Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱(へんき)"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

【論稿】代数論:世代推定の試み① ー桓武平氏嫡流から北条・長崎氏までー

 

はじめに

元弘3(1333)年5月、鎌倉幕府滅亡直前のこと。「始武蔵野の合戦より、今日に至るまで、夜昼八十余箇度の戦」(『太平記』巻10「長崎高重最期合戦事」)を戦い抜いた長崎次郎高重は、敵方である新田義貞の軍勢に紛れて大将・義貞の首を取ろうとするが、やがて義貞の側近である由良新左衛門(具滋)に見破られ、次のように名乗りを挙げている。

桓武第五の皇子葛原親王に三代の孫、平将軍貞盛より十三代、前相摸守高時の管領に、長崎入道円喜が嫡孫、次郎高重、武恩を報ぜんため討死するぞ、高名せんと思はん者は、よれや組ん。」

(『太平記』巻10「長崎高重最期合戦事」より)

この中で「貞盛より十三代」の部分について、先行研究では(修飾語として)【A】北条高時*1にかかるのか、【B】長崎円喜にかかるのかで意見が分かれている。

というのも、前者【A】であれば主君である高時の系譜を語っていることになり、後者【B】であれば高重自身に至るまでの系譜を語っていることになり、長崎氏の平資盛後胤説(『系図纂要』)の裏付けに重要な典拠となり得るからである。

【A】説支持:細川重男(2000年*2)、梶川貴子(2018年*3

【B】説支持:森幸夫(2008年*4

 

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こちら▲の記事でも言及の通り、結論から言えば、「貞盛より十三代」目の人物=「長崎入道円喜」とする【B】が正確である。『尊卑分脈』や『系図纂要』により系図を作成すると次の通りである。 

【図A】

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※長崎氏については途中「⑩盛綱―⑪盛時―⑫光綱……」が正確とされる(詳細は後述参照)が代数に変化は生じない。

 

平貞盛から数えて長崎円喜は13代目であるが、北条高時は16代目となっている。親子には20~30ほどといった、それ相応の年齢差がある筈であり、例えば従兄弟やはとこの関係にある者同士が多くそうであるように、同じ代数の者同士はほぼ同世代とみなすのが普通だと思う。勿論、必ずしもそうとは言い切れないが、どんなに年齢がずれたとしても1世代分が限界ではないか。

すなわち筆者が最初に述べておきたいのは、貞盛から高時までが13代では足りないだろうということである。よって次節以降では、生没年が不明となっている初期の桓武平氏嫡流当主を中心に世代の推定を試みたいと思う

 

 

高望とその息子たち

まず、平高望(初め高望王については、桓武天皇の皇子・葛原親王(786-853)の子とも孫ともされ、その生年も諸説伝わる。『分脈』等では間に高見王を挟むが、系図類によるとその生年は810~820年代であったという。仮に高望が高見の子であれば、830~840年代以降の生まれと考えるのが筋であり、『千馬家系図』に基づく嘉承3(850)年が妥当となる。異説はこれより遡るため、平姓を賜って臣籍降下したのが寛平元(889)年であることからしても、高望の生年が850年より何十年も下ることは無いだろう

高望には多くの男子があり、皆その生年は不明であるが、僅かに『千葉大系図』には平良文が仁和2(886)年生まれとの記載があり、高望の生年が850年頃であれば、親子の年齢差として妥当なものと言えよう。

また、良文の次兄・平良将についても、外祖父とされる藤原良方の生年が805~812年と推定し得る*5から、早くとも844~866年の生まれであろう。諸説あるが、良将の子・平将門の生年は884~903年の間に収まっており、親子の年齢差の点で差し支えない。

従って高望は850年頃の生まれ、その息子たちは870~890年代の生まれとみなして良いかと思う*6

 

 

貞盛から忠盛に至るまで

今度は、生年が判明している平清盛(1118-)の父・忠盛(1096-)から遡って推定を試みたい。各親子間での年齢差を忠盛―清盛間での22として遡ると、正盛(1074-)、正衡(1052-)、正度(1030-)、維衡(1008-)となるが、平維衡に関しては998年の段階で下野守在任が確認できるといい、その生年はもっと遡っても良い。

ここで『分脈』を見ると、正衡の兄・平季衡(すえひら)が永保元(1081)年に60歳(数え年、以下同様)で亡くなった旨の記載があり*7、逆算すると1022年生まれとなるから、恐らく正度とその末子・正衡の間でかなりの年齢差があったのではないか。同じく『分脈』に従えば季衡の兄に維盛貞季がいたといい、貞季も長和4(1015)年生まれとされる*8から、父である正度の生年は1000年より前になるだろう。更に、正度の弟・平正済は長和元(1012)年、正六位で玄蕃権助に任じられたというから、遅くとも990年頃には生まれていたと考えるのが妥当だと思う。よって正度・正済兄弟の生年は980年代~990年頃に推定し得る

仮に980年代に彼らの父・維衡が20代以上であったとすれば、その約10年後、30代以上で下野守在任であったことになり、維衡の生年は960年以前に推定される。維衡は『小右記』長元4(1031)年9月20日条、維衡の子・平正輔安房守、正度・正済の兄弟にあたる)との争いについての罪名勘申の記録を最後に途絶えるまで存命であったと推測され*9、『分脈』に記載の享年85才*10により逆算すると947年生まれとなるから、多少誤差があったとしてもこの頃の生まれだったのではないか。

すると維衡の父・平貞盛の生年は920年代半ばより前となる。『分脈』では維叙維将維敏が維衡の兄として書かれているから(他系図によって異説あり)、更に遡って良いだろう。貞盛も従兄弟にあたる将門とほぼ同世代、或いはそれより年長であったと考えられる

以上の考察により、伊勢平氏歴代当主の生年 および 親子間の年齢差を次のように推定する。

高望(850-)―(20)―国香(良望)(870-)―(30)―貞盛(900-)―(47)―維衡(947-)―(43)―正度(990-)―(40)―正衡(1030-)*11―(30)―正盛(1060-)*12―(36)―忠盛(1096-)―(22)―清盛(1118-)

但し、本項では『尊卑分脈平氏系図を中心に取り上げたため、『桓武平氏諸流系図』など他の系図に掲載の人名や、僅かに残る史料から官途やその任官年齢について更なる考察を加えることで修正し得ると思う。これについては改めて再考証の機会を考えたい。

 

 

貞盛から北条高時に至るまで

北条氏について、時政から高時までの親子の年齢差を調べると、時政―(25)―義時―(20)―泰時―(20)―時氏―(24)―時頼―(24)―時宗―(21)―貞時―(32)―高時となる。

高時の場合は、覚久(長崎光綱の養子として僧籍へ)*13菊寿丸(早世)に次ぐ貞時の3男だったようなので年齢差が開いているが、それまでは等しく20数歳で次代をもうけていることが窺えよう。時政~貞時までの平均値は22.3…才で、8代で166年かけていることも分かる。

前述の伊勢平氏に比べると、時代が下るにつれて年齢差が若干縮まってはいるが、それでも親子間の年齢差は概ね20~30代に収まっている。貞盛を900年頃の生まれとすれば、1138年生まれの時政*14に至るまで約240年経ていることになるが、年齢差を20とすれば12代、30とすれば8代、40としても6代は必要であり、貞盛から高時までが13代(5代+8代)ではどう考えても代数が足りないと判断できよう

*もう一人、平直方(官途は上野介)に着目すると、『分脈』では貞盛の曽孫とされるから、各親子間の年齢差を20とした場合で早くとも960年頃の生まれと推測できる。同じく『分脈』を見ると、直方の娘に「源頼義朝臣室」がおり*15、この女性は頼義の子、源義家・義綱・義光3兄弟の母親であったという*16。同系図などで義家が1039年、義光が1045年生まれ(義綱も間の1042年頃の生まれ)と判明しているから、外祖父の直方は遅くとも999年頃には生まれていた筈である。よって直方の生年は960~990年代の間に推定され、ここまで4代を経ている。もし高時が平貞盛から13代目なのであれば、直方の生年から時政の生まれた1138年までの約250~280年を1代で埋めなければならないが、絶対に不可能である。

ちなみに、源頼朝北条政子が結婚したことは周知の通りと思うが、共に直方の子孫という運命的な出会いを果たしていた。下図に示す通り、『分脈』に従えばともに父同士(義朝と時政)が直方6世の孫、頼朝と政子は7世孫と代数が一致する。北条氏の側が若干10年ほど年少なのは、恐らく頼義正室が聖範の姉だったからとかの理由によるものであろう。『分脈』自体も時家に「聖範子云々」と記す*17など、時政以前の系譜については判然としないが、代数そのものは『分脈』通りで良いのではないかと思う。聖範から時方までの各々の生年は、例えば平時直と源義家のように、代数が同じで対応する源氏とほぼ同世代人とみなして良いだろう。

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よって、主君である高時の系譜を語っているという冒頭の【A】説は否定されるべきであろう。そもそも、素性がバレて堂々と自己紹介をすべき場面において、主君の系譜を語るというのは不可解と言わざるを得ない*18

 

 

貞盛から長崎円喜に至るまで

前節で結論づけたように、代数の観点から、『太平記』での「平将軍貞盛より十三代」=「前相摸守高時」になり得ないことは明白である。とは言え、「平将軍貞盛より十三代」=「長崎入道円喜」が成立しなければ意味がない。よって本節では、貞盛から平資盛を経て円喜に至るまでが13代で問題ないか考察してみたいと思う。

 

平清盛に至るまでは既に述べた通りであり、その後も

清盛(1118-)―(20)―重盛(1138-)―(23)―資盛(1161-)

までは判明している。但し、資盛の子については次の2つの説で分かれている。

尊卑分脈*19:資盛―盛綱 長崎流

系図纂要*20:資盛―盛国―国房―盛綱

 

盛綱を長崎流の祖とする点ではどちらも一致しているが、子とするか曽孫とするかで異なっている。『系図纂要』での記載から察するに、この盛綱というのは『吾妻鏡』において3代執権・北条泰時の頃からの家司・家令として仕えた平盛綱(後掲【表B】参照)を指すと考えて良いだろう。

ここで、北条義時(1163-)*21が資盛とほぼ同世代人であることに着目しておきたい。平貞盛からの代数を見ても、義時は10代目、資盛は9代目にあたり、ほぼ変わらない(ずれの原因は、前述の通り途中で親子の年齢差が離れていたためである)。よって名前が「盛綱」か「盛国」かに関わらず、資盛の子は泰時(1183-)*22とほぼ同世代人であったと考えられる。資盛の晩年期(1181~1185年)には生まれていた筈だからである。

もし平盛綱が資盛の子・盛国の孫であったならば、同じく親子の年齢差を考慮して、その生年は承久3(1221)年頃より後にならなければおかしい。ところが次の表にあるように、盛綱『吾妻鏡』同年5月22日条の段階で「平三郎兵衛尉(兵衛尉任官済み、次いで元仁元(1224)年2月23日条に「平三郎兵衛尉盛綱」とあり)」として現れており、更には安貞2(1228)年10月15日条より息子の盛時が「平左衛門(尉)三郎盛時」として登場している。

【表B】

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従って、長崎流の祖・平盛綱は、資盛の曽孫ではなく、息子とすべきである*23。資盛子息の生まれた時期から約84年後に曽孫(盛綱―盛時―頼綱―資宗)飯沼資宗(1267-)が生まれており、平均的な親子の年齢差は 84÷3=28 と妥当な数値で算出されるので、この点からも裏付けられよう。

そして、『系図纂要』での系譜「盛綱―光盛―光綱―高綱(円喜)」に従えば、【図A】に示したように円喜は「平将軍貞盛より十三代」となる。『保暦間記』には「長崎入道円喜ト申ハ、正応ニ打タレシ平左衛門入道(=頼綱入道杲円カ甥 光綱子、」とあり、父・長崎光綱は実は平頼綱の弟(盛時の子)であった可能性があるが、【図A】で示した通り代数に変化は生じない。

 

前述したように、北条義時平資盛はほぼ同世代であるから、義時から5代目の北条時宗と、資盛から5代目の円喜も世代的に近い関係にあったと考えて問題ないと思う。近年の研究により円喜の俗名は「盛」であったとされ*24、時からの偏諱を受けたものと考えられる。同じく時宗の1字を受けたとされる*25とほぼ同世代であったとする細川重男の説*26もこの観点から補強されよう。 

 

脚注

*1:高時は文保元(1317)年より第14代執権として相模守、嘉暦元(1326)年に出家してからの後任は第16代執権・赤橋守時新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪同 その30-赤橋守時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)参照。

*2:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.140~141。

*3:梶川貴子「得宗被官平氏の系譜 ― 盛綱から頼綱まで ―(所収:『東洋哲学研究所紀要』第34号、東洋哲学研究所編、2018年)P.118。

*4:森幸夫「得宗被官平氏に関する二、三の考察」(所収:北条氏研究会編『北条時宗の時代』、2008 年)P.438。

*5:良方の次兄・良房が804年、弟・良相が813年の生まれとされ、父・冬嗣が亡くなる826年までには生まれていた筈である。

*6:ちなみに高望の没年についても諸説あるが、延喜年間(延喜11(911)年頃)に亡くなったとする点では一致しており、高望の子女はそれ以前には生まれていた筈である。

*7:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 11 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*8:桓武平氏諸流系図』平貞季の注記に「長和〔ママ〕三年卒 年九十」とあり、「長和」は「長治」の誤記とされる。伊勢平氏 #平正度(千葉氏の一族HP内)参照。

*9:9月20日条の文中に「雖衡〔ママ〕身為四品住伊勢之所致也」とある部分が、漢字の偏の誤記または誤写・誤読で「維衡」と読み得る。尚、平正輔については同じく『小右記』の治安3(1023)年11月23日条の文中に「常陸介維衡息正輔朝臣」とあるのが確認できる。

*10:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 11 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*11:正衡の活動については 伊勢平氏 #平正衡(千葉氏の一族HP内)を参照のこと。

*12:忠盛―清盛の名は、源義忠―義清が烏帽子親となって偏諱を与えたものとされ、義忠に関しては正盛の娘を妻に迎えていたという。従って岳父―娘婿の関係となる「正盛―義忠」には親子ほどの年齢差があったと考えるのが妥当かと思うので、正盛は1060年代の生まれと推定する。正盛の活動については 伊勢平氏 #平正盛(千葉氏の一族HP内)を参照のこと。

*13:注2前掲細川氏著書 P.135。

*14:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その1-北条時政 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*15:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 11 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*16:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*17:注15同箇所。

*18:注2同箇所にて細川氏は「武士は自分の家系や先祖の武勲を叫ぶもの(だが、高重は主君高時の系譜を長々と語り、自分の家系については当時存命の祖父高綱にしか触れていない) 」と説かれているが、まさにこの通りではなかろうか。武士たる高重とてその例外ではなかったはずである。高資―高重父子の名乗りは「重盛―資盛」を遡ったものと考えられ、平頼綱の子・飯沼資宗も「資」字を用いるなど、(実際の真偽にかかわらず)長崎流平氏・長崎氏には「平資盛の末裔である」という認識があったと見受けられる。

*19:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 11 - 国立国会図書館デジタルコレクション 参照。

*20:この系図については 【論稿】『系図纂要』長崎氏系図について - Henkipedia を参照。

*21:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その2-北条義時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*22:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*23:盛綱の孫・平頼綱について『保暦間記』に「平左衛門尉頼綱 不知先祖法名果円〔ママ、杲円〕」と記される(→ 平頼綱 - Henkipedia【史料】を参照)ように、盛綱が実際に平資盛の子であったかは疑わしいが、注17でも述べたように、高重も含めた長崎氏自身にはその末裔であるという認識があったことは確かである。

*24:細川重男『鎌倉幕府の滅亡』(吉川弘文館、2011年)P.73同「御内人諏訪直性・長崎円喜の俗名について」(所収:『信濃』第64巻12号〈通算755号〉、信濃史学会、2012年)。典拠は『小笠原礼書』所収「鳥ノ餅ノ日記」徳治2(1307)年7月12日条「長崎左衛門尉盛宗」。

*25:注3前掲梶川氏論文 P.115。

*26:注2前掲細川氏著書 P.167。

尾藤時綱

尾藤 時綱(びとう ときつな、生年不詳(1260年代?)~1331年頃?)は、鎌倉時代後期の武将、御内人得宗被官)。尾藤頼景(景頼)の嫡男。通称および官途は二郎、左衛門尉、左衛門入道。法名演心(えんしん)。初名は尾藤時景(ときかげ)とも(『尊卑分脈』)

 

 

はじめに:2つの尾藤氏系図

藤原秀郷流尾藤氏については、現在確認されている限りで2種類伝わっている。以下本項でも参考にするため、細川重男の著書*1より一部引用して掲げる。

◆【系図A】『尊卑分脈』尾藤氏系図 より

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◆【系図B】『続群書類従』所収「尾藤系図」より

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以下、【系図A】・【系図B】はこれらいずれかの系図を指すものとする。

 

史料における尾藤左衛門尉

まずは同じく細川の先行研究*2に頼りながら、尾藤時綱(演心)の登場箇所とされる史料を以下に列挙する。 

 

【史料1】正安3(1301)年12月24日付「関東御教書」*3

奉寄進

 正八幡宮

  日向国臼杵郡田貫田尾藤左衛門尉時綱

右、為聖朝安穏・異国降伏、所奉寄進也。雖為向後、就社務令管領、可被御祈祷者、依鎌倉殿(=当時の将軍・久明親王仰、奉寄如件。

 正安三年十二月廿四日  正五位下相模守平朝臣師時在判

             従四位下武蔵守平朝臣時村在判

確認できる限りで初見の史料にして、通称・実名が共に確認できる貴重なものである。【系図A】では景氏の子・景頼の息子を時景 改め時綱、【系図B】では景氏の子・頼景の息子を時綱(時景の父)と記載していて若干異なるが、いずれにせよ正安3年の段階で時綱左衛門尉の官途を持って実在していたことは認められよう。

 

【史料2】嘉元元(1303)年11月30日付「得宗家執事奉書」(『金剛三昧院文書』)*4

高野山金剛三昧院領筑前国粥田庄上下諸人幷運送船事、任宝治・弘安・正応過書、門司関不可致其煩之由候也。仍執達如件。

  嘉元ゝ年十一月卅日  左衛門尉時綱

 下総三郎入道殿

 下総又次郎殿

 

【史料3-a】嘉元4(1306=徳治元)年7月日付「東大寺法華堂訴状案」

【史料3-b】(嘉元4年)7月29日付「東大寺別当聖忠御教書案」

この2つの史料は、この年に東大寺法華堂が、その所領であった「摂津国猪名荘東野」・「長洲村開発田東野」を濫妨したとして、摂津国杭瀬村(杭瀬荘とも)の地頭であった美藤左衛門尉の代官・左衛門三郎を訴えたという書状の写しであり*5、西田友広はこの「美藤左衛門尉」が「びとう」と読める音の共通から尾藤左衛門尉の誤記で、時綱(演心)またはその一族にあたるものと推測されている*6。【史料1】でもそう書かれる通り、尾藤氏で「○郎」の仮名が付かずに「左衛門尉」とのみ呼ばれたのは嫡流の当主であった時綱に限られたから(詳しくは後述参照)、「美藤左衛門尉」=時綱本人に比定して良いのではないかと思う。

 

【史料4】徳治2(1307)年5月日付 「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『円覚寺文書』)*7

{花押:北条貞時円覚寺毎月四日大斎結番事

 一 番

(省略)

 九 番

  尾藤左衛門尉        長崎四郎左衛門尉(高貞
  神四郎入道(了義)     渋川次郎左衛門入道
  安東平内右衛門入道(道常) 工藤治部右衛門尉
  内嶋四郎左衛門尉      諸岡民部五郎

 十 番

  長崎左衛門尉(盛宗?)    尾藤六郎左衛門尉
  長崎後家         権医博士
  狩野介          尾張権守
  矢野民部大夫(倫綱   粟飯原右衛門四郎(常久

 十一番

  南條左衛門尉(貞直   岡村太郎右衛門尉
  尾藤五郎左衛門尉     武藤後家
  中三中務入道       佐藤宮内左衛門尉
  万年新馬允        矢田四郎左衛門尉

  十二番

  工藤右衛門入道      五大院左衛門入道
  出雲守          妙鑑房
  武田弥五郎        諏方兵衛尉
  内嶋後家         水原図書允

 

 右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、

 

  徳治二年五月 日

この史料は、鎌倉円覚寺で毎月四日に行われていた「大斎(北条時宗忌日*8)」の結番を定めたものであり、9番筆頭の「尾藤左衛門尉」は時綱に同定される。ちなみに、10番衆の「尾藤六郎左衛門尉」は尾藤頼氏(よりうじ)*9、11番衆の「尾藤五郎左衛門尉」は尾藤頼連(よりつら)*10にそれぞれ比定され、両名は時綱の従兄弟にあたる。

 

【史料5】(延慶元(1308)年)11月7日付「金沢貞顕書状」(『円覚寺文書』)*11

円覚寺額事、任被仰下之旨、可令申入仙洞(=伏見上皇給由、内〻伺申西園寺殿(=公衡)候之処、悉被下 震〔宸〕筆候。子細定長崎三郎左衛門入道(=思元)令言上候歟。以此旨、可有洩御披露候。恐惶謹言。

 十一月七日 越後守貞顕 (花押)

進上 尾藤左衛門尉殿

*理由は不明だが、花押の部分は他文書の貞顕花押を切り貼りしたものである。*12

この書状は、貞顕が越後守在任であった嘉元2(1304)年6月2日~延慶2(1309)年10月2日の間*13に書かれたことが分かるが、円覚寺伏見上皇宸筆額が下賜されることになったことを伝えていて、細川氏円覚寺定額寺に列した延慶元年*14のものと判断されている。

 

【史料6】(延慶2(1309)年)4月10日付「金沢貞顕書状」(『金沢文庫文書』)*15:前日9日における寄合の「合奉行」として「長入道(=長崎入道円喜)」・「尾金」の記載あり。後者は「尾藤金吾(金吾は左衛門尉の唐名」の略記と考えられ、時綱が寄合に参加のメンバーに含まれていたことが分かる*16

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【史料7】延慶3(1310)年3月8日付「得宗公文所奉書」(『明通寺文書』)*17

異國降伏御祈事、御教書如此、早任被仰下旨、可相觸若狭國寺社別〔当 脱字カ〕神主之由、可被下知代官候、仍執達如件、

 延慶三年三月八日 親經 在〻

          了曉 在〻

          時綱 在〻

          資□ 在〻

 工藤四郎右衛門尉殿

この史料は、若狭国内の寺社に「異国降伏御祈事」を命じる関東御教書を施行したもので、工藤四郎右衛門尉(実名不詳)守護代へこのことを伝達するよう命じたものである。細川氏が述べるように、宛名の工藤氏は若狭守護代を複数人輩出した得宗被官であるから、この書状は得宗公文所奉行人連署奉書であり*18細川氏は奉者第一位の「資□(2文字目欠損か)」がのちの長崎高資、第二位の「時綱」がのちの尾藤演心と推測されている。

 

【史料8】延慶3年8月29日付「得宗家執事書状」(『鶴岡神主家伝文書』)*19

参内〔ママ、御内カ〕御恩所望事、申状披露之処、便宜之可有御計候。仍可進御事書之由、被仰出候之間、書進之候了。可有御存知其旨候。恐ゝ謹言。

 延慶三

  八月廿九日 時綱(花押)

 八幡神主殿

 

 ★応長元(1311)年10月26日、得宗(副将軍)北条貞時逝去*20

 これに伴って出家か。

*【系図A】には「時景 改綱 出家」とあり、(改名の有無はともかく)【史料1】で実在が確認できる時綱が後に出家したことは認めて良いだろう。

 

【史料9】(正和年間)『当社記録鶴岡八幡宮國學院大學所蔵本〉

梶川貴子の紹介によると、長崎左衛門入道圓喜、諏訪左衛門入道直性、尾藤左衛門入道演心、安藤左衛門入道昌顕、長崎三郎左衛門入道思元、長崎四郎左衛門尉時元、南条左衛門入道性延(梶川氏は南条貞直に比定)などの得宗被官が鶴岡八幡宮評定衆として名を連ねているという*21。正和元(1312)年に時綱(演心)鶴岡八幡宮評定衆に列せられ、その別当や供僧の事務を統括した*22という根拠の史料であろう。梶川氏の論文は史料での表記通りに記述されていると思われるので、正和元年に評定衆に列せられた段階で出家済みであれば、貞時が亡くなって間もなく「演心」と号したことが裏付けられよう。

 

【史料10】『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条に引用の「施楽院使・丹波長周注進状」*23:同月8日に鎌倉で起きた大火の被災者の中に「尾藤左衛門入道演心」。 

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【史料9】・【史料10】により尾藤演心の実在が確認できる。その通称は出家前「尾藤左衛門尉」であったことを表すから、時期の近さからしても、先行研究でご指摘の通り【史料1】等の「尾藤左衛門尉時綱」が出家した同人とみなせる。

 

【史料11】正和5(1316)年閏10月18日付「得宗公文所奉書」(『多田神社文書』)*24

攝州多田院塔供養御奉加御馬事、先日被仰下之處、無沙汰云〻、不日可被沙汰進之由候也、仍執達如件、

 正和五年閏十月十八日 □直(花押)

            了□(花押)

            演心

            高資(花押)

 工藤右近入道(=宗光殿

 

【史料12】『門葉記』「冥道供七 関東冥道供現行記」 文保元(1317)年6月9日条*25

文保元年六月九日。於明王院北斗堂被修之 扈藤左衛門入道〔ママ〕子息労之間申之云々、支物一万疋。」 

 

【史料13】『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』):元亨3(1323)年10月の貞時13年忌供養において、「尾藤二郎左衛門入道」が25日の一品経の阿弥陀経調進に銭10貫、27日の進物に「砂金五十両 銀剱一 馬一疋 置鞍、葦毛、」を支出*26

*尾藤氏嫡流の当主ゆえ、他史料では「左衛門尉」とのみ書かれてきた時綱(演心)だが、【系図B】では「二郎左衛門尉」と注記されており、細川氏が述べられる通り、この二郎左衛門入道演心に比定されよう*27。同氏はそのもう一つの根拠として、この法要ではこの二郎左衛門入道のほか、尾藤五郎左衛門入道(=出家後の頼連か)・尾藤六郎左衛門尉(=頼氏か)の計3名が進物を出しているが、二郎左衛門入道の支出が他の2名に比して群を抜いて多額であることを挙げ、彼が尾藤氏の中心人物であったと説かれている*28詳しくは後述するが、尾藤氏における「二郎(次郎)」は嫡流における代々の称号のようなものと化していた可能性が高い。

 

【史料14】『門葉記』「冥道供七 関東冥道供現行記」 嘉暦元(1326)年12月17日条*29

嘉暦元年丙寅十二月十七日丁亥。於御本坊瑠璃光院被修之。

 扈藤左衛門入道〔ママ〕室家産餘気祈云々。支物一万疋。

 

【史料15】(年不詳:1331年?)正月10日付「崇顕(金沢貞顕)書状」(『金沢文庫文書』)*30

御吉事等、於今者雖事旧候、猶以不可有尽期候。

抑自去六日神事仕候而、至今日参詣諸社候。仍不申候ツ。今暁火事驚入候。雖然不及太守禅閤(=北条高時[崇鑑])御所候之間、特目出候。長崎入道(=円喜)同四郎左衛門尉(=高貞)同三郎左衛門入道(=思元)同三郎左衛門尉(=高頼)尾藤左衛門入道南條新左衛門尉(=高直等宿所炎上候了。焼訪無申計候。可有御察候。火本者、三郎左衛門尉宿所ニ放火候云々。兼又御内御 数御返事、昨日被出候。進之候。又、来十二日無御指合候者、早旦可有入御候。小點心可令用意候。裏可承候。恐惶謹言。

  正月十日    崇顕

方丈進之候

 「(切封墨引)

方丈進之候   崇顕

これ以後の史料上で、尾藤左衛門入道なる人物は確認できない。1333年の鎌倉幕府滅亡に際しては、【史料10】に掲載のメンバーのうち、赤橋守時が戦闘の中で自害し、その後得宗北条高時に殉じた者の中に安達時顕(延明)や、安達師景・師顕と思しき人物、更に御内人では長崎円喜・諏訪直性・摂津親鑒(道準)が含まれているが、尾藤演心の記載は特に無い。この時まで存命であれば【史料15】で明らかな通り在鎌倉であった演心もこれに巻き込まれている筈であり、逆に当時既に亡くなっていた可能性が考えられる。

 

 

世代と烏帽子親の推定

次に本節では時綱(演心)の生年と烏帽子親の考証を行っていきたいと思う。

 

北条時宗の烏帽子子

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『尊卑分脈』を見ると、時綱佐藤公清から数えて11代目にあたるが、親戚にあたる後藤氏での基宗と同じ代数となる*31。 

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また、こちら▲の記事で、父・景が暦仁元(1238)年生まれの後藤基とほぼ同世代人にして5代執権・北条時より1字を拝領した可能性を指摘した。

綱と後藤基の関係もまた同じく、共に8代執権・北条時宗の烏帽子子だったのではないかと思われる。【系図A】の記載に従えば元服直後の初名は「」だったことになるが、いずれにせよ上(1文字目)に戴く「」字は北条氏の通字を許されたものに間違いなく、時宗からの偏諱とみて良いだろう(「綱」は祖父・景氏の伯父/養父にあたる尾藤景綱に由来するものであろう)時宗の執権在任期間(1268~1284年*32内の元服であったとみられる(これについての考証は次節参照)

 

尾藤氏における左衛門尉任官年齢と生年の推定

前項の内容を裏付けるべく、尾藤氏における左衛門尉任官に相応の年齢を考えてみたい。その参考にそれまでの尾藤氏歴代当主に着目する。

先祖を遡ると、藤原藤成(776-822)までは生没年が判明しており、その曽孫にあたる藤原秀郷(藤成―豊沢―村雄―秀郷)について、『田原族譜』により導かれる元慶4(880)年生まれ*33というのは藤成との年齢差やその活動時期からして妥当ではないかと思われる。この秀郷から13世孫にあたる尾藤景綱*34の生年は1180年~1200年あたりになるだろう*35

吾妻鏡』建保元(1213)年5月2日条によれば、景綱はまだ無官で「尾藤次郎」と称されていたようだ*36が、次の承久3(1221)年5月22日条に「尾藤左近将監」(次いで同年6月13日条に「尾藤左近将監景綱」)と書かれる*37までに左近衛将監従六位上相当)*38となったことが窺え、30~40歳頃には何かしらの官職を得ていたと考えられる。

景綱の後継者となったのは甥(弟・中野三郎景信の子)尾藤景氏であった。前述の景綱の生年(推定)からすると景氏の生年は1212年以後と一応推測は可能である。1212年は奇しくも、景綱の妻が乳母になっていたという北条時実の生年であり、景綱夫妻は時実の親くらいの世代、時実と景氏はほぼ同世代の関係であったとみなして良いのだろう。『吾妻鏡人名索引』を見ると、寛喜2(1230)年正月4日条に「尾藤太景氏」として初めて登場し、嘉禎2(1236)年12月19日条「尾藤太郎」、寛元3(1245)年7月25日条「尾藤太景氏」と3回現れた後、寛元4(1246)年5月25日条・6月10日条の「尾藤太平三左衛門尉」も景氏に比定される*39。寛元4年の2箇所については通称の面で若干違和感を覚えるが、仮に信用すれば30代で左衛門尉に任官していたことになる

景氏の子・頼景については前述したが、景氏との年齢差を踏まえても問題ない。『吾妻鏡』を見ると、建長4(1252)年正月1日条では無官で「尾藤二郎」と呼ばれていたものが、康元元(1256)年正月3日条では「尾藤次郎兵衛尉」と変化しており、20代に入って間もない頃に左兵衛尉(七位相当)*40となっていた可能性が高い。

この他に確認できる史料として、弘安5(1282)年5月12日付「尾藤景連等連署避状案」(『祇園社記』神領部七)は、「尾藤五郎左衛門尉景連」・「尾藤六郎左衛門二郎頼氏」らが連名で発給した書状の写し(控え)であり*41、頼景の弟である景連、その更に弟で頼氏の父でもある頼広が当時左衛門尉任官済みであったことが窺える。景連・頼広兄弟は早くとも1240年代の生まれの筈だが、その場合でも40歳を迎えるまで(遅くとも30代)には左衛門尉になっていたことになる。また頼広の子・頼氏も1260年代以後の生まれと推測可能で、10~20代であった弘安5年当時はまだ無官で「二郎」を名乗っていたことが窺えよう。 

 

以上の考察より、【史料1】から正安3(1301)年の段階で左衛門尉在任が確認できる頼景の子・時綱についてはその当時30代に達していた可能性が高いだろう。逆算すれば遅くとも1271年頃の生まれとなる。父との年齢差を考慮すればその生年は1260年代~1270年頃の間に推定され、元服は多く10代前半で行われたから、弘安7(1284)年4月4日に時宗が亡くなるまでの元服であったと考えて問題ないと思う。

 

 

出家の時期と法名「演心」について

前述したように、【系図A】で「出家」と注記される時綱は、のちに演心と号したが、その契機は時期からし得宗北条貞時の逝去に伴うものであろう。の「」は祖父・景氏の法名*42の1字を継承したもの、もう一方の「」は貞時の法名」から取ったものと考えられるからである。同様の前例として、弘安7年に北条時宗が「道」と号して間もなく逝去した際にも、追随して出家した御内人である工藤時光(禅)平頼綱(円)*43がその1字を使用した様子が窺える。

 

(参考ページ・文献) 

 尾藤時綱 - Wikipedia

御内人人物事典 ー 尾藤時綱

細川重男「尾藤左衛門入道演心について」(所収:同『鎌倉政権得宗専制論』〈吉川弘文館、2000年〉第1部第6章)

 

脚注 

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.428~430。

*2:前注細川氏著書、第1部第6章「尾藤左衛門入道演心について」。

*3:前注細川氏著書 P.201 より。『鎌倉遺文』第27巻20938号などにも掲載。

*4:『鎌倉遺文』第28巻21691号。

*5:西田友広「東大寺宝珠院所蔵絵図から見た鎌倉時代後期の尼崎地域」(所収:『東京大学史料編纂所紀要』27号、2017年)P.4。尚、2つの書状は「京都大学所蔵宝珠院文書」科研報告書『中世寺院における内部集団史料の調査・研究』(研究代表者:勝山清次)所収『法華堂文書』平安・鎌倉時代分110・111号 に翻刻が掲載されている。

*6:前注西田氏論文 P.6。

*7:『鎌倉遺文』第30巻22978号。

*8:時宗の命日は弘安7(1284)年4月4日(→ 細川氏のブログ:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ より)。尚、同職員表は注1前掲細川氏著書の巻末にも掲載あり(以下同様)。

*9:系図A】・【系図B】双方において「六郎左衛門」・「六郎左衛門尉」と注記される。

*10:系図B】において父・景連と揃って「五郎左衛門尉」と注記される。

*11:『鎌倉遺文』第31巻23445号。

*12:注1前掲細川氏著書 P.213 註(12)。

*13:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その56-金沢貞顕 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*14:注1前掲細川氏著書 P.213 註(13)。典拠は同年12月22日付「太政官符」(『円覚寺文書』所収)。

*15:金沢文庫古文書』324号文書。

*16:注1前掲細川氏著書 P.206。

*17:『鎌倉遺文』第31巻23932号。

*18:注1前掲細川氏著書 P.184 註(73)。

*19:『鎌倉遺文』第31巻24052号。

*20:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その8-北条貞時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*21:梶川貴子「得宗被官南条氏の基礎的研究 ー歴史学的見地からの系図復元の試みー」(所収:『創価大学大学院紀要』第30号、2008年)P.437 によれば、坂井法曄「南条一族おぼえ書き(下)」(所収:『興風』第16号、興風談所、2004年)に翻刻が掲載されているという。

*22:御内人人物事典 ー 尾藤時綱 より。

*23:注1前掲細川氏著書 P.19 より。読み下しは年代記正和4年を参照のこと。

*24:『鎌倉遺文』第34巻26002号。

*25:注1前掲細川氏著書 P.212 註(8)①。

*26:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.698~699・707。

*27:注1前掲細川氏著書 P.202。

*28:前注同箇所、および 同書 P.209。尚、『貞時供養記』には他にも、禄役人・手長等を務める一族として「尾藤弾正左衛門尉資広」・「尾藤孫次郎資氏」の名が確認できる。

*29:注1前掲細川氏著書 P.212 註(8)②。

*30:『鎌倉遺文』第41巻32185号、『金沢文庫古文書』(武将編456号)、『神奈川県史』(資料編2古代・中世(2)3038号)に収録。年については1333年とする説もある。文章および人物比定は、注1前掲細川氏著書 P.211 注(3) より。「南条新左衛門尉」は『御的日記』元徳2(1330)年1月14日条に的始の一番筆頭の射手として確認できる「南条新左衛門尉高直」(『新編埼玉県史 資料編7 中世3 記録1』、埼玉県、1985年、P.642)と同人とする梶川貴子の説(梶川「得宗被官の歴史的性格―『吾妻鏡』から『太平記』へ―」《所収:『創価大学大学院紀要』34号 所収、2012年》P.390)に従った。

*31:途中養子相続を挟むため、後藤氏について正確には公清―季清―康清―仲清―基清―基綱―基政―基頼―基宗と、公清から9代目にあたるが、能清の実弟である基清が実基の養子であったということは重要であって、養父よりは年少(或いは老いていてもほぼ同世代)であったと考えるのが自然と思われる。代数の少なさは親子の年齢幅の違いに起因するものであろう。

*32:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*33:正暦2(990)年9月25日に数え111歳で亡くなったとの記載があり、逆算すると880年生まれとなる。享年があまりにも長寿ゆえ疑問は残るが、一応平将門の乱(935)年など秀郷の活動期間はその中に収まる。

*34:尊卑分脈』によると、秀郷―千常―文脩―文行―公光―公清―公澄(或いは公郷)―知基―知昌―知忠―(尾藤)知広―知景―景綱。

*35:各親子間の年齢差は多少の誤差があったとしても概ね20~30くらいで収まるのではないかと考えられるので、仮に平均で25とすれば秀郷から景綱に至るまで300年となる。本文で示す通り1213年には景綱が史料上に現れており、1180年生まれとしても数え34歳となって決しておかしくはないし、1190~1200年頃にまでなら下らせることも可能であろう。

*36:『大日本史料』4-12 P.487

*37:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.88「景綱 尾藤」の項 より。

*38:左近将監(さこんのしょうげん)とは - コトバンク左近衛将監(さこんえのしょうげん)とは - コトバンク より。

*39:吾妻鏡人名索引』P.90「景氏 尾藤」の項 より。

*40:左兵衛の尉(さひょうえのじょう)とは - コトバンク より。

*41:八坂神社記録. 下 - 国立国会図書館デジタルコレクション。『鎌倉遺文』第19巻14623号。

*42:系図A】・【系図B】双方での注記に「法名浄心」とあるほか、『吾妻鏡』弘長3(1263)年11月19日条にも「尾藤太 法名浄心」とある。

*43:梶川貴子「得宗被官平氏の系譜 ― 盛綱から頼綱まで ―(所収:『東洋哲学研究所紀要』第34号、東洋哲学研究所編、2018年)P.116で紹介の通り、平頼綱の出家時期は霜月騒動直後の弘安8(1285)年12月27日であったというが、それでも時宗逝去の翌年にあたるので、頼綱の法名「杲円」は時宗のそれである「道杲」に関係していると考えて問題ないだろう。元々頼綱と安達泰盛時宗の政治的後継者(継承者)を巡って争ったのであり、頼綱は自分こそが時宗の政治姿勢を引き継ぐ者であることを示す一環として「杲」の字を自ら用いたのではないかと推測される。尾藤時綱こと演心は、頼綱のように内管領となって政治を動かすほどの地位を得たわけではないが、年代も近い主君であった貞時を偲んで、同じく自分の意志で「演」の字を用いたのかもしれない。

葦名盛宗

葦名 盛宗(あしな もりむね、1259年?~没年不詳(※諸説あり))は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将、御家人

 

生没年については諸説伝えられる。

 

【史料1】『葦名系図』『葦名系図并添状 全』(『東大謄写』)

「葦名三郎左衛門尉。従五位下遠江守。関東引付評定衆。徳治二年九月十五日卒。四十九歳。法名道真」*1

=1307年49歳(数え年、以下同様)で死去 → 逆算すると1259年生まれ

 

【史料2】『会津四家合全』「黒川小田山城主佐原十郎義連家系之事」所収 葦名家系図*2より

葦名遠江守盛宗(泰盛男)

文永八年辛未五月四日生、弘安九年丙戌十六歳家督継、暦応元年戊寅八月九日六十八歳死、勇健院殿一夢法性大居士と号、興徳寺薨

=1338年68歳で逝去 → 逆算すると文永8(1271)年生まれ*3

 

葦名遠江守盛員(盛宗男)
永仁四(1296)年丙申八月十二日生、文保二(1318)年戊午二十三家督継、建武二年乙亥八月十七日相州片瀬川合戦に討死す時四十歳、正傳庵月浦道円と号、但祠堂会津興徳寺の裏に在り

まず、【史料2】の場合、弘安9(1286)年に家督を継承したということも考えると、10代前半に既に元服していたと考えて良く、北条時宗の執権在任期間(1268~1284年)*4内に行われたことが確実となる。

一方【史料1】の場合でも、6代将軍・宗尊親王が解任および京都に送還される文永3(1266)年*5(当時8歳となる)までの元服とは考え難い。

よって「」の名は、葦名氏代々の通字「盛」に対し、「」は8代執権・北条時偏諱を許されたものと見て良いだろう。弘安7(1284)年4月までに時を烏帽子親として元服したものと判断される。

 

以下、盛宗に関するものとされる史料等を紹介しておきたい。 

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▲【図3】『蒙古襲来絵詞』に描かれる「あしなのはんくわん(葦名判官)」

この絵は、文永の役を経た翌年の建治元(1275)年頃、幕府御恩奉行・安達泰盛の甘縄邸において竹崎季長が庭中*6を行っている際に、居間には芦名判官らがいて「秋田城介殿の侍、諸人出仕の躰(=体)」との注記がある*7。この「芦名判官(葦名判官)」が盛宗と考えられている。律令制における四等官の第三位である判官(じょう=尉)の職を帯びる者の通称である「判官 (はんがん/ほうがん)*8を名乗っていることから、この当時既に左衛門に任官済みであったことになり、「芦名判官」=盛宗というのが正しければ生年が【史料1】の可能性が高くなる。尚、泰盛に近侍した人物として弟の葦名泰親(四郎左衛門尉)も登場する。

また、会津大鎮守六社のひとつで、福島県会津若松市に鎮座する諏方(すわ)神社の鉄製注連(しめ、福島県指定重要文化財に「永仁二年」の銘記があり、1294年に当時の黒川城主であった盛宗が信州諏訪神社に戦勝祈願をしたところ、戦わずに勝利したことから信州よりご神体を迎え、城下に奉ったのが始まりと伝えられている*9

更に、元弘元(1331)年に「葦名遠江守盛宗」が会津耶麻郡綾金村に観音堂を建立したとも伝える史料も存在しており*10、没年が【史料2】の可能性が高くなる。

【史料1】の「関東引付評定衆」であった史実は今のところ確認できないが、これらだけを見ても、北条時宗・貞時治世期から葦名氏当主として活動期に入っていたとみて良いだろう。

 

脚注

【論稿】大光寺合戦における工藤氏一族について

 

安達高景の "亡命" 説

【史料1】『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」より一部抜粋

(前略:長崎高重→摂津道準(親鑑)→諏訪直性(宗経)→長崎円喜・長崎新右衛門(高直カ)→相模入道北条高時→安達時顕(延明)の順に切腹)……是を見て、堂上に座を列たる一門・他家の人々、雪の如くなる膚を、推膚脱々々々、腹を切人もあり、自頭を掻落す人もあり、思々の最期の体、殊に由々敷ぞみへたりし。其外の人々には、金沢太夫入道崇顕・佐介近江前司宗直・甘名宇駿河守宗顕・子息駿河左近太夫将監時顕・小町中務太輔朝実〔ママ〕常葉駿河守範貞……城加賀前司師顕〔ママ〕・秋田城介師時〔ママ〕・城越前守有時〔ママ〕……城介高量〔ママ〕同式部大夫顕高同美濃守高茂秋田城介入道延明……、我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。…………嗚呼此日何なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。

こちらの史料は、鎌倉幕府滅亡時の東勝寺合戦(1333年)の際、得宗北条高時(相模入道崇鑑)に殉じて自害した人物を載せたものである。この『太平記』は元々軍記物語ではあるが、『尊卑分脈』と照らし合わせると、時顕法名:延明)・顕高など他の人物での官職に概ね一致しており、ある程度史実が反映されているものと認められる。

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細川重男のまとめでは、延明や顕高らと共に自害する「城介高量」は字の類似からしても(安達)の誤記の可能性が高いとする一方、『元弘日記裏書』建武元(1334)年11月条には「高景」なる人物が、名越流北条氏と思われる「時如(ときゆき)*1とともに津軽糠部郡持寄城に挙兵したという記述があることを紹介されており*2、『関城繹史』(『常陸史料』所収)や『大日本史料』など*3では安達氏(安達高景)とするが、筆者はこれを誤りと推測する

確かに安達氏は秋田城介を世襲し、元々陸奥国安達郡の豪族ではあった*4が、鎌倉時代以降の秋田城介は武家の名誉称号となって空職化していたといい*5、実際に安達氏が東北地方陸奥・出羽など)で活動していたという記録も見当たらない。従って『元弘日記裏書』で単に「高景」とだけ記される人物が安達氏である確証はなく、義兄の北条高時や父・弟と運命を共にせず、ただ一人津軽に落ち延びたというのもやや不自然に感じる。

では、幕府滅亡後の反乱に参加したこの「高景」は誰であろうか。

 

 

工藤高景と陸奥国糠部郡における一族の反乱

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(*http://kannoeizan.blog111.fc2.com/blog-entry-785.html より拝借)

 

結論から言えば、『元弘日記裏書』建武元年11月条における「高景」は、同じく時の偏諱を受けた工藤に比定し得ると思う。『奥南落穂集』によれば工藤行光の長男・長光が建久年間に陸奥国岩手郡栗屋河(厨川)に下向し、これに同行した行光の弟・三郎祐光の子孫が同国糠部郡に分住したのだという*6。実際、建武元年4月晦日付「源貞綱(多田杢助貞綱)書状」(『南部文書』)を見ると、南部又次郎師行戸貫出羽前司河村又次郎入道の3人に宛がわれた糠部郡の闕所のうち一戸と八戸が工藤氏の旧領であったことが確認でき*7同年12月14日付の書状(『南部文書』)にある津軽での反乱で捕虜となった者の交名(リスト)に工藤姓の人物が多数見られる*8ことからも、工藤氏の一族が得宗被官(御内人)として*9この地域に勢力を張っていたことが窺える。

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▲【図2】今野慶信作成による得宗被官・工藤氏の略系図*10

 

前述の三郎祐光は「すけみつ」という音の共通から、「南家 伊東氏藤原姓大系図*11での行光の弟・資光、および『吾妻鏡』での三郎助光に比定され*12、その子孫「光長〔光泰―光頼〔頼光―宗光(工藤右近将監)―貞光(新右近)」は代々得宗偏諱を受けてその被官として続いた*13建武元年7月29日には「糠部郡七戸内 工藤右近将監(=貞光」が伊達行朝に宛がわれており*14、この家系もそれ以前に糠部郡内を領していたことが窺える。

 

●【表3】『楠木合戦注文』に基づく幕府軍の構成メンバー表

河内道(大手) 大将軍 遠江弾正少弼治時
軍奉行 長崎四郎左衛門尉高貞
大和路 大将軍 陸奥右馬助
軍奉行 工藤次郎右衛門尉高景
大番衆 新田一族 里見一族 豊島一族 平賀武蔵二郎跡
飽間一族 園田淡入道跡 綿貫三郎入道跡
沼田新別当跡 伴田左衛門入道跡 白井太郎
神澤一族 綿貫二郎左衛門入道跡 藤田一族
武二郎太郎跡
紀伊 大将軍 名越遠江入道
軍奉行 安東藤内左衛門入道円光
大番衆 佐貫一族 江戸一族 大胡一族 高山一族
足利蔵人二郎跡 山名伊豆入道跡 寺尾入道跡
和田五郎跡 山上太郎跡 一宮検校跡
嘉賀二郎太郎跡 伊野一族 岡本介跡 重原一族
小串入道跡 連一族 小野里兵衛尉跡 多桐宗次跡
瀬下太郎跡 高田庄司跡 伊南一族 荒巻二郎跡

(*表は http://chibasi.net/soryo14.htm より拝借)

そして、工藤高景は【表3】にあるように『楠木合戦注文』に通称「次郎右衛門尉」と書かれている*15ので、「高光―時光二郎右衛門入道、法名杲暁〕貞祐二郎右衛門と続いた資光(助光/祐光)の弟・重光の家系の出身、すなわち貞祐の嫡男ではないかと推測されている*16工藤杲暁(こうぎょう)貞祐(さだすけ)父子は得宗被官として若狭守護代を務め「若狭国今富名領主次第」「若狭国守護職次第」、杲暁は得宗公文所執事にも抜擢され、貞祐も1331年まで「多田院造営惣奉行」を務めるなど様々な活動を行っていたことが確認できる*17のだが、元弘の乱における動向が不明なのである。

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【史料1】での高時に殉死者に工藤氏の掲載はないが、幕府滅亡後には工藤氏の者が処刑されたことを伝える史料が残る。『近江国番場宿蓮華寺過去帳』(『群書類従』巻514所収)には建武元年12月4日に「公藤二郎」と「同次郎右衛門尉五十二歳」が六条河原で斬首されたとする記述が見られるが、「公藤」が「くどう」と読める(例:家(げ)など)ことから、この2名は工藤氏と考えられ、通称名の一致と世代から、貞祐・高景の可能性がある。また、『鶴岡社務記録』文和2(1352)年5月20日条には「相模次郎(=北条時行)」と共に「工藤次郎」が処刑された旨の記述があり*18、この者は高景の次世代であったと推測されている*19

 

これらの考察を踏まえると、工藤氏の中でも惣領のような立場にあった工藤高景が、津軽での反乱に全く無関係であったとは思えない。すなわち、建武元年11月の反乱(いわゆる大光寺合戦)は、高景を中心とした工藤氏一族が、本拠地である津軽糠部郡に結集し、主家・北条氏一族の生き残りである名越時如を大将に迎えて起こしたものだったのである。 

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 <まとめ>建武元(1334)年 陸奥工藤氏の反乱

  • 2月晦日:留守彦二郎(余目家任)が「二迫栗原郷栗原並竹子沢内工藤右近入道(宗光)」の知行を命じられる*20
  • 4月晦日陸奥国糠部郡一戸の工藤四郎左衛門入道跡、同子息左衛門次郎(義村)跡、および同郡八戸の工藤三郎兵衛尉跡が闕所地とされる。
  • 7月29日:「工藤右近将監(工藤貞光)」の旧領であった糠部郡七戸が闕所地とされる。
  • 11月19日:「津軽凶徒(名越)時如、(工藤)高景」以下の反乱を鎮圧。工藤左近二郎*21の子である孫二郎義継孫三郎祐継兄弟以下、工藤氏一族の多くが捕虜となる。
  • 12月4日:「公藤二郎(工藤高景?)」と「同次郎右衛門尉(工藤貞祐?)」が六条河原にて斬首。

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.369に掲載の『前田本平氏系図』によれば、系譜は「義時―朝時―時章―篤時―秀時―時如」。「掃部助」と注記される。

*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その90-安達高景 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)。

*3:『大日本史料』6-2 P.135安達高景 - Wikipedia #備考 を参照。

*4:安達氏(あだちうじ)とは - コトバンク 参照。

*5:秋田城介(アキタジョウノスケ)とは - コトバンク 参照。

*6:『奥南落穂集』「岩手郡之次第」(「近世こもんじょ館」HP)、奥州工藤氏 - Wikipedia #厨川工藤氏 参照。

*7:『大日本史料』6-1 P.522

*8:『大日本史料』6-2 P.135~139

*9:鎌倉時代には北条氏が糠部郡の地頭を務め、一戸~九戸の各戸に家臣を地頭代として配置していたという。糠部(ぬかのぶ)とは - コトバンク を参照のこと。

*10:今野慶信「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人系図」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.115。

*11:翻刻は、前注今野氏論文 P.130~135のほか、飯田達夫「南家 伊東氏藤原姓大系図」(所収:『宮崎県地方史研究紀要』三輯、1977年)や『伊東市史 史料編 古代・中世』(2006年)にも収録。

*12:注10前掲今野氏論文 P.112。

*13:注10前掲今野氏論文 P.113。

*14:前注同箇所 および 『大日本史料』6-1 P.657

*15:正慶乱離志 - 国立国会図書館デジタルコレクション も参照。

*16:注10前掲今野氏論文 P.114。

*17:前注同箇所。

*18:『鶴岡社務記録』 - 国立国会図書館デジタルコレクション より。

*19:注10前掲今野氏論文 P.114。

*20:笠原信男「栗原郡における中世の修験 ー羽黒先達及び熊野先達ー」(所収:『東北歴史博物館研究紀要』、東北歴史博物館、2010年)P.54。『鎌倉遺文』第42巻32855号。注10前掲今野氏論文 P.113。

*21:徳治2(1307)年5月付「相模円覚寺毎月四日大斎番文」(『鎌倉遺文』第30巻22978号)にある七番衆の一人「工藤左近将監」の子か。

平賀貞義

平賀 貞義(ひらが さだよし、1294年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代後期の武将、御家人平賀朝村の次男。

 

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こちら▲の記事で紹介の通り、『尊卑分脈*1(以下『分脈』と略記)によると、新羅三郎義光流で源氏門葉として源頼朝に重用された平賀義信の次男・朝政(=平賀朝雅の曾孫で、平賀貞経の弟である。

 

朝政(朝雅)は猶父でもあった頼朝から「朝」の偏諱を受けたとみられ、子・朝経、孫・朝村とこの字を代々継承していったが、朝村の息子は経、義と名乗っている。これは得宗北条(9代執権在職:1284~1301年、1311年逝去)*2から偏諱を受けたためであろう。

このことを裏付けるものとして、上記記事では『分脈』の兄・貞経の傍注に「城十郎時景(母が安達時景の娘)とあることから、その生年を1293年頃と推定した。『分脈』では貞義はその弟として書かれており、さほど年齢の離れていない兄弟であったと考えて良いだろう。祖先「」の4代で継承された「」の字を使用したものと見受けられる。

 

「楠木合戦注文」には、正慶2(1333)年初頭、楠木正成を討伐する幕府軍に動員された新田義貞*3の指揮する軍中に「新田一族、里見一族、豊島一族、平賀武蔵二郎跡、飽間一族、薗田淡路入道跡」とあって*4、武蔵守に補任された平賀義信平賀朝雅の子孫が御家人として鎌倉時代末期まで存続したことが確認できる*5が、貞義については史料上でその活動は確認できず不詳である。

 

脚注

平賀貞経

平賀 貞経(ひらが さだつね、1293年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代後期の武将、御家人平賀朝村の嫡男。

 

尊卑分脈*1(以下『分脈』と略記)によると、新羅三郎義光流で源氏門葉として源頼朝に重用された平賀義信の次男・平賀朝政の曾孫である。その注記には頼朝の岳父でもある北条時政の娘婿となり、いわゆる牧氏事件で討伐されたことが書かれており、その内容や名前の読みの共通から、朝政は平賀朝雅のことを指していると考えて良い。

『分脈』によると、朝政(朝雅)には妻の時政娘との間に嫡男の平賀朝経(四郎二郎)があったという。朝雅の「朝」は猶父でもあった頼朝の偏諱とみられ、子・朝経、孫・朝村と通字として継承されたことが窺える。

 

しかし、朝村の息子は経、義と名乗っている。結論から言えば、これは得宗北条(9代執権在職:1284~1301年、1311年逝去)*2から偏諱を受けたためであろう。

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『分脈』には貞経の傍注に「城十郎時景」とあり、安達時景の娘を母親としていたことが分かる。時景については上記記事にて1253年生まれと推定しており、外祖父―外孫の年齢差を考慮すれば、(各親子間の年齢差を20とした場合)貞経の生年は早くとも1293年頃と推定可能である。多少前後はするだろうが、通常10代前半で行われる元服当時の得宗北条貞時であった可能性はほぼ確実で、その「」の偏諱を許されたものと判断される。「経」は言うまでもなく祖父・朝経の1字を取ったものであろう。

 

「楠木合戦注文」には、正慶2(1333)年初頭、楠木正成を討伐する幕府軍に動員された新田義貞*3の指揮する軍中に「新田一族、里見一族、豊島一族、平賀武蔵二郎跡、飽間一族、薗田淡路入道跡」とあって*4、武蔵守に補任された平賀義信平賀朝雅の子孫が御家人として鎌倉時代末期まで存続したことが確認できる*5が、貞経については史料上でその活動は確認できず不詳である。

 

脚注

安達時顕

安達 時顕(あだち ときあき、1282年頃?~1333年)は、鎌倉時代後期から末期にかけての武将、御家人法名延明(えんめい)。通称は秋田城介、城入道、別駕など。

 

 

系譜・生年・烏帽子親について

尊卑分脈(以下『分脈』と略記)等によれば、父は安達宗顕、母は山河重光(山川重光)の娘。子に安達高景安達顕高、女子北条高時室:後掲【史料11】・【図16】)、女子二階堂貞衡室・二階堂高衡(行直)母)*1がいる。

 

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▲【図1】『尊卑分脈』〈国史大系本〉より、安達氏顕盛流の系図

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「弘安八被誅廿一」とある通り、父・宗顕は弘安8(1285)年の霜月騒動に際し誅伐され、遠江で自害しており*2この時までに時顕は生まれている筈である。そして宗顕はこの時享年21であったというから、親子の年齢差を考えれば時顕はまだ生まれたばかりの幼児であったことも確実で、次の史料により裏付けられる。

 

【史料2】(文保元(1317)年11月)「安達宗顕三十三年忌表白文」より*3

「……適雖出襁褓之中、未離乳母之懐中、纔雖遁戦場之庭、未離懐飽之膝上……」

(現代語訳:襁褓(むつき)を出たとはいえ、未だ乳母の懐の中を離れず、辛うじて戦場を遁れたが、まだ抱きしめてくれる膝の上を離れていなかった)

 

この史料を紹介された細川重男*4は、これを基に弘安5(1282)年頃の生まれと推定されている。細川氏は、16歳の時に父(時顕の祖父)顕盛を亡くした宗顕は伯父で惣領の安達泰盛 或いは 北条政長の庇護下にあったと考えられ、その時期に生まれたと考えられる霜月騒動の後も政村流北条氏の庇護下で成長し、その当主・北条(政長の兄、1287年鎌倉に帰還)を烏帽子親として元服し「」の偏諱を受けたと説かれている。

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▲【図3】安達宗顕 周辺関係図*5

 

 

史料上における秋田城介時顕

本節では、時顕に関連する史料を幾つかピックアップして紹介しておきたい。

 

 ★1300年頃?:左兵衛尉任官か。

*『分脈』(前掲【図1】)によれば、「加賀兵衛尉」とも呼ばれたというが、祖父・顕盛の最終官途=加賀守 に因んだものであろう。但し、今のところこの通称で書かれた史料は見つかっていない。

 

【史料4】『花園天皇宸記』元弘元(1331)年10月21日条の頭書:「高景者、以正安時顕参入之例参入、……」

前日(20日条)にはこの頃、安達高景二階堂貞藤(道蘊)と共に東使として上洛したこと*6が記されるが、ここには高景が正安年間(1299~1302年)に父・時顕が東使として参った前例に倣ったとあり、これが史料上で確認できる時顕の最初の活動であろう。

 

 ★この間に秋田城介継承か。

 

【史料5】嘉元2(1304)年2月29日付「秋田城介添状案」(『金剛三昧院文書』)*7:発給者の署名「秋田城介

*『鎌倉遺文』では秋田城介=宗景とするが、宗景は霜月騒動で亡くなっている*8からこれは明らかに誤りである。この頃に秋田城介であり得るのは時顕しかいないだろう。

 

【史料6-a】『歴代皇紀』嘉元4(1306=徳治元)年2月条:「二月……関東使 城介時顕 能登入道行海(=二階堂政雄)…… 」

【史料6-b】『実躬卿記』徳治元年2月13日条:関東御使(東使)として前日の夜に京都入りした「秋田城介時顕」、9日に入洛「能登入道行戒〔ママ〕」と共に関白亭に参る。

【史料6-c】『実躬卿記』同年2月25日条:「東使城介時顕」、かつて使節として上洛した祖父・顕盛が後嵯峨天皇から、その弟・長景が亀山天皇から、各々御剣を下賜された先例に倣って御剣を賜うとの話があって召し出されるが、後宇多上皇は参らず。筆者の正親町三条実躬はこのことについて「不審」と表現。

【史料6-d】『実躬卿記』同年2月27日条:「今暁城介時顕下向云々(=鎌倉へ帰る)

 

【史料7】『一代要記』徳治2(1307)年正月22日条:「徳治二年丁未正月二十二日東使時顕入洛(=東使として再上洛)

 

【史料8-a】『武家年代記』徳治3(1308=延慶元)年7月8日条: 「延慶元七八、久明親王可有御上洛之由、以城介被申入之、

【史料8-b】『北條九代記』正応2(1289)年条(『鎌倉年代記』と同内容):将軍・久明親王についての記事に「徳治三年七月八日、有御上洛之由、以秋田城介時顕被申之」。

 

【史料9】「金沢貞顕書状」:延慶2(1309)年4月の寄合衆の中に「別駕(下記記事の史料を参照)

*「別駕」とは、諸国の介(すけ)唐名*9。秋田城"介"であった時顕に比定される。

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【史料10-a】『元徳二年三月日吉社並叡山行幸記』:「……十月小 長井左近大夫入道ゝ漸秋田城介時顕上洛……」

【史料10-b】『延慶三年記』延慶3(1310)年10月17日条*10

十七日、天晴、自関東使節両人之内一人城介令京着方〔ママ〕云々、尾張国一国召具登云々、相州禅門(=貞時)被付之云々、或為山門沙汰上洛之説在之、又或為謀叛人沙汰令着上之説有之、

これらの史料により、延慶3(1310)年10月、東使として長井貞広と上洛したことが分かる。

*『鎌倉大日記』にも「長井左近大夫将監入道・秋田城介時顕為使入洛」とあり、『増補 続史料大成』第51巻では延慶元年条に書かれているが、生田美喜蔵所蔵本では同3年条にあるといい、上記2つの史料を裏付けるものとなる。

 

【史料11】『保暦間記』より

……彼(=北条高時内官領長崎入道円喜ト申ハ、正応ニ打レシ平左衛門入道〔=が:以下同じ〕光綱子、高時秋田城介時顕、彼ハ弘安ニ打レシ泰盛入道覚真カ舎弟、加賀守顕盛カ孫也、彼等二人ニ、貞時世事申置タリケレハ、申談シテ如形子細ナク年月送ケリ、…… 

*この史料により、時顕が泰盛の弟・顕盛の孫であったこと、北条高時の舅(岳父)であったことが分かる。後者については後掲【図16】(『系図纂要』)にも記載があるほか、金沢流北条顕実・時雄・貞顕三兄弟の母親である入殿(遠藤為俊の娘、金沢顕時の妻)に関する史料「入殿三十五日回向文土代」(『金沢文庫文書』)*11の文中に「彦子為副将軍之夫人(彦子副将軍の夫人と為(な)る)」とあり、『正宗寺本北条系図』を見ると金沢顕時の子・顕雉〔ママ、=時雄*12の娘に「秋田城之介時顕」と書かれることから、「入殿―時雄―女子(時顕妻)―女子(高時*13妻)」という系譜であったと考えられている*14

 

【史料12】『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条に引用の、施薬院使・丹波長周の注進状*15

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【史料13】『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』)*16:元亨3(1323)年10月の貞時十三年忌供養に関する史料。

・ 25日の法要において「御願文」の「清書」を「秋田城介時顕朝臣」が担当。

・ 同日の「一品経調進方々」の中に「安楽行品 城介殿(=卅貫)」。

・「廿六日、法堂供養也、……同堂左雨打間、太守(=北条高時御坐、其次間、別駕・洒掃・長禅(=長崎円喜以下御内宿老参候、……」

・「……凡今月中旬以来、於此 、諸方御追修計会、……城務廿六日、……」

・ 27日の法要では「城介殿」が「砂金百両 銀剱一」を献上。

 

【史料14】『鎌倉年代記』/『北條九代記』

元亨2(1322)年条:「七月十二日引付頭 守時 顕実 時春 貞直 時顕

嘉暦元(1326)年条:「五月十三日引付頭 茂時 顕実 道順 貞直 延明

引付頭人のメンバーを記したものであるが、1322年から1326年の間にその変化がある。しかし、三番引付頭人は塩田流北条時春が出家して「道順」と号したものであり*17、五番引付頭人についても安達時顕がこの間に出家したための変化であることが窺える。その期間は1324年*18~1326年の間に絞り込められ、時顕の法名が「延明」であったことは次の史料により裏付けられる*19

 【史料15】「鎌倉幕府評定衆等交名」根津美術館蔵『諸宗雑抄』紙背文書 第9紙*20

相模左近大夫将監入道   刑部権大輔入道道鑒〔ママ*〕

城入道延明       山城入道行曉

出羽入道道薀        後藤信乃入道覺也

信乃入道道大        伊勢入道行意

長崎左衛門入道      同新左衛門尉高資

駿川守貞直

*:道準または親鑒の誤記か。

相模左近大夫将監(北条泰家)行暁(二階堂行貞)覚也(後藤基胤)道大(太田時連)行意(二階堂忠貞)が出家後の通称で記載されていることから、彼らが正中3(1326=嘉暦元)年3月の北条高時剃髪に追随して出家した後の評定衆などのメンバーを記したものと分かる。そしてこれは行暁(行貞)が亡くなる嘉暦4(1329)年2月2日までに書かれた筈であるから、この史料からも時顕(延明)が嘉暦年間に出家していたことが確実となり、細川重男がご推測の通り正中3(1326=嘉暦元)年3月の娘婿・北条高時の剃髪に追随したと思われる*21。時顕の法名「延明」については次の系図にも記載が見られる。 

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▲【図16】『系図纂要』安達氏系図 より

 

そして、この【図16】と冒頭の【図1】に共通して、元弘3(1333)年5月22日の東勝寺合戦において自害したとの記載があり、次の史料により裏付けられる。 

【史料17】『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」

(前略:長崎高重→摂津道準(親鑑)→諏訪直性(宗経)→長崎円喜・長崎新右衛門(高直カ)の順に切腹)……此小冠者に義を進められて、相摸入道(=高時…【図16】)も腹切給へば、城入道続て腹をぞ切たりける。是を見て、堂上に座を列たる一門・他家の人々、雪の如くなる膚を、推膚脱々々々、腹を切人もあり、自頭を掻落す人もあり、思々の最期の体、殊に由々敷ぞみへたりし。其外の人々には、金沢太夫入道崇顕・佐介近江前司宗直・甘名宇駿河守宗顕・子息駿河左近太夫将監時顕小町中務太輔朝実〔ママ〕常葉駿河守範貞……城加賀前司師顕〔ママ〕・秋田城介師時〔ママ〕・城越前守有時〔ママ〕……城介高量〔ママ、高景〕同式部大夫顕高同美濃守高茂秋田城介入道延明……、我先にと腹切て、屋形に火を懸たれば、猛炎昌に燃上り、黒煙天を掠たり。…………嗚呼此日何なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申に、平家九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐一朝に開る事を得たり。

この『太平記』は元々軍記物語で、多少の脚色も無くはないが、史実に基づいて描かれている。時顕(延明)がこの時亡くなったことは、次節に掲げるその後の史料によっても裏付けられよう。

 

時顕死後の所領について

【史料18】(元弘3年8月5日)「足利尊氏宛書状」(『比志島文書』)*22後醍醐天皇から「足利殿(=足利尊氏」に恩賞として与えられた幕府旧領の中に「同国(=武蔵国麻生郡時顕」。

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▲【図18'】麻生の歴史を探る 麻生郷〜尊氏領〜 | 麻生区 | タウンニュース より拝借

*冒頭には「泰家」、「貞直」のように書かれており、その後は同人が続く場合に「同」と記すなど、略記されていることが窺える。従って「時顕」の部分も「」が省略されていると考えられ、武蔵国麻生郡が時顕が所有する鎌倉幕府直轄領(旧領)であったことが分かる。同地は現在の神奈川県川崎市麻生区に相当し、この史料は「麻生」の地名が初出するものとしても注目されている

尚、この「時顕」は上図にあるように、【史料17】の自害者の一人である金沢流北条氏一門の甘縄時顕(顕実の孫)にも比定し得るが、泰家が法名の「恵性」で書かれていないことから、安達時顕(延明)の可能性も捨てきれない。

 

【史料19】康永2(1343)年3月4日付「室町幕府引付頭人石橋和義奉書案」(反町英作氏所蔵『色部文書』)*23

 (張紙)「十四、左衛門佐遵行状案」

青木四郎左衛門尉武房等申越後国小泉庄事、申状具書如此、於色部遠江権守長倫・平蔵人長高(=色部長高)秩父左衛門次郎持長・山城入道行暁・安富大蔵大夫空円(=安富長嗣)者、所被糺明也、至城入道後藤信濃入道等跡闕所分者、不日止本庄左衛門次郎(=持長)以下輩濫妨、任御下文、可被沙汰付、更不可有緩怠之儀之状、依仰執達如件、

 康永二年三月四日  左衛門佐(=和義)

  上椙民部大輔殿  在判

 

【史料20】延文2(1357)年6月11日「越後守護代芳賀高家施行状」(『桜井市作氏所蔵文書』)*24

当国瀬波郡小泉庄内城介入道五藤〔ママ、後藤〕信乃入道二階堂山城入道等事、為兵粮料所々被預置也、一族并同心之輩、依忠浅深、可被配分之由候也、仍執達如件、

 延文二年六月十一日 伊賀守(花押)

  色部遠江(=色部長忠)殿

」の記載がある通り、越後国小泉庄内にあった時顕二階堂行貞(行暁)後藤基胤ら【史料15】にも名を連ねる高時政権中枢メンバーの旧領が、幕府滅亡後闕所地となり(行貞と基胤は幕府滅亡前に逝去)、【史料20】は色部長忠が芳賀高家(正しくは高貞か)よりこれらの闕所地を「忠の浅深」によって「一族并びに同心の輩」に配分する権利を得たものである。

時顕の死後、その旧領であった麻生郡は尊氏に、 小泉庄内の所領も色部長忠一族らに渡ったのであった。  

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(参考ページ・論文)

 安達時顕 - Wikipedia

 安達時顕(あだち ときあき)とは - コトバンク

 新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その89-安達時顕 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)

 細川重男「秋田城介安達時顕 得宗外戚家の権威と権力ー」(所収:細川『鎌倉北条氏の神話と歴史-権威と権力-』第六章、日本史史料研究会、2007年)

 

脚注

*1:『分脈』二階堂氏系図の行直の注記に「母城介時顕女」とある。

*2:福島金治 『安達泰盛鎌倉幕府 - 霜月騒動とその周辺』(有隣新書、2006年)P.174。

*3:『鎌倉遺文』第34巻26431号。

*4:以下、細川重男「秋田城介安達時顕-得宗外戚家の権威と権力-」(所収:細川『鎌倉北条氏の神話と歴史-権威と権力-』第六章、日本史史料研究会、2007年)第二節「出自」P.142~145 に従って解説する。

*5:注4前掲細川氏著書 P.144 より。

*6:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その90-安達高景 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。尚、同職員表は細川氏の著書『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末にも掲載。

*7:『鎌倉遺文』第28巻21756号。

*8:安達宗景 - Henkipedia より。

*9:別駕(ベツガ)とは - コトバンク より。

*10:『延慶三年記』 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)参照。

*11:『鎌倉遺文』第37巻28544号。

*12:永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)P.5。

*13:得宗貞時・高時の「副将軍」呼称については、注6前掲細川氏著書 P.263~264 注(55)を参照のこと。この場合の「副将軍」は年代的に考えて高時でしかあり得ない。

*14:注6前掲細川氏著書 P.151。

*15:注6前掲細川氏著書 P.19 より。

*16:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.690・696「別駕」・697・698・699・705・710。

*17:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その39-塩田時春 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*18:『花園天皇宸記』元亨4(1324)年10月30日条の裏書に「時顕」とある。注4前掲細川氏著書 P.150。

*19:他にも『増鏡』17「月草の花」の文中に高時・貞顕・円喜と並んで「城介入道円明〔ママ〕」とある。注4前掲細川氏著書 P.149 より。

*20:田中稔「根津美術館所蔵 諸宗雑抄紙背文書(抄)」(所収:『奈良国立文化財研究所年報』1974年号、奈良国立文化財研究所)P.8。

*21:福島金治の見解では、高時の弟・泰家に追随しての出家とする(→コトバンク所収『朝日日本歴史人物事典』「安達時顕」の項)が、泰家は高時の後、貞顕が次の15代執権となったことを恥辱として出家したのであり、いずれにせよその時期はほぼ変わらない。元々安達氏一族は、一門・大室氏出身の母を持つ泰家を後継の執権に推挙していた。

*22:『大日本史料』6-21 P.853

*23:清水亮「南北朝期における在地領主の結合形態 ―越後国小泉荘加納方地頭色部一族―」(所収:『埼玉大学紀要 教育学部』第57巻第1号、埼玉大学教育学部、2008年)P.8。『新潟県史 資料編 中世』1047号文書。

*24:前注清水氏論文 P.10。『新潟県史 資料編 中世』2755号。