Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

阿野時元

阿野 時元(あの ときもと、1190年頃?~1219年)は、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の異母弟である阿野全成(1153-1203)北条時政の娘・阿波局の子。子に阿野義継(よしつぐ、又三郎)。通称は阿野三郎、阿野冠者。

 

▲【図1】『尊卑分脈』より*1

 

【図1】を見ると全成の男子のうち、北条時政の娘を母とする4男「隆元(たかもと)」の記載が見られる。通称は阿野三郎。父・全成が当初「隆超」と名乗っていたことに関係した名乗り方とみられるが、後述の【史料3】を見る限り、時政の娘を母とする全成の子は「時元」である。

【図1】を見ての通り、兄に阿野太郎(よりやす)、阿野二郎(よりたか)、僧籍に入った播磨房らいぜんがいたといい、いずれも朝の偏諱」を賜ったのかもしれないが、恐らくいずれも異母兄で、北条氏出身の母親を持つ時元が嫡男であったと考えられている。

 

▲【図2】「清和源氏系図」より

 

一方、「清和源氏系図」(【図2】)では全成の子として、播磨公頼全阿野冠者時元、阿野二郎隆光(たかみつ)が載せられている。崩し字の関係で「元」と「光」はしばしば混同・誤読されることがあるから隆光は【図1】での「隆元」と同人とみなし得るが、時元とは別人として書かれている。隆光・時元はともに「被誅(=誅殺された)」とあり、内容的には後述【史料5】にほぼ対応すると思うが、追って考察したい。

 

吾妻鏡』によると、建仁3(1203)年5月19日、2代将軍・源頼家武田信光を派遣して、対立関係にあった父(頼家にとっては叔父)全成を "謀反人" として捕縛し御所に押し込めた(全成は同月25日には常陸国に配流、6月23日に誅殺された)といい*2、この時までには生まれていたと考えて良いと思う。

また、母・阿波局は頼朝の妻・北条政子とは姉妹関係にあるが、頼朝と政子の婚姻は治承元(1177)年頃であったとされる*3。『吾妻鏡』によると、当初流人である頼朝の監視役であった父の時政がこの婚姻には大反対であったといい、また全成は同4(1180)年10月1日に兄・頼朝との対面を果たし、11月19日には武蔵国長尾寺を与えられたというから、当然全成と阿波局の婚姻もこれ以後と考えるのが自然である。

『吾妻鏡』建久3(1192)年8月9日条源実朝(幼名:千万 / 千幡)生誕の記事に乳母となった女性として「阿野上総〔ママ〕妻室阿波局」とあり、前述の全成捕縛の記事の翌日にあたる建仁3年5月20日条にも「全成……彼妾阿波局」とあって全成の妻であったことが確認できるから、1192年以前には結婚していたことが窺えよう。ちなみに、兄と姉、弟と妹同士での婚姻と考えるのが自然と思われるから、阿波局は政子の妹であった可能性が高く、生年は政子の1157年より後であったと思われる。

 

ところで、建保7(1219)年1月27日、実朝は鶴岡八幡宮での右大臣拝賀式の帰途、甥の公暁に暗殺された公暁も間もなく殺害された)が、将軍(鎌倉殿)の座を狙ったらしく、その翌月には時元ら阿野氏の挙兵があって鎮められたことが史料で確認できる*4。以下はそのうち『吾妻鏡』の関連記事を掲げておきたい。

【史料3】『吾妻鏡』建保7年2月15日条 より

……阿野冠者時元 法橋全成子。母遠江守時政女 去十一日引率多勢。搆城郭於深山。是申賜宣旨。可管領東国之由。相企云云。

 

【史料4】『吾妻鏡』建保7年2月19日条 より 

禅定二品(=政子)之仰。右京兆(=右京権大夫・北条義時被差遣金窪兵衛尉行親以下御家人等於駿河国。是為誅戮阿野冠者也。

 

【史料5】『吾妻鏡』建保7年2月22日条 より 

発遣勇士到于駿河国安野郡。攻安野次郎同三郎入道之處。防禦失利。時元并伴類皆悉敗北也。

 

【史料6】『吾妻鏡』建保7年2月23日条 より 

酉刻駿河国飛脚参着。阿野自殺之由申之。

【史料5】の「安野」は「阿野」と同音の別表記であろう。従って「安野次郎」は通称名の一致からすると【図1】での頼高、【図2】での隆光(または隆元)に比定し得る。また、「同三郎入道」については入道(出家)していることから頼全と見なすものもあるようだが、頼全は全成誅殺の影響を受けて既に故人であり、かつ「三郎」を称した形跡が確認できないことから、一応【図1】も踏まえて三郎時元と見なす方が良いのだろう。

*【図1】で時元の子・義継の注記に「又三郎」とあることから、父の時元も仮名が「三郎」であったと考えて良いと思われる。

但し【史料3】・【史料4】で「阿野冠者」と呼ばれていることから時元が出家していた可能性はほぼ皆無で、むしろ二郎 [次郎] 頼高が出家して「隆光(りゅうこう)」或いは「隆元(りゅうげん)」と号していた可能性を考えても良いのではないかと思う。すなわち【史料5】は「攻安野三郎同次郎入道之處。」とするのが実は正しく、筆頭に掲げられた三郎が中心人物とされて、直後に「時元 并びに伴類」と書かれたのではないかと考えられるのである。

いずれにせよ【史料6】での「阿野自殺」は時元・頼高(隆光)を含む阿野氏一族を指すと思われるが、【図1】を考慮すると時元は挙兵もできて、かつ、子・義継を生んでもらえるような年齢、若くとも20代には達していたことが推測できるのである。

 

ここで「」の名に着目すると、「」は特に源氏にはゆかりはなく、むしろ母方・北条氏の通字である。恐らく外祖父・北条からの偏諱なのではないかと思われ、時政の執権在任期間(1203年~1205年)*5内の元服だったのではなかろうか。恐らくは娘(時元の母・阿波局)からの依頼で時政がその際の烏帽子親を務めた可能性は否定できない*6

よって、同期間に元服の適齢の10代前半を迎えていたとすれば、時元の生年は1190年頃とするのが妥当であろう。全成と阿波局が結婚した1180年代以後となり、十分辻褄は合うと思う。

 

▲2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では第37回より登場

 

(参考ページ)

 阿野時元 - Wikipedia

 阿野時元とは - コトバンク

 【鎌倉殿の13人】頼全のほかにもたくさん!阿野全成の息子6人兄弟を一挙紹介! | 歴史屋

 

脚注

*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 第10-11巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション および 黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』(吉川弘文館)P.301 も参照のこと。

*2:『大日本史料』4-7 P.835

*3:詳細は 北条政子 - Wikipedia を参照。

*4:『大日本史料』4-15 P.70

*5:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その1-北条時政 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*6:時政が烏帽子親を務めたとの記録は2例確認できる。建久元(1190)年9月7日には曾我祐成の弟・筥王が時政の前で元服をし「時致」と名乗ったが、その実名に「時」字が与えられている様子が窺える。また、初代執権在任中の元久元(1204)年11月15日には武田信政の加冠を務めた例がある。

平賀朝雅

平賀 朝雅(ひらが ともまさ、1182年~1205年)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての鎌倉幕府御家人。父は平賀義信。母は源頼朝の乳母・比企尼三女。妻は北条時政牧の方の娘。名の表記は平賀朝政とも。

 

詳細な生涯や事績については

 平賀朝雅 - Wikipedia

 平賀朝雅とは - コトバンク

などをご参照いただければと思う。ここでは「朝雅」又は「朝政(『尊卑分脈』など)の名乗りについて述べることとする。

 

近年の研究で明かされたこととして、北酒出本「源氏系図」によれば朝雅の享年は24とされ、没年(1205年:『吾妻鏡』・『明月記』・『愚管抄』・『尊卑分脈』など)から逆算すると寿永元(1182)年生まれとなる*1。朝雅は源頼朝の猶子であったといい*2、頼朝が征夷大将軍となった1192年頃に元服の適齢である10代前半を迎えたことになる。よって雅は猶父である将軍・頼の加冠により元服し、「」の偏諱を賜ったと考えて良いだろう。

 

尊卑分脈*3によると、朝政(朝雅)には妻の時政娘との間に嫡男の平賀朝経(四郎二郎)がいたといい、朝雅の「朝」字が子・朝経、孫・朝村と、通字として継承されたことが窺える。尚、朝村の子である貞経貞義兄弟は、得宗専制が強まる状況下で9代執権・北条貞時偏諱を受けた形跡が見られる。

 

脚注

小山貞宗

小山 貞宗(おやま さだむね、1290年頃?~没年不詳(1310年代?))は、鎌倉時代後期の武将、御家人。父は小山宗朝。子に小山政秀(藤井政秀)

 

貞宗の名は『尊卑分脈』上で確認ができる。

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▲【系図α】『尊卑分脈』小山氏系図(一部抜粋)*1

 

しかし、他の史料上では未確認であり、その事績は不詳である。

よって、小山氏の関係史料・系図から考えられることを以下に述べたい。

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まず、こちら▲の記事で紹介した、永仁2(1294)年の成立とされる白河集古苑所蔵の「結城系図」には、父・宗朝までの記載はあるものの、貞宗の記載は無い。そもそも朝が1270年前後の生まれで北条時晩年期の元服であった可能性が高く、そこから10年ほどしか経っていない永仁2年の段階で貞宗は生誕前、もしくは元服前の幼児であったことが推測できる。

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ここで「」の名に着目すると、「宗」が父から受け継いだ字であるのに対し、「」は鎌倉幕府第9代執権・北条(在職:1284年~1301年)*2偏諱を許されていることが窺える。恐らくは貞時を烏帽子親として元服し、その1字を賜ったのであろう。元服は通常10代前半で行われることが多かったから、父との年齢差も考慮して1290年頃の生まれと推定可能である。

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ちなみに、はとこにあたる小山は1282年生まれと判明しており、前述の「結城系図」に記載があることから、1294年(数え13歳)までに当時の執権である時を烏帽子親として元服を済ませていたと考えられる。

それまで「時朝宗朝」と「朝」を通字としてきたから、本当なら宗朝の子が「貞朝」と名乗る蓋然性があったと思われるが、この宗長の子・貞朝が先に元服していたので、重複を避ける意図で「貞宗」と名乗ったのであろう。

また、延元元(1336)年4月に定められた建武武者所結番の一番衆の中に「藤原政秀小山五郎左衛門尉」の名が見られる*3。【系図α】と照合すると、通称名の一致や字の逆転から貞朝の子・秀政(小山秀政)の誤記とも考えられるが、実名の一致を重視するなら、貞宗の子・政秀に比定し得る。この政秀は元服済みで左衛門尉の官途を得ており、若くとも20代であったとみられるので、1310年代前半の生まれと推定可能である。

これらの観点から言っても、貞宗1290年頃の生まれとするのが妥当であると思う。

 

貞朝については【系図α】に「為時朝子(時朝の子とす)」とあるように、時朝系小山氏に養子入りして「四郎」の仮名を継承した様子が窺える*4

 

小山氏嫡流の地位は貞朝の系統に移ることになり、子の政秀得宗からの一字拝領の対象から外れ*5、最終的には「藤井」を称して分家したようである。

鎌倉時代後期以降の史料上で「小山出羽前司」や「小山出羽入道」が散見されるため、父・宗朝は【系図α】の記載通り出羽守任官を果たしたと判断できるが、貞宗は官職歴の記載がないため、子・政秀が生まれて間もなく20代前半くらいの若さで早世したのではないかと思われる。このあたりについては新史料の発見等を俟ちたいところである。

 

脚注

*1:黒板勝美国史大系編修会 編『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第2篇』(吉川弘文館)P.401~402。

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*3:『大日本史料』6-3 P.331

*4:紺戸淳 氏は「武家社会における加冠と一字付与の政治性について ―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、1979年)P.21 において、他の小山氏系図で「宗朝―貞朝」とするものがあることから「為宗朝子」の誤りではないかとされるが、いずれにせよ時朝系小山氏に養子入りしたという考察に変わりはない。

*5:政秀の名は「政光朝政―政義(のちの朝長)」間の通字「政」と、藤原秀郷に由来と思しき「秀」の、共に先祖に因む2文字を組み合わせたものと見受けられる。元服も小山氏一門内で執り行われたと思われる。

小山宗朝

小山 宗朝(おやま むねとも、1270年頃?~没年不詳(1336年以前))は、鎌倉時代後期の武将、御家人。父は小山時朝(時村)。子には小山貞宗と娘が一人。通称は出羽守(および 出羽前司、出羽入道)法名円阿(えんあ)か。

 

 

史料における小山宗朝

まずは関係する史料を以下に掲げておきたい。

 

【史料1】(元亨3(1323)年10月27日)『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』所収):この日参加者の一人である「小山出羽前司」が「砂金百両」を進上*1

 ◆この間に出家法名:円阿)

【史料2】正中2(1325)年3月日付「最勝光院荘園目録案」(『東寺百合文書』ゆ)*2筑前国三原荘の領家として「関東備前守 小山出羽入道息女

【史料3】嘉暦3(1328)年8月8日付「沙弥某奉書」(『陸奥飯野文書』)*3:宛名に「小山出羽入道殿

【史料4】正慶元(1332)年8月10日付「中務大輔某施行状」(『陸奥飯野文書』)*4:宛名に「小山出羽入道殿

 

これら史料4点における「小山出羽前司(=前出羽守)」およびその出家後の姿である「小山出羽入道」については、次に掲げる『尊卑分脈』の小山氏系図により宗朝に比定されよう。

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▲【系図5】『尊卑分脈』小山氏系図(一部抜粋)*5

 

あわせて、次の史料2点も見ておきたい。

 

【史料6】元弘3(1333)年8月15日付「後醍醐天皇綸旨」(『久我家文書』)*6

尾張国海東下庄
地頭職、可令知行
給者、
天気如此、以此旨可令洩
申給 範国誠恐頓首謹言、
 元弘三年八月十五日 式部少輔(花押 *岡崎範国)奉
進上 山城前司(=竹内仲治)殿

 

【史料7】延元元(1336)年3月30日付「後醍醐天皇綸旨」(『久我家文書』)*7

尾張国海東中庄地□〔頭〕
 小山出羽入道 円阿、可令知行
給者、
天気如此、以此旨可令
洩申給、仍言上如件、宣□〔明〕
恐惶頓首謹言、
 延元々年三月卅日 左中弁(花押)
進上 大夫将監殿

【史料6】【史料7】鎌倉幕府滅亡後、建武政権下での史料になるが、後者では「小山出羽入道円阿(旧領)」である尾張国海東中荘の地頭職を久我家に与える旨が記されている。この円阿は、時期・通称名の一致からして冒頭史料4点での「小山出羽入道」と同人と見なされ、宗朝の法名であったと推測される。出羽守を退任して出家していたことを考えると、それなりの年齢には達していたと思われ、延元元年当時は既に故人であったのだろう。

寿永3(1184)年4月22日付の「源頼朝下文案」に「尾張国海東三箇庄」と見え、寛喜2(1230)年2月20日付「小山朝政譲状」(『小山文書』)には、以前朝政(下野入道生西)が「将軍家之御恩」として賜り、「嫡孫 五郎長村」へ譲られた「所領所職等」の中に「一. 尾張国 海東三箇庄 太山寺」が含まれている*8

そして海東中荘は、長村―時朝(時村)―宗朝と相伝されたのであろう。

 

生年と烏帽子親の推定

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こちら▲の記事にて、父・時村(初名:時朝)については1240年代後半の生まれと推定した。『吾妻鏡』正嘉元(1257)年12月29日条では「小山出羽四郎時朝」と書かれており、当時父が元服から間もない段階で無官であったことが窺えるから、宗朝はまだ生まれていなかったと考えて良いと思う。父との年齢差を考慮すれば、早くとも1260年代後半の生まれになるだろう。

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一方、こちら▲の記事で紹介した、永仁2(1294)年の成立とされる白河集古苑所蔵の「結城系図」には時村の子として宗朝の記載が見られる。すなわち、永仁2年の段階では既に元服済みであったことが読み取れる。そして注記が無いことから、元服からさほど経っていない段階で無官であったことも推測可能である。

 

これらの点を踏まえて「」の名に着目すると、父の初名から受け継いだ「朝」の通字に対し、「」は鎌倉幕府第8代執権・北条時(在職:1268年~1284年)*9偏諱を許されていることが窺える。恐らくは弘安7(1284)年4月までに、時宗を烏帽子親として元服したのであろう。元服は通常10代前半で行われることが多かったから、遅くとも1270年頃の生まれになるだろう。

よって、宗朝の生年は1260年代後半と推定される。永仁2年の段階で無官であった可能性が高いことを考慮すると、1270年前後の生まれ、時宗晩年期の元服になるのではないか。仮に1270年生まれとした場合でも【史料1】の元亨3年には54歳(数え年、以下同様)となり、出羽守を辞した後の年齢としては十分妥当である。

 

尚、延元元(1336)年4月に定められた建武武者所結番の一番衆の中に「藤原政秀小山五郎左衛門尉」の名が見られる*10。【系図5】と照合すると、通称名の一致や字の逆転から貞朝の子・秀政(小山秀政)の誤記とも考えられるが、宗朝の孫にも「藤井」を称した政秀(小山政秀)の名が確認できる。この政秀は元服済みで左衛門尉の官途を得ており、若くとも20代であったとみられるが、仮に後者であるならば、祖父である宗朝は60代に達していたとみるのが妥当である。同年前月に出された【史料7】を見る限り、宗朝は既に故人であったと考えられるが、1270年生まれとしてもこの当時67歳となり、辻褄が合う。【史料4】で1332年までの生存は確認できるから、宗朝は1333~1336年の間に、享年60代で亡くなったものと推測される。

 

備考

小山宗(小山七郎宗朝)」は、結城朝光元服の際に名乗った初名でもある*11。こちらは、外祖父・八田宗綱から取ったと思われる「宗」と、元服時の烏帽子親・源頼からの偏諱「朝」によって構成されている。

 

(参考ページ・論文)

南北朝列伝 #小山宗朝

 湯山学「小山出羽入道円阿をめぐってー鎌倉末期の下野小山氏」(所収:『小山市史研究』三号)

 

脚注

小山時村

小山 時村(おやま ときむら、生年不詳(1245年頃?)~没年不詳)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人。初名は小山時朝(- ときとも)。通称は四郎(出羽四郎)。官途は左衛門尉か。

父は小山長村。弟に小山時長。子に小山宗朝、女子結城時広室、貞広母)がいる。

 

 

尊卑分脈』の系図には次のようにある。

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▲【系図α】『尊卑分脈』小山氏系図(一部抜粋)*1

 

生年と改名について

まずは「時村 云々」について確認しておきたい。

吾妻鏡』では唯一、正嘉元(1257)年12月29日条に登場*2、この日の御格子上下結番・五番衆の一人に「小山出羽四郎時朝」が見える。通称名は当時「出羽前司」と呼ばれていた父・長村*3の「四郎」を表すものである。

*「四郎」は本来4男の意味であるが、小山氏においては「政光―朝政―朝長―長政(長村の庶兄)」代々が称してきた家督継承者の称号であったと考えられる。これについては後述でも考察する。

 

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その後、史料上で主だった活動は確認できないが、永仁2(1294)年の成立とされる白河集古苑所蔵の「結城系図(以下「結城系図A」とする)上では「時村」と書かれており、当時元服済みであった息子・宗朝の記載もある*4。更に、1320年前後の成立とされる『結城小峯文書』所収の「結城系図(以下「結城系図B」とする)でも貞広の注記にも「小山四郎判官時村」と書かれている*5ので、時朝が最終的に後に父・長村の1字を取って時村に改名したことは認められよう。

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結城貞広の生年は1289年と判明しているので、各親子間の年齢差を考慮すれば、外祖父にあたる時村は遅くとも1249年までには生まれていたと判断できる。『鎌倉大日記』によると、弟・時長が1246年生まれらしく、父・長村との年齢差も考慮すると、時村の生年は1240年代前半だったと推定可能だろう。

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系図α】を見ると、時長の母は海東忠成の娘と明記されているが、時村のそれについては特に記されておらず、恐らくは異母兄弟であったと考えられる。

時村の母については今のところ史料類による特定が難しいが、父・長村は別に北条(金沢)実泰の娘を妻に迎えていたといい*6、候補にはなり得る。実泰は1208年生まれなので、仮に各親子間の年齢差を20とした場合、その外孫の生年は1248年頃となるが、実泰が17歳の時に嫡男・実時が生まれていることを参考にすると、多少は遡っても良いだろう。よって、時朝(時村)の生年は時長のそれの前年にあたる1245年と仮定しておきたいと思う。

よって、通常10代前半で行われる元服当時の鎌倉幕府執権は、5代・北条(在職:1246年~1256年)*7であることは確実となり、「」の名はその偏諱」が許されている。時頼が烏帽子親として一字を授けたものと考えて良いだろう。

 

官職歴について

あわせて、他の注記の内容についても考察していこう。内容としては官途・官位に関するものであり、改めて抜粋してみると次の通りである。

 叙留之後申 六位畏云々

 従五下

 使叙留

 修理権大夫

「従五下」は従五位下、「使」は検非違使を表し、修理権大夫は修理大夫従四位下相当、長官級)*8権官である。「叙留」とは「律令制で、位階が昇進して、官職がその位相当でなくなったにもかかわらず、その職に留まること」を意味する*9。冒頭記載の解釈としては、「叙留の後、六位であることが恐れ多いことを申した」ということであろうか、詳細は不明だが、位階と官職の不一致を巡って混乱があったのかもしれない。これは時朝(時村)が長村の嫡男であったのかどうか、最終的に小山氏の嫡流が弟・時長の孫である貞朝の系統に移ったこととも関係するのだろう。

 

ここで前述の結城氏系図2種に着目しておきたいが、「結城系図B」では貞広の注記に「小山四郎判官時村」とある(前述参照)のに対し、「結城系図A」では時広の嫡男・犬次郎丸(貞広の幼名)の注記には「小山判官入道」と書かれている。時村=判官入道であることは間違いないと思うが、時村の最終官途が「判官」で、その後は出家したことが窺える。尚、法名は不詳である。

「判官 (はんがん/ほうがん)」とは、律令制における四等官の第三位である判官(じょう=尉)の職を帯びる者の通称である*10から、長官級(=四等官の第一位)である修理大夫およびその権官たる修理権大夫に就いた可能性は低く、前述の注記には誤伝が含まれている可能性を留意すべきである。恐らく実際の官途は左衛門尉だったのではないかと推測される

 

所領についての考察

寛喜2(1230)年2月20日付「小山朝政譲状」(『小山文書』)には、以前朝政(下野入道生西)が「将軍家之御恩」として賜り、「嫡孫 五郎長村」へ譲られた「所領所職等」の中に「一. 尾張国 海東三箇庄 太山寺」が含まれている*11

そして、延元元(1336)年3月30日付「後醍醐天皇綸旨」(『久我家文書』)*12の文中には「尾張国海東中庄地□〔頭〕 小山出羽入道円阿」とある。【系図α】と照合すれば、小山円阿は官途の一致から息子・宗朝が出家した同人と推測される。

海東荘は早くから上中下の3つの区域に分けられていた*13が、この2つの史料から、そのうち中荘が「長村―時朝(時村)―宗朝」の三代に亘って相伝されたことが推測できよう。

 

脚注

結城朝光

結城 朝光(ゆうき ともみつ、1168年~1254年)は、平安時代末期から鎌倉時代中期にかけての武将、御家人。下総結城氏初代当主。

父は藤原北家藤原秀郷流の小山政光。 母は八田宗綱の娘・寒河尼。

幼名は一万丸、初名は小山宗朝(おやま むねとも)。通称は七郎。官途は左衛門尉、のち上野介。法名日阿

 

吾妻鏡』には次の箇所に朝光の元服の記事がある。

【史料】『吾妻鏡』治承4(1180)年10月2日条 より

治承四年十月小二日辛巳。武衛(=源頼朝相乗于常胤広常等之舟檝。済大井隅田両河。精兵及三万餘騎。赴武蔵国。豊嶋権守清元。葛西三郎清重等。最前参上。又足立右馬允遠元。兼日依受命。爲御迎参向云々 今日。武衛御乳母故八田武者宗綱息女 小山下野大掾政光妻。号寒河 相具鍾愛末子。参向隅田宿。則召御前。令談往時給。以彼子息。可令致昵近奉公之由望申。仍召出之。自加首服給。取御烏帽子授之給。号小山七郎宗朝 後改朝光 今年十四歳也云々。

源頼朝の御前に於いて元服し、自ら加冠を務めた頼より「」の偏諱を受けて「」と名乗ったことが窺える。後に父・政光の1字と合わせて「」と改名した。

▲2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも朝光が登場

 

(参考ページ)

 結城朝光 - Wikipedia

● 結城朝光とは - コトバンク

 

脚注

葛西時清

葛西 時清(かさい とききよ、1215年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代前期~中期の武将、御家人。葛西氏宗家第3代当主。通称および官途は 小三郎、三郎、左衛門尉。

父は葛西清親。弟に葛西光清。子に葛西清経、女子長尾景茂室、景忠母)*1

 

 

"伯耆三郎左衛門尉"時清

吾妻鏡人名索引』を見ると、『吾妻鏡』建長4(1252)年4月3日条伯耆三郎左衛門尉時清」および 建長8(1256)年6月29日条伯耆三郎左衛門尉」が葛西時清に比定されている*2

そもそもその通称名は、父が伯耆守で、自身は仮名(輩行名)が「三郎」、官職が左衛門尉であったことを示している。詳しくは後述するが、『吾妻鏡』を見るとこの当時の伯耆守に該当するのは清親であり*3、『尊卑分脈後藤基頼の注記に「葛西伯耆守清親」とあることから、葛西氏と分かる。

また、『奥山庄史料集』所収「桓武平氏諸流系図」(【図A】)でも伯耆守清親の子に三郎左衛門時清を載せており、『吾妻鏡』はその実在を証明するものとなる。

 

【図A】「桓武平氏諸流系図」葛西氏部分*4

次男  号六郎大夫 平■仗 豊島三郎       左衛門尉    四郎
将恒―――武恒―――経家――康家――+―清元―+―有経    +―重元
武蔵権守              |    | 壱岐三郎  | 伯耆守  三郎左衛門
                  |    +―清重――――+―清親――――時清
                  |    | 笑田四郎  | 六郎左衛門
                  |    +―有元    +―朝清
                  |    | 豊島五郎  | 七郎左衛門
                  |    +―家員    +―時重
                  |            | 八郎左衛門
                  |            +―清秀
                  | 豊島四郎  兵衛尉
                  +―俊経――――遠経
                         |
                         +―平塚入道

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更に裏付けるならば、「…左衛門尉時清」記事と同年の建長4年11月11日条には、将軍家御出供奉の一人として「伯耆左衛門三郎清経」が現れており*5、清親も清経も葛西氏の系図上で見られる名前である。葛西氏において「三郎」は、本来の3男の意味というよりは、清元以来の惣領代々の称号と化していたとみられ、時清も清経もその継承者であったと見なせる。清経の通称名は「伯耆左衛門(尉)」の「三郎」を表しており、時清の嫡男であったと推測できよう。

*「仙台葛西系図」では清親の子、清経の父にあたる人物として清時の記載があるという*6。葛西清時なる人物が別にいたことは後述するが、単に字を逆転させた誤記だとすれば、「清親―時清―清経」という系譜の傍証になり得るだろう。

 

尚、「伯耆三郎左衛門尉時清」と同時期(建長年間)に現れる「伯耆四郎左衛門尉光清(=葛西光清)」はその名乗り方からして清親の子、時清の弟と見なせる。

 

【表B】『吾妻鏡』における葛西光清の登場箇所*7

月日

表記

宝治2(1248)

8.15

伯耆四郎左衛門尉光清

建長2(1250)

8.18

伯耆四郎左衛門尉

12.27

伯耆四郎左衛門尉

建長4(1252)

8.14

伯耆四郎左衛門尉光清

建長5(1253)

1.16

伯耆四郎左衛門尉光清

建長8(1256)

6.29

伯耆四郎左衛門尉

弘長元(1261)

8.5

伯耆四郎左衛門尉

弘長3(1263)

7.13

伯耆四郎左衛門尉

 

時清や清経と同時期に登場する、建長4年4月14日条の「伯耆左衛門四郎清時(=葛西清時)」も、その名乗り方からして、時清または光清の子と見なせる。

*前述の光清とは「四郎」や「左衛門尉」の通称が共通するが、「伯耆左衛門尉の四郎」と「伯耆四郎かつ左衛門尉」では意味が異なっており、別人として扱うべきである。

 

 

"壱岐小三郎左衛門尉"時清

ところで、『吾妻鏡』を見ると "伯耆三郎左衛門尉時清" の登場前に、「三郎」の仮名と「時清」の実名が共通する人物が以下の箇所に登場する。

 

【表C】*8

月日

表記

嘉禎元(1235)

6.29

壱岐三郎時清

嘉禎3(1237)

4.22

壱岐小三郎左衛門尉

6.23

壱岐小三郎左衛門尉時清

嘉禎4(1238)

2.17

壱岐小三郎左衛門尉

2.28

壱岐小三郎左衛門尉時清

6.5

壱岐小三郎左衛門尉時清

仁治元(1240)

8.2

壱岐小三郎左衛門尉

結論から言えば、この時清も葛西氏と見なせる。

冒頭で示したように、葛西時清が「伯耆三郎左衛門尉」と呼ばれるためには、父・清親伯耆守に任官済みであることが前提となる。従って、仁治元年8月の段階でさえ、清親はまだ伯耆守に昇進していなかったことになる。

しかし、翌2(1241)年3月17日条「伯耆前司」が清親のこととされ*9、以後「伯耆四郎左衛門尉光清」や「伯耆三郎左衛門尉時清」の名が現れるのである。

 

『吾妻鏡』暦仁元(1238)年2月17日条には4代将軍・九条頼経の上洛時の随兵42番に「壱岐小三郎左衛門尉」と「壱岐三郎左衛門尉」が別々に書かれている。時清は父「三郎」と区別されて「小三郎」と呼ばれたのであろう。

似たような例としては、父の "河越太郎" 重頼に対して "小太郎"と呼ばれた河越重房、父の "北条四郎" 時政に対して "小四郎"と呼ばれた北条義時、父の "武田五郎" 信光に対して "小五郎"と呼ばれた武田信政などが挙げられる。

研究の中には「壱岐小三郎左衛門尉」が壱岐葛西清重の息子とする見解もある*10が、父・清親が国守伯耆守)の官途を得ていなかった間は祖父・清重の官途が付されていたと考えて問題ない*11。従って「三郎嫡流家の正しい系譜は【図A】の通り「清重清親時清」であったと判断される。

 

尚、嘉禎元(1235)年の時清初見時の「壱岐三郎時清」表記は、父が「壱岐三郎左衛門尉清親」と名乗っていたため、特に「小三郎」と区別する必要がなかったのであろう。

*『吾妻鏡』寛元元(1243)年7月17日条「葛西三郎左衛門尉」について、『吾妻鏡人名索引』では清重に比定するが、清重は壱岐守となって出家した上にこの頃は故人で*12、清親も前述の通り伯耆守を辞して「伯耆前司」と呼ばれていたから、これも時清に比定されよう。同様に「小三郎」と呼ぶ必要は無かったと考えられる。

 

嘉禎元年当時の時清は左衛門尉任官前で無官であったことが分かるが、元服からさほど経っていなかったためであろう。

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息子の清経22歳(数え年、以下同様)となった建長8(1256)年から「伯耆新左衛門尉」と呼ばれるようになっており、葛西氏における左衛門尉任官年齢の目安になるだろう。

時清は、表記が変わる間の1236年に左衛門尉の官途を得たと仮定すると、1215年頃の生まれと推定可能である。息子・清経との年齢差もちょうど良く、1238年生まれの後藤基頼の母方のおじとしても十分妥当である。

清経は18歳の時に「伯耆左衛門三郎清」と実名で現れるので、これ以前に元服したことは確実で、その名から8~12歳で4代執権・北条を烏帽子親として加冠の儀を行ったと判断される。

清も同じくらいの年齢で元服を遂げたとすれば、当時の3代執権・北条泰(在職:1224年~1242年)*13偏諱」を賜ったと考えて間違いないと思う。泰時の代には他の御家人がこぞって泰時に加冠や偏諱を求めており、恐らくは父・清親の意向と思われるが、葛西氏もこの流れに乗っかったことが窺える。

 

(参考ページ)

千葉氏の一族 #葛西時清

 葛西時清 - Wikipedia

 

脚注

*1:葛西時清 - Wikipedia より。典拠は『群書系図部集 4』。

*2:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)P.198「時清 葛西」の項 より。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*3:吾妻鏡人名索引』P.287「清親 葛西」の項 より。

*4:千葉氏の一族 #葛西清重 より引用。

*5:吾妻鏡人名索引』P.284「清経 葛西」の項 より。

*6:葛西時清 - Wikipedia より。

*7:吾妻鏡人名索引』P.131「光清 葛西」の項 より。

*8:吾妻鏡人名索引』P.197「時清(※姓不詳)」の項 より。

*9:注3箇所によれば、実名の初見は寛元2(1244)年8月15日条「伯耆前司清親」。宝治元(1247)年12月29日条にも「葛西伯耆前司」とあって葛西清親と認められる。

*10:千葉氏の一族 #葛西時清

*11:同様の例としては伯耆葛西清親の孫 "伯耆左衛門三郎→伯耆新左衛門尉" 清経陸奥北条義時の孫 "陸奥太郎" 実時陸奥北条重時の孫 "陸奥孫四郎" 義宗陸奥安達泰盛の孫 "陸奥太郎" 貞泰 など多数確認される。

*12:『吾妻鏡』建長2(1250)年3月1日条に「葛西壱岐入道跡」とあり、この時には既に亡くなっていたことが窺える。

*13:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。