・静岡県富士宮市内の左近入道*2在家一宇を巡って、南条太郎兵衛尉高光の母と由井四郎入道の妻女とが相論(高光母が訴人)し、正中3(1326)年2月8日の大行(時光)自筆の譲状を根拠として高光の母に知行させるように、という判決内容の下知状である。

但し、梶川氏は【史料1】について、高光の母がどこに訴え、誰の命令によって下知状が作成されたのかが判然としない点で疑問があるとして検討を要すると説かれている。というのも、建武元年7月21日というと鎌倉幕府滅亡からおよそ1年2ヶ月後にあたるが、この当時高光母の訴状が雑訴決断所建武政権下の訴訟機関)によって受理されたのであれば、判決が(下知状ではなく)牒や下文の形で出されるはずであるからである。

そのニュアンスからすると偽文書の可能性も考慮せねばならぬが、少なくとも高光について、この頃「太郎兵衛尉」を称していたことは肯定しても良いのではないだろうか。4年後のものとされる次の史料2点でも「高光」・「南条太郎兵衛尉」の名が確認できる。

 

【史料2】年欠*10月9日付「心玄請文案」(『大石寺文書』)*3

南条節丸申富士上方上野郷内在家田畠等事、就訴人高光申状、両度相触之処、去月十九日、節丸請文如此候、而於当御奉行之手 、以違背之篇、被逢御沙汰、可被付知行於彼高光之由、節丸嘆申候、不被究御沙汰、未尽御成敗候者、定後訴難断絶候哉、得御意可有御披露候、恐惶謹言、

 十月九日  沙弥心玄 在判

進上 伊達蔵人五郎*4殿

*次の【史料3】と同年の発給か。

 

【史料3】暦応元(1338)年12月4日付「家綱・心玄連署奉書案」(『大石寺文書』)*5

(端裏書)「書下案文 十二月四日

南条節丸申田畠在家等事、申状如此、為浅羽三郎入道奉行、被経再往御沙汰云々、所詮被調証文並先々訴陳等、来十五日以前、可被遂沙□〔汰〕之節之由候也、仍執達如件、

  暦応元年十二月四日  心玄 在判

             家綱 在判

 南条太郎兵衛尉殿

書状の内容については梶川氏の論文に譲るとして*6、「南条太郎兵衛尉」という通称に着目してみたい。これは高光がこの当時、元服して「南条太郎」を称した後、兵衛尉正七位下 または 従七位上相当)*7に任官済みであったことを示している。

 

ところで梶川氏は、高光が時光の孫と結論付けられている*8。高光が正元元(1259)年生まれの時光の孫であれば、各親子間の年齢差を考慮して、早くとも1300年頃の生まれと推測可能である。

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▲【図4】南条氏推定略系図(梶川A論文に基づいて筆者作成)

 

また、鎌倉初期に現れる南条忠時が梶川氏の推測通り時光の祖父であれば、遅くとも1219年までには生まれていたことになる。史料上での初見は『吾妻鏡』延応元(1239)年正月3日条「南条八郎兵衛尉忠時」とされる*9が、兄とみられる時員(七郎)の左衛門尉任官は1230年代に入ってからとみられ、これを超越して先に兵衛尉になるとは考えづらいので、忠時の兵衛尉任官も延応元年からさほど遡らない頃になされたと考えて良いと思う。初出の建保元(1213)年当時、時員はまだ10代~20代であったという梶川氏の推測に従えば、忠時は20~30代で兵衛尉に任ぜられたと考えられよう。

従って、同じく兵衛尉となった高光についても、仮に1300年頃の生まれとしても30代前半までに任官したことになって全く問題はない。若干低年齢化していた可能性も考慮して1300年代前半の生まれとするのが妥当ではないかと思う。

1311年には北条貞時の逝去に伴って、嫡男・北条が新たな得宗となり、1316年からは第14代執権に就任する*10光もこの頃に元服の適齢を迎え、「光」が祖父・時光の1字であることからしても、「」はその偏諱を受けたものと判断される。

尚、小野眞一*11は「高」字の共通からか、高光を別史料で確認できる「南条新左衛門尉高直」の子と推測されていたが、梶川氏の見解*12に同じく筆者も否定する。むしろは、別系統でありながら共に時の偏諱を受けた、ほぼ同世代人とみなすべきであろう。

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鎌倉幕府滅亡時、嫡流当主の高直は16代執権の赤橋守時に殉じたが、庶流の高光は動向は明らかに出来ないものの、特に表立って関与することなく生き残ったようである。【史料1】の下知状が誰から発給されたのか判然としないことは前述の通りで、建武政権に恭順していたかどうかも怪しいが、中先代の乱(1335年)以降も生き延びていることから、最終的には足利新幕府に従ったのであろう(後述史料で紹介するが、室町幕府の奉行人・諏訪円忠丹波国守護・山名時氏との関わりがあるため)。次節ではこの他に確認できる高光関係文書について紹介していきたいと思う。

 

貞和2年の史料における高光

最後に、本節では『大日本史料』*13にも掲載の高光に関する史料3点を掲げたいと思う。

 

【史料5】貞和2(1346)年6月3日付「菅原義成請文」(『大石寺文書』)*14

南条太郎兵衛尉高光掠申、丹波国小椋庄内田畠在家並山林等押領事、去四月廿三日守護御方(=山名時氏御書下、同五月廿二日御催促状、謹拝見仕候畢、抑当庄地頭職者、任闕所注文、去建武五年(久下次郎入道)仙阿為勲功之賞令拝領候也、仍正員仙阿為奉公在鎌倉之上者、以飛脚令申関東、可進上巨細陳状候、上下向日限可蒙卅、日御免候、以此旨可有御披露候、恐惶謹言、

 貞和二年六月三日 所務代菅原義成(裏花押)

進上 御奉行所

 

【史料6】貞和2年7月3日付「山名時氏請文」(『大石寺文書』)*15

南条太郎兵衛尉高光申、久下次郎入道仙阿丹波国小椋庄田畠・在家・山野等押領之由事、任被封下申状之旨、可明申之旨、令催促候之処、守護代国範・並仙阿(菅原)義成請文如此候、謹進覧之、以此旨可有御披露候、恐惶謹言、

 貞和二年七月三日 前伊豆守時氏(花請文押)

 

【史料7】貞和2年11月日付「南条高光申状」(『大石寺文書』)*16

〔南〕條太郎兵衛尉高光謹言上

欲早南条左衛門次郎忠時高光所得御下文等令抑留、対久下次郎入道仙阿、於当御奉行所、致奸訴上者、任傍例、就先日訴訟被寄諏方大進房円忠奉行一所、被経□〔御〕沙汰蒙御成敗丹波国小椋庄内田畠在家山野等事、

右、於田畠在家山野者、高光重代相伝、当知行無相違之処久下次郎入道仙阿、致非分押領之間、去康永元年以来、為布施弾正忠資連奉行訴申之処、同庄一分領主苧河次郎蔵人不知実名、与件仙阿武州御手諏方大進房円忠奉行、致相論之間、依為一庄一具訴訟、被渡円忠奉行一所者也、而忠時者、高光所得御下文等、依令抑留、無故致奸訴之上者、所詮被渡円忠奉行一所、被経御沙汰、任相伝之道理、□〔蒙〕御成敗、為全知行、恐々言上如件、

 貞和弐□〔年〕十一月 日

 

以上3点の史料の内容をまとめると次の通りである。詳細については梶川氏の論文をご参照いただければと思う。

 

【表8】丹波国小椋庄における相論の経過(梶川B論文 P.68 表2 より引用)

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貞和2年以後、高光に関する史料は確認されておらず、死没のことや、子孫がいたのかに関しても不明である。

 

(参考ページ)

 南条時光全伝 : 大石寺開基六百年忌 - 国立国会図書館デジタルコレクション

  

脚注

*1:梶川B論文 P.59。『南北朝遺文』関東編113号。

*2:正和元(1312)年に出家した、南条時光の家人・弥三郎重光とされる(→ 梶川B論文 P.61)。

*3:梶川B論文 P.64。『南北朝遺文』関東編885号。

*4:実名は伊達盛貞か。伊達系図 によると系譜は「宗村朝宗の誤りか)―為家―経家―経政―忠経―女子(沙弥・法徴室)―経盛―盛貞」。

*5:梶川B論文 P.65。『南北朝遺文』関東編905号。

*6:梶川B論文 P.64~65 を参照のこと。

*7:左兵衛の尉(さひょうえのじょう)とは - コトバンク および 右兵衛の尉(うひょうえのじょう)とは - コトバンク より。

*8:梶川A論文 P.442。

*9:梶川A論文 P.434・444。

*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*11:小野眞一南条時光』(富士史書刊行会、1993年)。

*12:梶川A論文 P.441。

*13:『大日本史料』6-9 P.965~967

*14:梶川B論文 P.66。『南北朝遺文』関東編1625号。

*15:梶川B論文 P.66~67。『南北朝遺文』関東編1632号。

*16:梶川A論文 P.441、B論文 P.67。『南北朝遺文』関東編1667号。『信濃史料』巻5 P.545

南条高直

南条 高直(なんじょう たかなお、1300年頃?~1333年)は、鎌倉時代末期の武将、御内人得宗被官)。南条貞直の嫡男か。

 

梶川貴子の研究*1により、南条高直については実名の書かれた史料類が幾つか残されていることが判明している。以下に列挙しながら解説する。

 

【史料1】『御的日記』元徳2(1330)年1月14日条:的始の一番筆頭の射手「南条新左衛門尉高直*2

鎌倉時代当時の(物語などではない)一等史料の中で、唯一「高直」の実名でその実在が確認できる貴重なものである。この頃までに元服を済ませ、左衛門尉に任官済みであったことも窺えよう。

そして「左衛門尉」という呼称は、それ以前の史料で確認できる「南条左衛門尉貞直」が左衛門尉在任中に同じ官職を得たため区別されたものと考えられる。梶川氏もご指摘のように、「次郎」・「三郎」などの仮名が付かず単に「左衛門尉」と称していることから、「直」字の共通からしても貞直・高直は南条氏嫡流の人物であり、また得宗時―時」の偏諱を受けた形跡があることからして「直―直」は親子であったと判断される。

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こちら▲の記事でも紹介の通り、南条氏嫡流においては元服から左衛門尉任官までに25~30年ほどかかったと考えられるが、時代が下るにつれ低年齢化した可能性はあるだろう。よって左衛門尉に任官して間もないと思われる【史料1】当時、高直は30歳前後だったのではないかと思われ(上記記事にて推定した父・貞直との年齢差も考慮)北条高時の治世期間(1311年~得宗家当主/1316年~1326年:14代執権在職)*3内の元服はほぼ確実であろう。直は得宗時の加冠により元服し「」の偏諱を賜ったと判断される。

 

【史料2】『太平記』巻2「俊基朝臣再関東下向事」:文中に「……元徳二年*4七月二十六日の暮程に、鎌倉にこそ着玉けれ。其日軈て、南条左衛門高直請取奉て、諏防〔諏訪〕左衛門に預らる。……」*5

この『太平記』は元々軍記物語であるが、二度目の討幕計画(元弘の変)が発覚して逮捕された日野俊基が鎌倉に送られてきた際、鎌倉に到着した俊基を受け取り、諏訪左衛門(諏訪左衛門入道直性の子か?)に預けさせた人物として南条高直の名が明記されている。 

 

【史料3】(1331年?)正月10日付「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』)*6

御吉事等、於今者雖事旧候、猶以不可有尽期候。

抑自去六日神事仕候而、至今日参詣諸社候。仍不申候ツ。今暁火事驚入候。雖然不及太守禅閤(=北条高時[崇鑑])御所候之間、特目出候。長崎入道(=円喜)同四郎左衛門尉(=高貞)同三郎左衛門入道(=思元)同三郎左衛門尉(=高頼)尾藤左衛門入道(=演心)南條新左衛門尉等宿所炎上候了。焼訪無申計候。可有御察候。火本者、三郎左衛門尉宿所ニ放火候云々。兼又御内御局数御返事、昨日被出候。進之候。又、来十二日無御指合候者、早旦可有入御候。小點心可令用意候。裏可承候。恐惶謹言。

  正月十日    崇顕

方丈進之候

 「(切封墨引)

方丈進之候   崇顕

長崎高頼の宿所(邸宅)で放火があり、幸い得宗(元執権)高時の御所には及ばなかったが、他の長崎氏一族や尾藤演心南条新左衛門尉の邸宅にまで燃え広がってしまったと伝えている。この「南条新左衛門尉」も時期の近さからして【史料1】の高直に同定され、その実在が示せるもう一つの一等史料となる。

 

【史料4】『太平記』巻10「赤橋相摸守自害事本間自害事」*7

懸ける処、赤橋相摸守、今朝は州崎へ被向たりけるが、此陣の軍剛して、一日一夜の其間に、六十五度まで切合たり。されば数万騎有つる郎従も、討れ落失る程に、僅に残る其勢三百余騎にぞ成にける。侍大将にて同陣に候ける南条左衛門高直に向て宣ひけるは、「…(略)…今此戦に敵聊勝に乗るに以たりといへ共、さればとて当家の運今日に窮りぬとは不覚。雖然盛時〔ママ、守時〕に於ては、一門の安否を見果る迄もなく、此陣頭にて腹を切んと思ふ也。其故は、盛時〔同前〕足利殿に女性方の縁に成ぬる間、相摸殿を奉始、一家の人々、さこそ心をも置給らめ。是勇士の所恥也。…(略)…」とて、闘未半ざる最中に、帷幕の中に物具脱捨て腹十文字に切給て北枕にぞ臥給ふ。南条是を見て、「大将已に御自害ある上は士卒誰れが為に命を可惜。いでさらば御伴申さん。」とて、続て腹を切ければ、同志の侍九十余人、上が上に重り伏て、腹をぞ切たりける。……(以下略)

正慶2/元弘3(1333)年5月18日、新田義貞率いる大軍が鎌倉に迫ると、16代執権でもあった赤橋守時巨福呂坂から鎌倉北西部の洲崎へ出撃して新田軍と交戦。この【史料4】が伝えるところによると、激戦の末に守時は侍大将として同じ陣にあった高直を呼び寄せ、「妹が足利高氏(のちの尊氏)の妻だから、高時殿以下北条氏一門は私を疑っている。これは一家の恥であるから自害する」と語り自害。これを見とどけた高直も「大将が既にご自害された上は、士卒は誰のために命を惜しもうか。ではお供仕ろう」と言って直ちに腹を切り、90余名の兵たちも一斉に後に続いて切腹したという。

前述したように、この『太平記』は元々軍記物語ではあるが、ある程度史実に基づいた部分も多く、同様の内容は以下の史料2点によっても伝えられる*8

【史料5】『梅松論』:「武蔵路は相模守守時、すさき(洲崎)千代塚において合戦を致しけるが、是もうち負けて一足も退かず自害す。南條左衛門尉并びに安久井入道一所にて命を落とす。」

【史料6】『将軍執権次第』:「同十七日相模守守時南條左衛門尉以下各向武州山内離山合戦満山野云云 十八日守時以下自害畢……」

 

左衛門尉」ではなく「左衛門尉」と呼ばれていることから、父・貞直が直前に亡くなった可能性が高いが、南条氏家督を継承した高直も間もなく鎌倉幕府滅亡への流れに殉じたのであった。以後の史料で確認できず、これを以て得宗被官・南条氏の嫡流は滅亡したとみられる。

 

(参考ページ)

南北朝列伝 #南条高直

 

脚注

*1:梶川貴子「得宗被官の歴史的性格―『吾妻鏡』から『太平記』へ―」(所収:『創価大学大学院紀要』34号、2012年)

*2:前注梶川氏論文 P.390。『新編埼玉県史 資料編7 中世3 記録1』(埼玉県、1985年)P.642。

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*4:『太平記』巻2「南都北嶺行幸事」より。

*5:「太平記」俊基朝臣再関東下向の事(その6) : Santa Lab's Blog

*6:『鎌倉遺文』第41巻32185号、『金沢文庫古文書』(武将編456号)、『神奈川県史』(資料編2古代・中世(2)3038号)に収録。年については1331年または1333年という説がある。文章および人物比定は、注1前掲梶川氏論文 および 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.211 注(3) に拠った。

*7:「太平記」赤橋相摸守自害の事付本間自害の事(その1) : Santa Lab's Blog

*8:『編年史料』後醍醐天皇紀・元弘三年 P.69 より。

南条貞直

南条 貞直(なんじょう さだなお、生年不詳(1270年代?)~没年不詳)は、鎌倉時代後期~末期の武将、御内人得宗被官)。南条高直の父か。

 

既に先行研究において梶川貴子が紹介されているが、まずは南条貞直の実在と活動が確認できる2点の史料を掲げておきたい*1

 

【史料1】「鶴岡八幡宮寺社務職次第」より*2

十五東

信忠 号殿僧正

号勧修寺大僧正、号九条殿、治七年、九条摂政関白左大臣従一位教実公御孫、同摂政関白右大臣正二位忠家公三男、母太政大臣兼房公房の誤記か〕*3女、勧修寺長吏高野伝法院座主、東寺一長者、東大寺別当于時前大僧正五十一、御使南條左衛門尉貞直勧修寺勝信僧正入室汀、正和五年丙辰八月十三日、補社務職、五十一歳、御使南條左衛門尉貞直同十五日、放生会延引、九月十五日被行、正和五丙辰十一月廿一日、八幡宮遷宮別当、供僧中悉造進云々、文保元年丁巳イヨリ中風三月八日、俄大風間、不被遂拝社無出仕、而六ヶ年、元亨二年壬戌十月十九日、丑刻入滅、五十七、

 

【史料2】「鶴岡八幡宮寺諸職次第」より*4

鑒厳 刑部卿法印 同先達良厳弟子

随朗厳僧正受法印可摂津刑部大輔入道(=親鑒[法名:道準])息、自殿御所高時南條左衛門尉貞直為御使被仰之間、正和五年八月廿二日勧修寺社務補任、元亨二年十一月四〔同前:日〕辞退、

延慶3(1310)年3月3日*5信忠(しんちゅう)東大寺別当補任の際に、また正和5(1316)年8月13日の信忠の東大寺社務職補任と、同月22日の鑑厳(かんごん/かんげん)の供僧職補任の際に、得宗北条高時の使者として南条貞直が派遣されたと伝える。そしてその当時貞直左衛門尉在任であったことも分かる。

 

鎌倉時代における南条氏一族については梶川氏が纏めておられるところである*6が、「次郎」・「三郎」などの輩行名が付かずに、単に「左衛門尉」(或いは父親が同じく左衛門尉である場合には区別されて「新左衛門尉」)とのみ呼ばれる人物は、その氏族の嫡流に該当することがほとんどである。他の得宗被官(御内人)の例を幾つか挙げよう。

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▲【史料3】(1331年?)正月10日付「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』)*7

鎌倉で長崎高頼の宿所への放火を「火本(=火元)」とする火事があったことを伝えており、幸い「太守禅閤(=高時入道崇鑑)御所」には被害が及ばなかったものの、その周辺にあった長崎氏一族と尾藤演心南条新左衛門尉(高直)などの宿所が炎上してしまったという。

まずは青字長崎氏一族に着目する。筆頭「長崎入道」は他史料により円喜に比定され、下記【史料4】にあるように「長崎左衛門入道円喜」とも呼ばれていた*8。それに対し、他の人物も左衛門尉であったが、区別のため「三郎」・「四郎」の輩行名が付されており、庶流の人物であった。【史料3】には無いが円喜の嫡男・高資は「長崎新左衛門尉」と呼ばれていた。

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▲【史料4】『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条に引用の「丹波長周注進状」*9

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次に【史料3】での「尾藤左衛門入道」も【史料4】から演心に比定される。この演心は「尾藤左衛門尉時綱」が出家したものと考えられており、『尊卑分脈』尾藤氏系図を見ると、時綱(時景 改綱)はその嫡流の人物であったことが分かる。『続群書類従』の尾藤氏系図では「二郎左衛門尉」と注記されるが、「二郎(次郎)」は曽祖父・景綱、父・頼景の仮名を継承した、尾藤氏嫡流の称号と化していたと考えられるので、史料ではしばしば省略されていたのであろう。

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尚、もう一人「南条左衛門尉」の名が見られるが、『御的日記』元徳2(1330)年1月14日条にある的始の一番筆頭の射手「南条左衛門尉高直」に比定される*10。「」が付くのは当然「南条左衛門尉貞直」と区別されたからであろう。「直」字の共通からしても貞直の嫡男であったと考えられ、梶川氏もご指摘のように「直―直」の名は得宗時―時」の偏諱を受けたものと判断される。

 

 

南条氏嫡流における左衛門尉任官年齢

左衛門尉に任官するには、元服を済ませ数年以上経った、それに相応の年齢に達している必要がある。ここで南条氏(嫡流)における左衛門尉任官年齢を考えてみたい。

吾妻鏡人名索引』によると、北条泰時期に活動した南条時員は『吾妻鏡』建保元(1213)年正月2日条に「南条七郎」として初出し、23年後の嘉禎2(1236)年正月2日条からは「南条七郎左衛門尉」と書かれるようになっている(実名については、翌嘉禎3年4月22日条に「南条七郎左衛門尉時員」とあるによって分かる)*11。同2年12月19日条の「南条左衛門尉」も時員としており、時員は嫡流の当主(惣領)であったことになる。梶川氏は建保元年の初出時10代~20代であったと推測されており、左衛門尉任官は若くとも30代前半であったことになる。

また梶川氏は、『吾妻鏡』寛喜元(1229)年に3回に登場し、時員の次男と思われる「南条七郎次郎」について、25年経って建長6(1254)年正月4日条から登場する「南条左衛門次郎」と同一人物ではないかとしている。この当時南条氏で左衛門尉任官が確認できるのが時員だけだからである。そして同氏はこの左衛門次郎を、正嘉元(1257)年正月1日条「南条新左衛門尉」、同年2月26日条「南条新左衛門尉頼員*12と同人とする。「新左衛門尉」と呼ばれるのはやはり嫡流の人物の証である。これに従えば、無官であった初出時から28年での左衛門尉任官となる。

勿論、頼員の「頼」が安貞元(1227)年生まれの北条時頼偏諱ではないのか等、梶川氏の推論への批評・検討も要するだろうが、ここではあえて採用しておく。すなわち、南条氏嫡流において、左衛門尉任官までに元服から25~30年ほどかかったと考えておきたい

戻って、直もまた「左衛門尉」とのみ称された人物で、得宗時からの一字拝領からしても、梶川氏が仰るように時員・頼員に繋がる嫡流の当主であったと考えられる*13。延慶3年当時左衛門尉任官済みであったとすれば、弘安7(1284)年4月に9代執権となって間もない頃の北条貞時*14を烏帽子親として元服したと考えて何ら問題なく、かえってそのことが裏付けられよう。

 

尚、梶川貴子の紹介によると、正和年間に書かれたとされる『当社記録鶴岡八幡宮國學院大學所蔵本〉に、「長崎左衛門入道圓喜、諏訪左衛門入道直性、尾藤左衛門入道演心、安藤左衛門入道昌顕、長崎三郎左衛門入道思元、長崎四郎左衛門尉時元」などの得宗被官と共に、南条左衛門入道性延鶴岡八幡宮評定衆として名を連ねているといい、梶川氏はこの性延を出家後の貞直に比定されている*15が、恐らくは貞直の先代(=父、宗直?)とするのが正しいのではないかと思う。【史料1】・【史料2】から判断するに、正和年間当時貞直は在俗で活動しており、また前述したように、鎌倉時代末期の「南条新左衛門尉高直」は左衛門尉貞直と区別されてそう呼ばれた可能性が高いからである。但し、幕府滅亡の頃、高直を「南条左衛門尉」とのみ記す史料があり、滅亡直前の1330~32年あたりに貞直は亡くなったのかもしれない。

 

脚注

*1:梶川貴子「得宗被官南条氏の基礎的研究 ー歴史学的見地からの系図復元の試みー」(所収:『創価大学大学院紀要』第30号、2008年)P.437、P.445表2-10・13・14。

*2:『鶴岡叢書』第2輯(鶴岡八幡宮社務所、1978年)P.295。

*3:『尊卑分脈』を見ると、九条忠家の長男・忠教の傍注に「母太政大臣公房女」とあり、信忠もその同母弟であったと判断するのが妥当であろう。ちなみに、太政大臣となった「兼房」には藤原忠通の4男で九条兼実(忠家の高祖父)の同母弟にあたる兼房がいるが、同じく『尊卑分脈』を見ると忠家に嫁いだ女子は確認できない上、そもそも年代が合わない。

*4:『鶴岡叢書』第4輯(鶴岡八幡宮社務所、1991年)P.36。

*5:『本朝高僧伝』「京兆東寺沙門信忠伝」の文末に「徳治三年春辞東寺々務、延慶三年補東大寺二年觧〔解の異体字印、元亨二年十月十九日示寂於東関、」とある。注2同箇所より。

*6:注1前掲梶川氏論文 P.444・445。

*7:『鎌倉遺文』第41巻32185号、『金沢文庫古文書』(武将編456号)、『神奈川県史』(資料編2古代・中世(2)3038号)に収録。年については1333年とする説もある。文章および人物比定は、細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.211 注(3) より。

*8:【論稿】『金沢文庫古文書』324号「金沢貞顕書状」の年月日比定 について - Henkipedia 参照。

*9:注7前掲細川氏著書 P.19 より。

*10:『新編埼玉県史 資料編7 中世3 記録1』(埼玉県、1985年)P.642。梶川貴子「得宗被官の歴史的性格 ー『吾妻鏡』から『太平記』へー」(所収:『創価大学大学院紀要』34号、2012年)P.390。

*11:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.185「時員 南条」の項 より。

*12:吾妻鏡人名索引』P.413「頼員 南条」の項では、この他に正嘉2年正月1日条と文応元年正月1日条の「南条新左衛門尉」を頼員に比定する。

*13:注1前掲梶川氏論文 P.437~438。

*14:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*15:注1前掲梶川氏論文 P.437 によれば、坂井法曄「南条一族おぼえ書き(下)」(所収:『興風』第16号、興風談所、2004年)に翻刻が掲載されているという。