岩松時兼
岩松 時兼(いわまつ ときかね、1195年頃?~没年不詳)は、鎌倉時代前期の武将、御家人。足利義純の長男。通称は岩松太郎、蔵人太郎。
『尊卑分脈』*1等の畠山氏系図によると、足利義兼の長男で、義氏の舎兄であった父の畠山義純(足利義純)は、承元4(1210)年10月7日に35歳(数え年、以下同様)で亡くなったとされ*2、生没年は1175年~1210年である。
一方『系図纂要』*3によれば、母親は新田義兼(1139-1206?)の娘・来王姫であったと伝えられ、これは後述の書状によっても裏付けられるが、親子の年齢差を考えればおよそ1160年以後の生まれと推定可能である。
以上より、同様に両親の年齢差を考慮すれば、時兼の生年もおよそ1195年以後と推定できよう。
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ところで、父・義純から畠山氏の家督を継承したのは3男の畠山泰国であり、長男である時兼、次男の田中時朝(初名:時明)は分家して岩松氏・田中氏をそれぞれ興した。これは泰国の母親が継室・北条時政の娘(政子・義時らの妹)であったためと考えられている。
後世の史料にはなってしまうが、『諸家系図纂』所収「両畠山系図」*4・『鎌倉大草紙』*5・『積達古館弁』*6などによると、この時政女子は当初畠山重忠に嫁いでいたが、重忠一族が討たれた後に義純と再嫁して泰国を産んだと伝えられており(『佐野本 秩父系図』*7では義純の妻を重忠(1164-1205)の娘とするが誤伝か)、いわゆる "畠山重忠の乱" が起こった元久2(1205)年6月*8より後のこととなる。
従ってこの時までに時兼・時明(時朝)の兄弟は生まれていたと判断される。
ここで着目すべきは、父・義純の字を継承しない代わりに時兼・時明(時朝)兄弟揃って共通の「時」の字である。特に時兼の「兼」は祖父・義兼の1字と考えられるから、「時」は北条氏を烏帽子親としその通字を拝領したものと思われるが、これは時政からの偏諱と推測される。
その裏付けとして『正木文書』所収の書状に着目したい。建保3(1215)年3月22日、幕府は「夫義兼(=新田義兼)譲状に任せ」、「義兼後家」*9に上野国新田荘内岩松等の地頭職に、翌23日には「源時兼」を同荘の田嶋郷など12箇所の地頭職に、それぞれ補任*10。そして、貞応3(1224)年、嘉禄2(1226)年には祖母「にたのあま(=新田尼、義兼後家と同人)」から譲られる形で「源時兼」が岩松郷以下の地頭職に補任された*11という。これらの譲状により岩松時兼の実在が確認できるとともに、新田義兼の外孫であったこと*12、そして建保3年の段階で元服済みであったことも分かる。元服は通常10~15歳で行われたから、時兼の生年は遅くとも1200年前後であったと考えて良いだろう。
前述したように、父・義純が時政の娘を妻に迎えたのは1205年以後だが、『尊卑分脈』*13や『鑁阿寺文書』所収「新田足利両家系図」*14等によれば義純の異母弟・足利義氏の母も「遠江守平時政女」であった(義純継室の姉であろう)といい、以前より足利・北条両氏は婚姻関係を通じて交流があったことが窺える。時政女子を妻に迎える前、或いはその時に、義純が我が子2人の烏帽子親を当時の執権でもあった時政(在職:1203年~1205年)*15に依頼した可能性は十分にあり得ると思う。よって、岩松時兼・田中時朝兄弟の烏帽子親は、初代執権・北条時政であったと推測される。
(参考ページ)
脚注
*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*7:『大日本史料』4-8 P.581 または 4-10 P.861。
*8:『大日本史料』4-8 P.571~592 の各史料を参照のこと。
*9:「後家」とは、夫と死別した女性のことで寡婦、未亡人と同義である(→ 後家(ごけ)とは - コトバンク)。
*12:『尊卑分脈』によれば父・義純の母は遊女であったといい、新田尼は母方の祖母であったと判断できる。
*15:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その1-北条時政 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。