Henkipedia

偏諱に関するコラムを綴る。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。鎌倉幕府御家人などの名前に着目し、誰から1字を貰ったかについての個人的な見解も論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

北条煕時

北条 煕時(ほうじょう ひろとき、1279年~1315年7月9日)は、鎌倉時代後期の武将。鎌倉幕府第12代執権。

実名(諱)は史料によって「熈時(入来院本「平氏系図」など:後述参照)凞時(国史大系本『尊卑分脈』など) 凞時(『鎌倉年代記』など:後述参照) とも表記される。

 

詳しい活動内容・経歴についてはこちら▼を参照。

新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その47-北条熈時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)

 

本項では名乗りの変遷について紹介する。

 

鎌倉年代記(または『北条九代記』)応長元(1311)年条の凞時の項を見ると「本名 貞泰(さだやす)」とある*1。これは、鎌倉時代末期頃の成立とされる次の系図でも確認できる。

 

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▲入来院本「平氏系図」より政村流の一部*2

 

貞泰の項に「今者熈時(今は熈時)*3」と書かれており、貞泰と書かれた後に改名後の名前を追筆したのではないかと思われる。

よって、当初は北条と名乗っていたことが分かる。「泰」は北条泰時に由来する字、「」は得宗・北条時からの偏諱であろう。貞泰(煕時)は、貞時の娘を妻に迎えていた*4。 

 

では「煕時」に改名したのはいつ頃であろうか。

再び『鎌倉年代記』を覗くと、正安3(1301)年条に

「八月廿二日引付頭 一 久時 二 宗泰 三 時家 四 凞時 五 宗秀」

と書かれているが、管見の限りこれが「凞時」という名の初出である。得宗・貞時が執権職を辞して出家しており、これに追随して出家した長井宗秀が翌年から「道雄」と書かれるようになっている*5ので、ここでの表記は当時の名乗りと考えて良いだろう。

冒頭前掲職員表によると生年は1279年とされ、ここから元服の年次を推定すると、1288~1293年となる。貞時執権期であり、偏諱を受けて「貞泰」と名乗るには妥当な時期と言える。1293年は左近将監となって叙爵した年であり、仮に同年での元服としても、1301年まで僅か8年である。特に貞時と対立したという史実は伝わっておらず、貞時執権期に「貞」の偏諱を改める理由は無いと思われるので、改名を行ったのも1301年頃と考えて良いだろう。従って、長井宗秀の出家と同様に、貞時出家に伴っての改名であったと推測される。

 

 

脚注 

*1:『編年史料』伏見天皇紀・永仁元年 P.79

*2:山口隼正「入来院家所蔵平氏系図について(下)」(『長崎大学教育学部社会科学論叢』61号、2002年)P.11~12 より。

*3:漢文上で名詞の後に付いて主語を提示したり語勢を強めたりする「者」は「~は」と読み(『漢文学習必携 増補版』(京都書房、初版1999年、本項では2009年の第6刷を使用)P.102 より)、事実上現在使われる助詞の「は」と同様の働きをする。者字短語2 名詞+者 日本漢文の世界 kambun.jpは (者の変体仮名) - Wikipedia も参照。

*4:嫡男・茂時の母が貞時の娘。新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その48-北条茂時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*5:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表」No.135「長井宗秀」の項。

三浦頼盛

三浦 頼盛(みうら よりもり、1240年頃?~1290年代?)は、鎌倉時代の武将、鎌倉幕府御家人

 

 

 

吾妻鏡』における頼盛の活動

父・盛時は三浦氏の庶流・佐原氏の出身であり(後掲【三浦氏系図】参照)、『吾妻鏡人名索引』*1P.294「盛時 三浦」の項によれば、初めは「佐原五郎左衛門尉」と呼ばれていたが、宝治合戦で本家筋の三浦泰村一族が滅ぼされた1247年頃から「三浦五郎左衛門尉」と呼ばれるようになり、同年末からは三浦氏家督として「三浦介」を称して家の再興が許されている*2

 

盛時から「三浦介」を継いだ嫡男・頼盛の活動も『吾妻鏡』において多く見られる。『吾妻鏡人名索引』P.428「頼盛 三浦」の項に従って作成すると次のようになる。

 

【表α】『吾妻鏡』における三浦頼盛の活動 

月日 表記 内容
建長3(1251) 8.24 三浦介六郎 5代将軍・藤原頼嗣由比ヶ浜での笠懸、犬追物に供奉。
康元元(1256) 7.17 三浦介六郎頼盛 6代将軍・宗尊親王の山ノ内最明寺参詣の際の「御車網代庇」の一人。この時、父の三浦介(盛時)も同行。
8.16 三浦介六郎頼盛 将軍・宗尊の指名により流鏑馬の射手。
11.23 三浦介盛時 父・盛時、北条時頼に追随して出家。
正嘉2(1258) 6.17 三浦介六郎左衛門尉 来たる鶴岡八幡宮での放生会の供奉人のリスト中に名前あり。
8.15 三浦介六郎頼盛 放生会にて五位の随兵。
文応元(1260) 11.22 三浦介六郎左衛門尉頼盛 将軍・宗尊の二所詣での精進潔斎の際の「御輿」(SP役)。
弘長元(1261) 4.25 三浦介六郎左衛門尉 極楽寺での屋敷での笠懸における射手の一人。
7.2 三浦介六郎左衛門尉 流鏑馬の役を兼ねるため、来たる放生会での随兵を辞退する旨を申し出るが認められず。
8.15 三浦介六郎左衛門尉頼盛 鶴岡八幡宮での放生会にて先陣の随兵の1人。
弘長3(1263) 7.13 三浦介 将軍・宗尊の新御所への移徒の際の供奉人を所労により辞退。この時までに、既に出家した父と同じく三浦介となる。
8.9 三浦介頼盛 将軍・宗尊上洛の際の供奉人
文永2(1265) 1.3 三浦介頼盛 越後入道勝円(=佐介時盛)の沙汰で行われた垸飯で弟・七郎(盛氏)と共に二の御馬を曳く。

 

建長3(1251)年8月24日条に、5代将軍・藤原頼嗣九条頼嗣由比ヶ浜での笠懸、犬追物に射手として供奉する人物として「三浦介六郎」が見えるが、同書(P.527)ではこの人物比定を行っていない(すなわち誰なのか不明とする)。しかし、同年正月1日条、5月15日条に「三浦介盛時」とある上、前年・翌年にも「三浦介盛時」が登場する(P.294)ため、この頃の三浦介は盛時であったと分かる。

そして三浦介六郎」とは「三浦介」の「六郎」(六男)を意味する通称であるから、この人物は三浦盛時の息子であることは確かである。康元元(1256)年7月17日条には「三浦介六郎頼盛」としてその諱(実名)が初めて現れるが、当時の三浦介も盛時であるから、建長3年の「三浦介六郎」も盛時の子・頼盛であることが分かる。従ってこれが史料における初見となる。

 

また、通称名の変化に着目すると、康元元(1256)年から正嘉2(1258)年の間に「左衛門尉」に任官し、弘長年間(1261~1263年)に「三浦介」を継いだことが窺える。

文永元(1264)年11月22日付「関東御教書」*3の宛名「三浦介殿」も頼盛で間違いなかろう。八幡宮の領所(あずかりどころ)相模国大住郡古国府(現・神奈川県平塚市四之宮)の安居頭役(あんごとうやく)を怠った際に、頼盛がその沙汰を命ぜられたことを伝える*4

 

また、文永10(1273)年のものとされる5月13日付「豊後高田荘地頭代盛実請文案」*5の「三浦介殿」、弘安8(1285)年9月晦日付「豊後国図田帳」*6豊後国大分郡高田庄(現・大分県大分市の地頭職と同庄内牧村の領家を兼ねる人物として記載がある「三浦介殿*7頼盛に比定される。

鈴木かほるによると、蒙古襲来に際し九州御家人を統率していた、鎮西東方奉行の豊後守護・大友頼泰の下で、博多湾の石築地の築造を分担していたという*8。元々頼泰とは"はとこ"の関係*9にあった。

 

 

烏帽子親について

」の名に着目すると、「盛」は父・盛時から継承したものであるから、わざわざ上(1文字目)にしている「」が烏帽子親からの偏諱と考えられる。

そしてこの字は、初出の建長3年当時の将軍・九条嗣、または執権・北条時偏諱であり、使用を許されている。では、どちらから授かったのであろうか? 

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頼盛以降の当主は「盛」字を使わず、義明より次第に遡る形で先祖に名字(名前の字)を求めたことが分かる(系図緑字部分)。このような現象は北条貞時・高時父子、長崎氏嫡流*10など他家でも見られた。 

そして、頼盛の前後の当主に着目すると、「」の字は北条氏代々の通字を受けていることが推測され、更に継も年代的に考えて北条時からの一字拝領であることは確実であろう。

細川重男は、北条時の「義」が三浦氏明 または 澄)から受けたものと説かれており*11、実際に弟の時房は三浦義の加冠により元服し初め時と名乗っていた。義時の子・政(のちの7代執権)は烏帽子親の三浦義から「村」字を受けており、義村の子・村は北条(義時の長男、政村の兄)の加冠を受けて「泰」字を授かった。

このように、元々から北条・三浦両氏間で烏帽子親子関係を結び、同じ字(偏諱)を共有することが盛んに行われており、義連の孫である盛時も北条氏(泰時か)を烏帽子親としたのではないかと推測される。実のところ盛時は、泰時の長男・時氏の異父弟(同母弟)であった。母の矢部禅尼が1203~1212年の間には泰時と離縁したという*12から、早くとも1200年代後半~1210年頃の生まれであったと思われ、元服当時の執権でもあった泰時から「時」字を許されたとみられる。

 

従って、盛の「頼」字も執権・北条時からの偏諱と判断して良いだろう*13。前述した大友(初名泰直)も時頼から一字を拝領したと伝わる*14元服の時期は、時頼が執権および得宗家督を継いだ寛元4(1246)年から、頼盛初出の建長3(1251)年8月までの間ということになる*15が、前述した盛時の生まれた推定時期との親子の年齢差の面でも妥当といえ、頼盛はおよそ1240年前後の生まれであったと思われる。 

 

 

 

北条時輔次男の謀反計画

文永9(1272)年2月、8代執権・北条時宗の命により、その庶兄で六波羅探題南方であった北条時輔が、同探題北方・赤橋義宗により討伐された(二月騒動)が、正応3(1290)年11月、その遺児(次男)であった「北条二郎なる者(実名不詳)が謀反を起こそうとして捕らえられ、斬首となる事件が起こった。以下4点の史料によって伝えられる*16

 

【史料1】『鎌倉大日記』正応3年条

十一月時輔二男北条二郎被誅

 

【史料2】『鎌倉将軍家譜』久明親王の項より

正應三年十一月時輔次男某憑三浦介頼盛謀叛被誅

 

【史料3】『鎌倉年代記』裏書 より

今年正応三…(略)…十一月、六波羅李部*時輔次男、憑三浦介入道忍来、仍搦進之、歴種々拷訊、同十一月被刎首、

*李部…式部省唐名北条時輔が式部大夫であったが故にこう呼ばれた。

【読み下し例】……時輔次男、三浦介入道に憑(よ)りて忍び来(く)、仍って之(これ)を搦め進ず、種々拷訊(ごうじん=拷問)を歴(へ)て、同十一月首を刎(は)ねらる。

  

【史料4】『保暦間記』より

正応…(略)…三年…(略)…同十一月ニ、先六波羅平時輔次男、秘ニ三浦介頼盛ヲ頼テ、謀叛ノ企有由聞ル間、搦メ進セケレハ、同月首ヲ刎ラレケリ。

【読み下し例】……時輔次男、秘(ひそか)に三浦介頼盛を頼(たより)て、謀叛の企て有る由(よし)聞る間、搦め進ぜければ、同月首を刎られけり。

 

この時、二郎が後ろ盾として三浦頼盛を頼ったことも記されている。【史料3】から判断するに、出家していた可能性が高い。『吾妻鏡』での終見以降、弘安7(1284)年には得宗・8代執権の北条時宗が亡くなっているから、かつての父同様にこれに追随した可能性も考えられる。『諸家系図纂』所収「三浦系図」では法名道法(どうほう)とする*17

文脈からすると、頼盛はこの二郎を捕縛して幕府に引き渡していることが読み取れるが、頼盛も同調を疑われて同じく処刑されたとする説もある*18

ここで考えるべきなのは「搦」(捕縛)された対象が、二郎なのか、或いは二郎・頼盛の両名なのかという点であろう。しかし「搦め進ぜる」(捕縛して差し上げる/奉る)という表現からすると、この主語(すなわち北条二郎を捕縛したの)は頼盛なのではないかと思う。自身を頼ってきた北条二郎を頼盛が捕縛し、幕府方に引き渡したのであって、頼盛が謀反に同調していたということは、上記の史料群からは読み取れないように思われる。よって、本項では1290年刑死説を否定しておきたい

 

 

頼盛死没時期の推定 

但し、前節の結論はあくまで死因について指摘したものであり、1290年頃の死去そのものを否定するものではない。前述の推定に従えば、当時の頼盛は "初老" の年齢だったことになり、鎌倉時代当時においては4, 50代で寿命を終えることも珍しくは無かった。

結論から言えば、貞時が得宗の座にあった期間(1284~1311年)内に頼盛は亡くなったと考えられる。その根拠として、まずは次の史料をご覧いただきたい。 

【史料5】延慶2(1309)年8月24日『将軍家政所下文』(『宇都宮文書』)*19 

 将軍家政所下 
  可令早三浦介時明法師法名道朝領知村井小次郎知貞跡事、 
 右、為出雲国金澤郷田地替、所被充行也者、早守先例、可致沙汰之状、所仰如件、以下
 
  延慶二年八月廿四日  案主菅野
 
    令左衛門少尉藤原   知事家
    別当相模守平朝臣*(花押)
    陸奥守平朝臣*(花押)
 
* 相模守=執権・北条師時陸奥守=連署大仏宗宣*20

http://chibasi.net/miurasoryo8.htm より拝借)

この書状は、延慶2(1309)年8月24日、将軍・守邦親王の将軍家政所よりの下文として、それまで三浦氏が地頭職を務めていた出雲国金沢郷田地の替地として「村井小次郎知貞跡」が宛がわれたことを記すものである。この時の三浦氏当主は頼盛の子・時明(ときあき)に移っていることが窺え、更に時明が「道朝(どうちょう)」と号して既に出家していたことも分かる。この当時の段階で「三浦介入道」と呼ばれる人物が2人もいたとは考え難く、頼盛は既に故人であったと判断される

 

また、次の史料にも着目しておきたい。 

【史料6】『鎌倉年代記』裏書・嘉元3(1305)年条 より

今年嘉元三…(略)…四月…廿三日、子刻、左京権大夫時村朝臣誤被誅訖、子息親類脱殃訖、五月二日、時村討手先登者十二人被刎首、和田七郎茂明、三浦介入道、使工藤右衛門入道*茂明逐電了、……(以下略)

*工藤右衛門入道:工藤杲暁(時光)。元・得宗公文所執事。

【史料5】より遡ること数年、いわゆる嘉元の乱についての史料であるが、当時の連署北条時村襲撃者の一人であった親戚の和田茂明(しげあき、中条茂明)を預かる人物として「三浦介入道」の名が見られる。頼盛が北条二郎の事件から更に15年存命で、時明が出家していなければ、この入道が頼盛である可能性も出てくるが、年代的な近さを重視して【史料5】の時明がこの頃既に出家していたと考える方が妥当であろう*21。よって、頼盛の死去はこの当時より更に遡ると考えて良いと判断される。

 

以上の考察により、頼盛は1290~1300年代前半の間には亡くなったと推測される。死因は刑死ではなく、病没か老衰の類ではないかと思われる。

 

 

脚注

*1:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館)。本項作成にあたっては第5刷(1992年)を使用。

*2:鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史 その発祥から江戸期まで』(新人物往来社、2007年)P.249。

*3:『榊葉集』所収、『鎌倉遺文』第12巻9184号。

*4:注2前掲鈴木氏著書、P.250。

*5:書陵部所蔵八幡宮関係文書25』所収、『鎌倉遺文』第15巻11260号。

*6:内閣文庫所蔵。『鎌倉遺文』第20巻15701号。

*7:渡辺澄夫「二豊の荘園について(一) ―豊後国図田帳を中心として―P.58。

*8:注2前掲鈴木氏著書、P.258。

*9:両者とも佐原義連の曾孫。頼泰の母が佐原盛連の兄弟・家連の娘(=盛時の従兄弟)である。注2前掲鈴木氏著書 P.259に掲載の系図より。

*10:長崎高重 - Henkipedia を参照。

*11:細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史 ―権威と権力―』〈日本史史料研究会研究選書1〉(日本史史料研究会、2007年)P.17。

*12:矢部禅尼 - Wikipedia を参照のこと。

*13:三浦介頼盛(外部リンク)では将軍・頼嗣からの偏諱とするが、系図に示した通り、父の盛時、子の時明は北条氏の通字を拝領したとみられるので、間の頼盛だけが将軍を烏帽子親にしたというのは現実的ではない。盛時流が事実上得宗被官化していたことも考えれば、得宗からの一字拝領と捉えるべきである。

*14:鎌倉時代の元服と北条氏による一字付与 - Henkipedia 参照。

*15:「頼」の字は当時の将軍・九条頼嗣偏諱でもあるが、時頼の「頼」は頼嗣の父・頼経から賜ったものであり、『吾妻鏡』建長2(1250)年12月3日条からは自身の邸宅で元服を遂げた六角頼綱に一字を与えた形跡が確認できる(前注当ブログ記事を参照)ので、時頼が将軍に配慮せず「頼」の字を与えることは特に問題視されなかったようである。

*16:『編年史料』参照。

*17:『大日本史料』6-2 P.558

*18:注2前掲鈴木氏著書、P.275(典拠は『保暦間記』)。三浦介頼盛(外部リンク)。海賊三浦一族 小説 歴史・時代 - 魔法のiらんど(同前)。

*19:『鎌倉遺文』第31巻23755号。

*20:この頃の相模守・陸奥守については 『金沢文庫古文書』324号「金沢貞顕書状」の年月日比定 について - Henkipedia を参照。

*21:注2鈴木氏著書 P.300でも和田茂明を預かった人物を三浦時明としている。同書P.301では、時明の孫・高継と茂明の子・茂継を「継」字を共有する烏帽子親子関係にあったと説かれているが、時明と茂明も「明」字の共通からして(疑似的な)烏帽子親子関係を結んだのではないかと思う。茂明は当初「茂貞」と名乗っていたが、高橋秀樹得宗・貞時の偏諱を避けての改名と捉えられている(高橋『三浦一族の研究』所収「越後和田氏の動向と中世家族の諸問題」第三節、吉川弘文館、2016年)が、同時に同じく得宗被官であった三浦介家にも接近しつつあったのかもしれない。茂明は逐電し斬首を逃れたが、「三浦氏が預かっていたなら三浦氏が逃がした」(→ Wikipedia日英京都関連文書対訳コーパス例文より)という見解もあるようだ。

小山秀朝

小山 秀朝(おやま ひでとも、1306年頃?~1335年)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初頭にかけての武将。

初めは得宗・北条時の偏諱を受けて小山(- たかとも)と名乗っていた。

 

 

 

小山秀朝の最期

人物の紹介記事としては異例だと思うが、最初に秀朝の晩年期の活動内容について史料で確認してみよう。 

 

(元弘2年5月10日)「先帝の御供なりし上達部ども、罪重きかぎり、遠き国につかはしけり。洞院按察大納言公敏、頭おろして、しのびすぐれつるも、なほゆりがたきにや。小山の判官秀朝とかやいふもの具して、下野国へときこゆ。花山院大納言師賢は、千葉の介貞胤うしろみにて、下総へくだる。」 (『増鏡』「久米の佐良山」) 

建武二年七月先代余類相模守次郎時行蜂起、七月廿五日入鎌倉、渋川義季小山秀朝細川頼員ママ、正しくは頼貞か。討死、……」(『鎌倉大日記』) 

「属尊氏。建武二年七月十三日戦死於武州府中。」(『続群書類従』所収「小山系図小山下野守秀朝の注記)

建武二年七ノ十三戦死于武蔵府中」(『系図纂要小山判官秀朝の注記) 

「…渋河刑部大夫・小山判官秀朝武蔵国に出合ひ、是を支んとしけるが、共に、戦利無して、両人所々にて自害しければ、其郎従三百余人、皆両所にて被討にけり。…」(『太平記』巻13「中前代蜂起事」より) 

「同建武2年)七月の初。信濃国諏方の上の宮の祝安芸守時継が父三河入道照雲。滋野の一族等高時の次男勝寿丸を相模次郎と号しけるを大将として国中をなびかすよし。守護小笠原貞宗京都へ馳申間。御評定にいはく。凶徒木曽路を経て尾張黒田へ打出べきか。しからば早早に先御勢を尾張へ差向らるべきとなり。かかる所に凶徒はや一国を相従へ。鎌倉へ責上る間。渋川刑部。岩松兵部。武蔵安顕原にをいて終に合戦に及といへども。逆徒手しげくかかりしかば。渋川刑部。岩松兵部両人自害す。重而小山下野守秀朝。発向せしむといへども。戦難義にをよびしほどに。同国の府中にをいて秀朝をはじめとして一族家人数百人自害す。」(『梅松論』:『群書類従』第20輯 合戦部)

 

最初に掲げた『増鏡』の記述は、鎌倉幕府滅亡前の元弘の乱における笠置山陥落の折に捕らえられた洞院公敏(出家して宗肇)下野国に流刑となる際に、秀朝が同行したというものである*1

他の史料ではその秀朝が、建武2(1335)年、信濃国で挙兵した北条時行らの軍勢に攻められて自害したことを伝えている(中先代の乱*2

中先代の乱の内容・時期等についてはこちらのページに掲載の史料で裏付けられる。

sakumotuki.web.fc2.com

 

尚、幕府滅亡時に後醍醐天皇側に転じた秀朝は、建武政権下で下野守に任ぜられ、建武年間の間、下野国守護であったとされる。 

d.hatena.ne.jp

 

 

小山秀朝の系図上での位置

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こちら▲は、系図集としては比較的信憑性が高いとされる『尊卑分脈』に収録の小山氏系図である。前田家所蔵脇坂本を底本とする、吉川弘文館より刊行の「国史大系」本に拠ったものであるが、秀朝と氏政については別説も紹介されている(※「秀朝、按正宗寺本…」および「氏政、按系図纂…」以下の小文字の注記は本来ページの上部(ヘッダー)に書かれているものを都合上移したものなので、本来の系図には記載されていないことに注意して頂きたい)

この図で「小山秀朝」に該当するのは、①「本名秀ー」と注記される貞朝、②貞朝の長男・秀朝、③「秀朝 又改朝氏」と注記される朝郷、の3名である。前節に紹介した史料で見る限り、最終的な名乗りが「秀朝」であったと考えるべきであろうから、ひとまず該当し得るのは②のみである

しかし、②が父である貞朝(①)の初名を名乗り、更に甥の朝郷(③)までもが一時期同名に改めていたとするのはどうも違和感があり、朝郷が「秀朝」の後に従兄弟と同名の「朝氏」に再改名したというのは不自然と言わざるを得ない。加えて、②の秀朝が任官したはずの「下野守」は、弟の高朝の項に書かれている。やはりこの系図は何かしらの混乱を来しているのではないかと思われる。

 

加えて「秀朝」を称していた貞朝の注記を見ると、同じく「下野守」であったことの他、「徳治二ー関東下向之時頓死」(=1307年死去)とも記されることから、先行研究における史料上での「小山判官」・「小山下野守」の人物比定に際しても混乱が生じることもあった。これに関して、次の2点の史料を確認しよう。

 α:元亨3(1323)年10月27日:北条貞時十三回忌法要において「小山下野前司」が銭百貫文を寄進(『円覚寺文書』所収「北条貞時十三年忌供養記」*3

 β元徳2(1330)年10月1日「小山下野前司他界 貞朝 四十九(『常楽記』)

前述の『尊卑分脈』の記載を採用したのか、貞朝が既に亡くなっているとしてαでの「小山下野前司」を秀朝とする見解もあった*4。しかし、当時の過去帳であるβを否定する根拠は無く、通称名の一致と年代の近さからして、αでの「小山下野前司」=貞朝と判断して間違いなかろう*5。「下野前司(=前下野守)」という通称名から、1323年の段階では既に下野守を辞していたことが窺え、再任することなく1330年に亡くなったことも分かる。

従って、鎌倉幕府滅亡後の「小山下野守(秀朝)」が貞朝であることはあり得ず、その次代を指すと考えるべきである。

 

それを踏まえた上で、次の史料を確認しておきたい。

 

「今年建武ニ 七月信濃国凶徒蜂起襲鎌倉直義没落護良親王遇 藤原高朝按小山氏武蔵国府自害……」(『元弘日記裏書』*6

 

時期や内容を見れば、前節に紹介した中先代の乱についての記述であることは明らかである。ところが、武蔵国府中(現在の府中市に相当するが、本来は国府の所在地を意味する)に於いて自害した人物の名は「高朝」となっている。類似した実名を持ち、藤原姓であることから「按小山氏」と注記されたのであろうが、まさに他の史料での「小山秀朝」の最期に一致する。従って、高朝=秀朝 と判断される。

前掲の『尊卑分脈』では改名前後の同人であるはずの高朝と秀朝を、兄弟として別人としてしまっていたのである*7。わざわざ改名する理由を考えれば、秀朝は高朝の改名後の人物とすべきであろう。鎌倉幕府滅亡後のこの頃、得宗時からの偏諱と思われる「」の字を棄てて改名する者が多く、朝(秀朝)もその一人だったのである。 

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すると『尊卑分脈』で別々に書かれていた、秀朝の子・朝氏と、高朝の長男・朝郷(のち朝氏) も同人ということになる。実際の史料で確認してみると「朝」のちに「朝」を名乗っていたことが分かり*8、初め足利尊偏諱を受けていたのを、後に改めたと判断される(従って『尊卑分脈』小山朝郷の項での改名の順番は誤りである)朝・朝という改名後の名前に着目すると、祖先・藤原秀郷にあやかったものと推測できよう。

 

 

小山秀朝の活動 ―鎌倉幕府滅亡前後の家督として―

元徳2(1330)年に父・貞朝が亡くなってから、建武2(1335)年の中先代の乱で自害するまでの秀朝の活動内容を辿ってみよう。

 

次に示す2つの表は、以前記事にて紹介した、元弘の乱における幕府軍のメンバーを記した史料である。

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〔表A〕「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』41巻32135号)

楠木城 
一手東 自宇治至于大和道
  陸奥(大仏貞直)     河越参河入道(貞重)
  小山判官    佐々木近江入道(貞氏)
  佐々木備中前司(大原時重)   千葉太郎(胤貞)
  武田三郎(政義)     小笠原彦五郎貞宗
  諏訪祝(時継カ)      高坂出羽権守(信重)
  島津上総入道(貞久)   長崎四郎左衛門尉(高貞)
  大和弥六左衛門尉(宇都宮高房)   安保左衛門入道(道堪)
  加地左衛門入道(家貞)   吉野執行
   
   一手北 自八幡于佐良□路
  武蔵右馬助(金沢貞冬)     駿河八郎
  千葉介(貞胤)   長沼駿河権守(宗親)
  小田人々(高知?)    佐々木源太左衛門尉(加地時秀)
  伊東大和入道(祐宗カ)   宇佐美摂津前司(貞祐)
  薩摩常陸前司(伊東祐光?)   □野二郎左衛門尉
  湯浅人々       和泉国軍勢
   
一手南西 自山崎至天王寺大
  江馬越前入道(時見?)   遠江前司
  武田伊豆守(信武?)   三浦若狭判官(時明)
  渋谷遠江権守(重光?)   狩野彦七左衛門尉
  狩野介入道(貞親)   信濃国軍勢
   
一手 伊賀路
  足利治部大夫(高氏)

  結城七郎左衛門尉(朝高)

  加藤丹後入道   加藤左衛門尉
  勝間田彦太郎入道   美濃軍勢
  尾張軍勢  
   
同十五日
  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参
同十六日
  中村弥二郎 自関東帰参

 

〔表B〕「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』41巻32136号)

大将軍
  陸奥(大仏貞直)遠江国   武蔵右馬助(金沢貞冬)伊勢国
  遠江尾張国   武蔵左近大夫将監美濃国
  駿河左近大夫将監讃岐国   足利宮内大輔(吉良貞家)三河国
  足利上総三郎吉良貞義   千葉介(貞胤)一族伊賀国 
  長沼越前権守(秀行)淡路国   宇都宮三河権守貞宗伊予国
  佐々木源太左衛門尉(加地時秀)備前国   小笠原五郎阿波国
  越衆御手信濃国   小山大夫判官一族
  小田尾張権守(高知)一族   結城七郎左衛門尉(朝高)一族
  武田三郎(政義)一族并甲斐国   小笠原信濃入道一族
  伊東大和入道(祐宗)一族   宇佐美摂津前司(貞祐)一族
  薩摩常陸前司(伊東祐光?)一族   安保左衛門入道(道堪)一族
  渋谷遠江権守(重光?)一族   河越参河入道(貞重)一族
  三浦若狭判官(時明)   高坂出羽権守(信重)
  佐々木隠岐前司(清高)一族   同備中前司(大原時重)
  千葉太郎(胤貞)  
     
勢多橋警護
  佐々木近江前司(六角時信)   同佐渡大夫判官入道(京極導誉)

(*以上2つの表は http://chibasi.net/kawagoe.htm#sadasige より拝借。)  

 

表に含まれる通り「小山(大夫)判官」が従軍していることが見える。「大夫判官」とは検非違使庁の尉(三等官、六位相当)で、五位に叙せられた者を指す呼称である*9。既に亡くなっているので言うまでもないが、前下野守であった貞朝ではあり得ず、『尊卑分脈』に「使」(=検非違使と付記される高朝家督を継承したことが分かる*10

そして、時期と通称名の一致から、前述の『増鏡』での「小山の判官秀朝」とも同人と判断される*11。既に述べた通り、これも元弘の乱に関連した内容だが、南北朝時代に成立したが故に、改名後の名前で書かれてしまっただけであろう。

 

その後、鎌倉幕府滅亡時における「小山判官」の動向は『太平記』に描かれている。 

【史料C】『太平記』巻10「鎌倉合戦事」より

去程に、義貞数箇度の闘に打勝給ぬと聞へしかば、東八箇国の武士共、順付事如雲霞。……(中略)……搦手の大将にて、下河辺へ被向たりし金沢武蔵守貞将は、小山判官・千葉介に打負て、下道より鎌倉へ引返し給ければ、…(以下略)

関東の武士を結集させながら勢力を増大させた新田義貞の軍勢は、大多和義勝らの寝返りもあって連勝を重ね、更に倒幕側に転じる武士が続出した。小山判官(高朝・秀朝)もその一人として、千葉介(千葉貞胤)と共に金沢貞将を破ったことが記されている*12

 

 そして、鎌倉幕府滅亡の翌年に出された次の史料にも着目しておきたい。 

【史料D】建武元(1334)年8月22日付「大膳権大夫某〔中御門経季奉書」(『茂木文書』)*13

(端書)「[  ] 小山下野守已遂其節之間、此御教書者、[  ] 渡、仍正文帯之者也 」 

[  ] 茂木左衛門尉知貞代祐恵□□□〔申、下野〕国東茂木保事、重訴状如□〔此〕、□□〔且任 または 早任〕綸旨牒、可沙汰付祐恵之由□□〔先度〕〔被〕仰下之処、干今不事行云々、[    ]□〔不〕日可被遂其節、若尚有[    ]任法、可加治罰、使節又遅□□□〔引者、可〕処罪科之状、依仰執達如件、

 

建武元秊八月廿二日  大膳権大□〔夫〕

 大内山城入道殿

 

 (※□ および [  ] は欠字部分、〔 〕はそれを補ったものを示す。)

この書状の端裏書には、東茂木保の茂木知貞祐恵への打渡しを「小山下野守」が遂行した旨の記載がある。繰り返すが、これが貞朝であるはずはなく、秀朝に比定される*14。すなわち、鎌倉幕府滅亡後の建武政権下において、秀朝は亡き父の最終官途であった下野守に任ぜられたのである。この頃には「秀朝」に改名したものと思われるが、『元弘日記 裏書』では「高朝」と書かれている(前述参照)ことから、公家側の一部には伝わっていなかったのかもしれない。

 

秀朝の最期については第一節目に前述した通りで、『太平記』・『梅松論』(ともに軍記物語)では300人ほどの家来と共に自害したと伝えるが、その数字は強ち的外れでもないという*15。1330年で亡くなった時の貞朝の享年が49である(前述『常楽記』参照)ことからすると、この時の秀朝は30歳前後の若さであったと推測されている*16。嫡男の朝氏(朝郷)がまだ「常犬丸(とこいぬまる)」という童名の幼子*17でありながら、惣領の秀朝と一族家人の多くを失うこととなり、小山氏にとって大きな痛手となったのである。 

 

 

脚注

*1:佐藤進一・新川武紀両氏はこれを秀朝の下野国守護在職を示す傍証として捉えられている。松本一夫「南北朝初期における小山氏の動向 ―特に小山秀朝・朝氏を中心として―」(所収:『史学』55-2、三田史学会、1986年)P.118 より。典拠は『小山市史 史料編中世補遺』142号 および 新川「下野国守護沿革小考」(所収:『栃木県史研究』21号)。

*2:前注松本氏論文、P.119。

*3:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号。

*4:小山市史 史料編中世補遺』40号。

*5:注1前掲松本氏論文 P.118。湯山学「小山出羽入道円阿をめぐってー鎌倉末期の下野小山氏」(所収:『小山市史研究』三号)。

*6:元弘日記裏書 (1巻) - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム 5ページ目。

*7:尊卑分脈』では他にも同様の例が見られる。例えば、北条時頼の弟として、同じ「遠江守」の官途を持つ時定、為時を載せるが、実際の書状での花押の一致から、時定が後に為時と改名した、同人であったことが判明している。

*8:注1前掲松本氏論文、P.120~125。

*9:大夫の判官(タイフノホウガン)とは - コトバンク より。

*10:注1前掲松本氏論文、P.118。

*11:前注同箇所。

*12:前注同箇所。

*13:『大日本史料』6-1 P.488。『栃木県史 史料編中世二』茂木文書 八号。『小山市史 通史編Ⅰ 史料補遺編』P.12~13 一八号では、中御門経季による発給書状とする。宛名の「大内山城入道」は小山氏一門・結城時広の庶兄である大内宗重の子孫とみられ、『太平記』巻3「笠置軍事付陶山小見山夜討事」に笠置山攻めの際の幕府軍のメンバーとして見える「大内山城前司」の出家後の姿と推定される(注1前掲松本氏論文 P.119、註(9) より)。

*14:注1前掲松本氏論文、P.118。

*15:注1前掲松本氏論文、P.119。

*16:注1前掲松本氏論文、P.123 註(1)。仮に享年を30とした場合、1306年生まれとなり、初め「高国」と名乗った足利直義や、正和3(1314)年に9歳で元服した六角時信(ともに『尊卑分脈』による)と同い年となる。生年を多少前後させても元服時の得宗・執権は北条高時となるので、この点から言っても秀朝がその偏諱を受けた「高朝」と同人であることが裏付けられよう。

*17:注1前掲松本氏論文、P.120。

得宗被官・長崎氏特集

今月主体的に扱ったのは、鎌倉時代後期に御内人得宗被官)の筆頭格として著名な長崎氏である。 

その中でも北条高時政権期に安達時顕と双璧を成す形で事実上の最高権力者であった長崎円喜(えんき)は、北条時宗の死後、その子・貞時の内管領として安達泰盛一族を打倒して勢力をふるった平頼綱の甥とされる(『保暦間記』)。

「長崎入道」または「長崎左衛門入道」と呼ばれる通り、円喜は出家後の法名であるが、近年、新たに紹介された史料によってそれ以前の俗名が「(もりむね)」(長崎左衛門尉盛宗)であったことが指摘されている。頼綱の次男・飯沼資とほぼ同世代とする見解があり、恐らくは時からの一字拝領であろう。

一方で、出家の時期については、次の金沢貞顕書状により、延慶元(1309)年4月9日の段階では既に済ませていたことが確認できる。 

 

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北条時の元服から3ヶ月後にあたることから、『系図纂要』に掲載の俗名「(たかつな)」を時から偏諱を受ける形で名乗った可能性はほぼ無いとされてきた。

しかし、当ブログでは長崎氏嫡流の名乗りに着目し、反対に、長崎盛宗が出家して円喜と号するまでの僅かな期間「高綱」に改名していたとする説を次の記事にて掲げた。 

 

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すなわち、円喜の嫡男・長崎高(たかすけ)の「資」が平盛に通じていることは既に指摘されているが、嫡孫・長崎高(たかしげ)の「重」も資盛の父・平盛に由来するものと考えられ、代々得宗時の1字を受けた「」の名乗りは「盛―盛―盛(『尊卑分脈』)という系譜を想定し、次第に遡った先祖に名前の1字を求めていたことが分かる(このような事例は、得宗の貞時・高時父子、三浦氏などでも確認できるものである)。

このことからも、長崎氏は平資盛の末裔を自称しており、『太平記』巻10での高重の名乗りも自身の系譜を語っていたことが裏付けられる。

 

そうした点も踏まえると、「現存する唯一の長崎氏系図」とされる『系図纂要』所収「平朝臣姓関一流」中の長崎氏系図はただ出鱈目を記載したものではないということが言えよう。 

 

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こちらの記事では、系図での記載を改めて残存する史料と照らし合わせる作業を行い、成立した江戸幕末期当時における研究成果として捉え得ると結論づけた。

後世の者による加筆や書き換え(改竄)が施されることもあるため、後世に成立の系図の方が比較的信憑性が低いとされるが、だからと言って直ちに切り捨てるべきものではないということを、この記事でもって主張した次第である。

『金沢文庫古文書』324号「金沢貞顕書状」の年月日比定 について

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金沢貞顕北条貞顕)の肖像画(国宝、称名寺蔵、神奈川県立金沢文庫保管)

はじめに

本項で扱う史料は、『金沢文庫古文書』324号として収録の「金沢貞顕書状」というものである(後掲【史料A】参照)。貞顕の書状は膨大に残されており、鎌倉時代後期の歴史研究に不可欠なものとなっているが、ほとんどが何時の物か不明であり、先行研究で時期の推定がされてきたが、324号書状についても、既に次の論文が出されている。

 

● 田井 秀金沢文庫古文書三二四金沢貞顕書状の年代について」

(『金沢文庫研究』118号、1965年)

 

これに拠ると、同書状は、延慶2(1309)年4月10日付のものとされるが、本項でも同様の考証作業を記したいと思う。というのも、残念ながら筆者はこの論文を確認できていないのであるが、あえてその状態で独自の考察を行うことは決して無意味ではないと思ったからである。

結論から言えば、田井氏の言われる延慶2年4月10日で正しいと思う。但し、その理由が田井氏と全く同じなのかは分からない。しかし、田井論文とは独立した本項で、論文後に出された先行研究も踏まえた考察が述べれば、かえってその補強になるかと思う。

 

 

書状中の人物の比定 

【史料A】『金沢文庫古文書』324号「金沢貞顕書状」*1 

太守禅門・奥州・武州・貞顕・洒掃・別駕・奉行信州・合奉行長入道・尾金等令出仕候了。相州御不参候也。

 

昨日長崎左衛門為御使御寄合参勤事被仰下候之間、則令出仕候了。面目之至無申計候。武州同被仰下候之際、出仕候了。徳政以下条々御沙汰候き。御神事以後入見参。諸事可申承候。(以下欠)

(*細川重男氏*2・永井晋氏*3 による人物比定)

太守禅門得宗貞時}・奥州大仏宗宣武州北条煕時・貞顕金沢貞顕=※筆者本人)・洒掃{長井宗秀}・別駕{安達時顕}・信州太田時連・長入道長崎円喜・尾金{尾藤時綱}

相州北条師時 / 長崎左衛門長崎高資

 

 

(1)書状の筆者と寄合衆のメンバー

この書状で貞顕は、昨日(前日)に長崎左衛門尉が得宗・貞時の使者として自身のもとに赴き、寄合に参勤するよう命じられたことを綴っている*4。すなわち、冒頭に挙げられている人名は寄合衆として参加していたメンバーであることが分かる。こういった書状類では、官職による通称名で書くのが通例であるが、その通称を分析すると次の通りである。 

太守禅門=出家後の得宗

奥州陸奥

武州=武蔵守

貞顕金沢貞顕(筆者本人)

洒掃掃部頭唐名「洒掃尹」*5の略。 

別駕=諸国の介(すけ)の唐名*6。よってこの者の官職(通称)は「~介」である。

信州信濃

長入道=長崎入道の略。他にも「長禅門」など "長崎" を「長」と略記した書状が確認できる。

尾金=「金」は左衛門尉の唐名(本来は衛門府のそれ)である「金吾」*7、「尾」は長崎氏と同様で尾藤、各々の略記。すなわち尾藤金吾=尾藤左衛門尉。

相州=相模守。執権就任者の役職。

 

この中で唯一「貞顕」だけが実名(諱)で記されているので、これは書状を書いた本人=金沢貞顕であると判断できる。 

 

 

(2)期間の絞り込み

【史料A】における「太守」は将軍権力代行者=“副将軍”たる得宗にのみ許された称号*8を指すものであり、金沢顕(1278年生*9)にとってのそれになり得るのは「」の偏諱を与えた*10烏帽子親の*11、またはその嫡男で最後の得宗となった高時のどちらかである*12

 

そして「禅門」(=出家後)であることから、この書状は

Ⅰ.貞時の出家(1301.8.23) ~ 貞時死去(1311.10.26)

Ⅱ.高時の出家(1326.3.13) ~ 貞顕出家(1326.3.26)

のいずれかの期間内に限られる。

Ⅱの方は、書状の筆者が自身を「貞顕」と書いているから、いわゆる「嘉暦の騒動」より前になると判断できる(後掲【史料B】等、出家後は法名の「崇顕(すうけん)」で署名している)。

 

 

(3)奥州・武州・相州

陸奥守・武蔵守・相模守、この3つの国守は北条氏に大変ゆかりのある役職である。

▲北条氏略系図こちらのページより拝借)

 

陸奥は2代執権・北条義時が一門では最初に就任し、間を空けて*13息子の北条重時・政村が任官して以降は北条氏一門*14、更に大仏宣時が1289年に任じられて以降はその子孫である大仏(おさらぎ)流北条氏世襲となった。Ⅰの場合は宗宣、Ⅱの場合は維貞ということになる。

武蔵守は義時の弟・時房が最初に任官し、その後第3代執権の泰時が任じられて以降は、時房の子・朝直、第4代執権の経時……と北条氏一門の世襲となり、貞顕もこの役職を経ている(1311~1319年*15)。Ⅰの期間には時村久時煕時(凞時とも)が就任、Ⅱの場合は赤橋守時(久時の子)となる。

相模守は義時が執権就任の数ヶ月前に任官(のち陸奥守に転任)したのが最初で、次いで武蔵守から転任した弟の時房、そして義時の子・重時と連署を務めた人物が任ぜられたが、のち陸奥守に転任した重時から事実上譲られる形での任官となった時頼*16以降は、得宗を含む執権就任者による世襲となった*17。Ⅰの場合は師時となるが、Ⅱは高時が出家により執権職を辞してから、守時が第16代執権として武蔵守から転任するまでの空白期間にあたる。

 

改めて【史料A】を見ると、太守禅門(得宗)・相模守(執権)・陸奥守・武蔵守・貞顕の5名が別々の人物として書かれている。言うまでもないが出家して「相模入道」となった得宗のほかに、執権となった相模守が存在することになり、よって大仏宗宣陸奥守と11代執権を兼ねていた期間(1311.10.3~1312.5.29)のものではないことも確実となる*18

また、武蔵守がいることから、【史料A】が貞顕の武蔵守任官中(1311~1319年)のものではないことも裏付けられるが、同時に貞顕は相模守(執権)とも別人ということになる。すると、そもそもⅡはほぼ貞顕の執権在任期間(16日~26日)そのものであるから、これでⅡであることはあり得ず*19Ⅰの期間内であることが確実となる。貞顕はわずかな執権在任期間で相模守には任官することは無かった。

 

以上により、【史料A】は

Ⅰ’.貞時の出家(1301.8.23) ~ 陸奥宗宣の11代執権就任(1311.10.3) 

の間のものということが分かり、同時に、

太守禅門 = 貞時 (法名崇演・前執権)

相州 (相模守・10代執権) = 師時

奥州 (陸奥守・執権就任前) = 宗宣

 であることも確定する。但し師時が存命でなくてはならないので

Ⅲ.貞時の出家(1301.8.23) ~ 10代執権相模守師時死去(1311.9.22)

と推定できよう。

 

 

(4)他人物の比定①

上記の期間推定に従って、他の人物も確定させてみよう。

 

洒掃掃部頭=長井宗秀法名:道雄、貞時に追随して出家)

別駕=安達時顕(秋田城介)

まず、この2名は婚姻関係等を通じて金沢家と深い関係にあり、他の貞顕書状との照合によって特定が可能である。加えて次の人物も比定し得る。

 

信州信濃守)太田時連*20

:1298年任官。1326年の高時の出家に追随後「信濃入道々大」法名:道大)と呼ばれている*21ので最終官途が信濃守であったと判断でき、この時までの在任であったことも分かる。

尾金(尾藤左衛門尉)=尾藤時綱(のち貞時[崇]の死後に出家して「心」)

:正安3(1301)年12月24日付「関東御教書」(『島津家文書』)*22に「日向国臼杵郡田貫田尾藤左衛門尉時綱領」とあり*23、Ⅲの期間の「尾藤左衛門尉」や「時綱」がのちの演心に比定される。 

 

以上を踏まえた上で再度人物の整理をすると、

太守禅門{貞時}奥州{宗宣}武州{時村 or 久時 or 煕時 ?}・{貞顕}洒掃{長井宗秀道道別駕{安達時顕}信州{太田時連・長入道・尾金{尾藤時綱}/ 相州{師時}

となる。

 

 

(5)他人物の比定② :「長入道」「長崎左衛門」

「長入道」は、前述した通り「長崎入道」の略記である。

例えば、次に掲げる【史料A】とは別の貞顕書状に記載が見られる。

【史料B】(1331年?)正月10日付 金沢貞顕書状

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出家後の「崇顕」名で書かれたものだが、ここには長崎氏一門の人名が複数並ぶ。「○郎」と書かれる者に対して単に「長崎入道」とだけ書かれる人物は、一門をまとめる惣領(嫡流の当主)の立場にあったことが窺えよう。「同(長崎)三郎左衛門入道」も同じく出家していた身だったが、出家前の通称が「三郎左衛門尉」であったため、呼称の面で区別されている。

「長崎入道」は同時期の史料を見れば長崎円喜に比定し得る。分かりやすい例を数個紹介すると次の通りである。

保暦間記』に「…彼(高時)内官領長崎入道円喜ト申ハ、正応ニ打レシ平左衛門入道カ甥光綱子…」、「…高時官領長崎入道老耄ニ依テ、子息長崎左衛門尉高資ニ、彼官領ヲ申付ク。…」とある。

太平記』巻9「足利殿御上洛事」、巻10「長崎高重最期合戦事」・「高時並一門以下於東勝寺自害事」に「長崎入道円喜」とあり、巻2「長崎新左衛門尉意見事付阿新殿事」文中の「執事長崎入道が子息新左衛門尉高資」は『保暦間記』に一致する。

増鏡』「叢(むら)時雨」に「…此の頃、私の後見には、長崎入道円基〔ママ、円喜〕とか言ふ物有り。…」とあり。 

 

【史料C】『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条に引用の「丹波長周注進状」

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多くの史料で「長崎入道」とだけ呼ばれた円喜だが、この【史料C】では「長崎左衛門入道円喜」と呼ばれている。この記載から出家前の通称が「長崎左衛門尉」であったことが分かる*24

 

以上の内容を踏まえた上で【史料A】を再確認してみると、「長入道(=長崎入道)」のほかに「長崎左衛門(尉)」なる者の記載があるため、この2人は別々の人物であり、円喜はこの段階で「長崎左衛門入道」と称して出家していたことが分かる。 

 

では「長崎入道円喜」に該当する人物は誰か。

『増訂豆州志稿』巻13には「長崎光綱 太郎左衛門尉 [増] 光盛ノ嫡子、髠シテ円喜入道ト称ス 武家系図等ニハ円喜ヲ光綱ノ子高綱トス ……」とある*25が、光綱はⅠ’より前の永仁5(1297)年には既に亡くなっている*26から、前述の『保暦間記』に拠って「長崎入道円喜」は「光綱ノ子」とすべきであろう。「長崎左衛門」は同じく『保暦間記』に従い「子息長崎左衛門尉高資」と判断できる。この『増訂豆州志稿』にある通り、「武家系図」が指すと思われる『系図纂要』によれば、光綱の子、高資の父である高綱の注記に「入道円喜」とある。

 

ところで、Ⅲの時期(1301~1311年)には「長崎左衛門尉」と書かれた史料が幾つか残されている。既に亡くなった光綱ではあり得ない。光綱が亡くなる前年にはその嫡男と思わしき「長崎新左衛門」なる人物の登場が確認でき、「長崎左衛門(=光綱)父子」と書かれた部分も見られる*27。すなわち光綱がまだ存命の時期に、その嫡男が同じく左衛門尉に任官したので区別されて「新左衛門」と呼ばれたのだが、光綱の死後はその必要性が無くなったため「長崎左衛門尉」と称されるようになったと考えるべきであろう。

光綱の死後直ちに出家していれば「長崎新左衛門入道」と呼ばれてもおかしくはないはず*28だが、その直後の時期においては「長崎入道」なる者は確認できない。そしてその段階で「子息長崎左衛門尉高資」が出てくるという想定も現実的ではなかろう。

よってⅢの時期における「長崎左衛門尉」は出家前の円喜(高綱)であり、【史料A】の段階までに出家したと推測できる。

*【史料A】での「長崎左衛門」を長崎高資としなければ、その父・円喜の出家前ということになるが、その場合「長崎入道(=長崎左衛門入道)」に該当する人物がいなくなってしまう。光綱は出家しないまま既に亡くなっているため、この「長崎入道」(長崎左衛門尉・先代)を円喜、「長崎左衛門」(長崎左衛門尉・当代)を高資とするしかないのである。

 

近年『小笠原礼書』「鳥ノ餅ノ日記」徳治2(1307)年7月12日条に「成就御所(成寿、のちの北条高時」の矢開においてその御剣役を務める人物として「長崎左衛門尉盛宗」とあるのが確認された。Ⅲの時期における「長崎左衛門尉」=出家前の円喜(高綱)は、通称名からこの長崎盛宗と同人とみなして良いだろう*29

よって【史料A】の時期は

Ⅳ.長崎盛宗 [円喜] 在俗(1307.7.12) ~ 師時死去(1311.9.22)  

の間に絞り込める。  

 

 

(6)貞顕の鎌倉下向時期

ここで書状の筆者本人である金沢貞顕について確認しておきたい。というのも、六波羅探題南方として上洛していた時期がⅢの期間内に相当するからである。冒頭で前述した通り、【史料A】に挙げられているのは鎌倉幕府の寄合衆メンバーであり、そこに貞顕が参加するには、鎌倉に戻っていなければおかしい

「関東開闢皇代并年代記(かんとうかいびゃくこうだいならびにねんだいき)」によれば、延慶2(1309)年正月17日に鎌倉に下着したとするが、同日付で称名寺長老・釼阿(けんあ)に送った書状により誤りであるという。但し21日には北条高時元服式において御剣役(みつるぎやく)を仰せつかったようなのでこの期間内であることは間違いなかろう。寄合への参加はこれ以後ということになる。

但し、同3(1310)年6月25日には貞顕は六波羅探題北方として再度上洛する運びとなり、寄合への参加は鎌倉に戻り、再び上洛するまでの間であることは確実である*30)。

 

よって【史料A】の時期はⅣを修正し

Ⅴ.貞顕鎌倉下着後(1309.1.21) ~ 貞顕再上洛(1310.6.25)   

の間と更に絞り込める。 

 

 

(7)他人物の比定③ :「武州

Ⅲの期間に武蔵守であった人物の在任期間を示すと次の通りである。 

  武蔵守在任
北条時村*31

1282.8.23

1304.6.6

赤橋久時*32

1304.6.6

1307.2.9

北条煕時*33

1307.2.9

1311.10.24

 

前節で【史料A】の時期をⅤの通りに推定できたので、当該期の武蔵守は北条煕時で確定する。 

これにより寄合衆全員の人物比定が完了し、

太守禅門{貞時}奥州{宗宣}武州{煕時[当時貞泰?])}{貞顕}洒掃{長井宗秀道道別駕{安達時顕}信州{太田時連長入道{長崎盛宗高綱]入道円喜尾金{尾藤時綱}/ 相州{師時}

という、従来の説と同じ結果となった。

 

 

書かれた時期の推定 

さて【史料A】の寄合はいつ行われたのであろうか。

鎌倉年代記』応長元(1311)年条・北条熙時の項にある経歴の記載の中に「延慶二四九為寄合衆」(延慶2年4月9日寄合衆と為(な)る)とあるのが見える。よって、"武州" 熙時が参加しているこの【史料A】がその日の寄合のメンバーを伝えているものと判断できる。以後貞顕の再上洛までの他の日程で寄合が行われた様子は確認できない。

従って、4月9日の寄合を「昨日」と記す【史料A】は、その翌日、延慶2(1309)年4月10日付のものと推定される。ちなみにこの時、貞顕は越後守であった*34

 

 

 

長崎円喜の出家時期

【史料A】は、高時政権期に事実上の最高権力者として多数の史料に見える「長崎入道円喜」の初出になり得る史料として注目される。

また、『東寺百合文書』 延慶3(1310)年2月7日付「六波羅注進状案」の宛名に「長崎左衛門入道殿*35と書かれている。六波羅探題(北方:右馬権頭貞顕/南方:越後守時敦)から訴訟事件についての裁決を委ねるために訴陳状・問注記などを添えて幕府に送られた文書である*36が、得宗への窓口の役割を担うこの「長崎左衛門入道」は【史料C】との照合により、貞時の内管領得宗家執事)であった長崎円喜(『系図纂要』)と同人とみなせる。

同年ではあるが、前越後守であった貞顕が六波羅探題北方として上洛し右馬権頭となったのは6月、翌7月に北条時敦が同探題南方として上洛し、8月に越後守となったとされる*37ので、書状の日付との整合性にはやや疑問があるが、同年の段階での円喜の登場は認められよう*38。 

貞顕が鎌倉に居たⅤの期間内に【史料A】の寄合が行われたのは確実であり、その席に奉行の1人として参加する「長入道(長崎入道)」と、この期間内の史料である「六波羅注進状案」の宛名「長崎左衛門入道」はともに長崎円喜で間違いない。

 

そして【史料A】には「長崎左衛門入道」とは別に、得宗の使者として「長崎左衛門(尉)」が登場する。「○郎」等が付かずに単に「長崎左衛門尉」と称される人物は長崎氏嫡流(光綱―高綱(円喜)―高資:『保暦間記』・『系図纂要』)の者に限られていたから、この人物はそれまでの「長崎左衛門尉」であった「長崎左衛門入道」と同じ左衛門尉に新たに任官した、左衛門入道の嫡男と考えられる。よって前述の通り、円喜高資父子の組み合わせしかあり得ない。長崎円喜は延慶年間には出家していたこと確実である

 

あわせて次の書状を見ておきたい。

【史料D】『金沢文庫古文書』246号「金沢貞顕書状」

彼の事、十月廿九日申せしめ候と雖も、便宜なきにより、いまだ披露せずの由、長全申せし候の間、周章極まりなく候、連日御酒、当時何事もさたありぬとも覚えず候、歎き入り候、歎き入り候、また山門の事により候て、六波羅使者夜前下着し候、去年注進の事、御左右遅々の由にて候、さしたる事は候はねども、□□しく(以下欠)

永井晋によると、この文書の紙背が応長元(1311)年8月下旬の奥書を持つ釼阿本の『後七日法道場荘厳儀』と『後七日法雑事』であることから、高時の代まで下ることはあり得ず、貞顕が鎌倉で政務をとっていた期間(=Ⅴ)内で「去年」と年が変わっていることから、延慶3(1310)年初頭のものと推定されている。 

*昔は紙が貴重だったため、一度使われた紙の余白や裏面を使って再利用することが行われていた(紙背文書)。釼阿は貞顕から送られた【史料D】の裏面を使って『後七日法道場荘厳儀』および『後七日法雑事』の文面を書いたのであろう。他の例による紙背文書の説明はこちらを参照。

この史料に「長全」と見えるのが長崎円喜と推定されているが、「長禅門」の類の呼び方(或いは略記、漢字の誤記)なのかもしれない。同時期の史料である前述の「六波羅注進状案」で円喜の出家は確かめられるので、それを裏付ける史料となり得よう。

得宗・貞時について「連日御酒、当時何事もさたありぬとも覚えず候、歎き入り候、歎き入り候」と評するこの書状からは、これを諫めるべく内管領の円喜に奏上を頼んだ用件が年を越しても未だに奏上されていないことに貞顕が慌てている様子が窺える。

 

関連するものとして次の史料も確認しておきたい。

【史料E】1308年「中原政連諫草」(尊経閣文庫所蔵)

早以此趣可洩達給、政連誠惶誠恐謹言 

徳治三八月 日  出雲介父云々筑後権守政連

進上 長崎左衛門尉殿

この史料も貞時の行状を諫めた披露状であり、細川氏は宛名の「長崎左衛門尉」を盛宗=円喜に比定されている*39。前述した、のちの「六波羅注進状案」での「長崎左衛門入道殿」に同じく、内管領として得宗・貞時への窓口の役割を担っているので、【史料A】での「長入道」(円喜)とは同人で、「長崎左衛門」(高資)とは別人と判断できよう。

よって、細川氏徳治3(1308=延慶元)年8月~延慶2(1309)年4月9日の間に円喜が出家したと推定されている。

 

ところで、筆者は次の記事において、円喜が『系図纂要』に掲載の俗名「高綱」を名乗った可能性があったことを指摘した。 

historyofjapan-henki.hateblo.jp

綱」の「高」は北条時の偏諱であり、 名乗ったとすれば高時が元服した延慶2年1月21日以降で、その後3ヶ月の間に出家したということになる。細川氏はこれを「現実的な想定ではない」として否定されたが、筆者はむしろ、前述した出家の推定時期の最中に高時の元服が行われていることこそがその裏付けになり得ると考える。

また「高綱」の名は「得宗偏諱+綱」という、かつての内管領平頼綱・宗綱父子*40に倣った構成であると言え、円喜以後の嫡流が同名を避けて「高資」・「高重」と名乗っている(『系図纂要』)ことからしても、長崎盛宗は出家前「高綱」に改名していたと思う。恐らく高時の元服と同時に行われたのではなかろうか。

その後わずか数ヶ月での出家となったのはあくまで結果論であり、何かしらの理由があって突発的に行ったのであろう。矢開の際に高時の御剣役も務めた盛宗が、高時との関係を更に緊密にするため「高綱」に改名することは十分あり得るのではないか。

 

よって、円喜の出家時期は、高時の元服後、延慶2(1309)年1月22日~4月9日の間に求めるべきであろう。

 

 

 

脚注

*1:『鎌倉遺文』第31巻23663号。

*2:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.360。

*3:永井晋『金沢貞顕』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2003年)P.67。

*4:注3前掲永井氏著書、P.66。

*5:洒掃尹(サイソウイン)の意味や使い方 Weblio辞書 より。ちなみに掃部寮の別称は「洒掃署」である(洒掃署(サイソウショ)の意味や使い方 Weblio辞書 参照)。

*6:他の例として千葉介宗胤(千葉宗胤)を「千葉別駕宗胤」と呼称した史料が確認できる(千葉介の歴代 ― 千葉宗胤 より、典拠は『歴代鎮西要略』)。

*7:左衛門尉 の内容・解説 | 教学用語検索|創価学会公式サイト-SOKAnet 参照。

*8:注2前掲細川氏著書、P.255。

*9:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その56-金沢貞顕 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)より。

*10:注3前掲永井氏著書、P.3。

*11:金沢流の歴代家督を見ると、初代・実泰は第3代執権の長兄・泰時から1字を受けて「実義」から改名しており、『吾妻鏡』に2代・実時が泰時(天福元年12月29日条)、3代・時方(のちの顕時)時宗(正嘉元年11月23日条)を各々烏帽子親としたことが見え、金沢流北条氏嫡流は代々得宗家と烏帽子親子関係を結ぶ家系であったことが窺える。山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志編 『日本中世政治文化論の射程』 思文閣出版、2012年)P.182 脚注(27) より。

*12:貞時の父・北条時宗の出家および死没は、貞顕がわずか7歳(数え年)であった弘安7(1284)年4月4日である。新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その7-北条時宗 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*13:この間陸奥守となったのは大江広元足利義氏のみであり、幕府宿老が補任された国守であった。森幸夫『北条重時』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2009年)P.123 より。

*14:注3永井氏著書 P.86。例外的に1282~1284年は安達泰盛が秋田城介と兼務しているが、外戚ゆえ一門に準ずる人物と言えよう。

*15:注3永井氏著書、P.73・97。

*16:注13前掲同箇所、および、高橋慎一朗『北条時頼』〈人物叢書〉(吉川弘文館、2013年)P.97。

*17:前注高橋氏著書、同箇所。

*18:この期間に相模守となったのは、宗宣の執権就任と同時に連署となった煕時であり(同月24日~:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その47-北条熈時 | 日本中世史を楽しむ♪ より)、その後任の武蔵守となったのが貞顕である(注9前掲同職員表「金沢貞顕」参照)。従って宗宣は、煕時に執権職を譲るまで相模守へ転任していなかった。

*19:Ⅱの場合、安達時顕(延明)と太田時連(道大)が高時に追随して出家しているはずなので、特に時顕は「城入道」(注2前掲細川氏著書、P.322。)と呼称されていなければおかしい。

*20:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その№194-太田時連 | 日本中世史を楽しむ♪ 参照。

*21:一例として、北条高時滅亡後の改名現象・補 - Henkipedia の〔史料G〕(『鎌倉年代記』裏書)が挙げられる。他にも『太平記』巻17「隆資卿自八幡被寄事」に「信濃入道々大」、『東寺百合文書』に「信濃前司入道々大〔または道大〕」と書かれた書状が確認できるヨ函/98/:観応元年3月日付 東寺雑掌光信陳状(案)ヨ函/102/:文和4年9月日付 東寺雑掌光信陳状案

*22:『鎌倉遺文』第27巻20938号。

*23:注2前掲細川氏著書、P.201。

*24:細川重男「御内人諏訪直性・長崎円喜の俗名について」(所収:『信濃』第64巻第12号、 信濃史学会、2012年)P.962。

*25:『系図纂要』長崎氏系図について - Henkipedia 参照。

*26:『鶴岡社務記録』同年8月6日条に「同日長崎金吾光綱他界」とあり(注2前掲細川氏著書、P.183)、出家をせずに亡くなったことが分かる。「金吾」については注7に同じ。

*27:注2前掲細川氏著書、P.167。典拠は『親玄僧正日記』永仁2(1294)年2月16日条、および、同年4月23日条。

*28:この通称で呼ばれた例としては、元応2(1320)年9月25日付「関東下知状写」(『小早川家文書之二』二八五号)にある「長崎新左衛門入道性杲」が挙げられる。梶川貴子「得宗被官平氏の系譜 ― 盛綱から頼綱まで ―」(所収:『東洋哲学研究所紀要』第34号、東洋哲学研究所編、2018年)P.115によれば、この性杲は正応4(1288)年に平頼綱の弟とみられる「平七郎左衛門尉」とともに東使として上洛しており(典拠は『実躬卿記』同年6月1日条)、同年2月21日付「六波羅施行状案」(『摂津勝尾寺文書』、『鎌倉遺文』第23巻17557号)で存命が確認できる「長崎左衛門入道との」の嫡子ではないかと思われる。この親子は、同年8月20日の追加法(新編追加、同前17664号)にある「長崎左衛門尉光綱」とは別人と考えるべきであろう。

*29:注24前掲細川氏論文、P.963。

*30:再び鎌倉へ帰還したのは正和3(1314)年11月16日であり、この当時の官職は「武蔵守」であった。注9前掲同職員表「金沢貞顕」参照。

*31:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その46-北条時村 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*32:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その29-赤橋久時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*33:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その47-北条熈時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*34:注9前掲同職員表「金沢貞顕」参照。

*35:『鎌倉遺文』第31巻23884号。イ函/15/2/:六波羅注進状案|文書詳細|東寺百合文書の画像3中央部分を参照。

*36:注進状については、『精選版 日本国語大辞典』「注進状」の項② を参照。

*37:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その50-北条時敦 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*38:注2前掲細川氏著書 P.184 注(73) では、同年3月8日付「得宗公文所奉書」(『鎌倉遺文』第31巻23932号)における奉者の第一位「資□」(2文字目欠字か) が後の長崎高資と同様の役割を担っているとして、改名前の高資と推測されている。【史料A】で「長入道」の後継者とみられる「長崎左衛門」が登場していることからも、同年の段階で出家を済ませた円喜から後の高資への執事交代が行われた可能性が考えられよう。

*39:注29同箇所。

*40:注28前掲梶川氏論文、P.115~116。

長崎高重

長崎 高重(ながさき たかしげ)は、鎌倉時代末期の武将・得宗被官。通称は次郎。

 

 

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▲『前賢故実(江戸後期~明治時代成立)にある長崎高重の挿絵


 

長崎高重の活動とその系譜

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▲【系図A】『系図纂要』長崎氏系図*1

 

活動としては、『太平記』巻10「新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事」に「長崎二郎高重」、「長崎高重最期合戦事」~「高時並一門以下於東勝寺自害事」にかけて「長崎次郎高重」として登場するのが確認できるのみである。「始武蔵野の合戦より、今日に至るまで、夜昼八十余箇度の戦」(「長崎高重最期合戦事」)を戦い、鎌倉幕府滅亡直前には新田義貞の軍勢に紛れて大将・義貞の首を取ろうとする戦いぶりを演じた後に、得宗北条高時らのいる東勝寺に戻り、その場で腹を切って自害したと伝える。上の【系図A】での注記もこれを根拠にしたものだろう。

 

(参考記事)

takatokihojo.hatenablog.com

 

新田軍の中に紛れていることをやがて義貞の側近である由良新左衛門(=由良具滋)に見破られた時、高重は次のように名乗りを挙げている。

桓武第五の皇子葛原親王に三代の孫、平将軍貞盛より十三代、前相摸守高時の管領に、長崎入道円喜が嫡孫、次郎高重、武恩を報ぜんため討死するぞ、高名せんと思はん者は、よれや組ん。」

(『太平記』巻10「長崎高重最期合戦事」より)

これについては「貞盛より十三代」の部分が(修飾語として)【A】北条高時*2にかかるのか、【B】長崎円喜(えんき*3)にかかるのかで意見が分かれている。というのも、前者【A】であれば主君である北条高時の系譜を語っていることになり、後者【B】であれば高重自身に至るまでの系譜を語っていることになり、長崎氏の平資盛後胤説(『系図纂要』)の裏付けに重要な典拠となり得るからである。

【A】説支持:細川重男(2000年*4)、梶川貴子(2018年*5

【B】説支持:森幸夫(2008年*6

 

結論から言えば、「貞盛より十三代」目の人物=「長崎入道円喜」とする【B】が正確である。『尊卑分脈』に従えば高時は平貞盛から数えて16代目*7であり、900年代を生きた貞盛から高時(1303年生)の間400年ほどであることを考えると、13代では足りないだろう*8。そもそも、素性がバレて堂々と自己紹介をすべき場面において、主君の系譜を語るというのはどうも不可解である*9

一方、高時の内管領であった長崎円喜(『保暦間記』)は、「長崎流」の祖である資盛の子・盛綱に至るまでの系譜(『尊卑分脈』)と、盛綱以降の長崎氏系図(『系図纂要』)を繋げれば、平貞盛から13代目となる*10

 

ところで、元亨2(1322)年5月1日付「得宗公文所下知状」(『筑前宗像神社文書』)*11において、奉者4名の第一位として署判している「左衛門尉平」は、他書状との花押の一致から、長崎高資(たかすけ)と判明している*12。円喜の息子で内管領を継承した人物である(『保暦間記』・『系図纂要』)。同文書では、奉者第二位の諏訪氏が金刺姓(「左衛門尉金判」〔ママ、誤読か〕)で署名しており*13第一位の高資、ひいては円喜を筆頭とする長崎氏一門が平姓を称していたことは認められる元々嫡流は「平左衛門尉」を称していた(盛綱―盛時―頼綱―宗綱)

 

他方、『保暦間記』には「貞時カ内官領〔ママ、管領、平左衛門尉頼綱不知先祖法名果円〔ママ、杲円〕」と記されており、これ故に細川重男は当初、長崎氏の平資盛後胤説を全面的に否定していた*14。しかし、のちに平頼綱政権の再検討において、頼綱の次男・飯沼判官の諱(実名)は「助宗」と表記されることが比較的多かったが、頼綱の甥・長崎円喜の子が「高」と名乗っている(『保暦間記』など)ことから「宗」が正確であったと推定され、「」が平盛に通じることからも、頼綱が家格上昇を目指すために清盛流平氏の後胤説を言い出したのではないかと説かれている*15実際の真偽はともかく、長崎氏自体が平資盛を祖先と仰いでいた(その子孫を"自称"していた)ことを認められたものと解釈して良いだろう。

よって、「…『太平記』の長崎高重の名乗りは、「貞盛より十三代」の「前相模守高時」の「管領」である「長崎入道円喜」の「嫡孫」の「次郎高重」と読み取るべきであろう。……」という事実上当初の細川説を支持する梶川貴子の最新の考察*16は誤りである。 

長崎高重は、「平貞盛より13代目、長崎円喜の嫡孫」という自身の系譜を、堂々と叫んだのだった。実のところ、高重が平資盛の子孫を自覚していたと推測できるのには、「高重」というその名乗りにポイントがあると思われる。この点について次節で解説する。 

 

 

「高重」の名乗りと実父についての考察

ところで、高重の父については、長崎高貞 または 長崎高資 の2通りの説がある*17。高資と高貞は兄弟で、ともに円喜の子であることは史料で確認できるので、どちらの説を採っても、前述『太平記』の「円喜の孫」であることに矛盾は生じない。

但し、高重は「円喜が嫡孫」、すなわち「 "円喜の嫡男" の嫡男」と言っているのである。 円喜の嫡男が高資、高貞のどちらであるかを検討する必要があるだろう。

 

結論から言うと、円喜の嫡男は高資で、高重はその嫡男円喜―高資―高重とするのが正確と思われる。その理由を以下に述べたい。

 

 

長崎流における通称名 

1つ目にポイントとなるのが、高資・高貞各々の通称名である。その前に長崎氏の元来の本家筋である平氏における通称名について述べたいと思う。

 

【表B】 

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この表で明らかな通り、平左衛門尉盛綱の息子は、「平左衛門次郎」「平左衛門三郎」「平左衛門四郎」と呼ばれた。このうち「左衛門三郎=盛時は、父が「平左衛門尉」と呼ばれる時期に同じく左衛門尉に任官すると、区別されて「平新左衛門尉」と呼ばれるようになっている。 

吾妻鏡』では寛元3(1245)年5月22日条の段階で盛綱が出家していたことが確認され、嫡子・盛時を「平三郎左衛門尉」「平左衛門尉盛時」と記載する記事も見られるようになるが、実際はその後もしばらく「平新左衛門尉」と呼ばれていたとみられる。盛時が確実に「平新左衛門尉」と呼ばれなくなるのは、息子の「平新左衛門三郎」頼綱が左衛門尉に任官してからである。「平新左衛門尉頼綱」の初見は『吾妻鏡』弘長3(1263)年正月1日条、この時までに今度は頼綱が「平新左衛門尉」と呼ばれるようになったのだ。正嘉2(1258)年以降の盛時は、表記ゆれ無く「平三郎左衛門尉」と呼ばれるようになっている。 

盛時が「平新左衛門尉」と呼ばれるようになった期間において、弟の「平左衛門四郎」と同じ「(平)四郎」を名乗る「平四郎兵衛尉」なる者が初出する*18が、これはそれまでの「平左衛門四郎」が兵衛尉に任官した同人と考えられている*19「平左衛門三郎」であった盛時が左衛門尉任官後「三郎」が取れているのに対して、弟・兵衛尉は「四郎」を名乗り続けている

また、盛綱が出家して「平左衛門入道盛阿」と呼ばれるようになると、区別の必要が無い故か、盛時を「平左衛門尉」と記載する記事が見られるようになる(その後も「平新左衛門尉」と呼ばれることはあった)が、その宝治年間の段階で、次兄とみられる人物が依然として「平左衛門次郎」と呼ばれていた*20

先行研究では、この「平左衛門次郎」は、後に日蓮の『聖人御難事』で文永8(1271)年の滝ノ口の法難に登場する「長崎次郎兵衛尉時縄」〔ママ、時綱〕と同一人物とされる*21。弟の「平四郎兵衛尉」と紛らわしくなるというのもあるかもしれないが、こちらの時綱も「次郎」を名乗り続けていたということになる。

 

侍所所司や寄合衆を務めた盛時の活動は、「職務上、盛綱と頼綱の間に位置しており、両者をつなぐ懸け橋の役割を果たしている」*22と言え、盛時は盛綱の嫡男として家督を継承していた。盛綱の息子たちの中でこの盛時だけが「三郎」が取れて「平新左衛門尉」と呼称されていたことから、(○郎が付かず)単に「新左衛門尉」ひいては「左衛門尉」を通称とするのは家督継承者(=嫡男)に限られていたと考えて良いだろう。同様の現象は次代・頼綱でも確認できる。

 

このような現象は、諏訪氏*23、南条氏*24など他氏でも見られ、平氏より分かれた長崎氏(光綱流)もその例外では無かった。光綱は、兄とされる平頼綱(『保暦間記』)の存命時より「長崎左衛門尉」を通称としていたことは上の【表B】の通りである。その嫡男・円喜(『保暦間記』・『系図纂要』)も「長崎左衛門入道」と呼ばれた*25ことから、出家前の通称が「長崎左衛門尉」であったことは明らかで、近年『小笠原礼書』「鳥ノ餅ノ日記」徳治2(1307)年7月12日条にある「長崎左衛門尉盛宗(もりむね)」が俗名とする説*26も出されている。

 

円喜の子で「長崎左衛門尉」を名乗ったのが高資であったことは前述した通りである。「長崎新左衛門尉」とも呼ばれていたが、それら全てにおいて「○郎」が付かない。

一方、高貞は「長崎四郎左衛門尉」と呼ばれていたこと確実で、庶子として扱うべきであろう。「長崎三郎左衛門入道思元」「長崎三郎左衛門尉高頼」「長崎孫四郎左衛門尉泰光」など、系図纂要』(【系図A】)において嫡流から分かれた者は必ず「○郎」を付けて呼ばれていた*27。 

長文となってしまったが、以上の考察により、長崎円喜の嫡男は「長崎新左衛門尉」高資であることが再確認できた。よって、「円喜が嫡孫」たる高重は高資の嫡男と判断すべきであろう。

 

 

長崎氏嫡流の名乗りと平資盛後胤説

前節で結論づけた「高資―高重」の父子関係だが、いわゆる一等史料(書状など)では確認できない。また、「現存するほとんど唯一の長崎氏系図たる『系図纂要』」*28(=前掲【系図A】)での「高貞―高重」を否定することになるが、果たしてこの説を別の方法で裏付けることは出来ないだろうか。

 

そこで着目したいのが「高重」という名乗りである。『系図纂要』での円喜の俗名「高綱」、そして高資と「」字が連続して用いられているが、これは北条時の偏諱とされる*29得宗被官であって、当時の得宗偏諱を許されていることからしても間違いはなかろう。「高綱」という名乗りは「得宗偏諱+盛綱以来の通字 "綱"」という、かつての内管領平頼綱―宗綱」父子に倣ったものと言えるし、「高資」の「」が祖先と仰ぐ平盛に通じることは前述した通りである。

すると、「高重」も時の偏諱を受けた一方で、」の字は資盛の父・平盛にあやかったものと考えられないだろうか

すなわち「高―高―高」の名乗りは、「盛―盛―盛」という系譜(『尊卑分脈』)を想定し、次第に遡った先祖に名字(名前の字)を求めたものと言える*30。この推測が正しければ、次のことが裏付けられるだろう。

① 長崎氏が平資盛の末裔を称していたこと(※自称の可能性は否定できない

② 高時の元服後のわずか数ヶ月間、円喜が「盛宗」 改め「高綱」を名乗った可能性があること。

③ 高資が円喜の "嫡男" であったこと。

④ 高資―高重の父子関係。

系図纂要』(=【系図A】)では盛綱を資盛の曾孫とするが、これは『関家筋目』等で関氏が資盛の子・盛国の末裔を称し、長崎氏が分家とされるのをそのまま採用してしまったためで、年代的に誤りであることはこちらの記事▼で述べた。

historyofjapan-henki.hateblo.jp

 

盛綱を資盛の子とすれば、繰り返しになるが、高重の「平貞盛から13代目」発言は、盛綱に至るまでの系譜(『尊卑分脈』に同じ)と、盛綱から祖父・円喜までの長崎氏系図(『系図纂要』に同じ)を想定していたことになる。高重も、自身の名乗りが平重盛に通じることをかなり意識していたのではないか。従って、長崎氏は盛国―国房父子を祖先に含めていないことになり、この点で『系図纂要』は長崎氏が想定する系図とは違うものを記載していることになる。長崎氏は平資盛の末裔を称してはいたが、関氏の分家であることは自認していなかったのである。

 

そもそも、長崎円喜=「長崎左衛門尉盛宗」(前述参照)の嫡男として、内管領の職務を継いだ父・高資も、当時の先例・形式主義の風潮を考えれば、かつての内管領平頼綱―宗綱」父子の「得宗偏諱+盛綱以来の通字 "綱"」の構成に倣って「高綱」と名乗っても良さそうに思える*31が、そうしなかったのは何故か既に「高綱」を名乗る人物がいて、同名を避けるためであったとしか考えられない*32

高資以前に「高綱」を名乗り得る人物は、やはりその父・円喜しかいない。名乗るとすれば、延慶2(1309)年1月21日の北条時の元服*33後に、その偏諱」を拝領する形での改名であるが、細川重男氏は同年4月10日付のものとされる金沢貞顕の書状には「長入道」と書かれ出家した様子が確認できる*34として、それまでのわずか3ヶ月の間「高綱」を名乗ったとするのは現実的な想定ではないとして否定されている*35

しかし、高時元服後3ヶ月の間に出家するという予定を、当時の盛宗 (円喜) 自身が果たして決めていただろうか。そもそもこの時期の出家の動機は不明で、実際に出家後も事実上の最高権力者「長崎円喜」として幕府滅亡時まで存命であったから病弱であったとも考えにくく、突発的な理由によるかもしれないのである。既に心に決めていたと考える方こそ現実的な想定とは思えない

高時の元服からわずか3ヶ月の間に出家したというのはあくまで結果論であって、出家を予期せずに「高綱」に改名するという想定は十分可能であると思う。長崎盛宗は出家して円喜と名乗るまでのわずかな期間「」を称し、同名を避ける意図でその嫡男は「」、嫡孫は「」と名乗った。代々時の偏諱を受けた長崎嫡流当主の名乗りは「盛―盛―盛」という祖先の系譜に基づくものだったのである*36

 

 

高重と北条高時の烏帽子親子関係

光綱系長崎氏の嫡流は、代々得宗・北条時の偏諱を受けたが、(円喜、初め盛宗)(初名: 資?*37が各々改名によって一字を拝領したのに対し、重は実際に高時を烏帽子親として元服したものと推測される。

最期を迎える1333年の段階で「次郎」のみを称していることから無官であったとみられる。高資の嫡男で官職を与えられれば「新左衛門尉」を称していたと考えられるからである。【系図A】を見れば明らかな通り、長崎氏一族は必ずといって良いほど「左衛門尉」に任官する傾向にあり、舎弟の新右衛門諸共、その前段階にあったと推測される。当時新右衛門が15歳という元服してから間もない年齢であることからも、高重も20歳に達するかしないか程度の享年であったのだろう。

高時執権期(1316-1326)の元服だったかどうかは判断が難しいが、『太平記』を見る限りでは得宗・高時の近臣の立場にあったと言えるので烏帽子親子関係成立に無理はないだろう。新右衛門も『増訂豆州志稿』では【系図A】での高資の子・(たかなお)に比定されており*38、この名も時から偏諱を認められたもので間違いない。

 

 

 

系譜についての別説(※誤伝) 

『伊豆志稿』に「長崎村長崎氏。平盛綱―光盛―光綱―高綱―高重」とあるらしい*39が、高資の実在は実際の書状等で確認できるので明らかな誤りである。前述の考察に従えば、高綱の後にいきなり平重盛の1字を持った高重が出てくるのはやや不自然に感じる。

『正宗寺本北条系図*40では何故か高重を常葉流北条範貞(常葉範貞)の子としているが、『尊卑分脈』での範貞の子・重高(越後三郎)と混同しているようである。更にその注記を見ると、東勝寺合戦北条高時らに殉じたことを『東鑑』(=『吾妻鏡』)に拠ったとするが、『太平記』の誤りであることは明らかで、この部分の信憑性は低い。

系図では大仏流北条貞宣の子・高貞に「 崎悪四郎左衛門尉」〔ママ〕と注記する*41が、恐らく最初の文字が抜けており、『系図纂要』で高重の父とする長崎四郎左衛門尉高貞と同人としてしまっている可能性がある。その注記には「白〔伯〕耆国有塩谷判官高貞ト云人 太平有之 此高貞ハ別人カ 此同時之人タルベシ」とあるが、同時期に『太平記』に現れる佐々木高貞塩冶高貞*42とも混同しているようだ。 

 

長崎重と北条重(常葉重高)*43、長崎貞・塩冶貞・北条貞は、いずれも北条時の烏帽子子として「」の偏諱を受けた、ほぼ同世代の人物であるということが唯一の共通項であろう。

 

 

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.422~423 より。

*2:高時は文保元(1317)年より第14代執権として相模守、嘉暦元(1326)年に出家してからの後任は第16代執権・赤橋守時新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その9-北条高時 | 日本中世史を楽しむ♪同 その30-赤橋守時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)参照。

*3:『増鏡』「叢(むら)時雨」の文中に「…此の頃、私の後見には、長崎入道円基とか言ふ物有り。世の中の大小事、只皆此の円基が心の儘なれば、都の大事、かばかりになりぬるをも、彼の入道のみぞ取り持ちて、おきて計らひける。…」とあって「円基」と誤記しているが、これも「えんき」と読め、通称名からも円喜を指すことは明らかなので、かえって読み方の裏付けとなる。

*4:注1細川氏著書、P.140~141。

*5:梶川貴子「得宗被官平氏の系譜 ― 盛綱から頼綱まで ―」(所収:『東洋哲学研究所紀要』第34号、東洋哲学研究所編、2018年)P.118。

*6:森幸夫「得宗被官平氏に関する二、三の考察」(所収:北条氏研究会編『北条時宗の時代』、2008 年)P.438。

*7:前注森氏論文、P.448 注(9)。系譜は、貞盛―維将―維時―直方―聖範―時直―時家―時方―時政―義時―泰時―時氏―時頼―時宗―貞時―高時。

*8:時政から高時までの親子の年齢差を調べると、時政―(25)―義時―(20)―泰時―(20)―時氏―(24)―時頼―(24)―時宗―(21)―貞時―(32)―高時、であり、高時は覚久(長崎光綱養子として僧籍)・菊寿丸(早世)に次ぐ貞時の3男だったようなので年齢差が開いているが、それまでは等しく20数歳で次代をもうけていることが窺えよう。時政~貞時までの平均値は22.3…才で、8代で166年かけていることも分かる。これを参考にすれば、貞盛から高時に至るまでが13代とするのは代数が足りないと判断できよう。16代であれば400近い年数が稼げる。

*9:注4同箇所にて細川氏は「武士は自分の家系や先祖の武勲を叫ぶものだが、高重は主君高時の系譜を長々と語り、自分の家系については当時存命の祖父高綱にしか触れていない 」と説かれているが、まさにこの通りではなかろうか。武士たる高重とてその例外ではなかったはずである。

*10:系譜は、貞盛―維衡―正度―正衡―正盛―忠盛―清盛―重盛―資盛―盛綱―光盛―光綱―高綱(円喜)。途中「…盛綱―盛時―光綱…」が正確とする説もあるが代数に変化は生じない。注6・注7各箇所での森の見解による。

*11:『鎌倉遺文』第36巻28012号。

*12:注1前掲 細川氏著書 P.103・表6、P.192。

*13:前注同箇所。尚、細川氏はこの左衛門尉金刺(=諏訪左衛門尉)を宗経(直性)の嫡子で、三郎盛高の兄と推定されている。盛高が高時からの偏諱を2文字目にしていることからすると、実名は 「高□」(例えば高経、高宗など)であったと思われるが、現時点でそれを確認できる史料は無い。『諏訪氏系図 正編』では弘重(『系図纂要』等、直性にあてる系図あり)の子、盛高の兄として盛時(諏訪次郎左衛門尉)を載せる(コマ番号:89・93)が「時」は北条氏の通字とみられ、また大祝・諏訪頼重の子、時継の弟に高重・高継を載せる(コマ番号:103)が、正しい情報であれば高時の偏諱を受けた者の例となり、1つ参考になるであろう。

*14:注1前掲 細川氏著書、P.140・143。

*15:細川重男『鎌倉北条氏の神話と歴史 権威と権力』(日本史史料研究会、2007年)P.128。「資」字については今野慶信からの教示によるという。

*16:注5に同じ。

*17:講談社『日本人名大辞典』(長崎高重(ながさき たかしげ)とは - コトバンク) より。『系図纂要』では高貞の子として載せる一方、『前賢故実』では「高資子」と記載(→ 先賢故實 古代人物畫像集成 または 長崎高重 - ArtWiki を参照)し、太田亮 著『姓氏家系大辞典』(姓氏家系大辞典刊行会、1934年)第2巻「関 セキ」の項 および 同第3巻「長崎 ナガサキ」の項 によれば『関家筋目』等でも高資の長男、『系図纂要』長崎氏系図について - Henkipediaに掲げた『増訂豆州志稿』巻12でも「高重ハ北條氏ノ内管領、高資ノ子」と記されている。

*18:吾妻鏡』建長5(1253)年正月2日条に「平新左衛門尉盛時 同四郎兵衛尉」とある。

*19:前掲細川氏著書 P.133表15。細川氏はこの四郎を、『系図纂要』(【系図A】)での盛綱―頼綱の間に三郎盛時を挿入した上でその弟(同じく盛綱の子)である光盛に比定されている(同書P.138)。

*20:吾妻鏡』宝治2(1248)年正月1日条。頼綱の例を見れば、もし盛時の子であったなら「平新左衛門次郎」と称するはずなので、これは盛綱の子「平左衛門次郎」で良い。

*21:森幸夫「平・長崎氏の系譜」(所収:安田元久編『吾妻鏡人名総覧 : 注釈と考証』、吉川弘文館、1998年)P.589、および、注1前掲細川氏著書 P.137・139。

*22:注1前掲細川氏著書、P.129。

*23:注1前掲細川氏著書 P.192では、『門葉記』「冥道供七 関東冥道供現行記」嘉暦2(1327)年9月12日条の「諏方〔訪〕新左衛門」は、注13で紹介した直性の嫡子「左衛門尉金判〔刺〕」に比定する。

*24:梶川貴子「得宗被官の歴史的性格―『吾妻鏡』から『太平記』へ―」《所収:『創価大学大学院紀要』34号、2012年》P.390。

*25:『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条。『系図纂要』長崎氏系図について - Henkipedia の【史料a】参照。

*26:細川重男『鎌倉幕府の滅亡』(吉川弘文館、2011年)P.73同「御内人諏訪直性・長崎円喜の俗名について」(所収:『信濃』第64巻12号、信濃史学会、2012年)。

*27:この者たちの通称名が実際の史料で確認できることは『系図纂要』長崎氏系図について - Henkipedia【表3】【表4】を参照。

*28:注1前掲細川氏著書、P.124。

*29:注1前掲細川氏著書 P.183 注(61)、P.184 注(73)。

*30:このような事例は当該期の他氏においても確認ができる。細川重男得宗時―時」の名乗りが平盛、平望に由来するものと推測されており(角田朋彦 「偏諱の話」(所収:『段かづら』三・四合併号、2004年)P.20~21)、また三浦介を継いだ三浦氏盛時流(相模三浦氏)でも頼盛以降の「時―時―高―高」(鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史 その発祥から江戸期まで』(新人物往来社、2007年)P.259)の名乗りは「為―為―義―義」(同前鈴木氏著書、P.16)という系譜を想定し、次第に遡った先祖に名字を求めた形跡が見られ、いずれも同じく桓武平氏を称する家柄として参考になるだろう。他にも小山・結城両氏で「朝」字が復活する(市村高男「鎌倉期成立の「結城系図」二本に関する基礎的考察 -系図研究の視点と方法の探求-」(所収:峰岸純夫・入間田宣夫・白根靖大 編『中世武家系図の史料論』上巻 高志書院、2007年)P.96・97)など、先例・形式主義鎌倉時代後期においては、名乗りの面で祖先にあやかる風潮が広まっていたと言えよう。幕府滅亡後の改名事例(→北条高時滅亡後の改名現象 - Henkipedia を参照)の中にも同様の現象が多く確認できる。

*31:特に「綱」の字は、内管領となった円喜の父・光綱も用いており、結果として偶然そうなっただけかもしれないが、事実上内管領に就任した者の"通字"となっていた。頼綱は平禅門の乱で討伐され、宗綱も最終的に流罪となっているが、彼らに対して悪いイメージがあったなら、光綱の段階で「綱」字を避けているはずである。確かに光綱の嫡男は「盛宗」と名付けられたようだが、これは北条時宗による加冠の際に、父である光綱が祖先・盛綱までの通字を使用したい旨の申請がなされた可能性も考えられる。どのみち嫡流の「宗綱」「資宗」と同名になるのを避ける必要はあったはずである。

*32:このことは高資の兄弟が「高貞」と名乗っていることからも推測できよう。【系図A】の通り、高泰・高光(=思元?)が円喜の叔父であれば、円喜より年長で同じく高時元服後に改名したと考えるのが自然だと思うが、明らかに「高綱」の名乗りを避けていると言える。同系図で円喜の弟とされる高頼についても高時からの一字拝領に間違いないと思われるが、やはり同様である。

*33:注2前掲「北条高時」の職員表参照。

*34:この書状の時期比定については当ブログでも考証を行った。詳しくは『金沢文庫古文書』324号「金沢貞顕書状」の年月日比定 について - Henkipedia を参照のこと。

*35:注1前掲細川氏著書、P.183 注(61)。

*36:仮に円喜の「高綱」改名が事実で無かったとしても「盛宗」の名乗りはやはり盛綱を意識しているものと言えるので、この推定自体は成り立つと考える。

*37:注1前掲細川氏著書 P.184 注(73) では、延慶3(1310)年3月8日付「得宗公文所奉書」(『鎌倉遺文』第31巻23932号)における奉者の第一位「資□」(2文字目欠字か) が後の高資と同様の役割を担っているとして、改名前の高資と推測されている。これが正しければ、元服当初から平資盛由来の「資」を使用していたことになる。

*38:これについては『系図纂要』長崎氏系図について - Henkipedia を参照。

*39:太田亮 著『姓氏家系大辞典 第3巻』(姓氏家系大辞典刊行会、1934年)「長崎 ナガサキ」の項

*40:正宗寺北条系図』。

*41:正宗寺北条系図』。

*42:太平記』巻21「塩冶判官讒死事」。

*43:一方の「重」字は、高祖父にあたる極楽寺流の祖・北条重時から取ったものに間違いはなく、注30の一例に該当する。

『系図纂要』長崎氏系図について

 

 

はじめに

次の史料は『公衡公記』正和4(1315)年3月16日条に引用されている施薬院使・丹波長周の注進状である*1。 

 

【史料a】丹波長周注進状

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この史料には、3月8日に鎌倉を襲った大火の被災者として、北条・安達・宇都宮・摂津・長井・二階堂といった名立たる御家人に並んで、長崎左衛門入道円喜(長崎盛宗)、諏訪左衛門入道直性(諏訪宗経)、尾藤左衛門入道演心(尾藤時綱)といった得宗被官が名を連ねている。彼らのほとんどは鎌倉政権中枢の要人ばかりで、「得宗公文所…最上級職員を世襲…できる家系として、長崎・諏訪・尾藤の三家が執事三家として高い家格と位置付けられ、寄合衆を世襲*2していたのであるが、諏訪・尾藤両氏は「執事を世襲する長崎…に準ずる」*3家柄であり、長崎氏が「得宗被官の筆頭」*4として「鎌倉幕府終末期には、執権を凌駕する専権を恣いままにするほどの」*5権力を有していた。 

 

中でも長崎円喜は、「高時カ内管領(『保暦間記』)得宗家執事 として、安達時顕と双璧を成す事実上の最高権力者として君臨していた*6が、彼以外にも一族の者の活動が確認できる史料は沢山残されている。例えば次の史料は、【史料a】に同じく火災に関する内容であるが、その被災者として、長崎円喜を筆頭とする一族の実在を容易に確かめられるものと言えよう。

 

【史料b】(1331年?)正月10日付 沙弥崇顕(金沢貞顕)書状*7 

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人名を記す時には、諱(実名)は記さず、通称名で書かれるのは、書状等の史料での通例である。それが誰なのかという人物の比定は他の史料で裏付けるしかないが、一族内での家族関係を把握(または整理)するのに系図は欠かせない。

長崎氏の場合、江戸幕末期に成立の『系図纂要』所収のものが「現存するほとんど唯一の長崎氏系図*8とされる。しかし、先行研究では『吾妻鏡』等他の一級史料との照らし合わせにより、誤りが指摘されてきた*9

 

元より系図類では、その成立年代が古ければ古いほど信憑性が高いとされる。後世の系図になると、改竄・加筆・誤伝がなされている可能性があり得るからである。しかし『系図纂要』の場合、必ずしも全てがそうではなく、むしろ江戸時代当時の歴史研究の成果・新見解として捉えられる情報も少なくはない*10

そうした観点から改めて長崎氏の系図を見返すと、ただ出鱈目を記したものではないことが窺える。成立以前の系図が残されていないことからも、恐らく『系図纂要』の長崎氏系図は他の史料によって独自に構築されたのではないかと思われる。すなわち、これも編纂当時の研究成果として解釈できるだろう。

 

本項ではあえて同系図における各人物の注記にただ向き合い、他の史料との照合作業によって、その成立過程の推測、真偽(正誤)の判断を行ってみたいと思う。青山幹哉も「系図がある意図をもって編纂された歴史叙述の資料であることを充分に認識」の上で、「作成の意図を把握し、事実と虚構の歴史叙述を峻別」することの重要性を説かれている*11。『系図纂要』長崎氏系図編纂にあたっての研究方法に、より正確な系図の復元に向けたヒントが隠されているのではないかと思う。 

 

 

系図纂要』長崎氏系図の紹介

本項で扱う系図とは、次の通りである。最初に紹介しておく。 

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▲【図c】『系図纂要』所収・長崎氏系図 *12

 

系図集としては成立年代が古く、かつ比較的信憑性が高いとされる『尊卑分脈』では、盛綱を資盛の子とするが、「長崎流」 との記載がある。『正宗寺本 諸家系図東京大学史料編纂所所蔵謄写本)では「助盛〔ママ:資盛〕新三位中将 同小〔ママ〕将―――資綱 長崎先祖」と載せており*13、若干の実名の違いはあるものの、「父の1字+綱」の構成で名乗った資盛の息子が長崎流の先祖であったとする点では相違ない。 

そして、このことは上の【図c】においても同じで、平盛綱を「長崎流」の家祖とする点では一致している。よって、本項では盛綱以降の系図について見ていこうと思う。

 

 

長崎光盛流の「内管領」記載について

まずは、主に元号が関わる部分を中心に、年表にまとめたものが次の【表d】である。

 

【表d】『系図纂要』に基づく長崎流の年表 

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(*左側部分元号表は http://blog.livedoor.jp/tombosou/archives/52085262.html より拝借。)


【図c】によれば、長崎氏嫡流(光盛―光綱―高綱) は代々「内管領」(得宗家執事) を務めたことになっている。光盛光綱父子には「自A至B」(AよりBに至る=A~Bの期間)という形で、その職に在った具体的な期間が記載され、高綱についても北条貞時・高時治世期に内管領であったことが注記される。高綱(円喜)の場合【図c】に在職期間は書かれていないが、文保2(1318)年には「老耄(ろうもう:老い耄(ぼ)れること、またその人の意)」のためとして息子の高資(たかすけ)内管領の職を譲ったとする『保暦間記』の記述に従えば、光盛から高資まで4代の内管領在職期間は上の【表d】のように区分できる。これ自体に矛盾は無い。

 

しかしながら、他の史料と比較すると、特に光綱の代で矛盾が生じている。【図c】には頼綱―宗綱父子にも「内管領」との記載があるが、【表d】のように表にしてみるとまるで入る余地が無い。現在では既に定説となっているが、貞時の代の内管領平頼綱であったことは『保暦間記』にはっきり記載されているし、頼綱滅亡(平禅門の乱)の後に一旦は連座して流罪となった平宗綱についても、後に復帰を許されて、正安3(1301)年3月~嘉元元(1303)年の間、内管領であったと推定されている*14

しかも、【表d】にある通り『保暦間記』には頼綱の法名を「杲円(こうえん)」と載せているが、【図c】では長崎光盛の法名としてしまっている。長崎流での内管領は光綱に移っており、この光綱の法名を「杲円」と載せるならまだ分かるが、【図c】がまるで『保暦間記』を参照していないのではないかと思えるほど、整合性が取れていないのである

また、光綱自身も永仁5(1297)年8月6日に亡くなったことが判明している。細川重男により『鶴岡社務記録』での記載が紹介され*15、先立って森幸夫も恐らくはこの史料の存在を知っていて『系図纂要』との矛盾を指摘されている*16が、それまでは没年未詳とされていた*17ので、『系図纂要』編纂の段階でもこの史料の存在に気付かれていなかったのであろう。

しかし、事実として永仁5年以降の史料に光綱が登場するはずはない。それでも、正安~延慶にかけての期間も光綱内管領であったとされたのは何故であろうか。

 

前述したが、書状等の史料では諱(実名)は記さず、通称名で書かれるのが通例であった(勿論【史料a】のように丁寧に書かれているものも無くはない)。長崎氏の場合も「長崎左衛門尉」などの通称名でしか書かれていない史料がほとんどである。光綱が「長崎左衛門尉」を通称としていたことは史料で確認できるが、その嫡男・円喜も【史料a】にて「長崎左衛門入道」と呼ばれているから、出家前の通称が同じく「長崎左衛門尉」であったことは確かである。従って、光綱から円喜へ内管領が引き継がれたタイミングを確かめられる史料が無い状態では、各史料での「長崎左衛門尉」が光綱なのか円喜なのかを推定する必要があった

光綱の「自建治至延慶 内管領」が具体的に延慶?年までの在職なのかは明記されていないが、応長元(1311)年には得宗・貞時が亡くなって高時へと世代交代しており、続く高綱(円喜)の項に「貞時高時世内管領」とあるので、延慶年間(1308~1310)内に内管領および家督の継承が行われたとするのが『系図纂要』編纂者の見解であろう。当該期の長崎氏惣領に関する史料をまとめると次の通りである。

 

【表e】『系図纂要』での 長崎光綱 内管領在職期 における関連史料

史料での表記 典拠史料 細川説
正応4(1291) 8 長崎左衛門尉光綱 「新編追加」(「追加法」632) 光綱
永仁元(1293) 7 光綱 得宗公文所奉書」*18 光綱
永仁2(1294) 2 長崎新左衛門 『親玄僧正日記』 高綱
4 長崎左衛門父子 『親玄僧正日記』 光綱高綱
永仁3(1295) 1 長崎金吾 『永仁三年記』 光綱
2 長崎左衛門 『永仁三年記』 光綱
光綱 得宗公文所奉書」*19 光綱
7 長崎金吾 『永仁三年記』 光綱

永仁2(1294)

正安4(1302)

 

長崎殿()

長崎殿()

徳治3年正月26日付「山下政所文書目録」(『秩父神社文書』)

光綱

高綱

徳治2(1307) 5 一番 長崎左衛門尉 泉谷 円覚寺文書』42
十番 長崎左衛門尉 高綱?
6 長崎左衛門尉 「幕府問注所執事連署奉書案」(『金沢文庫文書』)*20 高綱
徳治3(1308) 8 長崎左衛門尉 「平政連諫草」(『尊経閣文庫所蔵文書』)*21 高綱
延慶2(1309)? 4 長入道 金沢貞顕書状」*22

高綱

(円喜)

 

詳細*23

一 公方ヨリ相模入道殿へノ成下御下知一通正安四七十二

一 自御内長崎殿へノ御牧〔ママ〕御書下一通正安四十一六 高綱

一 自長崎殿留所〔ママ、留守所〕へノ書下正安四十七日 … 高綱

一 自御内長崎殿へノ勘料書下一通徳治二七五日 … 高綱

一 自長崎殿留守所へノ書下一通徳治二十二月七日 … 高綱

一 自留守所宮本へノ書下一通徳治二年十二月廿二日

一 自長崎殿留守所へノ書下一通永仁二十二十八日 光綱

 

このうち『系図纂要』がどの史料を参照したかは分からないが、この頃の「長崎左衛門尉」(金吾は「衛門府」の唐名で、この場合「左衛門尉」の別表記である)は全て光綱に比定されたものとみられる。

細川氏が光綱死去の史料を挙げながら、以降の「長崎左衛門尉」を高綱(円喜)に比定され(上【表e】参照)*24、更に『小笠原礼書』「鳥ノ餅ノ日記」徳治2(1307)年7月12日条に「長崎左衛門尉盛宗」とあるのが確認された*25ことでこれを円喜の俗名と結論づけられた*26のは2000年代に入ってからである。

 

もう1つ、光盛が文暦~文永の間に内管領であったとする記載について。

文暦元(1234)年は奇しくも平盛綱が第3代執権・北条泰時の「家令」(のちの得宗家執事=内管領になった年である*27。盛綱の項には、北条時政が執権(初代)であった時の執事になったと記載しており、何かしらの混乱が生じたものとみられる。続く光綱が建治年間からの内管領在任と記すので、文永年間いっぱい(~1274年)まで務めたと考えるのが自然と思われるが、1274~75年に光盛から光綱へ内管領の地位が移ったということは確認できない。

但し、建治2(1276)年3月9日付「周防国司下文案」(『上司文書』) には同年に「故平左衛門入道・故長崎殿」という2人の人物が周防国西方寺に祭られていたことが記されており、細川氏は当時健在であった平頼綱・長崎光綱より前の人間であったとして、平盛時・長崎光盛に比定されている*28から、この頃光盛から光綱への長崎氏家督の交代があったことは推測可能である。もしかすると【図c】の作成者はこの史料の存在を知っていて、同時に内管領の職も継承されたという風に解釈されたのではなかろうか

光盛が内管領であった期間は、(盛綱を時政の代の人物と誤解しているが故に)盛綱の「家令」就任を光盛の誤りと修正してしまい、書状に「故長崎殿」と出てくるまでの在職と推定されたものでないかと考えられるのである。

 

以上の考察により、系図纂要』では長崎光盛の系統を代々内管領を務める家柄とし、当時の段階で確認できる限りの史料でもって、各当主の在職時期を推定し書かれたものと推測される。その一方で、平頼綱・宗綱父子も内管領であったことを一応は他の史料で確認したようであるが、その時期を確かめる作業は特に行われなかったようである。頼綱とその息子たちの注記は少なく、恐らくは 『保暦間記』に拠ったものと思われるが、彼ら(平氏)については書状など他の史料との照らし合わせをしなかったのであろう。

 

 

長崎氏一族の注記について 

前節での考察を踏まえた上で、他の部分についても他の史料との照合作業を行っていきたいと思う。結果は以下の通りである。

 

【表1】 

系図纂要』での注記 他史料との照合
資盛 内大臣重盛公二男 尊卑分脈』。兄は平維盛
母少輔掌侍藤原親方女    〃   。
右中将蔵人頭従三    〃   。
嘉応年中坐殿下不礼之事配流於伊勢国鈴鹿郡久我庄 嘉応2(1170)年の殿下乗合事件。『勢州四家記』*29、『関安芸守系統』(瑞光寺蔵)によると6年間(~安元2年)の滞在であり*30、養和(1181-82)には疑問(?)
養和中帰京 玉葉』同年8月9日条。『平家物語』巻8、同月16日とす。
寿永二年八ノ六解官赴西海 玉葉』同年8月17日条。『平家物語』巻8「名虎」、「太宰府落」。
元暦二年三ノ廿一入水 壇ノ浦の戦い。『吾妻鏡』同年3月24日条、および『平家物語』巻11「能登殿最期」、3月24日とす。

 

【表2】 

系図纂要』での注記 他史料との照合
盛綱 三郎左衛門尉 吾妻鏡』に「平三郎左衛門尉盛綱」。
正治元年正ノ廿六時政執権之時居鎌倉為執事 誤伝か:【表d】参照。
頼綱 平左衛門尉 吾妻鏡』『保暦間記』など。
内管領 貞時世被誅 『保暦間記』:【表d】参照。
宗綱 平左衛門尉 『保暦間記』のほか、正応4年「追加法」632、および、元亨3年9月23日付「関東下知状」(『常陸国奥郡散在文書』)*31に「平左衛門尉宗綱」とあり。
内管領 坐驕奢配流上総 『保暦間記』:【表d】参照。 ※「坐驕奢」は確認できず。
頼盛 飯沼判官 安木守〔ママ〕 「頼盛」は確認できないが、『保暦間記』での飯沼資宗に一致*32。安芸守の誤記と思われるが、正しくは安房守である(『保暦間記』ほか)。
与父㪽〔=所〕殺

 

【表3】

系図纂要』での注記 他史料との照合
光盛 長崎二郎左衛門 『豆州志稿』に拠るか?『吾妻鏡』弘長3年11月20日条に「長崎次郎左衛門尉」。
入道杲円 誤伝。正しくは平頼綱法名(『保暦間記』ほか)。
自文暦至文永内管領 誤伝か:【表d】および前述参照。
光綱 太郎左衛門尉 『豆州志稿』に拠るか?
自建治至延慶内管領 誤伝か:【表d】および前述参照。
高綱 三郎左衛門尉 「高綱」という実名および「三郎」は確認できず。
入道円喜 貞時高時世内管領 『保暦間記』に光綱子円喜、高時の内管領:【表d】参照。
高頼 兵衛尉 鎌倉年代記』裏書・元徳3年8月6日条、および『保暦間記』元徳2年条に「長崎三郎左衛門尉高頼」、『武家年代記』同3年8月5日条にも「長崎三左高頼」〔ママ〕とあって実在は確かめられるが、兵衛尉であったことは確認できない。
高貞 四郎左衛門尉 鎌倉年代記』裏書・元弘元年条、「南部時長目安状」(『遠野南部文書』)*33、『楠木合戦注文』に「長崎四郎左衛門尉高貞」とある*34他、『保暦間記』に「長崎四郎左衛門尉 円喜子高資弟」、『鎌倉殿中問答記録』*35に「長崎新左衛門尉、執事高資、同舎弟四郎左衛門」とある。
高資 新左衛門尉 門葉記』「冥道供 関東冥道供現行記」正中3年3月6日条*36、『鎌倉殿中問答記録』に「長崎新左衛門尉高資」*37、『太平記』巻2「長崎新左衛門尉意見事付阿新殿事」にも「執事長崎入道が子息新左衛門尉高資」とあり。 
高重 二郎 太平記』巻10「新田義貞謀叛事付天狗催越後勢事」に「長崎二郎高重」。その他、同巻10「長崎高重最期合戦事」にも「長崎次郎高重」、『増補豆州志稿』巻12に「長崎高重次郎墓」の説明あり。
正慶二年自殺東慶寺〔ママ〕 太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」。
高直 新左衛門尉

確認できず。『増補豆州志稿』巻12同上箇所 および 巻13「長崎光綱」の項、『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」に登場する高重の弟・新右衛門と同人とす(後述参照)。

 

 【表4】 

系図纂要』での注記 他史料との照合
高泰 勘ヶ由左衛門尉 確認できず。『太平記』巻10「千寿王殿被落大蔵谷事」の「長崎勘解由左衛門入道」と同人?  
泰光 四郎左衛門尉 太平記』巻1「資朝俊基関東下向事付御告文事」に「長崎四郎左衛門泰光」とあり。但し、『御的日記』(内閣文庫所蔵)徳治元(1306)年正月条に「長崎孫四郎泰光」*38建武2(1335)年9月2日付『御鎮座伝記紙背文書』文中に「三重郡芝田郷長崎弥四郎左衛門尉泰光跡」〔ママ〕*39とあって、『鎌倉年代記』裏書や『太平記』にも見られる「長崎孫四郎左衛門尉」が正確であろう。
高光 一ニ高元 俗名は確認できないが、数点史料に見られる「長崎三郎左衛門入道思元」*40に比定される。『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」では5月22日自害とする。
三郎左衛門尉 入道昌元〔ママ〕
元弘三年五ノ廿一討死
為基 勘ヶ由左衛門尉〔ママ〕 太平記』巻10「鎌倉兵火事付長崎父子武勇事」に「長崎三郎左衛門入道思元・子息勘解由左衛門為基」とあり。
師家 九郎左衛門尉 確認できず。『太平記』巻7「千剣破城軍事」に登場の「長崎九郎左衛門尉師宗」と同人か?
盛親 (省 略) 確認できず(独自情報?)。

 

これらの表から分かることは、ほぼ全ての記載が何かしらの史料を根拠として書かれたとみられることである。大方『保暦間記』や『太平記』に拠ったものが多いようである。従って【図c】は当時の段階で確認できる限りの史料でもって、独自に作り上げられたものと推測される。(ここ近年の研究結果として判明したことだが)「盛綱―頼綱」を父子と誤ってしまうくらいなのだから、親子・兄弟といった世代に関しては年代的に判断されたものなのではないかと思われる。 

 

(備考)盛綱までの系譜について

平資盛(1158または1161生?~) と 北条義時(1163生~) がほぼ同世代であることから、平盛綱北条泰時(1183生~)という息子同士をほぼ同世代として考えるべきであろう。よって、盛国―国房という2代を入れて盛綱を資盛の曾孫とするのは年代が合わない。

関氏に関しては、関実忠は『吾妻鏡』に「関左近大夫将監実忠」として登場し実在が確認でき、その系譜は『勢州四家記』では「資盛―盛国―実忠」、『関安芸守系統』(瑞光寺蔵)や「加太氏系図」では「資盛―盛国―国房―実忠」とする*41が、実忠は盛綱と同時期に活動が確認できるので、やはりこちらも年代的に矛盾するように思われる。治承5(1181)年には「平氏一族関出羽守信兼」なる人物が確認でき*42、その甥(弟・信忠の子)盛忠が「関太郎大夫」を称したと伝える系図もある*43ようで、「忠」の通字継承からしてもまだこちらの方が信憑性が高いように思う。 信兼は『尊卑分脈』で「出羽和泉河内守」と注記される山木兼隆(?~1180)の父・信兼に比定されるが、その姪孫(てっそん、甥の子)が実忠というのは年代的にもおかしくないだろう。

【図c】作成にあたってはこれらの情報を混同(或いは混合)してしまったのかもしれない *44。しかし、既存の史料を根拠としていたことは認められると思う。作成の際に年代的な問題が考慮されずに各史料の情報をそのまま反映してしまっただけで、決して出鱈目を書いたものではなかった。

 

 

『増訂 豆州志稿』との比較

もう1つ長崎氏に関する史料としては、細川重男氏が用いられている伊豆の地方誌『増訂豆州志稿』がある。この史料は、秋山富南が門弟らを引き連れ、伊豆の全土を調査して回りながら12年かけて編纂し、寛政12(1800)年に完成させた地歴書(=『豆州志稿』)を、明治時代に入って萩原正平・正夫父子によって増訂がなされて明治28(1895)年に刊行されたものである*45。この中に少しではあるが、長崎氏に関する記載が見られる。

f:id:historyjapan_henki961:20190210233011p:plain 

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_00291「15」の10・11ページ目より)

 

f:id:historyjapan_henki961:20190210015447p:plain

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_00291「16」の46・47ページ目より)
 

この『増訂豆州志稿』と『系図纂要』との関係性について、細川氏は次のように言及している。

…『増訂豆州志稿』は高綱の法名「円喜」を父光綱の法名とし、しかも註を付して「武家系図等ニハ円喜ヲ光綱ノ子高綱トス」とわざわざ記しているから、『増訂豆州志稿』の記事には田方郡長崎村の伝承が含まれていると推測され、『系図纂要』と『増訂豆州志稿』の間の史料的親近性はきわめて薄弱で、むしろ別系統の史料と考えられる…

(細川重男氏『鎌倉政権得宗専制論』P.135 より引用)

確かに、編纂にあたって伊豆全土を調査して回ったというからには長崎村の伝承が含まれることは間違いないだろう。しかし、[増]のマークが付された文章は萩原親子によって増訂された部分とみられるが、『東鑑』(=『吾妻鏡』)や『太平記』、そして具体的ではないが「武家系図等」といった他の史料を参照していることが明記されているのである。この「武家系図等」とは何であろうか?

 

系図纂要』の成立は安政3(1856)年~万延元(1860)年の間であったとされ*46、秋山富南が『豆州志稿』を完成させたよりも後のことである。[増]のマークが付されていない「長崎光盛 二郎左衛門尉」「長崎光綱 太郎左衛門尉」の部分は初期の段階から書かれていたと考えて良いと思われるが、わずか60年ほど後に完成し同内容を記す【図c】(『系図纂要』) がこれを参照していないとは考えにくい

一方、「武家系図等ニハ円喜ヲ光綱ノ子高綱トス」の部分は [増] マークが付された文章の中に出てくるので、萩原親子によって加えられた可能性も否定できない。もし萩原氏による記述だとすれば、参照し得る「武家系図」は「現存するほとんど唯一の長崎氏系図」とされる【図c】しかあり得ないのではないか。「高綱」という人名は【図c】でしか確認できず*47、同系図が他の史料によって独自に構築された可能性があることはこれまでに述べてきた通りである。「等(など)」に該当するのは【表d】に紹介した『保暦間記』の記述であろう。光綱項の「髠して円喜入道と称す」の記載は当初の『豆州志稿』の段階からあったが、『保暦間記』と『系図纂要』を見て疑問に思った萩原氏がこの注記を加えたのではないかと思われる

 

また、その後の文章にも着目してみると「北条氏内管領タリ元弘三年五月北条氏滅亡ノ日其孫高重高直ト與〔=与〕ニ鎌倉ニテ自裁太平記」とあり、『太平記』に拠って長崎円喜の最期を記したものであることは明らかである。該当部分をのぞいてみよう。

【史料f】『太平記』巻10「高時並一門以下於東勝寺自害事」より

去程に高重走廻て、「早々御自害候へ。高重先を仕て、手本に見せ進せ候はん。」と云侭に、胴計残たる鎧脱で抛すてゝ、御前に有ける盃を以て、舎弟の新右衛門に酌を取せ、三度傾て、摂津刑部太夫入道々準が前に置き、「思指申ぞ。是を肴にし給へ。」とて左の小脇に刀を突立て、右の傍腹まで切目長く掻破て、中なる腸手縷出して道準が前にぞ伏たりける。…(略)…長崎入道円喜は、是までも猶相摸入道の御事を何奈と思たる気色にて、腹をも未切けるが、長崎新右衛門今年十五に成けるが、祖父の前に畏て、「父祖の名を呈すを以て、子孫の孝行とする事にて候なれば、仏神三宝も定て御免こそ候はんずらん。」とて、年老残たる祖父の円喜が肱のかゝりを二刀差て、其刀にて己が腹を掻切て、祖父を取て引伏せて、其上に重てぞ臥たりける。……

historyofjapan-henki.hateblo.jp

上記【史料f】に出てくる長崎氏は3名、前節「長崎高重最期合戦事」にて「長崎入道円喜が嫡孫、次郎高重」と名乗りを挙げた高重、その実弟である新右衛門15才、そして祖父である円喜である。これを先の文章と照らし合わせると、新右衛門=高直としていることになる。『系図纂要』(【図c】)では高資の子で高重の従兄弟としており「新左衛門尉」との注記が付されているが、「高直」の名が確認できるのは管見の限りこの系図のみである。従って、「元弘三年…」以降の文章は、

武家系図」=【図c】での高直を『太平記』での新右衛門に比定して、増訂の際に加えられた情報

『豆州志稿』の段階からあったもの(で、『系図纂要』がこれを参照した)

のいずれかと考えられる。恐らくは増訂時に加えられた文章ではないかと思う。

 

以上の考察により、

秋山富南『豆州志稿』

系図纂要:盛綱―光盛―光綱―高綱 入道円喜

⇒『増訂豆州志稿』武家系図等ニハ円喜ヲ光綱ノ子高綱トス…以降の文章

といった順番で成立していったと考えられる。細川氏の説とは反対に、『系図纂要』と『豆州志稿』および『増訂豆州志稿』の間の史料的親近性は認められるのではないだろうか。

 

よって『系図纂要』長崎氏系図の構築にあたっては、『豆州志稿』も参照されていたと判断できる。「光盛 二郎左衛門尉」「光綱 太郎左衛門尉」の記載は長崎村の伝承に基づく『豆州志稿』の記載に拠ったものと考えられよう

 

 

まとめ・総括

以上の考察により、系図纂要』長崎氏系図(【図c】)は、『玉葉』・『平家物語』・『吾妻鏡』・『保暦間記』・『太平記』・『尊卑分脈』・『豆州志稿』など他の史料をよく収集の上で参照しながら、江戸時代当時の研究成果として独自に作成させたものと言えるだろう。

近年になって誤りを指摘する論文が幾つも出されたことで、遂には「信憑性が低い*48とまで言われてしまっているが、それは新たな史料の発見による状況の変化のためである。それらの論文は等しく「現存するほとんど唯一の長崎氏系図」である【図c】をベースとしているのであり、間違いなく現代の長崎氏研究に大きく貢献している。

たとえ、後々誤りであることが判明したとしても、 直ちに「信憑性が低い」と言って切り捨てるべきではない。これまでの考察により【図c】がただ出鱈目を記載したものではないことは確認できるだろう。むしろ江戸幕末期の段階で、それまでに無かった「唯一の長崎氏系図」を完成させたことこそ評価すべきなのではないか。それだけでもこの系図は十分に価値のあるものだと言える。

 

本項では長崎氏を取り扱ったが、同様の検証作業を他氏、他系図で試みるのも面白いだろう。先行研究(論文・著作)やデータベースが充実してきた今だからこそ、これまでの成果をベースとした新たな系図集の作成の必要性に迫られているのかもしれない。

 

 

脚注

*1:細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)P.19 より。名越宗教 - Henkipedia 〔史料H〕に同じ。

*2:漆原徹「紹介と批評 細川重男 著『鎌倉政権得宗専制論』」(所収:慶応義塾大学法学研究会紀要『法学研究』第75巻第4号、2002年)P.115~116。

*3:前注漆原氏論評、P.115。

*4:同前注。

*5:同前注。

*6:注1前掲細川氏著書、第二部第三章「北条高時政権の研究」参照。

*7:『鎌倉遺文』(41巻、32185号)、『金沢文庫古文書』(武将編456号)、『神奈川県史』(資料編2古代・中世(2)3038号)に収録。文章および人物比定は、注1前掲細川氏著書 P.211 注(3) より。「南条新左衛門尉」は『御的日記』元徳2(1330)年1月14日条に的始の一番筆頭の射手として確認できる「南条新左衛門尉高直」(『新編埼玉県史 資料編7 中世3 記録1』、埼玉県、1985年、P.642)と同人とする梶川貴子の説(梶川「得宗被官の歴史的性格―『吾妻鏡』から『太平記』へ―」《所収:『創価大学大学院紀要』34号 所収、2012年》P.390)に従った。

*8:注1前掲細川氏著書、P.124。

*9:注1前掲細川氏著書、第一部第四章「得宗家執事長崎氏」第一節において、限りなく史実に近い正確な系図の復元が行われている(同書P.424~425に「長崎系図②」として掲載)。先だって森幸夫も「平・長崎氏の系譜」(所収:安田元久編『吾妻鏡人名総覧 : 注釈と考証』、吉川弘文館、1998年)にて同じテーマを扱っている。

*10:当ブログにおいて『系図纂要』独自の情報を(一部でも)採用した例としては、京極頼氏名越宗教名越貞持 - Henkipediaでの名越時有・有公兄弟などが挙げられる。

*11:青山幹哉「史料料学としての系図学入門」(所収:『アルケイア -記録・情報・歴史-』第7号、南山大学史料室、2013年)。

*12:注1前掲細川氏著書、P.422~423 より。

*13:注1前掲細川氏著書、P.178 注(16)。

*14:注1前掲細川氏著書 P.110・274、梶川貴子「得宗被官平氏の系譜 ― 盛綱から頼綱まで ―」(所収:『東洋哲学研究所紀要』第34号、東洋哲学研究所編、2018年)P.116。

*15:注1前掲細川氏著書、P.167 および P.183 注(67)。

*16:注9前掲森氏論文、P.585。

*17:長崎光綱(ながさき みつつな)とは - コトバンク(『講談社 日本人名大辞典』・『朝日日本歴史人物事典』)など。

*18:『鎌倉遺文』第24巻18268号。

*19:『鎌倉遺文』第24巻18759号。

*20:『鎌倉遺文』第30巻22986号。

*21:『鎌倉遺文』第30巻23363号。

*22:注1前掲細川氏著書、P.360 [史料]②。

*23:注1前掲細川氏著書 P.167~168 および P.183注(69) より。

*24:注1前掲細川氏著書、P.167~168。

*25:中澤克昭「武家の狩猟と矢開の変化」(所収:井原今朝男・牛山佳幸 編『論集 東国信濃の古代中世史』第Ⅱ部)P.200。

*26:細川重男『鎌倉幕府の滅亡』(吉川弘文館、2011年)P.73、同「御内人諏訪直性・長崎円喜の俗名について」(所収:『信濃』第64巻12号、信濃史学会、2012年)。

*27:注1前掲細川氏著書、P.106~107・P.124・P.125表9。典拠は『吾妻鏡』同年8月21日条。

*28:注1前掲細川氏著書、P.136~137。

*29:群書類従』巻381・合戦部13 所収。

*30:桃林寺参照。

*31:注1前掲細川氏著書、P.120注(27)で紹介あり。

*32:注1前掲細川氏著書、P.177注(9)。

*33:『鎌倉遺文』42巻32810号。こちらにも掲載あり。

*34:名越宗教 - Henkipedia【表E】参照。

*35:『史籍集覧』27 所収。

*36:注1前掲細川氏著書 P.87・P.197・P.311。

*37:鎌倉殿中問答記録略註参照。

*38:注7前掲梶川氏論文、P.389。

*39:注1前掲細川氏著書 P.173表19 または 別符氏の出雲の寺創建と安枝名の御厨 参照。

*40:北条氏研究会編『北条氏系譜人名辞典』(新人物往来社、2001年)所収「北条氏被官一覧」に拠る。注33前掲同文書はこの一例。

*41:武家家伝_関 氏 より。

*42:吾妻鏡』同年正月21日条。

*43:武家家伝_関 氏 より(典拠は『古代氏族系譜集成』所収の系図)。

*44:長崎氏を関氏の分家とするのは『関家筋目』等が根拠になっているようである。太田亮 著『姓氏家系大辞典 第2巻』(姓氏家系大辞典刊行会、1934年)「関 セキ」の項 参照。

*45:(第6号) 郷土史の原典 『豆州志稿』(昭和62年12月1日号)|三島市。注1前掲細川氏著書、P.177 注(10)。

*46:系図纂要 - Wikipedia より。

*47:注1前掲細川氏著書 P.183 注(61) では、長崎円喜北条高時元服して僅か3ヶ月後には出家していることが確認できるため、高時の偏諱を授かって「高綱」を称した可能性は低いとし、注26前掲論文において「盛宗」が正しいと結論付けられているが、筆者は「盛宗」の後、出家までの僅かな期間「高綱」を名乗っていたと考える。これについては 長崎高重 - Henkipedia を参照。

*48:注9前掲森氏論文、注16同箇所。