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アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

小山宗長

小山 宗長(おやま むねなが、1264年頃~1307年?)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人

通称は五郎。左衛門尉。父は小山時長、母は宇都宮泰綱の娘。(以上『尊卑分脈』より) 

 

残念ながら、宗長については史料があまり残されておらず、その活動内容は不明であるが、本項では生没年など推定できるものについての考察を記しておきたい。

 

 

時長の子 北条時宗の烏帽子子

 〈小山氏略系図(『尊卑分脈』より) 

 朝長―長村―時長―宗長―貞朝―高朝

この家系は「長」または「朝」を通字としており、時長以降の当主の名前に着目すると、"時"、"貞"、"高" については北条氏 (得宗) からの偏諱であることは確実視して良いと思われるので、宗長だけが将軍(6代・宗尊親王)を烏帽子親にしたとは考えにくいが、念のため確認しておこう。 

 

父の小山時長については『鎌倉大日記』によって生没年代が明らかとなっている。

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現実的に考えて、仮に時長が20歳(※満年齢)以上の時の子と考えると、1266年生まれとなるが、ちょうどこの年の6月には宗尊親王は解任の上で京都に送還されている。従って、仮に時長が10代後半の時の子(1261~1265年生まれ)だとしても、元服の頃の将軍が宗尊親王であることはあり得ず、よって「」の字は8代執権・北条時からの偏諱であること確実であろう。

 

 

生年の推定

北条時宗は、弘安7(1284)年4月の死去まで得宗家当主として執権を務めた。従って、宗長の元服もこの時までに行われているはずである。7歳で元服時宗は例外として、この頃の元服は通常10~15歳あたりで行われていた。

従って、(1284年に10歳である場合の)1275年より後の生まれであるとは考えづらい。よって、宗長の生年は1266~1275年の間であったと推定はできる。

 

次に考えるべきこととして、息子・小山貞朝(『尊卑分脈』)との関係を確認しておこう。

貞朝の死去については次の二つが伝わる。

徳治二(1307)― 関東下向之時頓死(『尊卑分脈』小山貞朝項の注記)

元徳二(1330)年 十月一日 小山下野前司他界 貞朝 四十九(『常楽記』*1

 

 

が正しいことについては、こちら▲の記事で取り上げたが、逆算すると生年は1282年となる。従って、父の宗長が同年の段階で約20歳以上であることが現実的と思われるので、1270年代生まれである可能性は低いと判断される。

時長 (1246年生) と 貞朝 (1282年生) の年齢差は36歳と、祖父―孫の関係にしては少ない気もするが、時長・宗長が各々18歳(数え年19)の時に子をもうけたと解釈すれば、強ちあり得ない話でもない。よって宗長の生年は、1264年頃であったと推定しておきたい。

 

ちなみに、母は宇都宮泰綱の娘であり、兄弟にあたる北条経時室(1231年生)、経綱(1233年前後?)*2、景綱(1235年生)とさほど年齢が離れていないことを考えて、仮に景綱より年少(すなわち妹)で1240年ごろの生まれだとしても、宗長を20代で生んでいることになり、問題はない。 

 

没年の推定 

上記同記事で言及しているが、元亨3(1323)年10月26日の北条貞時十三年忌供養に、貞朝と思しき「小山下野前司」なる者が参加している。当時の段階で既に下野守を辞していたということを考えると、貞朝は1310年代には下野守であったと判断され、恐らくその頃には小山氏の家督を継承していたのではなかろうか。

 

ここで、前述の徳治二― 関東下向之時頓死」に着目したい。

尊卑分脈』は系図集の中で比較的古い年代の成立であるが故に、信憑性の高いものとして重用されていることは事実で、いくら系図に誤りがあるからといって、①のような内容をでたらめで書けるとは思えないのだ。『尊卑分脈』の小山氏系図は幾つか誤りと思われる箇所が指摘されており、どうも記載に混乱が生じているようである。これらの観点から、①は宗長のことを言っている可能性も考えられないだろうか

 

貞朝は本家筋とみられる宗朝に養子入りして、小山氏の嫡流や「四郎」の仮名を継承しているが、「下野守」に任官していることから、宗長の後継者でもあったと考えられる*3。徳治2(1307)年当時貞朝は26歳であり、宗長からの家督継承時期として問題ないと思う。

 

貞朝の項にあった「関東下向之時頓死」について、細川重男は『尊卑分脈』・『系図纂要』に「評定衆」、『下野国誌』11に「下野守。従五位下。四郎左衛門尉。鎌倉評定衆」と書かれていることと照合して、貞朝が六波羅評定衆であった可能性も考えておられる*4が、これまでの考察を踏まえると、宗長がそうであったのかもしれない。

 

 

脚注

*1:『編年史料』後醍醐天皇紀・元徳2年 P.25

*2:経綱については以前記事宇都宮経綱 - Henkipediaを参照。

*3:長村―時長―宗長と続いた「五郎」の仮名は貞朝の庶子・秀政が継承しているが『尊卑分脈』に「或宗長子云々」とあることから、形式上祖父である宗長の嗣子として "五郎" 家を再興したと考えられる。貞朝は宗長―秀政の間の当主も兼ねていたのであろう。

*4:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」[番外]⑤「小山貞朝」の項 より。

小山貞朝

小山 貞朝(おやま さだとも、1282年~1330年)は、鎌倉時代後期の武将。鎌倉幕府御家人

 

 

生没年について 

貞朝の死去については次の二つが伝わる。

徳治二(1307)― 関東下向之時頓死(『尊卑分脈』小山貞朝項の注記:後掲【系図α】参照)

元徳二(1330)年 十月一日 小山下野前司他界 貞朝 四十九(『常楽記』*1

 

どちらが正しいかを決定づけられる別の史料は見つかっていないが、元亨3(1323)年10月の北条貞時十三回忌法要では「小山下野前司」が銭百貫文を寄進していることが確認でき*2貞朝であるとみられる*3ので、①説は採用し難い。

よって、正しいと思われる②に従って逆算すると、朝は弘安5(1282)年生まれとなる。1284年に時宗が亡くなってからは子の時が執権職を継いでおり、「」は元服(おおよそ1291~1296年*4にその偏諱を賜ったと考えられるから、問題はないだろう。前述の貞時13回忌法要への参加も、元々烏帽子親子関係が結ばれていたことを窺わせるものである。弟の小山(さだみつ、後掲【系図α】参照)も同様に貞時の烏帽子子であろう。

 

ちなみに、貞朝の死について、小山貞朝 - Wikipedia以下幾つかのWebサイトでは、鎌倉幕府滅亡時の合戦(1333年)で新田義貞軍に属して戦死したとする説も見られる。

しかしながら管見の限り、それを伝える史料は無く、むしろ『太平記』には、同合戦で金沢貞将が "小山判官"こと秀朝(当時は高朝)、および千葉貞胤に敗れたことが記されている*5。 

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こちらの記事▲で紹介した通り、元弘の変(1331年)の折、幕府軍として上洛する中に「小山大夫判官一族」(または「小山判官」)が含まれており、この段階で小山高朝が小山氏を代表する立場にあったことは間違いない。また、建武元(1334)年8月22日付「大膳権大夫某奉書」の端裏書*6には、東茂木保の茂木知貞祐恵への打渡しを「小山下野守」が遂行したとあり、1330年に亡くなった際の最終官途が下野前司(=前下野守)であった貞朝と別人と考えるべきである。

 

従って、前述②(『常楽記』)の通り、1330年に貞朝が亡くなり、子の高朝家督を継いでいたと考えるべきであろう

 

(参考ページ)

南北朝列伝 ー 小山貞朝

 

 

系図での注記について

尊卑分脈』 には、前述の①も含め多くの注記が施されている。

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▲【系図α】『尊卑分脈』小山氏系図(一部抜粋)*7

 

「為時朝子」(時朝の子と為す)について

小山氏の家職の相伝については紺戸淳の論考*8に詳しく、これに従って解説する。小山氏は下野守護職とともに、承久3(1221)年~建治年間(1275-1277)まで播磨守護職をも所持していたといい、長村の後より2つの系統に分かれて下野・播磨各々の守護職相伝したと考えられている。すなわち、前者を長男・時朝(のち時村)の系統、後者を次男・時長の系統が伝領したという。 

そして紺戸氏は、他の小山氏系図で「宗朝―貞朝」を父子関係として接続していることから、「為宗朝子」の誤記ではないかとし、宗朝の代になって下野守護職を相続する者がいなくなったので、庶流の秀朝を養子に迎えたとする見解を出されている。北条氏得宗家は、自身に対抗し得る勢力を持った幕府創立以来の伝統的な御家人氏族の嫡流との結合のみに一字付与(烏帽子親子関係)を適用していたと説かれ、嫡流を継ぐこととなった宗朝の養嗣子・秀朝は北条時の偏諱を受けて「朝」に改名したのだという。 

 

「本名秀(秀朝)」について

上の【系図α】では、①貞朝の初名、②貞朝の長男、③朝郷 改秀朝 又改朝氏 と、3人の "小山秀朝" がいることになるが、史料における「小山判官秀朝」「小山下野守秀朝」の最終的な名乗りが「秀朝」であったことから、該当し得るのは②だけである。この秀朝は1335年の中先代の乱北条時行の軍勢に攻められて自害したが、『元弘日記 裏書』ではその名を「(藤原) 高朝」とすることから、系図では別々の兄弟とする下野守高朝と秀朝が、改名前と後の同人ですべきであろう。この点については、次の記事にて解説したのであわせて参照していただきたい。

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以上2点についての再考察

まず、管見の限り「宗朝―貞朝」を父子関係とする系図は『諸家系図纂』*9と『系図纂要』が確認できる。ともに江戸時代に成立のものである。しかし、双方はやや異なっており、前者ではこの貞朝の子に貞長・秀政・貞秀・高朝・秀朝を載せる*10のに対し、一方後者においては宗朝の子、貞宗の兄である「貞朝」とは別に、宗長の子にも貞朝を載せているため、同人として扱っていない。

 

但し、貞朝が時朝流の後継者となったことは認められると思う。これには、小山氏代々の通称名が関係する。

系図α】で「五郎」と書かれる時長に対し、その兄・時朝が「四郎」であったことは『吾妻鏡』で確認できる*11。『尊卑分脈』や『吾妻鏡』によれば、「四郎」は政光(小山四郎)―朝政(小四郎)―朝長(又四郎)―長政(四郎)と、本来は代々の長男が名乗ってきた輩行名であった。

系図を見ると、長村*12―時長―宗長と「五郎」を代々の通称にしたことが確認できるが、宗長の子・貞朝(小四郎)以降の小山氏当主は「四郎」を称するようになったことが分かる。わざわざ「為時朝子」と書かれ、「朝」の通字を継承していることからしても、貞朝が時朝の系統に養子入りして「四郎」の通称を引き継いだことが窺えるが、この「四郎」が嫡流継承者代々の通称だったと判断できよう*13(【系図α】を見る限り、貞朝の庶子(高朝/秀朝の弟)小山秀政が「五郎」の仮名を継承しているが、「或宗長子云々」という記載から、形式的に宗長の跡を継いだものと判断される)

その傍証として、宗朝の子・は同じく北条時の偏諱を受けたとみられるのに対し、その子・政秀は北条氏から1字を受けた形跡がない。しかも政秀(藤井政秀)には「藤井」と注記されており、どうやら分家したようである。

対して貞朝の嫡男・朝は北条時の偏諱を受けている*14から、紺戸氏の説に従って嫡流を継承したとみなすことは十分に可能である。

小山貞宗は、元服し息子が生まれているので若くとも20代までは生きたと思われるが、【系図α】において官途などの情報が全く記載されていないことからすると、子供が幼少の間に早世したのかもしれない。但し、政秀が、父・貞宗に代わって後継者となった貞朝から家督を譲られていない(戻されていない)ことからすると、生前貞宗が何かしらの理由で廃嫡されていた可能性も考えられよう鎌倉時代後期には「小山出羽前司」「小山出羽入道円阿」の活動が確認でき*15貞朝への家督継承は、存命であった円阿=出羽守宗朝の同意を得てなされたものと推測される。先に述べた【系図α】での「為朝子」を「為朝子」の誤記とする紺戸氏の見解も、こうした意味合いで妥当な説ではないかと思う。

 

脚注

*1:『編年史料』後醍醐天皇紀・元徳2年 P.25

*2:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号。

*3:松本一夫「南北朝初期における小山氏の動向 ―特に小山秀朝・朝氏を中心として―」(所収:『史学』55-2、三田史学会、1986年)P.118。湯山学「小山出羽入道円阿をめぐってー鎌倉末期の下野小山氏」(所収:『小山市史研究』三号)。

*4:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)P.11 の手法に基づく。元服の年齢を数え10~15歳とした場合。

*5:太平記』巻10「鎌倉合戦事」文中に「搦手の大将にて、下河辺へ被向たりし金沢武蔵守貞将は、小山判官・千葉介に打負て」とあり(→ 「太平記」鎌倉合戦の事(その2) : Santa Lab's Blog)、同巻13「中前代蜂起事」には中先代の乱(1335年)に際して「小山判官秀朝」が自害したことが記されている(→ 「太平記」中前代蜂起の事(その2) : Santa Lab's Blog)。

*6:『栃木県史 史料編中世二』茂木文書 八号。

*7:黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第2篇』(吉川弘文館)P.401~402。

*8:注4前掲紺戸氏論文、P.21~22。

*9:注1同箇所。『諸家系図纂』「小山結城」

*10:『大日本史料』6-9 P.886

*11:吾妻鏡』正嘉元(1257)年12月29日条に「小山出羽四郎時朝」とある。

*12:系図α】(『尊卑分脈』)では通称を「四郎」と記載するが、『吾妻鏡』により正しくは「五郎」であったことが分かる。

*13:吾妻鏡』建長4(1252)年7月23日条には「小山五郎左衛門尉時長」の記載が見られ、すると注11での「出羽四郎時朝」よりも先に左衛門尉に任官していたことになる。これを信ずれば官途の面では時長の方が昇進が速かったことになるが、小山時長 - Henkipediaで述べた通り『鎌倉大日記』等に記載の没年および享年から算出すると当時7歳ということになり、再検討を要するところである。

*14:注4前掲紺戸氏論文 P.15系図、市村高男「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察 -系図研究の視点と方法の探求-」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.96。

*15:注3同箇所 および 南北朝列伝 ー 小山宗朝 より。

松葉実宗

松葉 実宗(まつば さねむね、1204年~1231年)は、鎌倉時代前期の武将、御家人

『平賀家文書』所収「平賀氏系譜」 *1によると、父は松葉資宗(助宗)。同系譜に母の記載は無く、わざわざ書かれている弟の松葉(平賀)惟泰(母:大中臣惟重の娘)平賀惟時(母:天野政景の娘)の異母兄なのかもしれない。別名、松葉 朝宗(ー ともむね)。

 

同系譜における松葉朝宗の注記の内容は次の通りである。 

「改実宗」

建保2(1214)年4月19日、鎌倉大臣殿、実名給はしむ。松葉新二郎と号す。(11歳)

安貞元(1227)年、修理亮に任官。

寛喜3(1231)年(月日分からず)、卒去。(21歳〔28の誤りか〕

 

鎌倉大臣殿」は当時の将軍・源実朝(鎌倉右大臣)に比定される*2

そして、実朝元服後の実名を与えたというその名は「」または「」であり、自身の偏諱を下賜したことは間違いない。実朝と松葉新二郎は烏帽子親子関係にあったと判断される*3。恐らく幕府御所で執り行われたものと推測されるが、父・資宗(すけむね)が実朝の学問所番衆を務めていた*4縁により実現したものであろう。資宗は建保7(1219)年に実朝が殺害されるとこれを悼んで出家している法名:行円)*5

 

資宗は「松葉遠江二郎*6または「松葉次郎*7と称されていたようで、「宗」字と「二郎(次郎)」の仮名を継いだ朝宗(実宗)はその嫡男であったことが窺えよう。 

「改実宗」については、「① 実宗と改む(朝宗→実宗)」とも読めるし、「② 実宗を改む(実宗→朝宗)」とも読めるが、同系譜で初名(改名前)を記す際には「初○○」と書かれる *8ようなので、①の可能性が高いだろう。当初実朝の下の字である「」を受けていたが、後に待遇を受けたのか、上の字である「」を許されたと考える方が自然ではないかと思う。

 

資宗の嫡男であった実宗だったが、30歳にも満たない若さで早世。当時の執権・北条泰時の烏帽子子であった弟の惟泰が代わって嫡子となった。

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脚注

*1:『大日本古文書』家わけ第十四 平賀家文書 二四八号 P.727

*2:『大日本古文書』家わけ第十四 平賀家文書 二四八号 P.726 にある「平賀氏系譜」資宗の注記より。

*3:山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』思文閣出版、2012年)P.181。

*4:武家家伝_平賀氏 より。

*5:注2に同じ。

*6:注2に同じ。

*7:吾妻鏡』建長2(1250)年3月1日条に「松葉次郎入道」、正嘉元(1257)年4月14日条に「松葉次郎助宗法師 法名行円」、同年8月12日条に「松葉入道」と登場し(『吾妻鏡人名索引』P.251「助宗 松葉」の項)、「平賀氏系譜」での注記と照合すれば、建暦2(1212)年3月16日条と建保元(1213)年2月2日条の「松葉次郎」(同書P.526:通称・異称索引)も出家前の助宗(資宗)に同定される。

*8:『大日本古文書』家わけ第十四 平賀家文書 二四八号 P.730 には平賀惟致(初め惟貞、また改め惟景)、その子・貞泰(初め惟常)の例が見られる。

平賀惟時

平賀 惟時(ひらが これとき、生年不詳(1230年代後半?)~1304年)は、鎌倉時代中期の武将、御家人

『平賀家文書』所収「平賀氏系譜」 *1によると、父は松葉資宗(助宗)、母は天野政景の娘*2。兄に松葉実宗(朝宗)平賀惟泰(異母兄)、弟に平賀泰実(のち油河定泰)*3、吉田経宗がいる。松葉惟時とも。

 

同系譜には「西明寺殿亭元服〔ママ〕」と記載されており、出家後 "最明寺禅室" 等と呼ばれた北条時頼(『吾妻鏡人名索引』)の邸宅で元服を遂げたことを伝える。「」の名は、頼から北条氏の通字である「」の偏諱を与えられたものとみられ、北条平賀惟は烏帽子親子関係にあったと判断される*4。「時」の偏諱を下(2文字目)に置いているが、時自身が九条経からの1字をそうしているように、この頃では珍しくもないことであった。或いは時頼同様、本来は惟泰(のち泰重)に対する庶子(或いは準嫡子)であったが故なのかもしれない。「惟」の字は惟泰の外祖父・大中臣惟重に由来するものかもしれない。 

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吾妻鏡』での初見は、建長2(1250)年12月27日条「平賀新三郎(実名の初出は同4(1252)年4月3日条「平賀新三郎惟時」)であり、系譜に「左衛門尉 叙爵」と書かれる通り、文応元(1260)年1月11日条「平賀三郎左衛門尉維〔惟〕」までに左衛門尉に任官したことが確認できる。

 

 

<最新年表> 

 1230年代後半?:松葉資宗の3男として生誕。

(時期不詳:1246~1250年)5代執権・北条時頼の邸宅にて元服

 建長2(1250)年12月より『吾妻鏡』に登場。

 

康元元(1256)年12月出家(法名:観円)。烏帽子親・時頼の剃髪に追随か。

 嘉元2(1304)年11月5日逝去。

 

 

脚注

*1:『大日本古文書』家わけ第十四 平賀家文書 二四八号 P.727

*2:「平賀氏系譜」には「母天野和泉前司女」と記されるが、「天野和泉前司」と呼称されたのは天野政景である(『吾妻鏡人名索引』P.455)。

*3:「平賀氏系譜」には「四郎右衛門尉」と注記され、『吾妻鏡』では文応元(1260)年正月1日条「平賀四郎左衛門尉〔ママ〕」、同年11月27日条「平賀四郎右〈左〉衛門尉泰実」、弘長元年正月1日条「平賀四郎右衛門尉」として3回登場(『吾妻鏡人名索引』P.326)。活動開始時期が遅れることからしても、当時の「平賀三郎左衛門尉惟時」の弟と判断される。泰実の「泰」は3代執権・北条泰時と直接の関係は無く、泰時の1字を受けた次兄・惟泰(泰重)からの偏諱であろう。

*4:山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』思文閣出版、2012年)P.181。

平賀惟泰

平賀 惟泰(ひらが これやす、1212年~1295年)は、鎌倉時代前期の武将、御家人

父は松葉資宗(助宗)、母は大中臣惟重の娘。兄に松葉実宗(朝宗)、弟に平賀惟時がいる。松葉惟泰平賀泰重とも。

 

『平賀家文書』所収「平賀氏系譜」 *1での注記の内容を整理すると、次の通りである(以下、年齢は数え年)。 

 

<A説>

● 貞永元(1232)年9月、左兵衛尉に任ぜられる。

● 貞永2(1233)年7月11日「武蔵前司入道殿(=北条泰時亭」にて元服15歳〔ママ〕)。

● 嘉禎元(1235)年、右衛門尉に任ぜられる。

● 延応元(1239)年発狂(21歳〔ママ〕

● 康元元(1256)年11月出家(法名:道円)

● 永仁3(1295)年逝去(84歳)

 

<B説>

上記の一部を「小系ノ年序誤多シ」として、次のように修正。

嘉禄2(1226)年元服(15歳)

貞永元(1232)年発狂(21歳)

永仁3(1295)年逝去(84歳)

 

 

永仁3年に84歳で亡くなったことは確かなようであり、逆算すると建暦2(1212)年生まれとなる。ここから算出される年齢の正確さから<B説>が正しいと分かる。恐らくは元服と「発狂」の年次は、<A説>での当時の年齢をそのまま採用して算出されたものであろう。

15歳で元服を行ったことも確かなようであり、その場所が北条泰時の邸宅であったことも認めて良いだろう。「」の名は、時が加冠役を務め、その偏諱を与えられたものとみられる。北条平賀惟は烏帽子親子関係にあったと判断される*2。尚、注記には「」と書かれており、のちに改名して泰時からの1字を実名の上(1文字目)に戴いたようである。惟泰の「惟」、泰重の「重」の字は、外祖父の大中臣惟重に由来するものであろう。

 

尚、惟時ら弟たちとは異なり、惟泰は『吾妻鏡』には登場しない。 

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<最新年表> 

建暦2(1212)年、松葉資宗の次男として生誕。

嘉禄2(1226)年7月11日、3代執権・北条泰時の邸宅にて元服(15歳)。

寛喜3(1231)年、兄・実宗が早世。代わって嫡子となる。

貞永元(1232)年9月、左兵衛尉に任ぜられるが、その後狂気のため出仕を停められる(21歳)。

 嘉禎元(1235)年、右衛門尉に任ぜられる。

康元元(1256)年11月、5代執権・北条時頼に追随して出家(法名:道円)。

永仁3(1295)年逝去。享年84。

 

 

脚注

*1:『大日本古文書』家わけ第十四 平賀家文書 二四八号 P.727

*2:山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』思文閣出版、2012年)P.181。

【特集】北条氏一門の得宗からの偏諱拝領者について①

系図類で北条氏一門の人名を眺めてみると、本家筋たる得宗から偏諱を受けた者が多く見られる。

先月は、『尊卑分脈』北条氏系図*1に見える人物を主に取り上げて、一字を拝領したとみられる者を紹介した。

 

2019-06-01から1ヶ月間の記事一覧 - Henkipedia

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改めて系図化すると、特に "得宗専制" 期にあたる時宗・貞時・高時3代にかけて対象者を増やしていったことが窺える。当初は名越流などが得宗に反抗的な姿勢を見せることもあったが、次第に得宗が他の一門を統制下に置いたことが窺えよう。 

 

        経時 

義時――時氏―時―

           ―政―師時―時茂

           ―頼―

        ―時定―定―随時

  ―朝時―時章―公時――――

     ―時長――夏時

     ――――教時―

     ――――時基――――

  ―重時――――長時―義時―

      ―――時茂―時範―

      ―――義政―時治―

  ―――――顕―貞将

時房――――時盛―政氏―盛房―

        ―時員―時国―

   ―――朝直―宣時―

   ―――時直―清時―時俊―

 

赤字親王将軍からの偏諱北条時も含む)

 

是非、詳しくは各人物の記事を参照していただきたい。

もちろん、対象者は上記のみにとどまらず、師時の子、時茂の兄として紹介した北条や、名越朝の項で取り上げたその長兄・名越基など、まだまだ候補者は大勢いるが、またの機会で考察してみたいと思う。

 

出典

*1:黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第4篇』(吉川弘文館)P.17~22。

大仏貞房

北条 貞房(ほうじょう さだふさ、1272年~1309年)は、鎌倉時代末期の武将・御家人。大仏流北条氏の一族で、大仏 貞房(おさらぎ ー)、坂上 貞房(さかのうえ? / さかうえ? さだふさ)*1とも呼ばれる。

 

詳しい活動経歴については

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その77-大仏貞房 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ記事)*2

を参照のこと。

以下、この「職員表」に従って記述する。

 

父親については、宣時とする説(『武家年代記』延慶元年条、『関東開闢皇代并年代記事』、『前田本平氏系図*3『正宗寺本北条系図』、その息子・宗宣とする説(『尊卑分脈』、『佐野本北条系図』)とあるが、後者の場合だと宗宣14歳の子供となってしまい、比較的不自然である。

加えて、山口隼正の研究により鎌倉時代後期に成立したと推定される『入来院本 平氏系図*4でも宣時の子(宗宣の弟)として記載され、このことを裏付けている。 

 

また、宣時の息子は皆、得宗家と烏帽子親子関係を結んだことが窺えるが、次兄・泰が北条時偏諱を受けた(長兄・宗宣も同じ)のに対し、(および弟・貞宣)は北条時の偏諱をもらっていることが分かる。時宗の死去により得宗および執権の座が貞時に継承されたのは弘安7(1284)年4月。これを境に、宗宣・宗泰はそれ以前、貞房・貞宣はそれより後の元服であったと推測可能である。

「職員表」によれば、貞房の生年は1272年と判明しており、1284年当時は13歳(数え年)元服の適齢である。貞時が執権を継いで間もない頃の元服であったと思われる。

実名は時からの偏諱」と、曽祖父・北条時房の「房」により構成されたものであろう。『前田本 平氏系図』には宣時の弟(『尊卑分脈』では兄)朝房の息子(房宣の父)にも同名別人の貞房(通称:四郎)を載せる*5が、名乗り方は同様であったと考えられる。

 

脚注

*1:貞房の息子・貞朝について、『正宗寺本 北条系図』では「遠江守」、『佐野本 北条系図』では「坂上遠江守。高時同時自害」と注記されており、『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」にある東勝寺合戦での自害者の一人「坂上遠江守貞朝」に一致する。故に細川重男氏は貞房の家系を「坂上家」坂上流北条氏)と呼称されている。同氏の著書『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.37、P.50 注(28) 参照。尚、「坂上」の読みについては 太平記 現代語訳 10-15 高時ら北条家一門、自害: 流れる水 に従ったが、或いは現在の鎌倉市内にある京急バスの停留所の名称「坂上(さかうえ)」がその名残とも考えられる。

*2:注1前掲細川氏著書 巻末「鎌倉政権上級職員表」(基礎表)No.77「大仏貞房」と同内容。

*3:注1前掲細川氏著書、P.379。

*4:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(上)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.4 および 同「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.7。

*5:注1前掲細川氏著書、P.380。