はじめに:2つの葛西氏系図
葛西氏(かさい-し)は、桓武平氏より分かれた秩父平氏の一族である。平将常(将恒)が武蔵介・藤原真枝を討った功により、将常 または 次男の武常(武恒)の代に下総国葛飾郡を与えられたことに始まり、武常の子孫である豊島氏の一門・清重が葛飾郡葛西庄の地名にあやかって「葛西三郎清重」を称したとされている。尚、葛西庄はのちに伊勢神宮領となって葛西御厨と呼ばれた土地である。
その清重以降、葛西氏の系図は大きく分けて次の2系統が伝わる*1。

▲【系図2】葛西氏(かさいうじ)とは? - コトバンク より
① 右側:江戸時代前期の延宝3(1675)年に仙台藩士の葛西重常(藤右衛門、晴信の弟・胤重の曾孫:胤重―重俊―重信―重常)が藩に提出した「平姓葛西氏之系図」に基づく、所謂「仙台系の系図」。『仙台葛西系図』や『葛西真記録』*2のほか、「龍源寺本葛西系図」や「仙台葛西家々譜書上控」がこれに属するという。
② 左側:高野山にある葛西氏創建の五大院に伝えられた、「陸奥国平姓葛西氏之系図」(通称「高野山五大院系図」とも)の流れをひく所謂「盛岡系の系図」。同系図は明治期の火災による焼失したようだが、「平姓葛西系図」(石井正吉氏写本、葛西雅氏所蔵)がその写本とされ、更にその抄録が『葛西史疑』(森谷一仁 著)*3の巻末に所収の「五大院葛西系図(抄録)」であるという。「中館系譜」や元禄年間(1688-1704)に作成されたという「盛岡葛西系図」もこの系統に属している。
どちらが正しく伝えているのかについては、2系統に分かれていたのではという想定も含めて未だに論争中の段階ではあるが、以下本稿では一つの見解として筆者なりの考えを述べたいと思う。
鎌倉時代:清時流葛西氏の創設と嫡流継承
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こちら▲の記事において、筆者は次のように推測した。
清重の曾孫である「伯耆左衛門四郎清時」*4が母方の千葉氏から頼胤の庶子・胤信(改め葛西清信)を養嗣子に迎え、葛西氏の「惣領」であった葛西宗清以降の惣領について、清時・清信の系統がその座を引き継いだものと考えた。宗清の名は、得宗・北条時宗の偏諱「宗」と通字の「清」により構成されたとみられる。そして、時宗の子・貞時の偏諱「貞」と通字の「清」により「貞清」と名乗ったのは清信の子であった。次いで貞清の嫡男・高清も貞時の子・北条高時の偏諱を賜っており、母は高時政権の最高権力者・長崎円喜の娘であったという(『中舘葛西系譜』)。従って、宗清の実質的な後継者は貞清であったとみられ、鎌倉時代後期以降は清信の系統が葛西氏嫡流の座を担ったと考えたい。
一方、清宗・清貞父子は清重以降の子孫が担っていた下総国香取社の遷宮を担当しており、この系統は奥州に下らず関東(同国葛西庄)に残っていたようだが、やがて陸奥葛西氏と関東葛西氏が嫡流の座を巡って抗争したものとみられる。仙台系・盛岡系2通りの系図が伝わるのもそのためであろう。
室町・戦国時代
葛西持信・朝信の実在
上記記事でも述べたが、筆者は養子云々はさておき、次の2つの観点から、盛岡系系図での葛西清信(きよのぶ)に始まる葛西氏の一流は存在したのではないかとみている。
- 盛岡系では各当主の母親に関する情報などかなり詳細に記され、作り話にしてはよく出来過ぎていること。
- 貞清の弟で甥・高清の後見人であったとされる葛西信常(のぶつね)や、貞清の曾孫・葛西満信以降の当主が「信」を通字としていること。
特に満信の子・葛西持信(もちのぶ)の実在は次の書状により認められる。
持信は、盛岡系の各系図で共通して文明元(1469)年6月3日に72歳で亡くなったとされ、その約1ヶ月前の段階で病にかかっていて死を悟っていたのか、譲状を書いていたことがこの【史料4】から分かる。逆算すると応永5(1398)年生まれで、元服時に4代将軍・足利義持(在職:1394年~1423年)から偏諱を賜り*6「持信」を称したと考えて辻褄は合っている。
宛所の「葛西壱岐守殿」は持信の跡を継いだ嫡男の葛西朝信(とものぶ)に比定され*7、その官職からも、持信父子は壱岐守清重や伯耆守清親の直系子孫にあたると考えて良いと思う*8。
戦国時代の内部抗争
朝信のあと、嫡男・葛西尚信(ひさのぶ)が早世したため、弟(持信の子)の葛西政信が家督を継承したと伝えられる。この政信と伊達氏から養子入りした葛西宗清*9(前述の宗清とは同名別人)との間での抗争を経て、次代の葛西晴重をもって、2つの葛西氏が統一された様子である。
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続く葛西晴胤は、自身の花押を据えた(年不詳)7月9日付・「江刺彦三郎殿」宛て「葛西晴胤書状」などで実在が認められ、伊達稙宗・晴宗父子間での内紛である天文の乱(1542~1548年)の際、晴宗に協力し、葛西氏に養子入りしていた稙宗の子(晴宗の実弟)「葛西牛猿丸」を倒して伊達氏との同盟関係を強めたという。「仙台葛西系図」*10等では稙宗の子を「晴胤」とし、『伊達族譜』でも晴宗の弟に位置付けて「義晴公、晴ノ字ヲ賜フ、小字ハ牛猿、葛西三郎、左京大夫従四位下、葛西ノ主・陸奥守平晴重、娘ヲ配シメ嗣トナス(=すなわち晴重の婿養子)、法名健蓮可梁」と記載されるが、牛猿丸の元服後の実名としては「晴清」(『源光寺過去帳』)の方が相応しいだろう。
というのも、晴胤の「胤」は清信を輩出した千葉氏の通字(【系図1】の常胤以来代々の使用文字)に由来すると考えられ、子の親信(義重)・晴信も含め、「胤信(清信)の子孫である」という自認があったと見受けられる。かつて千葉氏の血を引く政信にも対抗していた伊達氏の出身者が「胤」の字を使うとは到底思えない。
伊達氏から宗清が養子入りすることになった経緯は分からないが、牛猿(晴清)の場合は父・稙宗による政略結婚や養子縁組を通じた大崎・上杉など周辺の勢力取り込みの一環として、葛西氏への入嗣が行われたと判断される(但し、稙宗の子を書き出した「伊達稙宗同晴宗子女書出」*11に牛猿丸ないしは晴清の記載が見られない)。その生年から判断するに、晴胤(1497-)より後に晴清(1517-)は元服を遂げ命名されたと考えられる。宗清も晴清も、本来の葛西氏の通字であった「清」を付すことで、我こそが葛西氏家督に相応しいという正当性を示す狙いがあったのかもしれない。
偶然の病死か、それとも戦死・暗殺等なのか、晴清は天文の乱の最中の天文16(1547)年に亡くなり、最終的に家督相続人は晴宗と結んだ晴胤で落ち着くこととなる。
よって、盛岡系系図が示すように、晴重は政信の子で、晴胤は晴重の「実子」であったとするのが妥当であろう。
*ちなみに、晴重・義重らの「重」は家祖・清重に由来するものであろう。親信の「親」も清重の子・清親に関係すると思われる。
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葛西晴信については、複数点の書状のほか、親交のあった伊達政宗(晴宗の孫)が天正19(1591)年12月13日付で秋保定重に宛てた書状の中にも「月鑑妻子者、葛西晴信之姉ニ候間…」とあって(『政宗君治家記録』)、姉とともに実在が確認できる。
仙台系系図編纂の作為的な意図
さて筆者は、仙台系の葛西氏系図は作為的に編纂されたものではないかと見ている。
江刺氏と仙台系系図
まず、清貞以降の子孫が本当に続いたかどうかが怪しい。
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というのも、こちら▲における仙台系各当主のページにて、葛西氏一族という江刺氏の系譜が紹介されているが、これを仙台系の葛西氏系図を照らし合わせると、人名や官途でかなり多くの共通が見られるからである。
【系図6】『葛西江刺守家譜略伝』(『岩手県史』所収)と仙台系葛西系図 各々一部の比較
武蔵守 三郎兵衛 備前守 播磨守 三郎二郎 左京大夫
清定――満良―――満隆――持重―(3代略)―信重―――満重
武蔵守 備前守 播磨守 孫三郎 陸奥守
清貞―良清―満良―満清――持重―――――信重―――満重
【系図7】『葛西江刺守家譜略伝』による略系図
葛西清重─重高─兊清─尚重─忠清─義清─清親─清昭─清経─清定─┐
┌────────────────────────────────────────┘
└─満良─満隆─持重─満胤─隆友─持胤─信重─満重─┐
┌───────────────────────────────┘
└─満清─宗満─重親─┬─重任─輝重─重恒(南部盛岡藩士)
└─葛西晴重─時胤─晴胤─義重─晴信
【系図7】にある通り、江刺氏系譜は清重と伯耆守清親の間に何故か5代が加えられ、時代的に合わなかったり、かなりの混乱が見られたりするため、そのまま信用することは不可能で、葛西晴重が実は江刺重親の子だったというのも他の史料等での立証は難しい。
ただ、仙台系葛西氏系図もまた、良清から満重に至る歴代当主が実際の史料上で確認できない。
そこで筆者が思うには、仙台系系図が示す葛西氏の系統、前述でいう関東葛西氏は、実は存在しなかった、もしくは仮にそういう系統が在ったとしても、江刺氏から養子が入ることで何とか繋げていった可能性が考えられるのではないかということである。
ちなみに江刺氏については、晴胤の書状を受け取ったという、前述の江刺彦三郎(実名不明)や、晴胤の舅(親信の外祖父)である江刺隆見がその一族であろう。
(参考ページ)
● 武家家伝_江刺氏
● 近世こもんじょ館 きろく解読館 ― 江刺
葛西武蔵守宗清
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詳しくはこちら▲をご参照いただければと思うが、満重に養子入りした葛西宗清については、その実在を確認し得る史料類が残されているという。
まず、東山興田妙見神社(現・一関市大東町鳥海)には、明応7(1498)年6月1日付で「奉妙見社頭御造栄所 大檀那平宗清」と書かれた棟札が奉納されている。冒頭で紹介の通り、葛西氏は桓武平氏の支流で、平姓の一族であったから、比定し得る条件は満たしている。
次いで、永正11(1514)年の成立とされる『余目記録』には、奥州探題・大崎教兼(左衛門佐)が「葛西陸奥守殿」へ宛てて書状が送られていたことが見え、それに対しての返答は「武蔵守宗清」が行っていたようである。
その他、紀伊国熊野大社に奉納された葛西一族の奉加帳の筆頭に「前武蔵守宗清」の名が見え(熊野速玉大社内熊野神宝館)、某年5月28日付の牧沢伊豆入道へ宛てられた「宗清」の書状(『中尊寺文書』)もあって、花押の一致からこの両者は同一人物と見なせる。
仙台系系図の作成
繰り返すが、仙台系の葛西氏系図は、延宝3(1675)年12月20日に仙台藩士の葛西重常が同藩(当時の藩主は政宗の曾孫である4代・伊達綱村)に提出した由緒系図を基としている。
筆者が思うに、系図を提出するにあたり、宗清、晴清と伊達氏からの養子を2度も排斥した過去が申し訳なかったのではないかと考えられる(もちろん晴清の場合は、伊達晴宗側に味方した経緯でやむを得なかったのであり、本来不都合ではないと思うのだが)。そのため、晴胤=伊達氏からの婿養子「牛猿丸」ということにしておいて、晴重死後の晴胤・晴清による家督争いを "揉み消した" ということであろう。
しかも、そうすることで晴胤以降の葛西氏が伊達氏の血を引くこととなるので、藩士としてその後も重用されるため、或いは伊達氏一門に準ずる待遇を狙っていたのだとすれば、その方が都合が良かったということも考えられると思う。尚、この "改竄" は必ずしも重常の代でなくても良く、晴胤から重常に至るまでの間で成され、伝えられていったが故に、重常本人が本当に実態を把握していなかった可能性も含めるものとしたい。
だが、そのためには宗清と抗争した政信、ひいてはそれ以前の存在を抹消する必要があったと思う。盛岡系歴代当主の実在を確認できる史料は、今日においても【史料4】くらいで、葛西氏に関する史料は編纂当時も集まってなかったのかもしれない。それを良いことに、江刺氏系譜を交えながら、今日「仙台系」として伝わる葛西氏の系図を作り上げたのではないか。
そもそも筆者が仙台系に対し否定的に見る理由は、持重以降、足利将軍家(或いは関東拠点であれば鎌倉公方)からの偏諱を受けていないのがやや不自然に感じるからである。持重の子・信重は、実在が確認できる史料も無いことから、親信・晴信の「信」の由来と思しき清信を否定したのに代わって作られた人名ではないかとみている。
更に言えば、『葛西江刺守家譜略伝』では持重と信重の間に「満胤―隆友―持胤」の3代を挟む(【系図7】)が、特に満胤と持胤はいかにも後世の晴胤命名にあやかった祖先として、千葉氏に代わり作られた人名である感じが否めない。もっとも、持胤には「永正十七年(=1520年)卒」という注記があるが、来孫(玄孫の子)の重親にも同じ記載がある上に、雲孫(8代後:玄孫の玄孫 あるいは 孫の孫の孫の孫)である晴胤が当時存命であったというのはどう考えても無理がある。
前述した『余目記録』にある「葛西陸奥守殿」も、「武蔵守宗清」の養父と見なすのはまだ良いとは思うが、仙台系系図が示すように、本当にその実名が「満重」であったかどうかというのは厳密には断定できないだろう。
盛岡系系図に関する考察
一方、盛岡系系図については、全ての情報が正しくないにせよ、仙台系系図に比べると一定の信憑性は認めても良いように思う。
葛西持信から政信に至るまで
一部は前述の通り、【史料4】から実在が確認できる葛西持信の周辺について、少なくとも生没年は「五大院葛西系図(抄録)」や「盛岡葛西系図」等、盛岡系の各系図の記載通りでほぼ間違いないと判断できる。再度ここで情報を整理しておきたい。
持信は応永5(1398)年生まれで4代将軍・足利義持の偏諱を受け(「中館系譜」)、文明元(1469)年、5月7日に譲状を出した後、6月3日に72歳で亡くなったとみて良いだろう。
その嫡男・葛西朝信は持信が数え30歳の時の子(1427年生まれ)で、1470年(【史料4】)当時44歳で壱岐守在任であったことになる。
すると、文明15(1483)年に33歳で没したという、朝信の子・尚信は1451年生まれとなるが、父・朝信との年齢差を踏まえると十分妥当であると思う。「尚」の1字も、在世当時の9代将軍・足利義尚(在職:1474年~1489年没)の偏諱を許されたものとみられるから、その補強となるだろう。
その跡を継いだ政信は、永正3(1507)年に74歳で没したとされ、逆算すると1434年生まれ。持信の子、朝信の弟として全然問題ない生年であり、少なくともこれはほぼ信ずるに値すると思う。「五大院葛西系図」での注記によると、初名は信勝(のぶかつ)で、1483年の甥・尚信の早世により家督を継承し、同年9月に上洛した際に将軍〔ママ〕・足利義政の偏諱を賜って「政信」に改めたという。当時、将軍は義尚であったが、政務の実権をめぐって義政と父子間で確執があったようで、義政は政務からの引退を表明した文明17(1485)年12月以降も対外交渉と禅院に関する事項については依然として実権を握り続けていたという*12。政信が甥と同じく将軍・義尚ではなく、その父・義政から一字を拝領することになったのもその前触れなのかもしれない。
葛西稙信と葛西晴重
「五大院葛西系図(抄録)」を見ると、政信の男子は3人あったといい、豊田知定の娘との間に生まれた、長男・信高(のぶたか)は葛西兵庫助信常(前述の信常とは別人であろう)、次男・信兼(のぶかね)は西館信実に、それぞれ養子入りし、千葉師胤の娘との間に生まれた3男の稙信が正嫡になったという。そして、その「稙」の字は永正11(1514)年3月に上洛して10代将軍・足利義稙に拝謁した際に賜ったものであるとも伝える。
ところが、同じく盛岡系の「盛岡葛西系図」では、跡を継いだ3男を晴重とする。初名は重信(しげのぶ)で、大永2(1522)年に12代将軍・足利義晴(在職:1521年~1546年)の御字を拝領して「晴重」に改めたのだという。
しかし、稙信・晴重は各々の系図で、法名道貞(どうてい)、天文2(1533)年12月21日に65歳で亡くなったという記載が共通しており、とりあえず同一人物を指すと考えて良いのではないか。逆算すると1469年生まれで、政信36歳の時の子であったことになる。
では、稙信か晴重、どちらの名前が正しいと判断できようか。
そもそも筆者は、晴重・晴胤(1497-)・晴信(1534-) 3代の「晴」はいずれも義晴の偏諱を賜ったものと判断されるが、「晴重」の名乗りについては懐疑的に見ている。
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こちら▲の記事では、永正18(1521=大永元)年8月23日(ちょうどこの日「大永」に改元)、「右馬頭尹賢(=細川尹賢(ただかた))」が「葛西三郎殿」に対して「御字、就被申給、御音信」について「禅昌院」を遣わしたとする書状(『浜田家文書』、後掲【史料10】参照)を紹介の上で、その「葛西三郎」を、次期将軍として7月28日に京都で元服した義晴(この当時、征夷大将軍は一時的に空席であった)の「御字(=偏諱)」を賜った晴重に比定されている。前述の生年に従うとこの当時53歳。恐らく前述「盛岡葛西系図」での晴重の記述もこの見解を採っているのだと思うが、どうであろうか。
義晴の在職期間を考えると、元服の際に直ちにその一字を拝領し得るのは晴信であると思う。従って、父・晴胤も義晴治世下で「晴」の偏諱を許されているので、一応前述の『伊達族譜』に「義晴公、晴ノ字ヲ賜フ」とあるのは妥当だと思うのだが、厳密には「晴」の字を受ける前の初名があったと考えるべきであろう。そしてそれは晴重にも言える。
ここで、この頃の葛西氏家督について、改めて次のように纏めてみた。
【表9】戦国期葛西氏の生没年と初名
|
人名
|
生没年
|
初名
|
★
|
|
葛西稙信
|
1469-1533 |
重信 |
45
|
|
葛西稙清
|
1493-1531
|
守信
|
21
|
|
葛西晴胤
|
1497-1555
|
高信
|
-
|
★は、1513年に将軍・足利義尹(2次政権在職: 1508年~1522年)が「義稙」に改名した当時の年齢であり、「五大院葛西系図」曰く、この翌年に稙信・稙清父子は一字を拝領したことになる。つまり、この当時の葛西氏は10代前半での元服時にいきなり偏諱を賜るのではなく、改名による一字拝領という形を採っていた。
*ちなみに、前述の細川尹賢の「尹」は義尹時代に賜った偏諱であり、義尹(義稙)在職中でもある1521年に「右馬頭尹賢」名義の書状が出されていることに問題は無かろう。
それは晴胤も同様で、生まれた当時の将軍は義尹の前の足利義高(在職期間:1495年~1508年、1511年逝去)であったが、晴胤がまだ6歳の1502年に「義澄」に改名してしまっているので、初名の「高信」は義高の偏諱を受けたものではないと判断される。「高」は祖先・平高望に関係するものかもしれない。
1521年の「葛西三郎殿」に話を戻すと、幼名ではなく元服済みであったことが窺えるから、元々別の初名を名乗っていたところに足利将軍家からの「御字、就被申給」の話が出たと考えられるが、無官であることからしても当時53歳の稙信(晴重)よりは、当時25歳の晴胤の方がまだ適しているのではないかと思う*13。これについては、次節での考察も根拠になるので、併せてご参照いただければと思う。
従って、重信が「晴」の字を拝領して「晴重」と名乗った史料的根拠は無くなるので、その改名後の名前としては「稙信」が相応しいと思う。同じ盛岡系の流れを汲む系図同士でも、比較的古い「五大院葛西系図」の方が信憑性が高いと言えよう。
『浜田家文書』所収の細川氏書状3通に関する考察
葛西氏の一族である浜田家には、永正18(1521)年(=前述にて言及した細川尹賢書状)から寛文9(1669)年に至る文書36点が纏められた『浜田家文書』が伝来し、岩手大学図書館のHP上で各書状の写真と翻刻が公開されている*14。
そのうち、尹賢書状も含めた3通では、葛西氏当主の "御字拝領" を祝す記述が確認できる。本節では、その3通を掲げた上で、各宛所の葛西氏が誰に当たるかについて検証してみたいと思う。
尚、「御字(おんじ)」とは、「字」に尊敬・敬意を表す接頭語の「御」を付した言葉で、ここでは天皇・皇族・将軍など高貴な人物のお名前(=御名)の字、すなわち「御一字」、また本ブログで言う「偏諱」と同義である。この前提で論じていきたいと思う。
【史料10】(永正18(1521=大永元)年)8月23日付「細川尹賢書状」(『浜田家文書』)
御字就被申給御
音信殊太刀一腰五
百疋贈給候令悦候
仍太刀一振段子
一端赤 引合十帖分候
祝儀至候而禅昌院
可有演説候恐々謹言
八月廿三日 右馬頭尹賢(花押)
謹上 葛西三郎殿
----------
(裏面付箋)
永正十八年十月二日到着
下向後大永ニカハル
【史料11】(天文18(1549)年)9月11日付「細川晴賢書状」(『浜田家文書』)
御字御拝領之儀
太刀一腰黄金五両
給候誠祝着之至候猶
鴨井次郎左衛門尉可申候恐々
謹言
九月十一日 右馬頭晴賢(花押)
謹上 葛西左京大夫殿
----------
(裏面記載)天文十八年十月日到着
【史料12】(元亀2(1572)年)8月17日付「細川藤孝書状」(『浜田家文書』)
公方様義御字
御拝領珍重候
特被染 御筆候
尤御面目玉候重々
御礼可被申入事
肝要存候可得御
意候恐惶謹言
八月十七日兵部大輔藤孝(花押)
謹上 葛西三郎殿
----------
(裏面記載)
冨松下
元亀二年九月吉日
到着
まず、各書状の発給者である、尹賢・晴賢・藤孝はいずれも細川氏に比定される。
尹賢・晴賢・藤孝それぞれも、足利義尹(義稙)・義晴・義藤(義輝)の各将軍から偏諱を賜っており、"御字拝領" がいかに喜ばしいこと、有難いことかということを身をもって知っていたであろうから、親交のあった葛西氏にも「御字」が与えられると聞いて祝意を述べたのであろう。
【史料10】については前述したので割愛する。
【史料11】では、晴賢から「葛西左京大夫」に対し、「御字御(ご)拝領の儀……誠に祝着の至り候(そうろう)」と祝っている。つまりこの左京大夫は、足利将軍からの「御字(=偏諱)」を賜った人物であることが分かる。
【史料12】でも、藤孝が「葛西三郎」に対し、「公方様の義の御字の御拝領は珍重(めでたいこと/祝うべきこと)である」と述べている。公方とは将軍のことであり、当時のそれ=足利義昭から「義」の御字が三郎へ下賜されたことが分かる。
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この「葛西三郎」については、こちら▲の記事でも言及の通り葛西義重に該当するだろう。【史料12】から僅か6年後の天正6(1578)年に興田妙見神社を改修したことを示す棟札にも「大檀那平義重□部少輔」の名が見え、その間に官職を得たことも窺える。尚、この興田妙見神社には、前述したように「大檀那平宗清」と書かれた棟札が奉納されており、宗清・義重はともに平姓葛西氏と見なせる。
義重は永禄15(1573)年に21歳の若さで亡くなった(『葛西真記録』・『平葛西末永両家系』)とされ、逆算すると1553年生まれとなるが、没年については棟札との兼ね合いから検討を要する。ただ、父・晴信との年齢差や【史料12】の頃に一字拝領ということを考えると、生年はその頃とみて良いと思う。
【表13】「五大院葛西系図(抄録)」に基づく戦国期葛西氏の生没年
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諱
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生没年
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稙信
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1469-1534
|
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晴胤
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1497-1555
|
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親信
|
1513-1560
|
|
晴清
|
1517-1547
|
|
晴信
|
1534-1597
|
【史料11】の「葛西左京大夫」は晴信に比定し得ると思う。そもそも左京大夫とは、正五位上相当の、左京職の長官であり*18、この頃は、嫡流が管領の地位に就くとともに代々右京大夫に任じられたことから唐名に因んで「京兆家」と称されていた細川氏に対し、その盟友的存在の有力守護大名が左京大夫に任じられていた。細川政元期の赤松政則、細川高国期の大内義興、細川晴元期の六角義賢がその例に当たり*19、上記3史料より細川氏とのやり取りが窺える葛西氏もその資格を有していたのだろう。
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こちら▲の記事では、【史料11】から僅か11年後の永禄3(1560)年4月24日、「葛西壱岐守平晴信」が報恩山永徳寺に「亡親石見守平親信」のために「伊澤郡永徳寺一村」を寄進したという文書(『報恩山永徳寺文書』)を紹介しつつも、「晴信は壱岐守に任官していないため疑問が残る」とする。しかし「五大院葛西系図」によれば、親信は同月11日に亡くなったばかりであり、そうであればこの行動は決して不可解なものではないと思う。
ja.wikipedia.org
また、こちら▲のページに紹介の、戦国時代の左京大夫任官者(※恐らく、系図等で伝わるのみの者も含む)の中には、前述の大内義興の子・義隆(左京大夫任官後、筑前守も兼務)のように左京大夫に次いで国守に任官したケースも確認できる。任官順にこだわらなければ、徳川家康(三河守、のち左京大夫 など)や土岐頼芸(修理大夫・美濃守)なども似たようなケースだし、南北朝時代の畠山国清も頼芸と同様、修理権大夫(従四位下相当)の後に、祖父にゆかりの阿波守(従五位下相当)の官職を得ている*20。
すなわち、晴信が左京大夫の官職を得て、官位相当の面ではランクダウンではあっても、のちに家祖・葛西清重や【史料4】の「葛西壱岐守殿」(=朝信)などにゆかりのある壱岐守(従六位下相当)に任官するということは決して有り得ないことではないと思われる。
もちろん、もう少し厳密に、残存する晴信の書状など他の史料との照らし合わせは必要であり、筆者はそれらを確認しきれていないのではあるが、とりあえず【史料11】の「葛西左京大夫」が「葛西壱岐守平晴信」の僅か11年前の同人であった可能性も十分あり得るものとして、ここではそう結論付けておきたい。
*このような曖昧な感じになっているのは、【表13】に従うと【史料11】当時、晴信が16歳で左京大夫であったことになり、これに疑問が残るためである。しかし【表13】の生没年が絶対的に正しいとも限らないので、もう少しそのあたりで検討の余地はあるだろう。機会があれば別稿にて改めて検証してみたいと思う。
まとめ
以上の考察により、筆者は盛岡系系図に基づき、葛西氏家督の系譜を次のように推測する。
【系図14】筆者による室町時代中・後期の葛西氏推定系図②
持信┬朝信─尚信
└政信─稙信┬(稙清?)
└晴胤─親信┬晴信─義重
└胤重
(参考ページ)葛西氏系譜の再考
● http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/kasai3.htm
● https://www.esashi-iwate.gr.jp/bunka/wp/wp-content/uploads/2021/11/saikachi_manual20220221.pdf
脚注