Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

三浦時連

三浦 時連(みうら ときつら、1210年頃?~1260年頃?)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将、御家人三浦(佐原)盛連の子。母は三浦義村の娘・矢部禅尼

通称および官途は 六郎、兵衛尉、左衛門尉。法名観蓮(かんれん)。歴史研究上では、佐原時連横須賀時連新宮時連と呼ばれることもある。

 

▲【系図A】『尊卑分脈』三浦氏系図*1

 

諸家の系図を集成し、南北朝時代から室町時代初期に成立した『尊卑分脈』では、平氏についての記載が簡素であるが、一部の掲載に留まっている三浦氏佐原流で時連―頼連父子が載せられており、主要な家系と認知されていたことが窺える。

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こちら▲の記事でも紹介の通り、時連は、矢部禅尼法名:禅阿)北条泰時と離縁し、佐原盛連に再嫁した後に産んだ息子の一人であるが、禅阿が泰時との間に産んだ長男・北条時氏建仁3(1203)年生まれである*2から、時連の生年は確実に同年より後となる。

そして史料における初出は『吾妻鏡』文暦元(1234)年正月1日条佐原四郎(=光連) 六郎兵衛尉」であり*3、当時兵衛尉に任官済みであったことが分かる。

その後、宝治2(1248)年正月3日条まで「遠江六郎兵衛尉」等と書かれていたものが、次いで建長2(1250)年正月1日条では「遠江次郎左衛門尉光盛 同六郎左衛門尉時連」と官職の表記が変化しており、1248~49年の間に左衛門尉に昇進したことが確認できる。尚、「遠江」というのは、光盛や時連の父である盛連遠江守であったことにより付されたものである。

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ここで外祖父・三浦義村の例が参考になるだろう。建久元(1190)年に(右)兵衛尉、建暦元(1211)年に左衛門尉となっている*4が、近年の研究で義村の生年が仁安3(1168)年と推定されており*5、これに従うと各々23歳、44歳での任官であったことになる。

時連についても、1210年頃の生まれとすれば、初見時20代、左衛門尉任官時40代であったことになる。よって、生年は1210年頃であったと見なして良いと思う

『会津資料叢書』巻6所収「葦名系図」を見ると、同母の長兄・光盛について文永5(1268)年に65歳で卒去した旨の記載があり*6、逆算すると1204年生まれとなる。時氏を産んだ翌年に矢部禅尼が光盛を生んだことになるが、『佐野本三浦系図』では1206年生まれの三浦泰村継室(泰時女子)の母親であったと伝えており、整合性に疑問が残る。ただ、この光盛より少し後に生まれたという一つの証左にはなるので、参考までに掲げておく。

 

元服は通常10代前半で行われることが多く、「」の名は元仁元(1224)年から3代執権となった*7を烏帽子親とし、その偏諱を受けたものと推測される。前述の通り、泰時は実母の元夫にあたるから、この縁で烏帽子親子関係が結ばれたのであろう。

 

以後、北条氏得宗家と深く結びついており、1247年の宝治合戦では惣領の叔父・三浦泰村(義村の子)らには属さずに生き残り、康元元(1256)年11月23日条には、この日の相州(=相模守・北条時頼)出家に際し、「……遠江守光盛、法名〔※法名無記載〕三浦介盛時、法名〔※法名「浄蓮」無記載〕大夫判官時連、法名観蓮、以上三浦、各兄弟、……」もこれに追随したとある。「大夫判官」とは、検非違使庁(六位相当)でありながら五位に任ぜられた者の呼称であり*8、時連の場合はこの当時も左衛門で五位に叙せられていたためにそう呼ばれていたと考えられる。【図A】での「六郎判官」表記が正しいことも証明され、左衛門尉が出家前の最終官途であったことが分かる。

 

以後、後継者の三浦頼連が幕府に出仕しており、時連の活動は確認できないため、出家よりさほど経たない時期に亡くなったのではないかと推測される。

 

(参考ページ)

 佐原時連とは - コトバンク

 武家家伝_横須賀氏

 

脚注

【論稿】鎌倉時代における三浦氏の官職任官年齢について

 

はじめに

三浦氏(みうら-し)は、坂東八平氏の一つで、相模国三浦郡を本拠地とする武家である。鎌倉幕府初期においては執権・北条氏と並ぶ有力御家人となっていたが、1247年の宝治合戦嫡流三浦泰村らが滅ぼされて弱体化。戦後、庶流から泰村の甥(姉・矢部禅尼の子)でもある三浦盛時により「三浦介」家が再興されたが、事実上得宗被官化していて地位が下がっていたためか、盛時以降の歴代三浦介(家督)については残された史料が少なく、生没年も未詳である。

一方、左衛門尉や「○○守」などの官職を得るには、各家柄に応じてそれ相応の年齢に達していることが条件の傾向にあったことも近年明らかにされている。

 

そこで本項では、鎌倉時代初期の三浦氏一門から、生年ないしはおおよその世代が分かる人物をピックアップして、その官途や任官年齢の傾向について考察し、鎌倉時代後半の「三浦介」家歴代当主についても世代の推定を試みたいと思う。

 

三浦義村の子息の官職歴

鎌倉時代初期において、三浦氏嫡流家の政治的地位を向上させ、三浦一族の最盛期を築いたのが三浦義村である*1。義村については次節で触れるが、その息子たちについては概ね生年や世代が判明している。それぞれについて官途と任官年齢を調べていくこととする。

 

三浦泰村

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次男・泰村元久元(1204)年生まれで、嘉禎3(1237)年までは無官で「(三浦)駿河次郎*2」などと呼ばれていたが、同年34歳にして掃部権助→式部少丞→若狭守と一気に昇進しており*3、『吾妻鏡』でもその時期に対応して表記が変化している*4

時期

表記

(下記以前)

駿河次郎泰村

嘉禎3(1237)年10月19日条~

駿河掃部権助泰村

同年11月17日条~

駿河式部丞泰村

暦仁元(1238)年正月1日条~

若狭守泰村

仁治元(1240)年4月12日条~

若狭前司泰村

 

三浦光村

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3男・光村元久2(1205)年生まれで泰村の1歳下の弟である。初任官は27歳となった寛喜3(1231)年に左衛門尉となった時で泰村より早かった。嘉禎3年に33歳で壱岐守、翌年には河内守、仁治2(1241)年37歳の時に能登守を歴任している*5。3代執権・北条泰時と烏帽子親子関係にあった兄・泰村と異なり、光村は幼少の頃からの4代将軍・九条頼経に近侍していたため、兄よりも早く官職に推挙されていたのかもしれない。

時期

主な表記

(下記以前)

駒若丸、駿河三郎光村

寛喜3(1231)年4月29日条~

新判官光村

同年8月15日条~

駿河判官光村

嘉禎元(1235)年2月9日条~

駿河大夫判官*6

嘉禎3(1237)年3月8日条~

壱岐守光村

暦仁元(1238)年6月5日条~

河内守光村

仁治2(1241)年8月25日条~

能登守光村

寛元元(1243)年8月16日条~

能登前司光村

 

三浦家村

家村(いえむら)以下、泰村・光村の弟たちについては基本的に生年不詳だが、1206年以後であることは確実となるので、おおよその年齢は予測できよう。

『吾妻鏡』嘉禎3年8月15日条に「(駿河前司〔=義村、以下同じ〕四男家村」と書かれ、輩行順通りの「四郎」を称した。『吾妻鏡』での表記の変化は次の通りである。

時期

主な表記

貞応元(1222)年7月3日条~

駿河四郎家村

貞永元(1232)年7月15日条~

駿河四郎左衛門尉*7

仁治2(1241)年8月11日条~

駿河四郎 式部丞 家村

同年8月25日条~

駿河式部大夫家村

前述のように、左衛門尉は三兄・光村が27歳で、式部丞は次兄・泰村が34歳で得た官職である。家村が左衛門尉となってから、式部丞に昇進するまで9年かかっているので、20代半ば位で左衛門尉、30代半ば程で式部丞になったと考えて良いだろう。

仮に25歳で左衛門尉、泰村と同じ34歳で式部丞になったとすると、初見時15歳というのは元服したばかりの年齢としては十分適切で、光村より後の1208年頃の生まれと推定可能である。

更に、『吾妻鏡』宝治元(1247)年6月22日条にある宝治合戦での三浦氏一門戦死者の中の「駿河式部三郎」は、「存亡不審(=行方不明)」の「駿河式部大夫家村」の息子とみられ、その通称名からして、元服済みで、若くとも10代半ばであったと考えられるから、前述の生年推定に基づいて当時40歳であった家村との年齢差の面でも問題はない。

ここで『佐野本 三浦系図』と照合すると、「三浦式部大輔〔ママ〕」と記される家村の息子・義行(母は島津忠時の娘)が恐らく「駿河式部三郎」のことで、家村の注記には、宝治合戦で敗れ鎌倉を退去した時40歳とあって*8、ここまでの考察が裏付けられよう。

 

三浦資村

資村(すけむら)は、前述の『吾妻鏡』嘉禎3年8月15日条に「(駿河前司)五男資村」とあり、家村に次ぐ男子として「五郎」を称した。

吾妻鏡』での初見は、文暦元(1234)年7月26日条「駿河五郎左衛門尉」で*9この時までの左衛門尉任官が確認できる。同年に任官したとして、当時の年齢が家村と同様に25歳であったと仮定すれば、1210年生まれと推定可能で、家村より後に生まれたことになる条件を満たす。

『佐野本 三浦系図』には宝治合戦当時38歳だったとあり*10、逆算すると1210年生まれとなって裏付けられよう。

 

三浦胤村

胤村(たねむら)の仮名は「八郎」であったが、先の『吾妻鏡』嘉禎3年8月15日条には「(駿河前司)六男胤村」とあり、資村に次ぐ男子であった可能性がある。父・義村(平六)と同じ「六郎」を避けたのかもしれない。実名の「胤」の字は、叔父(義村の弟)三浦胤義が用いた前例もあったが、共に「胤」を通字とする千葉氏から受けた可能性が考えられよう。

宝治合戦では父・兄らと異なり助命され、出家し親鸞の弟子となって明空法師になったとされ、生年は1225年であったという*11。『吾妻鏡』での表記の変化は次の通りである。

時期

表記

嘉禎3(1237)年4月22日条~

同(駿河)八郎胤村

同年6月23日条~

同(駿河)八郎左衛門尉*12

宝治元(1247)年6月22日条~

駿河八郎左衛門尉胤村 出家

同年6月28日条~

駿河八郎左衛門尉胤村入道

 

以上のデータにより、次のような傾向が読み取れる。

<三浦氏における任官年齢①>

★左衛門尉 … 25~27歳(20代半ば)

★式部丞 … 34歳(30代半ば)

★国守任官 … 33~37歳(30代半ば)

 

 

三浦義村の生年・官途について

続いて、三浦義村自身について見ていきたい。生年については不詳であるが、近年、仁安3(1168)年という推定が出されている*13

細川重男がまとめられた官職歴*14に従い、各々の任官時の年齢について算出しておこう。

初の任官として、建久元(1190)年12月の源頼朝の上洛に供奉した際に(右)兵衛尉となっており*15、前述の生年に基づくと当時23歳であったことになる。

建暦元(1211)年10月12日、左衛門尉に任官した当時は44歳であったことになる。

 

息子たちに比べ、左衛門尉任官は遅かったものの、父・三浦義澄が54歳で「三浦介」となるまで無官であった(後述参照)ことを考えると、逆に低年齢化していると言える。むしろ初任官が息子たちと同様20代であったことに着目すべきであろう。

義村は承久元(1219)年、52歳で駿河守となったのに対し、前述の通り泰村、光村は30代半ばで国守任官を果たしており、やはりこちらも時代が下るにつれ、低年齢化の傾向にあったことが分かる。

 

 

佐原三兄弟

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こちら▲の記事で紹介の通り、義村の娘・矢部禅尼は最初北条泰時に嫁ぎ、建仁3(1203)年に長男・北条時氏を生んだ*16が、理由は不明ながら後に離縁し、義村の従弟・三浦(佐原)盛連に再嫁し、光盛・盛時・時連を生んだ。

このうち、末子・時連の史料上での初見は『吾妻鏡』文暦元(1234)年正月1日条佐原四郎(=光連) 同六郎兵衛尉」であり*17、当時兵衛尉に任官済みであったことが分かるが、前述の義村と同様に23歳程度に達していたとすれば、遅くとも1210年頃には生まれていたと推測可能である。よって、兄の光盛・盛時の生年も1204~1210年の間と推定できる。

この推定に従うと、『吾妻鏡』での光盛の初見は嘉禎3(1237)年正月1日条「佐原新左衛門尉(同年6月23日条に「佐原新左衛門尉光盛」とあり)*18、盛時の初見は貞永元(1232)年正月1日条「佐原五郎左衛門尉(次いで同年8月15日条の「(廷尉)盛時」も三浦盛時に比定される)*19であり、各々20代半ばには達しながら左衛門尉に任官済みであったことが分かる。

よって、前述の任官年齢はこの三兄弟ほか佐原氏(佐原流三浦氏)にも適用されると判断できよう。

 

 

"三浦介" について

義村の父・三浦義澄については、1127年生まれで*20、『吾妻鏡』のスタートである治承4(1180)年においては、初め「三浦次郎」と表記されていたものが、同年12月20日条からは「三浦介」と変化している。当時54歳でも無官であったことになるが、同年8月26日の衣笠城合戦で義澄の父・三浦義明が戦死したのに伴って「三浦介」を継いだことが窺える。

 

そもそも「三浦介」は三浦氏宗家に世襲された武家の名誉称号であったが、義明が「三浦大介」を称したことに始まるとされ、その由来は定かではないものの、世襲の官である相模介に任じられたためではないかと考えられている*21。一説には三浦義継(義明の父)の代から称していたとも言われる*22

 

冒頭で前述の通り、三浦泰村らが滅ぼされた後、「三浦介」を称する形で三浦氏宗家を再興したのは三浦盛時である。『吾妻鏡』宝治元(1247)年11月15日条で「三浦五郎左衛門尉盛時」と書かれていたものが、同年12月29日条では「三浦介(翌宝治2年8月15日条に「三浦介盛時」とあり)と表記が変わっており、この間に "三浦介" となったことが窺える*23。前述の生年に基づくと、三浦介となった当時は30代後半~40歳位であったと推測可能である。

ちなみに、建長元(1249)年8月10日付「関東御教書」(『宇都宮文書』)*24では、宛名で「三浦介殿」と記す一方で、文中では「大介」と書いており、特に差異はなく三浦介=三浦大介であったと考えて良いだろう。

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盛時の嫡男・三浦頼盛は、恐らくは5代執権に就任したばかりの北条時頼から偏諱を受けて元服し、『吾妻鏡』ではそれより間もない初見の建長3(1251)年より「三浦介六郎」、正嘉2(1258)年からは「三浦介六郎左衛門尉」、弘長元(1261)年~同3(1263)年の間に就任して「三浦介」と表記が変化している。父・盛時との年齢差を踏まえてもやはり、左衛門尉任官時20代半ばであったと考えられる*25ので、三浦介継承当時20代後半~30歳位であったと導ける。時代が下るにつれ、任官年齢が低下するのは北条氏など他の御家人でも見られた現象で問題は無い。

その後、鎌倉時代後半の三浦氏は「頼盛時明時継高継」と続く。各々、得宗からの偏諱と、祖先を遡る形での1字とにより実名を構成している様子が窺える。

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こちら▲の記事で紹介の通り、特に三浦高継については、建武2(1335)年、足利尊氏から父の刑死に伴う相模国大介職(=三浦介)の継承を認められている*26が、1305年頃には生まれていてその任官に相応しい年齢に達していたからであろう。

各親子間の年齢差から、

三浦時明 の生年 … 1260年頃

三浦時継 の生年 … 1280年代前半

とおおよそで推定可能である。延慶2(1309)年8月24日付「将軍家政所下文」(『宇都宮文書』)の文中に「三浦介時明法師 法名道朝」とあり*27、三浦介任官前後の20代後半であった時継よりも、三浦介を継承した上で出家した時明であるのは辻褄が合っている。

元亨3(1323)年10月の故・北条貞時13年忌法要についての記録である『北條貞時十三年忌供養記』(『円覚寺文書』)を見ると、「三浦介」が「砂金五十両二文目、 銀剱一」を献上しているが、こちらは出家(入道)していないことからしても、『神奈川県史』*28での推定通り時継で間違いない。前述の推定に基づけば、この当時30代後半~40代には達していたことになり、三浦介継承後の年齢として差し支えない。建武元(1334)年4月10日「足利直義下知状」(『宇都宮文書』)には「三浦介時継法師 法名道海」と出家後の呼称で明記されている*29

 

以上より、家督継承のタイミングによって多少の変動はあるだろうが、一応以下のような傾向にあったと考えられる。

<三浦氏における任官年齢②>

★三浦介(相模大介) … 20代後半~30代

 

 

脚注

*1:三浦義村とは - コトバンク より。

*2:駿河」は父・義村が駿河守であったことに因むものである。

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その113-三浦泰村 | 日本中世史を楽しむ♪

*4:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』〈第5刷〉(吉川弘文館、1992年)P.330「泰村 三浦」の項。

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その114-三浦光村 | 日本中世史を楽しむ♪

*6:同年6月29日条に「駿河大夫判官光村」とあり。

*7:嘉禎元年6月29日条に「駿河四郎左衛門尉家村」とあり。

*8:『大日本史料』5-22 P.136

*9:吾妻鏡人名索引』P.183~184「資村 三浦」の項より。『吾妻鏡』嘉禎3年4月22日条に「駿河五郎左衛門尉資村」とあり、三浦資村に比定される。

*10:『大日本史料』5-22 P.137

*11:ColBase(国立博物館所蔵品統合検索システム)―「明空法師像」のページ明空法師像 - 文化遺産オンライン三浦胤村 - Wikipedia

*12:暦仁元(1238)年6月5日条に「同(駿河)八郎左衛門尉胤村」とあり、三浦胤村に比定される。

*13:高橋秀樹 『三浦一族の研究』(吉川弘文館、2016年)P. 185。

*14:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その112-三浦義村 | 日本中世史を楽しむ♪

*15:吾妻鏡』同年12月11日条(→『大日本史料』4-3 P.323)。『関東評定衆伝』では同月14日と記載される。

*16:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その4-北条時氏 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*17:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.216「時連 佐原(三浦)」の項 より。

*18:吾妻鏡人名索引』P.132「光盛 佐原(三浦)」の項 より。

*19:吾妻鏡人名索引』P.294「盛時 三浦」の項 より。

*20:三浦義澄(みうらよしずみ)とは - コトバンク より。

*21:三浦一族の主な人物・系図|横須賀市三浦氏とは - コトバンク

*22:三浦義継とは - コトバンク より。

*23:千葉氏の一族 #三浦盛時 より。

*24:『大日本史料』5-31 P.101千葉氏の一族 #三浦盛時。『鎌倉遺文』第10巻7106号。

*25:時連の子で頼盛の従兄弟にあたる三浦頼連についても、やはり時頼の加冠により元服したとみられるが、それからさほど経たない建長2(1250)年1月16日条で「遠江十郎頼連」として初めて登場し、同6(1254)年8月15日条までその呼称であったものが、同8(1256)年正月1日条からは「遠江十郎左衛門尉頼連」・「三浦遠江十郎左衛門尉頼連」等と表記が変化している。従って1254~55年の間に左衛門尉任官を果たしたことが分かるが、頼盛の任官時期とほぼ同じくらいのタイミングとなる。よって頼盛・頼連はともに時頼の烏帽子子で、20代半ばで左衛門尉に任官したと考えて良いだろう。

*26:『大日本史料』6-2 P.609

*27:千葉氏の一族 #三浦介時明

*28:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.709。

*29:千葉氏の一族 #三浦介時継

三浦朝村

三浦 朝村(みうら ともむら、1188年頃?~1224年?)は、鎌倉時代初期の武将、御家人。通称および官途は 小太郎、太郎、兵衛尉。三浦義村の長男。母は土肥遠平の娘で、三浦泰村駿河次郎三浦光村駿河三郎)は同母弟であると伝わる(『佐野本 三浦系図』:以下「佐野本系図」と略記)*1

 

三浦氏では、三浦為継(為次)の子・継(義次)が 源家から偏諱の「義」字を賜ったらしく*2、以来「」が通字として、嫡流明―澄―村)をはじめ、和田盛、佐原連などの一族出身者にまで広く用いられていた。

しかし、系図類によれば、三浦義村の子は、朝村・泰村・光村 など、ほぼ全員が「村」字を継承したことが確認される。

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▲【図A】三浦氏略系図武家家伝_三浦氏に掲載の「三浦氏系図_バージョン1」を基に作成)

 

特にについては、「佐野本系図」での注記に「元服之時北条加冠、授諱字」と書かれており*3、「」の偏諱を受けたことが示唆されている。よって、泰村の兄・朝村の「朝」についても烏帽子親からの一字拝領であった可能性を考えたく、以下考察してみたいと思う。

 

父・義村の生年については仁安3(1168)年と推定されている*4ので、親子の年齢差を考慮すれば、朝村の生年は早くとも1188年前後と判断できる。そして、弟・泰村が生まれた1204年*5より前と範囲を絞ることも可能である。

史料上で初めて朝村の活動が見られるのは、『吾妻鏡』建保7(1219)年正月27日条で、3代将軍・源実朝鶴岡八幡宮での右大臣拝賀式の際(同日の帰途、実朝は甥の公暁に暗殺される)に、三浦一族では「三浦小大〔太〕郎朝村」のみが随兵として加わっている。

以後『吾妻鏡人名索引』では次の箇所で登場とする*6

【表B】

月日

表記

貞応元(1222)

正月1日

駿河小太郎兵衛尉朝村

3月8日

駿河太郎兵衛尉朝村

【表C】

嘉禎3(1237)

正月1日

駿河太郎

6月23日

駿河五郎左衛門尉(=資村)

同八郎左衛門尉(=胤村)

同大〔太〕

 

【表B】は、「朝村」の実名があり、「駿河」は父・義村が駿河守であったことに因むと考えられるので、三浦朝村で間違いないだろう。一方、【表C】の「駿河太郎」については朝村に比定すべきでないと思う(これについては後述参照)

【表B】から、朝村が1219~1222年の間に兵衛尉任官を果たしたことが窺える。父・義村は建久元(1190)年の源頼朝の上洛に供奉した際に(右)兵衛尉任官を果たしており*7、前述の生年に基づくと当時23歳であったことになる。

よって、朝村も兵衛尉任官時には、若くとも同じくらいの年齢には達していたと考えられ、逆算すると生年は1197~1200年の間と推定可能である。

 

しかし、【表B】から僅か2年後、『吾妻鏡』貞応3(1224=元仁元)年正月1日条の垸飯に参加した三浦氏一族を見ると、4代将軍・九条頼経に献上する「一御馬」を「三浦駿河次郎泰村 同四郎家村」、「五御馬」を「三浦三郎光村 同又太郎氏村」が引いており、息子の三浦氏村(うじむら)が前年までに元服を済ませていたことが分かると同時に、朝村から氏村への当主交代があったことが推測される。「佐野本系図」には朝村について「元仁年中先又〔父」とあり、朝村は恐らく病に臥せっていたのではないか、何かしらの事情で隠退し、間もなく父の義村に先立って亡くなったと見受けられる。

そして氏村の「氏」は北条時氏(泰時の長男)か、その烏帽子親と推測される足利義氏*8からの一字拝領が考えられる。よって氏村は叔父である泰村や光村より若干年少でほぼ同世代であったと考えられ、遅くとも1210年頃までに生まれていたと推測される。

従って、氏村の父である朝村は、源千幡源実朝が3代将軍に就任し「実朝」と名乗った建仁3(1203)年の段階では元服適齢期を超えており、源頼朝の将軍在任期間(1192~1199年)元服したと考えるのが妥当ではないかと思われる。村の「」字は頼からの偏諱とされる*9が、筆者も同意であり、生年はもう少し遡らせても良いかと思う。朝村と泰村以下の弟たちは年齢の離れた兄弟だったのであろう。

和田義盛(1147-)と三浦義村(1168頃-)は従兄弟関係にありながら、20歳ほど年齢が離れていたと考えられている。父同士(杉本義宗三浦義澄)は1歳違いの兄弟であったが、義澄・義村父子が年齢の離れた親子であった影響によるもので、義村はむしろ義盛の嫡男・常盛(1172-)と近い世代であった。そして、常盛の嫡男・朝盛は実朝より前に元服済みで頼朝の烏帽子子であったと考えられるから、義村の長男・朝村も同様であった可能性が高い。和田朝盛・三浦朝村への一字拝領は、鎌倉幕府将軍となった頼朝に服従する意志を見せる一環としてなされたと見受けられる。

 

尚「佐野本系図」を見ると、朝村には氏村の他にも、三浦朝氏三浦員村という男子がいて、宝治合戦で兄・氏村と共に自害したという*10『吾妻鏡』宝治元(1247)年6月22日条にある宝治合戦での三浦氏一門戦死者の中で「三浦又太郎式部大夫氏村」の次に書かれている「同次郎 同三郎 三浦三郎員村〔三郎と三郎員村は重複?〕」に比定されるだろう。同系図によれば、氏村の子・忠氏も殉じたらしいが、その息子たちや、朝氏・員村各々の遺児らが、朝村以来の血脈を伝えたようである。

 <参考:伊東・土肥・三浦 3氏関係図>

 土肥実平――遠平

        ||――女子

      ┌―女子   ||―――朝村―氏村

 伊東祐親―― 女子  ||  |―泰村 ―景村

        ||――義村 └―光村

 三浦義明――義澄

 

備考

最後に、前述【表C】の「駿河太郎」について考察を述べておきたい。この人物は「駿河五郎左衛門尉 同八郎左衛門尉」の後に「同太郎」として書かれている。『吾妻鏡』での前後記事より、駿河五郎左衛門尉は三浦資村駿河八郎左衛門尉は三浦胤村と分かり、いずれも義村の息子(朝村・家村らの弟)であるが、ここは兄弟順に従って書かれているから、「駿河太郎」が朝村を指すならば、彼らの長兄として先に書かれているべきであろう。ところがそうではないので、義村の息子ではないと考えるのが筋である。

前述の宝治元年6月22日条にも名前の記載があるが、最終的に若狭守に昇進した泰村の息子 "若狭次郎" 景村 三浦景村ではあり得ず、【表C】当時は壱岐守であった光村(のち河内守・能登守)の息子・駒王丸も幼少で、"駿河" が付されることは絶対にない。

よって、三浦氏一門で「駿河」が付される可能性があるのは、最終官途として国守に任官しなかった、家村以下の弟たち、もしくは朝村いずれかの系統に限られる。【表C】当時元服済みであったことを考えると、朝村の系統と見なすのが妥当ではないか。

朝村の子・氏村は『吾妻鏡』嘉禎元(1235)年6月29日条から左衛門尉に任官済みで「三浦又太郎左衛門尉氏村」と書かれるようになっており、【表C】では「駿河太郎」でなく「駿河太郎左衛門尉」と表記するのが妥当だと思われるので、その息子・忠氏あたりを指す可能性があるが、根拠に弱く、ここではその判断を保留しておきたい。

 

脚注

*1:『大日本史料』5-22 P.133

*2:鈴木かほる 『相模三浦一族とその周辺史: その発祥から江戸期まで』(新人物往来社、2007年)P.40。典拠は文化9(1812)年刊『三浦古尋録』所載の「三浦家系図」。

*3:『大日本史料』5-22 P.134

*4:高橋秀樹 『三浦一族の研究』(吉川弘文館、2016年)P. 185。

*5:三浦泰村 - Henkipedia 参照。

*6:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』〈第5刷〉(吉川弘文館、1992年)P.367~368「朝村 三浦」の項 より。

*7:吾妻鏡』同年12月11日条(→『大日本史料』4-3 P.323)。『関東評定衆伝』では同月14日と記載される(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その112-三浦義村 | 日本中世史を楽しむ♪)。

*8:今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.42。

*9:千葉氏の一族 #三浦泰村三浦氏またさらに続き | 芳村直樹のブログ

*10:『大日本史料』5-22 P.133

和田朝盛

和田 朝盛(わだ とももり、生年不詳(1180年代後半?)~1227年?)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将・御家人和田常盛(つねもり)の嫡男で、和田義盛の孫にあたる。通称は三郎、新兵衛尉。法名は実阿弥陀仏、高円坊。

 

 

はじめに:和田氏における元服および昇進の年齢について

吾妻鏡』には、建暦3(1213)年5月の和田合戦で滅ぼされた時、祖父・義盛は67歳、父・常盛は42歳(いずれも数え年、以下同様)であったとの記録があり*1、逆算すると各々1147年(義盛)、1172年(常盛)生まれであったことが分かる。また、同記事には常盛の弟たちについての記載もあり、次の通りである。

朝夷奈三郎 義秀:38歳

四郎左衛門尉 義直:37歳

五郎兵衛尉 義重:34歳

六郎兵衛尉 義信:28歳

七郎 秀盛:15歳

 

吾妻鏡』における常盛の登場箇所*2を追っていくと、建久元(1190)年11月7日条「和田小太郎(当時18歳)」が初見で、次いで正治元(1199)年10月28日条「同兵衛尉常盛(当時27歳)」からの兵衛尉在任が確認できる。兵衛尉任官時の年齢は20代半ばくらいであったと考えて良いだろう。そして、承元3(1209)年5月28日条に「和田兵衛尉常盛」とあったものが、同年11月4日条では「和田新左衛門尉常盛」と官職の表記が変化しており、38歳で左衛門尉に任官したことも窺える。尚、「」の表記は、当時同じく左衛門尉であった父・義盛*3との呼称区別のために付されたものである。ちなみに「」の名は、上総広常亡き後、房総平氏の当主となっていた千葉もしくはその近親者から1字を受けたものなのかもしれない*4

 

ちなみに、常盛の弟たちについても『吾妻鏡』を見てみると、義直は建暦元(1211)年7月8日条で「和田四郎」と書かれていたものが、同3(1213)年2月16日条では「和田四郎左衛門尉義直」となっており*5、その間に左衛門尉に任官したことが推測できる。義重義信は初見が和田合戦と同年の建暦3(1213=建保元)年で兵衛尉に任官済みであり*6、任官時期について確定は難しいが、兄・義直に先立って任官したとは考えにくいので、恐らく義直と同じく1211~1213年の間であろう。

 

以上の考察により、次のように考えられる。

 <和田氏における昇進年齢>

  10代前半:元服

 ● 20代半ば:兵衛尉

  30代後半:左衛門尉

そして、常盛の例からすると、兵衛尉から左衛門尉への昇進もあり得たと判断される。

この結論に基づいて、次節にて常盛の子・朝盛についても生年や烏帽子親を推定してみたいと思う。

 

 

和田朝盛について

さて、朝盛については、正治元(1199)年7月26日条「和田三郎朝盛」を初見として『吾妻鏡』に21回登場する*7建仁3(1203)年10月8日に鎌倉幕府第3代将軍・源千幡元服して「実朝」と命名されたが、これに先立つ同元(1201)年正月12日条にも「同三郎朝盛」の名が見られる。

すなわち、実朝より先に元服して「」を称していたことになるから、「」の字は実朝の父で初代将軍の源頼(在任:1192年~1199年)からの偏諱と見なすべきである。既に述べたように、義以来、和田氏嫡流の継承者たる常、朝……が「」を通字としたことが分かる*8。従って朝盛の元服は1199年以前で、当時は若くとも15歳ほどであったと推測できよう。

 

建暦2(1212)年2月1日条から「和田新兵衛尉朝盛」等と書かれるようになったが、翌3(1213)年4月15日に朝盛は出家してしまい*9、以後「和田新兵衛入道」等と呼ばれるようになる。「」の表記は、朝盛の任官前に兵衛尉であった父・常盛や、同職に在任であった叔父の義重・義信との区別のために付されたものと推測され、嫡流である朝盛は祖父・義盛や父・常盛が就いた左衛門尉への昇進もあり得たと思われるが、若年での出家だったのであろう、兵衛尉が朝盛の最終官途となったのである。1212年の段階で兵衛尉に任官したばかりであったことを踏まえると、この当時20代半ばの年齢であったと思われる。仮に当時、父・常盛が兵衛尉在任であった27歳であったとすると、初見の1199年当時14歳であったことになり、おおよそ辻褄が合う。この場合、逆算して1186年生まれとなるが、父・常盛との年齢差がやや近い気もするので、少し遅らせても良いのだろう。いずれにせよ、1180年代後半(1186年~1190年)の生まれであった可能性が十分に高いと思う

 

ところで、江戸時代に成立した『寛政重脩諸家譜』には、三浦駿河守義村の3男・太郎家村が安房国佐久間邑を領し、和田常盛の子・新兵衛尉朝盛を養子にした、との記述がある*10。但し『吾妻鏡』を見る限り三浦家村は父の官途にちなんで「駿河四郎家村」と呼ばれている*11から全面的に信用がし難く、同じく三浦氏一門の佐久間家村(祖父・義盛の従兄弟)の誤りとされる。そして、元久2(1205)年6月22日条の「佐久間太郎」および 承久3(1221)年5月22日条・6月14日条の「佐久満太郎」が息子・家盛のことだと考えられている*12が、義村と共に畠山重保を誅殺した「佐久間太郎」は家村に比定すべきだろう。

但し、『吾妻鏡』を見る限り、朝盛自身は明らかに嫡流の後継者として「和田」を称していて「佐久間」を名乗ったことは確かめられないので、字の共通からしても佐久間家村が養子にしたのは家盛だったのではないかと思われる。承久3年の「佐久満太郎」=家盛で正しいとすれば、1200年代初頭には生まれている筈で、父である朝盛の生年を推定する一つの根拠になると思う。

 

前述の建暦3(1213)年4月15日条(朝盛出家の記事)にもある通り、朝盛は3代将軍・源実朝の「御寵愛」を受けた近習で、実朝の学問所番の一人となったり、和歌の会の常連であったり*13と深い関係にあったようである。この二人は「朝」字を共有するが、烏帽子親子関係にあった訳ではなく、共に頼朝の1字を受けた間柄であったことになる。むしろ実朝(1192年生まれ)とは年齢が近く、気の合うところがあったのかもしれない。

建暦3年4月は祖父・義盛ら和田一族が挙兵を企てていた段階で、朝盛が出家して京都を目指したのも、主君・実朝に弓矢を向けられないという "板挟み" の状態から決したものであった。しかし、翌16日には和田一族に伝わり、18日には叔父・義直に連れ戻されて和田合戦に加わることになった。

幸い一族と運命を共にせず生き延びたが、承久の乱(1221年)"佐久満太郎" 家盛と父子分かれて後鳥羽上皇方に加わって敗れたといい、『吾妻鏡』嘉禄3(1227)年6月14日条に「和田新兵衛尉朝盛法師」が生け捕られた記事が見られる。このことは次の史料数点でも確認ができる*14

『民経記』同月8日条:「二位法印尊長。新兵衛入道□□於鷹司、油小路辺小屋武士搦取、向六波羅云々」

皇代暦』四 同月7日条:「尊長法印 并 和田新兵衛入道保名被召取了」

*『熊野早玉神社文書』所収「熊野別当代々次第」第25代別当・琳快の項にある「與承久合戦之後、依隠置二位法印・新兵衛□、此之間依不浅其罪科」の「新兵衛□〔尉か?〕」も朝盛入道のことと考えられる*15

shigeyoayumi.hatenablog.com

 

この後の動向は史料上で確認できず、間もなく没したのかもしれない。

 

(参考ページ)

 和田朝盛 - Wikipedia

 和田朝盛とは - コトバンク

 

脚注

*1:『大日本史料』4-12 P.485

*2:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』〈第5刷〉(吉川弘文館、1992年)P.256「常盛 和田」の項。

*3:吾妻鏡人名索引』P.61~63「義盛 和田」の項。

*4:野口実『中世東国武士団の研究』(高科書店、1994年)によると、和田義盛の叔父・三浦義澄の「澄」は上総常澄(広常の父)から1字を受けたものとされ、この前例に倣った可能性は否めないと思う。また、和田氏一門には和田義胤(義盛の弟)・胤定父子や和田胤長(義盛の弟・義長の子)のように、千葉氏(恐らくは常胤)に由来すると思われる「胤」字を持つものが確認でき、千葉・和田両氏間で烏帽子親子関係を重ねていたのかもしれない。

*5:吾妻鏡人名索引』P.69「義直 和田」の項。

*6:吾妻鏡人名索引』P.58「義重 和田」、P.59「義信 和田」の項。

*7:吾妻鏡人名索引』P.367「朝盛 和田」の項。

*8:これについては、義盛の庶子(末子)である秀盛も該当するので、特に嫡流のみの特権というわけでもなさそうである。その「秀」の字は三兄の義秀と何かしらの関係があるのかもしれない。ちなみに千葉常胤の孫で上総氏房総平氏)の地位を継承したとされる常秀は義秀とほぼ同世代であったとみられ(→ 千葉時秀 - Henkipedia 参照)、「秀」字を共有する間柄であったと思われるが、これについては後考を俟ちたい。

*9:『大日本史料』4-12 P.446

*10:寛政重脩諸家譜. 第3輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*11:吾妻鏡人名索引』P.28「家村 三浦」の項。

*12:吾妻鏡人名索引』P.28「家盛 佐久間」の項。

*13:和田朝盛とは - コトバンク

*14:村上光徳「慈光寺本承久記の成立年代考」(所収:『駒澤國文』第1号、駒澤大学文学部国文学研究室 編、1959年)P.49 および 第25代熊野別当 琳快:熊野別当代々次第:『紀伊続風土記』現代語訳 を参照のこと。

*15:『大日本史料』5-4 P.646熊野別当と栃木県足利市 - しげよあゆみの日記

阿野時元

阿野 時元(あの ときもと、1190年頃?~1219年)は、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の異母弟である阿野全成(1153-1203)北条時政の娘・阿波局の子。子に阿野義継(よしつぐ、又三郎)。通称は阿野三郎、阿野冠者。

 

▲【図1】『尊卑分脈』より*1

 

【図1】を見ると全成の男子のうち、北条時政の娘を母とする4男「隆元(たかもと)」の記載が見られる。通称は阿野三郎。父・全成が当初「隆超」と名乗っていたことに関係した名乗り方とみられるが、後述の【史料3】を見る限り、時政の娘を母とする全成の子は「時元」である。

【図1】を見ての通り、兄に阿野太郎(よりやす)、阿野二郎(よりたか)、僧籍に入った播磨房らいぜんがいたといい、いずれも朝の偏諱」を賜ったのかもしれないが、恐らくいずれも異母兄で、北条氏出身の母親を持つ時元が嫡男であったと考えられている。

 

▲【図2】「清和源氏系図」より

 

一方、「清和源氏系図」(【図2】)では全成の子として、播磨公頼全阿野冠者時元、阿野二郎隆光(たかみつ)が載せられている。崩し字の関係で「元」と「光」はしばしば混同・誤読されることがあるから隆光は【図1】での「隆元」と同人とみなし得るが、時元とは別人として書かれている。隆光・時元はともに「被誅(=誅殺された)」とあり、内容的には後述【史料5】にほぼ対応すると思うが、追って考察したい。

 

吾妻鏡』によると、建仁3(1203)年5月19日、2代将軍・源頼家武田信光を派遣して、対立関係にあった父(頼家にとっては叔父)全成を "謀反人" として捕縛し御所に押し込めた(全成は同月25日には常陸国に配流、6月23日に誅殺された)といい*2、この時までには生まれていたと考えて良いと思う。

また、母・阿波局は頼朝の妻・北条政子とは姉妹関係にあるが、頼朝と政子の婚姻は治承元(1177)年頃であったとされる*3。『吾妻鏡』によると、当初流人である頼朝の監視役であった父の時政がこの婚姻には大反対であったといい、また全成は同4(1180)年10月1日に兄・頼朝との対面を果たし、11月19日には武蔵国長尾寺を与えられたというから、当然全成と阿波局の婚姻もこれ以後と考えるのが自然である。

『吾妻鏡』建久3(1192)年8月9日条源実朝(幼名:千万 / 千幡)生誕の記事に乳母となった女性として「阿野上総〔ママ〕妻室阿波局」とあり、前述の全成捕縛の記事の翌日にあたる建仁3年5月20日条にも「全成……彼妾阿波局」とあって全成の妻であったことが確認できるから、1192年以前には結婚していたことが窺えよう。ちなみに、兄と姉、弟と妹同士での婚姻と考えるのが自然と思われるから、阿波局は政子の妹であった可能性が高く、生年は政子の1157年より後であったと思われる。

 

ところで、建保7(1219)年1月27日、実朝は鶴岡八幡宮での右大臣拝賀式の帰途、甥の公暁に暗殺された公暁も間もなく殺害された)が、将軍(鎌倉殿)の座を狙ったらしく、その翌月には時元ら阿野氏の挙兵があって鎮められたことが史料で確認できる*4。以下はそのうち『吾妻鏡』の関連記事を掲げておきたい。

【史料3】『吾妻鏡』建保7年2月15日条 より

……阿野冠者時元 法橋全成子。母遠江守時政女 去十一日引率多勢。搆城郭於深山。是申賜宣旨。可管領東国之由。相企云云。

 

【史料4】『吾妻鏡』建保7年2月19日条 より 

禅定二品(=政子)之仰。右京兆(=右京権大夫・北条義時被差遣金窪兵衛尉行親以下御家人等於駿河国。是為誅戮阿野冠者也。

 

【史料5】『吾妻鏡』建保7年2月22日条 より 

発遣勇士到于駿河国安野郡。攻安野次郎同三郎入道之處。防禦失利。時元并伴類皆悉敗北也。

 

【史料6】『吾妻鏡』建保7年2月23日条 より 

酉刻駿河国飛脚参着。阿野自殺之由申之。

【史料5】の「安野」は「阿野」と同音の別表記であろう。従って「安野次郎」は通称名の一致からすると【図1】での頼高、【図2】での隆光(または隆元)に比定し得る。また、「同三郎入道」については入道(出家)していることから頼全と見なすものもあるようだが、頼全は全成誅殺の影響を受けて既に故人であり、かつ「三郎」を称した形跡が確認できないことから、一応【図1】も踏まえて三郎時元と見なす方が良いのだろう。

*【図1】で時元の子・義継の注記に「又三郎」とあることから、父の時元も仮名が「三郎」であったと考えて良いと思われる。

但し【史料3】・【史料4】で「阿野冠者」と呼ばれていることから時元が出家していた可能性はほぼ皆無で、むしろ二郎 [次郎] 頼高が出家して「隆光(りゅうこう)」或いは「隆元(りゅうげん)」と号していた可能性を考えても良いのではないかと思う。すなわち【史料5】は「攻安野三郎同次郎入道之處。」とするのが実は正しく、筆頭に掲げられた三郎が中心人物とされて、直後に「時元 并びに伴類」と書かれたのではないかと考えられるのである。

いずれにせよ【史料6】での「阿野自殺」は時元・頼高(隆光)を含む阿野氏一族を指すと思われるが、【図1】を考慮すると時元は挙兵もできて、かつ、子・義継を生んでもらえるような年齢、若くとも20代には達していたことが推測できるのである。

 

ここで「」の名に着目すると、「」は特に源氏にはゆかりはなく、むしろ母方・北条氏の通字である。恐らく外祖父・北条からの偏諱なのではないかと思われ、時政の執権在任期間(1203年~1205年)*5内の元服だったのではなかろうか。恐らくは娘(時元の母・阿波局)からの依頼で時政がその際の烏帽子親を務めた可能性は否定できない*6

よって、同期間に元服の適齢の10代前半を迎えていたとすれば、時元の生年は1190年頃とするのが妥当であろう。全成と阿波局が結婚した1180年代以後となり、十分辻褄は合うと思う。

 

▲2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では第37回より登場

 

(参考ページ)

 阿野時元 - Wikipedia

 阿野時元とは - コトバンク

 【鎌倉殿の13人】頼全のほかにもたくさん!阿野全成の息子6人兄弟を一挙紹介! | 歴史屋

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション および 黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』(吉川弘文館)P.301 も参照のこと。

*2:『大日本史料』4-7 P.835

*3:詳細は 北条政子 - Wikipedia を参照。

*4:『大日本史料』4-15 P.70

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その1-北条時政 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*6:時政が烏帽子親を務めたとの記録は2例確認できる。建久元(1190)年9月7日には曾我祐成の弟・筥王が時政の前で元服をし「時致」と名乗ったが、その実名に「時」字が与えられている様子が窺える。また、初代執権在任中の元久元(1204)年11月15日には武田信政の加冠を務めた例がある。

平賀朝雅

平賀 朝雅(ひらが ともまさ、1182年~1205年)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての鎌倉幕府御家人。父は平賀義信。母は源頼朝の乳母・比企尼三女。妻は北条時政牧の方の娘。名の表記は平賀朝政とも。

 

詳細な生涯や事績については

 平賀朝雅 - Wikipedia

 平賀朝雅とは - コトバンク

などをご参照いただければと思う。ここでは「朝雅」又は「朝政(『尊卑分脈』など)の名乗りについて述べることとする。

 

近年、山本みなみの研究*1で明かされたこととして、北酒出本「源氏系図」によれば朝雅の享年は24で、没年(1205年:『吾妻鏡』・『明月記』・『愚管抄』・『尊卑分脈』など)*2から逆算すると寿永元(1182)年生まれとなるほか、『愚管抄』によると源頼朝の猶子であったといい、『諸家系図纂』所収「吉見系図」の源範頼(頼朝の異母弟)の項には雅が頼から「」の一字を給わったという記述が見られる。

【史料A】『愚管抄』(巻第六:順徳の段)より*3

……時正〔ママ、(北条)時政〕ワカキ妻(=牧の方)ヲ設ケテ、ソレガ腹ニ子共設ケ、ムスメ多クモチタリケリ。コノ妻ハ大舎人允宗親ト云ケル者ノムスメ也。セウトゝテ大岡判官時親トテ五位尉ニナリテ有キ。其宗親頼盛入道ガモトニ多年ツカイテ(仕えて)駿河国ノ大岡ノ牧ト云所ヲシラセケリ(知/領(し)らせけり=治めた)。武者ニモアラズ、カゝル物ノ中ニカゝル果報ノ出クルフシギノ事也。其子(=北条政範ヲバ京ニノボセテ馬助ニナシナドシテ有ケル。程ナク死ニケリ。ムスメノ嫡女ニハトモマサトテ源氏ニテ有ケルハコレ義(惟義)ガ弟ニヤ。頼朝ガ猶子ト(と)キコユル(聞こゆる)。コノ友正〔ママ、朝雅〕ヲバ京ヘノボセテ院ニ参ラセテ御笠懸ノ折モ参リナンドシテツカハセケリ。……

 

【史料B】『諸家系図纂』所収「吉見系図」範頼の注記より一部抜粋*4

……比企禅尼……三女伊豆伊藤九郎祐清〔ママ〕妻也、……頼朝天下安治之後、聟三人之内、伊藤助清〔ママ〕平家討死、其妻頼朝之一門平賀義信給ハル、其腹之子朝雅頼朝一字給北条時政聟トナル、……

安達盛長比企尼の長女・丹後内侍の娘が範頼の妻であった関係で、比企尼の次女・三女についての記述も書かれている。またこの注記(以下省略部分)によると、範頼が誅殺された際、比企尼が曾孫である範頼遺児2名(範円源昭)の助命嘆願を行ったといい、範円の子孫が吉見氏になったと伝える。

頼朝が征夷大将軍となった1192年頃に朝雅は元服の適齢である10代前半を迎えたことになるから、猶父である将軍・頼朝が元服時の烏帽子親を務め、「」の偏諱を与えたと考えて良いだろう。

 

尊卑分脈*5によると、朝政(朝雅)には妻の時政娘との間に嫡男の平賀朝経(四郎二郎)がいたといい、朝雅の「朝」字が子・朝経、孫・朝村と、通字として継承されたことが窺える。尚、朝村の子である貞経貞義兄弟は、得宗専制が強まる状況下で9代執権・北条貞時偏諱を受けた形跡が見られる。

 

脚注

小山貞宗

小山 貞宗(おやま さだむね、1290年頃?~没年不詳(1310年代?))は、鎌倉時代後期の武将、御家人。父は小山宗朝。子に小山政秀(藤井政秀)

 

貞宗の名は『尊卑分脈』上で確認ができる。

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▲【系図α】『尊卑分脈』小山氏系図(一部抜粋)*1

 

しかし、他の史料上では未確認であり、その事績は不詳である。

よって、小山氏の関係史料・系図から考えられることを以下に述べたい。

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まず、こちら▲の記事で紹介した、永仁2(1294)年の成立とされる白河集古苑所蔵の「結城系図」には、父・宗朝までの記載はあるものの、貞宗の記載は無い。そもそも朝が1270年前後の生まれで北条時晩年期の元服であった可能性が高く、そこから10年ほどしか経っていない永仁2年の段階で貞宗は生誕前、もしくは元服前の幼児であったことが推測できる。

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ここで「」の名に着目すると、「宗」が父から受け継いだ字であるのに対し、「」は鎌倉幕府第9代執権・北条(在職:1284年~1301年)*2偏諱を許されていることが窺える。恐らくは貞時を烏帽子親として元服し、その1字を賜ったのであろう。元服は通常10代前半で行われることが多かったから、父との年齢差も考慮して1290年頃の生まれと推定可能である。

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ちなみに、はとこにあたる小山は1282年生まれと判明しており、前述の「結城系図」に記載があることから、1294年(数え13歳)までに当時の執権である時を烏帽子親として元服を済ませていたと考えられる。

それまで「時朝宗朝」と「朝」を通字としてきたから、本当なら宗朝の子が「貞朝」と名乗る蓋然性があったと思われるが、この宗長の子・貞朝が先に元服していたので、重複を避ける意図で「貞宗」と名乗ったのであろう。

また、延元元(1336)年4月に定められた建武武者所結番の一番衆の中に「藤原政秀小山五郎左衛門尉」の名が見られる*3。【系図α】と照合すると、通称名の一致や字の逆転から貞朝の子・秀政(小山秀政)の誤記とも考えられるが、実名の一致を重視するなら、貞宗の子・政秀に比定し得る。この政秀は元服済みで左衛門尉の官途を得ており、若くとも20代であったとみられるので、1310年代前半の生まれと推定可能である。

これらの観点から言っても、貞宗1290年頃の生まれとするのが妥当であると思う。

 

貞朝については【系図α】に「為時朝子(時朝の子とす)」とあるように、時朝系小山氏に養子入りして「四郎」の仮名を継承した様子が窺える*4

 

小山氏嫡流の地位は貞朝の系統に移ることになり、子の政秀得宗からの一字拝領の対象から外れ*5、最終的には「藤井」を称して分家したようである。

鎌倉時代後期以降の史料上で「小山出羽前司」や「小山出羽入道」が散見されるため、父・宗朝は【系図α】の記載通り出羽守任官を果たしたと判断できるが、貞宗は官職歴の記載がないため、子・政秀が生まれて間もなく20代前半くらいの若さで早世したのではないかと思われる。このあたりについては新史料の発見等を俟ちたいところである。

 

脚注

*1:黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第2篇』(吉川弘文館)P.401~402。

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*3:『大日本史料』6-3 P.331

*4:紺戸淳 氏は「武家社会における加冠と一字付与の政治性について ―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.21 において、他の小山氏系図で「宗朝―貞朝」とするものがあることから「為宗朝子」の誤りではないかとされるが、いずれにせよ時朝系小山氏に養子入りしたという考察に変わりはない。

*5:政秀の名は「政光朝政―政義(のちの朝長)」間の通字「政」と、藤原秀郷に由来と思しき「秀」の、共に先祖に因む2文字を組み合わせたものと見受けられる。元服も小山氏一門内で執り行われたと思われる。