葛西 清時(かさい きよとき)は、鎌倉時代中期の御家人。『吾妻鏡』に葛西氏の一族と思しき2名の清時が確認でき、以下両者について触れる。
- 葛西清親の子。通称は伯耆新左衛門尉。仮名は五郎か。
- 葛西清親の孫。父は葛西時清または葛西光清とみられ、母は千葉胤綱の娘とされる。初名は重村(しげむら)とも。通称は四郎(伯耆左衛門四郎)。官途は遠江守か。妻は結城祐広の娘(宗広の姉または妹)。養嗣子に葛西清信(貞清の父)。法名は行蓮・具円・涼西と系図により異なる。
2人の「葛西清時」
『吾妻鏡』を見ると、「葛西清時」という同姓同名の人物が2人いたことが窺える。
●【表1】清時の名が見える時期
| 建長2(1250)年8月15日 | 鶴岡八幡宮放生会 | 葛西新左衛門尉清時 | 『吾妻鏡』 |
| 建長2(1250)年8月18日 | 由比ヶ浜逍遥供奉 | 伯耆新左衛門尉 | 『吾妻鏡』 |
| 建長4(1252)年4月14日 | 将軍家八幡宮社参供奉 | 伯耆左衛門四郎清時 | 『吾妻鏡』 |
(葛西宗家の一族 #葛西清時 の項より引用)
まず、「葛西新左衛門尉清時」および「伯耆新左衛門尉」は、同じくこの頃左衛門尉であった、伯耆守清親の子と思しき「伯耆三郎左衛門尉時清」・「伯耆四郎左衛門尉光清(みつきよ)」兄弟と近い世代の人物になるだろう。
一方、「伯耆新左衛門尉」および「伯耆左衛門四郎清時」は、その呼称からして伯耆守清親の直系子孫と判断できるが、後者建長4年4月14日条の「伯耆左衛門四郎清時」は、同年11月11日条に初出の「伯耆左衛門三郎清経」と同世代人とみられ、その名乗り方からして時清または光清の子であろう。尚、光清とは「四郎」や「左衛門尉」の通称が共通するが、「伯耆左衛門尉の四郎」と「伯耆四郎かつ左衛門尉」では意味が異なっており、別人として扱うべきである。
よって、建長年間当時、
- 「葛西新左衛門尉」および「伯耆新左衛門尉」清時
- 「伯耆左衛門四郎」清時
2人の "葛西清時" がいたということになる。勿論、両者とも【表1】に示したように実名の「清時」まで書かれた記事が各々1箇所のみであるから、いずれかが誤記である可能性もあり得るが、以下本稿では一応2人の清時がいたという前提で論じていきたいと思う。
清親の子・"伯耆新左衛門尉" 清時
『吾妻鏡』文暦2(1235)年6月29日条を見ると、この日、鎌倉五大尊堂に新造の御堂について供養が執り行われ、4代将軍・九条頼経が御所南門から小町大路へ向かう際に供奉した後陣の隨兵に「壱岐三郎時清」、寄進する馬を曳く一人に「壱岐五郎左衛門尉」の名が見える。
この両名についてはともに壱岐守・葛西清重の子とし、さらに「壱岐五郎左衛門尉」については、実名不詳とした上で、『吾妻鏡』寛元2(1244)年8月16日条にある八幡宮放生会に伴う流鏑馬奉納で、十二番に列した「伯耆前司(=清親)」が射手として同席させた「子息五郎」と同一人物ではないかとする説が出されている*1。
しかし筆者は、これについて一部異議を唱えたい。
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「壱岐三郎時清」についてはこちら▲の記事で言及の通り、前述の「伯耆三郎左衛門尉時清」と同一人物で、そのかつての呼称である。すなわち、清親の子で清重の孫にあたる。1235年当時、父・"壱岐三郎左衛門尉"清親もまだ国守(伯耆守)の官途を得ていなかったため、時清にも祖父・清重の官途が付されていたと考えられる。
従って「壱岐五郎左衛門尉」は、まだ無官の三郎時清よりも、同じく左衛門尉であった "壱岐三郎左衛門尉"清親の弟にこそ相応しい呼称ではなかろうか。よって清重の子とみて良いとは思うが、「伯耆前司」の「子息五郎」とは同一人物にはなり得ないと判断される。よく考えれば、先の説には、一度清重の子と見なした筈の「壱岐五郎左衛門尉」を、伯耆前司清親の子とする矛盾が生じていたのである。
では、「伯耆前司」清親の「子息五郎」とは何者なのか。仮名から判断するに、少なくとも三郎時清や四郎光清の弟にあたるのではないかと思う。そして、筆者はこの「五郎」はむしろ、前述の「葛西新左衛門尉清時」および「伯耆新左衛門尉」と同一人物の可能性が高いのではないかと考えている。
前掲記事において紹介の通り、時清は1236年頃に左衛門尉に任官して呼称が変化しており(壱岐三郎時清→壱岐小三郎左衛門尉時清)、光清も左衛門尉となったのは、初出の『吾妻鏡』宝治2(1248)年8月15日条「伯耆四郎左衛門尉光清」からさほど遡らない時期であろう。
そして、それからちょうど僅か2年後に「葛西新左衛門尉清時」が登場するのである(前掲【表1】)。1244年当時まだ無官であった「五郎」が左衛門尉に任官するとしたら、まさにこの頃が相応しいのではなかろうか。「新」というのも、既に先立って左衛門尉となっていた兄の時清・光清に対して付されたものと推測される。
勿論、清時の仮名が「五郎」(すなわち「伯耆五郎左衛門尉」)であったかどうかについては決定づけることは難しいので、以上はあくまで推論ということになる。
ただ、"伯耆前司" 清親に「伯耆三郎左衛門尉時清」、「伯耆四郎左衛門尉光清」、「五郎」 という少なくとも3人の息子がいたことは確実視して良いだろうし、むしろ「六郎」以下の他の男子がいたかどうかの方が不透明である。「伯耆新左衛門尉」が時清でも光清でもないなら、やはり五郎に相応しいのではないかと思うし、「葛西新左衛門尉清時」がその実名になり得ると思う次第である。
その場合、前述の通り1244年8月中旬の段階で元服を済ませて「五郎」の仮名で呼ばれていたことが分かるので、諱「清時」の「時」は、当時の4代執権・北条経時(在職:1242年~1246年)*2、或いはその前の3代執権・北条泰時(在職:1224年~1242年)*3の偏諱を賜ったものと考えられよう。
清親の孫・"伯耆左衛門四郎" 清時
もう一人の葛西清時は、【表1】で示した通り、『吾妻鏡』建長4(1252)年4月14日条に、新将軍(6代将軍)・宗尊親王の鶴岡八幡宮初社参の供奉人として「伯耆左衛門四郎清時」が見えるのみである。前述したように、その名乗り方からして時清または光清の子と推測したが、いずれにせよ "伯耆前司" 清親の孫ということになる。
前掲記事で時清の生年を1215年頃と推定したので、四郎清時がその息子或いは甥であれば、早くとも1230年代後半生まれとするのが妥当であろう。ちなみに時清の嫡男とみられる清経の生年は『盛岡葛西系図』での記載から算出される1235年がほぼ妥当と思われ、4代執権・北条経時(在職:1242年~1246年、前述参照)から偏諱を受けた後の『吾妻鏡』同(1252)年11月11日条に「伯耆左衛門三郎清経」として初登場している。
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四郎清時の「時」も経時、或いはその弟で1246年から5代執権となった北条時頼(在職:1246年~1256年)*4が烏帽子親となって1字を拝領したものと思われる(恐らく後者の可能性が高いと思う)。前述の「葛西新左衛門尉清時」と同じ諱(実名)を名乗っているが、新左衛門尉清時の終見から左衛門四郎清時が現れる、1250年後半~1251年の間(【表1】)に、もしかすると新左衛門尉清時がこの頃に故あって引退したか早世したため*5、特に不都合が無かったのかもしれない。
葛西氏系図における清時
ところで、大きく分けて2系統が伝わる葛西氏の系図を見ると、いずれにも清時の記載があることが分かる。本節ではそれらの詳細を掲げた上で、筆者なりの考察を加えてみたいと思う。
<仙台系>
清重-清親-清時-清経-清宗---
<盛岡系>
(千葉頼胤の子)
清重-朝清-清親-清時=清信-貞清---
- 『盛岡葛西系図』*8:清親嫡男、始名重村、母者千葉介胤経〔ママ、綱か〕娘、葛西新左衛門尉、伯耆守、従五位下、遠江守。寛元三年八月同御出時供奉。同四年十一月亀谷之新造入御供奉、同年鶴岡御出時伯耆左衛門清時供奉。弘安八年十一月秋田城介泰盛謀叛之時、懸一陣顕軍忠。在職十七年。弘安十年十一月七日卒、五十三歳。法名具円。
- 『五大院葛西系図(抄録)』*9:

- 『中館系譜』*10:

(*画像は 郷土歴史倶楽部(みちのく三国史・・葛西一族編) より引用。)
清時をめぐっての一考察
まず、盛岡系では、『吾妻鏡』等から判断するに本来はともに清重の子で兄弟であるはずの「朝清(弟)-清親(兄)」を父子関係とする明らかな誤りに注意せねばならない。その上で、次いで「清親-清時」とするのは仙台系と共通している。よって、これまでの内容を踏まえると、一応 "伯耆新左衛門尉" 清時を指しているとは考えられる。
しかし、『仙台葛西系図』に「左衛門四郎」という記載があり、一方の盛岡系でも、弘安10(1287)年に48歳 または 53歳で亡くなったという記載から逆算すると1235年~1240年生まれとなり、どちらかと言えば左衛門四郎清時の生年に相応しいので、やはり混同されているのであろう。
また、仙台系においては、清親と清経の間に位置することを考慮すると、恐らく字の逆転で類似する時清と混同されている可能性もある。勿論、先行研究において「時清―清経」が父子関係と判断されるのは、恐らく「三郎」という仮名が共通し、清重以来、嫡流の家督継承者が代々称したと考えられたためであろうから、厳密にはこれも断定し切れない側面はあるが、「清時―清経」とされたのもまた、『吾妻鏡』に基づいて清経が "葛西新左衛門尉" 清時の息子と考えられたためではないかと思う。
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こちら▲の記事で紹介しているが、『吾妻鏡』での時清は「壱岐三郎時清」→「壱岐小三郎左衛門尉時清」→「伯耆三郎左衛門尉時清」という表記の変化であり、葛西氏であると判断できたのは、清重が壱岐守、清親が伯耆守であったことによりそう呼ばれていたことが近年の研究で分かったからである。
従って、前述の各系図作成・編纂の段階において、そのことが分かっていなかった可能性も十分にあり、仙台系系図では、『吾妻鏡』において清親と清経の登場時期の間に活動が見られる「葛西新左衛門尉清時」をその間の世代と見なして「清親-清時-清経」という系譜が作られたのではないか。しかも『仙台葛西系図』では単純に同名であることから「伯耆四郎左衛門清時」も同人と見なしたのであろう。
そういう意味で、当該部分については盛岡系の方がまだ信憑性があるのだと思う。
ここで、盛岡系での記載から次のように系図として纏めてみた。
清時は母方の千葉氏から頼胤の3男・胤信(改め葛西清信)を養嗣子に迎えたというが、近年の千葉氏系譜についての考察を踏まえると、頼胤(1239年生まれ)とは従兄弟関係にしてほぼ同世代となり、辻褄は合っているように思う。それぞれの孫にあたる千葉胤貞(1288年-)・貞胤(1292年-)・葛西貞清(1291年-)も同世代人にして9代執権・北条貞時の偏諱を受けた様子である。
筆者は、養子云々はさておき、次の2点より葛西清信に始まる葛西氏の一流は存在したのではないかとみている。
- 盛岡系系図では母親に関する情報などかなり詳細に記され、作り話にしてはよく出来過ぎていること。
- 盛岡系系図を見ると、貞清の弟・葛西信常(のぶつね)や、曾孫・葛西満信以来の当主が「信」を通字としており、少なくとも満信の子・葛西持信(もちのぶ)*11や葛西晴信*12の実在は確認できる。そのため、詮清の子が「満清」ではなく「満信」といきなり名乗るのが奇妙である*13ことも踏まえると、それまでに「信」の字を持つ清信という人物がいたと考えるのが自然ではないかと思われること。
清信は、文保元(1317)年に56歳で没したという記載から逆算すると1262年生まれとなる。系図では「頼胤三男」とするが、実際は千葉宗胤や胤宗の庶兄であったのだろうか、この点は疑問が残るが、『吾妻鏡』に登場の清時がこれを跡継ぎとしたと考えておきたい。
清時については、『葛西氏過去牒』に文永7(1270)年12月18日卒、法名「法輪院殿行蓮宜公大居士」という記録があるといい*14、「行蓮」という法名は前掲の仙台系系図でも見られる。弘安8(1285)年、霜月騒動で安達泰盛の弟・長景(宗長の父)を討ち取った戦功により、7代将軍・惟康親王の推挙もあって遠江守に任ぜられたと記す盛岡系系図との整合性が取れないので、これについては検討の余地を残している。
では、清信の父(養父)・清時は、どちらの清時と考えるのが妥当であろうか?
筆者は次のように推測する。
前述した通り、盛岡系系図の記載から1235年~1240年生まれとされる清時は、清親の子とするよりは、時清の子(または甥)とするのが、当時における親子の年齢差として比較的自然ではないかと思う。よって、【表1】での「伯耆左衛門四郎清時」と同人と見なしたいと思う。
2系統の葛西氏
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こちら▲の記事で紹介の通り、正応元(1288)年7月9日付「関東下知状」(『陸奥中尊寺経蔵文書』)*15により、当時恐らく陸奥国に移っていた「葛西三郎左衛門尉宗清」が葛西氏の「惣領」であったことが窺え、永仁2(1294)年12月25日付「関東御教書」(『陸奥中尊寺文書』)*16の宛所「壱岐守殿」も高祖父・清重と同じ官職を得た宗清に比定される。
しかし、前掲の通り宗清は仙台系・盛岡系いずれの系譜にも登場せず(名前が類似する清宗は【系図4】の通り別人)、宗清以降の惣領は不明である。
そこで筆者が思うには、宗清には嗣子が無く、一旦葛西氏の嫡流が断絶、そして清時・清信の系統に嫡流の座が移ったのではないかということである。
盛岡系系図には、建治2(1276)年8月、8代執権・北条時宗の命により清時が千葉氏から胤信(清信)を養子に迎えたことが記されており(前述参照)、あくまで(実際の史料ではなく)系図の情報なのでこれを安易に信ずるべきではないが、これがある程度の真実を伝えているとすれば、何故わざわざこうする必要があったのであろうか?
それは、宗清の存命時から、宗清に万一の事態があった場合に近親者から後継を出せるよう、実子の無かった清時にその備えをさせる意図があったと考えられる。宗清が妻を迎えていなかったとか、清時の妻が子供を産めない身体であったとか、何かしらの事情があったのかもしれない。
「惣領宗清」(前述「関東下知状」)の名は、時宗の偏諱「宗」と通字の「清」により構成されたとみられる。そして、時宗の子・貞時の偏諱「貞」と通字の「清」により「貞清」と名乗ったのは清信の子であった。次いで貞清の嫡男・高清も貞時の子・北条高時の偏諱を賜っており、母は高時政権の最高権力者・長崎円喜の娘であったという(『中舘葛西系譜』)。従って、宗清の実質的な後継者は貞清であったとみられ、鎌倉時代後期以降は四郎清時の養子・清信の系統が葛西氏嫡流の座を担ったと考えたい。
(参考ページ)
● 葛西宗家の一族
● 武家家伝_葛西氏
脚注
*2:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その5-北条経時 | 日本中世史を楽しむ♪(細川重男氏のブログ)より。
*3:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その3-北条泰時 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*4:新訂増補「鎌倉政権上級職員表」 その6-北条時頼 | 日本中世史を楽しむ♪ より。
*7:葛西史疑 - 国立国会図書館デジタルコレクション。原本:仙台市・葛西正人氏所蔵、東北大学文学部奥羽史料調査部写蔵本と同本。
*11:文明2(1470)年2月9日付「畠山政長下知状」の文中に「葛西伯耆守持信」の名前が見られ、宛所の「葛西壱岐守殿」は持信の嫡男・葛西朝信(とものぶ)に比定される。その官職から、壱岐守清重や伯耆守清親の直系子孫にあたるのではないかと思う。
*12:晴信による書状が複数点のほか、親交のあった伊達政宗が天正19(1591)年12月13日付で秋保定重に宛てた書状の中にも「月鑑妻子者、葛西晴信之姉ニ候間…」とある(『政宗君治家記録』)。
*13:ちなみに葛西満清の名前は仙台系系図に見え、これと同名を避ける意図で「満信」を名乗ったと考えるのが自然であろう。この点からも、部分的に修正を要する箇所はあるにせよ、仙台系・盛岡系はいずれかが否定されるものではなく、両方の系統が存在したと考える次第である。
*15:『鎌倉遺文』第22巻16692号。『史料綜覧』正応元年七月 P.14。
*16:『鎌倉遺文』第24巻18716号。