Henkipedia

アンサイクロペディア、エンサイクロペディア等に並ぶことを目指す、Wikipediaの歴史系パロディサイト。扱うのは主に鎌倉時代、たまに室町~江戸時代も。主に"偏諱"に着目して、鎌倉幕府御家人の世代や烏帽子親(名前の1字を与えた人物)の推定を行い論ずる。あくまで素人の意見であるから、参考程度に見ていただければと思う。

河越貞重

河越 貞重(かわごえ さだしげ、1272年~1333年)は、 鎌倉時代後期の武将。鎌倉幕府御家人。 父は河越経重か。先代の河越宗重は兄であろう。河越高重の父とされる。

 

『北條貞時十三年忌供養記』(『円覚寺文書』)*1には、元亨3(1323)年10月27日の北条貞時十三年忌供養において「砂金五十両〈二文匆〉、銀剣一」を献上している人物として「河越三河前司」なる者が現れる*2。 

  

〔表A〕「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』41巻32135号)

楠木城 
一手東 自宇治至于大和道
  陸奥(大仏貞直)     河越参河入道
  小山判官高朝   佐々木近江入道(貞氏)
  佐々木備中前司(大原時重)   千葉太郎(胤貞)
  武田三郎(政義)     小笠原彦五郎貞宗
  諏訪祝(時継カ)      高坂出羽権守(信重)
  島津上総入道(貞久)   長崎四郎左衛門尉(高貞)
  大和弥六左衛門尉(宇都宮高房)   安保左衛門入道(道堪)
  加地左衛門入道(家貞)   吉野執行
   
   一手北 自八幡于佐良□路
  武蔵右馬助(金沢貞冬)     駿河八郎
  千葉介(貞胤)   長沼駿河権守(宗親)
  小田人々(高知?)    佐々木源太左衛門尉(加地時秀)
  伊東大和入道(祐宗カ)   宇佐美摂津前司貞祐
  薩摩常陸前司(伊東祐光?)   □野二郎左衛門尉
  湯浅人々       和泉国軍勢
   
一手南西 自山崎至天王寺大
  江馬越前入道(時見?)   遠江前司
  武田伊豆守(信武?)   三浦若狭判官(時明)
  渋谷遠江権守(重光?)   狩野彦七左衛門尉
  狩野介入道(貞親)   信濃国軍勢
   
一手 伊賀路
  足利治部大夫高氏

  結城七郎左衛門尉(朝高)

  加藤丹後入道   加藤左衛門尉
  勝間田彦太郎入道   美濃軍勢
  尾張軍勢  
   
同十五日
  佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参
同十六日
  中村弥二郎 自関東帰参

 

〔表B〕「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』41巻32136号)

大将軍
  陸奥(大仏貞直)遠江国   武蔵右馬助(金沢貞冬)伊勢国
  遠江尾張国   武蔵左近大夫将監美濃国
  駿河左近大夫将監讃岐国   足利宮内大輔(吉良貞家)三河国
  足利上総三郎吉良貞義   千葉介(貞胤)一族伊賀国 
  長沼越前権守(秀行)淡路国   宇都宮三河権守貞宗伊予国
  佐々木源太左衛門尉(加地時秀)備前国   小笠原五郎阿波国
  越衆御手信濃国   小山大夫判官高朝一族
  小田尾張権守(高知)一族   結城七郎左衛門尉(朝高)一族
  武田三郎(政義)一族并甲斐国   小笠原信濃入道(宗長)一族
  伊東大和入道(祐宗)一族   宇佐美摂津前司貞祐一族
  薩摩常陸前司(伊東祐光?)一族   安保左衛門入道(道堪)一族
  渋谷遠江権守(重光?)一族   河越参河入道一族
  三浦若狭判官(時明)   高坂出羽権守(信重)
  佐々木隠岐前司(清高)一族   同備中前司(大原時重)
  千葉太郎(胤貞)  
     
勢多橋警護
  佐々木近江前司(六角時信)   同佐渡大夫判官入道(京極導誉)

(*以上2つの表は http://chibasi.net/kawagoe.htm#sadasige より拝借。)  

 

元弘元(1331)年、いわゆる元弘の変が起こると、「河越参河入道一族」が幕府側として上洛、楠木正成を討つための大和軍に加わっていることが確認される。通称名(参河=三河(守) )の一致から、この参河入道は前述の「河越三河前司」が出家した同人であり、一族を率いる立場にあった、河越氏を代表する人物(惣領・嫡流の当主)であったことが窺える*3。『太平記』に、この事件後、斬罪の処分が下った平成輔を鎌倉まで護送する役目を担った人物として登場する「河越三河入道円重(圓重)*4も同人であろう*5

同3(1333)年、足利高氏(のちの足利尊氏らの攻撃を受け鎌倉へ敗走していた、六波羅探題北方・北条仲時らの軍勢は、5月9日近江国番場宿において佐々木導誉の軍に行く手を阻まれ、仲時らは蓮華寺にて自害した。この時の死者を記す『近江番場宿蓮華寺過去帳*6の中に「川越参河入道乗誓六十二歳(*以下、年齢は全て数え年とする)が含まれており、前述の「河越参河入道」が「同(川越)若党木戸三郎家保」(この木戸家保は若年の郎党なのであろう)と共に仲時に殉じたことが分かる*7。逆算するとこの人物は文永9(1272)年生まれである。 

 

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こちら▲の記事で紹介した通り、『常楽記』元亨3年6月13日条に「河越出羽入道他界五十三(→逆算すると文永8(1271)年生まれ)とある人物は、『続群書類従』第六輯下所収「千葉上総系図*8などの系図類で「出羽守」と注記される宗重に比定される*9。すなわち、河越宗重は貞時十三年忌供養の4ヶ月前には亡くなっていたことになり、「河越参河入道」=次の当主・貞重に比定される*10。「佐野本 秩父系図」や常陸正宗寺蔵書所収「河越系図」では貞重の傍注に「三河守」とある*11。 

また、次の記事で紹介した、中山信名撰『平氏江戸譜』(静嘉堂文庫蔵)所収の河越氏系図では、貞重の項に「遠江守」と注記*12しながらも、元弘の変の際「河越三河入道一族」が「大仏貞通〔ママ、貞直の誤記〕」に従軍し、この人物が「蓮華寺鬼簿(鬼簿は過去帳の意*13」に「番馬〔ママ、番場の同音・誤記〕ニテ討死」したとあることを紹介して同人とみなしており*14、江戸時代の研究においても同様に捉えられていたことが分かる。 

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尚、系図の上では宗重と貞重を親子の線で繋いでしまっているが、生年がわずか1年違いであることから、貞重は宗重の実弟(経重の子)で養嗣子であったと考えるべきであろう。

▲武蔵・河越氏館(埼玉県川越市)に掲示の河越氏系図では宗重と貞重を兄弟としている(画像はhttp://www.hb.pei.jp/shiro/musashi/kawagoeshi-yakata/thumb/ より拝借)。

 

すると、重が北条時偏諱を許されたのに対し、1歳年下の重が北条時の一字を受けていることは大変興味深い。紺戸氏は宗重の元服の年次を1280~1284年の間と推定しており*15、ちょうど1284年4月には時宗が亡くなって貞時が家督・執権職を継承したので、恐らく宗重・貞重兄弟の元服もその頃であったと推測される。この当時、1272年生まれの「川越参河入道乗誓」(前述参照)は13歳と元服の適齢期であり、貞重に同定する根拠の一つである。時と重は烏帽子親子関係にあったとみられ、冒頭で述べた法要への参加もその表れとみてとれる。

 

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脚注

*1:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号。

*2:川越市史 第二巻中世編』(川越市、1985年)P.244。

*3:注2前掲『川越市史』P.244~245。出家の時期は明らかになっていないが、恐らく嘉暦元(1326)年3月の得宗(第14代執権)・北条高時の剃髪に追随したのではないかと推測される。

*4:太平記』巻4「笠置囚人死罪流刑事付藤房卿事」。

*5:注2前掲『川越市史』P.245。尚、P.160に掲載の「佐野本 秩父系図」では円重を貞重の子・高重に比定しているが、これが誤りであることは 河越高重 - Henkipedia を参照。

*6:群書類従』巻514 所収。

*7:注2前掲『川越市史』P.248~249。

*8:注2前掲『川越市史』P.157。

*9:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(『中央史学』二、1979年)P.18~19。注2前掲『川越市史』P.244。

*10:注2前掲『川越市史』P.244~245、P.248~249。

*11:注2前掲『川越市史』P.160、161。

*12:系図綜覧』所収「畠山系図」、『続群書類従』所収「千葉上総系図」、『系図纂要』所収「平氏系図」でも同様(注2前掲『川越市史』P.156~158)であるが、記載内容がほぼ一致することから、恐らくこのうちの「千葉上総系図」を基にして作成されたもので、故にそのまま書かれたのではないかと推測される。従って、「三河入道」と同人とする矛盾点はこれによって解消されると思う。すなわち、この系図の作成者は遠江守となった後に、三河守→三河入道と通称が変化したと考えたのではなかろうか。

*13:鬼簿(キボ)とは - コトバンク より。

*14:注2前掲『川越市史』P.162。

*15:注9前掲紺戸氏論文、P.19。

河越宗重

河越 宗重(かわごえ むねしげ、1271年~1323年)は、 鎌倉時代後期の武将。鎌倉幕府御家人

 

紺戸淳の論文*1によると、『続群書類従』所収「千葉上総系図*2の宗重の注記に「出羽守」と書かれており、『常楽記』元亨3(1323)年6月13日条に「河越出羽入道他界五十三」とあることから、この "河越出羽入道" を宗重に比定されている。逆算すると文永8(1271)年生まれとなる。

宗重」の名は、「重」が河越氏代々の通字であるから、一方の「」が烏帽子親からの偏諱と考えられるが、同3(1266)年に解職・京へ送還された6代将軍・親王から賜ったものでなく、弘安7(1284)年4月まで執権の座にあった北条時から1字を許されたこと確実である。 前述の生年に基づくと弘安7年の段階では14歳(数え年)元服の適齢期であり、宗重=出羽入道とする根拠の1つになり得る。

 

次の記事で紹介している、中山信名撰『平氏江戸譜』(静嘉堂文庫蔵)所収の河越氏系図でも、宗重の注記を見ると、「元三年」を「元三年」と誤記してはいるものの、上記に同じく『常楽記』に基づいて「河越出羽入道」に同定しており、名前についても「時宗ノ一字」と書かれている。

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その他詳しい生涯・経歴については

河越宗重 - Wikipedia

を参照のこと。

 

脚注

*1:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(『中央史学』二、1979年)P.18~19。

*2:続群書類従』第六輯下所収。

二階堂行泰

二階堂 行泰(にかいどう ゆきやす、1211年~1265年)は、鎌倉時代前期の御家人鎌倉幕府政所執事。父は二階堂行盛。 

 

史料数点によれば、文永2(1265)年10月2日に享年55(数え年、以下同じ)で亡くなったと伝えられ*1、逆算すると、建暦元(1211)年生まれとなる。

 

紺戸淳の論考に従えば、10~15歳での元服とした場合、元服の年次はおよそ1220~1224年頃と推定できる*2。貞応3(1224)年6月28日からは北条時が幕府の第3代執権となっており、行はその期間に「」の偏諱を許されていたことが分かる。

以上により、紺戸氏の説の通り、北条二階堂行は烏帽子親子関係にあったと判断される。泰時が執権となって間もない頃の元服であろう。『吾妻鏡』では安貞2(1228)年に初めて登場する*3

 

参考文献・リンク 

細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)巻末「鎌倉政権上級職員表」No.145「二階堂行泰」の項

 二階堂行泰 - Wikipedia

 

脚注

*1:『吾妻鏡』同日条のほか、『関東評定衆伝』、『北条九代記』(または『鎌倉年代記』)にも記載あり(→ 『史料総覧』5編905冊 P.111 参照)。『尊卑分脈』では同日に57歳で亡くなったとする(→ 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション)が単なる誤記(または誤写・誤伝)であろう。

*2:紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について鎌倉幕府御家人の場合―」(『中央史学』二、1979年)P.15。

*3:吉川本『吾妻鏡』(中卷) - 国立国会図書館デジタルコレクション によると、初出は7月23日条信濃次郎左衛門尉」、10月15日条信濃次郎左衛門尉行泰」が実名の初見である。次に実名が現れる嘉禎元(1235)年6月29日条には「信濃次郎左衛門尉行泰」とともに、その弟とみられる「信濃三郎左衛門尉」なる者が初めて登場し、同3(1237)年6月23日条信濃三郎左衛門尉行綱」に同定される。更にその後、仁治元(1240)年正月3日条には「信濃三郎左衛門尉行綱 同四郎左衛門尉行忠」と兄弟揃って書かれており、この行泰・行綱・行忠3兄弟は『尊卑分脈』(→ 新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション)により二階堂氏であることが分かる。尚、3兄弟の父である行盛は同時期においては出家して「信濃民部大夫入道行然」等と呼ばれていた(『尊卑分脈』および『吾妻鏡』建長5(1253)年12月9日条により二階堂行盛と分かる)。以上の情報は、御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、本項作成にあたっては第5刷〈1992年〉を使用)に拠る。

三浦光村

三浦 光村(みうら みつむら、1205年~1247年)は、鎌倉時代中期の御家人

 

人物・生涯・経歴については

三浦光村 - Wikipedia 

および

新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その114-三浦光村 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ、以下「職員表」と略す)

をご参照いただきたい。

 

本項では、鈴木かほるの先行研究で指摘された北条光時(名越光時)と光村の烏帽子親子関係*1について、再考察を試みたいと思う。

 

三浦氏では、三浦為継(為次)の子・継(義次)が 源家から偏諱の「義」字を賜ったらしく*2、以来「」が通字として、嫡流明―澄―村)をはじめ、和田盛、佐原連などの一族出身者にまで広く用いられていた。

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▲三浦氏略系図武家家伝_三浦氏に掲載の「三浦氏系図_バージョン1」を基に作成)

 

しかし、系図類によれば、三浦義村の子は、朝村・泰村・光村 など、ほぼ全員が「村」字を継承したことが確認される。「佐野本三浦系図」を見ると、次兄・の注記に「元服之時北条泰時加冠、授諱字」と書かれており*3、1文字目の「」が加冠役(烏帽子親)を務めた時からの偏諱であったことが窺える。長兄・朝村の「朝」も源氏将軍(初代・源頼朝*4)から賜ったものとみられるので、光村の「光」も烏帽子親からの一字拝領と考えて良いだろう

 

『関東評定衆伝』宝治元(1247)年条によると、宝治合戦で滅んだ時の享年は43であったとされる*5。逆算すると1205年生まれとなる(職員表)。 

吾妻鏡』を見ると、建保6(1218)年9月14日条に「三浦左衛門尉義村子息 駒若丸光村是也(駒若丸、(のちの)光村はこれである)と初出し、次いで承久元(1219)年1月27日条にも「義村息男駒若丸」と現れるが、同2(1220)年12月1日条では父・駿河守)義村や兄・泰村と共に「光村」の名で書かれ、以降「(三浦)駿河三郎光村」等の記載で通されるようになっている*6。すなわち、光村が承久年間初頭に元服を行ったことは間違いなかろう。 

 

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こちら▲の記事で、三浦氏において、元服して幼名から諱(実名)に改める年齢は13歳程度であったと推定したが、光村のそれは15, 6歳だったことになりやや遅れての元服だったことが窺える*7

 

 

一方、名越光時の生没年は明らかになっていない*8。しかし、『吾妻鏡』では安貞2(1228)年6月26日条に「越後太郎」と初出する*9ので、この段階で元服済みであったことが分かる。父・朝時が建久5(1194)年生まれ、建永元(1206)年13歳での元服であった*10ことから、現実的な親子の年齢差も考慮すれば、光時の生年は1214~1216年頃と推定できよう。

すると、1219年頃に光村が幼少の光時から「光」字を受ける(時→村)ことは不可能である。鈴木氏は単に "烏帽子親子関係にあった" ことを述べただけで、どちらが烏帽子親で、または烏帽子子だったのかについては特に明示していない。よって、三浦村が次兄・泰村と同様に北条氏から1字を受けたのではなく、逆に名越時の加冠を務め、村→時と「光」の偏諱が与えられた可能性を考えるべきであろう*11

 

では、三浦光村の烏帽子親=「光」字を与えた人物は誰だったのであろうか? 現存する史料ではそれを確かめられるものはないが、恐らく元服当時、北条氏の外戚となって勢力を伸ばしていた伊賀氏ではないかと推測される。

比企能員の変(1203年)により、北条義時正室名越朝時北条重時らの母)であった姫の前(能員の兄弟・比企朝宗の娘)が離別させられ、その後は伊賀朝光の娘(伊賀の方)が継室に迎えられていた。建保元(1213)年に父の三浦義村が加冠役を務めた北条政村はこの伊賀の方が最初に産んだ子であり、元仁元(1224)年の義時の死後、伊賀の方の娘婿である一条実雅を将軍、政村を執権に立てようとした際も、伊賀光宗(伊賀の方の兄)は義村を頼りにしたという*12伊賀氏の変)。

このような史実も踏まえると、共に北条氏の外戚であった三浦・伊賀両家の間に、(烏帽子親子関係を含めた)様々な交流がなされていてもおかしくはないだろう。すなわち、伊賀*13が義村の3男・駒若丸の烏帽子親を務め、「」の偏諱を与えて「」と名乗らせたのではないかと思われる。決定的な史料的根拠に欠けるが、これを1つの推論として掲げておきたい。

義村の息子は、長男(当初の嫡子)朝村が将軍、次男(当初の準嫡子)泰村が執権家の北条氏、それ以外の庶子は他の一般御家人を烏帽子親とすることで、嫡庶の差を付けていたのかもしれない*14

 

 脚注

*1:鈴木かほる 『相模三浦一族とその周辺史: その発祥から江戸期まで』(新人物往来社、2007年)P.231。

*2:前注鈴木氏著書、P.40。典拠は文化9(1812)年刊『三浦古尋録』所載の「三浦家系図」。

*3:『大日本史料』5-22 P.134

*4:吾妻鏡』での初見は承久元(1219)年1月27日条「三浦小大〔太〕郎朝村」(→ 吉川本『吾妻鏡』中巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション)。また、元仁元(1224)年正月1日条には垸飯に参加した三浦氏一族の中に「三浦三郎光村 同又太郎氏村」が登場し、息子の氏村が前年までに元服を済ませていたことが分かる。「氏」は北条時氏(泰時の長男)か、その烏帽子親と推測される足利義氏(→ 今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.42。)からの偏諱であろう。よって氏村は叔父である泰村や光村より若干年少でほぼ同世代であったと考えられよう。従って、氏村の父である朝村は、源千幡源実朝が3代将軍に就任し「実朝」と名乗った建仁3(1203)年の段階では元服適齢期を超えており、源頼朝の将軍在任期間(1192~1199年)に元服したと考えるのが妥当ではないかと思われる。朝村と泰村以下の弟たちは年齢の離れた兄弟だったのであろう。

*5:『大日本史料』5-22 P.98 および 職員表 による。

*6:吾妻鏡人名索引』P.133~134「光村 三浦」の項 より。

*7:この年齢自体は十分元服の適齢期である。例えば、他の例として足利尊氏(初名:高氏)が15歳での元服であったと伝えられる(→ 足利尊氏 - Henkipedia 参照)。

*8:名越光時(なごえみつとき)とは - コトバンク。尚、『系図纂要』には正安2(1300)年6月13日没とみえるが、永井晋はこれについては要検討としている。

*9:実名の初見は『吾妻鏡』寛喜2(1230)年正月4日条「越後太郎光時」。通称は「越後守」の「太郎(長男)」を表すので、安貞2年の「越後太郎」も当時越前守であった名越朝時(『吾妻鏡人名索引』P.363)の子・光時に同定できる。

*10:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その18-名越朝時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*11:細川重男北条義時の「義」が三浦氏からの偏諱であった可能性を指摘しており、その根拠として、『吾妻鏡』には、実際に三浦義連佐原義連が義時の弟・時連(のちの時房)文治5(1189)年4月18日条〉、三浦義村が義時の子・政村〈建保元(1213)年12月28日条〉の加冠を務めるといった、三浦氏が北条氏の烏帽子親を務めて一字を与えた事例が確認できる(同氏の著書『鎌倉北条氏の神話と歴史 ―権威と権力―』〈日本史史料研究会研究選書1〉(日本史史料研究会、2007年)P.17 より)。また名越流北条氏とは、義村の娘(光村の姉または妹)が光時の弟(朝時の3男)名越時長に嫁いで縁戚関係にあった。

*12:注1前掲鈴木氏著書 P.219~221。湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』(吉川弘文館、2012年)P.22。

*13:光宗の父・朝光は建保3(1215)年に亡くなっている。『吾妻鏡』同年9月14日条、および 伊賀朝光(いが ともみつ)とは - コトバンク より。

*14:これが正しければ、各烏帽子親の指名は、父親である義村の意向によりなされた可能性が高くなる。光村以下の男子については烏帽子親を確かめられる史料は無いが、光村が伊賀氏の通字「光」を受けたとすると、例えば、資村が武藤氏(少弐資能?)、胤村が千葉氏(千葉秀胤?)から各々同様にその通字を与えられたと考えることも出来るのではないかと思う。

三浦泰村

三浦 泰村(みうら やすむら、1204年~1247年)は、鎌倉時代中期の御家人

 

人物・生涯については

 三浦泰村 - Wikipedia  をご参照いただきたい。

本項では泰村の一字拝領と生年についての考察を述べたいと思う。

 

三浦氏では、三浦為継(為次)の子・継(義次)が 源家から偏諱の「義」字を賜ったらしく*1、以来「」が通字として、嫡流明―澄―村)をはじめ、和田盛、佐原連などの一族出身者にまで広く用いられていた。

しかし、系図類によれば、三浦義村の子は、朝村・泰村・光村 など、ほぼ全員が「村」字を継承したことが確認される。

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▲三浦氏略系図武家家伝_三浦氏に掲載の「三浦氏系図_バージョン1」を基に作成)

 

「佐野本三浦系図」を見ると、泰村の注記に「元服之時北条泰時加冠、授諱字」と書かれている*2。最終的には5代執権・北条時頼らと対峙することとなり宝治合戦で滅ぼされてしまうが、北条時自身は三浦氏から「義」字を受けたとする説があり、実際に義が義時の弟・時(のち時房)、義が義時の子・政の烏帽子親を務めるなど、当初は協調関係にあったと言える。村自身ものちに北条時の娘を妻に迎えたことが確認されているから、「泰」字が泰時に関係することは間違いないだろう。「泰」は加冠役を務めた北条時からの偏諱と解釈されている*3

 

後世に作成の系図であることに加え、実際の元服の様子を確認できる、書状などの一級史料が未発見のため、 "泰時が加冠(=烏帽子親)を務めた" とするこの情報の扱いには一応注意を要する。しかし、これについて検討することは、泰村の年代を考える上で大変重要な作業である。というのも、没年齢(および生年)について次の2説が存在するからである。 

 :『関東評定衆伝』宝治元(1247)年条によれば、宝治合戦で亡くなった時、64歳(*数え年、以下同様)であったといい*4、逆算すると1184年生まれ。

:『承久記』によると、承久の乱(1221年)における宇治橋での戦いに際し、"三浦駿河次郎泰村" が「生年18歳」と名乗る場面があり*5、これに従うと1204年生まれ。

 

まずは、三浦氏における元服の年齢について考えてみたい。

再び「佐野本三浦系図」を見ると、泰村一家が滅ぼされた時、その次男・景泰(駒石丸、北条時頼の養子が13歳であったのに対し、三男・駒禰丸は12歳であったという*6宝治合戦での敗死者等のリスト(名簿)である「三浦合戦討死生虜等交名注文」*7には「若狹前司泰村 同子息次郎景村 同駒石丸……(以下略)」と記されるが、時頼が養子にしたことを記す1ヶ月前の記事でも「駒石丸」と書かれている*8 から、元服して「景泰」を名乗ったとしても合戦の直前で、名前が知られていなかった可能性も考えられる。従って、元服して幼名から諱(実名)に改める年齢は13歳程度であったと考えて良いだろう。

これに従って元服の年次を推定すると、Aの場合1196年、Bの場合1216年となる。

 

一方、北条泰時は建久5(1194)年2月2日、初代将軍・源朝の加冠により元服し、初めはその偏諱」を賜って「江間太郎」と名乗っていた*9。当時の年齢は同じく13歳、頼朝が義理の伯父(伯母・北条政子の夫)という親戚関係によるものであろう*10

水野智之は、『吾妻鏡』での表記が正治2(1200)年2月26日条では「江間大郎頼時〔ママ〕*11であったものが、翌建仁元(1201)年9月22日条では「江馬太郎殿 泰(時)〔ママ〕*12と変わっていることから、この間に「泰時」に改名したと推測されており、源氏将軍家(=従兄の2代将軍・源頼家と距離を置いたためではないかと述べられている*13。タイミングとしては頼朝が亡くなった建久10(1199)年1月13日から数年後であり、今野慶信も頼朝の死が改名に関係するのではないかとしている*14。 

すると、Aの場合だと泰時の改名前に「泰村」を名乗ったことになり、泰時(江間頼時)から「泰」の偏諱を貰うことは不可能である。また『関東評定衆伝』同年条ですら、泰村のすぐ下の弟・三浦光村の享年を43としており*15泰村(享年64) と21歳も離れていたというのは不自然と言わざるを得ない。よってこれらの観点から言っても、A説は成り立たないだろう。

 

B説を採用すると、宝治合戦で亡くなった時44歳、光村より1年年長となり、「佐野本三浦系図」での記載にも合致する。前述の考察において1216年頃の元服としたが、『吾妻鏡』でも承久年間を初見として「三浦次郎」「駿河次郎泰村」等の名で現れる*16から、矛盾は無い*17。すると、北条泰時が執権となる前の元服ということになるが、恐らく個人的な契機で烏帽子親子関係が結ばれたのであろう。実際に泰村は泰時の猶子となって、その娘婿となっているし、承久の乱に際しても、泰村は父に同伴せず、泰時の軍に属して参加しており、早くから泰時と泰村は強固な関係で結ばれていたことが窺える。

 

ところが、寛喜2(1230)年、泰村の妻であった泰時の娘が25歳で死去*18、次いで後室に迎えた泰時の妹も早世し*19、延応元(1239)年には父・義村*20、仁治3(1242)年には泰時*21も亡くなって、婚姻関係を基礎とする北条・三浦両家の連携は陰りを見せ始めることとなった。

但し三浦氏において反執権派の先鋒となっていたのは頼経に近侍していた光村であり、泰村自身は比較的穏健派であった。一方の5代執権・北条時頼も、前述の養子にした件も含めて、泰村との決裂を回避しようと躊躇っていた節が見られる。

しかし、宝治元(1247)年6月5日、三浦氏の排斥を狙う安達景盛が嫡男・義景らに命じて泰村亭を攻めたことにより、時頼も弟・時定を大将軍とする軍勢を向かわせる決断をせざるを得なくなり、泰村ら一族は自害して果てたのである*22宝治合戦*23

 

[参考] 三浦氏歴代惣領の生没年

三浦為通:1023~1076(享年54)*24

三浦為継:1053~1???*25

三浦義継:1067~1159*26

*父・為継との年齢差の点で生年にはやや疑問あり。没年齢からの逆算によるものだが、享年93というのは(全くあり得ないとは言い切れないが)当時としては長寿過ぎるようにも感じる。父・為継と子・義明(祖父―孫の関係)の年齢差は40歳であるから、「為継―義継」「義継―義明」各々の年齢差を20とすると、1072年頃の生まれと推定できるが、数年遅らせただけになるので、世代的にはほぼ妥当であろう。源義家(1039-1106)*27 存命時の元服で「義」の偏諱を賜ることは十分可能である。

三浦義明:1092~1180*28

三浦義澄:1127~1200*29

*平常(上総常澄の加冠により元服し、「澄」の偏諱を受けたとされる*30。1140年前後~60年代初頭には常澄の活動が確認できる*31ので、この間の元服と考えれば、生年の信憑性は立証できよう。

三浦義村:1???~1239*32

*『吾妻鏡』での初見は、寿永元(1182)年8月11日条「三浦平六」(次いで元暦元(1184)年8月8日条には「平六義村」と現れる)。無官の通称名であることから、元服してそれほど経っていない頃であったと思われる。また、親子の年齢差を考えれば、生年は1147年頃より後と考えるのが妥当であり、1170年代後半の元服であった可能性が高いことを考慮すれば1160年代前半の生まれと推定できる。「為通―為継」や「義明―義澄」のケースに同じく父が30代の時の子だったのだろう。

すると「義村―泰村」の年齢差も同様であった可能性が高い。1204年生まれとすると義村が30代後半~40代の時の子となってしまうが、先に長男(泰村の兄)として朝村が生まれていたから多少年齢差が開くことは何ら問題ないと思う。朝村の「朝」は、元服時に源氏将軍(初代・源頼朝(在職:1192-1199) または 3代将軍・源実朝(在職:1203-1219))の偏諱を賜ったものと考えられるので、 これも泰村の生年を裏付ける根拠になるだろう。

 

 

 脚注

*1:鈴木かほる 『相模三浦一族とその周辺史: その発祥から江戸期まで』(新人物往来社、2007年)P.40。典拠は文化9(1812)年刊『三浦古尋録』所載の「三浦家系図」。

*2:『大日本史料』5-22 P.134

*3:今野慶信「鎌倉武家社会における元服儀礼の確立と変質」(所収:『駒沢女子大学 研究紀要 第24号』、2017年)P.49。

*4:『大日本史料』5-22 P.98

*5:『大日本史料』4-16 P.191

*6:『大日本史料』5-22 P.135

*7:『鎌倉遺文』第9巻6842号。『吾妻鏡』宝治元(1247)年6月22日条『大日本史料』5-22 P.82

*8:『吾妻鏡』宝治元(1247)年5月6日条『大日本史料』5-22 P.4

*9:『吾妻鏡』同日条。水野智之『名前と権力の中世史 室町将軍の朝廷戦略』〈歴史文化ライブラリー388〉(吉川弘文館、2014年)P.46。

*10:注3前掲今野氏論文、P.46。

*11:吉川本『吾妻鏡』上巻・同日条(国立国会図書館デジタルコレクション)

*12:吉川本『吾妻鏡』上巻・同日条(国立国会図書館デジタルコレクション)。「江間」と「江馬」の表記ゆれはあるが、「江間(小)四郎」/「江馬四郎」→「相模守/相州」という父・義時の呼称の変化に伴って、泰時の通称名も「江馬太郎」→「相模太郎」と変わっている(『吾妻鏡人名索引』)から、『鎌倉年代記』・『尊卑分脈』など他の史料とも照合すれば、「江間殿嫡男童名金剛。十三。……号太郎頼時」(注9『吾妻鏡』記事より)と「江馬太郎(泰時)」は義時の長男で同一人物とみなして良い。

*13:注9前掲水野氏著書、同箇所。

*14:注3前掲今野氏論文、P.42。

*15:『大日本史料』5-22 P.98

*16:承久元(1219)年7月19日条に「三浦次郎」、同2(1220)年12月1日条に「…駿河守義村…(略)…泰村。光村。…」とある。

*17:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その113-三浦泰村 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男のブログ)でも細川氏は息子との年齢差の点で1204年生年説を採っておられる。

*18:『吾妻鏡』寛喜2年8月4日条 に「武州御息女 駿河次郎妻室 逝去 年廿五。産前後数十ヶ日悩乱。」とある。

*19:『吾妻鏡』嘉禎2(1236)年12月23日条 に「駿河次郎妻室 武州御妹 早世」とある。

*20:『吾妻鏡』延応元年12月5日条

*21:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。

*22:『吾妻鏡』同日条

*23:注1前掲鈴木氏著書 P.236~240、および 湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』(吉川弘文館、2012年)P.26~29 に基づき記述。

*24:湯山学『相模武士 全系譜とその史蹟2 三浦党』(戎光祥出版、2011年)試し読みpdf P.7。

*25:前注同箇所。

*26:三浦義継(みうら よしつぐ)とは - コトバンク より。

*27:源義家(みなもとのよしいえ)とは - コトバンク より。

*28:三浦義明(ミウラヨシアキ)とは - コトバンク より。

*29:三浦義澄(みうらよしずみ)とは - コトバンク より。

*30:野口実『中世東国武士団の研究』(高科書店、1994年)。

*31:詳しくは 平常澄 - Wikipedia上総氏 平常澄 を参照のこと。

*32:三浦義村(みうらよしむら)とは - コトバンク より。

北条経時

北条 経時(ほうじょう つねとき)は、鎌倉時代中期の武将、御家人、政治家。鎌倉幕府第4代執権。北条氏得宗家当主。

 

元服に際し、加冠役(烏帽子親)の第4代将軍・藤原(九条)頼から「」の偏諱を賜り、北条と名乗った。典拠は次の史料である。   

【史料】『吾妻鏡』天福2(1234)年3月5日条 より

天福二年三月大五日癸卯。武州孫子 匠作嫡男。歳十一 於御所 被加首服。相州 布衣武州。越後守。式部大夫 政村。前民部權少輔。攝津守師員。駿河前司義村。出羽前司家長。大夫判官基綱。上野介朝光等着西侍。若公 水干 同侍南座。有小時。以藤内左衛門尉定員。被召之。若公被參于寢殿西向簾中。其後應召。武州參給。式部大夫。前民部權少輔。左近大夫將監佐房。左衛門尉大夫泰秀。右馬權助仲能等勤所役。次理髪相州。次加冠。号北條弥四郎經時。次八條少將取御釼。授新冠。賜之退出于休所。次兩國司已下人々着座庭上。將軍家出御南面。八條少將實淸朝臣候御簾。次被進御引出物。御釼。御鎧。御馬等云云。其後被垂御簾。新冠已下人々。又堂上有垸飯儀。一如元三。武州退出之後。被引進龍蹄於相州。平左衛門尉盛綱爲御使。又以尾藤左近將監入道。諏方兵衛尉等。今日役人面々。被賀仰云々。

 

北条時頼

北条 時頼(ほうじょう ときより)は、鎌倉時代中期の武将、御家人、政治家。鎌倉幕府第5代執権。北条氏得宗家当主。

 

元服に際し、加冠役(烏帽子親)の第4代将軍・藤原(九条)から「」の偏諱を賜り、北条時と名乗った。典拠は次の史料である。   

【史料】『吾妻鏡』嘉禎3(1237)年4月22日条 より

嘉禎三年四月小廿二日癸夘。天晴。申刻日色赤如蝕。今日。將軍家入御左京權大夫亭。爲此御料。被新造御所 桧皮葺 之間。渡御御始也。

(中略)
於寢殿南面御酒宴。入夜。左京兆孫子小童 字戎壽。故修理亮時氏二男於御前有元服之儀。先城太郎義景。大曾祢兵衛尉長泰等持參雜具。次駿河前司義村候理髪。次加冠。次被進御引出物
役人
 御劔        右馬權頭 政村
 御調度       北條大夫將監 經時
 御行騰       小山五郎左衛門尉 長村
 御甲        駿河次郎 泰村 同四郎左衛門尉 家村
 南廷        長井左衛門大夫 泰秀
 一御馬 黒鹿毛置鞍   駿河五郎左衛門尉 資村 同八郎 胤村
 二御馬 瓦毛      相摸六郎 時定  平左衛門三郎 盛時
駿河前司賜御引出物
 御劔        後藤佐渡前司 基綱
 御馬 栗毛糟毛置鞍   南條七郎左衛門尉 時貞〔員〕 南條兵衛次郎 經忠
次自將軍新冠 号五郎時頼 被賜引出物
 御劔        宮内少輔 泰氏
 御調度       遠江式部大夫 光時
 御甲        上野七郎左衛門尉 朝廣 同三郎 重光
 次御馬〔黒置鞍〕  近江四郎左衛門尉 氏信 同左衛門太郎 長綱