Henkipedia

偏諱に関するコラムを綴る。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。鎌倉幕府御家人などの名前に着目し、誰から1字を貰ったかについての個人的な見解も論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

北条高時滅亡後の改名現象

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▲前回記事では、江戸幕府滅亡後の改名事例を取り扱った。

本項では、鎌倉幕府滅亡後の改名現象について紹介する。  

 

[目次] 

 

はじめに ―二階堂氏の改名現象を例に―

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次の史料は、以前記事▲ において「河越高重」の初見史料として紹介した関東廂番の定書である。 

〔史料A〕建武元年正月付「関東廂番定書写」(*)

定廂結番事、次第不同、

  番 〔※原文ママ、"一"番脱字カ〕

 刑部大輔義季(1)        長井大膳権大夫廣秀 

 左京亮           仁木四郎義長

 武田孫五郎時風       河越次郎

丹後次郎時景

 

二番

 ( 略 )

丹後三郎左衛門尉盛   三河四郎左衛門尉行冬

 

三番

 ( 略 )

山城左衛門大夫     前隼人正致顕(2)

 相馬小次郎

 

四番

 ( 略 )

 小野寺遠江権守道親    因幡三郎左衛門尉

 遠江七郎左衛門尉時長

 

五番

 丹波左近将監範家(3)    尾張守長藤

 伊東重左衛門尉祐持(4)    後藤壱岐五郎左衛門尉(5)

美作次郎左衛門尉   丹後四郎政衡

 

六番

 中務大輔満儀(6)       蔵人伊豆守重能(7)

下野判官        高太郎左衛門尉師顕(8)

 加藤左衛門尉        下総四郎(※高家とも) 

〔史料A〕補注

(*)元弘4/建武元(1334)年正月付「関東廂番定書写」(『建武(年間)記』)。『南北朝遺文 関東編 第一巻』(東京堂出版)39号 または『大日本史料』6-1 P.421~423。

(1) 渋川義季。

(2) 摂津致顕。

(3) 足利氏一門で『尊卑分脈』に「左将監」と注記される石塔範家か。

(4) のち足利尊氏偏諱を受け「氏重」に改名。

(5) 壱岐守基雄の子か。実名不詳。

(6) 吉良満義か。『尊卑分脈』に「中務大輔」と注記される。

(7) 上杉重能。『尊卑分脈』に「五蔵(=五位蔵人)院昇殿 従五上 伊豆守」と注記される。

(8) 高師秋か。

 

この史料に書かれる人名に着目すると「」の字をもった人物が多く見られ、その大半が二階堂氏である。彼らの名前を系図上で追っていくと次のようになる。

 

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上に示した通り、『尊卑分脈』の系図上で彼らの名前のほとんどが確認できるが、その約半数が最終的に改名を行っていることに気付く。しかも、その全員が等しく「」の字を棄てているのである。この「」の字は最後の得宗となった北条鎌倉幕府第14代執権)からの偏諱と考えられる。

さて、高時の偏諱を棄てて改名したのは何故であろうか。その前にこのような傾向はひとり二階堂氏のみのものであるのか、他の事例を確認しておきたい。

 

 

高時滅亡後の改名現象 

管見の限り、鎌倉幕府滅亡後に北条時からの偏諱とみられる「」を改めた者は、以下の如く、十数名に及ぶと思われる。各々改名時期などを確認しておきたい。

 

〔表C〕鎌倉幕府滅亡後の改名事例・一覧表

No. 初名 改名後 由来  典拠

足利

尊氏 後醍醐天皇(尊治)より一字拝領 (1) 尊卑分脈』・『公卿補任』ほか (2)

足利

忠義のち直義 不詳 (初名は北条高時と祖先源義国の各々1字) 尊卑分脈』・『公卿補任』ほか (3)

足利

(斯波) 家兼 祖先の足利義兼(『尊卑分脈』) 尊卑分脈』・『大日本史料』 (4)

宇都宮

公綱 不詳 (朝綱の猶子・公重の1字を選択?) 尊卑分脈』・古文書 (5)
宇都宮 公貞のち綱世 「公」字使用は兄に同じか、のち宇都宮氏通字を使用 尊卑分脈』・『鎌倉年代記』裏書・古文書 (6)
宇都宮 冬綱のち守綱 宇都宮氏通字の使用、「冬」は足利直冬に関係? 尊卑分脈』・古文書 (7)
小田 治久 後醍醐天皇(尊治)より一字拝領 (8) 尊卑分脈』ほか (9)
小山 秀朝 祖先の藤原秀郷(『尊卑分脈』)(10) 『元弘日記』裏書、小山氏系図ほか (11)
葛西 良清 祖先の平良文 (※推測) (12)
又は重清 祖先の葛西清重
長井 挙冬 祖先の大江挙周(『尊卑分脈』) 鎌倉年代記』裏書・『常楽記』ほか (13)
長井

広秀

頼秀

祖先の大江広元・長井時広(『尊卑分脈』)

(※推測) (14)
二階堂 行清 二階堂氏通字「行」の使用 尊卑分脈』・前掲〔史料A〕
二階堂 行春 二階堂氏通字「行」の使用 尊卑分脈』・前掲〔史料A〕
二階堂 行直 二階堂氏通字「行」の使用 (15) 尊卑分脈』・前掲〔史料A〕・古文書 (16)
二階堂 行光 二階堂氏通字「行」の使用、六世の祖と同名(前掲〔図B〕参照) (※推測) (17)
二階堂 行広 二階堂氏通字「行」の使用 尊卑分脈』・前掲〔史料A〕ほか (18)
結城朝 朝祐 不詳 (曽祖父の弟・祐広の1字を選択?) 結城氏系図・古文書など (19)
〔表C〕補注 

(1) 『太平記』巻第13「足利殿東国下向事付時行滅亡事」に「是ノミナラズ、忝モ天子ノ御諱ノ字ヲ被下テ、高氏ト名ノラレケル高ノ字ヲ改メテ、尊ノ字ニゾ被成ケル。」とあり、これが尊氏の改名の理由として伝えられていったようである。水野智之『名前と権力の中世史 室町将軍の朝廷戦略』〈歴史文化ライブラリー388〉(吉川弘文館、2014年)P.63。

(2) 『尊卑分脉 三』P.252の尊氏の傍注に「本名高氏」とあり、『公卿補任』にも1333(元弘3/正慶2)年8月5日、従三位に昇叙し武蔵守への兼任が決まった際に、「高」の字を「尊」に改めたことが見える。以下、『尊卑分脉』『公卿補任』はともに吉川弘文館より刊行の新訂増補国史大系本に拠ったものとし、『尊卑分脉』中の漢数字は篇の番号を表すものとする。

(3) 『尊卑分脉 三』P.253の直義の傍注に「本名高国」とある。『鎌倉遺文』での初見は、(1333(元弘3/正慶2)年?)12月3日付「足利直義御教書」(第42巻・32748号、『祇園社記続録二』)、翌元弘4(1334)年2月5日付「足利直義御教書」(第42巻・32846号、『上杉文書』)。後者は『大日本古文書 上杉家文書之一』にも収められており、花押の傍に「直義」の名も見られる。『公卿補任』では直義が初め「忠義」を名乗っていたとも伝える。

(4) 詳しくは 斯波家兼 - Henkipedia を参照。尚「時」字については北条氏の通字であり、北条氏一門の他の者から与えられた可能性も否定は出来ず、直ちに高時からの偏諱とは判断しづらいが、幕府滅亡後に「時」を「兼」に改めていることから同様の事例として扱った。

(5) 各系図類を見ると、公綱の傍注に「本高綱」(『尊卑分脈』)、「元高綱」(『諸家系図纂』)、「始高綱」(『下野風土記』上)と書かれている他、『正宗寺蔵書』の系図では同じく貞綱の子で氏綱の父を「高綱(兵部大輔〔ママ〕 備前守 理蓮)と載せている(以上『大日本史料』6-20、P.883~885に拠る)。管見の限り「(宇都宮)高綱」の名が確認できる史料は見つかっていないと思われるが、次注で示す通り、弟が初め「高貞」を名乗ったことは確認できるので、兄である公綱も初め「高綱」を名乗った可能性は高いだろう。建武元(1334)年8月「(八番制)雑訴決断所結番交名」の一番に「宇津宮兵部少輔 公綱」とある(『大日本史料』6-1・P.753、『高根沢町史 通史編Ⅰ』P.403)のが確認でき、これが改名後の初見と思われるので、鎌倉幕府滅亡後まもなく改名したものと判断される。

(6) 『尊卑分脉 一』P.362の高貞の傍注に「兵庫助 弾正少弼 五郎 改公貞 又改綱世」とある。『鎌倉年代記』裏書、1327(嘉暦2)年条に「宇都宮五郎高貞」の記載が確認でき、鎌倉幕府滅亡前は「高貞」を称していた。一方で『有造館結城古文書写』には、1339(延元4/暦応2)年4月12日、南朝方の春日中将顕国に攻められ、「兵庫助綱世子息金□□」(欠字あり)が討ち取られたことを伝える書状が残っており、その直後にも「彼綱世妻舎弟御房丸」と書かれていて(『大日本史料』6-5、P.480)、最終的に「綱世」に改名したことが確認できる。

(7) 『尊卑分脉 一』P.361の高房の傍注に「改冬綱 次改守綱」と記載されている。このことが古文書で確かめられることは、山口隼正氏『南北朝期 九州守護の研究』(文献出版、1989年)に詳しく、以下これに従って述べる。鎌倉幕府滅亡時にあたる元弘3年5月の段階では「高房」を称していた(『田口文書』)が、翌建武元年10月の段階で「冬綱」の名が確認できる(『大悲王院文書』)。山口氏が述べられるように、「高」が北条高時に通じていたが故の改名であったとみられる。恐らく高房は高時の烏帽子子であったであろう。観応の擾乱を経た文和3年9月には「守綱」の名が確認できる(『宇都宮文書』)。擾乱期の冬綱はほぼ一貫して足利直冬党として活動しており、山口氏は「冬」が直冬に通じていたと述べられているが、直冬の元服前に「冬綱」を名乗っているようなので、直冬から与えられた可能性は低いということに注意しなくてはならない。

(8) 『常陸誌料』五・小田氏譜上に、「治久、初名高知、後醍醐天皇偏諱、因更治久、歴尾張権守、宮内権少輔、…(略)…自延元元(1336)年至興国二(1341)年、…(略)…賜御諱、皆在此時也、…(以下略)」とある(『大日本史料』6-17、P.294)。

(9) 建武4(1337)年11月日付「烟田時幹軍忠状案」(京都大学総合博物館所蔵『烟田文書』、翻刻は『南北朝遺文 関東編 第一巻』(東京堂出版)766号、『鉾田町史 中世資料編』「烟田史料」に収録されている)の中に、「小田宮内権少輔治久以下凶徒等成一手、」とあり、管見の限り遅くともこの段階では既に「治久」に改名していたことが分かる。『尊卑分脉 一』P.368の小田氏系図で見ると、小田高知の傍注に「宮内権少輔 尾張権守」とあり、『鎌倉年代記』嘉暦2(1327)年条に「小田尾張権守高知」とあるのが確認できるので、初め「高知」と名乗り、のち建武4/延元2年までに宮内権少輔となって「治久」に改名していたことが分かる。前注に掲げた『常陸誌料』の記述の内容とも合致する。

(10) 秀朝の嫡子・朝氏も、『常楽記』貞和2(1346)年条に「四月十三日 小山判官朝里他界」とあるのが最終的な名乗りと確認できる。「ともさと」という読みの共通から『尊卑分脈』に掲載の「朝郷」が正確な表記と思われ、やはり藤原秀郷を意識した可能性は高い。秀朝・朝氏父子については、松本一夫「南北朝初期における小山氏の動向―特に小山秀朝・朝氏を中心として―」(所収:『史学』55-2、三田史学会、1986年)に詳しい。

(11) 松本一夫『下野小山氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第六巻〉(戎光祥出版、2012年)P.335。松本氏も同書P.13にて歴代当主が得宗から一字を拝領したことに言及されている。『太平記』などで中先代の乱の折に北条氏の攻撃を受けて小山秀朝が自害したことが伝えられるが、『元弘日記』裏書では「(藤原)高朝」と書かれている(元弘日記裏書 (1巻) - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム・5ページ目)。

(12) 葛西氏の初代が清重、その祖先を平良文とするのは、複数伝わる葛西氏系図で共通する。『龍源寺葛西氏過去帳』では良清が貞治4(1365)年4月7日に亡くなったとするが、『高野山五大院葛西氏系図』では高清の命日を貞治4年4月17日と、ほぼ同じ時期の死去として伝える。同年で日付が類似するところからすると、同一人物である可能性も否めない。また、「奥州寺池葛西系図」では高清=重清とするらしく、(正確な系譜はさておき)葛西高清が北条高時からの偏諱「高」を棄てて祖先の1字に改めた可能性は高いだろう。

(13) 小泉宜右御家人長井氏について」(所収:高橋隆三先生喜寿記念論集『古記録の研究』、続群書類従完成会、1970年)P.719、紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』2号、中央史学会、1979年)P.16、細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「基礎表」No.137「長井挙冬」の項でご指摘のように、『常楽記』貞和3(1347)年条に「三月廿四日 長井右馬助擧冬他界三十四」とあるのに対し、『鎌倉年代記』裏書・元徳3 (1331=元弘元)年条に「長井右馬助高冬」、同じ内容を載せる『花園天皇宸記』同年11月26日条にも「高冬」の名が見えることから、挙冬が当初北条高時偏諱を受けて「高冬」と名乗っていたことは明らかである。『東大寺文書』所収の正慶年間(1332~33年)の文書2通にも「備前二郎高冬」「右馬助高冬」の記載が確認でき(前掲小泉論文P.719)、幕府滅亡後の改名は間違いないだろう。『尊卑分脉 四』P.94を見ると大江匡衡の子・挙周に「タカチカ」とルビが振ってあり、「高」と同じ読みの「挙」を選択したようである。

(14) 長井高秀については、金沢貞顕の書状により実在が確認できる(前掲小泉論文P.720、および前掲細川「基礎表」No.138「長井高秀」の項を参照)が、系図上では確認できない。細川氏は高秀を長井関東評定衆家の人物と推測されているが、この家系は代々得宗偏諱を受けており、『尊卑分脉』以下の系図類では、貞秀の子に貞懐・広秀・挙冬…と載せるが、貞懐は父同様に北条貞時偏諱を受けた可能性があり、前注で述べたように挙冬も当初は北条高時偏諱により高冬を称していたということを考えると、広秀も北条氏を烏帽子親とした可能性も否めない(例えば時秀の子は兄の宗秀が時宗、弟の貞広が貞時の1字を受けている)。「広秀」の名が鎌倉時代に全く確認できないことから、貞顕書状の「高秀」が広秀の初名であった可能性を考えたい。管見の限り「広秀」の初見は建武元(1334)年と思われる(『鎌倉大日記』同年条、『鎌倉遺文』42巻・32865号、前掲〔史料A〕)。

或いは、延元元(1336=建武3)年4月に作成された武者所の結番交名(『建武記』)には「長井大膳権大夫広秀」とは別に「長井前治部少輔頼秀」の記載があり(『大日本史料』6-3、P.332)、通称名と年代の近さからこちらの可能性もあり得るが、いずれにせよ高秀は幕府滅亡後「高」字を棄てて改名したのではないかと思われる。

(15) 勝手な推測になるが「直」の字は、足利直義あるいは高師直に関係があるのかもしれない。『鎌倉大日記』康安元(1361)年条に掲載のある山城宮内氏貞は山城守行直の子(細川重男「政所執事二階堂氏の家系」(所収:鎌倉遺文研究会編『鎌倉時代の社会と文化』〈鎌倉遺文研究2〉、東京堂出版、1999年)内 二階堂氏系図)で、恐らく足利氏(足利尊氏)からの受諱であろう。

(16) 『鎌倉大日記』暦応2(1339)年条、『武家年代記』興国元/暦応3(1340)年条。実際の古文書でも暦応4(1341)年以降に「行直」または「山城守」名義で書状を発給していることが確認できる(東京大学史料編纂所編『花押かがみ六・南北朝時代二』(吉川弘文館、2004年)P.8、No.3434「二階堂行直」の項)。

(17) 筆者は、『尊卑分脉 二』P.506に、貞衡の子(行直の弟)として載せる高行と、高貞の子として載せる行元を同一人物と推定する。行元の傍注には「実貞衡子」とあり、高行と同じく通称を「三郎」とする。また、高行の傍注「康永天竜供養随兵」は前本と閣本では行元の項に、行元の通称「山城三郎左衛門」の「山城」は脇本では高行の項にある(すなわち高行の通称を山城三郎とする)らしく、互いに混同してしまっていることがかえってその裏付けになるのではなかろうか。兄・高衡(行直)が改名するなら、弟である高行も改名する可能性は十分に高く、高行は叔父・高貞(改め行広)の養子となり、行元に改名したと推測する。但し、改名後の諱については実は「行元」ではなく「行光」が正しい。このことは『鎌倉大日記』観応2(1351)年条のほか、「康永天竜供養随兵」のことを伝える次の史料に拠っても裏付けられる。『南北朝遺文 関東編第三巻』(東京堂出版)1581号に「山城三郎左衛門尉行光」、1382・1585号に「山城三郎左衛門尉」、1583・1584・1586号に「二階堂山城三郎左衛門尉」とあるほか、『太平記』巻24「天龍寺供養ノ事付大佛供養ノ事」の文中にも「二階堂美濃守行通・同山城三郎左衛門尉行光」とある。

(18) 『尊卑分脉 二』P.506によれば、前本・閣本・脇本では「改行廣」の注記が高貞の弟・顕行の項にあるらしいが、顕行の子が「顕」字を受け継いで「顕親」を称していることからも、顕行が「顕」字を改めなければならない程の理由があったとは考えられず、「行廣(行広)」は高貞改名後の諱で良いと思われる。『朽木文書』建武元(1334)年9月27日付の書状中に「二階堂信濃三郎左衛門行廣」の名が確認でき(『大日本史料』6-1、P.914)、信濃守行貞の子で「三郎左衛門」を称した高貞(『尊卑分脈』同前箇所)が〔史料A〕からの9ヶ月の間に改名したことは確実である。

一方で顕行は、陸奥守 兼 鎮守府大将軍・北畠顕家のもとで建武元年に定められた奥州 式評定衆の一人に「山城左衛門大夫顕行」として実在が確認でき(『建武記』・『武家名目抄』:『大日本史料』6-1、P.413・415)、『尊卑分脈』同前箇所では通称「四郎左衛門尉」とする。式評定衆は顕家とともに陸奥国へ下向したメンバーで構成されており、二階堂顕行も行貞(1329年没)の晩年期に生まれた息子で、「顕」は元服時に顕家から偏諱を受けたものではないかと思われる。

(19) 『結城小峯文書』所収「結城系図」と『真壁長岡文書』により、朝祐が幕府滅亡前の元徳年間(1329-1332年)の段階で「朝高」を名乗っていたことが判明している(結城朝祐 - Wikipedia参照)。尚、改名後の「朝祐」は『尊卑分脈』に見えるだけでなく、多々良浜合戦で討死した翌年の延元2(1337)年3月16日付で後醍醐天皇から白河結城宗広への綸旨(『伊勢結城文書』)に「下総国結城郡朝祐跡」、同年8月22日付陸奥国宣案(同前)に「結城郡内上方者、為朝祐跡、先立拝領之、」とあるのが確認できる(荒川善夫「鎌倉期下総結城一族の所領考」、荒川氏編著『下総結城氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻〉(戎光祥出版、2012年)P.13・53・62)。(14)に同じく、『尊卑分脉』編纂時に朝祐が「朝高」を名乗っていた事実を残そうとしなかったのかもしれない。 

 

 

まとめると、改名時期は人によって多少のずれはあるものの、ほとんどの者が鎌倉幕府の滅亡を境に名前を変えていることが分かった。いずれも「」字を改めており、北条時から拝領していたことは間違いないだろう。

 

河越重、斯波(前掲〔表C〕③の兄)などのように、幕府滅亡後も「」の字を改めない者がいたことを考えると、建武政権としては特にこれを重視したわけでは無かったようである。『元弘日記』裏書で小山秀朝が「高朝」と書かれている(前掲〔表C〕注(11)ことは、改名したことが一部に知られていなかった証左であろうし、〔史料A〕での二階堂氏を見れば、改名が特に急務であったとは思えない。あくまで改名は各々個人の判断・意志で行われたと考えるべきである。次項ではその理由について考察してみたい。

 

 

改名の理由についての考察

 

〔表D〕「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』41巻32135号)

楠木城 
一手東 自宇治至于大和道
  陸奥守            河越参河入道(貞重)
  小山判官(⑧)     佐々木近江入道
  佐々木備中前司      千葉太郎(胤貞)
  武田三郎         小笠原彦五郎
  諏訪祝            高坂出羽権守
  島津上総入道         長崎四郎左衛門尉
  大和弥六左衛門尉       安保左衛門入道
  加地左衛門入道        吉野執行
   
   一手北 自八幡于佐良□路
  武蔵右馬助          駿河八郎
  千葉介(貞胤)        長沼駿河権守
  小田人々(⑦?)      佐々木源太左衛門尉
  伊東大和入道         宇佐美摂津前司
  薩摩常陸前司         □野二郎左衛門尉
  湯浅人々           和泉国軍勢
   
一手南西 自山崎至天王寺大
  江馬越前入道   遠江前司
  武田伊豆守   三浦若狭判官
  渋谷遠江権守   狩野彦七左衛門尉
  狩野介入道   信濃国軍勢
   
一手 伊賀路
  足利治部大夫(①)   結城七郎左衛門尉(⑰)
  加藤丹後入道   加藤左衛門尉
  勝間田彦太郎入道   美濃軍勢
  尾張軍勢  
   
同十五日
  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参
同十六日
  中村弥二郎 自関東帰参

 

〔表E〕「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』41巻32136号)

大将軍
  陸奥遠江国   武蔵右馬助伊勢国
  遠江尾張国   武蔵左近大夫将監美濃国
  駿河左近大夫将監讃岐国   足利宮内大輔三河国
  足利上総三郎   千葉介(貞胤)一族并伊賀国 
  長沼越前権守淡路国   宇都宮三河権守伊予国
  佐々木源太左衛門尉備前国   小笠原五郎阿波国
  越衆御手信濃国   小山大夫判官(⑧)一族
  小田尾張権守(⑦)一族   結城七郎左衛門尉(⑰)一族
  武田三郎一族并甲斐国   小笠原信濃入道一族
  伊東大和入道一族   宇佐美摂津前司一族
  薩摩常陸前司一族   安保左衛門入道一族
  渋谷遠江権守一族   河越参河入道一族
  三浦若狭判官   高坂出羽権守
  佐々木隠岐前司一族   同備中前司
  千葉太郎(胤貞)  
     
勢多橋警護
  佐々木近江前司   同佐渡大夫判官入道

 

(*以上2つの表は http://chibasi.net/kawagoe.htm#sadasige より拝借。丸数字は〔表C〕と対応する。)  

 

〔表F〕元弘の乱笠置山の戦い、1331年)における幕府軍のメンバー太平記』巻三「笠置軍事付陶山小見山夜討事」により作成

大将軍 大仏陸奥守貞直 大仏遠江 普恩寺相摸守基時 塩田越前守 桜田参河守
赤橋尾張 江馬越前守 糸田左馬頭 印具兵庫助 佐介上総介
名越右馬助 金沢右馬助 遠江左近大夫将監治時 足利治部大輔高氏(①)  
侍大将 長崎四郎左衛門尉        
三浦介入道 武田甲斐次郎左衛門尉 椎名孫八入道 結城上野入道 小山出羽入道
氏家美作守 佐竹上総入道 長沼四郎左衛門入道 土屋安芸権守 那須加賀権守
梶原上野太郎左衛門尉 岩城次郎入道 佐野安房弥太郎 木村次郎左衛門尉 相馬右衛門次郎
南部三郎次郎 毛利丹後前司 那波左近太夫将監 一宮善民部太夫 土肥佐渡前司
宇都宮安芸前司 宇都宮肥後権守 葛西三郎兵衛尉(⑨?) 寒河弥四郎 上野七郎三郎
大内山城前司 長井治部少輔(⑪) 長井備前太郎(注1) 長井因幡民部大輔入道 筑後前司
下総入道 山城左衛門大夫(⑯?) 宇都宮美濃入道 岩崎弾正左衛門尉 高久孫三郎
高久彦三郎 伊達入道 田村刑部大輔入道 入江蒲原一族 横山猪俣両党

(*表は http://chibasi.net/rekidai43.htm より拝借。丸数字は〔表C〕と対応する。) 

 

改名の理由については、⑩長井高冬がかつて後醍醐天皇配流問題に直接関与した(注2)ことを憚って「挙冬」と改名したとする小泉宜右氏の見解(注3)が参考になると思われる。鎌倉時代の二階堂氏は北条氏を支えることによって政所の実質的責任者という立場を確保することができていたといわれ(注4)、上に掲げた D・E・F の3つの表を見ると、足利・宇都宮・小田・小山・葛西・長井・二階堂・結城の全氏族(注5)が元弘元(1331)年の笠置山攻めに際して幕府軍の主戦力として参加していたことが窺える。仕える幕府への忠誠を示していたとは言え、後醍醐天皇に一度刃向かったわけである。

従って、長井高冬のみならず、他の人物も朝敵・北条高時(注6)偏諱を棄てることで後醍醐天皇への恭順の意志を示したものと推測される。特に高冬(挙冬)と、①足利尊氏は「高」と同じ読みを持つ字に改めただけであり、目的としてはただ高時からの1字を棄てるだけで良かったのである(注7)。 

 

補注

(注1)掲〔表C〕補注(13)  に示した通り、長井高冬が右馬助となる前の通称は「備前二郎」であった。父が備前守で、その二郎(次男)を表す通称名である。すると、この「備前太郎」は高冬の実兄であった可能性があるが、実名は確かめられない。尚、徳治3(1308)年の死去とされる貞秀の官途は六位蔵人→中務大輔→兵庫頭(同注(13)前掲 細川氏著書巻末「基礎表」No.136「長井貞秀」の項)であり、元々正和3(1314)年生まれの高冬(同注(13)前掲『常楽記』より)との系図上での父子関係にも疑問がある。これについては別稿で論じたい。或いは『太平記』が軍記物語であることを考慮すれば、"備前二郎"高冬本人を指す可能性もあり得る。

(注2)同前注(13)で紹介した『鎌倉年代記』裏書・『花園天皇宸記』の記事では「長井右馬助高冬」が太田(三善)時連とともに鎌倉幕府使節(東使)として上洛し、花園天皇に対して後醍醐天皇および挙兵に与した公卿・僧徒の処分を申請した(永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)P.138)ことを伝える。

(注3)同前注(13)前掲小泉論文、P.719。

(注4)山本みなみ「鎌倉幕府における政所執事」(所収:『紫苑』第10号、京都女子大学宗教・文化研究所ゼミナール、2012年)P.20。

(注5)嫡流に限らず、一門からの参加も含む場合。

(注6)太平記』巻11「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事」によれば、新田義貞方の武将・舟田入道に捕らえられた「相摸入道(高時)の嫡子相摸太郎邦時」は「未だ幼稚の身」ではあったものの、「朝敵の長男」たる故に首を刎ねられたという。以後、邦時の弟・時行が後醍醐天皇接触し恩赦を受ける(『太平記』巻19「相摸次郎時行勅免事」)までは「朝敵」扱いであった。

(注7)足利尊氏 と ⑦小田治久 は後醍醐天皇(尊治)からの名誉的な一字拝領という形での改名であり、他の者と若干意味合いが異なって "勲章" とも解釈し得るが、前述に掲げた経緯から、元々彼らには高時の偏諱を避けたい意志があったのだろう。恐らく自発的に天皇に願い出たものと思われる。特に尊氏は幕府滅亡からわずか3ヶ月ほどでの改名であり、「高」が天皇偏諱「尊」と同音である偶然も相まって、急ぎ申請したものと推測される(〔表C〕補注(1)前掲水野氏著書、P.65)。

 

 

 

明治維新期の改名現象

今年2018年で、明治新政府が出来てから150年が経ちました。

 

江戸時代には、主に外様大名が徳川将軍に拝謁し、その偏諱を賜るということが慣例的に行われていましたが、江戸幕府滅亡後、それを改める者もいました。

まとめると以下の通りで、いずれも明治維新期に入ってからの改名でした。

 

改名前 改名後
安芸広島 浅野 長訓
浅野 長勲
筑後久留米 有馬 頼咸
筑前福岡 黒田 長溥
黒田 長知
薩摩 島津 忠義
肥前佐賀 鍋島 直正
鍋島 直大
肥後熊本 細川 韶邦
細川 護久
※長州 毛利 敬親
毛利 広封→元徳

長州藩主は、禁門の変1864年)により徳川将軍からの偏諱を剥奪されたが故の改名である。

〈徳川将軍〉 ⑪家 ⑫家 ⑬家 ⑭家 ⑮慶

 

 

斯波家兼

斯波 家兼(しば いえかね、1308年~1356年6月13日)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。

 

活動の詳細については

斯波家兼 - Wikipedia

を参照。本項では名乗りに関する考察を述べたいと思う。

 

 

改名の時期と理由

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斯波高経 の弟。初名は時家(ときいえ)。足利時家、足利家兼とも。

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延文元(1356=正平11)年6月13日に49歳(数え年)で亡くなったと伝わり、逆算すると徳治3(1308)年生まれとなる。

*以上『尊卑分脈』〈国史大系本〉より。

 

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建武3(1336)年8月17日の段階では、官職は式部丞*1で「時家」を名乗っていたことが確認される(【史料B】)が、翌建武4(1337)年には伊予守、更に建武5(1338)年5月11日までに「家兼」に改名していたことが分かる(【史料C】)。

 

清和源氏・足利氏略系図(『尊卑分脈』〈国史大系本〉より作成) 

源経基―満仲―頼信―頼義―義家―義国―足利義康―義兼―

―義氏―泰氏―家氏―宗家―家貞―時家(家兼)

斯波氏は、足利泰氏の長男・家氏を祖とする家柄で、恐らく源義家に由来すると思われる「」を通字としていた。 改名後の「」の字は足利義兼から取ったものであろう。兄・高経の名乗りも源経基にあやかったものとみられ、この時期は祖先に名前の字を求めることは珍しくなかった。

さて、冒頭に掲げた過去記事において、家氏の系統(家―家経)が代々、北条氏得宗家(時時―時)の偏諱を受けていたことを指摘した。

高経の弟・家の名乗りも、通字の「家」に対して「」が烏帽子親からの偏諱と推測され、これを通字とする北条氏から賜ったものではないかと推測される。恐らく元服当時の執権であった高からの一字であろう。鎌倉幕府滅亡から数年経ってからの改名ではあるが「時」字を棄てた背景には、北条氏との関係を断ち切る意図があったものと思われる*2

 

 

備考 

斯波家兼の子としては、以下の数名が伝わっている。

●直持 ― 足利直義より一字拝領か*3。大崎氏祖。

●兼頼 ―「頼」は源頼信・頼義に由来か。最上氏祖。

●頼持 ― 孫三郎(『尊卑分脈』)

●義宗 ― 従五位下。左近将監。又三郎。(『尊卑分脈』。天童氏の系図によれば、同じく『尊卑分脈』の里見氏系図に、里見義直の玄孫・義景の息子として載せる義宗と同一人物で、斯波氏から里見氏分家へ養子入りしたようである。)

・持義

・将頼 ― 従兄・斯波義将より一字拝領か。

 

 

脚注 

*1:式部省の第三等官である丞(じょう、本来六位相当)で、五位に叙された者は「式部大夫」と呼ばれた。

*2:あるいは、母方の祖父・長井時秀から与えられた(もしくは取った)とも考えられなくはないが、時秀自身が北条氏(恐らく時頼)から受けており、幕府滅亡後の改名であることからも北条氏を意識した可能性は否定できない。

*3:『日本人名大辞典』では「直持」を「ただもち」と読んでおり(→ 斯波直持(しば ただもち)とは - コトバンク)、元服適齢期の1337年頃に鎌倉府執権の座にあった、直義との関係が窺える。

斯波高経

斯波 高経(しば たかつね)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将にかけての武将、守護大名足利高経とも。

 

続群書類従』所収「山野辺(山野邊)系図*1の高経の注記に「貞治六年七月十三日卒。年六十三。」とあり、1367年に63歳(数え年)で亡くなったことが記されているが、このことは、次の画像で示す、中原師守の日記『師守記』*2の記載によって裏付けられる。

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従って、逆算すると嘉元3(1305)年生まれとなる*3

 

尊卑分脈』等の系図類によると、足利泰氏の長男・家氏の系統は、*4―家*5経と続き、各々得宗(北条時時―時)から偏諱を受けた形跡がある。経も前述の生年に基づけば、1314~1319年あたりの元服と推測でき*6、当時の執権・北条時から「」の偏諱を許されたことは間違いないだろう。「」の字は、先祖の基王源経基の一字を使用したものと思われる*7。 

元亨3(1323)年10月、北条貞時十三回忌法要に「足利殿」(=足利貞氏入道義観)、「足利上総前司」(=吉良貞義とともに参加し、砂金五十両を進上する人物として「足利孫三郎」の名が確認できる*8当時の足利氏一門で「孫三郎」を名乗り得る人物は斯波高経(『尊卑分脈』)であり、まだ官途を与えられていないことが、元服からさほど経っていないことを裏付けよう。これが史料における初見であり、前述の生年に従えば当時19歳の若さであるが、父・家貞(宗氏)の早世(『尊卑分脈』)によって既に家督を継承していたようだ*9

 

以後の活動・生涯等については

斯波高経 - Wikipedia

を参照のこと。

 

 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

▲ 弟の家兼は初め「時家」と名乗っていたが建武5(1338)年には改名している。「時」の字を棄てており、北条氏の関連が推測される。それに対し、高経は上の『師守記』に掲げた通り、死ぬまで改名はしなかった。「高」字については改めた者もいれば(宇都宮高綱 [公綱]・小山高朝 [秀朝]・長井高冬 [挙冬] など)、改めない者もいた(河越高重・長井高広など)ので、特にわざわざ改名する必要性が無かったのかもしれないが、兄弟で対応が分かれていることは大変興味深い。

 

脚注

*1:山野辺氏は足利氏支流・斯波氏より分かれ出た最上義光の子・義忠を祖とする。

*2:画像右側の写真については、①は[師守記] 64巻. 巻60 紙背 - 国立国会図書館デジタルコレクション、②は[師守記] 64巻. 巻60 貞治六年七月 - 国立国会図書館デジタルコレクションより、各々該当部分を抜粋した。

*3:『師守記』による考察については、小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館、1982年)P.374 を参照。

*4:吉井功兒「鎌倉後期の足利氏家督」(所収:田中大喜 編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉、戎光祥出版、2013年)P.167。

*5:尊卑分脈』には「本名宗氏」とあり、初め宗氏を名乗っていたと伝える。

*6:紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について―鎌倉幕府御家人の場合―」(所収:『中央史学』第2号、中央史学会、1979年)の手法に従って、元服の年齢を10~15歳とした場合。ちなみに、同年生まれの足利高氏(尊氏)は1319年15歳での元服である。

*7:前田家所蔵訂正本を底本とする『尊卑分脈』〈国史大系本〉には家貞の母を「式部大夫平時継女」と載せ、その他の異本では時継を時経とする故に「経」字の由来を曽祖父・北条時経に求める説もある(http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/siba1.htm)が、時経を名乗ったこと自体も含め信憑性は認め難いので、新たな一説として掲げておきたい。平貞盛平高望にあやかったとされる北条貞時―高時や、本文に掲げた小山秀朝、長井挙冬をはじめ、先祖の1字を取る命名法はこの頃よく見られた現象である。

*8:円覚寺文書』「北条貞時十三年忌供養記」。

*9:斯波高経の史料上における初見については、注3同箇所による。

真壁高幹

真壁 高幹(まかべ たかもと、1299-1354)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。

 

真壁氏は桓武平氏の一門・大掾多気氏)より分かれた一族で「」を通字としていた。 

父は真壁幹重とされる。川島孝一氏の説によると、1299年9月生まれ*1元服の時期を推定すると、1308~1313年。

1309年には得宗家当主・北条貞時の嫡男が元服して「高時」を称し*2、1311年には貞時が亡くなって*3代替わりしている。高時治世期において「高」字の名乗りを許されていることから、高時から偏諱を賜ったものとみて良いと判断される*4

 

但し、鎌倉幕府滅亡に際して北条氏と運命を共にせず、その後は足利尊氏に従っている。

 

▼その他、生存中の活動についてはWikipedia同名記事を参照のこと。

真壁高幹 - Wikipedia

 

 

脚注

*1:安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、P.569。

*2:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」P.18-19、No.9「北条高時」の項より。

*3:前掲細川氏著書、巻末「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」P.17-18、No.8「北条貞時」の項より。

*4:清水亮「鎌倉期における常陸真壁氏の動向」(清水亮 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第一九巻 常陸真壁氏』(戒光祥出版、2016年)。

小山時長

小山 時長(おやま ときなが、1246年~1276年5月)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人

 

通称は左衛門五郎。下野大掾。父は小山長村、母は刑部少甫忠成(=大江広元の子・海東忠成)の娘。(以上『尊卑分脈』より)

 

『鎌倉大日記』建治二年の項に「五月小山判官時長卒、三十一歳」*1とあり、文永6(1269)年に父・長村が53歳で逝去(同じく『鎌倉大日記』より)してから十年も経たないうちの早世であった。

 

逆算すると1246年生まれとなり、「」の字は元服の頃の執権であった北条頼からの偏諱と考えられる*2元服と近い時期と思われる正嘉2(1258)年には、姉または妹(長村の娘)が時頼の子・時輔(当時は時利)に嫁いでおり*3、烏帽子親子関係を結ぶことになった経緯と関係があるのかもしれない。時長の系統はその後も、長―朝―朝と、得宗からの偏諱を受けるようになった*4

 

脚注

*1:続群書類従』所収「小山系図」でも時長の注記に「建治二年五月卒。三十一歳。」とある。

*2:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年)P.15。市村高男「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察 -系図研究の視点と方法の探求-」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.96~97。松本一夫 「総論 − 小山氏研究の成果と課題」(所収:松本一夫 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第六巻 下野小山氏』(戎光祥出版、2012年))P.13。

*3:高橋慎一朗『北条時頼』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2013年)P.159。典拠は『吾妻鏡』正嘉2年4月25日条。

*4:注1同箇所。

鎌倉時代の一字付与

 

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▲前回記事 に紹介した論文のうち、

今野 慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』P.37~55、2017年)

の文末には、鎌倉時代元服について史料・系図などで判明しているものを一覧にした表が掲載されています。

 

その中から、同時に一字付与(偏諱のやり取り)が行われたものを以下に挙げておきましょう。

 

烏帽子親    烏帽子子

遠藤光  → 遠藤盛(のちの文覚)

安達長  → 佐々木綱(幼名秀綱)

盛   → 平景(家人, 父:景康[景泰] )

衡   → 平国(家人, 姓:伊藤→平, 明恵の父)

衡   → 大中臣惟

源為   → 武田信

加賀美遠 → 武田信

源頼   → 紀望

源頼   → 小山宗(のち結城光)

朝   → 那須

   → 鷲尾春(別名:久)

経   → 伊勢

源義   → 河野通

三浦義  → 北条時(のち時房)

小笠原長 → 河村秀

北条政  → 曾我

北条時  → 武田信

朝   → 北条時(のち泰時)

源実   → 名越

三浦義  → 北条政

 

   → 松葉宗(のち宗)

朝   → 金沢義 ※

(北条時   → 金沢実 ※のち改名)

 

北条時  → 三浦

北条時  → 松葉(平賀)惟

北条泰  → 武田信

北条泰  → 金沢実

藤原頼  → 北条

藤原経  → 北条時

 

北条時    → 大友直 ※(?)

(北条時 → 大友泰 ※のち改名)

北条時  → 佐々木

北条頼  → 武田

足利氏 ※ → 北条時(のち時輔)

(北条時   → 足利氏 ※のち改名)

北条頼  → 松葉(平賀)惟

 

親王  → 北条時

北条宗  → 金沢方(のち顕時)

小笠原忠 → 小笠原氏(長忠の孫)

北条時  → 武田信

北条宗  → 戸次

北条時  → 小笠原

 

北条時  → 戸次

北条時  → 足利

(北条時 → 小笠原宗 ?)

 

北条時  → 戸次

(北条高 → 佐々木信 ?)

北条時  → 足利

足利貞  → 武田

親王  → 北条

 

(備考) 

 太字は将軍から御家人への一字(偏諱)付与。

"偏諱" のうち、今野氏が直接言及していないものについては黄字とした。

 緑字は同じ一字は共有しているものの、同族間での通字のやり取りのため、偏諱と解釈して良いのかどうかには疑問があり、赤字偏諱とは別の扱いとする。

但し、北条氏金沢流に関しては、初代・実(初め実義)が兄・時の一字を受けて改名しており*1、2代・実は「実」が父・実泰からの継承、「」が烏帽子親からの一字=偏諱と解釈できるので、本来は北条氏の通字ではあるが、加冠役・泰からの偏諱であると解釈しておきたい。すると、3代・方(顕時)の場合は宗を烏帽子親としたので同じ「●」型での名乗りであり、4代・顕は北条時からの偏諱と父・顕時の一字によって名前を構成している*2。よって、先行研究で示されている通り、北条氏金沢流は本家筋の得宗家から代々偏諱を受けた家系であったと解釈し、赤字偏諱と同等の扱いとした。

 

以上.

 

出典

*1:山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年))P.182 脚注(27)。

*2:永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)P.3。