Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

長和泰継

長和 泰継(ながわ やすつぐ、生年不詳(1220年代?)~没年不詳) は、鎌倉時代前・中期の人物、御家人。長井時広の庶子長井泰継(ながい ー)とも。通称は五郎。

 

『尊卑分脈』『福原家譜』8巻では、時広の6男として書かれ「長和」・「五郎」の注記がある(長兄や次兄の例からすると、輩行名の通り5男であったとも考えられ、系図での兄弟順は入れ替わっている可能性もある)。諱(実名)について前者では「泰経」、後者では「泰継」とするが、兄弟の上山泰経と同名であったとは考えにくいので、泰継が正しいであろう(「経」と「継」の崩し字は類似しており、『尊卑分脈』の写本が複数伝わる際に誤記・誤写が生じたのであろう)庶子であったため、分家して長和氏を興したとみられる。

 

下記<参考記事>で紹介の通り、長兄・泰秀が1212年生まれと判明しているほか、次兄・泰重も1220年頃の生まれと推定されるので、その弟たちも1220年代の生まれであったと考えられる。そして、父・時広が亡くなる仁治2(1241)年5月28日*1までには生まれている筈であろうから、この間に生まれたことは確実である。その当時は北条が3代執権の座にあり(在職:1224~1242年)*2、「」の名は兄たちに同じくその偏諱を受けたものと判断される。

 

泰継については、『吾妻鏡』をはじめとする実際の史料で確認は出来ず、その活動内容や生涯は不明である。但し「長和」の苗字は、兄・長井泰茂が領した備後国長和庄*3に由来する可能性が高く、同国守護職にあった次兄・泰重に代わって泰茂と共に備後国に下向していたのかもしれない*4

 

<参考記事>

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脚注

長井泰元

長井 泰元(ながい やすもと、生年不詳(1220年代?)~没年不詳) は、鎌倉時代前・中期の人物、御家人。長井時広の庶子。通称は蔵人(『吾妻鏡』)、修理亮(『尊卑分脈』)

 

吾妻鏡人名索引』*1によると、『吾妻鏡』での登場箇所は以下の通りであるという。

建長4(1252)年4月3日条「長井蔵人泰元

同年11月11日条「長井蔵人

康元元(1256)年正月1日条「長井三郎蔵人

※正嘉元(1257)年12月29日条の「長井判官代泰元」は泰茂の誤記とする。

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『福原家譜』8巻では、時広の3男としながらも、4男・ 長井泰経(上山氏祖)の項に「三郎蔵人」の注記がある。泰経については『尊卑分脈』にも "蔵人" を示す「蔵」の注記があり、従って康元元年の「長井三郎蔵人」は泰経に比定される可能性も考えられるが、実際の史料で次兄の長井泰重が当初「次郎」を称していたことが判明しているので、いずれにせよ三郎蔵人は時広の3男に間違いないだろう。『福原家譜』では泰元・泰経双方に「蔵人」の注記があるから、少なくとも建長4年の「長井蔵人泰元」は泰元の初見とみて良いと思う。 

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上記それぞれの記事では、長兄・泰秀の生年が1212年で、次兄・泰重も1220年頃の生まれと推測されることを述べた。よってその弟とされる泰元の生年は1220年以後と推定される。

一方、前述の通り、約30年近く経った建長4年になって史料上に現れるが、父・時広が亡くなる仁治2(1241)年5月28日*2までには生まれている筈である。

 

この間、北条が3代執権の座にあり(在職:1224~1242年)*3、「」の名は兄たちに同じくその偏諱を受けたものと判断される。遅くとも1242年までに元服の適齢である10代前半に達していた筈であり、1220年代の生まれと推定可能である。

  

脚注

*1:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.317「泰元 長井」の項 より。

*2:『吾妻鏡』同日条 より。

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ記事)より。

長井泰茂

長井 泰茂(ながい やすしげ/やすもち、生年不詳(1220年代前半?)~1276年?)は、鎌倉時代前・中期の人物、御家人。通称は長井判官代、出羽守。『福原家譜』7巻系図によると長井時広の5男で、法名は禅心。

 

 

北条泰時の烏帽子子

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上記それぞれの記事では、長兄・泰秀の生年が1212年で、次兄・泰重も1220年頃の生まれと推測されることを述べた。よってその弟とされる泰茂は1220年以後に生まれたと推定される。

 

吾妻鏡人名索引』によると、『吾妻鏡』での登場箇所は以下の通りであるという。

 

【表A】『吾妻鏡』での泰茂の登場箇所*1

月日 表記
嘉禎元(1235) 12.24 長井判官代
建長6(1254) 1.22 長井判官代泰茂
康元元(1256) 1.1 長井三郎蔵人 同判官代
正嘉元(1257) 10.1 長井判官代泰茂
12.29 長井判官代泰元〔ママ〕
正嘉2(1258) 1.1 長井判官代
1.7 長井判官代
6.17 長井判官代
文応元(1260) 1.1 長井判官代
4.1 長井判官代
弘長元(1261) 1.1 長井判官代

 

「判官代」とは、「別当・執事・年預に次ぐ院庁の事務官」または「国衙領・荘園の現地にあって、土地の管理や年貢の徴収などを司った職員」のことである*2。特に前者は五位・六位の蔵人を当てたといい*3、【表A】において「判官代泰茂」と書かれる箇所があることからしても、少なくとも嘉禎元年の段階で既に元服済みであったと判断される。 

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こちら▲で紹介の通り、2年前となる天福元(1233)年の段階では、次兄・泰重が無官のため「次郎」とのみ呼ばれていたことが確認できるので、当時の泰茂も「五郎」等を称していたのではないか泰茂はおよそ1220年代前半に生まれ、この頃に元服の適齢を迎えたと判断される。「」の名も、兄たちに同じくこの当時の執権・北条 (在職:1224~1242年)*4偏諱を受けたものに間違いないだろう。

 

 

美濃国茜部庄地頭として

吾妻鏡』は6代将軍・宗尊親王が解任の上で京都に送還された文永3(1266)年7月で途切れるが、その後の泰茂については『東大寺文書』に関連の書状が収録されている。

小泉宜右の研究によると、文永3年12月6日付「六波羅御教書案」の宛名に「(美濃国茜部庄)地頭殿*5、同6(1269)年10月27日付「美濃茜部荘預所賢舜重訴状案」に「当庄者正員地頭殿 出羽守殿、」とある*6が、この出羽守は、同7(1270)年後9月10日付書状の発給者「前出羽守泰茂*7に比定されるという*8

【史料B】文永7(1270)年 後9月10日付「長井泰茂書状」(『東大寺文書』)

(端裏書)「茜部庄地頭出羽守年貢書状」
茜部庄御年貢事、去年分無懈怠、致其沙汰候了。兼又伊藤左衛門尉(=伊藤行村)不法之由候之間、改易代官、五郎左衛門尉秀氏と申候物に申付候。当年御年貢のためニ在国候。早相尋子細可申候。恐々謹言。
 文永七年
  後九月十日 前出羽守泰茂

(参考記事)

wallerstein.hatenadiary.org

同氏によれば、貞応2(1223)年8月2日、長井時広が東大寺別当・成宝と契約して茜部庄を地頭請所としており、この段階で同庄地頭職を領有していたことが明らかである*9から、それを引き継いだ「前出羽守泰茂」は『尊卑分脈』と照らし合わせてもその息子と認められる。このことは『尊卑分脈』での「出羽守 泰茂法印 静瑜―泰朝」が、実際の書状で「美濃国茜部庄地頭)長井出羽法印静瑜*10、「地頭静瑜法印・同子息」および「出羽孫三郎泰朝*11の呼称で書かれていることからも裏付けられ、正安2(1300)年5月23日付「六波羅下知状」にある「長井出羽太郎入道聖願*12、嘉元元(1303)年12月14日および正和4(1315)年3月1日付「関東御教書」の宛名「長井出羽左近大夫将監入道殿」*13も各々、出家後の長男・長井頼茂、次男・長井頼秀に比定される*14

*尚、時広―泰茂―静瑜と引き継がれた茜部庄地頭職は、元亨3(1323)年12月21日の長井静瑜の死後、遺跡を巡って対立した長井泰朝(出羽孫三郎)と長井桓瑜(出羽大夫阿闍梨、泰朝の兄弟か?)に二分され、やがて惣領・長井宗秀(道雄)の介入を受けて勝深律師長井貞重の子)、長井高冬(宗秀の孫)と相伝された*15

(参考)

kotobank.jp

 

従って、長井泰茂は文永6年までに出羽守任官を果たし、翌7年には辞任したことになる。前述の推定生年に従えば、この当時40代~50歳前後だったことになるが、国守に任官し、それを辞する年齢としては十分妥当である。この観点からも生まれた時期が裏付けられよう。 

また、小泉氏*16や小林定市*17がご紹介のように、『田総文書』には文永10(1273)年に泰茂備後国長和庄半分を和与し、次男・頼秀に西方地頭職、甥(泰重の子)田総重広に東方地頭職を相伝させたことを示す書状が収録されている。

【史料C】文永10(1273)年8月13日付「長井泰茂請文」(『田総文書』)

長和庄半分和与事、謹承候了、其間子細令申御使候了、定被申候歟、恐々謹言。

  文永十年

 八月十二日 泰茂(花押)

 

その後の活動は不詳だが、死没については

 ①宇部福原家系譜』*18:建治2(1276)年3月15日卒

 ②系図纂要:正安2(1300)年6月15日卒(享年69) 

の2説が伝わる*19

しかし、前述の正安2年5月23日付「六波羅下知状」に「聖願亡父出羽入道禅心」と書かれている*20ことから、出家後の法名が「禅心(ぜんしん)」であっただけでなく、この当時既に故人であったことも分かる。生前、羽仁刑部大夫入道道顕と相論を起こしていたというこの「長井出羽入道」は年代や冒頭で記した『福原家譜』との一致からし泰茂であろう*21(ちなみに『福原家譜』では没年月日不明とする)。また、永仁6(1298)年10月の段階で3男の出羽法印静瑜が茜部庄地頭職を継承済みであった*22ことから、この頃までには亡くなっていたものと推測される。

また②説で逆算すると1232年生まれとなるが、その3年後に「判官代」を名乗っていたとする【表A】との整合性が取れなくなる。よって、①説が正しい可能性が高いだろう。

 

脚注

*1:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.332「泰茂 長井」の項 より。

*2:判官代(ホウガンダイ)とは - コトバンク より。

*3:前注同箇所。

*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ記事)より。

*5:『大日本古文書』家わけ第十八 東大寺文書之十四 P.144~145

*6:『大日本古文書』家わけ第十八 東大寺文書之十四 P.85

*7:『鎌倉遺文』第14巻10699号。

*8:小泉宜右御家人長井氏について」(所収:高橋隆三先生喜寿記念論集『古記録の研究』、続群書類従完成会、1970年)P.728。

*9:前注小泉氏論文 P.713・P.721註(17)・P.728。文永4(1267)年10月日付「茜部庄地頭代伊藤行村陳状案」に「去貞応年中、……被仰合于地頭長井入道殿云、……」とある(→『大日本古文書』家わけ第十八 東大寺文書之十四 P.76)による。

*10:『大日本古文書』家わけ第十八 東大寺文書之十四 P.166

*11:『大日本古文書』家わけ第十八 東大寺文書之十四 P.162

*12:『大日本古文書』家わけ第十五 首藤山内家文書 五五五号(P.524)

*13:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之四 一三七〇・一三七一号(P.270)

*14:注8前掲小泉氏論文 P.750。

*15:注11同史料。

*16:注8前掲小泉氏論文 P.736。

*17:小林定市「古文書から見た長和庄の長井氏」(所収:備陽史探訪の会 編『中世を読む』第3・4号、1994年)P.28。

*18:『近世防長諸家系図綜覧』14「永代家老宇部福原家」所収。

*19:注8前掲小泉氏論文 P.751。

*20:『大日本古文書』家わけ第十五 首藤山内家文書 五五五号(P.525)

*21:注8前掲小泉氏論文 P.751。

*22:注10同史料。

長井貞広

長井 貞広(ながい さだひろ、1271年~1323年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人。通称は長井備前左近大夫。

 

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『尊卑分脈』等の長井氏系図長井時秀の子、長井宗秀の弟として載せられており、「左将監(=左近将監)」・「従五下(=従五位下」等の注記も見られる。

ja.wikipedia.org

長井貞広 (鎌倉時代) - Wikipedia で紹介の通り、細川重男の研究*1によると、1300年代に「長井備前左近大夫入道」等の表記で複数の史料に現れるという。通称名は父・時秀が備前守で、自身が左近大夫将監*2で入道(出家)していたことを表すものである。

細川氏曰く、『常楽記』元亨3(1323)年6月13日条に「長井将監入道他界五十三。道衍(享年53は数え年、以下同様)*3とあるのも貞広に比定されるといい、逆算すると文永8(1271)年生まれとなる。

 

ここで「」の実名に着目すると、「広旧字体:廣)」は祖先の大江広元―長井時広(曽祖父)間で継承された字であるから、「貞」が烏帽子親からの一字拝領と考えられるが、これは得宗北条偏諱であろう。前述の生年に基づくと、貞時が父・北条時宗の死に伴って9代執権となった弘安7(1284)年*4当時14歳と元服の適齢である。文永2(1265)年生まれの兄・秀が1270年代後半に元服して時の1字を受けたのに対し、弟である広は執権職を継いだばかりの時から1字を賜ったことになり、前述『常楽記』の「長井将監入道」=貞広であることはこの観点からも裏付けられよう。

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ちなみに『常楽記』には、奇しくも同日に同年齢で「河越出羽入道」=河越宗重が亡くなったことも書かれている。同い年でありながら元服のタイミングが若干早かったのであろう、重は北条時の1字を受けているが、その弟とされるは同じく北条時の1字を受けた形跡が見られ、長井宗秀・貞広兄弟に同じく得宗の代替わり(1284年)の前後で元服を遂げたケースであった。

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脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」No.140「長井貞広」の項。

*2:従六位上相当の左近衛将監でありながら、叙爵して五位となった者の呼称。「大夫」は五位の通称である。左近の大夫(さこんのたいふ)とは - コトバンク より。

*3:『常楽記』(龍門文庫蔵古写本)より。

*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪、および 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

長井氏元

長井 氏元(ながい うじもと、1340年前後~没年不詳)は、南北朝時代の武将。

 

尊卑分脈*1には長井挙冬の嫡男として記載され、「新後集作者」・「掃部頭」・「従五位下」と注記されているが、他の幾つかの長井氏系図でも内容は変わらない。

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こちら▲の記事で紹介の通り、『常楽記』によって父・挙冬が正和3(1314)年に生まれ、貞和3(1347)年3月24日に34歳(数え年)で他界したことが判明している。

従って、現実的な親子の年齢差を考慮すれば、氏元の生年は早くとも1334年頃と推定可能で、挙冬が亡くなる1347年までには生まれている筈である。

ここで「」の名乗りに着目すると、「元」は祖先の大江広元に由来する字と考えられるから、上(1文字目)に掲げる「」が烏帽子親からの一字拝領と推測できる。これは、1338年~1358年の間、室町幕府の初代将軍であった足利尊*2偏諱に間違いないだろう。

氏元については史料が未発見のため事績については不明であるが、挙冬が亡くなった時、氏元・元冬兄弟は10代前半以下と幼少であった筈である。元が尊の加冠により元服を遂げた時が、挙冬の生前か死後かは定かに出来ないが、鎌倉時代から幕府官僚として高い家格を誇っていた長井氏の嫡流を足利氏がバックアップしていたのであろう。氏元の後は「広―広」と続くが、鎌倉公方(尊氏の子・足利基氏の系統:満―満に仕えてその偏諱を受けたものとみられる。

 

脚注

長井挙冬

長井 挙冬(ながい たかふゆ、1314年~1347年)は、 鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。大江姓長井氏嫡流の当主。初名は長井高冬(読み同じ)。通称は備前二郎、右馬助。

 

 

関係史料の紹介と烏帽子親について

まずは、長井挙冬 - Wikipediaでも紹介されている、史料における登場箇所を以下に列挙する。

【史料A】『鎌倉年代記』裏書/『北条九代記』元弘元(1331)年条*1:「十一月討手人々并両使下著〔下着。同日長井右馬助高冬信乃入道々大。為使節上洛。」

【史料B】『花園天皇宸記』元弘元年11月26日条*2:「今日東使高冬上洛云々。」

【史料C】元徳4(1332)年4月日付「茜部荘地頭代俊行陳状案」(『東大寺文書』)*3:「……正地頭長井備前二郎高冬之計……」

【史料D】(正慶元(1332 元徳より改元)年?)5月20日付「覚順書状」(尊経閣蔵『長谷勘奏記』紙背)*4:「……給主長井右馬助年々未進間、……」

【史料E】正慶元(1332)年7月10日付「茜部荘雑掌定尊重申状」(『東大寺文書』)*5:「……当庄地頭長井右馬助高冬代大夫阿闍梨(=代官・長井桓瑜)不知実名……」

【史料F】正慶2/元弘3(1333)年2月日付「東大寺申状案東大寺訴状土代)(『東大寺文書』)*6:「……就中如当地頭右馬助高冬去年請文者、……」

 

 ★元弘3年5月22日、鎌倉幕府滅亡(東勝寺合戦)。

 

【史料G】「毛利元春自筆事書案」(『毛利家文書』)*7:「一.元弘一統御代之時、建武元年元春祖父右近□□〔大夫〕貞親、於越後国、阿曽宮同心申御謀叛之由、就有其聞、蒙勅感〔勅勘〕、惣領長井右馬助被預置畢、」

【史料H】『常楽記』貞和3(1347)年条*8

三月廿四日 長井右馬助擧冬他界三十四

 

これらを見ると、ほぼ一貫して「長井右馬助」と称されているものの、1333(元弘3/正慶2)年の鎌倉幕府滅亡前の段階では、諱(実名)が「高冬」であったことが窺える。既に先行研究でご指摘の通り、「高」と「挙」が共に「タカ」と読める(後述参照)ことから、挙冬は当初得宗北条偏諱を受けて「冬」と名乗っていたが、幕府滅亡後に改名したことが分かる*9。「高」と同じ読み方をする、祖先・大江挙周の「挙」*10を選択したようだが、小泉氏の見解によると、【史料B】にあるように、幕府滅亡前に太田時連(法名:道大)と共に東使として上洛した高冬が「関東事書」を光厳天皇に奏上する形で後醍醐天皇配流問題に直接関与したことを憚っての改名であったとされる。

そして『常楽記』(【史料H】)にある通り、高冬(挙冬)は貞和3(1347)年3月24日に34歳(数え年、以下同様)で亡くなったというから、逆算すると正和3(1314)年生まれ北条高時が14代執権を辞して出家した正中3(1326=嘉暦元)年当時13歳と元服の適齢となるので、高時執権期間(1316年~1326年)*11内に元服を行ったことは確実と言って良いだろう。

 

 

系譜についての一考察

あわせて、先行研究で指摘されてこなかった一つの問題について考察してみたい。

『尊卑分脈』等の系図類で、挙冬は貞懐・広秀に次ぐ長井貞秀の3男とされる。前節で述べた通り貞時の子・高時から偏諱を受け、幕府内では東使を任されるほか、長井氏においても祖父(貞秀の父)宗秀から美濃国茜部荘地頭職を継承するなど、事実上貞秀の後継者的な立場にあったことは間違いない。

しかし、貞秀は延慶2(1309)年には亡くなっていたといい、その5年後に挙冬が生まれたことになってしまうから、父子関係とするには明らかに矛盾していると言わざるを得ない。しかも後に永井晋が史料に基づいて貞秀の没年を延慶元(1308)年と修正されており*12、更に遠ざかるばかりである。

ここで【史料C】に着目すると、挙冬(高冬)が右馬助任官前「備前二郎」と呼称されていたことが分かる。父親が備前守でその次男を表す通称であるが、貞秀が備前守であった経歴は無い。よって系図類に書かれる「貞秀―挙冬」の父子関係は誤記と疑うべきであろう

 

では、備前守であったという挙冬の父は誰なのか。結論から言うと、恐らく一部の系図で記載される長井冬時(ふゆとき)が該当するのではないかと思う。

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この図に掲げた通り、冬時は『毛利家系図*13や『系図纂要』において貞秀・時千の弟として載せられており、「蔵人左衛門」「備前守」「左馬助」の注記がある。年代的に考えても、挙冬の父・備前守に相応の条件を満たしている。前者では「冬明(ふゆあき)」という別名も記載されるが、挙冬が一貫して使っていた「冬」の字はこれに無関係ではないのではないか。従って「冬時―高冬(挙冬)」という系譜が正しいと推測される。

 

ここで、再度『常楽記』の次の一節に着目したい*14

正中三 嘉暦元 年 十二月廿八日 長井備前入道是澄他界三十

1326年12月28日に長井是澄(ぜちょう)なる人物が30歳で亡くなったと伝えるが、逆算すると1297年生まれである。「備前入道」という通称名から、入道(出家)して「是澄」と名乗る前に備前守であったことが分かる。長井氏関東評定衆家において、国守任官の目安は20代後半~30歳程度であったから、備前守となって間もなく出家したのかもしれない。この人物は挙冬(高冬)が生まれた1314年当時18歳であったことになり、やや若年とも言えるが、他の例も踏まえればその父親として決しておかしくはないと思う。

また是澄=冬時だとすれば、父・長井宗秀が33歳の時の子となるが、長兄の貞秀が1280年頃の生まれで、次いで次兄の長井時千(輩行名は次郎)*15が生まれていることも考慮すれば、十分に妥当な推定ではないか。

以上より、「長井備前二郎高冬(=挙冬)」の実父は長井冬時で、「長井備前入道是澄」はその法名であったと推測される。

 

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脚注

*1:『編年史料』元弘元年10~12月 P.84

*2:『編年史料』元弘元年10~12月 P.100

*3:『鎌倉遺文』第41巻31745号。『大日本古文書』家わけ第十八 東大寺文書之十四 五九〇号(P.161)

*4:『鎌倉遺文』第41巻31753号。

*5:『鎌倉遺文』第41巻31775号。『大日本古文書』家わけ第十八 東大寺文書之十四 五九四号(P.167)

*6:『鎌倉遺文』第41巻32516号。『大日本古文書』家わけ第十八 東大寺文書之十四 五五三号(P.16)

*7:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.19)

*8:『常楽記』(龍門文庫蔵古写本)より。

*9:小泉宜右御家人長井氏について」(所収:高橋隆三先生喜寿記念論集『古記録の研究』、続群書類従完成会、1970年)P.719。紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』2号、中央史学会、1979年)P.16。細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「基礎表」No.137「長井挙冬」の項。

*10:『尊卑分脈』を見ると大江匡衡の子・挙周に「タカチカ」とルビが振ってある。

*11:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*12:これについての詳細は 長井貞秀 - Henkipedia を参照のこと。

*13:国立歴史民俗博物館蔵・高松宮家伝来禁裏本。図の翻刻佐々木紀一「寒河江系『大江氏系図』の成立と史料的価値について(上)」(所収:『山形県立米沢女子短期大学附属生活文化研究所報告』第41号、2014年)P.12 より引用。

*14:『常楽記』(龍門文庫蔵古写本)より。

*15:系図によって「時干」・「時于」と書かれるものもあるが、いずれも字の類似による「時千」の誤読・誤写であろう。「千」は祖先の大江千古から取ったものと考えられる。長井時千の経歴については 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№139-長井時千 | 日本中世史を楽しむ♪ を参照。

長井高秀

長井 高秀(ながい たかひで、1305年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代後期~末期の武将、御家人。通称は治部少輔。

 

まずは、細川重男がまとめられた経歴表*1を紹介しよう。

 

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№138 長井高秀
  系譜・生没年未詳
  治部少輔(金文443)
01:元徳元(1329).    東使
 [典拠]
01:金文443。「治部少輔高秀京着之後、何様事等候哉。貞重以下一門、定もてなし候らんと覚候」とあり、高秀は六波羅評定衆長井貞重の一族であり、上洛したことがわかる。よって、高秀は系譜未詳であるが、長井氏で鎌倉在住ということになり、長井関東評定衆家の人と推定される。

 

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細川氏より前にも小泉宜右が同様の見解を示されていること*2からも、高秀が長井氏であることは先行研究での共通認識になっていると言えよう。小泉氏や『鎌倉遺文』によると、長井高秀の登場箇所は次の通りである。

(元亨4(1324)年*3:「……禁裏高秀帰参之時、……」

(嘉暦2(1327)年*4:「……治部少輔上洛之後、……」

元徳元(1329)年10月28日付*5:「……治部少輔……長井一門いかにもてなし候らん

同年11月21日付*6:「……治部少輔高秀京着之後、何様事等候哉。貞重以下一門、定もてなし候らんと覚候……」(=上記職員表01)

元徳2(1330)年3月*7:「……治部少輔下向之時も、……」

元徳2年)6月9日付「(長井)高秀書状」(『神田孝平所蔵文書』)*8:発給者「高秀」の署名と花押(下写真)

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▲『座間むかしむかし第三集』(座間市教育委員会、1974年)より。

最後を除いては『金沢文庫文書』所収の金沢貞顕の書状であり、貞顕と長井貞秀が従兄弟関係(貞秀の母が金沢実時の娘=貞顕の叔母)にあった関係で親交があった。これらの史料から、鎌倉在住であった高秀が何度も上洛しては鎌倉に下向(帰参)した様子が窺え、東使としての役割を果たしていたと言える。1327年の段階で治部少輔従五位下相当)*9に任官済みであったことも分かるから、叙爵も済ませていたと考えて良いだろう。

高秀については、『尊卑分脈』以下の長井氏の系図類に載せられておらず、その正体は明らかにされていないが、経歴表中の「長井関東評定衆家」は長井泰秀の系統を指すと考えて良いだろう。この系統では、泰秀と宗秀の叙爵年齢が18歳であったことが判明しており、前田治の研究によれば時秀貞秀の叙爵も同年齢であったとされる*10

またこの家系では、泰秀が27歳で甲斐守、時秀が30歳程度で備前守となったことも判明しており、30歳前後で国守に任官できるだけの家格を有していた。霜月騒動の影響を受けたためか、宗秀は国守任官が叶わなかったものの、37歳で出家した後「掃部頭入道」「洒掃禅門」等と呼ばれていることから、出家までに長官級の掃部頭従五位下相当、別称(唐名)は洒掃尹)にまで昇進したことが分かる。その嫡男・貞秀についても30歳手前で早世したので国守にまで昇らなかったものの、26歳頃には長官級の兵庫頭従五位上相当)に昇進していた。従って、高秀にも同様に昇進の可能性は十分あったはずであり、次官級である治部少輔在任当時は20代後半以下であったと推測される。

以上より、高秀は1327年当時18~25歳位であったと推定され、逆算するとおよそ1303~1310年の間の生まれとなる。

 

ここで「」の実名に着目すると、1324年に実名が初出することからしても、最後の得宗北条の14代執権在任期間(1316~1326年)*11内に元服し、その偏諱を許されたことが確実と言えよう。その名乗り方は「秀―秀―秀―秀」という「歴代得宗からの偏諱+通字の秀」の慣例*12に倣ったものと言え、関東評定衆家の人物であった可能性を裏付けるものとなる。

純粋に考えれば貞秀の嫡男とみなすのが妥当だと思うが、その傍証となる史料や系図は確認できない。但し『尊卑分脈』で貞秀の子として書かれる長井挙冬は、鎌倉幕府滅亡前「冬」を称していたことが判明*13していながらその旨系図に記載が無いので、貞秀の他の男子が同様に「高秀」を名乗っていた史実を "抹消" した可能性も否めない。下記記事でも述べるが如く、筆者は鎌倉末期に活動が確認できない長井広秀の改名前と推定するが、これについては後考を俟ちたいところである。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

脚注

*1:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№138-長井高秀 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*2:小泉宜右御家人長井氏について」(所収:高橋隆三先生喜寿記念論集『古記録の研究』、続群書類従完成会、1970年)P.720。

*3:『鎌倉遺文』第37巻28909号。

*4:『鎌倉遺文』第38巻30036号。

*5:『鎌倉遺文』第39巻30765号。

*6:『鎌倉遺文』第39巻30779号。

*7:『鎌倉遺文』第40巻30985号。

*8:『鎌倉遺文』第40巻31062号。

*9:治部の少輔(じぶのしょう)とは - コトバンク より。

*10:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」 別表1 註釈(8)。田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)P.226

*11:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*12:紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』2号、中央史学会、1979年)P.16。

*13:注2前掲小泉氏論文 P.719。前注紺戸氏論文 P.16、P.26脚注(8)。