Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

毛利貞親

毛利 貞親(もうり さだちか、1280年頃?~1351年)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将、御家人。安芸毛利氏。父は毛利時親

 

 

生年と烏帽子親の推定

【史料A】建武3(1336)年正月30日付「毛利貞親自筆譲状」(『毛利家文書』)*1

譲与安芸国吉田郷者、自祖父寂佛(=経光、後述参照)之手、亡母 亀谷局 譲与、文永之譲状、同副状等在之、仍貞親所譲給也、然者、先吉田郷計師親譲給者也、不可有他妨、有限年貢等可令進済、仍譲状如件、

  建武三年正月晦日  貞親(花押)

史料中の「(もろちか)」は高尾張守、のち越後守)の加冠により元服した貞親の孫・毛利元春の初名である*2。すなわち、この史料は貞親が孫・毛利師親(元春)に安芸国吉田郷を譲るとしたものである。師親はこの2年前に13歳で元服したばかりであり*3、祖父―孫の年齢差を考えれば【史料A】当時貞親は50代半ば以上であったと推測可能である。従って、逆算すると貞親の生年はおよそ1280年頃より前であったと考えられよう。

 

ここで次の史料も確認しておきたい。 

【史料B】文永7(1270)年7月15日付「毛利寂仏(経光)譲状写」(『毛利家文書』)*4

  沙弥(=経光) 在判

ゆつりわたす所りやう(所領)の事、あきの国よしたの庄安芸国吉田庄)、ゑちこのくにさハしのしやう越後国佐橋庄)南條の地とふしき(地頭職)等ハ、寂佛(=経光)さうてん相伝の所りやう也、しかる(然る)四郎時親、ゆつりわたす所也、この状まかせて、永代ちきやうすへし(知行すべし)、仍ゆつり状如件、

  文永七年七月十五日

この史料における「寂仏」は、前掲【史料A】で貞親自らが「祖父寂仏」と記していることから、『江氏系譜』や『系図纂要』において「入道寂仏」と注記される毛利経光*5に比定される。すなわち、この【史料B】は経光入道寂仏が息子の時親に、相伝の所領として安芸国吉田荘と、越後国佐橋荘南条の地頭職を譲るとしたものである*6。この時、父・時親は「四郎」と名乗るのみであったことが分かるが、元服からさほど経っておらず無官であったためであろう。よって文永7年当時、時親は20歳行くか行かないかの若さであったと推測され、貞親はまだ生まれていなかったと考えられるので、毛利貞親の生年は1280年頃とするのが妥当と思われる。

」の名乗りに着目すると、「親」が父・時親から継いだものであるから、わざわざ上(1文字目)に置いている「」が烏帽子親からの偏諱と判断される。これは、弘安7(1284)年4月に得宗家督および9代執権となった北条(1301年まで執権在職、1311年逝去)*7からの一字拝領に間違いなかろう。

 

 

南北朝時代における貞親

貞親については【史料A】以外にあまり史料が残されておらず、鎌倉時代における活動内容は不明である。鎌倉幕府滅亡後の動向については、『尊卑分脈』のほか、「毛利元春自筆事書案」の中に記載が見られる。以下、貞親に関するものをピックアップしてご紹介したいと思う。

冒頭系図・右近大夫貞親の注記:母長崎泰綱女号亀谷□〔局〕、為宮方籠山門建武〔三〕出家遁世、「歓〔観〕応二死去」*8

「一.元弘一統御代之時、建武元年元春祖父右近□□〔大夫〕貞親、於越後国、阿曽宮同心申御謀叛之由、就有其聞、蒙勅感〔勅勘〕、惣領長井右馬助(=高冬)被預置畢、」*9

「一.此刻(=建武三年)、元春祖父右近大夫貞親、為 宮方、供□〔奉〕山門先皇(=後醍醐天皇御臨幸之時、出家仕 法名号朗乗*10

「一.宮内少輔入道、近江守、上総介等申本領之間事、祖父右近大夫貞親 法名朗乗 建武三年十一月出家遁世仕、……(以下略)」*11

「一.了禅(=毛利時親譲状等執筆毛利左近蔵人、後ニハ甲斐守法名寂雲(=毛利経親)、了禅カヲイ(了禅が甥)也、彼仁ヲチ(伯父)ノ帯譲、彼跡于今居住佐橋、内状一通他筆、其謂ハ、祖父右近大夫 法名朗乗 令同心、山門ニ籠之間也、遁世以後了禅方出之間、元春帯譲状、雖為後日書之、永和二五書之、*12

鎌倉幕府滅亡後の建武元(1334)年に越後国に於いて「阿曽阿蘇宮」*13と謀叛を企てたとの伝聞があったことにより、勅勘を蒙った貞親は大江氏一門の惣領であった長井高冬(挙冬)の許へ預けられ、同3年11月には「出家遁世」したという*14。但し、拘束された後に死罪となっていないことや、父・時親および息子・親茂に影響が及んでいないことから、実際には謀叛を企てたのではなく、全国各地で北条氏の残党の反乱が起きていたこの頃において、得宗被官・長崎氏出身の母を持つ貞親にも "同心した" との風聞が生まれたのではないかとされている*15

事実上、孫・師親(元春)が父・時親の後継者となっており、貞親はこの時の出家を以って隠退したものとみられるが、前述の通り、観応2(1351)年正月までは存命であったようである。 

 

(参考ページ)

 毛利貞親 - Wikipedia

 毛利貞親

 柏崎通信 『中鯖石村誌』第六章「沿革」続き

 

脚注

*1:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 P.3 四号『大日本史料』6-3 P.46

*2:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.19)『尊卑分脈』

*3:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.23)

*4:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 P.2 二号『編年史料』亀山天皇紀・文永7年7月~8月 P.3。『鎌倉遺文』第14巻10647号。

*5:『大日本史料』5-22 P.156『編年史料』亀山天皇紀・文永7年7月~8月 P.3

*6:史料綜覧. 巻5 - 国立国会図書館デジタルコレクション毛利時親(もうり ときちか)とは - コトバンク毛利経光(もうり つねみつ)とは - コトバンク

*7:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。

*8:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.18)

*9:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.19)

*10:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.20)

*11:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.22)

*12:『大日本古文書』家わけ第八 毛利家文書之一 一五号(P.34)

*13:この「阿曽宮」が何者なのかについては詳細が明らかになっていないが、一説には後醍醐天皇の皇子・懐良親王ではないかとされる(→ 南北朝列伝 ー 懐良親王)。

*14:この表現については、平雅行「出家入道と中世社会」(所収:『大阪大学大学院文学研究科紀要』第53号、2013年)P.3 ほかを参照のこと。

*15:毛利貞親 より。

狩野時親

狩野 時親(かのう ときちか、生没年未詳)は、鎌倉時代中・後期の武士、御家人

通称は六郎左衛門尉、狩野介。

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▲【図A】今野慶信作成による狩野氏の略系図*1

 

近年、今野氏が「南家伊東氏藤原姓大系図*2の中の伊東氏以外の部分について、他史料との照合によりその記載に信憑性があることを紹介された。

上図はそのうち狩野氏についてまとめられたものであるが、工藤(狩野)茂光の子・五郎親光の系統についても(家光を経た)「光―親―親」に歴代得宗頼―宗―時)の偏諱を受けた痕跡が見られることから、事実上得宗被官化し、伊豆国から移り駿河国安倍郡を本拠として「狩野介」の称号を復活させたと説かれている*3。 

 

【史料B】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*4

{花押:北条貞時円覚寺毎月四日大斎結番事

(前略)

十 番
  長崎左衛門尉(盛宗?)  尾藤六郎左衛門尉(頼氏か)
  長崎後家       権医博士
  狩野介        尾張権守
  矢野民部大夫(倫綱?)  粟飯原右衛門四郎

(以下略)

 

 右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、

 

  徳治二年五月 日

この史料は、鎌倉円覚寺で毎月四日に行われていた「大斎(北条時宗忌日*5)」の結番を定めたものであり、今野氏は10番の一人「狩野介」を時親に比定されている*6

 

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【図A】で「狩野介」と注記されるのは時親・貞親の2代のみであるが、上記記事▲で紹介している通り、嫡男・貞親については正和元(1312)年の段階でまだ「狩野六郎左衛門尉」と名乗っていたことが、同年7月24日付「狩野貞親和与状案」(『摂津満願寺文書』)*7で明らかとなっているから、前述の今野氏の説は正しいと判断できよう。 

 

脚注

*1:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.119。

*2:飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』第三輯(宮崎県立図書館、1977 年)P.67。

*3:注1前掲今野氏論文 P.118~119。

*4:『鎌倉遺文』第30巻22978号。

*5:時宗の命日は弘安7(1284)年4月4日(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照)。

*6:注1前掲今野氏論文 P.118。

*7:『鎌倉遺文』第32巻24626号。

狩野貞親

狩野 貞親(かのう さだちか、1280年代?~没年不詳(1333年以後))は、鎌倉時代後期の武士、伊豆・駿河国御家人。通称は六郎左衛門尉、狩野介、狩野介入道。

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▲【図A】今野慶信作成による狩野氏の略系図*1

 

近年、今野氏が「南家伊東氏藤原姓大系図*2の中の伊東氏以外の部分について、他史料との照合によりその記載に信憑性があることを紹介された。

上図はそのうち狩野氏についてまとめられたものであるが、工藤(狩野)茂光の子・五郎親光の系統についても(家光を経た)「光―親―親」に歴代得宗頼―宗―時)の偏諱を受けた痕跡が見られることから、事実上得宗被官化し、伊豆国から移り駿河国安倍郡を本拠として「狩野介」の称号を復活させたと説かれている*3

 

狩野貞親については、次の史料で実在が確認できる*4

【史料B】正和元(1312)年7月28日付「狩野貞親和与状案」(『萩藩閥閲録』巻121「周布吉兵衛」所収)*5

越生七郎光氏狩野六郎左衛門尉貞親而令相替所領石見国加志岐波別府伴三郎実保跡五分一事

越生七郎光氏所領武蔵国越生郷内岡崎村田畠・在家等、指令相替処也、仍坪付在名有之、然者、貞親所領加志岐波別府五分一、可被知行者也、如此相互永代令契約之上者、守此状、可知行之状如件、

  正和元年七月廿八日 左衛門尉貞親

建治元(1275)年、石見国御家人・伴実長(有富実長)の所領=同国那賀郡加志岐別府(有福)が分割相続されたが、このうち伴実保(有富実保)の旧領は幕府に一旦没収された上で貞親の手に渡っていた。やがてもう一方の後家・庶子分にも介入したため、伴氏側との間で訴訟が起きたにもかかわらず、貞親は加志岐別府を越生光氏の所領=武蔵国岡崎村と交換したのであった。図式化すると次の通りである。 

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▲【図C】狩野貞親をめぐる所領問題

 

(参考ページ)

井上寛司「中世の江津と都野氏」(所収:『山陰地域研究』第3号、1987年)P.7・P.18

原慶三「益田氏系図の研究 ー中世前期益田氏の実像を求めてー」(所収:『東京大学史料編纂所研究紀要』第23号、2013年)P.34

西村安博「論説 鎌倉幕府の裁判における和与状と和与認可裁許状について ー対象史料の整理を中心にー」(所収:『法政理論』第32巻第1号、1999年)P.24

都野氏と都野郷

解説ページ:越生郷(中世) ー『角川地名大辞典』

 
ここで着目したいのがその名乗りであるが、まだ左衛門尉在任であった様子が窺える。すなわち、父・時親がまだ存命で "狩野介" を継承していなかったことになる。左衛門尉任官に相応の年齢を考えるとこの時20~30代であったとみなすのが良いと思われるので、生年は1280~1290年代と推定できよう。

前述の通り「」の実名は北条偏諱を受けたものとみられるが、【史料B】の前年まで存命であった貞時からその1字を許されていたことになる。前述の生年に基づけば、元服の時期は正安3(1301)年8月までの第9代執権在任期間*6内であった可能性が高く、貞時の加冠を受けたものと判断される。  

 

貞時との関係を窺わせる活動として、『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』)によると、元亨3(1323)年10月27日の貞時13年忌供養において「狩野介」が「銭三十貫文」を進上している*7が、これを貞親に比定する今野氏の説*8に同意である。この時までに父・時親の河内守昇進に伴い狩野介を譲られていたのであろう。

 

その後、鎌倉時代末期には後醍醐天皇方に対する幕府軍のリスト中に「狩野介入道」の名が確認できる(下記【史料D】)が、今野氏の仰る通りこれも貞親であろう。時期的に考えると、正中3(1326=嘉暦元)年3月の14代執権・北条高時の出家に追随した可能性が考えられる。尚、同じ軍勢には同族とみられる「狩野彦七左衛門尉」も属して参戦している。

 

【史料D】元弘元(1331)年10月15日付「関東楠木城発向軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』)*9

楠木城
一手東 自宇治至于大和道
 陸奥大仏貞直       河越参河入道貞重
 小山判官高朝       佐々木近江入道(貞氏)
 佐々木備中前司(大原時重)   千葉太郎胤貞
 武田三郎(政義)       小笠原彦五郎貞宗
 諏訪祝(時継?)         高坂出羽権守(信重)
 島津上総入道(貞久)     長崎四郎左衛門尉(高貞)
 大和弥六左衛門尉(宇都宮高房)  安保左衛門入道(道堪)
 加地左衛門入道(家貞)     吉野執行

一手北 自八幡于佐良□路
 武蔵右馬助(金沢貞冬)      駿河八郎
 千葉介貞胤          長沼駿河権守(宗親)
 小田人々(高知?)          佐々木源太左衛門尉(加地時秀)
 伊東大和入道祐宗       宇佐美摂津前司貞祐
 薩摩常陸前司(伊東祐光カ)    □野二郎左衛門尉
 湯浅人々           和泉国軍勢

一手南西 自山崎至天王寺大
 江馬越前入道(時見?)        遠江前司
 武田伊豆守(信宗?)      三浦若狭判官(時明)
 渋谷遠江権守(重光?)      狩野彦七左衛門尉
 狩野介入道           信濃国軍勢

一手 伊賀路
 足利治部大夫高氏      結城七郎左衛門尉(朝高)
 加藤丹後入道        加藤左衛門尉
 勝間田彦太郎入道      美濃軍勢
 尾張軍勢

 同十五日  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参
 同十六日
 中村弥二郎 自関東帰参
 

(* http://chibasi.net/kyushu11.htm より引用。( )は人物比定。)

 

その裏付けとして、鎌倉幕府の滅亡より数年が経った、延元元(1336=建武3)年4月「武者所結番交名」(『建武記』)の三番に「狩野介 貞長」とあるのが確認できる*10が、この狩野貞長は「貞」字の共通や年代を考慮して貞親の出家に伴う後継者(嫡男)と推測される。次の得宗である高時の偏諱を受けていないのは、その出家後の元服であったためなのかもしれない。

 

 

脚注

*1:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.119。

*2:飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』第三輯(宮崎県立図書館、1977 年)P.67。

*3:注1前掲今野氏論文 P.118~119。

*4:注1前掲今野氏論文 P.118。

*5:『萩藩閥閲録』(毛利元徳氏原蔵、東京大学史料編纂所謄写本)巻121-4。『鎌倉遺文』第32巻24626号。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*7:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.709。

*8:注1前掲今野氏論文 P.119。

*9:『鎌倉遺文』第41巻32135号。群書類従. 第拾七輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照のこと。

*10:『大日本史料』6-3 P.332

戸次時親

戸次 時親(べっき/へつぎ ときちか、1258年頃?~1290年)は、鎌倉時代中・後期の武将、御家人。大友氏の一門・戸次氏の当主。

 

 

 【表1】各系図類における戸次氏嫡流の記載内容(烏帽子親に関する情報を中心に)*1

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上表に示した通り、北条を加冠役(烏帽子親)として鎌倉にて元服を遂げ、「之一字(=時の1字)」を授かったと伝える系図は複数ある。祖父・秀が北条時の娘を妻に迎え、「重」の字を共有したとみられること、時親以降も得宗を烏帽子親としたことを踏まえると、時宗偏諱を賜ったことは実際の名乗りからしても疑いは無いと思われる*2(「親」は祖父・大友親秀に由来するものであろう)

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▲【図2】『速見入江文書』所収「大友田原系図*3より:戸次氏嫡流の部分

この点について、以下史料等を交えながら考察・裏付けをしたいと思う。

 

【表1】にある通り、『系図纂要』等によると前述の重時の娘が時親の母であったらしい。従って、同じく重時の外孫である北条時宗*4とは、母親同士が姉妹となる、従兄弟の関係にあった。当時の大友氏惣領・大友頼泰の甥(【図2】)であることを踏まえても、時宗と近い世代の人物であったことは間違いないだろう。 

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弘安11(1288)年のものとされる「田中後家書状」(『肥後志賀文書』)には「へつきのまこ太郎殿」と現れ*5、【図2】と照合すれば嫡男の "孫太郎" 貞直がこの頃までに元服を済ませていたことが分かる。貞直は弘安7(1284)年4月以後に貞時の加冠を受けているはずなので、10代半ばくらいであったと思われ、父親である時親は若くとも30代半ば程度であったと考えられる。逆算すると1250年代後半の生まれと推定される。

これに従うと、通常10代前半で行う元服当時の得宗は、1263年の北条時頼逝去に伴って得宗家督を継承し、1268年から1284年に亡くなるまで執権の座にあった北条時宗*6であること確実となる。

 

さて、時親については僅かに、弘安8(1285)年9月晦日付「豊後国図田帳」(内閣文庫所蔵)に同国の戸次荘、大神荘の一部、由布院などの地頭職を務める人物として「戸次太郎時頼〔ママ〕 法名道恵」の記載が見られる*7。この部分『平林本』の図田帳では「戸次太郎時親法師 法名道恵」となっており*8、実在が認められる。

通称名に着目すると左衛門尉等に任官せず「戸次太郎」とのみ名乗ったまま出家したことが窺える。前述の生年に従えば当時は20代となるが、左衛門尉任官適齢の20代半ばを迎える前に若年ながら剃髪したことになる。元服の時期が北条時宗執権期間中であることはこの点からも裏付けられると思う。時親(道恵)は正応3(1290)年まで存命であったと伝わるが、前述の通り弘安11年からは嫡男・貞直の活動が見られ始めるので、病気等の理由であろうか、早々に家督を移譲したものと思われる。或いは、弘安7(1284)年4月の時宗逝去に伴う出家だった可能性も考えられよう。 

 

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ちなみに、大友頼泰の孫・貞宗の母は戸次時親の娘と伝わる*9が、若干年齢の間隔が短くも感じるものの、(時親や貞宗の生年を若干ずらせば)祖父―孫の年齢差としてはそれほど問題ないと思う。

 

(参考ページ)

 武家家伝_戸次氏

 戸次氏(べっきうじ)とは - コトバンク

渡辺澄夫「豊後国大野荘における在地領主制の展開 ー地頭志賀氏を中心としてー」(所収:渡辺『増訂 豊後大友氏の研究』、第一法規出版、1982年)

 

脚注

*1:筆者作成。表中の頁数は『群書系図部集 第4』におけるものとする。

*2:梅野敏明「鎌倉期由布院における戸次一族の所領獲得について」(所収:『挾間史談』 第6号、挾間史談会、2018年)P.38~39。

*3:大分県史料刊行会 編『大分県史料10』(大分県立教育研究所、1955年)P.455~456。

*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*5:『鎌倉遺文』第22巻16553号。

*6:注4同箇所。

*7:『鎌倉遺文』第20巻15701号。渡辺澄夫「二豊の荘園について(一) ―豊後国図田帳を中心として―P.55~57。

*8:『鎌倉遺文』第20巻15700号。渡辺澄夫「荘園時代の別府 ー二豊荘園の研究(二)ーP.24・P.26 註(1)。利光 としみつ 豊後国大分郡戸次郷のうち 現・大分市大字上戸次字利光 | Qミん君の日本史の森 - 楽天ブログ

*9:『大日本史料』6-24 P.522『大日本史料』6-29 P.208『朝日日本歴史人物事典』「大友貞宗」の項(執筆:福川一徳)および 古藤田太「大友氏歴代墳墓を巡る(五) ―六代大友貞宗―P.15 によれば、松野家家伝・常楽寺蔵本「大友系図」に「母戸次太郎時親女 実は大友兵庫頭平頼泰第四子也」と記載されるというが、『続群書類従』所収「大友系図」において時親の女子に「大友親言〔ママ〕妻」との記載があるのに加え、文保2(1318)年12月12日付「関東下知状」(『大友文書』、『鎌倉遺文』第35巻26888号)に「大友左近大夫将監貞宗…(略)…貞宗祖父兵庫頭頼泰法師法名道忍……」とある(→ 大友貞宗 - Henkipedia【史料2】)によって父親は大友親時とすべきである。

戸次貞直

戸次 貞直(べっき/へつぎ さだなお、1278年頃?~1333年)は、鎌倉時代後期の武将、御家人。大友氏の一門・戸次氏の当主。戸次時親の嫡男。

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 【表1】各系図類における戸次氏嫡流の記載内容(烏帽子親に関する情報を中心に)*1

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上表に示した通り、元服の際、加冠役(烏帽子親)であった北条から諱の1字を授かったと伝える系図は複数ある。祖父・秀が北条時の娘を妻に迎え、その「重」の字を共有したとみられること、父・親も北条宗の烏帽子子であったことを踏まえると、慣例に従って貞時の偏諱を賜ったことは実際の名乗りからしても疑いは無いと思われる*2

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▲【図2】『速見入江文書』所収「大友田原系図*3より:戸次氏嫡流の部分

この点について、以下史料を交えながら考察・裏付けをしたいと思う。

 

弘安11(1288)年のものとされる「田中後家書状」(『肥後志賀文書』)に「へつきのまこ太郎殿」と現れる*4のが史料上での初見と思われる。貞直の仮名(通称)が「孫太郎」であることは【図2】等の系図類に記載があり、年代的に考えても同定されると思う。

この当時は「戸次孫太郎」と名乗るのみで、後述史料と比較すれば左衛門尉任官前の無官であったことが分かるが、これは元服してから間もない段階であったためであろう。吉良国光はこの時の貞直は豊後国大野庄中村の地頭であったと推測されている*5

 

次いで、永仁7(1299=正安元)年正月28日に鎮西評定衆となった者の中に「戸次孫太郎左衛門尉」が含まれており*6、【図2】での注記にもある通り、これが貞直に比定されるというが問題ないと思う。同年4月10日付「鎮西引付衆結番注文」*7にも「戸次孫太郎左衛門尉」と現れており、翌正安2(1300)年4月6日付「鎮西御教書」(『豊後柞原八幡宮文書』)*8の宛名「戸次孫太郎左衛門尉殿」も貞直に比定される。すなわち、この頃までに左衛門尉に任官を果たしていたことが窺える。他の御家人を見ると、その任官年齢は20代(早くとも10代)であったケースが多かったので、貞直もその位の年齢だったのではないかと思われる。

従って、弘安7(1284)年4月~同11年の間に、当時の執権・北条貞時を烏帽子親として元服したことは確実と言って良いだろう。

 

 

(参考ページ)

 武家家伝_戸次氏

 戸次氏(べっきうじ)とは - コトバンク

渡辺澄夫「豊後国大野荘における在地領主制の展開 ー地頭志賀氏を中心としてー」(所収:渡辺『増訂 豊後大友氏の研究』、第一法規出版、1982年)

 

脚注

*1:筆者作成。表中の頁数は『群書系図部集 第4』におけるものとする。

*2:梅野敏明「鎌倉期由布院における戸次一族の所領獲得について」(所収:『挾間史談』 第6号、挾間史談会、2018年)P.38~39。

*3:大分県史料刊行会 編『大分県史料10』(大分県立教育研究所、1955年)P.455~456。

*4:『鎌倉遺文』第22巻16553号。

*5:吉良国光「志賀(近地)禅季と泊寺について」(所収:『大分県立芸術文化短期大学研究紀要』第34巻、大分県立芸術文化短期大学、1996年)P.31。

*6:『鎌倉遺文』第26巻19935号。

*7:『鎌倉遺文』第26巻20027号(『薩藩旧記 前編』7)、20028号(『旧典類聚』13)。

*8:『鎌倉遺文』第27巻20416号。

工藤時光

工藤 時光(くどう ときみつ、生年不詳(1250年代後半?)~没年不詳(1325年頃?))は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家被官である御内人藤原南家工藤氏より分かれた奥州工藤氏の一族。 

出家後は工藤二郎右衛門入道と称し(「南家伊東氏藤原姓大系図」)、その法名である工藤杲禅(こうぜん、旧字体:杲禪)、工藤杲暁(こうぎょう、旧字体:杲曉)で知られる。

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▲【図1】工藤杲禅(時光/杲暁)の花押*1

 

 

烏帽子親の推定

「南家伊東氏藤原姓大系図」については、飯田達夫翻刻を紹介されながら*2、当初はその成立時期への先入観からか、『北条氏系譜人名辞典』では工藤杲禅(杲暁)について「実名不詳」とする*3等あまり注目されることは無かったように見受けられるが、近年「大系図」について今野慶信の論文*4で大きく取り上げられ、それにより杲暁が工藤高光(たかみつ)の次男(資光の弟)で俗名=「時光」であることが判明した*5

 

父・工藤高光

父の高光について、今野氏の論文ではその父(杲暁の祖父)・重光と同様に史料上でその実名は確認できず、「彼はもっぱら次郎左衛門尉として馬引を務めるのみで正月椀飯の座には列席していない」ことから「一般の御家人扱いではなく、得宗家の下級被官」であったと説かれている*6。『吾妻鏡』の一部を参照されただけなのか、出典は明らかにされていないが、実際には『吾妻鏡人名索引』で調べると何度も「工藤次郎左衛門尉高光」等の名で登場していることが分かる(下表参照)。

 

【表2】『吾妻鏡』における工藤高光の登場箇所*7

月日 表記
建長4(1252) 4.1 工藤左衛門尉高光
建長6(1254) 1.1 工藤次郎右〈左〉衛門尉高光
康元元(1256) 1.1 工藤次郎左衛門尉高光
正嘉元(1257) 1.1 工藤次〈二〉郎左衛門尉高光
2.26 工藤左衛門尉高定〈高光〉
正嘉2(1258) 1.1 工藤次郎左衛門尉高光
1.2 工藤次郎左衛門尉高光
文応元(1260) 1.1 工藤次郎左衛門尉高光
文永2(1265) 1.1 工藤次郎左衛門尉

 

【表2】で示した『吾妻鏡』は文永3(1266)年までで途切れてしまうので、高光のその後については不明であるが、時宗執権期間に高光→時光(杲禅)への世代交代があったことは確実であろう。

 

兄・工藤祐光

高光の長男・資光(すけみつ)については史料で確認できないが、ほぼ同時期に工藤六郎祐光(すけみつ)の活動が見られ、今野氏は名前の読みの共通から同一人物と判断されている*8。祖父「工藤六郎左衛門」重光の仮名を継承して「六郎」を名乗ったのであろう。『吾妻鏡』での登場箇所は次の通りである。

 

【表3】『吾妻鏡』における工藤祐光の登場箇所*9

月日 表記
寛元4(1246) 1.6 工藤六郎
10.16 工藤六郎祐光*10
宝治2(1248) 1.1 工藤六郎左衛門尉
建長2(1250) 5.1 工藤六郎左衛門尉
建長3(1251) 8.24 工藤六郎左衛門尉

 

寛元4年は北条時頼が5代執権となった年でもあるが、当時は「六郎」と名乗るのみで無官であったことが窺える。翌年中には左衛門尉に任官したものと見受けられるが、その任官年齢を考えると20代と若年であったと思われる。

 

工藤時光の一字拝領

従って、祐光の弟(高光の次男)であるの「」は北条氏得宗家から通字を賜ったものとみられるが、年代的に、頼 または その嫡男・北条(8代執権)のいずれかの偏諱が想定される。

ところが、"実名不詳" とされていたように、出家後の「杲禅」として現れるまでに在俗中の実名である「時光」こそ史料上で確認ができない。もし時頼の烏帽子子であれば、その後の時宗執権期間、高光に代わって1回くらい現れても良い気がするが、そうでないということは、時宗執権期間に元服を遂げたが、間もなく出家した可能性が考えられよう。今野氏は「出家はおそらく弘安7年(1284年)の北条時宗(道杲)の出家に伴うもの*11と推測しており、この文言からしても「)」の「」字は時宗が死の直前に出家した際の法号である「」にあやかったものとみなせる。同様にして「杲」字を用いた人物としては、同じく得宗被官であった平頼綱(法名:円)が挙げられる。 

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時宗執権期間での元服の根拠としては、嫡男・ 貞祐が1283年生まれと推測されること、詳しくは後述するが杲暁(時光)自身も元亨3(1323)年までの存命が確認できることの2点が挙げられる。 

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仮に兄・祐光と同じく1240年代半ば頃の元服とした場合、貞祐は杲暁40歳近くの時の子となってしまい年齢が離れ過ぎている感じが否めず、更に元亨3年当時80歳近くに達することになるが、全くあり得ないということもないが、当時としては長寿過ぎるようにも感じる。

一方、貞祐との年齢差を20歳とした場合、杲暁は1263年生まれとなり元服の時期は北条時宗執権期間内と確定する。この場合でも元亨3年当時60歳(還暦)に達するから、1263年よりさほど遡らない時期の生まれと考えるのが妥当ではないか。

よって杲暁の生年は1250年代後半~1260年頃と推測される。従って「」字を与えた烏帽子親は北条であろう。この時宗との関係が親密だったのか、時宗の死に際しても20代後半と若年ながらこれを悼んで出家し、その法名の一字「」を使い続けたことになるが、北条高時の出家に追随した京極導誉(高氏)に似た事例だったのであろう。

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史料上での工藤杲禅/杲暁

繰り返しになるが、杲暁の活動が見られ始めるのは出家した後からである。貞祐が幼少で、自身もまだまだ若かったからであろう、特に北条貞時(9代執権)執権期間においては出家の身ながら若狭国守護代を務めるなど活動が顕著であったことが窺える。

*尚、以下紹介する史料の中には「」を「」とするものがあるが、誤記・誤写または誤読とみなし、適宜修正した。

 

【史料4】弘安8(1285)年:

(4-A)『若狭国守護職次第』若狭国得宗・貞時の分国となり、「(~より)弘安八年。御代官(=守護代工藤右衛門入道杲禪。曉。」となる。

(4-B)『若狭国今富名領主次第』若狭国今富名領主=貞時の「御代官工藤右衛門入道杲禪 初杲禪。後に弘安九年改杲曉。弘安八年四月一日より正安三年三月九日まで。」

 

【史料5】弘安9(1286)年12月5日付「北条貞時寄進状」(『相州文書所収 法華堂文書』)*12の文中に「工藤右衛門入道杲禅」。

 

【史料6】弘安11(1288=正応元)年正月日付「若狭谷田寺院主重厳言上状案」(『若狭谷田寺文書』)*13

(端裏付箋)「  歎願書下書 一通
       北条武蔵守義政〔ママ*14公ニ訴ヱシモノ」

若狭国税所御領谷田寺院主僧重厳謹言上
 為同国税所御代官工藤右衛門入道殿、追前御代官山城前司入道(=伊賀光政)殿非儀例、依被勘落当寺免田壱町余、為公田間、堂社悉及大破顛倒上□〔者〕、早垂御哀憐、如旧有御寄進、欲被遂修造功子細事、
副進
 一通 国検目録除田案  文永二年
 一通 所当勘文案    弘安八年
右当寺者、天武天皇御宇白鳳年中、為泰澄大師建立、当国中□□〔第二〕御願所、年序既及数百歳畢、自草創之初、料田壱町余御寄進之□〔間〕、□□□□□〔致修功之処〕、前御代官山城前司入道殿之時、始依被顛倒、寺僧等雖歎申、敢無□□〔叙用〕、□□〔而去〕弘安八年得替畢、其後渋谷十郎入道(=恒重)殿代官(三栖)家継実検之時、雖訴申之、不用之、被結入目録之間、訴申当御代官工藤右衛門入道殿之処、称被結入上進文書、追非分例、不被裁許之間、恐々所言上也、且為散御不審、□□□□□□□〔国検状案進覧之〕、倩見彼寺為躰、本堂一宇 五間四面本尊千手 鎮守宮一宇 一間二面御垂跡日吉熊野金峯 同拝殿一宇 五間二面 温屋一宇 三間三面 二階楼門等已上五宇也、而被顛倒料田、及大破之条、争無御計哉、将又当国上下宮・正八幡宮者、有限莫大料田之外、任関東御教書旨、為国造営致修造者也、何限彼寺被顛倒料田無修造御計哉、可然者於料田者、如元有御寄進、為上裁為被修造、恐々言上如件、
  弘安十一年正月 日

(*https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/02/text/O051400001.txt より引用)

 

【史料7】(正応4(1291)年8月20日)「関東評定事書」(『新編追加』)*15

一.寺社并京下訴訟事 正応四。八。廿。

急可申沙汰之由。可被仰奉行人并五方引付。此上令延引者。可触訴飯沼大夫判官助宗〔資宗〕。大瀬左衛門尉惟忠。長崎左衛門尉光綱。工藤右衛門入道杲禅〔左 脱字カ衛門尉宗綱歟。

 

【史料8】正応5(1292)年10月13日付「執権北条貞時公文所奉書案」(『東寺百合文書』リ)*16の宛名に「工藤右衛門入道殿」。

 

【史料9】永仁4(1296)年3月日付「若狭汲部多鳥浦刀祢百姓和与状写」(『若狭秦金蔵氏文書』)*17の宛名に「工藤右衛門入道殿」。

 

【史料10】正安元(1299)年7月11日付「北条貞時書状」(『相模法華堂文書』)*18の宛名に「隠岐前司(=二階堂泰行)殿 工藤右衛門入道殿」。

 

【史料11】『若狭国守護職次第』内管領北条宗方若狭国守護となり、「正安元年。御代官(=守護代(工藤左衛門入道妙覚」。すなわち、正安元(1299)年を以って守護代が交代したことが分かる。 

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【史料12】正安3(1301)年3月9日付「得宗公文所奉行人連署奉書」(『摂津多田神社文書』)*19の奉者第一位「杲勝」。花押の一致から工藤杲暁(時光)に同定される*20。誤読か、或いは再び法名を改めた可能性もある。

尚、『若狭国今富名領主次第』によれば、同じく3月9日まで若狭国今富名の領主代官であったという(→前述史料4-B参照)。後任は「工藤次郎右衛門尉貞祐 杲曉の子そく〔子息〕。正安三年十月より正中元年九月迄。」 。 

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【史料13】(嘉元2(1304)年)9月3日付「左衛門尉某 書状写」(『若狭秦金蔵氏文書』)*21の文中に「……依出和与状、工藤右衛門入道殿被成下知了、……」とあり。

 

【史料14】(嘉元2年?)12月2日付「小槻国親書状」(『若狭秦金蔵氏文書』)*22の文中に「……随地頭工藤右衛門入道殿代官弥五郎入道之時も……」とあり。

 

【史料15】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*23:鎌倉円覚寺で毎月四日に行われていた「大斎(北条時宗忌日*24)」の結番12番筆頭。

{花押:北条貞時円覚寺毎月四日大斎結番事

 一 番

(省略)

 二 番

  工藤次郎右衛門尉  粟飯原左衛門尉

(中略)

  十二番

  工藤右衛門入道  五大院左衛門入道

(以下略)

 

 右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、

 

  徳治二年五月 日

  

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その後は工藤次郎右衛門尉貞祐の活動が本格化し、年齢的な問題で身を引いていったのか、杲暁は史料上に現れなくなるが、僅かに、元亨3(1323)年10月27日の故・北条貞時13年忌供養において、一品経(妙音品 10貫)の調進、砂金50両・銀剣・馬一疋の供養等を行う「工藤二郎右衛門尉」とは別に、銭20貫文・馬一疋を進上する人物として「工藤右衛門入道」の記載があり(『北條貞時十三年忌供養記』)*25、この時まで存命であったようである。この法要から数年の間には亡くなったのではないかと推測される。 

 

(参考ページ)

 工藤時光 - Wikipedia

 

脚注

*1:北条氏研究会『北条氏系譜人名辞典』(新人物往来社、2001年)P.76「工藤杲禅」の項(執筆:末木より子)より。

*2:飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』第三輯(宮崎県立図書館、1977 年)。

*3:注2同箇所。

*4:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)。

*5:正確には高光の次男・時光に「二郎右衛門入道 法名果暁〔杲暁〕」と注記される。

*6:注4前掲今野氏論文 P.114。

*7:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.164「高光 工藤」に基づき作成。尚、本項作成にあたっては 第5刷(1992年)を使用。

*8:注4前掲今野氏論文 P.115。

*9:吾妻鏡人名索引』P.406「祐光 工藤」に基づき作成。

*10:『大日本史料』5-20 P.441

*11:注6同箇所。

*12:『鎌倉遺文』第21巻16066号。

*13:『鎌倉遺文』第21巻16497号。

*14:この頃の武蔵守就任者は、北条(塩田)義政(1273-1277)、北条宗政(1277-1281)、北条時村(1282-1304)(→ 武蔵国司 - Wikipedia #武蔵守)。

*15:続群書類従. 第23輯ノ下 武家部 - 国立国会図書館デジタルコレクション。『鎌倉遺文』第23巻17664号。

*16:『鎌倉遺文』第23巻18030号。リ函/19/2/:北条貞時公文所奉書案|文書詳細|東寺百合文書

*17:『鎌倉遺文』第25巻19035号。

*18:『鎌倉遺文』第26巻20164号。

*19:『鎌倉遺文』第27巻20726号。

*20:小泉聖恵「得宗家の支配構造(研究)」(所収:『お茶の水史学』第40巻、お茶の水女子大学比較歴史学講座読史会、1996年)P.42 脚注(38)。

*21:『鎌倉遺文』第29巻21975号。

*22:『鎌倉遺文』第29巻22044号。

*23:『鎌倉遺文』第30巻22978号。

*24:時宗の命日は弘安7(1284)年4月4日(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照)。

*25:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.710。

工藤貞祐

工藤 貞祐(くどう さだすけ、1283年?~1334年?)は、鎌倉時代後期の武士。北条氏得宗家被官である御内人藤原南家工藤氏より分かれた奥州工藤氏の一族。 

 

 

父親と烏帽子親について

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▲【図A】今野慶信作成による得宗被官・工藤氏の略系図*1

「南家伊東氏藤原姓大系図」では工藤時光(二郎右衛門入道、法名杲暁)の嫡男として載せられる*2が、『若狭国今富名領主次第』に「工藤次郎右衛門尉貞祐 杲曉の子そく〔子息〕。正安三年十月より正中元年九月迄。」とあるによって裏付けられる。正安3(1301)年10月から若狭国今富名の領主(=北条貞時の代官を務めたといい、これが史料上での初見であろう。

すなわち、この時までに「工藤次郎」を名乗って元服を済ませた後右衛門尉に任官していたことが分かる。その名乗りは、同年8月まで9代執権の座にあった北条*3を烏帽子親としその偏諱を受けたものと判断される*4(「祐」は工藤氏宗家での通字)

 

 

史料上での工藤貞祐

次に、この節では史料上での登場箇所をピックアップしながら、その後の活動について見ていきたいと思う。

 

(参考記事)

nanbokuchounikki.blog.fc2.com

 

【史料1】正安3(1301)年10月~『若狭国今富名領主次第』若狭国今富名領主=北条貞時の代官(前述参照)。

 

【史料2】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*5

{花押:北条貞時円覚寺毎月四日大斎結番事

 一 番

(省略)

 二 番

  工藤次郎右衛門尉  粟飯原左衛門尉

(中略)

  十二番

  工藤右衛門入道  五大院左衛門入道

(以下略)

 

 右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、

 

  徳治二年五月 日

この史料は、鎌倉円覚寺で毎月四日に行われていた「大斎(北条時宗忌日*6)」の結番を定めたものであり、前述の『今富名領主次第』を信ずれば、2番筆頭の「工藤次郎右衛門尉」は貞祐に同定される*7。12番筆頭の「工藤右衛門入道」は父・杲暁であろう。親子揃って結番に割り当てられたことになる。

 

【史料3】徳治2年7月12日付「鳥ノ餅ノ日記(矢開日記)」(『小笠原礼書』):「鳥ノ加用」を「工藤次郎衛門尉」が担当*8

*「じろうえもん」と読めることから「右」が脱字しているものと思われる。すなわち「次郎衛門尉」の誤記と推測され、貞祐に比定される。

 

【史料4】延慶2(1309)年~『若狭国守護職次第』若狭国得宗の分国となり、その「御代官(=守護代」を「工藤二郎右衛門尉貞祐」が務める。

 

【史料5】正和2(1313)年7月24日付「(工藤)貞祐書下写」(『摂津満願寺文書』)*9の発給者「貞祐

*『鎌倉遺文』にある通り、本文書の写の一本では、署名「貞祐」の所に「赤松」と傍注しているが、後述の『多田神社文書』などから工藤氏(工藤貞祐)によるものと判断される。

 

 

【史料6】文保元(1317)年5月10日付「得宗公文所奉行人連署奉書」(『摂津多田神社文書』)*10の宛名に「工藤次郎右衛門尉殿」。訴訟の管轄替えに関する内容である。 

 

【史料7】元応元(1319)年7月25日付「(得宗公文所)工藤貞祐書下」(『摂津多田院文書』)*11:「貞祐」の署名と花押

*「工藤次郎右衛門尉」の押紙あり。

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【史料8】(元亨3(1323)年)『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』):元亨3年10月27日の故・北条貞時13年忌供養において、一品経(妙音品 10貫)の調進、砂金50両・銀剣・馬一疋の供養等を行う「工藤二郎右衛門尉*12

 

【史料9】亨4(1324=正中元)年:8月、若狭国が執権・得宗北条高時の分国となったのに伴い、同国守護代(渋谷)小馬三郎に譲る『若狭国守護職次第』。9月2日、同国今富名の領主代官を渋谷重光遠江守 ※渋谷遠江権守のことか)に譲る『若狭国今富名領主次第』

 

【史料10】『鎌倉年代記』裏書 /『北條九代記』嘉暦元(1326)年条*13:幕府の命により出兵した工藤祐貞が安藤季長を捕らえる。

今年嘉暦元三月十三日、正五位下行相模守平朝臣高時依所労出家、廿四、其後世間聊騒動、三月十四日、寅刻、若宮降誕、三月廿日、東宮後二条院一宮薨御、廿七、同廿九日、工藤右衛門尉祐貞蝦夷征罰進発工藤右エ門祐貞蝦夷征討進発〕、七月廿六日、祐貞季長帰参、同月、以持明院本院第一宮量仁親王東宮、東使摂津右近大夫将監親秀

*『年代記』裏書に基づく。〔 〕内は『北条九代記』での記述内容。

冒頭には北条高時が出家し、その後任となった金沢貞顕が15代執権を僅か10日で辞した、いわゆる「嘉暦の騒動」があったことについて書かれているが、この貞顕法名崇顕)が翌年の書状の中で「工藤右衛門貞祐」と記しており、この当時 "工藤右衛門(尉)" と呼ばれ得る人物は貞祐であったと考えるほかにない。他に「祐貞」と記された史料が見当たらないことから、これは単に名前を誤認して書かれたものであったと捉えて良いだろう。

 

【史料11】嘉暦2(1327)年閏9月29日付「工藤貞祐書下」(『摂津多田院文書』)*14:「貞祐」の署名と花押

*「工藤次郎右衛門尉」の押紙あり。

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【史料12】(嘉暦2年?)「崇顕(金沢貞顕)書状」(『摂津多田院文書』)*15:「…又工藤右衛門貞祐母儀、駿河国ニ候けるか、去七日他界候、…」

関連画像

この年の9月7日に、駿河国に居住していた貞祐の母親(杲暁の妻)が亡くなったことが分かる。後述【史料17】に「工藤右衛門尉跡」として確認ができる駿河国沼津郷(現・静岡県沼津市に住んでいたのではないか。今野慶信は、元々藤原南家流工藤氏一門は伊豆国で繁栄し、そのうち工藤維永の子(維職の弟)景任の系統*16駿河国から北上して甲斐国に勢力を伸ばしたのではないかと説かれており*17、その過程で重光流工藤氏が駿河国内にも所領を持ったのかもしれない。

出自など詳細については明らかとなっていないが、貞顕に情報が伝わっていることからすると、金沢流北条氏と縁戚関係にあった可能性もある。

 

【史料13】〔元徳3(1331)年?〕6月30日付「工藤貞祐書状」(『摂津多田神社文書』)*18:「右衛門尉貞祐」の署名と花押

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【史料14】元徳3/元弘元(1331)年11月21日付「工藤貞祐施行状」(『摂津多田神社文書』)*19:「貞祐」の署名と花押

*「工藤次郎右衛門尉」の押紙あり。

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【史料15】正慶元/元弘2(1332)年9月:「工藤次郎右衛門殿」が若狭国守護代(渋谷)小馬三郎より再承『若狭国守護職次第』、同月21日には「工藤右衛門尉貞祐けんぶ〔還付〕するなり。」が同国今富名の領主代官を渋谷重光遠江守 ※渋谷遠江権守のことか)より再承『若狭国今富名領主次第』

 

 

死没についての考察

以後、鎌倉幕府が滅亡に向かう中での貞祐の動向を史料で明確に追うことは出来ないが、後述【史料16】により南北朝時代初期(建武政権期)には貞祐の所領が没収され、他の人物に与えられていることが確認できる。従って、幕府滅亡に際しての動乱の最中で貞祐も没したと考えられるが、次に紹介する人物が貞祐のことではないかと思われる。

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こちら▲の記事でも紹介している通り、『近江国番場宿蓮華寺過去帳』には建武元(1334)年12月4日に「公藤二郎」と「同次郎右衛門尉 五十二歳」が六条河原で斬首されたとする記述が見られるが、「公藤」が「くどう」と読める(例:家(げ)・方(ぼう)など)ことから、この2名は工藤氏と考えられる*20

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▲【史料16】『近江国番場宿蓮華寺過去帳*21より

*同年に処刑された「佐助式部大夫 同右馬助」は大仏流北条貞宗高直兄弟、「出羽入道」は二階堂貞藤(道蘊)に比定される。

 

工藤次郎右衛門尉については享年(※数え年)の記載があり、逆算すると弘安6(1283)年生まれとなるが、この人物が誰に比定されるのかを考えてみたい。

1332~1333年頃には、大仏高直を大将軍とする大和路の軍勢の軍奉行として、貞祐の嫡男とみられる「工藤次郎右衛門尉」が確認できる(「楠木合戦注文」)が、今野氏が仰る通り元服時に北条得宗家督:1311年~1333年)偏諱」を受けている筈*22なので、世代が合わない。前述の通り、この年には貞祐が依然として「工藤次郎右衛門尉」を名乗っており、一方高景については「工藤次郎左衛門尉(高景)」と書かれた史料が複数確認されることから、「右衛門尉高景」は誤記ではないかと思われる。

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よって、処刑された工藤次郎右衛門尉は世代的にとするのが妥当ではないかと思う*23。弘安6年の生まれとすれば、正安3年までの北条執権期間内に元服し「」の偏諱を受けたことが確実となり、同年10月から得宗の代官として若狭国今富名を領するようになった時、19歳で右衛門尉任官済みというのもおかしくはない。

一方の「公藤二郎」は左衛門尉の記載は無いが高景であろう。文和2(1353)年に「相模次郎」=北条時行とともに斬首された「工藤二郎*24は今野慶信が述べるように高景の遺児(=貞祐の孫)だったのではないかと思われる*25

 

併せて次の史料も見ておきたい。

【史料17】建武2(1335)年正月26日付「北畠顕家国宣(下文)写」(『曾我文書』)*26

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(端裏書)めやの郷(目谷郷)御下文案

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    御判
可令早工藤中務右衛門尉

 貞行領知、津軽鼻和郡目

 谷郷 工藤右衛門尉貞祐法師跡 外濱野尻郷

 等事、

右為勲功賞所被宛行也、早守

先例、可被其沙汰之状、所仰如件、

建武二年正月廿六日

 

(読み下し)

早く工藤中務右衛門尉貞行に領地せらるべし津軽鼻和郡目谷郷(工藤右衛門尉貞祐法師跡)外ヶ浜野尻郷等の事

右は勲功の賞のため宛行われる所なり 早く先例を守り其の沙汰せらるべきの状 仰する所件の如し  建武二年正月二十六日

 

【史料18】足利尊氏御教書写『和簡礼経』上 所収*27

曽我奥太郎時助申、駿河国沼津郷 工藤右衛門尉跡 事、任去二月八日御下文之旨、可被沙汰付之状、依仰執達如件、

建武三年十月十五日 武蔵権守 在判

尊氏御代
少輔四郎入道殿

まず【史料17】は【史料16】の翌月の史料であり、津軽国鼻和郡目谷郷が「貞祐 ""(没収地)」として同族の工藤貞行に与えられたことが窺える。

次いで【史料18】はその更に翌年の史料となるが、工藤右衛門尉 "" として駿河国沼津郷が曽我時助に与えられたことが分かる*28。前述【史料12】で「工藤右衛門貞祐母」が居住し亡くなった場所であろう。

よって建武元年末に処刑された工藤次郎右衛門尉(【史料16】)=貞祐の所領がその後収公され、相次いで他の者に与えられていったと考えられよう。 

 

(参考ページ)

 工藤貞祐 - Wikipedia

 工藤 貞祐 ー 御内人人物事典

 安東氏関連人物伝 ー 工藤貞祐

 

脚注

*1:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.115。

*2:飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』第三輯(宮崎県立図書館、1977 年)P.67。注記には「二郎右衛門」とあるのみで、成立時にはまだ生まれていなかったためか、貞祐以降の記載は無い。

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*4:注1前掲今野氏論文 P.114。

*5:『鎌倉遺文』第30巻22978号。

*6:時宗の命日は弘安7(1284)年4月4日(→ 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照)。

*7:注4同箇所。

*8:中澤克昭「武家の狩猟と矢開の変化」(所収: 井原今朝男・牛山佳幸 編『論集 東国信濃の古代中世史』、岩田書院、2008年)P.200・203。細川重男「御内人諏訪直性・長崎円喜の俗名について」(所収:『信濃』第64巻第12号、 信濃史学会、2012年)P.959。

*9:『鎌倉遺文』第32巻24933号。

*10:『鎌倉遺文』第34巻26172号。

*11:『鎌倉遺文』第35巻27103号。

*12:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.698・705・707。

*13:竹内理三 編『増補 続史料大成 第51巻』(臨川書店)P.63。『史料稿本』後醍醐天皇嘉暦元年正~3月 P.77同年4~7月 P.53年代記嘉暦元年

*14:『鎌倉遺文』第38巻30026号。

*15:『鎌倉遺文』第38巻30036号。

*16:注2同箇所によれば「景任(甲斐工藤㴓水〔=温水〕石岡松尾横溝祖)―資広―行景―景澄―工藤庄司景光(→【図A】)」と至る。

*17:注1今野氏論文 P.111。

*18:『鎌倉遺文』第40巻31546号。

*19:『鎌倉遺文』第40巻31545号。

*20:注17の6月30日付貞祐書状の端裏書にも「先代公藤次郎衛門殿状〔ママ〕」と書かれており、これも根拠の一つになり得ると思う。

*21:群書類従』巻514所収。

*22:注4同箇所。

*23:南北朝についての日記?:工藤二郎左衛門尉と工藤二郎右衛門尉(その2 工藤貞祐)

*24:『鶴岡社務記録』文和2年5月20日条に「廿日 於龍口 相模次郎 長崎駿河四郎 工藤二郎 被誅了」とある。

*25:注1今野氏論文 P.114~115。

*26:『新編弘前市史 通史編1(古代・中世)』P.318https://core.ac.uk/download/pdf/144248047.pdfhttp://www.infoaomori.ne.jp/~kaku/sadayuki.htm津軽工藤氏と根城南部氏 - 「じぇんごたれ」遠野徒然草

*27:苅米一志「西国における曽我氏の所領と文書」(所収:『就実大学史学論集』33号、就実大学人文科学部総合歴史学科、2019年)P.84。

*28:原始から現代/沼津市