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偏諱に関するコラムを綴る。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。鎌倉幕府御家人などの名前に着目し、誰から1字を貰ったかについての個人的な見解も論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

京極頼氏

佐々木頼氏(ささき よりうじ、1242年~1297年2月1日)。鎌倉時代の武将、鎌倉幕府御家人。通称は対馬太郎、佐々木対馬太郎左衛門尉。左衛門尉。豊後守。

のちの京極氏となる家系に生まれ、京極頼氏とも呼ばれる。

佐々木氏信の長男。弟に範綱・満信・宗綱、子に氏綱・貞頼がいる。

 

 

北条時頼の烏帽子子

尊卑分脈』の頼氏の傍注には「永仁五二一死」、『系図纂要』にも「永仁五年二ノ一卒五十六」とあり、更に『続群書類従』所収の「佐々木系図」には「永仁五正卒、年五十六」と注記されている*1ので、命日(正月 or 2月1日)が異なるものの、1297年に56歳 (数え年) で亡くなったことは確かなようであり、逆算すると1242年生まれとなる*2

「氏」の字は父・氏信から継承したもので、「頼」が烏帽子親からの偏諱ということになろう。5代執権・北条時頼の代の活動が確認できるにもかかわらず、先行研究では時頼が執権および得宗家当主となる前から活動が確認できるという理由により、この「頼」の字は時頼とは関係がないとされている*3

吾妻鏡』における頼氏および父・氏信の登場箇所を『吾妻鏡人名索引』*4によって表にまとめると次の通りである。 

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 「対馬太郎」とは父が対馬守で、その長男ということで付けられる通称名である。しかしながら、寛元年間の段階で氏信がまだ対馬守になっていないことは同じく上の表から明らかであり、当時の頼氏が「対馬太郎」を称するはずは無いのである。よって、寛元年間の「対馬太郎」は頼氏とは別人と判断されなくてはならない

すると、生年の翌年(1243年)から現れるという点、翌寛元2(1244)年から13年の間登場しないという点、この2点に関する不自然さも解消される。前述の生年に基づいて元服の年を推定すると1251~1256年*5となるが、当時の執権である時頼を烏帽子親として元服し、1257年に初出すると考えて全く矛盾はない。

従って氏は、北条時から「」の偏諱を賜った人物であると考えて良いと判断される*6

上表に従えば、正嘉元(1257)年から文応元(1260)年の間に左衛門尉に任官したようだ。

  

分家を選んだ佐々木頼氏の立場と生涯

紺戸淳 氏は、得宗家の一字付与は特定の御家人嫡流との結合のみに利用されたとし、『尊卑分脈』以下の系図類で頼氏が嫡流の系統から外れており、頼氏が時頼の偏諱授与者でないという前提で、嫡男であった弟の綱が北条時偏諱を受けたとしていた*7

確かに、頼氏の系統が嫡流にならなかったのは事実のようであるが、前述の通り、頼氏は時頼の偏諱を賜っていた。もし紺戸氏の考えに基づくならば、頼氏は当初嫡流を嗣ぐべき者=嫡男であったことになる*8。しかし、のちの京極氏となる嫡流の地位は、弟・宗綱の系統に移っている。どう解釈すべきであろうか。

これは紺戸氏自身が紹介されている足利頼氏(初め利氏)の例が参考になるのではないか。すなわち、利氏の長兄にあたる家氏が当初、家督継承者が称する「足利三郎」を名乗っていたが、得宗家出身の母親を持つ利氏に嫡子の地位が移ったので、以後利氏が「三郎」、家氏が「太郎」を称し、利氏はのちに伯父・北条時頼偏諱を受けて「頼氏」に改名したという*9

同様に、母親の出身の違いによって、佐々木頼氏から将軍家右衛門佐(阿野実遠娘) を母に持つ佐々木宗綱に嫡男の地位が移ったと解釈しても決しておかしくはない。特に頼氏と宗綱の間で家督を巡る争いがあった史実は確認されないので、円満に解決されたものと推測され、以降は当主・宗綱の良き兄・補佐役として支えたものと思われる。 

 

弘安8(1285)年に霜月騒動が起こると、頼氏・宗綱兄弟は幕府側として安達氏らの討伐に加わって勝利に貢献し、各々恩賞として、宗綱は能登守、頼氏は豊後守に任官された。『吾妻鏡』以後の年代における頼氏の華々しい活動であり、系図類でもこぞってこのことを記している。

尊卑分脈』:「左門尉 豊後守、城陸奥入道追討之時依致合戦之忠預恩賞受領」

系図纂要』:「佐々木豊後守 城陸奥入道追討仍軍忠受領」

続群書類従』所収「佐々木系図*10:「追討城陸奥之賞、豊後守、」

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▲徳源院本「佐々木系図」か(https://www.arakawa-yasuaki.com/information/sasaki-kyogoku-ujinobu-graveyard.htmlより拝借)、この系図にも「豊後守 城陸奥入道追討時忠功励恩賞受領」とある。

 

*城陸奥入道… 秋田城介、陸奥守であった安達泰盛のこと霜月騒動の前年、北条時宗の死去に追随して出家し「覚真」と号した。

 

この頃であろうか、『尊卑分脈』以下の系図類によれば、宗綱の当初の嫡男であった佐々木時綱が父に先立って17歳で早世した。次いで後継者に指名された時綱の弟・貞宗は弘安10(1287)年生まれで、その当時はまだ幼少であったので、存命であった父・氏信と共に、そうした不安定な家庭状況の中でも頼氏の存在は欠かせなかっただろう。 

 

父の死から数年も経たない1297年、56歳で死去。弟の宗綱も後を追うかの如く、同年9月に亡くなっている。

▲清瀧寺徳源院 内、京極氏歴代の墓の配置図。画像は https://signboard.exblog.jp/25724750/ より拝借。

 

生前、氏信が弘安9(1286)年に建立し、その後京極家歴代の菩提寺となった清瀧寺徳源院には、弟・宗綱以降の歴代当主に並んで頼氏の墓もある。このことからも頼氏が当時の佐々木氏において重要な人物であったことが窺える。氏信・頼氏父子が家督継承者の宗綱をよく支え、その後の京極氏の基礎を築いたのである。

 

備考

父・氏信について

系図纂要』の傍注には「……康元元年 辞使従五下対馬守…(中略)…永仁三年八ノ十三卒七十六」と書かれており、『続群書類従』所収の「佐々木系図」にも「対馬近江守…(中略)…永仁三五三卒、七十六歳」と、命日以外はほぼ同じ内容で注記されている。同様の内容は『尊卑分脈』でも確認できる。

康元元年から対馬守であったことは『吾妻鏡』の記載に一致し、永仁年間に76歳で亡くなっていることは、冒頭の頼氏の生年を裏付けるものとなる。

 

寛元年間の対馬守について

では、寛元年間の「対馬太郎」は誰なのか、その父にあたる当時の対馬守を推定する必要がある。近い時期に対馬守(または前対馬守)であった人物は以下のように確認された*11

 

矢野 (三善) 倫重

嘉禎3(1237)年1月24日「対馬守」(『関東評定衆伝』)

仁治元(1240)年1月15日「対馬前司」(『吾妻鏡』初見)

寛元2(1244)年6月4日「前対馬従五位上三善朝臣倫重死去年五十五」(『吾妻鏡』)

対馬前司(人物不詳):寛元2(1244)年7月16日 ~ 20日 (『吾妻鏡』)

矢野 (三善) 倫長

建長3(1251)年1月22日「対馬守」(『関東評定衆伝』、『吾妻鏡』では同年6月5日初見)、建長4(1252)年4月30日「対馬前司」(『吾妻鏡』初見)

 

矢野倫重(ともしげ)は死ぬまで対馬前司(=前対馬守)と呼称されており、 寛元年間当時の「前対馬守」が倫重であったことが分かる。従って、当時の対馬守は倫重の次に任官された人物となり、倫重の死去からわずか1ヶ月後の段階で対馬守を辞している「対馬前司」と同人と考えて良いだろう。

ちなみに、倫重の子・倫長(ともなが)*12ものちに対馬守となったが、直ちに継承したわけではないようである。細川氏のまとめでは承元4(1210)年生まれで兵庫充・少外記・筑前介を歴任し*13、『吾妻鏡』でも寛元年間当時「外記大夫」と呼ばれていた*14ようなので、倫長が前対馬守の子として「対馬太郎」と呼ばれたとするのは難であり、やはり倫長とも別人ということになる。

残念ながら、これ以上は手掛かりがなく人物特定は困難であるが、倫重の次に対馬守となった、寛元2年7月に見える「対馬前司」の長男が、同年1~2月に活動を見せる「対馬太郎」だと分かった。佐々木氏信が対馬守となるのは矢野倫長よりもずっと後の事であり、頼氏に比定していた『吾妻鏡人名索引』が誤っていたのである。 

 

脚注

*1:福島金治 『安達泰盛鎌倉幕府 - 霜月騒動とその周辺』(有隣新書、2006年)P.179。

*2:これは父・氏信との関係からみても妥当な時期である。氏信の生きた年代については本文の備考①を参照のこと。

*3:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(『中央史学』二、1979年)P.17・18・26。

*4:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*5:前掲紺戸氏論文の手法に従い、元服の年齢を数え10~15歳と仮定した上での算出。

*6:子の貞頼も北条貞時偏諱授与者であったと推測される。

*7:前掲紺戸氏論文・同箇所。

*8:頼氏の弟で宗綱の兄である範綱と満信は明らかに得宗偏諱を受けていない。範綱は別名「範頼」とも伝えられ、同様に時頼の偏諱を受けた可能性もあるが、偏諱を下に置くその名乗りから庶子扱いであったとみられる。満信(初め満綱)の場合は「綱」が佐々木氏の通字、「信」が父・氏信から継承した字であるから、「満」が烏帽子親からの偏諱とみられるが、姉または妹の嫁ぎ先である吉良満氏からではないかと思われる(字の由来は満氏の祖先にあたる源満仲か)。

*9:前掲紺戸氏論文、P.13。

*10:注1前掲箇所。

*11:前掲『吾妻鏡人名索引』P.507、第Ⅱ部-(1) 通称・異称索引「対馬守」および「対馬前司」の項目 に拠った。矢野父子については、細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表」No.181・182も参考とした。

*12:前掲細川氏著書、P.412に掲載の康信流三善系図より。

*13:前掲細川氏著書「鎌倉政権上級職員表」No.182。

*14:寛元2年4月21日条。前掲『吾妻鏡人名索引』P.448 に拠る。

河越高重

河越 高重(かわごえ たかしげ、1300年代初頭? - 1340年頃?)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、河越氏嫡流の当主。通称は次郎。三河守。

 

河越高重 - Wikipedia

本項は、Wikipediaに準拠し、法名:円重といった誤りの指摘や、経歴の追加など、史料・文献等の再分析による高重についての筆者独自の論考である。

 

 

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以前の記事▲では、北条氏得宗家の偏諱を受けていたことを中心に、鎌倉時代の河越氏についてご紹介した。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

▲そして、前回記事では鎌倉時代初期の河越氏当主についてその年代(世代)を推定した経歴表を載せている。上記2記事も合わせて参照いただければと思う。

 

 

鎌倉幕府滅亡時の河越氏 と 高重

**太平記』「河越三河入道円重」  ≠ 高重 説 **

建武記』(『建武年間記』)には関東廂番(ひさしばん)の一番の一人として「河越次郎」の存在が確認できる*1。河越氏嫡流の通称である「河越次郎」*2を名乗っていることから、系図上では貞重の嫡男に位置付けられる*3

その名乗りから、北条時が得宗家当主であった1311~1333年の間に元服したと思われるので、早くとも1300年前後、遅くとも1320年代の生まれと推定され、関東廂番となった建武元(1334)年の段階では若年かつ無官で「次郎」を称していたと考えられるので、子とされる直重(1320年代後半の生誕か、後述参照)との関係も考慮して、1300年代の生まれではないかと思われる。

 

佐野本「秩父系図」には三河守貞重の子・高重の注記に「三河守、法名円重、元弘乱時、預平宰相成輔伴下于関東、」とある*4が、これは『太平記』に、元弘の変(1331年)の折、斬罪の処分が下った平成輔を鎌倉まで護送する役目を担った人物として登場する「河越三河入道円重*5のことを記したものであろう。しかし、実際の史料によって当該期の「河越三河入道」=「川越参河入道乗誓」=貞重であることが明らかになっている*6から、この「河越三河入道円重」も貞重であろう。冒頭に掲げた通り、後に「河越次郎」として現れる高重がこの当時出家して「入道」を称するはずはないのである。『太平記』は本来軍記物語であるから「円重」は創作の法名なのかもしれない。

 

 その代わり、同じく『太平記』には元弘3(1333)年5月16日の分倍河原の戦いで「三浦大多和平六左衛門義勝」(=大多和義勝)が新田義貞側に寝返った際、その軍勢に河越氏が加わっていることが見える*7。恐らくこの河越氏を率いたのは六波羅探題に殉じた貞重 (乗誓) に代わり当主となった高重だったと推測される*8。上洛した父に万一のことがあった際に備え、鎌倉に残っていたのだろう。

近年の研究によれば、義勝(義行)*9は足利家臣の高氏から養子入りした人物であり、鎌倉幕府側からの寝返りの背景には、六波羅探題を陥落させた足利高氏(のちの尊氏)からの指令があったと解釈されている*10。八代国治氏の説によれば、河越荘の本家が後醍醐天皇であったので、「本家の護りと共に自家の本知を堅固に持ちこたえる」目的が元々あったようだが、それ以上に「転機にさしかかった天下の形勢に順応しよう」と、父・貞重の敗死を悟った高重も鎌倉幕府を見放したのであろう*11

 

建武政権下の高重 と 河越直重

鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政では、足利尊氏の弟・直義が相模守として後醍醐天皇の皇子・成良親王を奉じて鎌倉に赴き鎌倉将軍府を成立させ、1334(元弘4 / 建武元)年正月には成良の護衛として関東廂番が置かれた。高重が関東廂番となったことは冒頭に前述した通りで、恐らくこれが「次郎高重」という名前の初出である。

角田朋彦氏の説によれば、廂番の一人として高重は足利氏との関係を深め、高重の嫡男とみられる次代当主・河越の名はその頃に元服して義の偏諱を受けたものであるという*12。武蔵・河越氏館に掲示系図冒頭前掲記事にも掲載)やはてなキーワードでは直重を高重の子として「なおしげ」と読ませている*13が、直重は「ただしげ」と読むのが正確であろう。この当時元服の適齢(10~15歳程度)であったと考えると、直重はおおよそ1320年代後半の生まれとみられ、その場合現実的に考えれば父の高重は1300年代の生まれとなる。30歳頃まで「次郎」を称したのは祖父の経重と同様ということになる*14

 

その後中先代の乱を経て、足利尊氏建武政権から離反すると(いわゆる延元の乱 / 建武の乱、1336年)、後醍醐天皇より尊氏追討の宣旨を受けた新田義貞の軍勢が、相模国箱根で足利直義の軍勢と合戦(箱根・竹ノ下の戦い)、義貞に従った武将の中に「川越三河」の名が確認される*15鎌倉時代末期の「河越三河入道(貞重・円重・乗誓)」は既に亡くなっているので、これは亡き父と同じく三河守となった高重であったと考えるのが妥当であろう。実際のところはどうやら建武政権側の命令により動いていたものであったらしい*16。この戦いは義貞軍が直義軍を押し気味で戦局が展開するが、最終的には竹ノ下方面で優勢となった足利方の勝利に終わっている。

 

以降、高重と思わしき人物の活動は確認できない。

1345(康永4・貞和元 / 興国6)年8月16日の除目で、「平直重」なる人物が天龍寺造営の功として従五位下・出羽守に任ぜられていることが確認されている*17。この直重は河越氏(=河越直重)と考えられており、これ以前に高重から直重への当主の交代があったとみられている*18

 

高重の子について

冒頭前掲の記事に紹介した中山信名撰『平氏江戸譜』(静嘉堂文庫蔵)所収の河越氏系図には高重の子として、某(次郎、此時亡)と 女子(佐竹伊予守義愛妻、覚海妙真)の二人を載せる。

まず女子について、「佐竹伊予守義愛妻」とあるが "佐竹義愛" なる人物は確認できず、代わりに同時期に義宣(戦国時代の佐竹義宣とは別人)が伊予守であったことが確認され*19、その嫡男・義盛 (1365-1407) の母が河越氏の女と伝わる*20から、「佐竹伊予守義(または義宣愛妻)」の誤記であろう。孫である佐竹義盛との年齢差を考えても、その母が河越高重の娘*21で問題ないと思う。

そして、次郎某についてだが、「此時亡」(この時亡びる(滅びる)、か)の注記は、河越氏についてこの人物の代で滅んだという意味で書かれたものであろう。先行研究では平一揆を率いた直重の代に河越氏が没落したと解釈されている*22から、某=直重と判断される。もしこれが正しければ、直重が高重の嫡男で、河越氏嫡流の通称「次郎」を称していたことの裏付けとなる。

 

 

まとめ(河越高重・最新経歴表)

●1300年代(~1310年頃)の生誕か。

*生まれた当時、父の貞重(のちの河越三河入道乗誓)は20代後半~30代前半であったと推測される。

●1311年~1320年代?(10代前半?)得宗北条高時の加冠により元服、次郎高重と称す。

●1320年代後半?(20代前半?):この頃、直重誕生か。

●元弘元(1331)年(20代後半?):河越三河入道一族、幕府軍に属して上洛。高重も同行か?

●元弘3(1333)年5月9日(30歳前後?)近江国番場宿蓮華寺にて河越三河入道乗誓 (貞重) 自害。 → 後日、この一報を受け高重が家督継承か。

●同年5月16日:分倍河原の戦い大多和義勝に同調し、新田義貞方へ(『太平記』)。

●元弘4(1334)年正月(30歳前後?):関東廂番(一番)。史料における "高重" の初見。

建武2年12月(1336年1月)(30代前半?)箱根・竹ノ下の戦い。箱根で足利直義の軍勢と戦った新田義貞軍の中に「川越三河守」(『太平記』)。この時までに高重が三河守に任官か。

●年次不詳(30代?):この間に死去(或いは出家)か。家督は直重が継承。

1345(貞和元 / 興国6)年8月16日:河越直重天龍寺造営の功により従五位下・出羽守(『園太暦』)。

 

脚注

*1:南北朝遺文 関東編 第一巻』39号。紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(『中央史学』二、1979年)P.19。

*2:冒頭前掲「河越重時・泰重・経重 最新経歴表」を参照。

*3:冒頭前掲「鎌倉時代の河越氏」掲載の系図を参照。

*4:川越市史 第二巻中世編』(川越市、1985年)P.160。

*5:太平記』巻四「笠置囚人死罪流刑事付藤房卿事」。

*6:これについての詳細は冒頭前掲「鎌倉時代の河越氏」を参照。

*7:太平記』巻十「三浦大多和合戦意見事」。

*8:注4前掲『川越市史』P.256。

*9:太田亮 著『姓氏家系大辞典』p1214オホタワ条に掲載の「三浦系図」によれば、義綱の子に彦六郎義勝とあり、"平六左衛門" を通称としたのは義綱の兄・義行かその子・倫義のようである。『太平記』ではこれらを混同して書かれたのかもしれない。

*10:峰岸純夫『新田義貞』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2005年)P.56。

*11:注4前掲『川越市史』P.256。

*12:関幸彦編『武蔵武士団』(吉川弘文館、2014年)P.123。

*13:直重の「直」が直義の偏諱と記す注12前掲箇所でも「なおしげ」と仮名が振ってある。

*14:高重の父・貞重と経重の父子関係については鎌倉時代の河越氏、経重の経歴については最新経歴表の当ブログ過去記事を参照のこと。

*15:太平記』巻十四「箱根竹下合戦事」。

*16:注12前掲箇所。

*17:『園太暦』康永4年8月17日条に「出羽守平直重天龍寺造営功」とある。『南北朝遺文 関東編 第三巻』1579号。

*18:注12前掲箇所。

*19:安田元久編『鎌倉・室町人名事典 コンパクト版』(新人物往来社、1990年)P.246「佐竹義宣(初名義香)」の項(執筆:新田英治)。

*20:前注同箇所および P.247「佐竹義盛」の項(執筆:新田英治)。

*21:本項では直重の生年を1320年代後半としたので、兄弟を右側から年長順で書く系図通りに捉えると直重の妹となって、その場合早くとも1330年代前半の生まれと推定されるが、子の義盛とはちょうど良い年齢差になると思われる。よって義盛の母は直重の妹と判断する。

*22:注12前掲著書、P.123~131。

河越重時・泰重・経重 最新経歴表

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以前の記事▲で河越氏が代々北条氏得宗の一字(偏諱) を賜っていたことを紹介した。

 

本項ではその得宗からの偏諱を頼りにおおよその元服の年次を推測し、それに基づいて、『吾妻鏡人名索引』*1等に見える河越泰重経重 父子の各経歴当時の年齢を以下のように推定した。

依然として正確な生没年を特定するのは困難であるが、親子の年齢差など現実的なところでもよく噛み合っており、これによっておおよその年代・世代が掴めるのではないかと思われる。尚、泰重項の正確さを裏付けるため、『吾妻鏡』での父・河越重時の登場箇所も合わせて掲載する。

 

 

河越 重時(しげとき)

吾妻鏡人名索引』による『吾妻鏡』での登場箇所は以下の通りである。

元久2(1205)年6月22日条:「河越次郎重時」(初出)

●建保4(1216)年7月29日条「河越次郎重時

●承久元(1219)年 1月27日条「河越次郎重時」 7月19日条「河越次郎

●安貞2(1228)年7月23日条「河越次郎」(= 泰重 

嘉禄2(1226)年4月10日に重時の弟・重員が、かつて父の重頼が帯し、その後秩父平氏嫡流畠山重忠に継承されていた「武蔵国留守所惣検校職」に任じられている*2ことから、この段階で重時が亡くなっていたと考えられている。この「河越次郎」は重時ではなく、嫡男の泰重であるようだ。

●正嘉2(1258)年3月1日条:『吾妻鏡』「河越次郎」…既に死去。

 

 

河越 泰重(やすしげ)

●「泰」の偏諱、『吾妻鏡』での初出の年、子・経重との関係(下記参照)を考慮して、北条時の執権就任 (1224年) から間もない頃の元服か。

●安貞2(1228)年7月23日条(10代後半~20歳前後?)

吾妻鏡』初出か(河越次郎

*この「河越次郎」が泰重に比定されることは上記参照。「次郎」の名乗りは泰重が元服まもない頃で無官のためであったからと思われ、元服の時期や「次郎」を名乗ったことの裏付けになると言えよう。

●嘉禎元(1235)年6月29日条(20代?)

吾妻鏡人名索引』初見(河越掃部助泰重

 *この前後あたりで嫡男・経重が誕生か。

 

●正嘉2(1258)年3月1日条:『吾妻鏡』「河越掃部助」…既に死去か。

*この2年前より嫡男・経重の活動が見られるので、数年前には泰重死去に伴う当主の交代があったものと推測される。

 

 

河越 経重(つねしげ)

●1242~1246年(10代前半?):北条時が執権在任中の元服か。

*1244年4月までは九条頼経が将軍の座にあり、彼から「経」字を受けた経時がそのまま他の御家人に与えてしまうとは考えづらいので、厳密には頼経解任後の1244~46年の間の元服であったと推測される。河越氏の他の当主が得宗の1字を受けたことはほぼ確実で、経重だけが将軍(頼経)を烏帽子親としたとは考えにくい。

●康元元(1256)年正月(20代前半?):『吾妻鏡』初出(河越次郎経重

●弘長3(1263)年8月(30歳前後?):『吾妻鏡』(河越次郎経重

●文永3(1266)年7月4日条(30代前半?):『吾妻鏡』「河越遠江権守経重

*『吾妻鏡』での表記に従えば、30代前半ごろまで無官で「次郎」を名乗っていたようだ。

●文永8(1271)年(30代後半?):子・宗重誕生。

●文永9(1272)年(同上):貞重誕生。同じく経重の子か*3

●弘安8(1285)年(50代前半?)豊後国国東郡香地郷地頭職「河越安芸前司

*この頃までに遠江権守(→遠江守?)→安芸守→安芸前司(=前安芸守) と転任したのであろうか。1271年生まれの息子・宗重であったとは考えにくく、系図類の記載通り、経重であると考えられる。

●正応2(1289)年までに死去(享年50代)?:岩城邦男氏の説による*4

 

 

脚注

*1:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*2:吾妻鏡』嘉禄2年4月10日条。

*3:これについては冒頭前掲記事を参照のこと。

*4:岩城邦男「河越氏系譜私考」(『埼玉史談 第21巻第2号』(埼玉郷土文化会、1974年7月号)所収)P.11~12。

鎌倉時代の河越氏

 

平氏江戸譜』河越氏系図

次の図は、『川越市史 第二巻中世編』(川越市、1985年)P.162に掲載されている、中山信名撰『平氏江戸譜』(静嘉堂文庫蔵)所収の河越氏系図である。

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江戸時代成立の系図であり、一部誤りも見られる*1ため、記載の信憑性には十分注意しなければならないが、『東鑑(=吾妻鏡)』『太平記』など他の史料に拠って各人物の情報を記述(加筆)しており、少なくとも江戸時代における研究の成果として重要な史料と言えよう。「 」内の加筆部分を除いては『続群書類従』所収「千葉上総系図*2に同じであり、恐らくこの系図を利用して作成されたものと思われる。

また、この系図は前述の『川越市史』が載せる複数の河越氏系図の中でも唯一、貞重以降の系譜を詳しく載せたものであり、史料に基づいて高重*3等の情報を加えたものとみられ、これだけでも十分に価値のあるものである。

 

そして、もう一つ注目すべきところは、加筆の一環として、嫡流の当主に各々、偏諱を与えたとされる得宗の名前で「●●ノ一字」と書かれていることである。ここから、"北条氏得宗家からの一字拝領" という発想が、江戸時代から既に存在していたことが分かる。

 

河越氏と北条氏得宗家の烏帽子親子関係

得宗偏諱に特化した論文としては、紺戸淳氏の論文*4が最初であると思われ、その中でも河越氏を扱っていたが、実はこの系図史料を用いてはいなかった。だが、この系図の加筆者から見ても「泰重―経重―宗重―貞重―高重」が代々得宗(泰時―経時---時宗―貞時―高時)の偏諱を受けていたと解釈するよりほかはなく、偶然同じ見解となったようである。

泰重・貞重・高重の「泰」「貞」「高」が将軍からの偏諱でないことは確実である。

宗重については上の系図にも注記されているように『常楽記』元亨3(1323)年6月13日条に「河越出羽入道他界五十三」とある "河越出羽入道" に比定されている。紺戸氏も同様の見解を述べられており*5、逆算すると文永8(1271)年生まれである。従って、同3(1266)年に解職・京へ送還された6代将軍・宗尊親王偏諱でないことは確実であろう。

すると、生没年未詳の経重の「経」が4代将軍・九条頼 からか、4代執権・北条時 からかということになるが、経重だけが将軍を烏帽子親とし、宗重の代に再び加冠役が得宗に戻るという理解は現実的ではないだろう。よって、系図の記載通り、経重も得宗・経時偏諱授与者であったと考えておきたい。

よって、河越氏は代々得宗家から偏諱を受けていたことが確実な家柄の1つであり、系図中の「●●ノ一字」の信憑性にも問題はないと思われる。恐らく泰重の父・重時の「時」も北条氏からの偏諱だったのかもしれない。

 

河越宗重 と 河越貞重

『北條貞時十三年忌供養記』(『円覚寺文書』)によれば、元亨3(1323)年の貞時十三年忌供養で「河越三河前司」が「砂金五十両〈二文匆〉、銀剣一」を献上していることが記されている。

元弘元(1331)年、いわゆる元弘の変が起こると、「河越参河入道一族」が幕府側として上洛、楠木正成を討つための大和軍に加わっていることが確認される。通称名(参河=三河(守) )の一致から、この参河入道は前述の「河越三河前司」が出家した同人であり、一族を率いる立場にあった、河越氏を代表する人物(惣領・嫡流の当主)であったことが窺える。

同3(1333)年、足利高氏らの攻撃を受け鎌倉へ敗走していた、六波羅探題北方・北条仲時らの軍勢は、5月9日近江国番場宿において佐々木道誉の軍に行く手を阻まれ、仲時らは蓮華寺にて自害した。この時の死者を記す『近江番場宿蓮華寺過去帳*6の中に「川越参河入道乗誓六十二歳」が含まれており、前述の「河越参河入道」が仲時に殉じたことが分かる。逆算するとこの人物は文永9(1272)年生まれである。

河越氏嫡流の当主では、宗重が文永8(1271)年生まれと判明しているが、宗重(出羽入道)は貞時十三年忌供養と同年に亡くなっている(前述参照)から、「河越参河入道」=次の当主・貞重に比定される。この考えもまた、江戸時代から存在していたようで、冒頭の系図の貞重の項には同じ史料に拠る注記が見られる。系図では宗重と貞重を親子の線で繋いでしまっているが、生年がわずか1年違いであることから、貞重は宗重の実弟(経重の子)で養嗣子であったと思われる。

▲武蔵・河越氏館(埼玉県川越市)に掲示の河越氏系図では宗重と貞重を兄弟としている(画像はhttp://www.hb.pei.jp/shiro/musashi/kawagoeshi-yakata/thumb/ より拝借)。

 

すると、宗重が北条時宗偏諱を受けたのに対し、1歳年下の貞重が北条貞時の一字を受けていることは大変興味深い。紺戸氏は宗重の元服の年次を1280~1284年の間と推定しており*7、ちょうど1284年に時宗が亡くなって貞時が家督を継承したので、恐らく宗重・貞重兄弟の元服はその前後であったと推測される。

 

 

脚注

*1:例えば、宗重の注記の「元三年」は「元三年」の誤記であり、その娘として三浦義村室を載せるのも年代的に矛盾する。『系図綜覧』所収「畠山系図」では重輔の子・真重の妹に「女子三浦妻」(『川越市史』P.156)、『系図纂要』では重時の子に「女三浦義村」(同P.158)と載せるので、いずれかが正しいものと判断される。また、高重の娘に「佐竹伊予守義愛妻」とあるが、これが「佐竹伊予守義妻(または愛妻)」の誤記であることは「河越高重」のページを参照。

*2:前掲『川越市史』P.157に掲載あり。

*3:建武年間記』より「河越次郎高重」の実在が確認されることは紺戸淳氏がご指摘の通りである(注4後掲紺戸氏論文、P.19)。その他、佐野本「秩父系図」にも高重 三河守、法名円重、元弘乱時、預平宰相成輔伴下于関東、の掲載が見られ、三河守貞重の子としている(『川越市史』P.160)。高重の娘が佐竹氏に嫁いだとするのもこの系図でしか確認できない。

*4:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(『中央史学』二、1979年)。

*5:前掲紺戸氏論文、P.18~19。

*6:群書類従』巻514 所収。

*7:前掲紺戸氏論文、P.19。

鎌倉時代の元服と北条氏による一字付与

 

実名を名乗るのは、現在の成人式にあたる元服の時で、幼名から改名する。この時、烏帽子を被せる加冠役(烏帽子親)から偏諱を与えられて命名されるのが通例であった。

 

では実際、どのような様子で行われていたか、僅かに残された史料で確認してみよう。

まず、鎌倉時代の一級史料である『吾妻鏡』には、数例にとどまるがいくつか元服に関する記事があり、今回はその中から北条氏が他の御家人の烏帽子親を務めたとみられるものを紹介する。

  

★『吾妻鏡』:曾我時致元服

建久元年九月大七日戊午。甚雨。入夜故祐親法師孫子祐成 号曾我十郎 相具弟童形 号筥王 參北條殿。於御前令遂元服。号曾我五郎時致。

 

要約:1190年9月7日、曾我十郎祐成が弟・筥王を連れて北条殿(=北条時政)の所に参った。筥王は政の御前で元服を遂げ、曾我五郎致と名乗った。

解説:「時致」については異説として「時宗」と伝える史料がある*1ぐらいなので、「ときむね」と読んで良いだろう。その名前から「」の字を与えられていることが分かる。

 

*時は他にも武田信の烏帽子親となったようで、やはり「」の字を与えた形跡がある。1204年当時、時政は初代の執権の座にあった。

 

元久元年十一十五首服、加冠平時政、理髪三浦介、號小五郎、年十、信光三男也、請加冠諱字、既為嘉例

(*国書刊行会編 『系図綜覧』第一 所収「甲斐信濃源氏綱要」の武田氏系図、信政の項の注記より

 

 

★『吾妻鏡』:佐々木頼綱(六角頼綱)の元服

建長二年十二月大三日甲午。天晴。今日。佐々木壹岐前司泰綱子息小童九歳。於相州御亭遂元服。号三郎頼綱。御引出物以下經營。盡善極美。一門衆群參。各随所役云々。奥州。秋田城介等所被參會也。

 

要約:1250年12月3日、前壱岐守・佐々木泰綱の子息(9歳)が、相州(=北条相模守時)の邸宅で元服し、三郎綱と名乗る。祝いの引出物等の用意は心を込めて豪華に行われ、佐々木一門が集まって元服の際の各役割を担った。奥州(=北条陸奥守重時)や秋田城介・安達義景など(といった有力な御家人)もこれに立ち会った。

解説:この記事の場合も上に同じく、佐々木泰綱が息子を引き連れて北条時頼の邸宅に赴いたと考えるのが自然であろう。息子は「綱」と名乗ったが、邸宅の主(亭主)である時烏帽子親となって「」の偏諱を与えたことは想像に難くない。少なくとも記載からは将軍が立ち会ったことは確認できず、九条頼嗣からの偏諱と考えるのは難である。

 

大友頼泰 の一字拝領

別の例として『続群書類従』所収「大友系図」によれば、大友泰の注記に「姓改平氏 出羽守 北條時賴賜一字」と書かれているが、初め泰直と名乗り、将軍・宗尊親王/執権:北条時の代に改名を行ったようなので確実とみて良いだろう。詳細はWikipediaに載っているのでそちらを参照いただければ速いかと思う。

大友頼泰 - Wikipedia

同じ頃に改名を行った例として足利氏(初め利氏)も確認される。

元々この「頼」の字は北条時が烏帽子親の将軍・九条経から拝領したものであった*2が、その字を平然と他の御家人に与えていたことが分かる。

 

★戸次時親 の元服

前述と同じ「大友系図」によれば頼泰の甥(弟・重秀の子)時親の項に「於鎌倉元服時宗一字。」とあり、「立花系図」にも「北条相模守時宗為烏帽子親、授時之一字。」、更には『入江文書』所収「大友田原系図」にも「時宗元服」、『系図纂要』でも「北条時宗加冠」と注記されていて、戸次親が鎌倉において元服し、北条宗が烏帽子親(加冠役)としての一字を授けたことが明らかにされている。元服の場所が鎌倉であったという記述から、やはり曾我時致や佐々木頼綱と同様、北条氏の邸宅に赴いたものとみられ、偏諱を共有する烏帽子親子関係とは元々邸宅を基礎とするものであったということは、既に山野龍太郎氏の論文*3でご指摘の通りである。

  

足利高氏(のちの足利尊氏)の元服

 のちに室町幕府の初代征夷大将軍となる尊氏。当初は「氏」と名乗っていたが、これは鎌倉幕府の滅亡前に、得宗 (14代執権)・北条時の偏諱を受けたものであるとされている。前回記事にご紹介のように、足利氏については元服に関する史料が残されていないが、歴代当主が代々得宗偏諱を受けていることはその名前からして疑いはなく、多くの先行研究が既に指摘されていることである。

NHK大河ドラマ太平記(1991年放送)ではこの前提のもとに、足利高氏元服の様子が描かれており、高時の1字を受けたこともしっかり解説されている。

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足利又太郎、改め、足利高氏

続群書類従』所収の「足利系図」によれば、元応元(1319)年、15歳 (数え年) での元服であったとされる*4。烏帽子を被せる、加冠の様子は上のような感じだったのだろう。

 

*尚、このドラマでは、足利氏が北条氏(得宗家)に忍従を強いられていたという設定で制作され、この元服でも高時に頭を押さえつけられるという屈辱的な加冠を受けているが、その後の研究によって、実際は鎌倉時代の足利氏が得宗家から「源氏嫡流」として公認されるほどの待遇を受け、北条氏に次ぐ家格を有していたことが指摘されている。

 

まとめと考察

元服の際には、烏帽子を被せる加冠役(烏帽子親)がその名前の1字(偏諱)を与えて幼名に代わる諱(実名)の命名が行われていた。ここに実際の親子に準じた、烏帽子親―烏帽子子という、烏帽子親子関係が結ばれるのである。

 

② その烏帽子親子関係の基盤となるのが元服の場所であり、北条氏から一字拝領した例では必ず、鎌倉の北条氏の邸宅に訪れていることが確認される。

他の例:「平賀氏系譜」*5における注記より一部抜粋

平賀惟:「於武蔵前司入道殿(=北条時)元服

平賀惟:「於西〔ママ、最〕明寺殿(=北条頼)元服

 

従って、直接的な表現でなくても、北条氏の邸宅に赴いてその一字を受けた形跡が見られるなら、その邸宅の主が烏帽子親であったとみて問題はないだろう。

 

ちなみに、『源流無盡*6』所収「石川系図」には、鎌倉中・後期の陸奥石川氏当主について次のように注記されている(一部抜粋)

石川:「於鎌倉府執政北条氏之第加首服、乞宗之偏諱、改光」*7

石川:「依先公之嘉例、於鎌倉府加冠、乞執政時之偏諱光、」*8

史料の記載を直ちに信じるには注意すべきだが、その名乗りからは疑いは無く、逆に否定し得る史実が確認されない以上、正しいと判断して良いだろう。

そうすると、その元服の場所が変わっていることには興味深い。時光の場合は執政(執権)北条氏の邸宅であったのに対し、貞光の場合は鎌倉府となっているが、鎌倉府とは幕府の御所を指すものと思われる。

あくまで 得宗の御前 で元服を行えば良いのであり、得宗専制が強化されるにつれて、その場所が 北条氏邸宅 から 幕府御所 へと移り変わったのかもしれない。

もちろん、これ以外に確認できる史料が無いので推論になってしまうが、前述の「高時→高氏」の例もあくまでドラマでの創作であるので否定もできない。大変興味深いところである。

また「乞●●之偏諱」(●●の偏諱を乞う)という表現からは、偏諱の拝領が自主的な申請によるものであったことが窺える。このことは冒頭で紹介した武田信政に関する注記の中の「請加冠諱字」(加冠・諱字を請う)という表現からも読み取れるが、信政と貞光の注記双方にこのことが「嘉例*9」と書かれていることにも注目である。執権家である北条氏から偏諱の使用を許されることは名誉的なことだったのかもしれない

 

 

以上、執権・北条氏が他の御家人に対し一字付与を行っていたことが分かる。

鎌倉時代には、のちの「将軍→大名」とは違って、「執権・北条氏→他の御家人」という図式での一字付与が行われており*10、北条氏が幅広く偏諱を与えていたのである。 

 

脚注

*1:「南家 伊東氏藤原姓大系図」の時致の項に「五郎幼名筥王 イ宗」との注記がある。

*2:吾妻鏡』嘉禎3(1237)年4月22日条。佐藤和彦・樋口州男『北条時宗のすべて』(新人物往来社、2000年)P.253。

*3:山野龍太郎 「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)所収。

*4:この系図の尊氏の項には「元応元年叙従五位下。同日任治部大輔。十五歳元服。無官。号足利又太郎。」と書かれている。紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(『中央史学』二、1979年)P.11。尚「又太郎」は高氏と名乗った後の通称であるが、不明のためドラマでは便宜的に幼名という設定であった。

*5:大日本史料』家わけ第十四『平賀家文書』248号。

*6:無尽の旧字表記。

*7:大日本史料』六之二、P.374。

*8:大日本史料』六之六、P.814。

*9:辞書等で調べると「吉例」と同義で「めでたい先例」の意味である。

*10:もちろん、得宗家当主が将軍から受けた等のように「将軍→御家人」の図式も存在はした。これについては別稿で紹介したい。

偏諱 について・入門

まず、最初に言っておきます。

このブログは、かなりマニアックな内容を扱っています。

歴史好きの方でも一概に興味を持つような内容ではないかもしれません。

なので、面白そうだなと思った方に見ていただければと思います。

 

 

さて、皆さんは歴史上の人物(日本史)の名前に着目したことはありますか?

よーく見てみると面白いことが起こっています。

 

 

1.偏諱とは?

武田信玄

信玄は出家後の法名。本名は武田信(はるのぶ)。

」の字は室町幕府第12代将軍・足利義から賜った。←この「晴」を偏諱(へんき)という。

 

上杉謙信

謙信は出家後の法名。初名は長尾景虎

上杉憲の養子となり「」の偏諱を受けて上杉

のち室町幕府第12代将軍・足利義から「」の偏諱を受けて上杉

そして上杉謙信へ。

 

徳川将軍家

徳川:初め館林藩主。のち、偏諱を与えた兄の4代将軍・の跡を継いで5代将軍に。

徳川紀伊徳川家出身。初め頼久。兄たちの早世により紀伊藩主を継いだ折に5代将軍・綱偏諱を賜る。のち徳川将軍家を継ぐ。

徳川水戸徳川家出身。一橋家を継いだ折に12代将軍・偏諱を賜る。

 

徳川家というと、初代・康や3代・光のように「」の字を代々使う(これを通字という)イメージがあるかもしれません。しかし、上記の3名は本来ならば将軍家を継ぐはずではなかったため、「家」の字が含まれていないんですね。

ちなみに、⑥家宣(初め豊)や ⑭家茂(初め福)の場合は、分家の出身者で初めは将軍の偏諱を賜っていましたが、将軍就任後に「●」という形に改名したというわけです。

 

このような現象は徳川の分家(松平氏含む)や外様大名などで見られました。

 

水戸徳川家:家康―頼房―圀=條---(略)---昭―篤(慶喜の兄)

薩摩 島津氏久―久―久―貴---(略)---興―彬=久(のち忠義)

公家・二条家道―平=平---(略)---信―

 

また、の3男、②の場合は「」の字を代々使うことが慣習となる前ということもありますが、豊臣吉の時代に「」の偏諱を授かったという理由による名乗りです。という兄がいたので、2文字目には家康の父・松平広忠に由来の「忠」を使用しています。

……これはもう誰からもらったか、言うまでもないですよね(笑)?

 

以上のように、

室町時代は 足利 将軍家

安土桃山時代は 織田信長 豊臣秀吉

江戸時代は 徳川 将軍家

 

から全国各地の大名は1文字(=偏諱)を貰う、という慣習がありました。

もちろん、「将軍⇒大名」という図式だけではなく、大名(本家筋)から分家や家臣へのやり取りもありました。

時代が現代に限りなく近いということもあって、その様子が窺える史料(系図や、加冠状という書状など)は沢山残されています。 

 

2.鎌倉時代の一字付与

さて、そうすると鎌倉時代はどうだったでしょうか?

 

将軍征夷大将軍)はいたことはいたものの、源氏→九条家親王と一定していません。そして、これに代わって、代々執権となった北条氏が実権を握っていました。

 

(歴代の鎌倉幕府将軍)

①源朝 ②頼家 ③  ④九条  ⑤頼嗣

親王 ⑦惟康親王 ⑧親王 ⑨親王

 

(北条氏略系図

時政―義時――時(初め時)―時氏――

      ―時          ―時時―時―

      ―重時―――――――――長時―――義時―時―益時

      ―義(のち実

 

(足利氏略系図 義氏―氏―(初め利氏)―家氏―氏(のち尊氏)

 

北条氏は、義時の息子数名と、その後は泰時の系統(=得宗家)と重時の系統(=赤橋流)が将軍の偏諱を賜ったようです。

しかし、のちに将軍家となる足利氏の歴代当主に着目すると、将軍から賜った形跡はありません。それどころか、何と同じく御家人であるはずの北条氏から1字を与えられているように見受けられます。

*頼氏の場合も、自身が北条時頼の甥(母が時頼の妹)であり、改名した時の将軍は宗尊親王、執権が時頼であったので「頼」の字は九条家からの偏諱であるはずはなく、時頼から賜ったとみるのが妥当です。

 

このように「将軍 ⇒ 北条氏(特に得宗家) ⇒ 他の御家人」という形式の、事実上二重構造となっているため、(将軍の1字を受けていない泰時・貞時・高時の場合は迷うことは無いですが)鎌倉時代中期の場合は、「経」や「頼」が九条頼経 or 北条経時・時頼、「宗」が宗尊親王 or 北条時宗 いずれかであるかの判別がし難い、そういう御家人が何名か見られます。

 

このブログでは、誰から1字を貰ったのかというところで、そうした御家人について、筆者独自の見解を述べようと思います。