Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

尾藤頼景

尾藤 頼景(びとう よりかげ、1230年代後半?~没年不詳)は、鎌倉時代中期の武将、御内人得宗被官)。尾藤景氏の嫡男。尾藤時綱(演心)の父。

 

頼景については、生没年も含め不明な点が多い。まずは世代の推定にあたって、『尊卑分脈』に基づき作成した次の図を見ていただきたい。

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頼景(景頼)佐藤公清から数えて10代目にあたるが、親戚にあたる後藤氏での基頼と同じ代数となる*1。 

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こちら▲の記事で紹介の通り、後藤基については暦仁元(1238)年生まれと判明しており、頼景もほぼ同世代人であったと考えて良いだろう。 

既に細川重男が指摘の通り、実名の「」は第5代執権・北条時(在職:1246~1256年*2偏諱を賜ったものと見受けられる。尚、実名について『尊卑分脈』が「」とするのに対し、『続群書類従』所収「尾藤系図」では「」と記載されるが、主君たる得宗からの1字を普通は上(1文字目)に置くと考えたのであろう、細川氏は後者が正しいと判断されている*3。 

 

尚、吾妻鏡では時頼執権期の以下3箇所が頼景に比定される*4

建長2(1250)年正月一日条「尾藤兵衛尉

同4(1252)年正月一日条「尾藤二郎

康元元(1256)年正月三日条「尾藤次郎兵衛尉

 

(参考ページ) 

 尾藤頼景 - Wikipedia

 

脚注 

*1:途中養子相続を挟むため、正確には公清―季清―康清―仲清―基清―基綱―基政―基頼と、公清から8代目にあたるが、能清の実弟・基清が実基の養子であったということは重要であって、養父よりは年少(或いは老いていてもほぼ同世代)であったと考えるのが自然と思われる。代数の少なさは親子の年齢幅の違いに起因するものであろう。

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*3:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.214 注(24)。

*4:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.422「頼景 尾藤」の項 より。

大掾高幹

大掾 高幹(だいじょう たかもと、1310年頃?~1380年頃?)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。桓武平氏より分かれた大掾氏嫡流にあたる多気氏の当主で、多気高幹(たけ ー)とも呼ばれる。通称は十郎。
 

 

世代と烏帽子親の推定

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実名「」に着目すると「幹」は大掾氏の通字であるから、「」が烏帽子親からの一字拝領と考えられるが、同時期に現れる同族同名の真壁について得宗北条から偏諱を受けたとする見解*1を参考にすれば、同様に高時から1字を賜ったものと判断される。

 

これを裏付けるために、『尊卑分脈』等の系図を参考にして、世代の推定を行ってみたいと思う。次の図に着目していただきたい。

 

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ここで重要なのが先祖からの代数である。桓武天皇平高望までの生年(一部諸説あり)を見れば分かるように親子間では相応の年齢差がある筈であり、例えばある人物の孫(3世の孫)同士であれば従兄弟関係となるが、さほど世代は変わらないことが多いだろう。上図でも例えば、平貞盛8世の孫にあたる北条時政平重盛が、奇しくも共に保延4(1138)年生まれである*2従って代数は世代の推定にあたって一つの目安になると言えよう

このような観点から、同じ代数同士の人物を並べる形でまとめたものが上の図である。厳密には北条高時多気高幹で1代のずれがあるが、途中の親子間の年齢差の関係でそうなることも十分あり得よう。

先祖を遡っても、多気義幹が現れるのは、時政や重盛の活動期とほぼ重なっているし、義幹の跡を継いだ資幹の息子・多気幹は(根拠が弱いが)北条泰時(初名:時)に同じく源頼朝偏諱を受けた可能性が考えられる。高幹の祖父・幹も北条氏の通字「時」の使用が許されており、得宗専制が強まる北条宗執権期にその一字を受けたのではないか。

元徳2(1330)年創建の清涼寺、応安7(1374)年創建の照光寺は、いずれも大掾高幹を開基とすると伝えられ*3時が存命の間に幹は「高」の偏諱を許されていたと考えて良いだろう。 

高時が元服したのは延慶2(1309)年、その2年後の父・貞時の逝去に伴って得宗家督を継ぎ、1316~1326年の間14代執権の座にあった*4。高幹の元服はこの間に行われたと推定される。 

 

史料における高幹

鎌倉幕府滅亡に際しては高時らと運命を共にせず、その後は足利尊氏に従ったようである。「常陸大掾系図*5、『常陸三家譜』*6、『系図纂要*7によると法名は「浄永(じょうえい)」であったといい、以下に示す通り南北朝時代の史料に大掾入道浄永の名が確認できる。幕府滅亡から数年の間に、無官で「十郎」と名乗ったまま出家したようであり、20~30代と若年での剃髪であったと推測される。

 

【史料1】建武5(1338=暦応元)年8月日付発給者:三浦高継「税所虎鬼丸(幹)軍忠状」(『税所文書』:「惣領大掾十郎入道浄永*8

【史料2】『関城繹史』:「七月……平高幹叛降賊、大掾系図、桜雲記、廿六日、小田志筑官軍、攻高幹府中石岡城、戦于市河、志筑下河邊氏族、」*9

 

【史料3】康永3(1344)年正月日付発給者:高師冬「税所幹軍忠状」2通(『税所文書』:「惣領常陸大掾入道浄永*10、もう一方にも「…浄永存知上者、…」*11とあり。

 

【史料4】観応3(1352)年10月日付「鹿島烟田時幹軍忠状」(『烟田文書』):花押を据える発給者が高幹(浄永)か。*12

 

【史料5】貞治3(1364)年9月10日付「沙弥浄□〔浄永〕披露状」(『烟田文書』)高幹(浄永)関東管領に同族・烟田時幹の軍忠を賞するよう請う*13

 

【史料6『鹿島文書』所収・貞治4(1365)年付書状5点*14:2月2日付 足利基氏書状案の宛名に「常陸大掾入道殿」、以後4点書状の冒頭端裏書に「貞治五三二(※各々年月日の数字)常陸大掾入道被進之」とあり。尚、11月15日付書状は高幹(浄永)自らが発給したもので、「沙弥浄永」の署名と花押が据えられている。

 

【史料7】永和3(1377)年10月6日付「関東管領上杉憲春奉書」(『円覚寺文書』):宛名に「常陸大掾入道殿」*15 

 

 

(参考ページ)

 大掾高幹(だいじょう たかもと)とは - コトバンク

 多気高幹(たけ たかもと)とは - コトバンク

 大掾氏系図

 

脚注

三浦高継

三浦 高継(みうら たかつぐ、1305年頃?~1339年)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。三浦氏の庶流・佐原氏の一族から盛時が再興した "三浦介" 家(=相模三浦氏)の当主であり、歴史研究では佐原高継(さはら/さわら ー)とも呼ばれることもある*1

 

 

南北朝時代初期の三浦氏に関する史料群

まずは、三浦時継・高継父子の実在と活動が確認できる書状数点を紹介しておきたい。

 

建武元(1334)年4月10日『足利直義宛行状』(『葦名古文書』)*2

  可令三浦介時継法師法名道海、領知武蔵国大谷郷下野右近大夫将監跡
  相模国河内郷渋谷遠江権守跡、地頭職事
 
 右、為勲功賞所宛行也者、早守先例、可令領掌之状、依仰下知如件、
 
  建武元年四月十日
                  左馬頭源朝臣(直義花押)

この書状は足利直義が勲功の賞として三浦時継(道海)に、下野右近大夫将監の旧領=武蔵国大谷郷と、渋谷遠江権守*3の旧領=相模国河内郷の地頭職を宛行う旨を記したものである。 

 

建武2(1335)年? 9月20日『少別当朗覚書状案』「神奈川県史」所収『到津文書』)

 (前略)…一関東も足利殿御下向候、凶徒等悉被追落候、無為ニ鎌倉へ御下著候間、諸方静謐無為、返々目出候、三浦介入道一族廿余人大船ニ乗天、尾張国熱田浦ニ被打寄候處、熱田大宮司悉召捕之、一昨日京都へ令進候間、被刎首、被渡大路候後ニ、可被懸獄門之由、治定候、…(以下略) 

文中の「三浦介入道」は前年に登場した時継法師道海であろう。『太平記』によれば、北条時行の挙兵に加わった*4らしいが、冒頭にもある通り、関東に下向した足利殿(=尊氏)に敗れ(中先代の乱)、その後一族の者20数名と共に舟で尾張国に逃れようとしたところ、熱田大宮司(=昌胤か)に捕らえられ、京都に送られた後に首を刎ねられて獄門に懸けられたことが記されている。 

 

建武2(1335)年9月27日『足利尊氏袖判下文』(『宇都宮文書』)*5

       (花押:足利尊氏)  下    三浦介平高継
 
  可令早領知相模国大介職三浦内三崎、松和、金田、菊名網代、諸石名、大礒郷、在高麗寺俗別当職、東坂間、三橋、末吉、上総国天羽郡内古谷、吉野両郷、大貫下郷、摂津国都賀庄、豊後国高田庄、信濃国村井郷内小次郎知貞跡、陸奥国糠部内五戸、会津河沼郡蟻塚上野新田、父介入道々海本領事、

 右以人、為勲功之賞所宛行也者、守先例可致沙汰之状、如件、
 
    建武二年九月廿七日 

 

建武2(1335)年10月23日『三浦介高継寄進状』(『鶴岡八幡宮文書』)*6

  上総国眞野郡椎津郷内田地壹町事
  
 右、且為天長地久、現世安穏、子孫繁昌、至于子々孫々、
 於此料田者、不可致其煩、仍寄進状如件、
 
  建武二年十月廿三日   三浦介高継(花押)

③と④の書状によって、建武2(1335)年に「三浦介」であった人物として三浦高継の実在が確認できる。

③は①に同じく宛行状であり、足利尊氏が勲功の賞として高継に、記載の複数の領地を与えていることが記されている。中には「父 介入道々海跡」の記載があって、三浦介入道道海(=時継)が父であり、②も踏まえれば、斬首となった父の領地を子の高継が継承したことが分かる。 

 

 

高継の世代と烏帽子親の推定

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こちら▲の記事にて、曽祖父の三浦頼盛が1240年頃の生まれと推定した。これに従えば、各親子間の年齢差を20とした場合、その曽孫である高継の生年は早くとも1300年頃と推定可能である。

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すると、元服は通常10代前半で行われることが多かったから、高継の場合1310年代前半より後に行ったと推測可能である。上記記事において盛の「頼」が5代執権・北条時からの一字拝領と推測したが、その後の「明―継」も北条氏の通字「時」を与えられた形跡が見られる。従っても、元服当時の得宗であった北条(1311年得宗家督を継承、1316~1326年の間14代執権)を烏帽子親とし、その偏諱を賜ったとみなして問題ないだろう*7

 

ここで、この考察を裏付けるべく、高継の生年を推定してみたいと思う。

③より、建武2年の段階で高継が三浦介を名乗っていたことは確実であるが、①にある通り、父・時継が出家済みであった前年建武元年)の段階で "三浦介"(=③で「相模国大介職」と呼ばれているもの)の座が譲られていた可能性が高いと思われる。

*軍記物であるが、『太平記』巻3「笠置軍事付陶山小見山夜討事」には、元弘元(1331)年9月20日に上洛した幕府軍の「相従う侍」の筆頭に「三浦介入道」とあり、これが事実に基づくものであればこの時すでに父・時継が出家していたことになる*8。1330年代には時継から高継へ「三浦介」の継承がなされたと考えて良いだろう。

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この記事▲でも紹介の通り、頼盛の場合、12歳頃に元服を済ませて「三浦介六郎(=三浦介盛時の6男の意)」、19歳頃には任官して「三浦介六郎左衛門尉」と呼ばれ、24歳頃から「三浦介」を名乗るようになったことが『吾妻鏡』から窺える。

これらを参考にすれば、1330年頃には高継も20代半ば以上の年齢であったと推測できよう。逆算すると1305年前後の生まれとなり、高時執権期間の元服であることが裏付けられる。 

*『葦名古文書』には、建武4(1337)年4月20日付で「平高通」を左衛門少尉、同年8月28日付「従五位下平高連」を従五位上に叙す旨の宣旨が収録されており、各々三浦高通(たかみち)・高連(たかつら)父子に比定される*9。すなわち、この時孫の三浦高連が叙爵済みであったことが分かるが、従五位上に昇進していることから20代位には達していた可能性があり、その場合高継の年齢をもう少し上げる必要が生じるが、今度は頼盛との年齢差で辻褄が合わなくなる。1300年代前半に父・時継が三浦介であったことを踏まえると、高継もやはり1300年代初頭生まれであることは動かし難いだろう。或いは、高通と高連が兄弟であった可能性を考えても良いかもしれないが、この辺りは改めて後考を俟ちたい。

 

一説に高時は祖先と仰ぐ平高望にあやかって命名されたとする見解があるが、同じく桓武平氏(高望)の末裔を称する三浦氏にとっては奇しくもゆかりの字を拝領した形となり、上記【三浦氏系図】で示した通り、高継以降の三浦介家は「」を通字とするようになったのである(のち上杉氏から養子入りした三浦義同の代に、今度は「義」字が復活した)。 

 

『正木家譜』によれば、高継は暦応2(1339)年5月18日に亡くなったという*10。同年12月17日付の足利直義の書状(『南部晋 所蔵文書』)に「…三浦介高継侍所管領之時、…」と回想する形で書かれている部分があり*11、この年までの三浦介が高継であったことが窺えよう。

*『伊豆山神社文書』には、この後 明徳元(1390)年8月6日付で相模守護であった「大介高連」が発給した請文が収録されており*12、暦応2年から51年の間に三浦介(相模国大介職)の座は孫の高通に渡っていたことが分かる。

 

(参考ページ)

三浦惣領家 #三浦高継

 27 三浦高継 三浦介父と子の争い: 黒船写真館

 相模三浦氏 - Wikipedia

 

脚注 

*1:『大日本史料』6-4 P.958

*2:『大日本史料』6-1 P.516

*3:『伊勢光明寺残篇』に所収の、元弘の変に際しての幕府軍のリスト「関東軍勢交名」2通に掲載される「渋谷遠江権守」と同人であろう。片方のリストには「渋谷遠江権守一族」とあり、相模国(現在の高座渋谷駅辺り)を発祥・拠点とする得宗被官・渋谷氏の一族をまとめる惣領的な立場にあったと推測される。実名は明らかにされていないが、『若狭国今富名領主次第』「渋谷遠江守重光」が正中元(1324)年9月2日から元弘2(1332)年9月まで得宗の代官を務めたとの記載があり、『太平記』巻6「関東大勢上洛事」にも幕府軍のメンバーの一人に「渋谷遠江守」が含まれている(→ 大仏高直 - Henkipedia【表A】)ので、遠江権守=重光の可能性が考えられる。

*4:太平記』巻十三「中前代蜂起事」。

*5:『大日本史料』6-2 P.609

*6:『大日本史料』6-2 P.660

*7:三浦介高継 ー  千葉氏の一族 より。

*8:「太平記」笠置軍事付陶山小見山夜討事(その12) : Santa Lab's Blog三浦惣領家 #三浦介時継 より。

*9:『大日本史料』6-4 P.205

*10:27 三浦高継 三浦介父と子の争い: 黒船写真館系図綜覧. 第二 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。ちなみに正木氏は、戦国時代から江戸時代にかけて活動がみられるが、三浦氏より分かれた氏族と伝えられる(→ 安房正木氏 - Wikipedia房総の正木氏の系譜)。

*11:『大日本史料』6-5 P.851

*12:鎌倉以後の三浦氏 参照。

相馬高胤

相馬 高胤(そうま たかたね、1315年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、下総相馬氏当主。通称は小次郎。

 

相馬氏の系図上では確認できない人物だが、次の史料により実在が確かめられる。

史料A】元弘4(1334=建武)年正月付「関東廂番定書写」(『建武(年間)記』)*1

 関東廂番

定廂結番事 次第不同

( 中略 )

三番

 宮内大輔貞家      長井甲斐前司泰広

 那波左近大夫将監政家  讃岐権守長義

 山城左衛門大夫高貞   前隼人正致顕

 相馬小次郎高胤

( 中略 ) 

 

右守結番次第、無懈怠可令勤仕之状、依仰所定如件、

 元弘四年丶丶

上記三番衆のメンバーを見てみると、他のメンバーが何かしらの官職に任じられているのに対し、相馬高胤だけが無官のため「小次郎」と称されている。これは、一番衆の一人「河越次郎高重」と同様で、元服からさほど経っていなかったためであろう。恐らく10~20代の年齢であったと推測される。

逆算すると、元服の時期は北条高時執権期間(在職:1316年~1326年*2内であったと推定可能であり、通字の「胤」に対して上(1文字目)に戴いている「」の字は時の偏諱を拝領したものと考えて良いだろう*3

 

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▲【図B】相馬氏略系図*4

 

七宮涬三の研究によると、相馬氏は文永8(1271)年の相馬胤村(たねむら)急死後の所領争いによって、長男・胤氏(たねうじ)の系統下総相馬氏と嫡男・師胤(もろたね)の子である重胤(しげたね)の系統奥州相馬氏に分かれ、高胤を下総相馬氏の人物としている*5。同氏によれば、元亨元(1321)年に胤氏の子・五郎左衛門尉 師胤が罪を問われて行方郡太田村・吉名村を没収され(これらの地は御内人・長崎思元に渡る)*6、その弟・胤基の系統が下総相馬氏の嫡流として戦国末期まで存続したという。

世代的に考えると、高胤は師胤・胤基兄弟の子または甥とするのが妥当と思われるが、上掲【図B】に示した通り、歓喜寺所蔵の相馬系図では胤基の子は「胤忠(たねただ)」と書かれている*7。系譜に若干の違いがあるものの、千葉大系図や広瀬氏所蔵系図でも胤忠の記載はあり、それ以降の系譜は一致している。

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こちら▲の記事に紹介の通り、鎌倉幕府滅亡後「高」の字を棄てて改名した御家人は少なからずおり、同じく「小次郎」を称したというこの "胤忠" も高胤が改名後の同人である可能性が考えられるが、この点も含め以後の活動内容については後考を俟ちたいところである。

 

(参考ページ)

 相馬高胤 - Wikipedia

 下総相馬氏 #相馬高胤

下総相馬氏 #相馬胤忠

 

脚注

*1:『大日本史料』6-1 P.422。『鎌倉遺文』第42巻32865号。『南北朝遺文 関東編 第一巻』(東京堂出版)39号。

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*3:下総相馬氏 #相馬高胤 より。

*4:武家家伝_下総相馬氏 および 光音子「陸奥と下総の相馬」(所収:「2011年3月11日午後2時46分東日本大震災による奥州相馬によせて」/新四国相馬霊場88ヶ所を巡る会、2011年)2ページ目系図 より作成。

*5:七宮涬三『下総奥州相馬一族』(新人物往来社、2003年)P.61~65、P.93。

*6:同年12月17日のものとされる「相馬重胤申状」(『相馬家文書』)による。『鎌倉遺文』第36巻27918号 所収。

*7:武家家伝_下総相馬氏 より。

足利高義

足利 高義(あしかが たかよし、1297年~1317年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人足利貞氏の長男で最初の嫡子。母は北条(金沢)顕時の娘・釈迦堂殿とされる。足利尊氏足利直義の異母兄にあたり、子に足利安芸守、田摩御坊源淋、女子(上杉朝定室)、女子(武田信武室)がいたと伝わる。

 

 

足利氏宗家の当主として 

【史料1】『鶴岡両界壇供僧次第』(『続群書類従』巻第105 所収)より一部抜粋

両界供僧一方

勝円 蓮華坊少輔阿闍梨 備後国人也住寺者

建久五年。足利上総介殿為御願。両界曼荼羅書供養。奉安置鶴岡。被擬両部而被定置二口供僧。内一口拝領。仍建久五年十一月十三日御教書賜之。……(以下略)

円定 蓮花坊 尾張律師

建保六戊寅七月十三得譲也。承久三年十月廿三日自足利殿安堵御判賜之。……(以下略)

円弁 三位阿闍梨

文永七年庚午十月三日得譲。足利宮内少輔殿安堵御判賜之。

円景 蓮花坊 兵部阿闍梨 法橋法眼 少僧都法印 元円幸

随三位法印静禅受三部印信等。弘安三庚辰二月十一日譲与。永仁二年十二月廿日足利讃岐守殿御判賜之。……長尾三郎左衛門尉光景*1息。……(以下略)

円重 蓮花坊 大夫阿闍梨 丶丶少僧都法印

(前略)……乾元二葵卯五十八譲与。正和四十一十四足利左馬助殿安堵御判賜之。父者渋谷三郎次郎重方。母者渋谷二郎入道重弘女。……(以下略)

定重 安芸僧都

元弘三葵酉三二譲与。同三年十一廿足利左兵衛督殿御判賜之。……(以下略)

この史料により、正和4(1315)年11月14日に「足利左馬助」が鶴岡八幡宮の僧・円重(えんちょう)に供僧職を安堵していることが確認できる。父・貞氏法名:義観)は正安年間より「(足利)讃岐入道」と呼ばれていたから、この人物は『尊卑分脈』に「左馬助 早世」と注記される高義*2に比定される*3

当時の鶴岡八幡宮の上宮東回廊には「足利上総介」=足利義兼が両界曼荼羅一切経を納めた「両界壇」と呼ばれる区画があり、足利氏宗家では八幡宮の僧侶に依頼して供養を行っていたが、その供養を行う供僧の職の補任と安堵は宗家当主が務めていた。左馬助(高義)の大夫阿闍梨円重に対する行為はまさにそれであり、正和4年当時高義が足利氏嫡流家督を継いでいたことが窺える*4

 

生没年について

しかし、足利氏歴代当主の死没日がほぼ正確に記載されている『蠧簡集残編 六』所収「足利系図」によると、高義は文保元(1317)年6月24日に亡くなったらしく*5、翌2(1318)年9月17日付で家督を譲ったはずの父・貞氏が花押を据える形で再び安堵状を出している*6ことがこのことを裏付けよう。

その他、『前田本 源氏系図』に「左馬助、従五位下、早世廿一、」とあり、前述の没年から逆算すると永仁5(1297)年生まれと推定可能である*7。前述したように『尊卑分脈』にも「早世」*8の記載が見られるので、貞氏との年齢差を考えても1297年から大幅にずれることはないだろう。

 

「高義」の命名北条高時

鎌倉時代の足利氏は「(義氏―)氏―氏―家氏」と代々北条氏得宗家の偏諱を受けており、先行研究でも説かれているように義 ひいては弟の(のち尊氏)(のち直義)にも最後の得宗・北条時の1字を受けた形跡が見られる。

高時は延慶2(1309)年1月21日に7歳で元服*9、応長元(1311)年10月26日の父・貞時の死*10に伴い得宗家の家督を継承している。前述の生年に基づけばその頃高義は13~15歳と元服の適齢を迎え、曽祖父・足利頼氏が12歳*11、弟・高氏が15歳*12、ひいては高氏(尊氏)の孫にあたる足利義満が11歳*13元服した例を踏まえても、義は先に元服を遂げたばかりの時を烏帽子親として元服を遂げたと判断される*14

 

2文字目に、義氏以来の通字「氏」ではなく「」が用いられた理由については、近年田中大喜が見解を出されている。

すなわち、8代執権・北条時宗の死後、霜月騒動や平禅門平頼綱の乱など、源氏将軍を擁立する動き(類似したもの含む)が度々起こっており、9代執権・北条貞時はその対策として足利氏(貞氏)を「源氏嫡流」として公認したと説かれており、貞氏の長男である高義命名清和源氏の通字「」が使われていることをその証左とされている*15。これについては水野智之も賛同の見解を示されている*16。足利氏としても、歴代の当主が必ずしも「氏」字を使用したわけではなかったので、むしろ義氏以前の通字「義」源頼家―国―足利康―兼―氏)の復活は歓迎すべきことだったと考えられる。 

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子女について

21歳の若さで亡くなった高義だが、他の系図類には子供がいたことを伝えるものがある。

まず、『続群書類従』第五輯上所収「足利系図」や『系図纂要』には高義の息子として安芸守某田摩御坊源淋(げんりん)の記載がある*17。長男の足利安芸守は実名不詳だが、建武3(1336=延元元)年に叔父・尊氏が九州に敗走した折に奥州で戦死したとされる。次男の源淋は僧籍に入ったのであろう。

次に、下記の史料を見ておきたい。 

【史料2】『師守記』康永3(1344)年8月2日条*18より

八月二日己未、天晴、今暁上椙前弾正少弼妻室 将軍武衛姪云々、他界、日来所労云々、

(頭書)今日武家沙汰斟酌云々、□同斟酌云々、

二橋上杉家の当主であった上杉朝定*19の妻が他界した旨を伝える記事である。この女性は「将軍」=当時の征夷大将軍足利尊氏(在職:1338年~1358年)と「武衛」=当時の左兵衛督・足利直義*20の姪であったと書かれているが、『尊卑分脈』等の系図類を見る限り、その親に該当するのは尊氏・直義の兄であった高義しかいない。従って朝定妻のこの女性も高義の娘(遺児)であったと判断される*21

 

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更に『甲斐国志』には、「生山系図」に拠って、武田信武が尊氏の姪を妻にしたことが記載される*22管見の限り「生山系図」の出典は不明だが、『甲斐信濃源氏綱要』には信武の子・武田氏信の加冠役を足利貞氏が務めたとの記載が見られる*23ので、強ちあり得ない話でもないだろう。この信武妻は尊氏の兄・高義、または弟・直義が父親であったとみるべきであろうが、直義に娘がいたという史実は系図類も含めて確認できない。直義ぐらい名の知れた人物であれば、直接 "直義の娘" と書けば良いとも思われるので、やはりこの女性もまた、高義の娘(遺児)とみなすのが妥当と思われる。

彼らは高義の早世により貞氏や尊氏が養育していたのではないかと推測される。

 

(参考ページ)

 足利高義 - Wikipedia

南北朝列伝 ー 足利高義

 

脚注

*1:長尾景茂の弟。

*2:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*3:谷俊彦「北条氏の専制政治と足利氏」、吉井功兒「鎌倉後期の足利氏家督」、前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(所収:田中大喜 編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉戎光祥出版、2013年)P.130・171・190。

*4:前注田中氏著書 P.171~172(吉井論文)、P.190~191(前田論文)。

*5:注3前掲田中氏著書 P.2・191・386。

*6:注3前掲田中氏著書 P.172(吉井論文)・P.212 註(57)(前田論文)によると、正和4年12月20日付「長幸連譲状写」(『松雲公採集遺編累纂』、『鎌倉遺文』第33巻25694号)には、のち文保2年9月17日付でその譲与を承認する意図で据えた貞氏の花押(→ 外題安堵(げだいあんど)とは - コトバンク 参照)が見られる。

*7:注3前掲田中氏著書 P.191(前田論文)。

*8:系図類における「早世」の注記は、20代前半以下の年齢で亡くなった場合に記されるケースが多かった。これについては 大仏高宣 - Henkipedia を参照のこと。

*9:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*11:足利頼氏 - Henkipedia 参照。

*12:足利尊氏 - Henkipedia 参照。

*13:『尊卑分脈』の「義満公伝」文中に「応安元年四十五元服。十一才加冠細川右馬助頼之朝臣」とある。

*14:高時は嘉元元(1303)年生まれで高義より年少であったが、本文で述べた通り慣例により7歳の若さで先に元服を済ませていた。烏帽子親子関係は本来、源頼朝―結城朝光のように実際の親子ほどの年齢の開きがあるものであったが、弟・高氏も高時より僅か2歳年下であり、この頃の偏諱行為は虚礼化が進んでいたとの指摘もある(→ 今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.50)。

*15:田中大喜「総論 中世前期下野足利氏論」(所収:注3前掲田中氏著書)P.24~25。

*16:水野智之『名前と権力の中世史 室町将軍の朝廷戦略』〈歴史文化ライブラリー388〉(吉川弘文館、2014年)P.59。

*17:清水克行「足利尊氏の家族」(所収: 櫻井彦・樋口州男・錦昭江編『足利尊氏のすべて』、新人物往来社、2008年)P.125~142。

*18:『大日本史料』6-8 P.346

*19:尊卑分脈』等の上杉氏各系図類の朝定の項に「弾正少弼」とあるほか、実際の史料でも『園太暦』や『常楽記』に「上椙 [上杉] 弾正少弼朝定」とあるのが確認できる(→『大日本史料』6-14 P.4176-16 P.341)。

*20:足利直義 - Wikipedia 参照。ちなみに「武衛」は兵衛府唐名である(→ 武衛(ブエイ)とは - コトバンク)。

*21:小松茂美足利尊氏文書の研究 Ⅰ 研究編』(旺文社、1997年)P.337~338。注3前掲田中氏著書 P.212 註(58)(前田論文)。

*22:『甲斐国志』下 - 国立国会図書館デジタルコレクション P.677(コマ番号340)参照。

*23:系図綜覧. 第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション。注14前掲今野氏論文 P.49・52 註(10)・P.55 表No.59。

足利貞氏

足利 貞氏(あしかが さだうじ、1273年~1331年)は、鎌倉時代後期~末期の武将、鎌倉幕府御家人足利家時の嫡男で、足利宗家第7代当主 。足利高義足利尊氏足利直義の父。通称は三郎。

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足利貞氏像(浄妙寺所蔵)

 

尊卑分脈*1・『常楽記』*2などによると、元弘元/元徳3(1331)年9月初頭に59歳で亡くなったと伝えられ、逆算すると文永10(1273)年の生まれとなる。

谷俊彦は、母方の祖父・北条時茂が同7(1270)年に30歳で亡くなっている*3ことから、貞氏がその孫とするにはやや難があり(時茂がそのまま生きていた場合、時茂と貞氏の年齢差は33)霜月騒動の余燼の収まった弘安9(1286)年以降に10歳前後で元服して執権・北条貞時偏諱を受けたのではないかとして、数年下った建治3(1277)年頃の生まれとされている*4。しかし、前田治の研究によると、正応5(1292)年2月の段階で惟宗氏(実名不詳)が讃岐守に在任していたものが、正安年間には貞氏が讃岐守に任官の後に出家して「讃岐入道」と呼ばれており、国守任官はその間であったと考えられる*5ので、1277年生まれとすると国守任官が早過ぎる感じが否めない。複数の史料が没年59または60とすることからも、1273年の生まれで問題ないだろう*6

 

貞氏の命名について、南朝側の所伝をまとめたという『(異本)伯耆巻』には次のように書かれている*7。 

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〔史料A〕『伯耆巻』(名和伯耆太郎兵衛長興家蔵本)の写(30ページ目)より一部抜粋

足利讃岐守相模守貞時が烏帽子子にて貞氏と号し 其(その)子高氏は赤橋武蔵守久時が聟(むこ)と成て治部大輔に任ぜられける 高氏も高時が称号の一字を受て高氏とぞ付ける

 

"足利讃岐守は北条の烏帽子子であったので氏」と名乗った" とはっきり書かれており、時が加冠役(烏帽子親)を務めて「」の偏諱を与えたことは確実であろう。息子の足利(のちの尊氏)についても同様にして次の得宗・北条時の1字を受けたとの記述も見られる。

紺戸淳は、鎌倉時代における元服は通常10~15歳の間で行われたとして、前述の生年に基づく氏の元服の年次を1282~1287年と推定し、弘安7(1284)年から執権の座にあった(在職:1284年~1301年)*8偏諱を受けたと説かれている*9。祖父・足利頼氏が12歳*10、子の高氏が15歳*11、ひいては曽孫にあたる足利義満が11歳*12元服した例を踏まえれば、この推定は妥当であろう。貞氏は9代執権に就任したばかりの貞時を烏帽子親として「貞」の1字を受けたのであった。

 

その他詳細は

 足利貞氏 - Wikipedia

 足利貞氏(あしかが さだうじ)とは - コトバンク

南北朝列伝 ー 足利貞氏

を参照いただければと思う。

 

(参考記事)

historyofjapan-henki.hateblo.jp

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*2:『常楽記』元徳3年9月6日条に「足利讃岐入道殿逝去」とある。

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その32-常葉時茂 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)参照。

*4:谷俊彦「北条氏の専制政治と足利氏」(所収:田中大喜 編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉戎光祥出版、2013年)P.126。

*5:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(所収:前注田中氏著書)P.190。典拠は『門葉記』冥道供七「関東冥道供現行記」正安4(1302)年2月9日条「足利讃岐守」。但し田中氏同書 P.287・400に掲載の『瀧山寺縁起』により、正安3年12月13日の段階で「讃岐入道殿」と呼ばれていることが確認できる(→ 詳しい史料本文は 足利貞氏 - Wikipedia を参照)。単なる誤記か、或いは出家したことが伝わっていなかったかのいずれかであると思われるが、いずれにせよこの頃までに讃岐守に任官済みであったことは確かであろう。その他、工藤時光 - Henkipedia【史料15】(『鎌倉年代記』裏書)により、嘉元3(1305)年までに出家していたことが裏付けられる。

*6:他に判明している例を挙げると、大友貞親二階堂貞藤が同じく1273年生まれである可能性が濃厚で、北条(大仏)貞房河越貞重少弐貞経長井貞重のように1272年生まれにして「貞」字を受けている者も少なくない。彼らは貞時が執権に就任した弘安7(1284)年には12~13歳と元服の適齢を迎えるが、執権に就任したばかりの貞時が、霜月騒動に向けて安達泰盛平頼綱の対立がまだ激化していないこの頃に、彼らの加冠を務めることに何ら問題はないと思う。貞氏も同様に貞時の執権就任直後の一字拝領者であったと考えられる。

*7:今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.49。

*8:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*9:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.11~12。

*10:足利頼氏 - Henkipedia 参照。

*11:注9前掲紺戸氏論文 P.11。典拠は『続群書類従』所収「足利系図」(→ 足利尊氏 - Henkipedia も参照のこと)。

*12:『尊卑分脈』の「義満公伝」文中に「応安元年四十五元服。十一才加冠細川右馬助頼之朝臣」とある。

足利泰氏

足利 泰氏(あしかが やすうじ、1216年~1270年)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府御家人足利義氏の嫡男で足利宗家第4代当主。

 

尊卑分脈*1などによると、文永7(1270)年5月10日に55歳(数え年、以下同様)で亡くなったといい、『吾妻鏡』建長3(1251)年12月2日条にも泰氏が「年三十六」で出家したと書かれており、いずれも逆算すると建保4(1216)年生まれとなる。

 

紺戸淳は、鎌倉時代における元服は通常10~15歳の間で行われたとして、前述の生年に基づく氏の元服の年次を1225~1230年と推定し、当時の執権であった北条(在職:1224年~1242年)*2を烏帽子親としてその偏諱」を受けたと説かれている*3。『吾妻鏡』では嘉禎2(1236)年12月11日条に「新丹後守泰氏」とあるのが初出とされ*4、依然として泰時が執権であったこの時までに元服を済ませていることは確実であるから、紺戸氏の説は正しいと言えよう。

尊卑分脈』等によれば、泰氏の母が北条泰時の娘であったので、時の執権にして外祖父でもある泰時が、孫・泰氏の加冠役(烏帽子親)を務めたのであろう。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

その他詳細は

 足利泰氏 - Wikipedia

 足利泰氏(あしかが やすうじ)とは - コトバンク

を参照いただければと思う。

 

脚注

*1:『編年史料』亀山天皇紀・文永7年4~6月 P.28 参照。

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*3:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.11~12。

*4:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.320「泰氏 足利」の項 より。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。