Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

【🌸ようこそ🌸】偏諱 について・入門

Henkipedia(ヘンキペディア)にようこそ!

筆者の西園寺史雄です。

さて、皆さんは歴史上の人物(日本史)の名前に着目したことはありますか?

よーく見てみると面白いことが起こっています。

 

 

1.偏諱とは?

★武田信玄

信玄は出家後の法名。本名は武田晴信(はるのぶ)。

「晴」の字は室町幕府第12代将軍・足利義晴から賜った。←この「晴」を偏諱(へんき)という。

 

★上杉謙信

謙信は出家後の法名。長尾為景の子で初名は長尾景虎。

上杉憲政の養子となり「政」の偏諱を受けて上杉政虎。

のち室町幕府第13代将軍・足利義輝から「輝」の偏諱を受けて上杉輝虎。

そして上杉謙信へ。

 

★徳川将軍家

⑤徳川綱吉:初め館林藩主。のち、偏諱を与えた兄の4代将軍・家綱の跡を継いで5代将軍に。

⑧徳川吉宗:紀伊徳川家出身。初め頼久。兄たちの早世により紀伊藩主を継いだ折に5代将軍・綱吉の偏諱を賜る。のち徳川将軍家を継ぐ。

⑮徳川慶喜:水戸徳川家出身。一橋家を継いだ折に12代将軍・家慶の偏諱を賜る。

 

徳川家というと、初代・家康や3代・家光のように「家」の字を代々使う(これを通字という)イメージがあるかもしれません。しかし、上記の3名は本来ならば将軍家を継ぐはずではなかったため、「家」の字が含まれていないんですね。

ちなみに、⑥家宣(初め綱豊)や ⑭家茂(初め慶福)の場合は、分家の出身者で初めは将軍の偏諱を賜っていましたが、将軍就任後に「家●」という形に改名したというわけです。

 

このような現象は徳川の分家(松平氏含む)や外様大名などで見られました。

 

水戸徳川家:家康―頼房―光圀=綱條---(略)---斉昭―慶篤(慶喜の兄)

薩摩 島津氏:家久―光久―綱久―綱貴---(略)---斉興―斉彬=茂久(のち忠義)

公家・二条家:康道―光平=綱平---(略)---斉信―斉敬

 

また、家康の3男、②秀忠の場合は「家」の字を代々使うことが慣習となる前ということもありますが、豊臣秀吉の時代に「秀」の偏諱を授かったという理由による名乗りです。信康・秀康という兄がいたので、2文字目には家康の父・松平広忠に由来の「忠」を使用しています。

信康・秀康……これはもう誰からもらったか、言うまでもないですよね(笑)?

 

以上のように、

室町時代は 足利 将軍家

(安土桃山時代は 織田信長 豊臣秀吉)

江戸時代は 徳川 将軍家

 

から全国各地の大名は1文字(=偏諱)を貰う、という慣習がありました。

もちろん、「将軍⇒大名」という図式だけではなく、大名(本家筋)から分家や家臣へのやり取りもありました。

時代が現代に限りなく近いということもあって、その様子が窺える史料(系図や、加冠状という書状など)は沢山残されています。 

 

2.鎌倉時代の一字付与

さて、そうすると鎌倉時代はどうだったでしょうか?

 

将軍(征夷大将軍)はいたことはいたものの、源氏→九条家→親王と一定していません。そして、これに代わって、代々執権となった北条氏が実権を握っていました。

 

(歴代の鎌倉幕府将軍)

①源頼朝 ②頼家 ③実朝  ④九条頼経  ⑤頼嗣

⑥宗尊親王 ⑦惟康親王 ⑧久明親王 ⑨守邦親王

 

(北条氏略系図)

時政―義時――泰時(初め頼時)―時氏――経時

      ―朝時          ―時頼―時宗―貞時―高時―邦時

      ―重時―――――――――長時―――義宗―久時―守時―益時

      ―実義(のち実泰)

 

(足利氏略系図) 義氏―泰氏―頼氏*(初め利氏)―家時―貞氏―高氏(のち尊氏)

 

北条氏は、義時の息子数名と、その後は泰時の系統(=得宗家)と重時の系統(=赤橋流)が将軍の偏諱を賜ったようです。

しかし、のちに将軍家となる足利氏の歴代当主に着目すると、将軍から賜った形跡はありません。それどころか、何と同じく御家人であるはずの北条氏から1字を与えられているように見受けられます。

*頼氏の場合も、自身が北条時頼の甥(母が時頼の妹)であり、改名した時の将軍は宗尊親王、執権が時頼であったので「頼」の字は九条家からの偏諱であるはずはなく、時頼から賜ったとみるのが妥当です。

 

このように「将軍 ⇒ 北条氏(特に得宗家) ⇒ 他の御家人」という形式の、事実上二重構造となっているため、(将軍の1字を受けていない泰時・貞時・高時の場合は迷うことは無いですが)鎌倉時代中期の場合は、「経」や「頼」が九条頼経 or 北条経時・時頼、「宗」が宗尊親王 or 北条時宗 いずれかであるかの判別がし難い、そういう御家人が何名か見られます。

 

このブログでは、誰から1字を貰ったのかというところで、そうした御家人について、筆者独自の見解を述べようと思います。

南条時員

南条 時員(なんじょう ときかず、1190年代?~没年不詳(1275年以前))は、鎌倉時代前期の武士、御内人。通称および官途は 七郎、左衛門尉。出家後の法名は不詳。

 

 

得宗被官(御内人)・南条氏については、梶川貴子氏の研究に詳しく、本項でも以下の論文に基づいて解説する。

■【A論文】「得宗被官南条氏の基礎的研究 ー歴史学的見地からの系図復元の試みー」(所収:『創価大学大学院紀要』第30号、2008年)

■【B論文】「南条氏所領における相論」(所収:『東洋哲学研究所紀要』第27号、2011年)

■【C論文】「北条時輔後見南条頼員について」(所収:『創価大学大学院紀要』第32号、2010年)

 

 

"南条七郎"時員の活動

南条氏は元々伊豆国田方郡南条を名字の地とする平姓の武士で、鎌倉幕府成立後は椀飯の儀に参じていることから当初は御家人であったようだが、近郷である同郡北条郷の出身で関係性も深かったと思しき北条氏に接近してその被官(=御内人)になっていったとされる。時員も承久3(1221)年の承久の乱では北条泰時の軍勢に属し、その後も泰時邸の近くに住むなど、泰時の御内人であった様子が窺える。詳細は梶川氏の論考にお譲りしたいと思うが、同氏のまとめによると、『吾妻鏡』において時員は次の複数箇所に登場する。

 

【表1】『吾妻鏡』における南条時員の登場箇所*1

年月日

表記

建保1(1213) .1.2

南条七郎

承久3(1221) .5.22

南条七郎

  .6.14

南条七郎

  .6.19

南条七郎

元仁1(1224) .6.28

南条七郎

嘉禄2(1226) .10.12

南条七郎

嘉禎2(1236) .1.2

南条七郎左衛門尉

  .1.3

南条七郎左衛門尉

  .8.4

南条七郎左衛門尉

  .12.19

南条左衛門尉

嘉禎3(1237) .1.2

南条七郎左衛門尉

  .4.22★

南条七郎左衛門尉時員

暦仁1(1238) .1.2

南条七郎左衛門尉

「時員」という実名が確認できるのは北条時頼の元服に関する★印の記事*2の1箇所のみで、「時貞」とする異本もあるようだが、梶川氏が説かれるように 「員」と「貞」は崩し字が似ており*3、南条頼員の存在も確認できることから「時員」が正確と判断して良いだろう。

1226年から1236年初頭までの9年数ヶ月間登場しない間に左衛門尉に任官した様子であるが、寛喜元(1229)年1月15日条・9月9日条・12月17日条に息子と思しき「南条七郎次郎」が登場しており、その通称は「南条七郎(=時員)」の「次郎(本来は次男の意)」を表すから、任官は1230年代に入ってからと判断して良いだろう(もし七郎時員が左衛門尉在任であれば、その息子は「南条七郎左衛門次郎」や「南条左衛門次郎」等と呼ばれる筈である)。

暦仁元年以後は、『吾妻鏡』には登場しないが、建長元(1249)年8月14日、山門の尊覚法親王のもとに幕府の使者として浅間四郎左衛門尉(=浅間忠顕)と共に比叡山に派遣された「南条七郎左衛門入道」が、梶川氏が言われるように時員が出家した姿とみられ、この時までの生存は確認できる*4。法名は不明だが、同氏は仁治3(1242)年の泰時の死に伴って出家したのではないかと説かれている*5。

 

そして、建治元(1275)年の『六条八幡宮造営注文』の「鎌倉中」のリスト中に、同じく得宗被官の「平左衛門入道(=平盛時か?)跡」や「諏訪兵衛入道跡」と並んで「南条七郎左衛門入道跡」が含まれており*6、この時は既に亡くなっていた様子である。北条時輔の後見人として確認できる南条頼員が時員の後継者とみられ、またこの記載から、時員の系統がその後も南条氏の嫡流として鎌倉に在住であったと見なされる。鎌倉時代後期・末期に鎌倉在住が確認できる南条左衛門尉貞直(「鶴岡八幡宮寺社務職次第」・「鶴岡八幡宮寺諸職次第」)や南条新左衛門尉高直(『御的日記』・金沢貞顕書状等)が、梶川氏が説かれる通り嫡流の人物であったとみられる。

 

 

時員・忠時兄弟の生年について

さて、梶川氏は初出の建保元(1213)年当時、時員は10代~20代であったのではないかと推測の上、次の【図2】のように系図をまとめておられる。これに従えば時員はそこから20数年後、30~40代で左衛門尉の官職を得たことになる。

 

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▲【図2】南条氏推定略系図(梶川A論文に基づいて筆者作成)

 

そして、弟とされる南条忠時(ただとき)は、梶川氏の推測通り南条時光(1259-1332)*7の祖父であれば、現実的な年齢差を考慮して遅くとも1219年までには生まれていたことになる。史料上での初見は『吾妻鏡』暦仁2(1239=延応元)年正月3日条「南条八郎兵衛尉忠時」とされる*8が、兄・時員の左衛門尉任官に先立って兵衛尉になるとは考えづらいので、忠時の兵衛尉任官も1239年からさほど遡らない頃になされたと考えられる。

よって、1230年代に南条兄弟は30代くらいの年齢を迎え、兄の七郎時員が左衛門尉、弟の八郎忠時が兵衛尉にそれぞれ任官したと判断されるので、逆算して生年は1200年前後であったと推定しておきたい。

 

平姓南条氏の出自に関する一推論

ところで、時員・忠時の兄弟はともに「時」の字を有しており、これを通字とする北条氏(年代的には時政或いは義時になるか?)から一字を拝領した可能性も考えられる。ただ、梶川氏の推論に従うと、忠時の系統は、前述の時頼元服の記事に時員と共に登場する、息子と思しき兵衛次郎経忠(つねただ)とは「忠(ただ)」を継字とする一方で、【図2】にあるように兵衛七郎(俗名不詳だが「時○」または「○時」という名前の可能性あり)系の少なくとも庶流が「時(とき)」を通字としたことが窺える。

また、南条氏嫡流と思しき人物では、時員や頼員が「員(かず)」を用いているのに対し、鎌倉時代後期・末期に現れる貞直や高直、ひいてはこの系統の庶子とみられる南条頼直(四郎左衛門尉)は「直(なお)」を使用しており、頼員と貞直の正確な続柄が不明である(年代的には、親子、祖父―孫、伯父―甥あたりの可能性が高いと思う)が、この間に何かしらのきっかけがあって、通字が変化した様子である。

 

ここで、大石寺第59世法主の日亨上人が、南条時光についての著書の中で「父は南条兵衛七郎で其(その祖先が詳には記したものがないが氏は平で伊豆国の南条に住んで居られた多分北条氏の一門であろう」*9と説かれていることに着目したい。大石寺には忠時流南条氏に関する書状が多く遺されており、時光の孫とされる高光の項でも多数紹介しているのであわせてご参照いただければと思う。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

時光の父のことや平姓であることは、永仁6(1298)年2月15日付「駿河本門寺棟札」(駿河北山本門寺蔵)に「大施主南条七郎次郎平時光」*10、同年のものとされる「白蓮本尊曼荼羅分与帳」(『興尊全集』所収)の文中に「南条兵衛七郎子息七郎次郎平時光」*11と記されるによって確かめられる。

▲【図3】『尊卑分脈』平氏系図より一部抜粋

 

もし南条氏が北条氏の一門なのだとすれば、北条義時の執政期から既に時員やその兄と思しき「南条次郎」が登場していることを踏まえると、義時の父・北条時政以前に枝分かれした系統と考えるのが妥当であろう。時政以前の系譜については、『尊卑分脈』や『源平闘諍録』などで桓武平氏の一流とするものが伝えられてはいるものの、系譜によって違いがある上に、先行研究においては平直方の子孫を称すること自体を疑問視ならびに否定視する研究者もいて*12確定していない。ただ、鎌倉時代に入って北条朝直ら大仏流や北条時方(のちの顕時)などが直方、北条貞時・高時が平貞盛・平高望、北条維貞が平維時といった具合に、北条氏は平氏を先祖と仰ぎ、その字を名乗りに用いた様子である。すなわち北条氏には「(実際の真偽はともかく)『尊卑分脈』(上記【図3】)にあるような、直方の子孫である」との系譜認識が伝えられていたことが窺えよう。

『吾妻鏡』文治5(1189)年6月6日条の末尾を見ると、伊豆国田方郡内には南条・北条・上条・中条と呼ばれる地域が並んでいたといい、冒頭でも言及の通り南条氏と北条氏は元々拠点が近い者同士の関係にあったと考えられるから、もしかすると(実際の真偽はさておき)南条氏も同じく平直方(或いはその孫・平時直)の末裔という系譜認識があったのではなかろうか。

だからこそ忠時の子孫はそのまま「時」を通字としたのであり、また頼員以降の南条氏嫡流では、他家でも小山・結城氏での「朝」(小山貞朝・結城朝高)や安達氏の「景」(安達高景)、"平資盛の末裔" 長崎氏(長崎高資・高重)など同様の例があった鎌倉時代後期・末期当時において、貞直・高直らが先祖と仰ぐ直方の「直」字を "復活" させた。そうであった可能性を考えても良いのではないかと、一つの考察として掲げておきたい。

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尚、南条氏については、伊豆国田方郡南条郷を名字の地とした藤原南家工藤氏の支族とする説もある*13が、これだと藤原姓ではなく平姓であることとの整合性が取れず、疑問が残る。確かに、家祖・藤原為憲(工藤為憲)は母が平高望の王女(娘)であったといい(『尊卑分脈』)*14、従兄弟(高望の孫)にあたる平貞盛と共に、同じく従兄弟の平将門の乱を鎮圧するなど、一応桓武平氏との繋がりはあるが…。

ただ、その場合でも為憲の子は工藤時理といい*15、これにあやかって時員、および忠時の子孫が「時」を通字としたという考えは可能である。

よって、いずれにせよ、時員・忠時の「時」は特段北条氏から受けたのではなく、以前からの代々の通字であった可能性も考慮して、偏諱であったかどうかの判断は差し控えたい。

 

(参考ページ)

● 南条時員 - Wikipedia

● 南条 時員

 

脚注

*1:梶川C論文 P.411 表1 より抜粋。

*2:『大日本史料』5-11 P.239。北条時頼 - Henkipedia【史料】も参照のこと。

*3:同様の事例としては、長らく「葦名盛員」とされてきた葦名盛貞の例が挙げられる。

*4:梶川A論文 P.446 注16。典拠は「使者申詞書」(『最明寺文書』、→『大日本史料』5-31 P.111)。

*5:梶川A論文 P.436。

*6:海老名尚・福田豊彦「資料紹介『田中穣氏旧蔵典籍古文書』「六条八幡宮造営注文」について」(所収:『国立歴史民俗博物館研究報告』第45集、国立歴史民俗博物館、1992年)P.368。

*7:南条時光 - Wikipedia、南条時光 (上野郷の地頭) | 上野の著名・関係人 | 上野ガイド、聖教新聞:用語解説「南条時光」 より。

*8:梶川A論文 P.434・444。

*9:雪仙日亨 編『南条時光全伝 : 大石寺開基六百年忌』(1931年、国立国会図書館デジタルコレクション)P.5。

*10:『鎌倉遺文』第26巻19923号。

*11:『鎌倉遺文』第26巻19923号。

*12:詳しくは 北条氏 - Wikipedia #起源 を参照のこと。

*13:南条氏 - Wikipedia より。典拠は、丹羽基二著・樋口清之監修『姓氏 : 姓氏研究の決定版』(秋田書店、1970年)。

*14:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 第3巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。

*15:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集 第3巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション。

詫磨時秀

詫磨 時秀(たくま ときひで、1220年代?~1290年代?)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武士、御家人。大友詫磨氏第2代惣領。

大友能直の次男・詫磨能秀(よしひで、1198~1263)*1の嫡男(次男か)。通称は次郎、別当次郎。法名は寂尊(じゃくそん)。表記は詫摩時秀とも(後掲【史料6】より)。子に詫磨頼秀、詫磨親政、詫磨貞重などがいる。

尚、祖父・能直が藤原秀郷流近藤氏より出たとされる*2ことから、史料上では藤原姓で藤原時秀とも呼ばれる(他の大友氏・詫磨氏一門も同様)。

 

主な関係史料①:父・能秀からの家督継承

まずは次節とあわせて、関係史料を挙げていくこととしたい。『鎌倉遺文』掲載のものから主なものピックアップしたが、その大半は『新熊本市史』*3でも見られるので、是非あわせてご参照いただければと思う。

本節では父・能秀が亡くなる前後の書状を中心に取り上げる。

【史料1】弘長2(1262)年8月30日付「詫磨能秀家地状案」(『豊後詫摩文書』)*4

「校正了、」

\

譲与 鎌倉山王堂谷地事

 在壹戸主内 北南 にトヲイテ

  付東半分者 時秀所

  付西半分者 三郎直秀所

右、件地者、賜将軍家御下文、能秀令拝領之處也、仍時秀半分・直秀半分、譲与之、無妨可令領知之状如件、

 \

 弘長貳年八月卅日  \

      藤原能秀 在判

 

【史料2】弘長2年8月30日付「詫磨能秀所領譲状案」(『豊後詫摩文書』)*5

「校[  ]〔正了、〕」

\

譲与 相伝所領等地頭以下所職等事

        藤原時秀所

在

 肥後国内神蔵庄地頭下司職事 但除舎弟分、

   木部 鳥栖拾参町 但除舎弟分残所、

右、自亡父豊前〻司能直之手、譲得之、賜 将軍家御下文、能秀令知行之處也、然時秀譲与畢、無妨可令領知、但於関東御公事者、隨分限、可令勤仕之状如件、

 \

  弘長貳年八月卅日  \

       藤原能秀 在判

 

【史料3】弘長2年8月30日付「詫磨能秀譲状案」(『豊後詫摩文書』)*6

譲与 相伝所領等地頭以下所職事

  在

   肥後国神蔵庄内

    平丸名 上家分倉富名・石丸名内五郎久資 同女子二人分

    同石丸名内後家六郎屋敷田所職 一庄也、

    下司給内伍町・門内鳥栖内拾参町 在屋敷等、

    同国内大野別符中尾崎名内南尾崎名、

右、自亡父豊前〻司能直之手、譲得之、賜 将軍家御下文、能秀令知行之處也、然子息直秀譲与了、仍無妨可令知行、但於関東御公事者、随分限、可令勤仕之状如件、

  弘長二年八月卅日

       藤原能秀 在判

 

【史料4】弘長2年8月30日付「詫磨能秀譲状案」(『豊後詫摩文書』)*7

 譲与  藤原直秀所

   在

   肥後国鹿子木東庄内 南山室地頭職事

右、自亡父豊前〻司能直之手、譲得之、賜将軍家御下文、能秀令知行之處也、然三男直秀譲与畢、偽無防〔妨〕可令領知、但於関東御公事者、随分限、可令勤仕之状如件、

  弘長貳年八月卅日

       藤原能秀 在判

 

【史料5】弘長3(1263)年5月10日付「詫磨時秀配分状案」(『豊後詫摩文書』)*8

神蔵御庄内鳥栖村、所被載于故詫广殿(=能秀)弘長二年八月卅日譲状之田地屋敷等、面〻 仁 令配分内、三郎直秀分注文事、

  合田地拾参町者 当村鎮守宮御供田差坪内壹段参丈中加之、

在鳥栖里十二坪九反 十五坪町 十六坪町 十七坪町

 廿一坪内 鎮守宮御供田三丈中 元四段内 廿四坪町二丈 廿五坪町

 廿七坪九反二丈 廿八坪町 𮑱〔=蒲〕原里 十三坪内八反三丈

廿三坪町 𮑱田里 四坪内三反二丈 十一坪九反二丈

廿二坪九反四丈

以上拾参町定 付鎮守宮御祭料米内一石五斗二升 丁別一斗八合宛、已浮免也、 同村井料米内六斗五升八合 丁別四升七合宛、元三石内也、

屋敷等分

一所 太郎大宮司跡陸反  一所 中三別当跡六反

一所 舟田別当跡柒反   一所 施命跡参段

一所 中太別営跡壹反二丈 以上伍ヶ所定

右、任注文之旨、於神事用途米者、任先例、被弁済社家、於井料米者、惣領政所可被沙汰弁也、仍 ○〔所〕令配分之状如件、

 弘長三年五月十日  藤原時秀 在判

 

【史料6】文永4(1267)年11月23日付「関東御教書」(『豊後詫摩文書』)*9

詫摩別当二郎時秀申、亡父能秀書置状事、訴状遣之、可弁申之状、依仰執達如件、

文永四年十一月廿三日

 相 模 守(花押)(=連署・北条時宗)

 左京権大夫(花押)(=7代執権・北条政村)

菊池二郎(=菊池武房か)母

 

【史料7】文永8(1271)年2月10日付「関東下知状案」(『豊後詫摩文書』)*10

「校正畢、」

 大友出羽前司頼泰 与 詫摩別当能秀子息時秀・直秀・長秀等 并 大友兵衛尉時景法師 法名蓮景 相論、相模国大友庄内屋敷名田之事、

 

右、訴陳之趣、子細雖多、所詮、頼泰者、有本主能直遺言之由、雖帯後家尼状、後日譲能秀・時景之時、彼書状者、任親秀申請、令書畢、本主能直譲状不載其子細之旨、尼出契状畢、爰建長五年両方及相論之間、被仰下問注之處、泰直(=*頼泰の初名)依出去文、能秀・時景等、所給御下知状也、而今此状者、尼存生之時也、不可依去文之由雖構之、本主能直譲状明白之上者、云尼後判譲状、云泰直去文、旁不及異議、然者、任建長御下知状、能秀跡 并 蓮景知行不可相違之状、依鎌倉殿仰、下知如件、

 文永八年二月十日

          相 模 守平朝臣(=8代執権・北条時宗)在判

          左京権大夫平朝臣(=連署・北条政村)在判

 ○紙継目裏に、一色直氏の花押あり。

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(参考系図)

大友能直┬親秀─頼泰

    ├能秀┬時秀

    │  ├直秀

    │  └長秀

    └時景*11

 

以上の史料群から主に系譜関係について整理すると次の通りである。

  • 詫摩能秀の父が能直であったこと(史料2~4)。
  • 能秀―時秀(史料6)、能秀―直秀(史料3・4)の父子関係が、能秀に時秀・直秀・長秀などの子息がいたという記述(史料7)からも裏付けられること。
  • 弟の詫磨直秀は「三郎」という仮名(輩行名)の通り、能秀の「三男」であったことが窺え(史料4)、「二郎」を称する時秀(史料6)は次男であったとみられること(最終的に家督を継承するので、能秀の長男にあたる兄がいて早世したのかもしれない)。
  • 能秀は4つの譲状を出した(史料1~4)翌年には亡くなっていた(史料5)こと(史料6にも「亡き父」とあり)。

 

 

主な関係史料②:鎌倉時代中期

次に、この節では息子・頼秀や熊鶴冠者(貞重)への譲状を中心に取り上げ、代々相伝された主な所領について整理する。

【史料8】建治元(1275)年10月9日付「詫磨時秀譲状案」(『豊後詫摩文書』)*12

譲□〔与〕 太郎頼秀所

 神蔵庄地頭下司職 付給田内拾町

 木部名・与安名 但面〻子息等にゆつるをのそいて残分

 門内鳥栖田畠在家等 但面〻ゆつりあたふる残分

 石丸名 付志永 同所職等 白河津本司職

 小石丸名 同所職等 弥石名内岩坪申付門内参町公田六反

 阿良社敷地 亀甲 黒石原

右、件所領所職等、任 将軍家御下文、代〻知行無相違、仍御下文を相副、頼秀に譲与所如件、

 建治元年十月九日 藤原時秀 在

 

【史料9】(年不詳)8月1日付「沙弥寂意(頼秀)奉書」(『豊後詫摩文書』)*13

             (花押)

詫摩次郎時秀申亀甲堺相論事、訴状副具書、如此、子細見状、所詮、早加実検、可被注進絵図、若猶令難渋者、任訴状之旨、可被申関東歟之由、可令下知給之旨、依仰執達如件、

    八月一日 沙弥寂意 奉

(異筆)「建治三」

  謹上 神蔵庄預所殿

 

【史料10】弘安9(1286)年10月28日付「関東下知状案」(『豊後詫摩文書』)*14

(異筆)「校正畢、」

 \

可令早詫磨別当次郎時秀法師 法名□□〔寂尊〕 領知筑前国志登社地頭職 豊前〻司景資跡 事、

右、依弘安四秊蒙古合戦之忠、所被充行也者、早守先例、可令領掌之状、依仰下知如件、

 \

 弘安九年十月廿八日

          相模守平朝臣(=執権・北条貞時)在判

          陸奥守平朝臣(=連署・北条業時)在判

 

【史料11】弘安11(1288)年4月25日付「沙弥寂尊(時秀)譲状案」(『豊後詫摩文書』)*15

(端裏書)「ときひてよりさたしけへの譲状案文」

  又とりのす(鳥栖)に、たいちやう(田 一町ヵ)ちきやうすへし(知行すべし)、如件、在判

譲与 くまつるくわさ(熊鶴冠者)に

 ふこのくに(豊後国)をゝのゝ庄(大野の庄)内いたいさこ(板井迫)の名田・やしき(屋敷)ら、同ミやのさこ(宮迫)の名・同上家ふんのやしき・た(田)ら也、神蔵庄内十せんしのいたゝ(十禅師の一大夫)のやしき所職等内、七ハわり(祝)のやしき職等なり、与安の名内田壹町(田 一町)、しとのやしろ(志登の社)にた(田)四丁、件〔ママ〕

右、件所〻ハ、将軍家御下文給候て、ちとうしき(地頭職)、さをいなく(相違無く)、ちきやう(知行)するところ也、しかる(然る)を、くまつるに、ゆつりあたふ(譲り与ふ)ところ(如 脱字か)件、

 弘安十一年四月廿五日

  沙弥寂尊 判

 

【史料12】弘安11年4月25日付「沙弥寂尊(時秀)譲状案」(『豊後詫摩文書』)*16

 「校正了」、

 \

 譲与 太郎頼秀所、相伝所領所職等事、

 神蔵庄地頭下司職 付給田、但舎弟等譲分除之、

 木部名 但舎弟つるきくかふんハのそく(鶴菊が分は除く/以下同様)、

 与安名 たたし(但し/以下同様)舎弟等のふんハのそく也、

 石丸名 付吉永田畠ら、たヽしつるきくかふんハのそく、

 同所職等・白河津本司職・弥石名同所職等、たゝし安家庄官職のそく、同名門内四丁、

 阿良社敷地かめのこうの村といふ、たゝしつるきくかふんハのそくなり、

 門内鳥栖名田、但舎弟等かふんハのそくなり、黒石原、

 筑前国志登社地頭職 但舎弟等ふんハのそくなり、

 

右、件所領所職等、任将軍家御下文、代〻知行無相違、仍相副御下文、所譲与頼秀也、但公家・関東御公事等者、随分限、舎弟等に令配分、可令勤仕之状如件、

  弘安十一年四月廿五日 沙弥寂尊 在判

 

 ○紙継目裏に、貞和五年四月廿一日一色直氏の枚正封裏判あり。

 

【史料13】正応6(1293)年9月15日付「詫磨頼秀所領配分状案」(『豊後詫摩文書』)*17

志登社内又三郎四町坪之事

くらのもと四反 くたり四反半 つかもと九反三百分 下は

すハ五反小 さい二反 かわおき一反小 なかはすハ一反

あさこ一丁 にしこうた二反

右、件所領内、任親父寂尊譲、所別与如件、

 正応六年九月十五日

           頼秀 在判

まずは【史料10】に着目したい。 「関東式目」(蒙古合戦 并 岩門合戦恩賞拝領人交名注進写とも、『薩摩比志島文書』)*18にも「詫磨別当次郎時秀 豊前〻司景資跡 筑前国志土地頭職」とあるように、弘安9(1286)年、当時既に出家していた「詫磨別当次郎時秀法師」は、前年(1285年)の岩門合戦で兄・経資らに滅ぼされた少弐景資が生前就いていた「筑前国志登社地頭職」を「弘安4(1281)年の蒙古合戦(=いわゆる弘安の役)の忠」として賜ったという。

そして【史料12】を見ると、その僅か2年後にあたる同11(1288)年には「沙弥寂尊」から同地頭職が頼秀へと譲与されており、【史料13】から寂尊は頼秀の親父であったことが分かる*19。つまり、2年後にも志登社地頭職を持っていたこの寂尊は、時秀法師と同一人物にして【史料10】では記載されていなかった法名と判断できよう。同じく寂尊の書状である【史料11】でもそのように判断して端裏書に「ときひて」と記されている。

【史料9】から【史料10】の間に出家しており、時期からすると弘安7(1284)年4月の得宗・8代執権の北条時宗の死*20を悼んでの剃髪であった可能性が高いだろう。

尚、【史料9】には、恐らくは後世の追筆で「建治3(1277)年」の注記があるが、署名の「寂意」は頼秀の出家後の法名であるから、実際は【史料13】より後に書かれたものと思われる。ただ、「建治三」年のものと判断されたのは、当時もまだ在俗で「詫摩次郎時秀」と名乗っていたからなのかもしれない。

 

では、以上に挙げた史料から「能秀―時秀―頼秀」3代で相伝された主な所領をまとめてみると次の通りである。

<資料14>

  • 相模国大友田屋敷(【史料7】)・鎌倉(名越)山王堂(【史料1】)
  • 肥後国神蔵庄地頭下司職(【史料2】・☆)
  • 木部名・鳥栖(【史料2】・☆)
  • 与安名・石丸名(☆)
  • 弥石名内門内四丁(☆)
  • 阿良社敷地 亀甲村(☆)
  • 筑前国志登社地頭職(【史料12】)

☆は【史料8】・【史料12】双方に登場。

他にも、【史料11】において庶子の熊鶴冠者(貞重)には与安名のうち田一丁、志登社のうち田四丁に加え、豊後国内に持っていた所領を譲っており、時秀(寂尊)は多くの所領や所職を獲得していたことが窺える。

文保元(1317)年当時、「詫磨別当太郎頼秀法師 法名寂意」は「号惣領」して「家嫡」であった*21が、前年の正和5(1316)年3月17日に寂意から<資料14>の所領・所職等の譲状を受けた「まこ(孫)いちハう(一房)」*22は、寂意の死後、「惣領主一房丸」*23、「惣領詫万〔詫磨の別表記〕一房丸」*24と認知されており、<資料14>は能秀以来の惣領に相伝された土地であったことが認められよう。

 

 

世代と烏帽子親の推定

<大友氏略系図>

能直┬親秀─泰直(頼泰)

  └能秀─時秀

時秀は、伯父・大友親秀(1195~1248、初名:親直)の子である泰直(1222-1300、のちの頼泰)の従兄弟にあたるから、現実的な親子の年齢差を考えても、早くとも泰直とほぼ同世代の生まれ(=1220年代生まれ)と推測可能である。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

ただ、こちら▲の記事で嫡男・頼秀を1240年代生まれと推定したので、現実的な親子の年齢差を考慮すれば、父である時秀の生年は1220年代より下ることはないと考えて良いと思う。

ここで「時秀」の名前に着目し、考察を述べたい。まず「秀」の字は、弟たちと共に  父・能秀の1字を継承したものと考えられ、以降も詫磨氏嫡流における代々の通字となっていくこととなる。ちなみに、能秀の「秀」は伯父・親秀と兄弟ともに用いているが、冒頭で前述の通り祖先と仰ぐ藤原秀郷に恐らく由来するものであろう。

それに対して上(1文字目)に戴く「時」の字は、当時の執権であった北条氏の通字でもあり、北条氏から許され、賜った偏諱であった可能性が高いだろう。ちなみに、従兄・泰直の「泰」は3代執権・北条泰時の偏諱と考えられ、改名後の「頼泰」についても『続群書類従』所収「大友系図」での傍注に「北條時賴賜一字」という記述が見られる*25。

よって、時秀も1220年代に生まれ、北条泰時の執権在職期間(1224年~1242年)*26内に元服を遂げ、烏帽子親の泰時からその偏諱を拝領したものと結論づけておきたい。

 

(参考ページ)

● 詫磨時秀(たくま ときひで)とは? 意味や使い方 - コトバンク

● 武家家伝_託摩氏

 

脚注

*1:詫磨能秀(たくま よしひで)とは? 意味や使い方 - コトバンク より。

*2:『尊卑分脈』によると「秀郷―千常―文行―近藤脩行―行景―景親―景頼(改め貞成)―能成―能直」という系譜となっている。

*3:新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション(※送信サービスで閲覧可能)P.416~。目次・掲載古文書一覧はこちらを参照のこと。

*4:『鎌倉遺文』第12巻8863号。

*5:『鎌倉遺文』第12巻8864号。

*6:『鎌倉遺文』第12巻8865号。

*7:『鎌倉遺文』第12巻8866号。

*8:『鎌倉遺文』第12巻8957号。

*9:『鎌倉遺文』第13巻9806号。

*10:『鎌倉遺文』第14巻10777号。

*11:『速見 入江文書』所収「大友田原系図」(『大分県史料』10 P.454)や『続群書類従』所収「大友系図」に能直の6男、親秀・能秀(詫磨別当、母同親秀)・時直・有直・親直(五郎、早世)の弟として時景(号一万田、法名蓮景、豊前城井壱岐前司景房法名蓮昇之養子 等)が載せられている。

*12:『鎌倉遺文』第16巻12058号。

*13:『鎌倉遺文』第17巻12795号。

*14:『鎌倉遺文』第21巻16008号。新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.421・19号。

*15:『鎌倉遺文』第22巻16582号。新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.419~420 16号。

*16:『鎌倉遺文』第22巻16583号。

*17:『鎌倉遺文』第24巻18308号。新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.423・22号。

*18:『鎌倉遺文』第21巻16130号。

*19:このことは、文保元(1317)年9月12日付「鎮西下知状案」(『豊後詫摩文書』、『鎌倉遺文』第34巻26364号)に「詫磨別当太郎頼秀法師 法名寂意」とあり、翌2(1318)年12月12日付「鎮西御教書案」(『豊後詫摩文書』、『鎌倉遺文』第35巻26889号)に「寂意父寂尊」と見られることによっても裏付けられる。

尚、正和3(1314)年9月2日付「鎮西下知状」(『豊後詫摩文書』、『鎌倉遺文』第33巻25218号)の冒頭には「詫磨太郎頼秀法師 法名寂意 与舎弟同弥次郎親政相論肥後国神蔵庄阿良社敷地亀甲内本村屋敷壹所事 ……」とあり、【史料8】や【史料12】で寂尊(時秀)が頼秀に譲った土地を巡って頼秀と弟の詫磨親政が相論を起こしたことが窺えるが、この親政も時秀の子であったことになる。【史料11】での「つるきく(鶴菊 か)」がのちの親政であったのかもしれない。

*20:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。

*21:文保元(1317)年9月12日付「鎮西下知状案」(『豊後詫摩文書』、『鎌倉遺文』第34巻26364号)。

*22:『鎌倉遺文』第33巻25770号。新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.502~503・193-(12)号。

*23:元亨3(1323)年3月25日付「鎮西探題・北条(赤橋)英時下知状案」(『鎌倉遺文』第36巻28361号/新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.500~501・193-(8)号)。

*24:元亨4(1324)年12月8日付「沙弥定願・大蔵忠種造弥勒寺米銭送状」(『鎌倉遺文』第37巻28905号/新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.438・39号)。

*25:大友頼泰 - Henkipedia【系図1】参照。

*26:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

詫磨頼秀

詫磨 頼秀(たくま よりひで、1240年代?~1318年頃)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武士、御家人。大友詫磨氏第3代惣領。通称は別当太郎。法名は寂意(じゃくい)。表記は詫摩頼秀とも。

詫磨時秀の嫡男(長男か)。弟に詫磨武貞、詫磨親政、詫磨貞重など。孫に詫磨宗直。

 

 

『詫摩文書』所収の継図(系図)について

本項の頼秀からは少し話が逸れてしまうが、はじめに次の史料を掲げたい。

 

●【史料1】『鎌倉遺文』第38巻より:嘉暦2(1327)年12月1日付「肥後鹿子木東荘惣下司職名政所職補任状案」(『豊後詫摩文書』)*1

1327年に肥後国鹿子木東庄の惣下司職・名政所職に藤原(詫磨)竹熊丸が補任されたという書状の写し(控え)であり、その隣に系図が書かれていて、頼秀の記載も見られる。

この系図は、大友能直の次男・詫磨能秀 (よしひで、1198~1263)*2のあと、「詫广*3」嫡流となった頼秀の系統と分かれて、鹿子木東庄内の南山室地頭職等を相伝した、能秀の3男(下記参照)・詫磨直秀以降の系図となっている。同じく『豊後詫摩文書』に所収の古文書から以下のように継承されていったことがわかる。

 

  • 弘長2(1262)年8月30日付「詫磨能秀譲状案」*4:能秀が亡き父・能直から継承していた、鹿子木東庄内の南山室地頭職を「三男直秀」に譲与。
  • 文永9(1272)年6月11日付「詫磨直秀譲状案」*5:藤原(詫磨)直秀、犬王丸に「鹿子木東庄内南山室村」など相伝の「所領・地頭所職等」を譲与。直秀には他にも「犬法師丸・乙王丸 并 女子二人」といった子がいたという。
  • 永仁4(1296)年7月5日付「前太政大臣・源基具家政所下文案」*6:藤原(詫磨)秀氏を鹿子木東庄の南山室名政所職に補任。同日、惣下司職にも補任*7。
  • 嘉元4(1306)年正月25日付「鹿子木東荘領家政所下文案」*8:沙弥道覚を鹿子木東庄の惣下司職に補任。
  • 正和5(1316)年10月25日付「沙弥道覚譲状案」*9:道覚、「しんふ(親父)なをひて(直秀)のゆつり(譲り)状をゑて……(略)……さうてん(相伝)のところ……(略)……ちきやう(知行)せしむるところ」である「ひこ(肥後)の国……(略)……かのこきのひんがしの庄南山室村」等の所領・地頭職・所職等を「ちやくし(嫡子)たけくま丸」に譲渡。一部は「次男まつくま(松熊)丸」にも分け与え、彼に対しての譲状(写し)も残る*10。
  • 嘉暦2(1327)年(前掲【史料1】):藤原(詫磨)竹熊丸(=たけくま丸)を鹿子木東庄の惣下司職・名政所職に補任。
  • 天授4(1378)年11月15日付「心智譲状案」*11:「ひくに心ち」、「ひこ(肥後)の国かのこきの東庄ミなミやまむろのそうちとうしき(惣地頭職)」等「ちうたい(重代)さうてん(相伝)所領」を「ちやくし(嫡子)りうはう丸(龍房丸、のちの武仲)」に譲渡、一部は「次なん(次男)きくりう丸(菊龍丸 か?)」にも分与。
  • 明徳元(1390)年9月日付「詫磨心智安堵申状案」*12:「南山室」等が私領として伝えられ、やがて「依無男子(男子無きに依り)、女子比丘尼(=ひくに心ち=心智)」が継承し、「其後自心智手(その後、心智の手に自(よ)り)」、「子息武仲 童名号 龍房丸」に譲渡したことが書かれている。

 

【史料1】(1327年) から1378年の心智の譲状までは51年の開きがあり、各親子間の年齢差を考えると、竹熊丸 または 弟の松熊丸が成長し、出家した姿が「継図」上の道善であり、その娘が比丘尼心智であったと考えるのが妥当であろう。おおよそで、各々次のような世代であったと推測される(各親子間の年齢差は25歳前後)。

  • 道善:1316年頃~
  • 心智:1340年代?~
  • りうはう丸(武仲)・きくりう丸:1370年代生まれ

恐らく次のような系譜になるのではないかと思われる。

    ┌犬王丸(早世?)

直秀─┼犬法師丸(=秀氏?)

    └道覚(=乙王丸?)──道善(=竹熊丸または松熊丸)─心智─武仲

よって、【史料1】の継図については実際の史料に基づいて書かれた、ほぼ信頼を置いて良い系図と判断できる。尚、道覚(どうかく)・道善(どうぜん)父子については、恐らく通字の「秀」が付くのではないかとは思うが、出家前の俗名は不明である。

但し、正確には「能秀―頼秀」の間に時秀が抜けており、これだけは訂正が必要である。次節にて紹介する関係史料の中で、このことも裏付けたいと思う。

 

 

主な関係史料の紹介

では、頼秀(寂意)に関する史料を挙げていくこととしたい。『鎌倉遺文』掲載のものから主なものピックアップしたが、その大半は『新熊本市史』*13でも見られるので、是非あわせてご参照いただければと思う。

【史料2】建治元(1275)年10月9日付「詫磨時秀譲状案」(『豊後詫摩文書』)*14

譲□〔与〕 太郎頼秀所

 神蔵庄地頭下司職 付給田内拾町

 木部名・与安名 但面〻子息等にゆつるをのそいて残分

 門内鳥栖田畠在家等 但面〻ゆつりあたふる残分

 石丸名 付志永 同所職等 白河津本司職

 小石丸名 同所職等 弥石名内岩坪申付門内参町公田六反

 阿良社敷地 亀甲 黒石原

右、件所領所職等、任 将軍家御下文、代〻知行無相違、仍御下文を相副、頼秀に譲与所如件、

 建治元年十月九日 藤原時秀 在

 

【史料3】弘安11(1288)年4月25日付「沙弥寂尊(時秀)譲状案」(『豊後詫摩文書』)*15

 「校正了」、

 \

 譲与 太郎頼秀所、相伝所領所職等事、

 神蔵庄地頭下司職 付給田、但舎弟等譲分除之、

 木部名 但舎弟つるきくかふんハのそく(鶴菊が分は除く/以下同様)、

 与安名 たたし(但し/以下同様)舎弟等のふんハのそく也、

 石丸名 付吉永田畠ら、たヽしつるきくかふんハのそく、

 同所職等・白河津本司職・弥石名同所職等、たゝし安家庄官職のそく、同名門内四丁、

 阿良社敷地かめのこうの村といふ、たゝしつるきくかふんハのそくなり、

 門内鳥栖名田、但舎弟等かふんハのそくなり、黒石原、

 筑前国志登社地頭職 但舎弟等ふんハのそくなり、

 

右、件所領所職等、任将軍家御下文、代〻知行無相違、仍相副御下文、所譲与頼秀也、但公家・関東御公事等者、随分限、舎弟等に令配分、可令勤仕之状如件、

  弘安十一年四月廿五日 沙弥寂尊 在判

 

 ○紙継目裏に、貞和五年四月廿一日一色直氏の枚正封裏判あり。

 

【史料4】正応6(1293)年9月15日付「詫磨頼秀所領配分状案」(『豊後詫摩文書』)*16

志登社内又三郎四町坪之事

くらのもと四反 くたり四反半 つかもと九反三百分 下はすハ五反小 さい二反 かわおき一反小 なかはすハ一反 あさこ一丁 にしこうた二反

右、件所領内、任親父寂尊譲、所別与如件、

 正応六年九月十五日

           頼秀 在判

 

【史料5】延慶2(1309)年正月20日付「詫摩貞重譲状案」(『豊後詫摩文書』)*17

(端裏書)「さた重より幸一丸への[  ]」

譲与 相伝所領所職等事

   嫡子幸一丸所

豊後国大野庄志賀村板井迫・宮迫両名上家分、并 鎮守若宮八幡宮大宮司職、肥後国神蔵庄内与安・石丸名内田地弐町、鳥栖内田地壱町、十禅師宮一大夫屋敷所職等、同七祝屋敷所職、筑前国志登社田地等、

右、件所領等者、関東御下文次第証文相副、幸一丸限永代、所譲与也、関東御公事等者、随分限、可令勤仕、仍譲状如件、

 延慶弐年正月廿日  藤原貞重 判在〔ママ〕

          加一見了

             寂意 判在〔ママ〕

 

【史料6】(年不詳)8月1日付「沙弥寂意(頼秀)奉書」(『豊後詫摩文書』)*18

             (花押)

詫摩次郎時秀申亀甲堺相論事、訴状副具書、如此、子細見状、所詮、早加実検、可被注進絵図、若猶令難渋者、任訴状之旨、可被申関東歟之由、可令下知給之旨、依仰執達如件、

    八月一日 沙弥寂意 奉

(異筆)「建治三」※

  謹上 神蔵庄預所殿

※恐らくは後世の追筆で、建治3(1277)年の注記があるが、頼秀の出家後の法名である「寂意」という署名から【史料4】(1293年) より後に書かれたものと思われるので、次の【史料7】における亀甲村をめぐる相論に関係するものと見なして、ここに配置・掲載した。

 

【史料7】正和3(1314)年9月2日付「鎮西下知状」(『豊後詫摩文書』)*19

 詫磨太郎頼秀法師 法名寂意 与舎弟同弥次郎親政相論肥後国神蔵庄阿良社敷地亀甲内本村屋敷壹所事

 

[  ]〔右、就 か〕訴陳状、擬有其沙汰之處、両方出和与状畢、爰如今年八月十五日[  ]〔寂意 か〕状者、件屋敷事、寂意与親政、雖及相論、以和与之儀、於弥三郎□〔作か〕桑原入道作 号柿薗、 及耳縄屋敷 今者号野辺入道薗 等者、去給于寂意之上者、本村屋敷事、止訴訟畢、向後不可有異論、但十禅師前石本屋敷者、雖為寂意知行分、親政一期程所去与也、後者可返付惣領 云〻 、如同日親政状者、於弥三郎作・桑原入道作 号柿薗、 并 耳縄屋敷 今者号野辺入道居薗、 等者、避与寂意之間、本村屋敷事、被止訴訟畢、其上十禅師社前石本居薗等、雖去給之、親政一期知行之後者、可返付惣領方也、向後不可有異論 云〻 者、此上者不及子細、守彼状、相互可令領知也者、依仰下知如件、

 正和三年九月二日

  前上総介平朝臣(花押)(=北条政顕)

 

【史料8】正和5(1316)年3月17日付「沙弥寂意(頼秀)譲状案」(『豊後詫摩文書』)*20

(異筆)「校正了」

/ゆつりあたう(譲り与う)さうてん(相伝)のしよりやうしよくら(所領職等)の事

まこ(孫)いちハう(一房:詫磨一房丸)かところに、ひこのくに(肥後国)かミくらのしやう(神蔵庄)のちとうけししょく(地頭下司職)・きへ(木部)・とりのす(鳥栖)・よやす(与安)・いしまろのミやう(石丸名)・をなしき(同じき)しよくら(職等)・いやいしのミやう(弥石名)の内もんない(門内)四丁・あらのやしろ(阿良社)のしきち(敷地)・かめのこうのむら(亀甲村)といふ・ちくせんのくに(筑前国)しとのやしろ(志登社)のちとう(地頭)・をなしき(同じき)しよくら(職等)・さかミのくにおうとものたやしき(相模国大友田屋敷)・かまくら(鎌倉)なこへ(名越)のさんわうたう(山王堂)のいりのやしき

みきくたんのしよりやうら(右、件の所領等)ハ、しやうくんけ(将軍家)の御くたしふミ(御下文)を給て、たい〱(代々)ちきやう(知行)さをいなし(相違無し)、よて(仍て)御くたしふミ(御下文)をあひそへて(相副えて)、いちハうにゆつりあたうる(譲り与うる)ところ也、たゝし(但し)くわんとうのみくうし(関東御公事)にをいてハ、てんちのふけん(分限)にしたかいて(随いて)、しはいせしめて(支配せしめて)つとめしむへき(勤めしむべき)もの也、よて(仍て)こ日(後日)のために、ゆつりしやう(譲状)くたんのことし(件の如し)、

 /正和五年三月十七日

   しやミしやくい(寂意) /在判

 ○紙継目裏に一色直氏の花押がある。

 

【史料9-a】(文保元年)「鎮西下知状」(『豊後詫摩文書』)*21

 詫磨別当太郎頼秀法師 法名寂意 代親清申庶子詫磨孫次郎秀信鶴岡八幡宮神宝 并 新造御所及走湯山舞装束用途対捍事

右、就訴状尋下之處、如秀信今秊七月廿二日請文者、如此公事先先対大友所致沙汰也、然而応催促、令弁償訖、凡寂意号惣領申子細之条、無謂之由雖載之、彼用途者、為大友豊前〻司能直跡之役、可沙汰進之旨、被下関東御教書畢、而詫摩別当能秀跡輩(※以下欠だが、この文書の写し・控えが次の書状であろう。)

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【史料9-b】文保元(1317)年9月12日付「鎮西下知状案」(『豊後詫摩文書』)*22

「校正畢、」

 \

 詫磨別当太郎頼秀法師 法名寂意 代親清申、庶子詫磨孫次郎秀信

 鶴岡八幡宮神宝 并 新造御所及走湯山舞装束用途対捍事、

右、就訴状尋下之處、如秀信今秊七月廿二日請文者、如此公事、先先対大友所致沙汰也、然而応催促、令弁償訖、凡寂意号惣領、申子細之条、無謂之由雖載之、彼用途者、為大友豊前〻司能直跡之役、可沙汰進之旨、被下関東御教書畢、而詫摩別当能秀跡輩、難渋之由、大友左近大夫将監貞宗代実融就訴中、実融与寂意、及訴陳之處、於能秀跡者、寂意為家嫡之間、経替之、可訴庶子之旨、正和四年十一月十二日、鎮西成敗畢、対寂意、可致弁之条勿論、然則、八幡宮神宝以下修理料銭・新造御所用途等、遂結解、有未進者、以一倍可究済、次走湯山舞装束用途事、貞宗出加増注文之間、及訴陳訖、可相待落居之由、載親清状之上、不及子細、随彼左右、可有其沙汰焉者、依仰下知如件、

 文保元秊九月十二日

           遠江守平朝臣(=北条随時)在判

 ○紙続目裏に一色直氏の花押がある。

 

【史料10】文保2(1318)年12月12日付「鎮西御教書案」(『豊後詫摩文書』)*23

「校正了、」

\

筑前国志登社雑掌教賢与地頭詫磨太郎入道寂意 今者死去 代親清相論年貢事、違背下知状之旨、教賢就訴申之、被尋下之處、如親清所進教賢正和四年十二月廿七日状者、自御下知以前、至于当年分、皆済之由載之、而或為勢命状之由、教賢申之、或庶子等未進之旨、同雖称之、先奉行朝西相尋子細之剰〔刻〕、出皆納返抄之由、教賢捧請文之間、彼状書銘、下給地頭畢、今更不能異論歟、将又、自寂意父寂尊之時、相番訴陳、被成敗畢、其跡輩、難各別歟、然則、於正和四年以前年貢者、不及沙汰、可被存其旨者、仍執達如件、

  \

  文保二年十二月十二日 前遠江守(=北条随時)在判

  詫磨太郎入道跡(=詫磨一房丸、のちの宗直 か)

 

ここでは、各史料についての詳細な説明は先行研究にお譲りし、概要を纏める形としたい。

まず、【史料2】や【史料3】において、太郎頼秀は「藤原時秀」ないしは「沙弥寂尊」から主に以下の所領・所職を譲られている。

<資料11> 詫磨氏惣領が所有した主な所領

  • 肥後国神蔵庄の地頭下司職
  • 木部・鳥栖・与安・石丸名の所職等
  • 弥石名内門内四丁
  • 阿良社敷地 かめのこう(亀甲)のむらといふ
  • 筑前国志登社地頭職

両史料の間は僅か約13年の開きであり、太郎頼秀に対して同じ所領を譲る時秀と寂尊は出家前後の同一人物であったと判断できる。そして、【史料4】において頼秀が「親父寂尊(=時秀)」の譲りによって志登社内に所領を持っていたことが分かり、【史料10】でも「寂意父寂尊」の記述が見られるから、繰り返すが【史料1】継図での「能秀―頼秀」の間には時秀を入れる必要があるわけである。ちなみに「藤原」というのは、能秀の父・大友能直が藤原秀郷の末裔であったとされる*24ことによる姓である。

また、<資料11>のうち「筑前国志登社地頭職」は、元々「豊前〻司景資跡」であったものを、父「詫磨別当次郎時秀法師」が【史料2】~【史料3】の間となる弘安9(1286)年に「弘安四秊蒙古合戦(=いわゆる1281年の弘安の役)之忠」として賜ったものであった*25。景資とは、前年(1285年)の岩門合戦で滅ぼされた少弐景資のことである。時秀(寂尊)は万一に備え【史料2】を一度書き残したが、幸いそれから13年生き永らえて、この志登社地頭職も追加で譲り与えるために改めて書き上げたのが【史料3】なのであろう。【史料10】から、頼秀(寂意)が亡くなるまで志登社の地頭であり続けていたことが窺える。

 

同地頭職も含め、<資料11>の所領・所職を継承した太郎頼秀は、やがて出家して寂意と号し、以後も詫磨氏の「惣領と号し」「家嫡」であったことが【史料9】から窺える。

出家の時期は【史料4】~【史料5】の間と分かるが、恐らく正安3(1301)年、得宗・9代執権の北条貞時の出家*26に追随する形での剃髪だったのではないかと推測される。父・時秀(寂尊)も【史料2】から1286年の間に出家しており、時期からすると弘安7(1284)年4月の得宗・8代執権の北条時宗(貞時の父)の死*27を悼んでの剃髪であった可能性が高いと思うので、頼秀(寂意)も同様であったとみておきたい。

出家後の通称・呼称が「(別当)太郎…法師」(【史料7】・【史料9】)または「太郎入道」(【史料10】)であったことからすると、在俗中、特に官職は得なかったとみられる。

また、【史料9】では特に書かれていないが、翌年の【史料10】に「今者(は)死去」とあることから1317~1318年の間、文保年間に亡くなったとみて良いだろう。

 

尚、【史料7】から頼秀(寂意)には弥次郎親政(ちかまさ)という弟がいて相論を起こしていたこと、【史料9】から詫磨秀信(孫次郎)という庶子がいたことが窺える。

 

 

世代と烏帽子親の推定

詫磨武貞・一房丸

ところで、頼秀(寂意)は生前、【史料8】という譲状を書き遺していた。【史料8】を見ると「まこ(孫)いちハう(一房)」に対して譲った所領は、<資料11>に相模国大友田屋敷・鎌倉名越山王堂を加えたものであったことが分かる。

そして、元亨4(1324)年12月8日付「沙弥定願・大蔵忠種造弥勒寺米銭送状」*28の文中でも「惣領詫万〔詫磨の別表記〕一房丸」とあるように、孫の一房丸(いちぼうまる)が頼秀の後継者として詫磨氏惣領の座を継いでいたと見なせる。

 

また、前年にあたる同3(1323)年3月25日付「鎮西探題・北条(赤橋)英時下知状案」*29を見ると、この「惣領主一房丸」は「詫磨豊前権守親政」と肥後国神蔵庄地頭職等を巡って相論を起こしていたといい、文中に「一房丸親父別当二郎武貞」と見える。尚、この親政は【史料7】における頼秀(寂意)の舎弟・弥次郎親政が官職を得た同人とみなして良かろう。

これらを総合すれば、一房丸は "詫磨別当" 頼秀の「二郎(次男か)」・詫磨武貞(たけさだ)の子で、「頼秀―武貞―一房丸」という系譜であったことが分かる。

 

更に、嘉暦2(1327)年9月20日付の英時下知状案*30を見ると、「筑前国……吉富名地頭詫磨一房丸」に関して「一房丸幼稚之間、母堂藤原氏所加判形也」とあり、一房丸が幼い間は藤原姓氏族(同じく大友氏一門出身か?)の母親が判形(はんぎょう=花押のこと)を加えていたという。この当時もまだ幼名であるから元服を遂げる前であったが、恐らく物心がついた後の10代前半くらいであったのだろう。「幼稚」とは祖父・頼秀(寂意)からの譲状を得た1316年の頃を指すのかもしれず、その頃は生まれたばかりの赤ん坊だったと思われる。【史料10】での宛所「詫磨太郎入道跡(=旧領、後継者)」とは、一応形の上では一房丸を指すと思うが、幼児であったが故に、その母親(=武貞の妻:未亡人であったか?)が家督代行者としてその役割を担っていたのであろう。

 

詫磨親政・貞政・宗政

一方で同じ頃、元亨3(1323)年11月6日には「ふせん(豊前)の権守藤原親政」の、翌4(1324)年2月29日には「豊前太郎貞政」から「つる太郎(=詫磨宗政)*31に対しての、各々譲状が出されている*32。前者=親政の譲状においても、自身の所領の一覧を掲げた上で「しかるを、たらう(太郎)ニゆつる(譲る)ところなり、さまたけ(妨げ)なく、ちきやうすへし(知行すべし)、たゝし(但し)太郎がのち(後)ハつる太郎ちきやうすへし」と書かれているように、この当時の親政も「つる太郎(漢字表記は鶴太郎 か)」という、恐らくは元服を済ませていた孫を持つ年齢であったことが窺えよう。

*得宗・北条高時(1326年出家・執権辞任)に追随したのであろうか、これより間もない時期に出家したようであり、嘉暦2(1327)年8月29日付「鎮西探題・北条(赤橋)英時下知状」*33に「吉富名一分地頭詫磨豊前権守親政法師 法名寂雄」、同年9月20日付「肥後守護・北条(規矩)高政施行状」*34の宛所にも「託磨〔ママ〕豊前権守入道殿」とあるのが確認できる。

更に、元徳2(1330)年2月25日付「藤原(詫磨)貞政売券」*35の文中に「親父寂雄」とあることから、寂雄(親政)と発給者「藤原貞政」の父子関係もこれにより認められる。

 

 

頼秀の生年・烏帽子親の推定

【史料7】より兄弟であったことが分かる頼秀と親政は、前2節から両名とも1310年代には孫を持つ年齢に達していたと判断できる。すると、各親子間の年齢差を20とした場合だと1270年代生まれ、もう少し年齢差が開けば1260年代以前の生まれであったと推測可能である。

少なくとも頼秀は、初出の【史料2】で既に「太郎頼秀」と名乗っており、10代半ば程の適齢に達して元服を済ませていたと考えられるので、生年は1260年以前であったと判断して良いと思う。

すると、幼少期の執権は5代・北条時頼(在職:1246年~1256年出家/1263年逝去)*36であったということになるが、「頼秀」の名は明らかにその偏諱を許されている。時頼は北条氏通字でもある「時」字の方を与えることもあったが、頼秀の場合は父「時秀」と同名になるのを避けるために「頼」の字を受けたとも考えられる。

<大友氏略系図>

能直┬親秀─泰直(頼泰)

  └能秀─時秀─頼秀

この頃、本家筋の大友頼泰も「北條時賴賜一字」(『続群書類従』所収「大友系図」)であったという*37から、頼秀も同様だったのではないか。泰直から改名した頼泰とは異なり、頼秀の場合は元服の際に時頼と烏帽子親子関係を結び、一字を拝領したものと推測される。よって、1240年代(恐らく後半)の生まれであったと推定しておきたい。

そして、詫磨親政もさほど年齢の離れていない弟であったと見なすこととしたい。

 

(参考ページ)

● 詫磨頼秀(たくま よりひで)とは? 意味や使い方 - コトバンク

● 武家家伝_託摩氏

● 新熊本市史 通史編 第2巻 (中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

脚注

*1:『鎌倉遺文』第38巻30092号。新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション(※送信サービスで閲覧可能)P.429・31-(3)・(4)号。

*2:詫磨能秀(たくま よしひで)とは? 意味や使い方 - コトバンク より。

*3:この表記は、弘長3(1263)年5月10日付「詫磨時秀配分状案」(『豊後詫摩文書』、『鎌倉遺文』第12巻8957号)の文中に「故詫广殿(=能秀)弘長二年八月卅日譲状」と見られる等、他の書状でも確認できる、いわゆる略記であろう。

*4:『鎌倉遺文』第12巻8866号。

*5:『鎌倉遺文』第14巻11049号。新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.418・12号。

*6:『鎌倉遺文』第25巻19094号。新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.429・31-(2)号。

*7:『鎌倉遺文』第25巻19095号。新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.423~424・23号。

*8:『鎌倉遺文』第29巻22511号。新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.424~425・25号。

*9:『鎌倉遺文』第34巻25966号。新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.430~431・31-(8)号。

*10:『鎌倉遺文』第34巻25967号。新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.428~429・30号。

*11:新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.429~430・31-(5)号。

*12:新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.429・31-(1)号。

*13:新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクションP.416~。目次・掲載古文書一覧はこちらを参照のこと。

*14:『鎌倉遺文』第16巻12058号。

*15:『鎌倉遺文』第22巻16583号。

*16:『鎌倉遺文』第24巻18308号。新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.423・22号。

*17:『鎌倉遺文』第31巻23565号。新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.425・27号。

*18:『鎌倉遺文』第17巻12795号。

*19:『鎌倉遺文』第33巻25218号。

*20:『鎌倉遺文』第33巻25770号。新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.502~503・193-(12)号。

*21:『鎌倉遺文』第34巻26506号。

*22:『鎌倉遺文』第34巻26364号。

*23:『鎌倉遺文』第35巻26889号。

*24:『尊卑分脈』によると「秀郷―千常―文行―近藤脩行―行景―景親―景頼(改め貞成)―能成―能直」という系譜となっている。

*25:弘安9(1286)年10月28日付「関東下知状案」(『豊後詫摩文書』、『鎌倉遺文』第21巻16008号、新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.421・19号)。同年の「関東式目」(蒙古合戦 并 岩門合戦恩賞拝領人交名注進写とも、『薩摩比志島文書』、『鎌倉遺文』第21巻16130号)にも「詫磨別当次郎時秀 豊前〻司景資跡 筑前国志土地頭職」とあり。

*26:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。

*27:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*28:『鎌倉遺文』第37巻28905号。新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.438・39号。

*29:『鎌倉遺文』第36巻28361号。新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.500~501・193-(8)号。

*30:『鎌倉遺文』第38巻29971号。新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.439・42号。

*31:建武5(1338)年6月30日付の「源貞政」から「やう子(養子)七郎これちか(之親)」に対する譲状(新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.450~451・69号)の文中に「ちやくし(嫡子)むねまさ」とある。尚、「詫磨七郎之親」の表記は暦応3(1340)年10月日付の軍忠状にて確認できる(新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.454・78号)。

*32:新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.436~437・37-(1)、(2)号。

*33:新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.438・40号。

*34:新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.439・41号。

*35:新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.442・46号。

*36:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*37:大友頼泰 - Henkipedia【系図1】参照。

詫磨貞重

詫磨 貞重(たくま さだしげ、1280年頃?~1310年頃?)は、鎌倉時代中期の武士、御家人。藤原秀郷流近藤氏より出たとされる大友能直*1の次男・詫磨能秀(よしひで、1198~1263)*2を祖とする詫磨氏の一門で、詫磨時秀の子。子に詫磨幸一丸。表記は詫摩貞重とも。幼名は熊鶴冠者。

 

まずは次の2つの史料に着目したい。

【史料1】弘安11(1288)年4月25日付「沙弥寂尊(時秀)譲状案」(『豊後詫摩文書』)*3

(端裏書)「ときひてよりさたしけへの譲状案文」

  又とりのす(鳥栖)に、たいちやう(田 一町ヵ)ちきやうすへし(知行すべし)、如件、在判

譲与 くまつるくわさ(熊鶴冠者)に

 ふこのくに(豊後国)をゝのゝ庄(大野の庄)内いたいさこ(板井迫)の名田・やしき(屋敷)ら、同ミやのさこ(宮迫)の名・同上家ふんのやしき・た(田)ら也、神蔵庄内十せんしのいたゝ(十禅師の一大夫)のやしき所職等内、七ハわり(祝)のやしき職等なり、与安の名内田壹町、しとのやしろ(志登の社)にた(田)四丁、件〔ママ〕

右、件所〻ハ、将軍家御下文給候て、ちとうしき(地頭職)、さをいなく(相違無く)、ちきやう(知行)するところ也、しかる(然る)を、くまつるに、ゆつりあたふ(譲り与ふ)ところ(如 脱字か)件、

 弘安十一年四月廿五日

  沙弥寂尊 判

 

【史料2】延慶2(1309)年正月20日付「詫摩貞重譲状案」(『豊後詫摩文書』)*4

(端裏書)「さた重より幸一丸への[  ]」

譲与 相伝所領所職等事

   嫡子幸一丸所

豊後国大野庄志賀村板井迫・宮迫両名上家分、并 鎮守若宮八幡宮大宮司職、肥後国神蔵庄内与安・石丸名内田地弐町、鳥栖内田地壱町、十禅師宮一大夫屋敷所職等、同七祝屋敷所職、筑前国志登社田地等、

右、件所領等者、関東御下文次第証文相副、幸一丸限永代、所譲与也、関東御公事等者、随分限、可令勤仕、仍譲状如件、

延慶弐年正月廿日  藤原貞重 判在〔ママ〕

         加一見了

            寂意 判在〔ママ〕

 

両史料から、共通する主な地名(場所)をピックアップしてみると次の通りである。

  • 豊後国大野庄:板井迫名・宮迫名
  • 肥後国神蔵庄:与安名・鳥栖内田1町・十禅師宮一大夫屋敷・七祝屋敷
  • 筑前国志登社

【史料1】は、発給者の「寂尊」は時秀の法名であり、時秀(寂尊)から「くまつるくわさ(熊鶴冠者)」に対してこれらの所領が譲られていることが分かる。

そして【史料2】では、▬の所領を持つ「藤原貞重」が幼少の「嫡子幸一丸」に対してそれらを譲っていることが窺える(尚、この史料に署名がある「寂意」は、兄・頼秀の法名である)。

両史料の開きは僅か20年9ヶ月ほどであり、「くまつるくわさ」は「藤原貞重」と同人で、その幼名であったと考えて良いのではないか*5。【史料1】の端裏書はこの考えのもとに書かれたものであろう。

【史料1】(1288年)当時はまだ元服の適齢である10代前半以下であったが、【史料2】(1309年)の段階ではとうに元服を済ませ、「幸一丸」という嫡男がいたことになる。よって、貞重は1280年前後の生まれで、【史料2】当時は30歳前後という世代であったと考えられる。時秀晩年期の庶子で、年齢の離れた親子であったのだろう。

 

すると、元服の時期はおおよそ1290年代前半であったと推定できるが、「貞重」の名は当時の執権・得宗である北条貞時(在職:1284年~1301年出家/1311年逝去)*6の偏諱が許されていることが窺える*7。貞時と貞重は烏帽子親子関係にあったのではないかと思われる。

 

死没については全く不明だが、【史料2】以後は特に史料上でも確認できず、それより間もない頃に早世した可能性もある。自身も若く、また嫡男の幸一丸が幼少でありながら【史料2】という譲状を出したのは、当時貞重が病気等であったため、万が一に備える意図があったのかもしれないが、あくまで推論にとどめておきたいと思う。

 

(参考ページ)

● 志登村(しとむら)とは? 意味や使い方 - コトバンク

● 武家家伝_託摩氏

 

脚注

*1:『尊卑分脈』によると「秀郷―千常―文行―近藤脩行―行景―景親―景頼(改め貞成)―能成―能直―親秀―頼泰―親時―貞親―貞宗」という系譜となっている(正しくは貞宗は親時の子で貞親の実弟)。

*2:詫磨能秀(たくま よしひで)とは? 意味や使い方 - コトバンク より。

*3:『鎌倉遺文』第22巻16582号。新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.419~420 16号。

*4:『鎌倉遺文』第31巻23565号。新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世) - 国立国会図書館デジタルコレクション P.425・27号。

*5:志登村(しとむら)とは? 意味や使い方 - コトバンク より。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。

*7:もう片方の「重」の字については、由来は不明である。従兄には北条重時の娘婿にして偏諱を受けたとみられる戸次重秀もいるが、それ以前にも、注1での系譜上では、景頼の兄・島田景重や、能直の弟・古澤(古庄)重能といったように「重」の字を持った人物が見られる。その系譜上で景親については行景の猶子で『分脈』後藤氏系図(→ こちら)上の島田惟重と同人ではないかとする見方もあり、これに関係があるのかもしれない。

利根頼親

利根 頼親(とね よりちか、1260年代?~1302年)は、鎌倉時代中・後期の武将、御家人。通称は利根次郎。戸次頼親とも。

大友氏一門・戸次重秀の庶子で、兄弟に戸次時親、松岡重頼、竹中親直(頼直とも)がいることは系図類でほぼ一致している(【図1】・【図2】・【図4】)。

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▲【図1】『速見入江文書』所収「大友田原系図」*1より:戸次氏嫡流の部分

 

▲【図2】『続群書類従』所収「大友系図」より一部抜粋

 

そして、時親・重頼・頼親の三兄弟については、次の史料で実在が確認できる。

【史料3】弘安8(1285)年9月晦日付「豊後国図田帳」

<内閣文庫所蔵本>*2

大神荘百七拾丁

 日出津島七拾丁 地頭職相模守(=得宗・北条貞時)殿

 近部藤原并手平村七拾丁 戸次太郎時頼〔ママ〕法名道恵 

 真奈井・野木乃井之村三拾丁 同人并利根次郎頼親

---(中略)---

福重名十八町二段大 利根二郎頼親

戸次荘九拾丁、本家宜秋門院(=藤原(九条)任子)御跡、地頭職戸次太郎時頼〔ママ〕・同吹〔ママ〕郎重頼・利根次郎頼親、各知行……

 

<平林本>*3

大神庄百七拾町

地頭

 日出津嶋七拾町 相模守(=貞時)殿

 近部藤原井手村七拾町 戸次太郎時親法師 法名道恵 

 真奈井・野木乃井村参拾町 利根又太郎〔ママ〕頼親

---(中略)---

戸次荘九拾丁、本家宜秋門院御跡、地頭職戸次太郎時親 法師法名道恵・同次郎重頼・同二郎頼親、各々……

この史料から頼親は、豊後国(現・大分県)速見郡大神庄のうち真奈井村・野木乃井村30町や、本貫地戸次庄の一部を領して地頭職となっていたことが窺える。

また、この【史料3】では通称で「利根次郎(二郎)」を名乗っていたことも確かめられるが、「利根」の苗字は、大友氏が地頭職を得ていた上野国利根庄に由来するだろう。現在も群馬県利根郡が利根川の源となっているような地域であり、元々同地にも所領を持っていて(或いは出生地だったか)、「利根」を名乗ったのかもしれない。 

 

ここで、次の系図に着目したい。

▲【図4】『福富家文書』所収「野津本大友系図」より一部抜粋*4

 

田中稔氏の紹介によると、この系図は最終的には豊後国の野津院で嘉元2(1304)年に写されたとされ、奥書には弘安9(1286)年9月7日に新旧校合して書写された旨も記されており*5、多くは【史料3】の約1年後までに書かれていたとみられる。

【図4】の部分で特筆すべきは、頼親の傍注に、【図1】・【図2】と同様の「利根二郎」という通称の他、「大友烏帽子々」と正安4(1302)年4月11日に他界(=死去)したという独自の情報が見られることである。

改めて、烏帽子子とは、元服の際、烏帽子親に烏帽子をかぶせてもらい、烏帽子名をつけてもらった武家の男子のことである*6。烏帽子名とは、幼名を廃する形で烏帽子親が付け与えた名であり、烏帽子親は自分の名の一字(=偏諱)を与えて新たな諱を命名する場合が多かった*7。

大友氏の烏帽子子ということで、「頼親」という名前からするに、烏帽子親になり得るのは伯父の大友頼泰であろう。「頼」の字は元々、【図2】での頼泰の注記に「北條時賴賜一字」とある通り、5代執権・北条時頼から賜ったものであった。

 

時頼自身、「将軍(=当時は4代・藤原(九条)頼経)新冠」・「御加冠」により元服し「号五郎時頼」したと伝えられ*8、烏帽子親の頼経から偏諱を賜った様子であるが、将軍が頼経の子・5代・頼嗣に代わってからの建長2(1250)年末には、時頼の邸宅で元服した佐々木泰綱の子・頼綱*9に対し、頼嗣に憚ることもなく「頼」の字を与えており、このような偏諱の "下げ渡し" のような行為はあまり問題視されなかったようである。

 

【図1】や【図2】にある通り、長兄・時親は鎌倉で元服して北条時宗(時頼の嫡男、8代執権)の1字を賜っており、時宗が烏帽子親として「時」の字を授けたという(『続群書類従』所収「立花系図」)*10から、頼親が元服した当時、時頼は既に故人で、頼泰が時頼からの「頼」字を甥に与えることにも特に支障は無かったのだろう。

嫡男の時親は北条氏得宗、庶子の頼親は大友本家と、烏帽子親の面で差をつけて嫡庶を明確にしたということであると思う。伯父・大友頼泰の偏諱を受けて頼親を名乗ったということであるから、生年は長兄・時親より少し後となる1260年代、元服を遂げたのは1270年代になるのではないかと推測される。尚、次兄・松岡重頼の「頼」も同様に頼泰から受けた可能性はあるが、「大友烏帽子々」の注記がわざわざ頼親のみに付されていることも考慮してその判断は差し控えたい。

*【図4】では割愛しているが、頼親ら兄弟の曾祖父でもある大友能直の祖父は嶋田次郎景頼(景頼―能成―能直)といった。【図2】(群書類従系図)の能直以前の部分では「近藤武者貞成―能成―能直」となっているが、『尊卑分脈』では景頼が貞成に改名した同一人物ということになっている*11。同じく2文字目に置いていることからしても、重頼は父・重秀と、祖先にあたるこの景頼の各々1字により命名されたとも考えられよう。

 

尚、頼親の「親」は、他にも長兄・時親や祖父・親秀、大友氏嫡流など、大友氏一族で使用者が多く見られるが、恐らくは能直を猶子とした中原親能(【図2】・『尊卑分脈』)に因んだ、大友氏の通字である*12。

 

【図4】では追記で頼親には弥次郎・三郎という2人の男子(いずれも実名不詳)がいたということも記載されている一方、大友親時の4男にも「利根」を名乗る者が見える。この「利根四郎」は、『寛政重修諸家譜』巻第112所収「立花系図」において「四郎」・「野津 或は 利根を称す」と注記される師親(もろちか、野津師親/利根師親)*13に比定されるであろう。「立花系図」では貞親の子、貞宗(孫太郎)の弟とするが、【図4】から正しくは貞宗・師親は共に貞親の実弟であったことが分かる。弥次郎や三郎の系統がその後続いたのかは分からないが、断絶した利根の名跡を師親が継いだのかもしれない。

 

(参考ページ)

● 武家家伝_戸次氏

● 戸次氏(べっきうじ)とは - コトバンク

● 渡辺澄夫「豊後国大野荘における在地領主制の展開 ー地頭志賀氏を中心としてー」(所収:渡辺『増訂 豊後大友氏の研究』、第一法規出版、1982年)

 

脚注

【論稿】葛西氏系図についての一考察

 

はじめに:2つの葛西氏系図

葛西氏(かさい-し)は、桓武平氏より分かれた秩父平氏の一族である。平将常(将恒)が武蔵介・藤原真枝を討った功により、将常 または 次男の武常(武恒)の代に下総国葛飾郡を与えられたことに始まり、武常の子孫である豊島氏の一門・清重が葛飾郡葛西庄の地名にあやかって「葛西三郎清重」を称したとされている。尚、葛西庄はのちに伊勢神宮領となって葛西御厨と呼ばれた土地である。

【系図1】関東平氏略系図

平忠頼┬忠常─常将─常長─千葉常兼─常重─千葉常胤

   └将常─武常─豊島常家─康家─清元─葛西清重

 

その清重以降、葛西氏の系図は大きく分けて次の2系統が伝わる*1。

▲【系図2】葛西氏(かさいうじ)とは? - コトバンク より

① 右側:江戸時代前期の延宝3(1675)年に仙台藩士の葛西重常(藤右衛門、晴信の弟・胤重の曾孫:胤重―重俊―重信―重常)が藩に提出した「平姓葛西氏之系図」に基づく、所謂「仙台系の系図」。『仙台葛西系図』や『葛西真記録』*2のほか、「龍源寺本葛西系図」や「仙台葛西家々譜書上控」がこれに属するという。

② 左側:高野山にある葛西氏創建の五大院に伝えられた、「陸奥国平姓葛西氏之系図」(通称「高野山五大院系図」とも)の流れをひく所謂「盛岡系の系図」。同系図は明治期の火災による焼失したようだが、「平姓葛西系図」(石井正吉氏写本、葛西雅氏所蔵)がその写本とされ、更にその抄録が『葛西史疑』(森谷一仁 著)*3の巻末に所収の「五大院葛西系図(抄録)」であるという。「中館系譜」や元禄年間(1688-1704)に作成されたという「盛岡葛西系図」もこの系統に属している。

 

どちらが正しく伝えているのかについては、2系統に分かれていたのではという想定も含めて未だに論争中の段階ではあるが、以下本稿では一つの見解として筆者なりの考えを述べたいと思う。

 

鎌倉時代:清時流葛西氏の創設と嫡流継承

historyofjapan-henki.hateblo.jp

こちら▲の記事において、筆者は次のように推測した。

【系図3】筆者による鎌倉期葛西氏推定系図①

  ┌清親─時清─┬清経─宗清(断絶?)

清重┤      └清時=清信─貞清─高清

  └朝清─清員──清宗┬時員

           ├清貞─良清

           └伊豆四郎

清重の曾孫である「伯耆左衛門四郎清時」*4が母方の千葉氏から頼胤の庶子・胤信(改め葛西清信)を養嗣子に迎え、葛西氏の「惣領」であった葛西宗清以降の惣領について、清時・清信の系統がその座を引き継いだものと考えた。宗清の名は、得宗・北条時宗の偏諱「宗」と通字の「清」により構成されたとみられる。そして、時宗の子・貞時の偏諱「貞」と通字の「清」により「貞清」と名乗ったのは清信の子であった。次いで貞清の嫡男・高清も貞時の子・北条高時の偏諱を賜っており、母は高時政権の最高権力者・長崎円喜の娘であったという(『中舘葛西系譜』)。従って、宗清の実質的な後継者は貞清であったとみられ、鎌倉時代後期以降は清信の系統が葛西氏嫡流の座を担ったと考えたい。

一方、清宗・清貞父子は清重以降の子孫が担っていた下総国香取社の遷宮を担当しており、この系統は奥州に下らず関東(同国葛西庄)に残っていたようだが、やがて陸奥葛西氏と関東葛西氏が嫡流の座を巡って抗争したものとみられる。仙台系・盛岡系2通りの系図が伝わるのもそのためであろう。

 

 

室町・戦国時代

葛西持信・朝信の実在

上記記事でも述べたが、筆者は養子云々はさておき、次の2つの観点から、盛岡系系図での葛西清信(きよのぶ)に始まる葛西氏の一流は存在したのではないかとみている。

  • 盛岡系では各当主の母親に関する情報などかなり詳細に記され、作り話にしてはよく出来過ぎていること。
  • 貞清の弟で甥・高清の後見人であったとされる葛西信常(のぶつね)や、貞清の曾孫・葛西満信以降の当主が「信」を通字としていること。

特に満信の子・葛西持信(もちのぶ)の実在は次の書状により認められる。

【史料4】文明2(1470)年2月9日付「畠山政長下知状」*5

  (足利義政花押)
  陸奥国 員数載譲状事
任葛西伯耆守持信文明元年五月七日譲状、守先例、
可令領事之状、仰依下知如件
  文明仁年二月九日 政長(花押)
 葛西壱岐守殿

持信は、盛岡系の各系図で共通して文明元(1469)年6月3日に72歳で亡くなったとされ、その約1ヶ月前の段階で病にかかっていて死を悟っていたのか、譲状を書いていたことがこの【史料4】から分かる。逆算すると応永5(1398)年生まれで、元服時に4代将軍・足利義持(在職:1394年~1423年)から偏諱を賜り*6「持信」を称したと考えて辻褄は合っている。

宛所の「葛西壱岐守殿」は持信の跡を継いだ嫡男の葛西朝信(とものぶ)に比定され*7、その官職からも、持信父子は壱岐守清重や伯耆守清親の直系子孫にあたると考えて良いと思う*8。

 

戦国時代の内部抗争

朝信のあと、嫡男・葛西尚信(ひさのぶ)が早世したため、弟(持信の子)の葛西政信が家督を継承したと伝えられる。この政信と伊達氏から養子入りした葛西宗清*9(前述の宗清とは同名別人)との間での抗争を経て、次代の葛西晴重をもって、2つの葛西氏が統一された様子である。

<系図5:伊達氏略系図>

伊達成宗┬尚宗─稙宗┬晴宗─輝宗─政宗

    └葛西宗清   └葛西晴清(牛猿丸)

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続く葛西晴胤は、自身の花押を据えた(年不詳)7月9日付・「江刺彦三郎殿」宛て「葛西晴胤書状」などで実在が認められ、伊達稙宗・晴宗父子間での内紛である天文の乱(1542~1548年)の際、晴宗に協力し、葛西氏に養子入りしていた稙宗の子(晴宗の実弟)「葛西牛猿丸」を倒して伊達氏との同盟関係を強めたという。「仙台葛西系図」*10等では稙宗の子を「晴胤」とし、『伊達族譜』でも晴宗の弟に位置付けて「義晴公、晴ノ字ヲ賜フ、小字ハ牛猿、葛西三郎、左京大夫従四位下、葛西ノ主・陸奥守平晴重、娘ヲ配シメ嗣トナス(=すなわち晴重の婿養子)、法名健蓮可梁」と記載されるが、牛猿丸の元服後の実名としては「晴清」(『源光寺過去帳』)の方が相応しいだろう。

というのも、晴胤の「胤」は清信を輩出した千葉氏の通字(【系図1】の常胤以来代々の使用文字)に由来すると考えられ、子の親信(義重)・晴信も含め、「胤信(清信)の子孫である」という自認があったと見受けられる。かつて千葉氏の血を引く政信にも対抗していた伊達氏の出身者が「胤」の字を使うとは到底思えない。

 

伊達氏から宗清が養子入りすることになった経緯は分からないが、牛猿(晴清)の場合は父・稙宗による政略結婚や養子縁組を通じた大崎・上杉など周辺の勢力取り込みの一環として、葛西氏への入嗣が行われたと判断される(但し、稙宗の子を書き出した「伊達稙宗同晴宗子女書出」*11に牛猿丸ないしは晴清の記載が見られない)。その生年から判断するに、晴胤(1497-)より後に晴清(1517-)は元服を遂げ命名されたと考えられる。宗清も晴清も、本来の葛西氏の通字であった「清」を付すことで、我こそが葛西氏家督に相応しいという正当性を示す狙いがあったのかもしれない。

偶然の病死か、それとも戦死・暗殺等なのか、晴清は天文の乱の最中の天文16(1547)年に亡くなり、最終的に家督相続人は晴宗と結んだ晴胤で落ち着くこととなる。

 

よって、盛岡系系図が示すように、晴重は政信の子で、晴胤は晴重の「実子」であったとするのが妥当であろう。

*ちなみに、晴重・義重らの「重」は家祖・清重に由来するものであろう。親信の「親」も清重の子・清親に関係すると思われる。

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葛西晴信については、複数点の書状のほか、親交のあった伊達政宗(晴宗の孫)が天正19(1591)年12月13日付で秋保定重に宛てた書状の中にも「月鑑妻子者、葛西晴信之姉ニ候間…」とあって(『政宗君治家記録』)、姉とともに実在が確認できる。

 

 

 

仙台系系図編纂の作為的な意図

さて筆者は、仙台系の葛西氏系図は作為的に編纂されたものではないかと見ている。

 

江刺氏と仙台系系図

まず、清貞以降の子孫が本当に続いたかどうかが怪しい。

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というのも、こちら▲における仙台系各当主のページにて、葛西氏一族という江刺氏の系譜が紹介されているが、これを仙台系の葛西氏系図を照らし合わせると、人名や官途でかなり多くの共通が見られるからである。

【系図6】『葛西江刺守家譜略伝』(『岩手県史』所収)と仙台系葛西系図 各々一部の比較

武蔵守 三郎兵衛 備前守 播磨守    三郎二郎 左京大夫

清定――満良―――満隆――持重―(3代略)―信重―――満重

武蔵守      備前守 播磨守    孫三郎  陸奥守

清貞―良清―満良―満清――持重―――――信重―――満重

 

【系図7】『葛西江刺守家譜略伝』による略系図

葛西清重─重高─兊清─尚重─忠清─義清─清親─清昭─清経─清定─┐

┌────────────────────────────────────────┘

└─満良─満隆─持重─満胤─隆友─持胤─信重─満重─┐

┌───────────────────────────────┘

└─満清─宗満─重親─┬─重任─輝重─重恒(南部盛岡藩士)

           └─葛西晴重─時胤─晴胤─義重─晴信

【系図7】にある通り、江刺氏系譜は清重と伯耆守清親の間に何故か5代が加えられ、時代的に合わなかったり、かなりの混乱が見られたりするため、そのまま信用することは不可能で、葛西晴重が実は江刺重親の子だったというのも他の史料等での立証は難しい。

ただ、仙台系葛西氏系図もまた、良清から満重に至る歴代当主が実際の史料上で確認できない。

 

そこで筆者が思うには、仙台系系図が示す葛西氏の系統、前述でいう関東葛西氏は、実は存在しなかった、もしくは仮にそういう系統が在ったとしても、江刺氏から養子が入ることで何とか繋げていった可能性が考えられるのではないかということである。

ちなみに江刺氏については、晴胤の書状を受け取ったという、前述の江刺彦三郎(実名不明)や、晴胤の舅(親信の外祖父)である江刺隆見がその一族であろう。

(参考ページ)

● 武家家伝_江刺氏

● 近世こもんじょ館 きろく解読館 ― 江刺

 

 

葛西武蔵守宗清

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詳しくはこちら▲をご参照いただければと思うが、満重に養子入りした葛西宗清については、その実在を確認し得る史料類が残されているという。

まず、東山興田妙見神社(現・一関市大東町鳥海)には、明応7(1498)年6月1日付で「奉妙見社頭御造栄所 大檀那平宗清」と書かれた棟札が奉納されている。冒頭で紹介の通り、葛西氏は桓武平氏の支流で、平姓の一族であったから、比定し得る条件は満たしている。

次いで、永正11(1514)年の成立とされる『余目記録』には、奥州探題・大崎教兼(左衛門佐)が「葛西陸奥守殿」へ宛てて書状が送られていたことが見え、それに対しての返答は「武蔵守宗清」が行っていたようである。

その他、紀伊国熊野大社に奉納された葛西一族の奉加帳の筆頭に「前武蔵守宗清」の名が見え(熊野速玉大社内熊野神宝館)、某年5月28日付の牧沢伊豆入道へ宛てられた「宗清」の書状(『中尊寺文書』)もあって、花押の一致からこの両者は同一人物と見なせる。 

 

 

仙台系系図の作成

繰り返すが、仙台系の葛西氏系図は、延宝3(1675)年12月20日に仙台藩士の葛西重常が同藩(当時の藩主は政宗の曾孫である4代・伊達綱村)に提出した由緒系図を基としている。

筆者が思うに、系図を提出するにあたり、宗清、晴清と伊達氏からの養子を2度も排斥した過去が申し訳なかったのではないかと考えられる(もちろん晴清の場合は、伊達晴宗側に味方した経緯でやむを得なかったのであり、本来不都合ではないと思うのだが)。そのため、晴胤=伊達氏からの婿養子「牛猿丸」ということにしておいて、晴重死後の晴胤・晴清による家督争いを "揉み消した" ということであろう。

しかも、そうすることで晴胤以降の葛西氏が伊達氏の血を引くこととなるので、藩士としてその後も重用されるため、或いは伊達氏一門に準ずる待遇を狙っていたのだとすれば、その方が都合が良かったということも考えられると思う。尚、この "改竄" は必ずしも重常の代でなくても良く、晴胤から重常に至るまでの間で成され、伝えられていったが故に、重常本人が本当に実態を把握していなかった可能性も含めるものとしたい。

 

だが、そのためには宗清と抗争した政信、ひいてはそれ以前の存在を抹消する必要があったと思う。盛岡系歴代当主の実在を確認できる史料は、今日においても【史料4】くらいで、葛西氏に関する史料は編纂当時も集まってなかったのかもしれない。それを良いことに、江刺氏系譜を交えながら、今日「仙台系」として伝わる葛西氏の系図を作り上げたのではないか。

 

そもそも筆者が仙台系に対し否定的に見る理由は、持重以降、足利将軍家(或いは関東拠点であれば鎌倉公方)からの偏諱を受けていないのがやや不自然に感じるからである。持重の子・信重は、実在が確認できる史料も無いことから、親信・晴信の「信」の由来と思しき清信を否定したのに代わって作られた人名ではないかとみている。

更に言えば、『葛西江刺守家譜略伝』では持重と信重の間に「満胤―隆友―持胤」の3代を挟む(【系図7】)が、特に満胤と持胤はいかにも後世の晴胤命名にあやかった祖先として、千葉氏に代わり作られた人名である感じが否めない。もっとも、持胤には「永正十七年(=1520年)卒」という注記があるが、来孫(玄孫の子)の重親にも同じ記載がある上に、雲孫(8代後:玄孫の玄孫 あるいは 孫の孫の孫の孫)である晴胤が当時存命であったというのはどう考えても無理がある。

 

前述した『余目記録』にある「葛西陸奥守殿」も、「武蔵守宗清」の養父と見なすのはまだ良いとは思うが、仙台系系図が示すように、本当にその実名が「満重」であったかどうかというのは厳密には断定できないだろう。

 

 

盛岡系系図に関する考察

一方、盛岡系系図については、全ての情報が正しくないにせよ、仙台系系図に比べると一定の信憑性は認めても良いように思う。

 

葛西持信から政信に至るまで

一部は前述の通り、【史料4】から実在が確認できる葛西持信の周辺について、少なくとも生没年は「五大院葛西系図(抄録)」や「盛岡葛西系図」等、盛岡系の各系図の記載通りでほぼ間違いないと判断できる。再度ここで情報を整理しておきたい。

 

持信は応永5(1398)年生まれで4代将軍・足利義持の偏諱を受け(「中館系譜」)、文明元(1469)年、5月7日に譲状を出した後、6月3日に72歳で亡くなったとみて良いだろう。

その嫡男・葛西朝信は持信が数え30歳の時の子(1427年生まれ)で、1470年(【史料4】)当時44歳で壱岐守在任であったことになる。

すると、文明15(1483)年に33歳で没したという、朝信の子・尚信は1451年生まれとなるが、父・朝信との年齢差を踏まえると十分妥当であると思う。「尚」の1字も、在世当時の9代将軍・足利義尚(在職:1474年~1489年没)の偏諱を許されたものとみられるから、その補強となるだろう。

【系図8】

持信─┬─朝信─尚信

     └─政信

その跡を継いだ政信は、永正3(1507)年に74歳で没したとされ、逆算すると1434年生まれ。持信の子、朝信の弟として全然問題ない生年であり、少なくともこれはほぼ信ずるに値すると思う。「五大院葛西系図」での注記によると、初名は信勝(のぶかつ)で、1483年の甥・尚信の早世により家督を継承し、同年9月に上洛した際に将軍〔ママ〕・足利義政の偏諱を賜って「政信」に改めたという。当時、将軍は義尚であったが、政務の実権をめぐって義政と父子間で確執があったようで、義政は政務からの引退を表明した文明17(1485)年12月以降も対外交渉と禅院に関する事項については依然として実権を握り続けていたという*12。政信が甥と同じく将軍・義尚ではなく、その父・義政から一字を拝領することになったのもその前触れなのかもしれない。

 

葛西稙信と葛西晴重

「五大院葛西系図(抄録)」を見ると、政信の男子は3人あったといい、豊田知定の娘との間に生まれた、長男・信高(のぶたか)は葛西兵庫助信常(前述の信常とは別人であろう)、次男・信兼(のぶかね)は西館信実に、それぞれ養子入りし、千葉師胤の娘との間に生まれた3男の稙信が正嫡になったという。そして、その「稙」の字は永正11(1514)年3月に上洛して10代将軍・足利義稙に拝謁した際に賜ったものであるとも伝える。

ところが、同じく盛岡系の「盛岡葛西系図」では、跡を継いだ3男を晴重とする。初名は重信(しげのぶ)で、大永2(1522)年に12代将軍・足利義晴(在職:1521年~1546年)の御字を拝領して「晴重」に改めたのだという。

 

しかし、稙信・晴重は各々の系図で、法名道貞(どうてい)、天文2(1533)年12月21日に65歳で亡くなったという記載が共通しており、とりあえず同一人物を指すと考えて良いのではないか。逆算すると1469年生まれで、政信36歳の時の子であったことになる。

では、稙信か晴重、どちらの名前が正しいと判断できようか。

 

そもそも筆者は、晴重・晴胤(1497-)・晴信(1534-) 3代の「晴」はいずれも義晴の偏諱を賜ったものと判断されるが、「晴重」の名乗りについては懐疑的に見ている。

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こちら▲の記事では、永正18(1521=大永元)年8月23日(ちょうどこの日「大永」に改元)、「右馬頭尹賢(=細川尹賢(ただかた))」が「葛西三郎殿」に対して「御字、就被申給、御音信」について「禅昌院」を遣わしたとする書状(『浜田家文書』、後掲【史料10】参照)を紹介の上で、その「葛西三郎」を、次期将軍として7月28日に京都で元服した義晴(この当時、征夷大将軍は一時的に空席であった)の「御字(=偏諱)」を賜った晴重に比定されている。前述の生年に従うとこの当時53歳。恐らく前述「盛岡葛西系図」での晴重の記述もこの見解を採っているのだと思うが、どうであろうか。

 

義晴の在職期間を考えると、元服の際に直ちにその一字を拝領し得るのは晴信であると思う。従って、父・晴胤も義晴治世下で「晴」の偏諱を許されているので、一応前述の『伊達族譜』に「義晴公、晴ノ字ヲ賜フ」とあるのは妥当だと思うのだが、厳密には「晴」の字を受ける前の初名があったと考えるべきであろう。そしてそれは晴重にも言える。

ここで、この頃の葛西氏家督について、改めて次のように纏めてみた。

 

【表9】戦国期葛西氏の生没年と初名

人名

生没年

初名

★

葛西稙信

1469-1533 重信

45

葛西稙清

1493-1531

守信

21

葛西晴胤

1497-1555

高信

-

★は、1513年に将軍・足利義尹(2次政権在職: 1508年~1522年)が「義稙」に改名した当時の年齢であり、「五大院葛西系図」曰く、この翌年に稙信・稙清父子は一字を拝領したことになる。つまり、この当時の葛西氏は10代前半での元服時にいきなり偏諱を賜るのではなく、改名による一字拝領という形を採っていた。

*ちなみに、前述の細川尹賢の「尹」は義尹時代に賜った偏諱であり、義尹(義稙)在職中でもある1521年に「右馬頭尹賢」名義の書状が出されていることに問題は無かろう。

それは晴胤も同様で、生まれた当時の将軍は義尹の前の足利義高(在職期間:1495年~1508年、1511年逝去)であったが、晴胤がまだ6歳の1502年に「義澄」に改名してしまっているので、初名の「高信」は義高の偏諱を受けたものではないと判断される。「高」は祖先・平高望に関係するものかもしれない。

1521年の「葛西三郎殿」に話を戻すと、幼名ではなく元服済みであったことが窺えるから、元々別の初名を名乗っていたところに足利将軍家からの「御字、就被申給」の話が出たと考えられるが、無官であることからしても当時53歳の稙信(晴重)よりは、当時25歳の晴胤の方がまだ適しているのではないかと思う*13。これについては、次節での考察も根拠になるので、併せてご参照いただければと思う。

 

従って、重信が「晴」の字を拝領して「晴重」と名乗った史料的根拠は無くなるので、その改名後の名前としては「稙信」が相応しいと思う。同じ盛岡系の流れを汲む系図同士でも、比較的古い「五大院葛西系図」の方が信憑性が高いと言えよう。

 

 

『浜田家文書』所収の細川氏書状3通に関する考察

葛西氏の一族である浜田家には、永正18(1521)年(=前述にて言及した細川尹賢書状)から寛文9(1669)年に至る文書36点が纏められた『浜田家文書』が伝来し、岩手大学図書館のHP上で各書状の写真と翻刻が公開されている*14。

そのうち、尹賢書状も含めた3通では、葛西氏当主の "御字拝領" を祝す記述が確認できる。本節では、その3通を掲げた上で、各宛所の葛西氏が誰に当たるかについて検証してみたいと思う。

尚、「御字(おんじ)」とは、「字」に尊敬・敬意を表す接頭語の「御」を付した言葉で、ここでは天皇・皇族・将軍など高貴な人物のお名前(=御名)の字、すなわち「御一字」、また本ブログで言う「偏諱」と同義である。この前提で論じていきたいと思う。

【史料10】(永正18(1521=大永元)年)8月23日付「細川尹賢書状」(『浜田家文書』)

御字就被申給御
音信殊太刀一腰五
百疋贈給候令悦候
仍太刀一振段子
一端赤 引合十帖分候
祝儀至候而禅昌院
可有演説候恐々謹言
 
八月廿三日 右馬頭尹賢(花押)
 
謹上 葛西三郎殿
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(裏面付箋) 
永正十八年十月二日到着
      下向後大永ニカハル((に変わる))

 

【史料11】(天文18(1549)年)9月11日付「細川晴賢書状」(『浜田家文書』)

御字御拝領之儀
太刀一腰黄金五両
給候誠祝着之至候猶
鴨井次郎左衛門尉可申候恐々
謹言

 九月十一日 右馬頭晴賢(花押)


謹上 葛西左京大夫殿
----------
(裏面記載)天文十八年十月日到着

 

【史料12】(元亀2(1572)年)8月17日付「細川藤孝書状」(『浜田家文書』)

公方様義御字
御拝領珍重候
特被染 御筆候
尤御面目玉候重々
御礼可被申入事
肝要存候可得御
意候恐惶謹言
 
八月十七日兵部大輔藤孝(花押)

謹上 葛西三郎殿
----------
(裏面記載) 
     冨松下
元亀二年九月吉日
     到着

まず、各書状の発給者である、尹賢・晴賢・藤孝はいずれも細川氏に比定される。

尹賢・晴賢・藤孝それぞれも、足利義尹(義稙)・義晴・義藤(義輝)の各将軍から偏諱を賜っており、"御字拝領" がいかに喜ばしいこと、有難いことかということを身をもって知っていたであろうから、親交のあった葛西氏にも「御字」が与えられると聞いて祝意を述べたのであろう。

 

【史料10】については前述したので割愛する。

【史料11】では、晴賢から「葛西左京大夫」に対し、「御字御(ご)拝領の儀……誠に祝着の至り候(そうろう)」と祝っている。つまりこの左京大夫は、足利将軍からの「御字(=偏諱)」を賜った人物であることが分かる。

【史料12】でも、藤孝が「葛西三郎」に対し、「公方様の義の御字の御拝領は珍重(めでたいこと/祝うべきこと)である」と述べている。公方とは将軍のことであり、当時のそれ=足利義昭から「義」の御字が三郎へ下賜されたことが分かる。

chibasi.net

この「葛西三郎」については、こちら▲の記事でも言及の通り葛西義重に該当するだろう。【史料12】から僅か6年後の天正6(1578)年に興田妙見神社を改修したことを示す棟札にも「大檀那平義重□部少輔」の名が見え、その間に官職を得たことも窺える。尚、この興田妙見神社には、前述したように「大檀那平宗清」と書かれた棟札が奉納されており、宗清・義重はともに平姓葛西氏と見なせる。

義重は永禄15(1573)年に21歳の若さで亡くなった(『葛西真記録』・『平葛西末永両家系』)とされ、逆算すると1553年生まれとなるが、没年については棟札との兼ね合いから検討を要する。ただ、父・晴信との年齢差や【史料12】の頃に一字拝領ということを考えると、生年はその頃とみて良いと思う。

 

【表13】「五大院葛西系図(抄録)」に基づく戦国期葛西氏の生没年

諱

生没年

稙信

1469-1534

晴胤

1497-1555

親信

1513-1560

晴清

1517-1547

晴信

1534-1597

【史料11】の「葛西左京大夫」は晴信に比定し得ると思う。そもそも左京大夫とは、正五位上相当の、左京職の長官であり*18、この頃は、嫡流が管領の地位に就くとともに代々右京大夫に任じられたことから唐名に因んで「京兆家」と称されていた細川氏に対し、その盟友的存在の有力守護大名が左京大夫に任じられていた。細川政元期の赤松政則、細川高国期の大内義興、細川晴元期の六角義賢がその例に当たり*19、上記3史料より細川氏とのやり取りが窺える葛西氏もその資格を有していたのだろう。

chibasi.net

こちら▲の記事では、【史料11】から僅か11年後の永禄3(1560)年4月24日、「葛西壱岐守平晴信」が報恩山永徳寺に「亡親石見守平親信」のために「伊澤郡永徳寺一村」を寄進したという文書(『報恩山永徳寺文書』)を紹介しつつも、「晴信は壱岐守に任官していないため疑問が残る」とする。しかし「五大院葛西系図」によれば、親信は同月11日に亡くなったばかりであり、そうであればこの行動は決して不可解なものではないと思う。

ja.wikipedia.org

また、こちら▲のページに紹介の、戦国時代の左京大夫任官者(※恐らく、系図等で伝わるのみの者も含む)の中には、前述の大内義興の子・義隆(左京大夫任官後、筑前守も兼務)のように左京大夫に次いで国守に任官したケースも確認できる。任官順にこだわらなければ、徳川家康(三河守、のち左京大夫 など)や土岐頼芸(修理大夫・美濃守)なども似たようなケースだし、南北朝時代の畠山国清も頼芸と同様、修理権大夫(従四位下相当)の後に、祖父にゆかりの阿波守(従五位下相当)の官職を得ている*20。

すなわち、晴信が左京大夫の官職を得て、官位相当の面ではランクダウンではあっても、のちに家祖・葛西清重や【史料4】の「葛西壱岐守殿」(=朝信)などにゆかりのある壱岐守(従六位下相当)に任官するということは決して有り得ないことではないと思われる。

 

もちろん、もう少し厳密に、残存する晴信の書状など他の史料との照らし合わせは必要であり、筆者はそれらを確認しきれていないのではあるが、とりあえず【史料11】の「葛西左京大夫」が「葛西壱岐守平晴信」の僅か11年前の同人であった可能性も十分あり得るものとして、ここではそう結論付けておきたい。

*このような曖昧な感じになっているのは、【表13】に従うと【史料11】当時、晴信が16歳で左京大夫であったことになり、これに疑問が残るためである。しかし【表13】の生没年が絶対的に正しいとも限らないので、もう少しそのあたりで検討の余地はあるだろう。機会があれば別稿にて改めて検証してみたいと思う。

 

 

まとめ

以上の考察により、筆者は盛岡系系図に基づき、葛西氏家督の系譜を次のように推測する。

【系図14】筆者による室町時代中・後期の葛西氏推定系図②

持信┬朝信─尚信

  └政信─稙信┬(稙清?)

         └晴胤─親信┬晴信─義重

             └胤重

 

(参考ページ)葛西氏系譜の再考

● http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/kasai3.htm

● https://www.esashi-iwate.gr.jp/bunka/wp/wp-content/uploads/2021/11/saikachi_manual20220221.pdf

 

脚注

*1:詳細は 葛西氏系譜の再考、郷土歴史倶楽部(みちのく三国史・・葛西一族編) を参照のこと。

*2:原本:仙台市・葛西正人氏所蔵、東北大学文学部奥羽史料調査部写蔵本と同本。

*3:葛西史疑 - 国立国会図書館デジタルコレクション。

*4:『吾妻鏡』建長4(1252)年4月14日条。通称は、"伯耆守"清親の子「左衛門尉」の「四郎(本来は4男の意)」を表しており、清重の嫡男・清親の孫にあたる。

*5:葛西惣領家別説(盛岡藩葛西家)#葛西朝信 の項 より引用。

*6:「中館系譜」での持信の注記に「……伯耆守、柳営内大臣義持賜諱一字、……」とある(→ 葛西史疑 - 国立国会図書館デジタルコレクション)。

*7:朝信は盛岡系各系図での記載から1427年生まれと算出され、【史料4】当時数え44歳であったことになるので、壱岐守の官途を得ている年齢として問題ないと思う。

*8:尚、朝信は足利将軍家からの偏諱を受けなかった様子であるが、その「朝」の字は葛西朝清にあやかって付けられたものと思われる。恐らく当時の段階で既に盛岡系での「清重―朝清―清親」という誤った系譜が伝承・自認されていて、朝清を祖先と仰いだのであろう。朝信の名乗りからそのように推測する。

*9:葛西史疑 - 国立国会図書館デジタルコレクション(「仙台葛西系図」)。

*10:葛西史疑 - 国立国会図書館デジタルコレクション。

*11:『大日本古文書』家わけ第三『伊達家文書之十(追加)』P.78~(三二九〇号)。葛西晴胤(千葉氏の一族HP) に掲載の表も参照のこと。

*12:足利義尚 - Wikipedia 参照。典拠は 野田泰三「東山殿足利義政の政治的位置付けをめぐって」(所収:桃崎有一郎・山田邦和 編著『室町政権の首府構想と京都 -室町・北山・東山-』、文理閣、2016年)。

*13:ちなみに、1513年生まれの親信だと数え9歳で元服を済ませていたことになり、全くあり得ないことではないが、少し早い感じも否めない。また、1517年生まれの晴清(当時5歳)や1534年生まれの晴信ではあり得ない。葛西氏系図上で「葛西三郎」に該当し得るのは晴胤くらいではなかろうか。

*14:コレクション | 岩手大学図書館 参照。

*15:益田家文書『永正七年在京衆交名』。永正十二年 足利義稙、三条新御所御移徙供奉人。永正十五年 足利義稙畠山順光亭御成供奉人。

*16:馬部隆弘「「堺公方」期の京都支配と松井宗信」(所収:『戦国期細川権力の研究』、吉川弘文館、2018年)P.261。

*17:米原正義 編 『細川幽斎・忠興のすべて』(新人物往来社、2000年)P.15。

*18:左京の大夫(さきょうのだいぶ)とは? 意味や使い方 - コトバンク。

*19:徳川家康 - Wikipedia 参照。

*20:【論稿】鎌倉中・後期畠山氏系譜についての一考察 ―『武州文書』畠山系図を中心に― - Henkipedia 参照。

葛西清時

葛西 清時(かさい きよとき)は、鎌倉時代中期の御家人。『吾妻鏡』に葛西氏の一族と思しき2名の清時が確認でき、以下両者について触れる。

  • 葛西清親の子。通称は伯耆新左衛門尉。仮名は五郎か。
  • 葛西清親の孫。父は葛西時清または葛西光清とみられ、母は千葉胤綱の娘とされる。初名は重村(しげむら)とも。通称は四郎(伯耆左衛門四郎)。官途は遠江守か。妻は結城祐広の娘(宗広の姉または妹)。養嗣子に葛西清信(貞清の父)。法名は行蓮・具円・涼西と系図により異なる。

 

 

2人の「葛西清時」

『吾妻鏡』を見ると、「葛西清時」という同姓同名の人物が2人いたことが窺える。

 

●【表1】清時の名が見える時期

建長2(1250)年8月15日 鶴岡八幡宮放生会 葛西新左衛門尉清時 『吾妻鏡』
建長2(1250)年8月18日 由比ヶ浜逍遥供奉 伯耆新左衛門尉 『吾妻鏡』
建長4(1252)年4月14日 将軍家八幡宮社参供奉 伯耆左衛門四郎清時 『吾妻鏡』

(葛西宗家の一族 #葛西清時 の項より引用)

 

まず、「葛西新左衛門尉清時」および「伯耆新左衛門尉」は、同じくこの頃左衛門尉であった、伯耆守清親の子と思しき「伯耆三郎左衛門尉時清」・「伯耆四郎左衛門尉光清(みつきよ)」兄弟と近い世代の人物になるだろう。

 

一方、「伯耆新左衛門尉」および「伯耆左衛門四郎清時」は、その呼称からして伯耆守清親の直系子孫と判断できるが、後者建長4年4月14日条の「伯耆左衛門四郎清時」は、同年11月11日条に初出の「伯耆左衛門三郎清経」と同世代人とみられ、その名乗り方からして時清または光清の子であろう。尚、光清とは「四郎」や「左衛門尉」の通称が共通するが、「伯耆左衛門尉の四郎」と「伯耆四郎かつ左衛門尉」では意味が異なっており、別人として扱うべきである。

 

よって、建長年間当時、

  • 「葛西新左衛門尉」および「伯耆新左衛門尉」清時
  • 「伯耆左衛門四郎」清時

2人の "葛西清時" がいたということになる。勿論、両者とも【表1】に示したように実名の「清時」まで書かれた記事が各々1箇所のみであるから、いずれかが誤記である可能性もあり得るが、以下本稿では一応2人の清時がいたという前提で論じていきたいと思う。

 

清親の子・"伯耆新左衛門尉" 清時

『吾妻鏡』文暦2(1235)年6月29日条を見ると、この日、鎌倉五大尊堂に新造の御堂について供養が執り行われ、4代将軍・九条頼経が御所南門から小町大路へ向かう際に供奉した後陣の隨兵に「壱岐三郎時清」、寄進する馬を曳く一人に「壱岐五郎左衛門尉」の名が見える。

この両名についてはともに壱岐守・葛西清重の子とし、さらに「壱岐五郎左衛門尉」については、実名不詳とした上で、『吾妻鏡』寛元2(1244)年8月16日条にある八幡宮放生会に伴う流鏑馬奉納で、十二番に列した「伯耆前司(=清親)」が射手として同席させた「子息五郎」と同一人物ではないかとする説が出されている*1。

しかし筆者は、これについて一部異議を唱えたい。

 

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「壱岐三郎時清」についてはこちら▲の記事で言及の通り、前述の「伯耆三郎左衛門尉時清」と同一人物で、そのかつての呼称である。すなわち、清親の子で清重の孫にあたる。1235年当時、父・"壱岐三郎左衛門尉"清親もまだ国守(伯耆守)の官途を得ていなかったため、時清にも祖父・清重の官途が付されていたと考えられる。 

従って「壱岐五郎左衛門尉」は、まだ無官の三郎時清よりも、同じく左衛門尉であった "壱岐三郎左衛門尉"清親の弟にこそ相応しい呼称ではなかろうか。よって清重の子とみて良いとは思うが、「伯耆前司」の「子息五郎」とは同一人物にはなり得ないと判断される。よく考えれば、先の説には、一度清重の子と見なした筈の「壱岐五郎左衛門尉」を、伯耆前司清親の子とする矛盾が生じていたのである。

【系図2】筆者による葛西氏推定系図①

  ┌壱岐三郎左衛門尉清親─┬三郎時清──清経

清重┼壱岐五郎左衛門尉    ├四郎光清

  └壱岐六郎左衛門尉朝清  └五郎------=清時?

 

では、「伯耆前司」清親の「子息五郎」とは何者なのか。仮名から判断するに、少なくとも三郎時清や四郎光清の弟にあたるのではないかと思う。そして、筆者はこの「五郎」はむしろ、前述の「葛西新左衛門尉清時」および「伯耆新左衛門尉」と同一人物の可能性が高いのではないかと考えている。

前掲記事において紹介の通り、時清は1236年頃に左衛門尉に任官して呼称が変化しており(壱岐三郎時清→壱岐小三郎左衛門尉時清)、光清も左衛門尉となったのは、初出の『吾妻鏡』宝治2(1248)年8月15日条「伯耆四郎左衛門尉光清」からさほど遡らない時期であろう。

そして、それからちょうど僅か2年後に「葛西新左衛門尉清時」が登場するのである(前掲【表1】)。1244年当時まだ無官であった「五郎」が左衛門尉に任官するとしたら、まさにこの頃が相応しいのではなかろうか。「新」というのも、既に先立って左衛門尉となっていた兄の時清・光清に対して付されたものと推測される。

 

勿論、清時の仮名が「五郎」(すなわち「伯耆五郎左衛門尉」)であったかどうかについては決定づけることは難しいので、以上はあくまで推論ということになる。

ただ、"伯耆前司" 清親に「伯耆三郎左衛門尉時清」、「伯耆四郎左衛門尉光清」、「五郎」 という少なくとも3人の息子がいたことは確実視して良いだろうし、むしろ「六郎」以下の他の男子がいたかどうかの方が不透明である。「伯耆新左衛門尉」が時清でも光清でもないなら、やはり五郎に相応しいのではないかと思うし、「葛西新左衛門尉清時」がその実名になり得ると思う次第である。

その場合、前述の通り1244年8月中旬の段階で元服を済ませて「五郎」の仮名で呼ばれていたことが分かるので、諱「清時」の「時」は、当時の4代執権・北条経時(在職:1242年~1246年)*2、或いはその前の3代執権・北条泰時(在職:1224年~1242年)*3の偏諱を賜ったものと考えられよう。

 

 

清親の孫・"伯耆左衛門四郎" 清時

もう一人の葛西清時は、【表1】で示した通り、『吾妻鏡』建長4(1252)年4月14日条に、新将軍(6代将軍)・宗尊親王の鶴岡八幡宮初社参の供奉人として「伯耆左衛門四郎清時」が見えるのみである。前述したように、その名乗り方からして時清または光清の子と推測したが、いずれにせよ "伯耆前司" 清親の孫ということになる。

前掲記事で時清の生年を1215年頃と推定したので、四郎清時がその息子或いは甥であれば、早くとも1230年代後半生まれとするのが妥当であろう。ちなみに時清の嫡男とみられる清経の生年は『盛岡葛西系図』での記載から算出される1235年がほぼ妥当と思われ、4代執権・北条経時(在職:1242年~1246年、前述参照)から偏諱を受けた後の『吾妻鏡』同(1252)年11月11日条に「伯耆左衛門三郎清経」として初登場している。

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四郎清時の「時」も経時、或いはその弟で1246年から5代執権となった北条時頼(在職:1246年~1256年)*4が烏帽子親となって1字を拝領したものと思われる(恐らく後者の可能性が高いと思う)。前述の「葛西新左衛門尉清時」と同じ諱(実名)を名乗っているが、新左衛門尉清時の終見から左衛門四郎清時が現れる、1250年後半~1251年の間(【表1】)に、もしかすると新左衛門尉清時がこの頃に故あって引退したか早世したため*5、特に不都合が無かったのかもしれない。

 

葛西氏系図における清時

ところで、大きく分けて2系統が伝わる葛西氏の系図を見ると、いずれにも清時の記載があることが分かる。本節ではそれらの詳細を掲げた上で、筆者なりの考察を加えてみたいと思う。

 

<仙台系>

清重-清親-清時-清経-清宗---

  • 『仙台葛西系図』*6:従五位下、葛西左衛門四郎、伯耆前司、新左衛門尉、善光寺湊殿、法名 法輪院殿行蓮宣公大居士。
  • 『葛西真記録』*7:新左衛允〔ママ〕、法名行蓮

 

<盛岡系>

           (千葉頼胤の子)

清重-朝清-清親-清時=清信-貞清---

  • 『盛岡葛西系図』*8:清親嫡男、始名重村、母者千葉介胤経〔ママ、綱か〕娘、葛西新左衛門尉、伯耆守、従五位下、遠江守。寛元三年八月同御出時供奉。同四年十一月亀谷之新造入御供奉、同年鶴岡御出時伯耆左衛門清時供奉。弘安八年十一月秋田城介泰盛謀叛之時、懸一陣顕軍忠。在職十七年。弘安十年十一月七日卒、五十三歳。法名具円。
  • 『五大院葛西系図(抄録)』*9:

  • 『中館系譜』*10:

(*画像は 郷土歴史倶楽部(みちのく三国史・・葛西一族編) より引用。)

 

清時をめぐっての一考察

まず、盛岡系では、『吾妻鏡』等から判断するに本来はともに清重の子で兄弟であるはずの「朝清(弟)-清親(兄)」を父子関係とする明らかな誤りに注意せねばならない。その上で、次いで「清親-清時」とするのは仙台系と共通している。よって、これまでの内容を踏まえると、一応 "伯耆新左衛門尉" 清時を指しているとは考えられる。

 

しかし、『仙台葛西系図』に「左衛門四郎」という記載があり、一方の盛岡系でも、弘安10(1287)年に48歳 または 53歳で亡くなったという記載から逆算すると1235年~1240年生まれとなり、どちらかと言えば左衛門四郎清時の生年に相応しいので、やはり混同されているのであろう。

また、仙台系においては、清親と清経の間に位置することを考慮すると、恐らく字の逆転で類似する時清と混同されている可能性もある。勿論、先行研究において「時清―清経」が父子関係と判断されるのは、恐らく「三郎」という仮名が共通し、清重以来、嫡流の家督継承者が代々称したと考えられたためであろうから、厳密にはこれも断定し切れない側面はあるが、「清時―清経」とされたのもまた、『吾妻鏡』に基づいて清経が "葛西新左衛門尉" 清時の息子と考えられたためではないかと思う。

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こちら▲の記事で紹介しているが、『吾妻鏡』での時清は「壱岐三郎時清」→「壱岐小三郎左衛門尉時清」→「伯耆三郎左衛門尉時清」という表記の変化であり、葛西氏であると判断できたのは、清重が壱岐守、清親が伯耆守であったことによりそう呼ばれていたことが近年の研究で分かったからである。

 

従って、前述の各系図作成・編纂の段階において、そのことが分かっていなかった可能性も十分にあり、仙台系系図では、『吾妻鏡』において清親と清経の登場時期の間に活動が見られる「葛西新左衛門尉清時」をその間の世代と見なして「清親-清時-清経」という系譜が作られたのではないか。しかも『仙台葛西系図』では単純に同名であることから「伯耆四郎左衛門清時」も同人と見なしたのであろう。

 

そういう意味で、当該部分については盛岡系の方がまだ信憑性があるのだと思う。

ここで、盛岡系での記載から次のように系図として纏めてみた。

【系図3】千葉・葛西両氏関係図

千葉胤綱─┬時胤─頼胤─┬宗胤────胤貞

      └女子     └胤宗────貞胤

       ||──清時=胤信(清信)─貞清─高清

葛西清重─清親

清時は母方の千葉氏から頼胤の3男・胤信(改め葛西清信)を養嗣子に迎えたというが、近年の千葉氏系譜についての考察を踏まえると、頼胤(1239年生まれ)とは従兄弟関係にしてほぼ同世代となり、辻褄は合っているように思う。それぞれの孫にあたる千葉胤貞(1288年-)・貞胤(1292年-)・葛西貞清(1291年-)も同世代人にして9代執権・北条貞時の偏諱を受けた様子である。

 

筆者は、養子云々はさておき、次の2点より葛西清信に始まる葛西氏の一流は存在したのではないかとみている。

  • 盛岡系系図では母親に関する情報などかなり詳細に記され、作り話にしてはよく出来過ぎていること。
  • 盛岡系系図を見ると、貞清の弟・葛西信常(のぶつね)や、曾孫・葛西満信以来の当主が「信」を通字としており、少なくとも満信の子・葛西持信(もちのぶ)*11や葛西晴信*12の実在は確認できる。そのため、詮清の子が「満清」ではなく「満信」といきなり名乗るのが奇妙である*13ことも踏まえると、それまでに「信」の字を持つ清信という人物がいたと考えるのが自然ではないかと思われること。

清信は、文保元(1317)年に56歳で没したという記載から逆算すると1262年生まれとなる。系図では「頼胤三男」とするが、実際は千葉宗胤や胤宗の庶兄であったのだろうか、この点は疑問が残るが、『吾妻鏡』に登場の清時がこれを跡継ぎとしたと考えておきたい。

清時については、『葛西氏過去牒』に文永7(1270)年12月18日卒、法名「法輪院殿行蓮宜公大居士」という記録があるといい*14、「行蓮」という法名は前掲の仙台系系図でも見られる。弘安8(1285)年、霜月騒動で安達泰盛の弟・長景(宗長の父)を討ち取った戦功により、7代将軍・惟康親王の推挙もあって遠江守に任ぜられたと記す盛岡系系図との整合性が取れないので、これについては検討の余地を残している。

 

では、清信の父(養父)・清時は、どちらの清時と考えるのが妥当であろうか?

筆者は次のように推測する。

【系図4】筆者による葛西氏推定系図②

  ┌清親─時清─┬清経─宗清(断絶?)

清重┤      └清時=清信─貞清─高清

  └朝清─清員──清宗┬時員

           ├清貞─良清

           └伊豆四郎

前述した通り、盛岡系系図の記載から1235年~1240年生まれとされる清時は、清親の子とするよりは、時清の子(または甥)とするのが、当時における親子の年齢差として比較的自然ではないかと思う。よって、【表1】での「伯耆左衛門四郎清時」と同人と見なしたいと思う。

 

2系統の葛西氏

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こちら▲の記事で紹介の通り、正応元(1288)年7月9日付「関東下知状」(『陸奥中尊寺経蔵文書』)*15により、当時恐らく陸奥国に移っていた「葛西三郎左衛門尉宗清」が葛西氏の「惣領」であったことが窺え、永仁2(1294)年12月25日付「関東御教書」(『陸奥中尊寺文書』)*16の宛所「壱岐守殿」も高祖父・清重と同じ官職を得た宗清に比定される。

しかし、前掲の通り宗清は仙台系・盛岡系いずれの系譜にも登場せず(名前が類似する清宗は【系図4】の通り別人)、宗清以降の惣領は不明である。

そこで筆者が思うには、宗清には嗣子が無く、一旦葛西氏の嫡流が断絶、そして清時・清信の系統に嫡流の座が移ったのではないかということである。

盛岡系系図には、建治2(1276)年8月、8代執権・北条時宗の命により清時が千葉氏から胤信(清信)を養子に迎えたことが記されており(前述参照)、あくまで(実際の史料ではなく)系図の情報なのでこれを安易に信ずるべきではないが、これがある程度の真実を伝えているとすれば、何故わざわざこうする必要があったのであろうか?

それは、宗清の存命時から、宗清に万一の事態があった場合に近親者から後継を出せるよう、実子の無かった清時にその備えをさせる意図があったと考えられる。宗清が妻を迎えていなかったとか、清時の妻が子供を産めない身体であったとか、何かしらの事情があったのかもしれない。

「惣領宗清」(前述「関東下知状」)の名は、時宗の偏諱「宗」と通字の「清」により構成されたとみられる。そして、時宗の子・貞時の偏諱「貞」と通字の「清」により「貞清」と名乗ったのは清信の子であった。次いで貞清の嫡男・高清も貞時の子・北条高時の偏諱を賜っており、母は高時政権の最高権力者・長崎円喜の娘であったという(『中舘葛西系譜』)。従って、宗清の実質的な後継者は貞清であったとみられ、鎌倉時代後期以降は四郎清時の養子・清信の系統が葛西氏嫡流の座を担ったと考えたい。

 

(参考ページ)

● 葛西宗家の一族

● 葛西時清 - Wikipedia

● 武家家伝_葛西氏

 

脚注

*1:葛西宗家の一族 #葛西五郎左衛門尉 の項 より。

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その5-北条経時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。

*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*5:葛西宗家の一族 #葛西清時 の項 での説による。

*6:葛西史疑 - 国立国会図書館デジタルコレクション。

*7:葛西史疑 - 国立国会図書館デジタルコレクション。原本:仙台市・葛西正人氏所蔵、東北大学文学部奥羽史料調査部写蔵本と同本。

*8:葛西史疑 - 国立国会図書館デジタルコレクション。

*9:葛西史疑 - 国立国会図書館デジタルコレクション。

*10:葛西史疑 - 国立国会図書館デジタルコレクション。

*11:文明2(1470)年2月9日付「畠山政長下知状」の文中に「葛西伯耆守持信」の名前が見られ、宛所の「葛西壱岐守殿」は持信の嫡男・葛西朝信(とものぶ)に比定される。その官職から、壱岐守清重や伯耆守清親の直系子孫にあたるのではないかと思う。

*12:晴信による書状が複数点のほか、親交のあった伊達政宗が天正19(1591)年12月13日付で秋保定重に宛てた書状の中にも「月鑑妻子者、葛西晴信之姉ニ候間…」とある(『政宗君治家記録』)。

*13:ちなみに葛西満清の名前は仙台系系図に見え、これと同名を避ける意図で「満信」を名乗ったと考えるのが自然であろう。この点からも、部分的に修正を要する箇所はあるにせよ、仙台系・盛岡系はいずれかが否定されるものではなく、両方の系統が存在したと考える次第である。

*14:葛西宗家の一族 #葛西清時 の項 より。

*15:『鎌倉遺文』第22巻16692号。『史料綜覧』正応元年七月 P.14。

*16:『鎌倉遺文』第24巻18716号。