畠山泰国
畠山 泰国(はたけやま やすくに、1210年?~没年不詳(1270年頃?))は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将、御家人。足利義純の3男にして嫡男。
生年の推定
まずは、『尊卑分脈』の畠山氏系図*1での記載から読み取れる情報をまとめる。
● 足利義兼の長男で、義氏の舎兄であった父の畠山義純(足利義純)は、承元4(1210)年10月7日に35歳(数え年、以下同様)で亡くなったとされ*2、生没年は1175年~1210年となる。
● 一方母親については、泰国の傍注に「母遠江守平時政女(=北条時政(1138-1215)の娘) 」とあり、親子の年齢差を考慮すれば早くとも1160年頃の生まれであったと推測可能である*3。
以上より、同じく親子の年齢差を考慮すれば、泰国の生年もおよそ1195年~1210年の間と推定可能である。
ここでポイントとなるのが時政女子が畠山義純に嫁いだ時期である。後世の史料にはなってしまうが、『諸家系図纂』所収「両畠山系図」*4・『鎌倉大草紙』*5・『積達古館弁』*6などによると、母親の時政娘は当初畠山重忠に嫁いでいたが、元久2(1205)年6月に重忠一族が討たれた*7後に義純と再嫁して泰国を産んだと伝えられる(『佐野本 秩父系図』*8では義純の妻を重忠(1164-1205)の娘とするが誤伝か)。
小川信氏の見解によれば、北条政子・義時(同年7月父・時政を追放して2代執権に就任)姉弟が妹の一人である重忠未亡人の境遇を憐れみ、彼女の所領に対する改易の沙汰を止めて安堵する形で畠山の家名再興が確定した承元4年5月14日*9の前後に義純との婚姻が決まったのではないかとし、前述したようにその約5ヶ月後に義純が亡くなっているから泰国は遺腹の子だったのではないかとも説かれている*10。よって泰国の生年は1210~1211年と判断できる。
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『吾妻鏡』等における泰国
次に、畠山泰国自身の登場箇所について確認しておきたい。『吾妻鏡』での初見は、寛元2(1244)年6月13日条「上野前司泰国」とされる(下記【表】参照)が、この段階で泰国は既に上野介(正六位下相当)*11となって退任していたことが分かる。しかも同年8月15日条からは「上野前司泰国」と共に「上野三郎国氏」も現れており、1240年代には泰国の子・国氏(くにうじ)が成人していたことが窺える。
従って、国氏が1244年頃に元服を遂げたとすれば1230年頃の生まれと推定できるので、この点からも、父である泰国の生年が1210年頃であったことが裏付けられよう。寛元2年当時35歳であったことになるが、上野介を辞した後の年齢としては問題ない。
『吾妻鏡人名索引』によると、『吾妻鏡』での登場箇所は以下の通りである。
年 | 月日 | 表記 |
寛元2(1244) | 6.13 | 上野前司泰国 |
8.15 | 上野前司泰国 | |
寛元4(1246) | 8.15 | 上野前司 |
宝治2(1248) | 1.3 | 上野前司 |
閏12.11 | 上野前司泰国 | |
建長2(1250) | 3.1 | 畠山上野前司 |
3.25 | 上野前司 | |
8.18 | 上野前司 | |
12.27 | 上野前司 | |
建長3(1251) | 8.15 | 上野前司泰国 |
10.19 | 上野前司 | |
建長5(1253) | 8.15 | 上野前司泰国 |
建長6(1254) | 1.1 | 上野前司泰国 |
1.22 | 上野前司泰国 | |
建長8(1256) | 1.1 | 畠山上野前司 |
6.29 | 上野前司 | |
7.29 | 畠山上野前司 | |
正嘉2(1258) | 6.17 | 畠山上野前司 |
8.15 | 上野前司宗俊〔ママ※〕 | |
弘長元(1261) | 7.29 | 畠山上野前司 |
弘長3(1263) | 8.8 | 上野前司 |
尚、小川信*13・前田治幸*14両氏によれば、嘉禎3(1237)年4月19日条と仁治2(1241)年1月2日条に「畠山三郎」なる者の記載が見られるが、子の畠山国氏は「(畠山)上野三郎」と称されたとしてこれらを泰国に比定される。
尚、前田氏によると、『関東往還記』(東京大学史料編纂所所蔵写真帳)弘長2(1262)年6月19日条に「畠山入道 足利左馬入道 参、」とある人物は、出家した泰国であるという*15。この部分については、細川涼一氏が「足利左馬入道」が西大寺叡尊のもとに参ったとして、この人物を「左馬頭の官途名を名乗った……義氏の孫である頼氏」とした上で、足利頼氏の同年4月24日死亡説に疑問を呈されたことがあるが、前田氏は写真帳で見ると「足利左馬入道」は前述のように「畠山入道」の割注であったことが分かるとして、否定材料にはなり得ないと結論づけられた(前田氏の見解では「足利左馬入道甥」などとあったものが伝写の際に誤って消えてしまったとする)。従ってこの時叡尊のもとに参ったのは泰国であり、前田氏が説かれるように足利宗家当主・頼氏の早世を悼んで出家したばかりであったと推測される。
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*同じく前田氏が紹介の通り、『吾妻鏡』文応元(1260)年4月1日条により梶原景俊(景時の孫)が当時「上野前司」と呼ばれていたことが確認できるから、【表】のうち正嘉2年8月の「上野前司宗俊」、弘長3年の「上野前司」は景俊に比定するのが良いのだろう。
烏帽子親の推定
最後に実名の「泰国」に着目してみたい。「国」は祖先の源義国(泰国の高祖父/義純の曽祖父)に由来するものと考えられるので、上(1文字目)に戴く「泰」の字が烏帽子親からの一字拝領と推測される。これは、第3代執権・北条泰時の偏諱に間違いないだろう*16。
元服は通常10~15歳程度で行われることが多かったから、前述の生年に基づくと泰国の元服の時期はおよそ1219~1224年あたりと推定可能である。奇しくも1224年は泰時が執権職を継いだ年でもある*17が、三浦泰村(1204年生)のように執権就任前でも泰時が加冠役(=烏帽子親)を務めた例も見られる*18から、泰国も泰時の烏帽子子であったと考えて問題ないだろう。泰村や泰国の場合は北条氏と婚姻関係で結ばれていたので、そうした親戚関係の交流の中で烏帽子親子関係が結ばれたものと見受けられる。
(参考ページ)
脚注
*1:新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集. 9 - 国立国会図書館デジタルコレクション。
*3:参考までに、時政の長女・北条政子は1157年、次男・義時は1163年、三男・時房は1175年、四男・政範は1189年の生まれである。
*7:『大日本史料』4-8 P.571~592 の各史料を参照のこと。
*8:『大日本史料』4-8 P.581 または 4-10 P.861。
*9:『吾妻鏡』同日条(→『大日本史料』4-10 P.805)より。
*10:小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館、1982年)P.622~623。
*11:http://kitabatake.world.coocan.jp/kani-tihou13.html より。
*12:御家人制研究会(代表:安田元久)編『吾妻鏡人名索引』(吉川弘文館、[第5刷]1992年)P.319~320「泰国 畠山」の項 より。
*13:注10前掲小川氏論文 P.623~624。
*14:前田治幸「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(所収:田中大喜 編著『下野足利氏』〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉戎光祥出版、2013年)P.225 別表1註(3)。
*15:前注前田氏論文 P.210~211 註(46)。
*16:注10前掲小川氏論文 P.624。渡部正俊 「第3編 中世 III 室町期の二本松」(二本松市 編『二本松市史 第1巻 原始・古代・中世・近世 通史編1』、1999年)P.288~289。
*17:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ記事)より。