Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

土岐高頼

土岐 高頼(とき たかより、1290年代?~没年不詳)は、鎌倉時代末期の武将、僧。

通称は土岐二郎。法名妙光(みょうこう)

『尊卑分脈』所収土岐系図(以下『分脈』と略記)や、「土岐家伝大系図」(東大謄写、岐阜県稲葉郡加村・徳山ひさ 氏原蔵)に、土岐頼貞の次男として記載されている。 

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こちら▲の記事で紹介の通り、頼貞については文永8(1271)年生まれとされ、『分脈』にはその嫡孫・頼康の傍注に嘉慶元(1387)年12月25日(西暦:1388年2月3日)瑞岩寺に於いて70歳で卒去した旨の記載があって、逆算すると文保2(1318)年生まれと判明している。

従って、頼貞の6男で、頼康の父にあたる頼清の生年は明らかになっていないが、1291~1298年あたり(各親子の年齢差を20以上とした場合)とするのが妥当であろう。僅かに「明智氏一族宮城家相伝系図書」での頼宗(頼清)の注記に「正応四(1291)年辛卯十一月八日生」とあり、兄の高頼らも同様に1290年前後の生まれであったと考えられよう(腹違いや双子等ということも考えられる)*1

【図1】

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ここで、土岐氏歴代当主の実名に着目すると、頼貞の代から先祖源頼光・源頼国父子)由来の「頼」の通字を "復活" させ、以降「頼○」型の名乗りを原則としていたことが窺えるが、一時期足利将軍(義、義[のち義])偏諱を受けた場合にはのように「○頼」型となることもあった*2

 

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▲【図2】『分脈』所収 土岐頼貞周辺系図*3

 

次に頼貞の男子の名乗りに着目してみたい。僧籍に入った道謙・周崔を除くほとんどの者が「頼○」型である中、だけがその例外である。すなわち「」を1文字目に据えたのには何かしらの理由があったと判断して然るべきであるが、やはり烏帽子親からの偏諱と考える他にない。候補となり得るのは得宗北条であろう。

前述の生誕時期に基づけば、高時が得宗家督を継いだ応長元(1311)年に、高頼はちょうど10代前半と元服の適齢を迎える。上記記事で言及の通り父・頼も北条(高時の父)の1字を拝領したと考えられるので、その慣例に倣ったのであろう。

そして、そのような扱いであったことからすると、恐らく高頼は頼貞の当初の嫡男に指名されていたのではないか(頼直は頼貞の庶長子か*4。しかし『分脈』にあるように高頼は「遁世」してしまったため、家督継承者の座は頼清(父に先立って死去のため次いで頼遠)に移ることとなった。

 

尚、『分脈』(【図2】)高頼の傍注での「僧・妙光 是(これ)(なり)(妙光はこの高頼である)という記載から、成立した室町時代当時 "妙光" なる僧はかなり知られていた人物だったかもしれないが、その記録は今のところ特に確認されていない。 

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僅かに『越中宝鑑』などによると、専福寺の前身は美濃国麻生谷城主であった土岐高頼越中国婦負郡二屋村(現・富山市八尾町)に開いた天台宗の草庵で、正慶元(1332)年、本願寺三世覚如に帰依して、自らの名を慶順、寺号を専福寺と改め、浄土真宗に改宗したという。他史料での裏付けが難しく、「慶順」と「妙光」の違いがあるなど、この伝承が正しいかどうかは判断し難いが、高頼が鎌倉幕府滅亡の直前に "遁世" していた可能性を示す参考資料にはなるだろう。

冒頭で掲げた2つの系図以外に高頼の名は確認できず、今後の課題としてはその実在を確かめる必要があることと、南北朝時代妙光なる僧についての情報が求められると思う。これについては後考を俟ちたい。

 

(参考ページ)

 源高頼 | 日本通信百科事典 | Fandom

 土岐家伝大系図 土岐高頼が載っていました! - 九里 【九里】を探して三千里

 北谷山 専福寺

 

脚注

*1:『分脈』に従えば、頼直・道謙・周崔が同母兄弟であったという。

*2:他の例としては康行の孫・持頼が挙げられる。また「頼」字でなくても、持益政房も同じく偏諱を1文字目に置いており、早世した持益の嫡男・持兼も同様であった。後には政房の弟たちや3男・治頼など「○頼」型の人物も出てくるが、系図を見る限り当初は偏諱を受けるなどのよほどの理由が無い限り「頼○」型を原則としていたと判断される。これは頼光・頼国と同じ構成を重視したものなのではないか。

*3:佐々木紀一「『渋川系図』伝本補遺、附土岐頼貞一族考証」(上)(所収:『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』39巻、2012年)P.36 より。

*4:頼直が道謙・周崔と同母兄弟であることは注1で言及の通りだが、その母親の詳細については明かされていない。しかし、道謙・周崔が僧籍に入っていることからするとあまり身分の高い女性でなかった可能性が高く、頼直もその理由から家督継承者とならなかったと考えられる。

土岐頼貞

土岐 頼貞(とき よりさだ、1271年~1339年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人守護大名歌人。父は土岐光定。母は北条経時の娘か(後述参照)室町幕府の初代美濃守護。主な通称 および 官途は、隠岐孫二郎、伯耆守、伯耆入道。法名存孝(ぞんこう)。

 

 

生年と烏帽子親について

『尊卑分脈』土岐氏系図(以下『分脈』と略記)『開善寺過去帳『常楽記』『土岐累代記』などによると、頼貞(存孝)は暦応2(1339)年2月23日に亡くなったとされ*1『村庵小稿』*2「土岐伯州源頼貞公画像賛并序」でも同月21日に発病し、22日の「明日(=23日)」に逝去とするが、その享年を「年六十九歳」(数え年、以下同様)とする*3。逆算すると文永8(1271)年生まれとなり、下記参考ページなどでもこれが採用されている。

ちなみに『分脈』には、孫・頼康の傍注に嘉慶元(1387)年12月25日(西暦:1388年2月3日)瑞岩寺に於いて70歳で卒去した旨の記載があり、逆算すると文保2(1318)年生まれとなる。祖父―孫の年齢差を考慮しても、頼貞の生年は遅くとも1270年代とすべきであろうから、文永8年生まれというのは十分妥当であると言えよう

この生年を信ずれば、北条貞時が9代執権に就任した弘安7(1284)年4月*4当時、14歳と元服の適齢を迎える。頼の「」は執権に就任して間もない時が烏帽子親となって偏諱を与えたものと考えて良いだろう。実際は誤りと思われるが『分脈』で母が北条貞時の娘と書かれていることが、却ってその近い関係性を暗示していると言えよう。

尚、別説として「明智氏一族宮城家相伝系図書」(以下「宮城系図」とする)では享年を76と記載し、逆算すると1264年生まれとなるが、この偏諱の観点からすると採用し難い。或いは「67歳」等の誤記とも考えられよう。

 

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尚、光国以降の当主は代々、祖先・源頼光の「光」を通字としていたが、貞の場合は光・国父子間で継承された「」を "復活" させている*5。このような事例は、特に鎌倉時代後期において他家でも多く見られた現象である。以後、頼貞の系統(美濃土岐氏)は足利将軍の偏諱を受けた者を除き「頼」を通字としている。

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▲本稿投稿当時のNHK大河ドラマ麒麟がくる』に登場する、土岐氏当主の土岐芸(よりのり)、土岐源氏出身とされる主人公・明智

 

 

母親について

『分脈』では頼貞の母親について「母平貞時女 定親同母」との注記があり、北条貞時の娘と解釈されているが、貞時は頼貞と同い年*6であるため、「貞時―頼貞」を「外祖父―孫」とするには年代が明らかに合わず、北条時定(経時・時頼の弟)の誤記*7などと考えられている。

池田町宮地の河野氏から分家した大野町瀬古、古川村の「河野氏系図」には、光定の妻が北条経時三女とあるらしい。一般の個人系図であるため、一応情報の扱いには注意を要するが、「宮城系図」でも同様に「北條武蔵守平経時 或又北條相模守平貞時女共云々」と記載されているから、特に他の説が見当たらないことからしても、一定の信憑性は置けるのではないか。ちなみに、この河野氏は鎌倉から嫁いだ北条氏の娘にお供して美濃に移り、その後土岐氏より土地を与えられて帰農したと伝えられる。

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経時は1224年生まれであり*8、 頼貞がその孫として1271年に生まれたとしても、祖父―外孫の年齢差として十分相応である。よって『分脈』での記載は「母平経時女」とすべきところを「貞時」と誤記または誤写してしまったものと推測される*9。 

 

史料における頼貞

詳しくは後述するが、頼貞が実際の史料上に現れるのは数え54歳の時であり、それまでの活動は不詳である。但し、その間に次の史料が確認できる。

 

【史料1】『鎌倉年代記』裏書・嘉元3(1305)年条*10より

今年嘉元三……四月……廿三日、子刻、左京権大夫時村朝臣誤被誅訖、子息親類脱殃訖、五月二日、時村討手先登者十二人被刎首、和田七郎茂明預三浦介入道、使工藤右衛門入道茂明逐電了、工藤中務丞有清遠江入道(=名越時基?)、使諏方三郎左衛門尉、豊後五郎左衛門尉光家陸奥守、使大蔵五郎兵衛入道、海老名左衛門次郎秀綱足利讃岐入道、使武田七郎五郎、白井小次郎胤資尾張左近大夫将監、使長崎次郎兵衛尉、五大院九郎高頼宇都宮下野守、使広沢弾正忠、土左衛門四郎長忠相模守、使佐野左衛門入道、井原四郎左衛門尉盛明掃部頭入道、使粟飯原左衛門尉、比留新左衛門尉宗広陸奥守、使武田三郎、甘糟左衛門太郎忠貞預兵部大輔、使工藤左近将監、岩田四郎左衛門尉宗家相模守、使南条中務丞、土岐孫太郎入道鏡武蔵守、使伊具入道、同月四日、駿河守宗方被誅、討手陸奥守宗宣下野守貞綱、既欲攻寄之処、宗方聞殿中師時館、禅閤(=北条貞時入道崇演)同宿、騒擾、自宿所被参之間、隠岐入道阿清宗方被討訖、宗方被管〔被官〕於処々被誅了、於御方討死人々、備前掃部助貞宗信濃四郎左衛門尉、下条右衛門次郎等也、被疵者八人云々、同十四日、禅閤并相州師時武蔵守久時亭、今日禅〔評〕定始、七月十六日、金寿御前逝去訖、

この史料の伝えるところだと、嘉元3(1305)年4月23日、連署北条時村が誤って殺害される事件が起こり、翌月にはその討手12名が斬首(但し和田茂明は逐電して生き延びた)となったが、その中に「土岐孫太郎入道鏡」が含まれている。

この人物は『分脈』において「隠岐孫太郎」・「出家鏡圓(=鏡円)」・「左京大夫時村合戦懸前被討」等と注記される土岐定親(さだちか)に比定される。頼貞の同母兄でありながら、蜂屋頼俊(山県頼経の子で蜂屋氏祖)*11の子・頼親の養子となって*12跡目からは外れていたようである。

いわゆるこの嘉元の乱における頼貞の詳細な動向は確認されていないが、特に兄・定親(鏡円)に連座した様子が見られないことから、貞時との繋がりもあってか得宗側について生き残ったのであろう。一方、乱の首謀者とされる北条宗方も頼貞の義兄弟(妻の兄または弟)にあたるが、定親が反時村方(事実上の宗方サイド)についたのもその婚姻関係を通じての交流があったためかもしれない。

 

【史料2】(元亨4(1324=正中元)年)9月26日付「結城宗広書状」(『越前藤島神社文書』):「……土岐伯耆前司宿所 唐笠辻子……」*13

『鎌倉遺文』第40巻31512号にある宗広書状(『伊勢藤島神社文書』所収とする)も全く同文であり、恐らくはこの【史料2】と同一物であろう。そして、署名が法名の「道忠」ではなく「宗広」となっていることから出家して「白河上野入道」と称したことが史料で確認できる嘉暦4(1329)年*14より前のものであることも分かる。

この史料は、後醍醐天皇による最初の倒幕計画=正中の変(1324年)の知らせを受けた宗広が、上野七郎兵衛尉(=長男・親朝か*15に書き送ったものとされる。この書状の中では、情報が鎌倉に届いた直後の9月23日に、土岐伯耆前司の鎌倉・唐笠辻子の屋敷にも幕府の兵が押し寄せて家臣たちを捕縛したと書かれている*16

この時討たれた多治見国長について『花園院宸記』9月19日条に「田地味丶丶国長 伯耆前司頼員〔ママ〕外戚之親族云々」とあること*17に加え、『分脈』等の系図類や、後掲【史料 】とも照合すれば「土岐伯耆前司伯耆前司は「前伯耆守」の意)伯耆守であった頼貞に比定されよう。前述の生年を採れば、この当時54歳となるが、伯耆守を辞した後の年齢としても十分相応と言える。

最終的に頼貞個人が咎められた形跡は無いため、事件とは無関係だったと思われるが、一族*18天皇への加担者として幕府軍に討たれたため、惣領である頼貞にも嫌疑がかけられたものとみられる。

 

【史料3】元徳3(1331)年9月5日付「関東御教書案」(『伊勢光明寺文書残篇』)

 被成御教書人々。次第不同。
武蔵左近大夫将監  遠江入道
江馬越前権守    遠江前司
千葉介貞胤    小山判官高朝
河越参河入道
貞重 結城七郎左衛門尉朝高
長沼駿河権守
(宗親) 佐々木隠岐前司清高
千葉太郎
胤貞   佐々木近江前司
小田尾張権守
(高知) 佐々木備中前司(大原時重)
土岐伯耆入道     小笠原又五郎
佐々木源太左衛門尉(加地時秀) 狩野介入道
貞親
佐々木佐渡大夫判官入道導誉 讃岐国守護代 駿河八郎

 以上廿人。暫可在京之由被仰了。

 嶋津上総入道
貞久 大和孫六左衛門尉高房

この史料は、『新校 群書類従』に『光明寺残篇』の翻刻を掲載する際に、その異本から挿入された部分であるといい、『鎌倉遺文』にも収録されている*19

これは後醍醐天皇による2度目の倒幕運動=元弘の変に際し、幕府が京へ差し向けた軍勢の名簿であり、その中に「土岐伯耆入道」も含まれている。これも【史料2】の後に「土岐伯耆前司」が出家した同人、すなわち頼貞(存孝)に比定されよう*20

以下、同じ通称名を持った人物が度々史料上に現れるが、同じく頼貞(存孝)に比定される。1333年の鎌倉幕府滅亡に殉ずることなく、足利尊氏に従い生き残ったことが窺えよう。

 

【史料4】正慶元(1332)年6月日付「山城臨川寺領目録」(『山城天龍寺文書』):「……地頭土岐伯耆入道并一族云々……」*21

 

【史料5】建武元(1334)年12月23日付「源家満軍忠状」(『熊谷家文書』)*22:「美濃国鵜飼庄一方地頭太郎三郎家満申、依謀叛人蜂起事、去十八日、土岐伯耆入道代官神戸五郎入道共令内談、……(中略)……同日戊時、土岐伯耆八郎(=頼仲か)相共渡阿志賀河之先陣」

 

【史料6】足利尊氏関東下向宿次・合戦注文(『国立国会図書館所蔵文書』)*23

足利宰相関東下向宿次
  建武二八二進発

(中略)

 

十九日、辻堂・片瀬原合戦
  御方打死人敷
 三浦葦名判官入道々円 子息六郎左衛門尉
 土岐隠岐五郎(=貞頼) 土岐伯耆入道兵庫頭(=頼古?)、同舎弟(=頼孝?)

 昧原三郎
  手負人
 佐々木備中前司父子 大高伊予権守
 味原出雲権守 此外数輩雖在之、不知名字、
  降人於清見関参之、
 千葉二郎左衛門尉 大須賀四郎左衛門尉
 海上筑後前司   天野参川権守
 伊東六郎左衛門尉(=祐持?) 丸六郎
 奥五郎
 諏方上宮祝三河権守頼重法師於大御(以下欠) 

隠岐五郎については、『分脈』で光定長男・国時の孫にあたる貞頼に「隠岐五郎」と注記があり*24、これに従っておく。

*兵庫頭兄弟の人物比定については佐々木紀一氏の説*25に従う。『分脈』等では "十郎太郎"頼古(よりふる?)と "十郎次郎" 頼孝を親子とする*26が、佐々木氏が説かれる通り、伯耆十郎(=伯耆守頼貞の「十郎(=10男)」頼兼)の「太郎(=長男)」、「次郎(=次男)」と見なすのが妥当であろう。

 

【史料7】(建武3(1336)年*27『太平記』巻17「隆資卿自八幡被寄事」より

……城中是に躁れて、声々にひしめき合けれ共、将軍(=尊氏)は些共不驚給、鎮守の御宝前に看経しておはしける。其前に問注所信濃入道々大土岐伯耆入道存孝と二人倶して候けるが、存孝傍を屹と見て、「あはれ愚息にて候悪源太(=頼直?)を上の手へ向候はで、是に留て候はゞ、此敵をば輒く追払はせ候はんずる者を。」と申ける処に、悪源太つと参りたり。存孝うれしげに打見て、「いかに上の手の軍は未始まらぬか。」「いやそれは未存知仕候はず。三条河原まで罷向て候つるが、東寺の坤に当て、烟の見へ候間、取て返して馳参じて候。御方の御合戦は何と候やらん。」と申ければ、武蔵守(=高師直、「只今作道の軍に打負て引退くといへ共、是御陣の兵多からねば、入替事叶はず、已に坤の角の出屏を被打破て、櫓を被焼落上は、将軍の御大事此時也。一騎なりとも御辺打出て此敵を払へかし。」畏て、「承り候。」とて、悪源太御前を立けるを、将軍、「暫。」とて、いつも帯副にし給ける御所作り兵庫鎖の御太刀を、引出物にぞせられける。……

 

【史料8】建武5(1338)年5月11日付「足利直義御教書」(『熊谷家文書』)*28

越前国凶徒誅伐事、所被仰于土岐伯耆入道也、使共事可令勤仕状如件、

  建武五年五月十一日 (直義花押)

 熊谷小四郎殿

 

【史料9】暦応2(1339)年2月18日付「足利直義奥上署判下文」(『土岐家文書』)*29

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下 土岐彦九郎頼重

 可令早領知美濃国妻木郷

  多藝庄内多藝嶋榛木地頭

  職事

右任祖父土岐伯耆守頼貞

法師 法名存孝 今月十七日譲状可令

知行之状 如件以下

 暦應二年二月十八日

源朝臣(花押 *足利直義

【史料9】は頼貞が亡くなる僅か5日前の史料であるが、その前日(2月17日)に頼貞が孫の頼重に向けて譲状を発給していたことが記されている。『村庵小稿』に21日発病とあることは冒頭で前述した通りであるが、譲状発給の理由を考えれば、この頃からその予兆があったと判断して良かろう。

婚姻関係・烏帽子親子関係を通じて繋がりのあった北条氏得宗家に鎌倉幕府滅亡の直前まで従い、続いて清和源氏・北条氏末裔という同じルーツを持つ足利尊氏*30の室町新幕府樹立を見届け「御一家(=足利氏)の次、諸家の頭」(『家中竹馬記』)、「土岐絶えば足利絶ゆべし」(『土岐家聞書』)とまで信任された頼貞*31は、その69年の生涯を閉じたのであった。

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▲土岐頼貞公の墓(旧光善寺跡、https://tabi-z.com/tokiyorisada-no-haka より拝借)

 

尚、没年については次の史料にも存孝(頼貞)33回忌についての記載があって裏付けが可能である。

【史料10】『後愚昧記』応安3(1370)年12月15日条:「十五日、雨下、今日土岐大膳大夫入道(=頼康 入道善忠)下向尾州了、……(中略)……明年(=1371年)正月〔ママ、"祖"脱字カ〕入道存考〔ママ〕相当卅三廻之間、為執行彼仏事云々、……」

 

(参考ページ)

 土岐頼貞 - Wikipedia

 土岐頼貞(とき よりさだ)とは - コトバンク

南北朝列伝 #土岐頼貞

 美濃土岐氏系図の研究(1)―土岐頼貞の系譜(2訂): 佐々木哲学校佐々木哲のブログ)

佐々木紀一「『渋川系図』伝本補遺、附土岐頼貞一族考証」(上)(下){所収:『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』39巻(2012年)・40巻(2013年)}

 宝賀寿男「古代氏族系譜集成にみる土岐一族 土岐一族関係系図の各種検討(試論)―

 

脚注

*1:『大日本史料』6-5 P.429

*2:続群書類従』12(文筆部 巻第331)所収(村庵小稿 - 成田山仏教図書館蔵書目録 より)。室町時代の画僧・周文の伝記を概括した、希世霊彦『周文都管像賛』の別名(→ 周文)。

*3:『大日本史料』6-5 P.428

*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*5:頼貞の「頼」については、別説として佐々木哲が妻の父である北条宗頼に由来するのではないかと推測されている(→ 美濃土岐氏系図の研究(1)―土岐頼貞の系譜(2訂): 佐々木哲学校)が、宗頼は弘安2(1279)年に亡くなっており(→ 『編年史料』後宇多天皇紀・弘安2年6~8月、P.5)、それまでに9歳以下で元服を済ませたとはあまり考え難い。頼貞の弟・頼久についても同様である。よってこの「頼」はやはり摂津源氏の通字と見なすのが妥当であろう。

*6:但し、貞時は得宗家の慣例に従い、建治3(1277)年に7歳で先に元服を済ませている。注4前掲同箇所より。

*7:美濃土岐氏系図の研究(1)―土岐頼貞の系譜(2訂): 佐々木哲学校 より。

*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その5-北条経時 | 日本中世史を楽しむ♪より。

*9:『分脈』では同様の記載ミスが他にも確認できる。例えば、尊卑分脈 - Wikipedia や 源義清 (左京権大夫) - Wikipedia で紹介しているところだと、源義忠の子・義清の母を「平盛の娘」とするが、年代的に合わないため、正しくは「平盛の娘(=忠盛の姉)」と考えられている。

*10:竹内理三 編『増補 続史料大成 第51巻』(臨川書店、1979年)P.59。

*11:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 8 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*12:『分脈』および 蜂屋氏 - Wikipedia より。

*13:『鎌倉遺文』第37巻28835号。書き下し文は 年代記元弘元年 を参照。

*14:宗広の出家時期については 結城宗広 - Henkipedia を参照のこと。

*15:南北朝列伝 #結城親朝 より。【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia【図I】親広(改親朝)の注記にも「白河七郎」・「左兵衛尉」とある。

*16:南北朝列伝 #土岐頼貞 より。

*17:佐々木紀一「『渋川系図』伝本補遺、附土岐頼貞一族考証」(上) P.37 および 同(下) P.46。

*18:『花園院宸記』同年9月19日条では土岐十郎五郎頼有、同年10月3日付「和田助家着到状」では土岐伯耆十郎(頼貞の子・頼兼か)とする。

*19:『鎌倉遺文』第40巻31509号。『新校 群書類従』第19巻 P.738

*20:現存の史料からだと、その少なさから頼貞の出家時期を特定するのは難しいが、タイミングとしてあり得るとすれば、正中3(1326)年3月の得宗北条高時の出家への追随が考えられよう。

*21:『鎌倉遺文』第41巻31771号。

*22:『大日本古文書』家わけ第14「熊谷家文書」P.204 二二三号

*23:『神奈川県史 資料編3 古代・中世(3上)』3231号。大須賀氏二 #大須賀宗朝 にも掲載あり。

*24:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 8 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。

*25:佐々木紀一「『渋川系図』伝本補遺、附土岐頼貞一族考証」(下) P.45、P.49 注(25)。

*26:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 8 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。

*27:太平記』では7月13日とするが、実際は6月30日であるという。

*28:『大日本古文書』家わけ第14「熊谷家文書」P.84 六〇号

*29:群馬県立歴史博物館寄託。書状の画像は 特別展『~光秀の源流~ 土岐明智氏と妻木氏』|土岐市美濃陶磁歴史館 ー 土岐市文化振興事業団翻刻明智城は4度落ちた?|城田涼子|note より。

*30:足利氏は源義家の子・義国の流れを引く名門で、途中足利泰氏が泰時の外孫、続く頼氏が時頼の甥であるなど婚姻関係を通じて北条氏の血を引いていた。

*31:土岐頼貞(とき よりさだ)とは - コトバンク より。

平盛貞

平 盛貞(たいら の もりさだ、生年不詳(1280年代?)~没年不詳)は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家の御内人内管領平宗綱の子か。

 

まず、盛貞の実在が確認できる次の史料を掲げておきたい。 

【史料A】正安3(1301)年3月3日付「関東下知状」(『常陸鹿島神宮文書』)*1

鹿嶋社権禰宜実則子息大禰宜則氏申、常陸国大窪郷内塩片倉村田五町・在家五宇

右郷者、右大将家元暦元年於当社為不断大般若転読御寄進之最初、嚢祖禰宜大夫則親拝領以降、至亡父実則五代相伝知行無相違、而大夫僧正坊忠源以件田・在家為新平三郎左衛門尉盛貞拝領之由申之、盛貞非地頭、又無名主之儀、但苽連沙汰人称願、限三ヶ年所買得也、若令寄附彼証文歟、依之、

難被没収之由、則氏依申之、被尋問之処、当給人忠源去年十一月八日請文者、彼田在家者、依御祈祷〔源 脱字カ〕拝領之間、当所之由来不存知云々、而尚没収時、盛貞相伝由緒及御沙汰否、被尋問安東左衛門尉重綱之処、如重綱請文者、為盛貞、被没収否、為奉行不申沙汰之間、不存知云々者、当郷社領之条、代々御下知分明也、正応没収之地、人領尚以就理非被裁許、況神領、難及没収之間、於彼田在家者、所被返付実則跡也、次替事、可被充行当給人者、依鎌倉殿仰、下知如件、

 正安三年三月三日

  陸奥守平朝臣(花押)*連署北条宣時

  相模守平朝臣(花押)*執権・北条貞時

 

*中臣姓鹿島氏(鹿島神宮禰宜家)略系図*2

 則親―則政―則長―則重―実則―則氏

 

この史料は、正安3年3月3日に「新平三郎左衛門尉盛貞」なる人物の跡(=旧領)であった常陸国大窪郷内の「塩行倉村田五町・在家五宇」を、僧正・忠源が祈祷の恩賞として拝領した旨の内容となっている。

梶川貴子は「盛貞跡」について、「正応没収の地」とあること、盛貞の由緒について得宗被官の安東重綱に尋問していることなどから、平禅門の乱に関連して収公された土地であったと説かれており、「」が北条時の偏諱と見られること、通称が「三郎」であることから盛平宗綱の子だったのではないかと推測されている*3

以下、この見解について検証してみたいと思う。

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まず、この梶川氏の考え方には、「・平三郎左衛門尉盛貞」という通称名の捉え方が前提にあるが、この当時「新平」という苗字の武士は特に確認できないので、筆者も同氏の見解には同意である。「」と付くのは、平頼綱の出家後、「平左衛門尉」・「平三郎左衛門尉」等と呼ばれていた宗綱と区別されたためであろう。 

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北条貞時執権期間(1284年~1301年)*4内に元服の適齢である10代前半を迎え「貞」の1字を受けたのだとすれば、早くとも1270年代の生まれとすべきであろう。この場合だと、正応6(1293)年の平禅門の乱で頼綱らと共に討たれたとしても、当時20歳頃で左衛門尉在任であったことになるからおかしくはない。その反面、年齢差の観点から宗綱との父子関係に疑問が残り、飯沼資宗(宗綱の実弟の弟の可能性も出てくる。

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上記記事にて宗綱の生年を1260年頃と推定したが、盛貞がその子であれば早くても1280年代の生まれとするのが妥当と思われる。この場合で同様に平禅門の乱で滅んだとすると、当時10~13歳で左衛門尉であったことになり、13歳で"飯沼判官"と呼ばれていた資宗の例もあるから決してあり得ないとは言い切れないものの、やはり左衛門尉任官済みの年齢としては早い感じも否めない。

 

但し、「新・平三郎左衛門尉」という通称はあくまで【史料A】が出された正安3年当時のものであり、平禅門の乱当時のそれであったかどうかは判断が難しい。前述したように、乱後に盛貞の所領が没収されたことは確かであろうが、盛貞が乱で命を落としたとは断定できない。乱後、頼綱と対立していた宗綱でさえ一時的な処置として流罪となっているから、盛貞への処罰も所領の没収のみに留まり、【史料A】に「故~(=故人)」の記載が特にないことからして正安3年当時も存命であったと考えることも決して不可能ではないだろう。

よって、盛貞が正応6年当時必ずしも左衛門尉である必要性は無くなり、やはり宗綱の子であった可能性が高くなるだろう。但し得宗からの偏諱が下(2文字目)となっていることから、資宗を嫡子にと考えていた頼綱の影響があってか、庶流として扱われていたのかもしれない。

以上、平盛が当時の得宗(執権)・北条時の1字を受けていたことはほぼ確実と思われるが、生年や系図上での位置については検討の余地を残しており、今後新しい史料の発掘に応じて後考を俟ちたいところである。

 

脚注

葦名盛貞

葦名 盛貞(あしな もりさだ、1296年?(一説に1285年とも)~1335年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人。父は葦名盛宗蘆名盛貞芦名盛貞とも表記される。主な通称は大夫判官、葦名判官。法名道円(どうえん)か。

多くの系図では、葦名盛員(もりかず)と書かれており、これが広く信ぜられているが、筆者は誤伝ではないかと思う。本項では主に実名についての再検討を行う。

 

 

葦名盛員の最期

実際の史料・系図類で確認できるのは、盛員(盛貞)の最期についてである。まずは次の関連資料3点をご覧いただきたい。  

【史料A】『会津四家合全』黒川小田山城主佐原十郎義連家系之事*1 より一部抜粋

葦名遠江守盛員(盛宗男)
永仁四年丙申八月十二日生、文保二年戊午二十三家督継、建武二年乙亥八月十七日相州片瀬川合戦に討死す時四十歳、正傳庵月浦道円と号、但祠堂会津興徳寺の裏に在り
葦名式部太輔高盛(盛員男)
文保二年戊午八月十五日生、建武二年乙亥八月十七日父同片瀬川にて討死す時十八歳

 

【史料B】『異本 塔寺八幡宮長帳』*2

建武二年、會津葦名遠江守盛員四十才、其子式部大輔高盛十八才、八月十七〔ママ、十九〕日相州片瀬川ニテ討死、依之弟若狭守直盛十才家督ス、

 

系図C】伊達伯爵本「葦名系図」より*3

 葦名小二郎、従五位下  葦名二郎、左衛門尉

 盛員――――――――高盛

 大夫判官、遠江守    与父同時討死、十八歳

 建武二年八月十七日夜、中先代蜂起之時、於片瀬浦、父子同時討死、五十一歳、号正傅庵月浦道円、

【史料A】は江戸時代に成立の、葦名など四家についての家伝であるが、照らし合わせると【史料B】の内容に拠っていることが推測される。これらを見ると、建武2(1335)年8月、片瀬川の戦いで息子の高盛とともに討ち死にしたと伝える。【系図C】での記載も盛員の没年齢(享年)を除いては同内容となっている。

 

次の史料は、その時の様子を伝える実際の書状である。 

【史料D】足利尊氏関東下向宿次・合戦注文(『国立国会図書館所蔵文書』)*4


足利宰相関東下向宿次
  建武二八二進発

(中略)

 

十九日、辻堂・片瀬原合戦
  御方打死人敷
 三浦葦名判官入道々円 子息六郎左衛門尉
 土岐隠岐五郎    土岐伯耆入道(頼貞)孫兵庫頭(頼明?)、同舎弟、
 昧原三郎
  手負人
 佐々木備中前司父子 大高伊予権守
 味原出雲権守 此外数輩雖在之、不知名字、
  降人於清見関参之、
 千葉二郎左衛門尉 大須賀四郎左衛門尉
 海上筑後前司   天野参川権守
 伊東六郎左衛門尉(祐持 丸六郎
 奥五郎
 諏方上宮祝三河権守頼重法師於大御(以下欠) 

地名(片瀬川→片瀬原)や日付(17日→19日)に若干の違いはあるものの、1335年の中先代の乱葦名道円(どうえん)六郎左衛門尉父子が打死(=討ち死に) したことは事実として確認できる。通称名や官途は全く一致しないが、「道円」は【史料A】に盛員の法名として記載があり、そのまま当てはめれば、盛員道道高盛父子と捉えられる。

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ちなみに『太平記』でもこの内容を描く部分があり、「葦名判官入道」 は通称名の一致からして【史料D】の道円に比定して良いだろう。

【史料E】『太平記』巻13「中前代蜂起事」・「足利殿東国下向事付時行滅亡事」より一部抜粋

……相摸次郎時行には、諏訪三河守・三浦介入道(=時継)・同若狭五郎(=氏明)葦名判官入道・那和左近大夫・清久山城守・塩谷民部大夫・工藤四郎左衛門已下宗との大名五十余人与してげれば、伊豆・駿河・武蔵・相摸・甲斐・信濃の勢共不相付云事なし。時行其勢を率して、五万余騎、俄に信濃国に打越て、時日を不替則鎌倉へ責上りける。……(略)……平家の後陣には、諏方の祝部身を恩に報じて、防戦ひけり。…(略)…平家の兵、前後の敵に被囲て、叶はじとや思けん、一戦にも不及、皆鎌倉を指て引けるが、又腰越にて返し合せて葦名判官も被討にけり。始遠江の橋本より、佐夜の中山・江尻・高橋・箱根山・相摸河・片瀬・腰越・十間坂、此等十七箇度の戦ひに、平家二万余騎の兵共、或は討れ或は疵を蒙りて、今僅に三百余騎に成ければ、諏方三河守を始として宗との大名四十三人、大御堂の内に走入り、同く皆自害して名を滅亡の跡にぞ留めける。……(以下略)

 

実名と烏帽子親について

【史料】A~Cにあるように「」と記すもの(或いは読まれているもの)が多く残されているが、冒頭で述べた通り実際は「」が正確な名であろう。

結論から言えば、通字「盛」に対する「」は得宗北条偏諱であろう。父・盛が北条時、長男・盛が北条時、各々の1字を受けたとみられ、「盛―盛盛」3代が歴代得宗「時時―時」と烏帽子親子関係を結んでいたと考えるのが自然だと思う。

その裏付けとして、生年は前述の2説が伝わっているが、いずれを採っても通常10代前半で行う元服当時の得宗北条貞時(在職:1284年~1301年、1311年逝去)*5となって辻褄が合う。時からの偏諱」を下(2文字目)に置いているのは、盛が当初、宗の1字を受けた嫡兄・(のちに遁世または早世と伝わる)に対する庶子(準嫡子)であったためであろう。

実際、比較的古い時代に成立の系図では「」と書かれている。その例を以下に挙げておこう。

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▲【系図F】「三浦和田氏一族惣系図(『三浦和田文書』)より*6

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▲【系図G】『諸家系図纂』11上「三浦系図」より*7

 

上記2つのほか、葦名盛宗周辺の系図を載せるものとしては次の系図纂要が挙げられるが、表記は「」となっている。

 

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▲【系図H】『系図纂要』48・平氏3「平朝臣 佐原・蘆名」より*8

 

系図纂要』は江戸時代幕末期の成立であり、盛員(盛貞)の兄・時盛に対する系線が間違っている等、その信憑性には注意を払わなければならないが、【史料D】の道円=盛員とするなど、当時における研究成果をまとめたものとして見ることは可能である。

もっとも【史料B】は『塔寺八幡宮長帳』*9の異本*10であるというから、伝わる過程で誤読 あるいは 誤写が起こった可能性は十分に考えられよう。「員」と「貞」の崩し字はよく似ており*11、同様に読み間違えたケースは他にも確認できる。

よって、古系図での表記からしても、これまで「葦名盛員」とされてきた人物の正確な氏名は、得宗北条貞時偏諱を受けた「葦名盛貞」であったと判断される。

 

(参考ページ) 

 蘆名盛員 - Wikipedia

 蘆名盛員(あしな もりかず)とは - コトバンク

 蘆名盛員

 

脚注

*1:http://aizufudoki.sakura.ne.jp/yamanouchi/yamanouchi9-1.htm より。

*2:『大日本史料』6-2 P.554

*3:『大日本史料』6-2 P.558

*4:『神奈川県史 資料編3 古代・中世(3上)』3231号。大須賀氏二 #大須賀宗朝 にも掲載あり。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*6:『新横須賀市史』資料編 古代・中世Ⅱ(横須賀市、2007年)P.1025~1027。髙橋秀樹によるとこの系図は永和元(1375)年までの成立であるという(同P.1132)。

*7:前注『新横須賀市史』P.1040~1041。『諸家系図纂』は江戸時代にまとめられたものであるが、この系図に関しては、三浦介家を義同・義意父子まで載せるのに対し、葦名氏については盛貞までを墨書し、それ以後をで補筆していることから、髙橋秀樹は、この系図の原形が南北朝期の成立で、三浦介の系統を書き継いで再編集したものと考えられている(同P.1132~1133)。尚、葦名氏部分の「 」部分(朱書)は宇都宮家蔵「葦名系図」で補った旨が記されており、同内容を載せる『続群書類従』六上所収の「三浦系図」はこれを底本としているようである(同前)。

*8:前注『新横須賀市史』P.1108~1109。

*9:この史料については 塔寺八幡宮長帳(とうでらはちまんぐうながちょう) - 会津坂下町 および 塔寺八幡宮長帳(とうでらはちまんぐうながちょう)とは - コトバンク を参照のこと。

*10:元来は同一の書物であるが、伝承の過程で文字や語句、構成等において相違するところが生じた本のこと(→ 異本とは - コトバンク 参照)。

*11:「員」(U+54E1) および 「貞」(U+8C9E)(いずれも 日本古典籍くずし字データセット | ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター より)を参照。

結城朝高

結城 朝(ゆうき ともたか、1308年~1336年)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、御家人。のち結城朝(ともすけ)に改名。結城貞広の嫡男で下総結城氏6代当主。幼名は犬鶴丸、通称は七郎、七郎左衛門尉、結城判官。

 

 

北条高時の烏帽子子

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最初に、こちら▲の記事で紹介の通り、結城氏の系図については複数伝わっており、以下記述で触れる系図については【図A】のように同じアルファベットを用いることとする。従って上記記事も併せてご参照いただければ幸いである。

 

同記事の全系図に着目すると、【図A】~【図G】の系図類や過去帳では、貞広の次代(嫡男)を「朝祐」とするのに対し、市村高男の論文*1でも鎌倉時代成立のものとして紹介された2つの結城氏系図では異なっている。

具体的には、永仁2(1294)年の成立とされる白河集古苑所蔵「結城系図(結城錦一氏旧蔵)*2では、時広の嫡男・貞広が幼名の「犬次郎丸」で記されているのに対し、下図に示す1320年頃の成立とされる『結城小峯文書』所収「結城系図*3を見ると、貞広の嫡男を「鶴丸」とし、更に後から「使 左衛門尉 朝高 結城七郎」と加筆された形跡がある。しかし「朝高」以外の注記検非違使、左衛門尉、結城七郎)は『尊卑分脈(【図A】)など他の系図での朝祐に一致しており、どの系図でも貞広の子は一人しか記載されていないから、朝高=朝祐と判断して良いだろう。

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従って、貞広は1294年~1300年*4の間に元服を済ませ、1309年に亡くなるまでに嫡男・犬鶴丸が生まれ、1320年頃に元服して当初は「結城七郎朝高」、のちに改名して「朝祐」を名乗ったことになる。

 

一部系図での朝祐の注記を見ると、【図E】では嘉元3(1305)年に生まれ、建武3(1336)年九州多々良浜合戦において32歳(数え年、以下同様)で亡くなったとあって、計算上は矛盾は無い。しかし【図B】・【図F】・【図G】では同じく戦死とするも、当時29歳としており*5、特に後者2つは実際の過去帳や、寺院に伝わる系図であるから、史料的価値からすればこちらを信用した方が良いだろう。逆算すると延慶元(1308)年生まれとなり、1320年には13歳と元服の適齢を迎える。のちに「」の字を棄てて「朝」に改名したことからしても、(朝祐)はこの頃の執権・北条(在職:1316~1326年)*6の加冠により元服し、祖父・時広や父・貞広の前例に倣ってその偏諱を受けたと考えて良いだろう*7

*「朝」の字は結城朝光・朝広以来の"復活"となる。時広・貞広とは異なって得宗からの1字を下(2文字目)にした理由については不明であるが、①同族の小山高朝(のち秀朝)との同名(重複)を避けた、②朝光・朝広と同じ「朝○」型の名乗りを重視した、③実はこの頃から白河結城氏に対して庶家と見なされていた(?)、あたりが考えられよう。いずれにせよ、高時の認可のもとで命名がなされたと思われる。

 

それから間もない頃、元亨3(1323)年10月27日の故・北条貞時13年忌法要について記した『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』)に、「馬一疋青駮」を進上する人物として記載の「結城七郎*8朝高に比定され、これが史料における初見であろう。

*『神奈川県史』では「親朝カ」とするが、これとは別に銭100貫文を進上する「白河上野前司」の記載もあり*9、これは白河結城氏を代表して結城宗広(親朝の父)が行ったものであろう*10から、「結城七郎」はやはり、もう一つの結城氏=結城宗家の当主たる朝高(朝祐)と見なすべきであろう*11。尚、この頃の親朝は翌元亨4(1324)年の宗広書状で「上野七郎兵衛尉」と呼ばれ、左兵衛尉任官済みであった可能性が高い*12

 

 

『真壁長岡文書』における結城朝高

『結城小峯文書』所収「結城系図」において、貞広の子・犬鶴丸に注記される朝高については、実際の史料である『真壁長岡文書』に所収の、複数の書状でその名が確認できる。以下本節ではその史料を掲げたいと思う。

 

【史料1】元徳2(1330)年8月28日付「結城朝高施行状写」*13

(注書)「御使結城七郎左衛門尉施行」

真壁又太郎幹政後家尼本照申、亡父遺領常陸国長岡郷内田三町在家三宇并ニ堀内及山野半分、小栗六郎次郎入道相共本照可被沙汰之由、御教書案如此候并訴状、仍来月十八日可遂使節之由、依仰執達如件、

 元徳二年八月廿八日

     左衛門尉朝高(花押) 

  真壁又治郎殿

 

【史料2】元徳4(1332)年4月日付「真壁幹政後家尼本照申状写」*14

   (注記)同六月廿二日分二譲尼本照女子平氏、同廿九日他界
」問答、申賜御外題  云々、如御使結城七郎左衛門尉朝高施行同年元徳八月四日  

 (前欠)

〔御〕教書案者、真壁又太郎幹政後家尼本照申、亡夫遺領取詮事、申状如此、於下地者任去年閏六月廿二日譲状・今年五月廿日外題、可沙汰付本照云々、件本解状者五月上旬之賦歟、御外題者同月廿云々、為使節競望、載未賜御外題於先日訴状雖申賜御教書、妙心則任本主道法置文支申之、本照亦捧謀書・掠賜本解以後之御外題者歟、理非玄隔之論無御糺明而、争輙可被渡付下地於本照是一、本御使朝高対于不知行之宣政令催促之間、妙心知行之旨宣政進請文後、本照改御使於小栗六郎二郎入道円重八木岡四郎高政、去年元徳十二月入部之時、妙心雖進状、不請取之間、任本主置文可被経御沙汰之由、属賦申寄当御奉行、相待御披露之刻、鹿嶋社御造営事書下到来之間、為設所造畢、社家参候之跡重両使入部之上者、定及非拠注進者歟、是併円重本照今者死去、夫高政者、為同人舎弟小栗小次郎舅之上、今居住下野国、不持当国常州中所領、年齢十五未満之仁令入部他国之例、未承及之是二幹政元徳二閏六廿二未令死去之条、遠近一族他門存知訖、廿九日他界由偽申造意何事乎是三、号道法後家尼阿妙者誰人哉、妙心外全無之是四、以前条々大概若斯、所詮被止楚忽之使節、且任道法置文、且就賦与奪御教書、為被糺返理非、恐々言上如件、

 元徳四年四月 日  信曰、元徳四年元弘改元正慶年也、

 

【史料3】(元徳4年)「真壁政光後家尼妙心代頼円申状写」*15

真壁弥太郎入道々法後家尼妙心頼円謹言上、

 欲早被賦一番御引付斎藤九郎兵衛尉基連*16奉行、被経一具御沙汰、被寄捐亡息又太郎幹政後家尼本照 与 又治郎宣政非拠論、任亡夫道法置文蒙御成敗、常陸国長岡郷山野田在家等事、

右当郷者亡夫道法重代所領也、而元徳元年七月分譲子息又太郎幹政又治郎宣政等之処、同年九月廿九日赤対妙心所書給置文也、如状者無幹政男子者宣政可知行彼跡、宣政無男子者以此分幹政可知行、皆以為一腹之上者、妙心一期之間可知行之由戴之、随而同弐年潤〔閏〕六月廿二日幹政無男子而死去訖、爰妙心当知行無相違之処、幹政後家尼本照号有亡夫譲、竊掠給安堵御外題、為基連奉行対不知行之仁又次郎宣政就掠申子細、仰両使 結城七郎左衛門尉 小栗六郎次郎入道 可沙汰付本照之由、去年元徳被成御教書之旨承及之条、存外也、所詮如基連返答者、属賦令申寄者、信按、寄下有脱字欤、可被経一具御沙汰云々、然早被〔任〕賦一所任本主道法素意、蒙御成敗之後、被糺返本照抑留証文等、欲被処姧訴之処、仍恐々書〔ママ、言上如件、

 

【史料4】(年月日欠)「真壁長岡氏相論関係文書目録写」*17

    常陸国真壁長岡郷田在家同堀内山野相論

         系図

       真壁?入道法  案  元徳二・九・廿九

     真壁?入道法超預     同日

                 同三・九・十七    

      城七郎左衛門尉施行 同八・廿八

           書案        四〔ママ〕

      小栗六郎次郎入道催促 同十二・十三

         四郎同状 同

   妙心取給御教書案   同四・三・廿八

通 国衙正税返抄     同二・三両年分

通 鹿島社祭使請書請取案

通 同御造営奉行書下   同四・三・七

(後欠)

 

【史料5】延元2(1337)年11月付「真壁政光後家尼妙心申状写」*18

真壁弥太郎(政光)□□〔後家妙心真壁郡長岡郷事、

右当郷者本主道法、去元徳元年□□真壁入道法超給□□条。別分妙心死直訖、□□認置譲状、任本主素意、又太郎幹政〔無男子者又次郎宣政彼跡分可知行、宣政無男子者幹政此分可知行、但男女子皆為一腹之上者、妙心一期之間者可為伝来遺領知行事、此命者彼跡別子孫等妙心可譲与、為止向後之煩惣領置文お書加世末以羅勢、申加判奉預置云々、仍当知行之条、鹿島社役・国衙正税・関東先代守護人(=佐介時綱カ)催促状等所見也、

一.当郷内又次郎宣政・即心房慶久等無知行分事、

舎兄又太郎幹政元徳二年閏六月廿二日死去之刻、妙心当知行之間、不能処分之処、幹政後家尼本照 小栗孫二郎左衛門尉重富女子 号亡夫譲状、構謀書先代一番引付為斎藤九郎兵衛尉基連奉行、被仰御使結城七郎左衛門尉朝高小栗六郎二郎入道円重等、如本解状者、幹政遺領長岡郷内田三町・在家三宇・堀内・山野半分事、元徳二年閏六月廿二日分譲後家本照女子平氏今他界、任譲状申給御外題□□爰母尼阿妙 真壁弥太郎入道々法後家 子息宣政致押領・狼籍云々両使令施行之間、任本主置文妙心知行之由支申之、元徳四年三月属賦申□□斎藤九郎兵衛尉基連奉行可被止不知行之本照与宣政非論旨就令言上、如同月廿八日御教書者、真壁弥太郎入道々法後家尼妙心頼円申、常陸国長岡郷田在家事、訴状如此、早企参上可被弁申之状、依仰執達如件、真壁又太郎後家云々、因茲被止御使入部「」間郷〔ママ〕被行本照謀書之文之由言上之刻、基連他界之後、被渡島田甲斐二郎之処、依先代滅亡*19延引畢、無宣政等給之条、不及御不審者也、

一.妙心男子等事、

道法遺領狭少之処、国衙正税・鹿島社役以下繁多之間、依男女子扶持不令期又治郎宣政就諸事背命、為成敗阿党罷成御敵、即心房慶久者故不諧之間罷居乎、了珍房妙証為御方不断参候、宇都宮致軍忠帯数通御一見状等之子細先立令言上歟、随而大将軍所被知食也、嫡女真壁禅心房後家去進子息跡一房道意於御方尽忠節、二女夫大和馴之左衛門入道妙阿者当奉下也、依遺跡不知行宣政数不調被分召妙心所領令牢籠条、不便次第也、可然者当知行妙心無罪過之上者、為三分安堵御成敗目安如件、

 延元二年十一月

【史料4】元徳年間以後に作成された真壁長岡氏の所領相論関係文書の目録である。このうち、太字部分は次の史料のことであろう。

【史料1】は朝高真壁宣政(長岡宣政)に対し、常陸長岡郷内の父・政光(道法)の遺領を真壁幹政(宣政の兄)の未亡人である尼・本照へ打ち渡すよう催促のため、小栗入道円重と共に長岡に入部することを伝えたもので、本照の申状である【史料2】、政光の未亡人・妙心の代官・頼円の申状である【史料3】、更には後世、延元2(1337)年11月の妙心の申状である【史料5】の中でもそのことについて言及されている。

朝高により出された【史料1】の文中に「御教書案此の如に候」とあることから、この所領打ち渡しは、執権・連署が将軍守邦親王の意を奉じる形で常陸守護(この当時は北条氏一門・佐介時綱か)に命じ、更に守護から守護代を通じて朝高らに命令が下ったと考えられている。すなわち朝高は佐介氏の代官的立場にあったことがこれらの史料から窺えよう。 

 

 

元弘の乱における朝高(朝祐)

その後、鎌倉幕府滅亡に至るまでの元弘の乱における朝高(のち朝祐)の動向について見ていきたいと思う。まずは、それについての詳細な記載が見られる次の系図に注目してみたい。

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▲【図6】「結城系図」(東京大学史料編纂所架蔵謄写本/原本:松平基則所蔵)*20より抜粋

 

結城市史』により、冒頭の該当部分の読み下しを掲げると次の通りである。

元弘二年十月廿八日、武命を含み上洛、楠・赤松等、西州に起るに依て也(なり)*21

同三年四月十日、後醍醐天皇の綸旨に依り、北条高時を亡(ほろ)ぼさんとす、五月、高時并びに其(その)門族滅亡の後、朝祐上洛、帝命を承け、本領結城を全うす*22

これだけを見れば、当初は鎌倉幕府の意向に従っていたが、元弘3(1333)年の段階では後醍醐天皇の綸旨を受ける形で高時一門を滅ぼす側に転じ、結城の所領を安堵されたと判断できる。この大まかな流れは次節で挙げる史料からしても問題ないだろう。朝高も足利高氏(尊氏)らに同じく烏帽子親の高時を最後は見限り、のちにその偏諱「高」を棄てた一人であった。

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但し【図6】はあくまで後世に作られた系図である。次に、実際の史料と照らし合わせて検証してみたいと思う。 

 

史料7】元弘元(1331)年10月15日付「関東楠木城発向軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*23

楠木城
一手東 自宇治至于大和道
 陸奥大仏貞直       河越参河入道貞重
 小山判官高朝       佐々木近江入道(貞氏?)
 佐々木備中前司(大原時重)   千葉太郎胤貞
 武田三郎(政義)       小笠原彦五郎貞宗
 諏訪祝(時継?)         高坂出羽権守(信重)
 島津上総入道貞久     長崎四郎左衛門尉(高貞)
 大和弥六左衛門尉高房   安保左衛門入道(道堪)
 加地左衛門入道(家貞)     吉野執行

一手北 自八幡于佐良□路
 武蔵右馬助(金沢貞冬)      駿河八郎
 千葉介貞胤          長沼駿河権守(宗親)
 小田人々(高知?)          佐々木源太左衛門尉(加地時秀)
 伊東大和入道祐宗       宇佐美摂津前司貞祐
 薩摩常陸前司(伊東祐光?)     □野二郎左衛門尉
 湯浅人々           和泉国軍勢

一手南西 自山崎至天王寺大
 江馬越前入道(時見?)       遠江前司
 武田伊豆守           三浦若狭判官(時明)
 渋谷遠江権守(重光?)       狩野彦七左衛門尉
 狩野介入道貞親        信濃国軍勢

一手 伊賀路
 足利治部大夫高氏      結城七郎左衛門尉
 加藤丹後入道        加藤左衛門尉
 勝間田彦太郎入道      美濃軍勢
 尾張軍勢

 同十五日  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参
 同十六日
 中村弥二郎 自関東帰参

(*http://chibasi.net/kyushu11.htm より引用。( )は人物比定。) 

 

【史料8】(正慶元/元弘2(1332)年)『太平記』巻6「関東大勢上洛事」*24における幕府軍の構成メンバー

<相摸入道(=得宗北条高時)一族>

阿曾弾正少弼(=治時)名越遠江入道大仏前陸奥守貞直・同武蔵左近将監・伊具右近大夫将監・陸奥右馬助

<外様>

千葉大介・宇都宮三河(=三河権守貞宗?)小山判官・武田伊豆三郎・小笠原彦五郎・土岐伯耆入道(=頼貞)・葦名判官(=盛貞)・三浦若狭五郎(=時明?)千田太郎・城太宰大弐入道・佐々木隠岐前司・同備中守(=大原時重?)結城七郎左衛門尉・小田常陸前司(=時知?)・長崎四郎左衛門尉(=高貞)・同九郎左衛門尉(=師宗?)・長江弥六左衛門尉(=政綱?)・長沼駿河(=駿河権守宗親?)・渋谷遠江(=遠江権守重光?)河越三河入道・工藤次郎左衛門高景・狩野七郎左衛門尉・伊東常陸前司(=祐光)同大和入道・安藤藤内左衛門尉(=藤内左衛門入道円光)宇佐美摂津前司二階堂出羽入道同下野判官・同常陸(=二階堂宗元?)・安保左衛門入道(=道堪)・南部次郎・山城四郎左衛門尉、他132人

307,500余騎

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<その他>

河野九郎(通盛)ら四国勢:大船300余艘

厚東入道(武実)・大内介(重弘?)・安芸熊谷(直経?)ら周防・長門勢:兵船200余艘

甲斐・信濃源氏7,000余騎

江馬越前守・淡河右京亮(時治か)ら率いる北陸道7箇国勢:30,000余騎

 
【史料9】元弘3(1333)年4月日付関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*25
大将軍
 陸奥大仏貞直遠江国       武蔵右馬助(金沢貞冬)伊勢国
 遠江尾張国            武蔵左近大夫将監(北条時名)美濃国
 駿河左近大夫将監(甘縄時顕)讃岐国  足利宮内大輔(吉良貞家)三河国
 足利上総三郎吉良貞義        千葉介貞胤一族并伊賀国
 長沼越前権守(秀行)淡路国         宇都宮三河権守貞宗伊予国
 佐々木源太左衛門尉(加地時秀)備前国 小笠原五郎(頼久)阿波国
 越衆御手信濃国             小山大夫判官高朝一族
 小田尾張権守(高知)一族         結城七郎左衛門尉 一族
 武田三郎(政義)一族并甲斐国       小笠原信濃入道宗長一族
 伊東大和入道祐宗一族         宇佐美摂津前司貞祐一族
 薩摩常陸前司(伊東祐光カ)一族    安保左衛門入道(道堪)一族
 渋谷遠江権守(重光?)一族      河越参河入道貞重一族
 三浦若狭判官(時明)         高坂出羽権守(信重)
 佐々木隠岐前司清高一族      同備中前司(大原時重)
 千葉太郎胤貞

勢多橋警護
 佐々木近江前司(京極貞氏?)       同佐渡大夫判官入道京極導誉

(* http://chibasi.net/kyushu11.htm より引用。( )は人物比定。)

 

 

 

結城朝祐への改名と戦死

具体的な時期は不明ながら、前述したように幕府滅亡後は「朝祐」に改名した。

建武政権下で恩賞を受けたのであろうか、陸奥国糠部郡にも所領を有したようで、建武元(1334)年のものとされる6月12日付「北畠顕家袖判御教書」に「……当郡(=糠部郡)内三浦介入道(=三浦時継〈道海〉)*26結城七郎等代官……」とあり*27、更に12月14日付「津軽降人交名注進状」に、旧幕府方の投降者の一人「小国弥三郎泰経」を預かる「結城七郎左衛門尉*28についても通称名からすると朝祐に比定し得る。

*『浅瀬石文書』に所収の文書一通に「結城七郎左衛門尉親光〔ママ〕」とある*29が、親光については兄・親朝(この頃は前三河守)が「七郎」を称したのに対し、「九郎」の仮名(九郎左衛門尉)が正しい*30ので、何かしらの混乱が生じたものと思われる。

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しかし、親光も含む白河結城宗広一族の台頭もあってか、次第に冷遇されるようになり、翌建武2(1335)年3月10日には「(糠部郡)七戸 結城七郎左衛門尉」が南部政長(六郎)に与えられてしまっている*31。そうしたこともあり、以後は北朝および足利尊氏に従うこととなった。【史料7】にあるように尊氏とは幕府滅亡前から接点があった。

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『梅松論』には、建武の乱(延元の乱)における下総結城氏の動向が描かれており、いずれも当主の朝祐に比定されよう。まず、同年12月の箱根・竹ノ下の戦いで「結城」は同族の小山氏共々足利勢に属して参戦して戦功を挙げ、常陸国の関郡を恩賞として与えられたという*32。そして、翌建武3/延元元(1336)年正月の京都攻防戦(第一次京都合戦)では、小山氏と(下総)結城が足利方、宗広ら白河結城氏が北畠顕家方と、同族ながら敵味方に分かれて激闘を交えている*33。その際、お互い直垂の紋が同じで混乱したため、今後もこのような戦いがあるだろうと下総結城や小山氏の兵たちは右の袖を千切って兜につけ目印にしたとのエピソードを載せている*34

 

その後、正月末から2月にかけて新田・北畠らの軍勢に連敗し一旦九州に逃れた尊氏の軍勢は、3月2日の多々良浜の戦いで勝利したことで再起の糸口を掴んだが、【図6】などで伝えられるところによればその折に朝祐は戦死してしまったという。このことについて実際の史料では確認できないが、裏付けになり得るものとして、同年(延元元年)6月19日には「陸奥国白河荘荒砥崎村 結城判官*35、翌延元2(1337)年3月16日には「下総国結城郡 朝祐*36といった朝祐の旧領が、結城上野入道=宗広(道忠) に与えられているほか、延元2年8月22日付「陸奥国宣案」(『伊勢結城家文書』)にも「結城郡内上方、為朝祐跡先立拝領之、下方者 号山河 此領主山河判官(=山河景重)、今度成朝敵了、……」と記されている*37

*後者2つは系図類以外で「朝祐」の名が確認できる貴重な史料である。また、前者における「判官 (はんがん/ほうがん)」とは、律令制における四等官の第三位である判官(じょう=尉)の職を帯びる者の通称であり*38朝祐の最終官途が左衛門であったことが窺えよう。但し、『梅松論』・『太平記』・『野上文書』によれば前述の親光(宗広の次男)も「結城太田判官」と呼ばれていた*39ので「結城判官」=朝祐かについては慎重に判断すべきであろう。

 

尚、『結城市史』*40の紹介によると、建武3年7月日付の「岡本良円軍忠状」2通*41には、同年6月晦日名和長年らの率いる後醍醐天皇方と尊氏方の軍勢が京都で戦った(第二次京都合戦)際に、陸奥の武士である岡本観勝房良円が中御門烏丸において右手を負傷しながらも敵を倒した勲功が記されており、この事実は同所で共に戦った「池上藤内左衛門尉(=池上泰光か?)結城七郎左衛門尉」の両人が "見知っている" とし、特に後者については朝祐か、その嫡子・直朝のいずれかである筈とする。

同書では、4ヶ月前に亡くなった朝祐が再登場する筈がない一方で、直朝がこの当時12歳で良円と共に参戦したというのも年齢的に疑わしいと説かれている。

前述したように翌年以降には「朝祐跡」と記す史料が確認できることから、その理由や時期、年齢(享年)の若さを考えても、朝祐が1336年~1337年初頭の間に戦死したことは間違いないと思うが、これも前述したように「結城判官跡」が結城親光の旧領を指すのだとすれば*42、朝祐は多々良浜の合戦ではなく、それよりもう少し後(1336年後半)に亡くなったことになる。

勿論、急遽家督を継承することになった直朝が、尊氏らの推挙により特例で早期の左衛門尉任官が叶った可能性も排除はできないので、朝高(朝祐)の正確な命日については後考を俟ちたいところである。

 

(参考ページ)

 結城朝祐 - Wikipedia

南北朝列伝 #結城朝祐

 

脚注

*1:市村高男「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察 系図研究の視点と方法の探求―」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)。

*2:前注市村氏論文 P.68~72。

*3:前注市村氏論文 P.78~82。

*4:結城貞広 - Henkipedia【史料B】参照。

*5:他にも松平基則伯爵本「結城系図」にも同内容の注記が見られる(→『大日本史料』6-3 P.166)。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*7:南北朝列伝 #結城朝祐 より。

*8:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.710。

*9:前注『神奈川県史』P.709。

*10:結城宗広 - Henkipedia 参照。

*11:結城市史 第四巻 古代中世通史編』(結城市、1980年)P.275。尚、以下同書は『結城市史4』と略記する。

*12:南北朝列伝 #結城親朝 より。

*13:結城市史4』P.919 四八号-1。

*14:前注同頁 P.919 四八号-2。

*15:前注同頁 四八号-3。

*16:斎藤氏の系図については 東氏数 を参照。

*17:結城市史4』P.922~923 四八号-5。

*18:前注同書 P.919 四八号-4。

*19:この場合の「先代」とは執権家・北条氏を指す。すなわちこの部分は1333年の鎌倉幕府滅亡のことを言っている。

*20:結城市史』第一巻 古代中世史料編(結城市、1977年)P.664。

*21:結城市史4』P.335。

*22:結城市史4』P.336。

*23:『鎌倉遺文』第41巻32135号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*24:「太平記」関東大勢上洛事(その1) : Santa Lab's Blog より。

*25:『鎌倉遺文』第41巻32136号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*26:建武元年4月10日付「足利直義宛行状」文中に「三浦介時継法師 法名道海」とあるによる。また、翌2(1335)年9月27日付「足利尊氏袖判下文」に記載の、三浦介入道時継(道海)旧領の中に「陸奥国糠部内五戸」が含まれている。詳しくは 三浦高継 - Henkipedia を参照のこと。

*27:『大日本史料』6-1 P.619南部氏文書 54号文書

*28:『大日本史料』6-2 P.137南部氏文書 津軽降人交名録

*29:工藤貞行 - Henkipedia【史料2】参照。

*30:【論稿】結城氏の系図について - Henkipedia ほか参照)。

*31:『大日本史料』6-2 P.326南部氏文書 79号文書

*32:『大日本史料』6-2 P.773~774

*33:『大日本史料』6-2 P.1004~1005

*34:前注同箇所。

*35:『大日本史料』6-3 P.530

*36:『大日本史料』6-4 P.156荒川善夫『下総結城氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第8巻〉(戎光祥出版、2012年)P.62。

*37:前注荒川氏著書 P.53・62。

*38:判官 - Wikipedia より。

*39:『大日本史料』6-2 P.971973974。『太平記』では単に「結城判官」とのみ記す箇所も見られる(→『大日本史料』6-2 P.54)。

*40:結城市史4』P.341。

*41:『大日本史料』6-3 P.474P.553

*42:親光は延元元年正月11日に大友貞載と斬り合う形で亡くなっており(→『大日本史料』6-2 P.970~の各史料参照)、同年6月19日に父・宗広(道忠)のもとに渡ったと考えてもおかしくはないだろう。

大室盛高

安達 盛高(あだち もりたか、生年不詳(1300年代?)~没年不詳)は、鎌倉時代末期の武将・御家人。安達氏の庶流・大室氏の出身で大室盛高(おおむろ ー)とも呼ばれる。大室長貞(安達長貞)の嫡男。通称は九郎左衛門尉。

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▲【図A】安達氏略系図*1

 

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こちら▲の記事で、父・長貞の生年を1280年代前半と推定した。従って、親子の年齢差を考慮すれば、息子である盛高・盛冬兄弟の生年は1300年代以後とすべきであろう。

元服は通常10代前半で行われたから、その年次は北条得宗であった期間(1311年家督継承、執権在職:1316年~1326年)*2内であったことは確実と言って良く、「盛」が先祖の安達盛長安達景盛父子に由来すると考えられることからしても、「盛」の名は時の偏諱を受けたものと判断される。祖父・義、父・長の慣例に従って得宗家と烏帽子親子関係を結んだのであろう。

尚、盛高については『尊卑分脈』等系図類以外の史料上では確認できず、その生涯・活動については不明である。

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 4 - 国立国会図書館デジタルコレクション および 細川重男「秋田城介安達時顕-得宗外戚家の権威と権力-」(所収:細川『鎌倉北条氏の神話と歴史-権威と権力-』第六章、日本史史料研究会、2007年)P.140~141に掲載の図 に基づき作成。

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

大室長貞

安達 長貞(あだち ながさだ、生年不詳(1280年代前半?)~没年不詳)は、鎌倉時代後期の武将・御家人。安達氏の庶流・大室氏の出身で大室長貞(おおむろ ー)とも呼ばれる。大室義宗(安達義宗)の嫡男。通称は三郎。

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▲【図A】安達氏略系図*1

 

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こちら▲の記事で、祖父・大室景村(かげむら)を1230年頃、その子である伯父・大室泰宗と父・義宗を1250年代の生まれと推定した。

従って、親子の年齢差を考慮しても、義宗の子である長貞の生年が1270年代より前になることは考え難く、義宗については1250年代後半の生まれと推定したので、もう少し下らせておよそ1280年頃、もしくはそれ以後の生まれとしても良かろう

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こちら▲の記事で紹介の通り、12月2日の日付がある安達泰盛乱自害者注文」(熊谷直之氏所蔵『梵網戒本疏日珠抄裏文書』)*2には、弘安8(1285)年11月の霜月騒動で討たれた者の中に「城三郎二郎」の記載があり、父・義宗霜月騒動安達泰盛ら一門と運命を共にしたことが窺える。よって、この年までに生まれたと考えて良いだろう。仮に父の死後に生まれたとしても、現実的に考えて翌9(1286)年には生まれていなければおかしいので、遅くとも1280年代の生まれであることは確実である

 

以上より、の生年は1270年代後半~1280年代前半であった可能性が高いと判断できる。元服は通常10代前半で行われたから、その年次が得宗北条執権期間(執権在職:1284年~1301年)*3内であったことは確実となり、「長」が家祖・安達盛長に由来すると考えられることからしても、「」は慣例に従って時から偏諱を賜ったものと判断される。息子・盛にも貞時の子・時から一字を拝領した形跡が見られる。

尚、長貞については『尊卑分脈』等系図類以外の史料上では確認できず、その生涯・活動については不明である。

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 4 - 国立国会図書館デジタルコレクション および 細川重男「秋田城介安達時顕-得宗外戚家の権威と権力-」(所収:細川『鎌倉北条氏の神話と歴史-権威と権力-』第六章、日本史史料研究会、2007年)P.140~141に掲載の図 に基づき作成。

*2:『鎌倉遺文』第21巻15738号。年代記弘安8年

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。