大友頼泰
大友 頼泰(おおとも よりやす、1222年~1300年)は、鎌倉時代中期の武将・御家人。大友氏第3代当主。初名は大友泰直。法名は道忍(どうにん)。官途は式部大夫、丹後守、出羽守、兵庫頭。
父は大友親秀、母は三浦氏一門・佐原家連の娘。子に大友泰能、大友親時、女子(北条宗頼室、宗方母)。大友貞親・大友貞宗の祖父にあたる*1。
詳しい事績については
等をご参照いただければと思う。
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こちら▲の記事でも紹介の通り、「頼泰」の名は第5代執権・北条時頼から偏諱を受けて改名したものであることが、次の【系図1】に明記されている(「北條時賴賜一字」)。
●【系図1】『続群書類従』所収「大友系図」より抜粋
以下本項では、花押カードデータベース【検索画面】ー 東京大学史料編纂所 などでの検索結果に基づき、大友頼泰に関連する書状類を幾つかピックアップし、その官途や実名の変化を追うと共に、【系図1】の記載について考証してみたいと思う。
●【史料2-a】仁治3(1242)年2月13日付「六波羅御教書案」(『鷹尾家文書』)*2、「六波羅御教書写」(『鷹尾家文書』)*3:「大友式部大夫殿」
●【史料2-b】仁治3年2月18日付「関東下知状案」(『大友文書』)*4:「大友式部大夫泰直」
【系図1】などの系図類によると、初名は「泰直」であったという。いずれも同年6月に3代執権・北条泰時が亡くなる数ヶ月前の書状であり、【2-b】は泰時自ら発給したものである。すなわち「泰直」は泰時が存命のこの時までにその偏諱「泰」を許されていることが分かる。これは言うまでもなく烏帽子親子関係であろう。すなわち、大友泰直は北条泰時の加冠により元服し、その一字を拝領したと判断できる。
尚「式部大夫」という官途から、既に叙爵済みであったことが分かる*5ので、この時20歳程度にまで達していたことが推測できる。1222年生まれが正しいことの裏付けになるだろう(この場合、仁治3年当時は数え21歳)。元服は恐らく1230年代前半であったと推定される。
また、「直」の字は祖父・大友能直に由来するとは思われるが、【系図1】で「初号泰忠」と誤記(同系図で「初泰直」とも書かれているため)されているように、音の共通から「やすただ」と読むのが正しいのであろうか。「直ちに」等での読み方に同じで、人名では足利直義(ただよし)などの例がある。能直についても「よしなお」と読まれるのが通説となっているが、管見の限り特にそう読む根拠(史料)は見当たらないので、こちらも「よしただ」が正しい可能性がある。
●【史料3】『吾妻鏡』寛元2(1244)年12月20日条:「大友式部大夫頼泰」
この当時の名乗りとして「頼泰」が誤りであることは後述参照。
★寛元4(1246)年 経時逝去。弟・北条時頼が5代執権に就任。
●【史料4】『吾妻鏡』建長2(1250)年3月1日条:「大友豊前々司跡」
「大友豊前前司」とは豊前守であった亡き祖父・能直のことで、「跡」とは本来その人物が持っていた旧領などの財産・地位・業績などを意味し、通常はその相続人を指す。
寛元2(1244)年と建長3(1251)年の閑院内裏造営(再建)に際し修理の費用を担ったことが書かれているが、寛元2年7月26日*6、宝治3(1249)年の焼亡に伴う建長3年6月27日*7の「閑院遷幸」に向けた事業を指しているものであろう。『百錬抄』では、この「閑院」に「関東よりこれを造進す」と注記されているので、関東の御家人たちがその造営(修理)に際しての雑掌(=請負人)を担ったことが窺えるが、幕府が閑院造営の雑掌を奏することを記した『吾妻鏡』建長2(1250)年3月1日条には、陳座および東屋の建設の請負人を「大友豊前々司跡」 が担当していることが確認できる。大友親秀(法師寂秀)は宝治2(1248)年に既に亡くなっていた*8ので、その跡を継いだ泰直(頼泰)を指すと考えて良いと思われる。
●【史料5-a】建長4(1252)年4月3日条:「大友式部大夫頼泰」
●【史料5-b】建長4年12月26日付「関東下知状案」(『豊後詫磨文書』)*9:「大友式部大夫泰直」
この頃の諱は、一応は実際の書状(一等史料)である【5-b】の方を採用すべきであろう。但し『吾妻鏡』では名前の変化に注意して記述されている人物も多いため、この頃「泰直」から「頼泰」への改名を行った可能性も考えられる。
●【史料6】建長6(1254)年6月5日付「幸秀・頼秀連署契約状」(『肥後志賀文書』)*10:「守護所 自丹後前司殿」
▲建長7(1255)年5月20日付「大友頼泰安堵状」(『肥後志賀文書』)*11での花押
●【史料7】建長8(1256)年8月11日 「関東下知状案」(『筑後大友文書』)*12:「守護人頼泰」
*「頼泰」と現れていることから、時頼の執権辞任以前に「頼」の字を賜ったことが確実となる。
★建長8(=康元元)年11月22日、時頼が執権職を辞して出家。
★弘長3(1263)年11月22日、時頼(道崇)逝去。
●【史料8】文永2(1265)年12月26日付「関東御教書案」(書陵部所蔵『八幡宮関係文書』29)*13:文中に「大友式部大夫頼泰」
●【史料9】(文永3(1266)年カ)12月25日付「清原国重書状」(『書陵部所蔵八幡宮関係文書』22)*15:「……宰府小弐入道殿 并 豊後大友出羽殿 此両人の為沙汰……」
★この間、出羽守を辞したか。
●【史料10】(文永4(1267)年カ)正月17日付「大友頼泰書状」(『大隅日向薩摩八幡宮造営一件文書』):「前出羽守頼泰」の署名と花押
●【史料11】(文永4(1267)年3月24日)「某書状」(『書陵部所蔵八幡宮関係文書』29)*16:「……府小弐入道殿 并 豊後国守護大友出羽殿、此両人為沙汰、……」
※【史料9】と同文であり、同一重複の可能性がある。
●【史料12】文永7(1270)年3月25日付「関東御教書案」(『大友文書録』)*17:宛名に「大友出羽前司殿」
●【史料13】文永7年5月6日付「関東御教書」(『諸家文書纂』10 所収『野上文書』)*18:宛名に「大友出羽前司との(殿)へ」
●【史料14】文永7年6月14日付「大友頼泰書下」(『諸家文書纂』10 所収『野上文書』)*19:発給者「前出羽守」の署名と花押
●【史料15】文永8(1271)年2月10日付「関東下知状案」(『豊後詫摩文書』)*20:文中に「大友出羽前司頼泰」
●【史料16】(文永9(1272)年カ)2月朔日付「豊後守譲大友頼泰書下」(『野上文書』):発給者「頼泰」の署名と花押
●【史料17】文永10(1273)年10月6日付「大友頼泰注進案」(『書陵部所蔵八幡宮関係文書』33)*21:「前出羽守平頼泰」の署名と花押
*この他にも、文永10年には「大友出羽前司」、「前出羽守頼泰」等と書かれた書状が多数残されている。
●【史料18】文永11(1274)年7月1日付「大友頼泰請文」(『日向田部文書』)*22:発給者「前出羽□□」の署名
●【史料19】文永11年11月1日付「関東御教書案」(『大友文書』)*24:宛名に「大友兵庫頭入道殿」
●【史料20】建治元(1275)年7月17日付「関東御教書案」(『大友文書』)*25:宛名に「大友兵庫入道殿」
●【史料21】建治3(1277)年9月11日付「関東下知状案」(『筑前宗像辰美氏所蔵文書』)*26:文中に「大友出羽前司頼泰」
*過去を遡る形で、その当時の通称名で書かれたものと思われる。
●【史料22】弘安3(1280)年12月8日付「関東御教書」(『立花大友文書』)*27:宛名に「大友兵庫頭入道殿」
●【史料23】弘安7(1284)年6月19日付「豊後守護大友頼泰召文」(『野上文書』):発給者「沙弥」の署名と花押
*花押の一致から頼泰のものと判断できる。「沙弥」とは、剃髪して僧形にありながら、妻帯して世俗の生活をしている者を表す呼称である*28。
●【史料24】(弘安7年カ?) 9月10日付「北条尚時書状」(『新編追加』)*29:
(前略)
条々。急速為有御沙汰。以前九州所領相分三方也。於博多可尋沙汰。頼泰法師行宗肥前 筑前 薩摩。盛宗教経豊後 豊前 日向。経資法師政行肥後 筑後 大隅。各守此旨可奉行。……(以下略)
九月十日 尚時 判
明石民部大夫(=行宗)殿
●【史料25】弘安7年11月25日付「関東御教書案」(『新編追加』)*30:鎮西神領返付の相奉行(合奉行)の一人として「大友兵庫頭頼泰法師」。
(前略)
条々 弘安七。六。廿五。
一.鎮西為宗神領事
甲乙人等。称沽却質券之地。猥管領之由有其聞。尋明子細。如旧為被返付。所差遣 明石民部大夫行宗。長田左衛門尉教経。兵庫助三郎政行 也。大友兵庫頭頼泰法師。越前守盛宗。大宰少弐経資法師。可為合奉行。……
(以下略)
大友兵庫入道殿
●【史料26】弘安8(1285)年7月3日付「関東御教書」(『筑前宗像辰美氏所蔵文書』)*31:文中に「大友兵庫頭頼泰法師 法名道忍」
●【史料27】永仁3(1295)年5月1日付「関東下知状」(『祢寝文書』)*32:文中に「大宰少弐経資法師 法名妙恵〔ママ、浄恵カ〕・大友兵庫〔ママ〕頼泰法師 法名道忍」
●【史料28】正安元(1299)年6月11日付「豊後守護大友頼泰書下」(『志賀文書』):発給者の花押
この花押は少々角ばってはいるが、筆跡を辿ればこれまでの花押に同じであり、これも頼泰の花押と見なせる。すなわちこの当時78歳で頼泰が存命であったことが窺える。
以降頼泰発給の史料は確認できず、【系図1】の記載通りこの翌年に亡くなったと考えて良かろう。 鎌倉時代後期に成立の野津本「大友系図」においても「正安二年九〔月 脱字か〕十七日死 他界同十八日」の注記が見られる*33。
備考
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こちら▲の記事でも紹介の通り、北条宗方は頼泰の外孫(宗方の母=宗頼の妻が頼泰の娘)にあたり、その生年は弘安元(1278)年であったという。頼泰がその祖父であれば、各親子の年齢差を考慮しておよそ1238年より前の生まれでなくてはおかしい。この点から言っても、頼泰は時頼執権期間に生まれた世代ではないことが裏付けられ、時頼からの「頼」字拝領は元服時ではなく、改名の際になされたものと判断できる。
尚、元亨3(1323)年10月27日の故・北条貞時13年忌法要について記した『北條貞時十三年忌供養記』(『相模円覚寺文書』)には、「銀剱一 馬一疋 置鞍、鹿毛、」を進上する人物として「薬醫 兵庫頭入道道忍」の名が見られる*34。同じ官途と法名を持つが、ここでの「薬醫(やくい・「醫」は「医」の旧字体)」とは典薬(典薬寮)の唐名とみられ*35、恐らくは父親の官途と思われるが、頼泰の父・親秀は大炊助(大炊寮での次官)であった*36ため、頼泰とは別人と判断して良いだろう。仮にこの頃存命であった場合100歳を超えていたことになり、当時としてあまり現実的であるとは思えない。
(参考ページ)
脚注
*1:大友貞親 - Henkipedia【史料8】および 大友貞宗 - Henkipedia【史料2】より。
*2:『鎌倉遺文』第8巻5981号。
*3:『鎌倉遺文』第8巻5983号。
*4:『鎌倉遺文』第8巻5984号。
*5:式部大夫とは、式部丞(大丞:正六位下、少丞:従六位上 相当)で五位に叙せられた者の呼称(→ 式部の大夫(シキブノタイフ)とは - コトバンク を参照)。
*6:『平戸記』7月26日条・『百錬抄』同日条、『吾妻鏡』8月8日条・『平戸記』8月25日条。
*7:『吾妻鏡』6月21日条・『百錬抄』6月27日条、『吾妻鏡』7月4日条。「大日本史料 第五編之三十五」(『東京大学史料編纂所報』第49号、2013年、P.34~35)も参照のこと。
*9:『鎌倉遺文』第10巻7507号。
*10:『鎌倉遺文』第11巻7768号。
*11:『鎌倉遺文』第11巻7871号。
*12:『鎌倉遺文』第11巻8020号。
*13:『鎌倉遺文』第13巻9474号。
*14:官位相当表(抄)、http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse010.html より。
*15:『鎌倉遺文』第13巻9624号。
*16:『鎌倉遺文』第13巻9678号。
*17:『鎌倉遺文』第14巻10609号。
*18:『鎌倉遺文』第14巻10623号。『諸家文書纂』10 P.13・P.27~28。
*19:『鎌倉遺文』第14巻10639号。『諸家文書纂』10 P.14。
*20:『鎌倉遺文』第14巻10777号。
*21:『鎌倉遺文』第15巻11428号。
*22:『鎌倉遺文』第15巻11682号。
*23:兵庫の頭とは - コトバンク より。
*24:『鎌倉遺文』第15巻11742号。
*25:『鎌倉遺文』第16巻11962号。
*26:『鎌倉遺文』第17巻12854号。
*27:『鎌倉遺文』第19巻14207号。
*28:沙弥(しゃみ)とは - コトバンク 参照。
*29:続群書類従. 第23輯ノ下 武家部 - 国立国会図書館デジタルコレクション。『鎌倉遺文』第20巻15302号。『豊津町史 上巻』第四編 中世 P.607(または PDF)。
*30:続群書類従. 第23輯ノ下 武家部 - 国立国会図書館デジタルコレクション。『鎌倉遺文』第20巻15218号・15363号。
*31:『鎌倉遺文』第20巻15617号。
*32:『鎌倉遺文』第24巻18821号。
*33:田中稔「史料紹介 野津本『北条系図、大友系図』(所収:『国立歴史民俗博物館 研究報告』5、1985年)P.46。「他界」については死去と同義で使われることもあるが、本来は「人が死亡した時、その魂が行くとされる場所」の意であり(→ 他界 - Wikipedia)、ここでは死の翌日に葬儀等が行われて死後の世界へ昇天したことを言いたいのかもしれない。
*34:『神奈川県史 資料編2 古代・中世』二三六四号 P.706。
*35:薬医とは - コトバンク より。
*36:『吾妻鏡』宝治2(1248)年10月24日条(親秀逝去の記事)および 大友貞親 - Henkipedia にある『尊卑分脈』系図 より。